坐禅の仕方と悟り,見性,身心脱落:井上貫道老師の庵 まとめサイト

Dharma Talks of a perfectly enlightened Japanese Zen Master Roshi Kando Inoue 井上貫道老師が、悟りを体現された経験から坐禅の方法や仏道について語られたものを掲載しています web上に散見される魯山貫道老師のことばも引用掲載し、まとめブログとしました ( これは参禅者によるブログであり、公式サイトではありません ) このブログが正師への参禅のきっかけになりますように

貪瞋痴

仏道は理想を追求することではない
仏道は人間が描く理想とは関係がない




▶多くの人が、坐禅中においてさえ、理想を求める境地を頭で探しています。

それは一見坐禅らしく見えますが、真実から外れています。

ー井上貫道老師 



risokyoheart●人間が理想を画(えが)いていると、いかにも立派そうなんですけれども、

それが迷いの根源なんです。

それを人類ことごとく知らんのです。(井上義衍老師)



●人間の考え方が、どんなに立派な考えでも、それは、

その人間、その人の考え方なんです。(井上義衍老師)





Q.
「貪」「瞋」「痴」の中で一番大事なのは何ですか?

A.
大事というより…言ってみれば不要なものでしょうね。

Q.
一番それを破りやすいのは「瞋」(怒り)でしょうか?

A.
いや、一番破りやすいのは「痴」、ものが分からないということでしょう。
だから貪りや怒りが出るんですね。
なんで貪ってるか、なんで怒りが出るか分からないから、いくら抑えても取れない。

それは普通の教えだから。人間の考えた上の話だから。
いくらそれをやっても、努力してもすぐにだめになるね。

それは仏教の教えではないな。

いわゆる倫理道徳の世界ですね。

それを要らないとは言いません。




Q.
分かるようにするにはどうすれば?


A.
こうやって生活している時の、自分のありように目を向けることです。

それは本当に「平常心」と呼ばれる、常日頃生活している中に答えがある。
 

簡単に言うと、たとえば、いきなり出会った人に対して先入観がないってことがあるでしょ。
先入観を持てない。

先入観がない時には、余分なことが自分の中から起きてこないでしょ。


だから腹が立たないし、もっとどうかしてほしいとかいうことも思わないし、触れたままのことがはっきりしてます。


そういうのをみなさんが日常毎日、本当はきちんとやってることでしょ。


初めて触れることばっかりでしょ、本当は。



でも、初めて触れるってことがどういうことか知らないから、
「また会いましたね」っていうことになってる。

「初めて」ってことを見ていません。


今こうしてこうやって動いていること自体が今初めてのことなんですね、本当は。

生きてるってことは、一度も経験したことのないことをやってるんです。


お湯呑みを持つにしたって、今まで持ったことないわけです。
 
初めて今こうやって持ったんです、この持ち方はね。
 

前も持ったことあるかもしれないけど、この持ち方、触れ方は今初めてやったんです。

この味も、何回もお茶を飲んだことあるかもしれないけど、この味は今初めてなんですね。


初めての時には、今言ったように、先入観がないんです、入れたくても。


そういう自分の動きを見てみると、貪りも起きていない。

そのままの味をそのままいただいて、それ以上欲しいともなんともなく、この味だけで足りてる。

だから腹も立たないでしょ。
はっきりしてるでしょ。


そうやって修行するんです。
 
それが仏道の修行です。



全然違いますね、だから。



Q.
そういうものは、出家して大きなお寺などで修行していると、自然に身に付くのですか?

A.
それは違います。

zazenshisenwitheyesopenshalftone
修行しなくても、誰しも初めっからこうなんです。

だから大事なんです。
修行した人たちだけが出来る教えでは役に立たないんです。

もう、はなっから。みなさんに用が無いじゃないですか。

修行してないんだから。

そうじゃない。

誰でも最初からちゃんと出来ていることなんです。


出来ていることなんだけれども、知らずにいるから、それを自分で、なるほどと自覚をしてほしいんです。


自覚をするためにはほっとけないから、必ず自分で修行をせざるを得ない。


どういう修行をするかっていったら、自分自身の今の様子に目を向けて、それをきちっと見極める。


自覚をするっていうことは他の人では出来ませんから、
否応なしに自分でやるしかない。




こういうように修行が約束されていくわけです。他人から勧められるわけじゃなくて。


     (略)

本当に、誰でもがそういうふうにきちっと出来てることがある。

それを釈迦って人は自分で見届けたから、実行して、
人にも伝えて、人が育って、
何千年も絶えずに来ているんです。
 

だから根本的に違うんですよ。



このようにコオロギが泣いているでしょ。

修行した人だけが聞こえますか?

 
修行してない人でもこのとおり聞こえるでしょ。
 

そのことが修行の根幹なんです。

ひとつも人を騙さない、迷わせない。
 

ちゃんとあのとおり鳴いている。


でも自分の中に受け取り方っていう、考え方や、今まで育ててきた物の見方があって、
そういうものを通して聞くようになると、
「あれはミミズが鳴いているんじゃないか」って言うと、
「いや、そんなことはない」って、誰でも言うでしょ。

学問があるから。
そうやって、必ずなってる。


だけど、あの鳴いている声に対しては、どんな表現をしても変わらないんです。
本当は。


でも言葉を変えて言うと言葉の上で問題が起きる。
 

要するに、聞いていることに用の無い人が、
考え方の上で問題が起きて、その考えの上で問題が起きると、
それをお互いが「正しい」「正しくない」ってやってるだけで、
本当のものを見る力をすぐ忘れちゃう。



それはもう修行にならないですね。

修行ってそういうことじゃないですね。


そこが、たぶん、一番伝わっていない。


だから、せっかく坐禅しても、ほとんどの場合「ちょっと気持ちよかった」程度で終わっちゃう。

     (略)

昔から、人が育つのは、この禅会のように、一握りの人が集まってやってるようなところです。

誰からも権力的に支配されずにやれるからね、独自に。


だから、皆さんが自分で情報を探し、検索し、いい指導者を探すしかない。

買い物と同じようにね。
 
自己責任です。


昔からそうです。
 
いろんなところを旅し、話をし、この人に教えてもらいたい、とそこに逗留し、修行してたんですね。 諸方行脚。


今は人の噂だけでやってる人が多いからね。

自分で実際に行ってやってみないとつまらないね。

昔より簡単に指導者を探して行けるのにね。
そういう時代になればなるほど、軽率にものを扱ってるかなあ。
 
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考え[思い・感情も]が出てきてもそれを取り扱わないのが坐禅です
何もしないのが坐禅です



自分のほうから探ったりたずねたりすることをやめれば、
「事実」(真実)がそこにあるんです


どうしたらそうなるかじゃない
すでに出来ている
それを見極めるのが修行です

今の自分が本当にどうなっているか、それを見極める、見届けるのです



              ―井上貫道老師




井上貫道老師坐禅会における質疑応答から


hasuQ.
眼耳鼻舌身意っていうと、森羅万象、人間の生きている全てですよね。

それが「無」(無眼耳鼻舌身意)ってことになると、いったいどういうふうに解釈していいのかと。




A.
今、申し上げたように、一応説明しますけど、説明じゃ届かないでしょ、
「超越する」[=無]って。


物を見る時、眼なんかがあると思ってないでしょ。



眼なんかどこにも出てこないでしょ。

それが眼の働きでしょう。


ごらんのように、有るとか無いとかを超越してます。



カエルの声がするとき、一応耳があるから聞こえるんだと説明はするんだけど、
聞いてる時に耳があったら邪魔でしょう。


耳なんか感じてないでしょう。
音がしてるだけでしょ。


そういうのを無眼耳鼻舌身意というんです。



Q.
そのあとの色声香味触法、それは眼耳鼻舌身意を実際に表現するものだと聞ききましたが・・・

A.
たとえばあそこに五色の旗がありますが、見てごらんなさい。

Q.
ハイ。

A.
いや、だから、見てごらんなさい。

Q.
ハイ。

A.
いやいや(笑)、だから、見てごらんなさい。

Q.
ハァ。

A.
見てごらんなさいって。

Q.
(ようやく目を向ける)

A.
見えました?

Q.
見えました。(目を戻す)

A.
今はどうですか?

Q.
もう見えない。

A.
そうでしょ。

あんなにちゃんとあると思ってるのに、眼というものは、向かった時しか絶対にそのものを見てません。

Q.
ハァ。

A.
でも頭の中は、見えなくても、見てなくても、あそこにあると思ってるでしょ。


Q.
それは記憶が。

A.
眼はそんなことしてないでしょ。眼にはそんなこと残ってないでしょ。

だから無色声香味触法ってなるんです。

音だって、今鳴いてるってことが確かに聞こえるのに、鳴き止んだらどこにも。

だけど記憶があるから、さっき鳴いたってことを思い起こす力があるけど、
じゃあ思い起こしたときに耳に音がしてるのかっていえば?


Q.
ないですね。

A.
ないでしょ。そういうふうに活動してる。


Q.
しかしそういうことは、私のような凡人には、すんなりとは…。

A.
凡人じゃなくて、自分のことだから。

自分のことでしょ、みなさん。

自分のことだから、こうやって見た時に見えて、こうやって見たらあそこのものは見えない。


見えないけど、確かにあそこにあると「思って」います。


じゃあ眼はどうなってるかっていったら、確かに見たんだけど、
絶対にそんなものなしで今見えてるものだけで生活してる。


それぐらい「無眼」「無色」、眼も物もみんな超えてる。


だからといって、なくなって寂しいかというと、何も寂しくないでしょ。

なくなったとも思っていないでしょ。

あれが見えなくなったとも思わずに生活してるんでしょ。

不思議でしょ。


考えてることは違いますね。


こうやって勉強するんです。



Q.
執着心があるから、ってことですか。

A.
自分の眼に、執着してるものがあるかどうか見てください。

修行していないにも関わらず、ああやって見た時に見えて、
こうやって見た時に執着もしないで全部あれから離れ切って、
いまこうやってこういうものが見えるだけでしょ。


こんなにうまく生活ができてるのに、
自分をよく知らないから、どうしたら執着から離れることができるんだろうって、
ここ(頭)だけで考えてる。


そんなの修行になりませんよ。


ただ考え方をもてあそんでるだけ。

四六時中。

それは修行じゃない。



修行は、実際に自分がどうなっているか、
この体でどうなっているかを見極めていく。

本当にどこにも残ってない、
くっついてないな、
こんなに自由に動けるようになってるな、
一切問題が起きないようになってるな、

って生活したらいい。



そっちをやらないからだめなの。

それをやらないと修行にはならない。


だから修行の時には考え方ではやらない。


坐禅してても、考え方でどうこうすることは用いません。



坐禅してるといろんなものが出てくるでしょ。

出てきたものを取り上げて、こうしたらいいかな、ああしたらいいかなって、そういうことを一切やりません。


それは修行にならないから。



Q.
瞑想してると次から次へと出てくるんです。


A.
だからみなさんのは迷走なんです。(笑) それはもう坐禅ではない。



Q.
頭の中で無意識にそういうことを考えてるんですかね?

A.
いやいや無意識じゃないですよ。

知らないから、出てきたものを取り上げる。


取り上げない、ってことはどういうことか分からないから、

「出てきたものを取り上げないようにして坐りなさい」と教えても、
出てくるとすぐ相手にしてる。

それぐらい愚かなんですよ、
自分を知らないっていうことは。



Q.
「貪」「瞋」「痴」の「痴」ですね。とんじんち

A.
そうそう。

だって、「本当に自分を使わない」って、
そんな難しい言葉じゃないから一応分かるじゃないですか。


思いを加えないってこと、分かるじゃないですか。


お茶を飲んでも思いを加えなかったらどうなるかっていったら、
うまいとかまずいとかっていうようなこと出てこないじゃないですか。

ただその味がするばかりで。


それが「思いを加えてない」ってことでしょ。


考えが出てきたにしても、それを取り扱わないってことは、
このお茶を飲んだら味がしてるだけっていうことでしょ。

いいとか悪いとか、
邪魔になるとか、
整理が付かないとか、
まだこんなことを思ってとか、
そんなことはみんな手を付けてるってことでしょ。

出てきたものに対して。



そのぐらいのことは分かるでしょ。


そしたら坐る時もそうことをしないで坐ったらいい。

それで初めて「坐禅」っていわれる。




Q.
そうすると心の持ち方っていうのは、坐禅をしながら、すべてを自然のままに…。

A.
いいですよ。

自然のままっていうよりも、それしかないんです。

その動きしかない。

その時その動き以外にない。


そういうことを本当にやるのが坐禅なんです。


だけどもその動きに対して人はすぐ考え方を付けていく。

それだから事実がどうなってるか分からない。


ただ足を組んでいればいいとか、そういうものじゃない。



     (略)

難しい話じゃないでしょ。本当に普通、誰しもがやっていることでしょ。



Q.
それがまた難しいんです。


A.
難しくするのは考え方です。

考え方が入ると難しくなるんです。


どうやって聞いたらいいかって考えたら難しいでしょ、


(机を叩いて)

「コン」

この音を聞くのに。


「コン」


こうやって何もしないでいたら、ちゃんと聞こえるようにできてる。

「コン」

こうやって何もしないで聞いていることが修行です。


これに自分の考え方を加えずに、

「コン」

こうやって音がしたら、そのとおり聞いているということが修行なんです。




こんなこと、誰も教えないんです。

教えてこなかったんですよ。



「何かすること」だと教えてきたんです。



道元という人が、初めてこうやって修行ができるよと教えたんです。




そりゃそうでしょ。


「コン」


何もしないのが一番よく聞こえる。

ちょっとでも何か付けたり削ったりするようなことがあれば、
このままの様子がそのまま伝わらないじゃないですか。

真実が。



真実を本当に伝えるんだったら

「コン」


このままで何もしない。そのまま、ズバッと。





Q.
そういうところが一番肝心で、一番難しい…。


A.
だから一日中いろんなものを、眼耳鼻舌身意っていって六つの感覚器官があるから、
それが触れた時にみなそういうことをやってるわけだから、
それを今までは、すぐ触れると、人間の考え方でこうやって探ってたから。


それをやめるんです。




自分のほうから探ったりたずねたりすることをやめれば、

その事実がそこにあるんだから。

そのまま事実がそのとおりのことを、
直に自分に、
時間の隔たりもなしに、
場所の隔たりもなく、
そこに一分の隙もないし、
疑いもないし、
ゴミも入らないで、
きちっとあるってことが、
理屈の上からしたってちゃんとそうなってるじゃん。


それをただやるだけなの。


それぐらい坐禅ってものが、世間に伝わってるものと違ってるの。


それをまずここでちゃんと話をして、やってもらいたい。


そうでないと、本当に、考え方しかしてないんだよね、坐ってて。


一般にはそれですむかもしれない。

やったってことで。



だけど自分自身が自分自身にたずねたときに、ただ頭の中でぐるぐる堂々巡りしてるだけですよ。

考え方で。


そんなもの、どうしようもないじゃないですか。




Q.
それが煩悩ですかね。

A.
煩悩。わずらわしく悩ませるんでしょ。

ありもしないものを自分であるって認識して、
それでいっぱいいろんなものを作って。

ないところに、いろんな思いを起こして、
起こした思いを本当にあると思って、
それを問題にしてる。

そっちじゃないですよ、修行は。




      (略)

難しいっていえばそういうところかね。

考え方がこびりついているからね。


でも、そんなにこびりついている人でさえも、こうやって聞くときに、

「コン」

ただ、こうやって聞こえるだけだっていうことを言っとこう。


だから難しくないってことでしょ。

どうしたらそうしたものが取れるかじゃなくて、
実際に今、そんなものなしに聞こえるようになってますから。


だからできるとかできないとかっていうようなことじゃなく、
できてます。


「コン」


みな、やれてます。
誰も。


だからいいんです。



あとは気づいたらいいんです。


そのまま。



無いものに気づけっていったら無理です。

やれてないものを、っていったらやらなきゃできませんけど、
すでにやれてますから。

探さなくたっていい。


どうかしてできるわけじゃないでしょ、これから。



(手を叩いて)
「パン」

これから何かして今のように音が聞こえるようになるわけじゃない。

もう聞こえちゃったんだから。

このとおりね。


自分で作り変えたことなんかひとつもしないんだから。



「パン」

いきなり聞こえて終わりですよ。



それだのにここ(頭)は、
何かしないとそのとおりにならないと思ってる。




Q.
と言われても、生活に追われてると、なかなかそこまでは…。

A.
生活に追われてるからじゃなくて、自分の今の事実に目を向けるということがない、
ということ。


ここから上(頭)でしか生活してないんですよ。



仏道ってのはそういう違いがあるの。



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