坐禅の仕方と悟り,見性,身心脱落:井上貫道老師の庵 まとめサイト

Dharma Talks of a perfectly enlightened Japanese Zen Master Roshi Kando Inoue 井上貫道老師が、悟りを体現された経験から坐禅の方法や仏道について語られたものを掲載しています web上に散見される魯山貫道老師のことばも引用掲載し、まとめブログとしました ( これは参禅者によるブログであり、公式サイトではありません ) このブログが正師への参禅のきっかけになりますように

自己を忘じる


このページでは松本自證老師に師事して修行してハッキリされた(=悟った)女性の体験を書いています

禅宗史を見ると悟っている女性が結構多いです

禅の語録や歴史を見ますと、悟りを開いていたり、一隻眼(いっせきげん)を備えたりしている女性が多いことが分かります。
令和の現代にもいます。
ただし、一瞥体験(いちべつ=チラッと見る)や「自分はいない」体験といった元に戻ってしまうような体験のことではありません。

そういう体験ではまだ終わらないので仏道があります。

まして、ヤーコプベーメの神秘体験やマイスター・エックハルトの体験とか、禅宗の僧侶でも「身体が木っ端微塵になった」「宇宙までふっとんだ」というような体験は悟りではないのです。


女性の参禅者にも、若い時に、万物と一体となる体験をたまたま経験したけれども、それが何なのか、どうしたら良いのか、尋ねる人もなくて、家庭生活も経験した今、情報が豊かになった現代にやっと正師(しょうし)にめぐりあえて修行を始めた人たちもいます。参禅者に意外にたくさんいらっしゃいます。

つまり仏道でないと最終ゴールが示せないのです。
方法論つまり修行方法がないと最終地点に行けないのです。


祖師と言われる方々は、以上の体験ではなくて、お釈迦様(ブッダ)と同じ体験をして、現代まで伝えられて来たのです。それが仏道です。
そして坐禅という修行方法を伝えられて来たのです。


【管理人の見解です】
本当の仏道を伝える人は極めて少数で、そういう方々は、肩書や地位が宗教界では低いものです(本人が亡くなってから後世立派な肩書が与えられることはあります)。
宗教界での出世は、世間の出世と同じで、宗教組織が決めた基準を満たしているということでそうなります。

そういうことに興味のない本物は現代も確実に存在しています。
【以上管理人の見解でした】


歴史を残す(記述する)人がどうしても僧侶(比丘びく)であり、また、参禅ということについては男性が有利な環境が続いたので、当然開悟する人は、男性で、しかも出家が多いような記述になりますが、悟っている人は女性にも多いのです。


己事究明(こじきゅうめい)に、男女や年齢や経験の有無、僧俗(出家しているかしていないか)はまったく関係がないと正師(しょうし)方が云われるとおりです。




禅の語録には、悟りの眼(まなこ)を持った婆さんが修行僧(雲水うんすい)に問答をしかけると言った場面も多く見られます。


中国の話になりますが、
『金剛経』Diamond Sutra の大量の注釈本を背負った未悟の徳山宣鑑(とくさんせんかん)和尚という方がいましたが、まだ理論屋の学僧だった時のことです。

ある山に来て、茶店で点心(てんじん)を買おうとして、婆さんに問答されたことがきっかけで龍潭祟信(りゅうたんそうしん)禅師に参じるようになりました。
 ※点心(てんじん) とは、小腹を満たす簡単な食事。心に点ずると書いているので、それがこの和尚に、婆さんが問答するきっかけとなった。
婆さんに、「金剛敎に三世心不可得とあるが、和尚さんは、過去心を以て心に点ずるのか、現在心を以て心に点ずるのか、未来心を以て心に点ずるのか、どれか」と尋ねられて、徳山は答に窮した という故事


そのお蔭で老師に出会い、宿泊しようとして、ロウソクを手渡されて思わず吹き消された途端、徳山和尚は大悟しました。



婆子焼庵(ばすしょうあん)という有名な公案もありますね。

お婆さんが、修行僧に修行が進んだかどうか娘を使って確かめる問答をしたのですが、その答えがダメだったので、「今まで何をやっていたんじゃ この僧はもう世話をするに値しない」と修行に使っていた庵を燃やしてしまった故事です。




江戸時代の日本になると、
 遊女が遊郭で悟りを開いたー悟りはいつも頓悟

の記事で紹介している大橋太夫(おおはしたゆう)もそうです。wikipediaにも「大橋太夫」として記載があります。

そのほかお察(さつ)婆さんや杉山政女や茶屋の婆さんなど歴史に残る人たちがいます。


もっと近いところでは、井上義衍老師の会下の山王タキノ大姉(義衍老師の印可証明を得られています)や松本うた女史などです。


幸い現代は、女性も対等に参禅することができるような時代になりました。



子供の居る部屋で坐禅をして自己を忘じた女性


代々木の指導者・松本自證師

井上貫道老師のお弟子に東京渋谷区に松本自證師という方がおられます。
僧侶ではない一般人として老師に参禅し、摂心、坐禅会に通って、大悟徹底された方です。
それをきっかけに在家得度されています。

修行中は、毎週、関東から静岡県まで坐禅会に通われたそうです。
それと年に何回かの摂心に決まって参加されたようです。

子育て中だけれども、突き動かされてともかく坐禅をした

その代々木の松本自證師(井上貫道老師弟子)の指導を受けて、zazenzafukakudai
自分の子供達が居ても、その部屋で目を開いて坐禅をして、ついに自己を忘じた女性がいます。

修行は極めて短期間です。


その体験の詳細は、
https://www.muishinso.com/blank-20
に参禅記として書いてあります。


同じく、松本自證師の指導で、
3年で自己を忘じて決着がついた(悟った)千葉県在住の妻子ありの多忙なサラリーマン男性のことば を読む

介護で大変だった女性が法話と坐禅で激変ー修行僧以上の境涯となり、さらに大悟した実例 を読む







naikanbeya_FotoSketcher



 ⇒ 坐禅3日で自分がなくなった巨漢の青年:会社の研修でお寺に来て、摂心突入したが、脚が痛くて坐禅にならなかったのが… を読む

20年も松本自證師神戸坐禅会ー三宮と新開地にて

zazenshisenwitheyesopenshalftone2020年にも神戸にて松本自證師の坐禅会があります。コロナの影響で予定は未定になっています。

一日のかなりを坐禅します。
経行(きんひん)+抽解の時間もわずか10分にされています。



詳細は、松本自證師関西禅会ホームページ をご覧ください。



松本自證師代々木禅会とネット禅会はこちら

松本自證師の代々木坐禅会詳細についてはこちら 現地に行けない方はネットからの参加が可能です。



このエントリーをはてなブックマークに追加

▶思考回路は真実からいつも乗りおくれているから、
自分のなかで葛藤が起きるのです。
―井上貫道老師





『意根を断つ今一度坐禅について』前編
静岡県少林寺住職 井上貫道
 悟りの体現者・井上貫道老師のプロフィールはこちら

真実に目を向ける
 
 ようこそ一泊坐禅会にご参加くださいました。本日は坐禅の経験がある方、ない方と いらっしゃると思いますので、坐禅の経験のあまりない方もおわかりになるように、 お話を進めさせていただきたいと思います。

 先ほど坐禅をしていただいて、人間がこれだけ集まっていてなお、こんなに静寂な雰囲気が つくれる、ということを体験していただけたと思います。


普通は人が大勢集まると、静かには ならないことが多い。
 
ですけれども、坐禅という行をするときには、何千人いようが、何万人 いようが、
誰もそこに人がいないぐらいの静けさというものができます。


 それが雑踏のなかで生活をしている人は、「たまには静かなところへ行って過ごしたいな」 と思う。
人のいないところを探して、「きょうは静かないいところへ来たな」と思っている。
 
けれども、だいたいそういうところにみんな行くものですから、せっかくの静かな場所がたち まち騒々しいところになってしまう。
 

こういうことが普通の生活のなかで起こることです。
 

ところが坐禅は、どんな喧騒のなかでも、みなさん方が自ずから静かな場所をつくるという行 であります。



zazenshisenwitheyesopenshalftone

それから坐禅を行なう時の注意点として、道元禅師さまは目を開けて坐るということを おっしゃっています。
これはひじょうに大事なことです。

坐禅は瞑想とは違います。
 
だから目を開けて坐る。


ではこれにどういう効果があるのでしょう。


目を開けて坐ると妄想が 断ち切れるのです。


目の前のものが見えてますから、見えているだけでいるあいだは、 妄想が起きてこない。



 坐禅は、「真実」に用があるのです。


妄想は頭のなかで描いた青写真、あるいは砂上の楼閣 のようなもので実際にはありません。

 
しかし、考え方、思いの上に生じたものと造りものでない 事実との区分けをよく知らないと、
妄想を相手に坐るようになる。


そうではなく、真実(ぬきさ しならない今)に目を向けるのです。



 そこで本日の題「意根を断つ」ということになろうかと思います。

「意根」の「意」は「思い」 です。

こころのいろんなものを思わせる働き。その大きなものを「意根」といいます。
 

 人間の生活のなかでいちばん厄介なことはなんでしょう。

それは、なかなか自分の思いどおりに ならない、ということではないかと思います。
 
もし自分の思いどおりに全てのことが運ぶのだったら、苦労をしませんね。
 


ですがそんななかにあっても、この「思い」というものを自由に、世のため、人のため、そして人の邪魔にならないとか、傷つけないとか、汚さないというように使える人 になってほしい。

今日はそうした人になれるようにお話をしていきたいと思います。



 自分の「思い」が不自由のもと

 ではどんなことが日常起こっているのでしょう。

私たちは事柄にふれて、そのままの「思い」で いられる人はほとんどいません。
 

たとえば夕方お寺に着いて、控室に通してもらった。
 
通してもらったはいいけれども「どこへ坐ったらいいかな」と様子をうかがう。
 
先にいた人に「空いているところへどうぞ」とか、「こちらへどうぞ」とか言われると、安心してすっと坐れる。


今度は坐った はいいけれども、誰も何も口をきかないでじーっとしている。
 
5分、10分と時間が過ぎるにつれ、ひじょうに重苦しい雰囲気になってくる。


そのあいだどうしているかというと、ほんとうにいろんなことを「思う」のです。
 
 
 
「これから何をするんだろう」、

「あとどのくらいこうしているのだろう」、

どんどんいろんなことを思い、負担となってきます。 



こうして、人は自分の「思い」によって不自由になるのです。
 


 お釈迦さまは6年間坐禅をされたといわれていますけど、
その間、いろんな「思い」をする働きから離れて、
真実のまま活動している自分に目を向けられました。

 
ですから坐禅も、
こころで思いをめぐらすということをやめないと、正式には坐禅とはいいがたい。



 お釈迦さまが出家をされて修行をはじめた当時は、どの修行者も人間の考えかたを中心にしていました。


お釈迦さまも、出家をしてはじめのうちはそういう指導者のもとで、
いわれるとおり、断食をしたり苦行といわれるあらゆることをされました。



それでも、自分のなかで一つも解決されていかない。
これはどういうことかと申しますと、
頭のなかでこういうふうに思ったら、このように理論づけていったら、という定義があるだけ。

このことをやめたら、たちまちただの人になってしまいます。



 もっといえば、力を入れているときだけ立派そうに見える。
 
願力とか信念をもって続ける、戒を守る。
こうした人は生活態度を拝見しても実に清浄な姿で、あこがれでもあり、「立派な人だ」とみんな思ってくれる。

でも、お釈迦さまはそれではご自分の解決がはかれなかったのでしょう。



 そして、自分でどれだけ苦行などをやってみても、この自分の「考え」というものが自分を承服させない。
最終的に納得させないということにいたった。

当時の世の修行者と違う方向に向かった理由は、 これではないかと思うわけです。



 幸いに当時、『梵我一如』=「宇宙と自分は一体である」という思想がありました。
 
だけども、どうしたらそういうふうになるかわからない。


そこでお釈迦さまは、「これはなに」、「これをやって」、 というような、
人間の考えかたで物事を追求することをやめてみたんですね。


時々刻々と追求せずに過ごしてみる。
 
人間の考えかたで追求することをやめてものごとにふれてみる。



 こんなことはみなさんやったことがないでしょう。
 
普通は、これは四角形であるとか、こっちは黄色で、こっちは白いとか思う。



でもそういうこともやめて、有るとおりに生活をして、

是非をつけない。 

よしあしでものを見ない。比べない。
 

これが「意根を断つ」ということでしょう。

 

そうするとみなさんがあまり見たことのない、気づいたことのない世界が出現すると思うのです。





 思考回路から離れる

 いまのみなさんは自分の考え方で、追求していったら幸せになれる、何かが見つかると思って、
思考回路の総力を挙げて考えています。
 
これが普通かもしれません。
 

そう考えますと、お釈迦さまの考え方はまったく違います。
 

360度方向が違うのです。
わかりますか。

180度というと正反対の向きになります。 


これが360度というと、始点と終点がピッタリとしていて、見た目には何も変わりません。


どこが違うの かと思いますが、これがまったく違う。

お釈迦さまだけがやったことでしょう。



 (パンパン)と手をたたきますと、
人間の思考で追求しなくても、
不思議なことに聞こえてきます。 


「認識」というもののの育ちきらない小さなお子さんに、
(パンパン)
とやる。
 
その子に「聞こえたの?」と聞いても反応はない。
 
自分で聞いたという認識はないからです。


だけども、
(パンパン)
とやると、からだが反応する。
 
それでおとなは「聞こえているんだな」と思います。



 またはそこに熱い物が置いてある。
 
おとなは「熱かったから手を引いた」と思います。


ところが 「認識」のまだない子どもは、なにも思わずにやっているだけです。



そういう世界がある。お釈迦さまはそういうことを悟ったのです。



これは聞いてみればみなさん方も気がつくでしょう。

でも、 たいがい気がつかない。



それで何をやるかといいますと、
思考回路のうえで物事を追求することしか知らないからいろいろ思うのです。


 思考回路は人を苦しめ、悩ませ、ものがわからなくなる唯一の道ゆき、または配線です。
(使いようによってはすばらしいものだけれども)。


いま世の中で問題にされていることは、ほとんど思考回路のうえで起こってきました。




 ですから修行をするときに、この思考回路という道ゆきはいらないのです。


使わなくても、自分のからださえあれば足ります。


なぜそう言いきれるのかといいますと、
人というのは、いつでも、どこでも、だれでも、
このからだのあるところでしか生きられないし、
生きているところはこのからだの上の様子なのです。


これがすごく大事なことです。
 


 ですからお釈迦さまは、菩提樹の下で自分おひとりで六年も過ごされたのです。
 
ほかのものは何にも相手にしていません。
 

こんな簡単で単純なことです。
 

場所的にいえば、「ここ」という表現でしょうか。


では、どこを指して「ここ」というかというと、
このからだのあるところを「ここ」というわけです。



 みなさんは帰る家がおありかもしれませんが、そんなところで生活してないでしょう、いまは。 

 
 
家があると思っているだけです。

 

なくても大丈夫。
 
 
ここでちゃんとこうして生きています。

何の心配もありません。
 

これはキリスト教のおことばをかりれば、「三位一体」ということです。


サイコロの目のようなもので、1が出ようが6が出ようが一箇のサイコロのすがたに違いない。



時間的に いうと、「いま」。

 
場所的にいうと、「ここ」です。
 

それだけが人の生きている真実なのです。





 いま、完璧な真実

 仏教はだいたいいま申し上げたことが全てですね。これが「真実」。


これ以外は全部頭に描いたことです。


 
だけども不思議です。頭に描いたことで、お互いに話ができます。

 

「きのう、あそこで 会ったね」、「うん、あそこで会った」と、いろんなことをちゃんと話せる。
 

確かにきのうそういうことがあったに違いないのですが、
事実は事実よりも奇なりです。

人間の想像を絶します。


確かに体験して、あったはずのものだけれども、どこにもないんですね。


握った、離した、もう握った ことはどこにもないのです。

 

こうして両手を広げて、この広げていた両手は、いま、どこにあるで しょう。

 

思考の追求をやめてみるとはっきりわかるはずです。
 

広げていた手を握った途端に、げん こつがあるだけ。

これが真実ですね。



 立ったり、坐ったりといいますけれども、人間は同時に二つのことはできません。
 
立つと、坐っていたものはどこにもなくなります。
 
こんなにはっきりしている。


だけども、「立っていたのはどこへ行った」と聞かれると、
頭で追求して「坐ってそこにいるではないか」となる。
 
さっきそこへ立っていた人がいるように思う。



ここは頭がかたいものですから、どうしても事実のあり方につ いてこない。

それでみなさん乗りおくれるのです。

思考回路は真実からいつも乗りおくれているから、自分のなかで葛藤が起きるのです。




 それから、みなさんは目的というものを先に持っているかもしれませんが、いまやっていることで完璧ですよ。

 
布巾を持ったときはこの持ったとおりになるから、これで完璧。

 
離したら離したようになるから、これで完璧。
 
持っていたから、離したからどうかなるということではないのです。 


事実を見てごらんなさい。


握ったとき、確かに握ったことしかない。
 
離したら、離したということ しかない。



 きょうもある、あしたもあると思っている。
 
あしたになったら立派な人になると教えられて、信じています。
 
そうではないのです。
 


ほんとうに立派な人になるのには、
ただ、いま完璧にできているものを自分で、
「あ、ほんとうにそうだ」と納得のいくところまで事実に参ずることです。



 思考回路を使わないと、真実というものがよく見えます。
 
真実を見てみると、自分が探し求めていたものとぴったり符合します。

 
そういうことを、私たちは生活のなかでやっているのに、
思考回路が働くとすぐにそのことから目がそれてしまうのです。



 (パン)
この音と、

(パン)
この音は違うことを知っていますか。

 
人生のなかで、(パン)この音と同じ音はもう絶対にありません。
 

そういうことを知っていますか。
 

真実というのはそういうものです。



 「このことはいまに役に立つから、よく覚えておきなさい」と教えられるから、みんな一生懸命覚えます。
 
だけども、事自分の内面のことに関しては、役に立ちません。


似たようなことはあっても、二度と同じことがないからです。
 


 それでも自分の思考は、思考を重ねて、
似たようなことが出てきたから、あのとき、もし、
似たようなことが出たらこういうふうに次にやったら間違いないとか、
失敗しないだろうかとやり出す。 


だけども、そのようにやってみても、
思考回路が自分にたいして
「うん、それで間違いない」
と言わせないんですね。
 
これで「よし」と言わせてくれたら、ものすごく楽です。
 


みなさんが使っているマニュアルの世界で十分になってしまう。
 
マニュアルほどおもしろくないものはないですね。



 たとえばこのお茶碗をあそこからこちらへ持ってくるのに、ちゃんと足の運びまで決められてごらんなさい。
運ぶのにたいへんですよ。



真実とは、二度と同じことがないようにできているのです。 


ですから、やりっぱなしで平気でいられます。



一回一回がそれで完璧。いちいち完成度100%の真実なのです。   


         合掌



(後編へ続く)
引用元 http://www.nakanojouganji.jp/kihou/12inoue1.htm
『意根を断つ今一度坐禅について』前編 




このエントリーをはてなブックマークに追加

↑このページのトップヘ