坐禅の仕方と悟り,見性,身心脱落:井上貫道老師の庵 まとめサイト

Dharma Talks of a perfectly enlightened Japanese Zen Master Roshi Kando Inoue 井上貫道老師が、悟りを体現された経験から坐禅の方法や仏道について語られたものを掲載しています web上に散見される魯山貫道老師のことばも引用掲載し、まとめブログとしました ( これは参禅者によるブログであり、公式サイトではありません ) このブログが正師への参禅のきっかけになりますように

座禅の仕方

坐禅の注意点―自分の坐禅を評価してはいけない

坐禅はどこかで聞いてきた坐禅に対する先入観を捨てること

今日は気持ちよく坐れた 今日はよく坐れた、坐れなかった

という、こういう人はすでにそういう先入観を持って坐禅をしているということ

目を開いていても頭の中の考えを追っていて目の前が見えないのは坐禅になっていないということ


坐禅中は目は必ず開く  320井上貫道老師坐禅姿

目を閉じるのは坐禅ではないし、

目を開いていても頭の中の考えを追っていて目の前が見えないのは坐禅になっていないということ

[ 五感を開放して ] 自分自身の真相 [ 心の中ではありません ] に親しくいることが坐禅である

坐禅中は「求めない」こと

―井上貫道老師

Q.
坐禅中、畳の目が見えているのですが、外で鳥が鳴くといきなり畳の目がなくなって鳥の声に感覚が動きます。

鳥の声が消えればまた畳の目が戻ってきます。

そういうものでしょうか? 


それとも目と耳が同時に働かなければ間違いでしょうか?



(井上貫道老師)A.
そういうことはあります。

もっと言えば、考え事をすればもう何も見えず何も聞こえなくなりますよね。

そういうものです。


目を開いているからといって必ずしも見ているわけではなく、
耳があるからといって必ずしも聞いているわけではないんですよね。

ただ、五官[眼耳鼻舌身]の働きはそんなに単純じゃなく、もっと複雑で、変幻自在に変わります。

目と耳だけじゃなく、これ(身体)全てです。そういった五官の自在な機能に学んでください。
 

たとえば耳の機能はすごいですよ。

3人でしゃべればどうなりますか。

ちゃんと3人でしゃべっている様子になりますよね。



●『自分が物を見る』とやると、物を見てる自分が立っちゃいますね。

自分を立たせるのではなく、自分と物と、実際は一つなんです。



●何かをつかもうとしないことです。

実際はなーんにもつかむものなんてないのに。何かつかむものがあるんでしょうかね?

―井上貫道老師



ちょっと待ってください。このままブログを閉じずに、↓↓

悟り(見性):もう元には戻らない―井上貫道老師

松本自證師の 「悟後の修行はない」 という記事を読む

松本自證師の「悟りとは何か・悟りの障害物とは」という記事を読む

松本自證師の「悟った後のことは悟る前は決して分からない」という記事を読む

瞑想中・座禅中に眠くなる原因ー僧侶やベテラン一般人はなぜ坐禅中に眠るのか

坐禅中・瞑想中に眠くならない方法

現代の日本に夜中も眠らず坐禅できる人たちがいる

座禅・瞑想中の眠気の原因【続き】―室温や服装に注意


座禅や瞑想・スポーツでの眠気対策に仮眠が良い
もご覧ください。



井上貫道老師の提唱DVD注文ページを見る (なくなり次第終了となります 今後の製作はありません)









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坐禅とは何もしないことなのに。。。


提唱のあとの質疑応答はこちら
下の2個中、一番目の動画はパスワード保護されています

上の動画は参禅者(坐禅会に参加した方)のみが視聴できます


下の動画は、どなたでも視聴ができます
2018年12月の動画↓






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座禅の組み方・坐禅の方法・坐禅の仕方ー悟りの体現者・井上貫道老師



坐禅中は、かならず目を開けます

道元禅師は、「目は常にすべからく開くべし」

「常に」 と 「すべからく」ですから、
「坐禅中は目を開けなさい亅とかなり強く言われているわけです―井上貫道老師


(正しくは坐禅であって、座禅ではありません 坐は動詞、座は名詞です)
zazenposture


『普勧坐禅義提唱』ふかんざぜんぎていしょう に基づいて


まずは身体の整えかたから。by 少林寺・井上貫道(いのうえかんどう)老師


[ 禅堂には、時計やスマホはもちろん自分の荷物は持って入れません。
また坐禅をする禅堂とトイレでは会話をしてはいけません

禅堂と東司(とうす=トイレ)と浴司(よくす=風呂場)とは三黙道場と言って、会話をしてはならない場所です

dabb8682ba0bf83bab636ca47ddeaf77_s禅堂に入る前に、夏冬かかわらず、靴下は脱いでおきます



禅堂に入ったら、一歩進んだところで一礼してから叉手(しゃしゅ)で、坐禅の場所である「単(たん)」までゆっくりと進みます  この時、聖僧(しょうそう)様と堂頭老師(どうちょうろうし、壁に向かわずこちらを向いて坐禅されている)の前は横切ってはいけません]





●「袈裟けさを掛かくべし」と書かれてありますが、ビジネスで喩(たと)えれば背広を着てネクタイを締めるってことです。正装ということです。だらだら坐らないこと。それが心に影響するからです。在家得度(とくど)されている方なら絡子(らくす)を掛けます。

お坊さんが袈裟をつけて坐禅をするということは最高の服装で坐禅をしているということです。
在家の人も、たとえばデートをするという時には最高の服装をなさるでしょう。
ですから、坐禅をする時は、身体も清めて、清潔な服装をする必要があります。


[投稿者:ここでは触れておられませんが、一般の人がお寺や道場で他の人と坐禅する時は、黒や紺などの地味な、目に障りにくい色が良いとされています 黄色や赤、しま模様は目にチカチカすることがあり、おすすめではありません]



●坐蒲(ざふ、ざぶ)
zensuwarikatahairichibu_FotoSketcher坐蒲は前半分を使います。真上からどっかと座るのではありません。 尾てい骨が坐蒲の中心に来るぐらいに坐ります。












●結跏趺坐と半跏趺坐(けっかふざ、はんかふざ) 

冬でも靴下・ストッキングは脱いでおきます

hokkaijoin_FotoSketcherpencil5どちらも正式な形です。半跏趺坐が略式だと思われがちですが、そうではありません。どちらも正式です。

両ひざと尾てい骨、頭で三角錐になります。120°ぐらいの一番安定する角度で足を組みます。


結跏趺坐で両方の足を組めばそういう形になりますが、半跏趺坐だと片方の膝が浮く場合もあります。
身体が硬いとそうなります。膝が上がりすぎるようなら何かそこにかませれば安定するでしょう。

あぐらは坐禅にはなりません。第一長時間組めないですよ、あぐらでは。
何千年の歴史を経て、結跏趺坐とか半跏趺坐が坐禅に最適だと立証されて来ているんです。


[怪我などで]足が組めない人は他の形でもかまいません。西洋の人などは椅子でやっているような場合もあります。
足が無い人だって、それなりの形で坐ってもらえればけっこうです。

足は腿の上まで上げて、足の裏が見えるようにします。ふくらはぎの上ですませている人がいますが、腿(もも)の上まで上げます。

外国から来た人は、真剣だから、脚が痛くても結跏趺坐や半跏趺坐を組んでいますよ
[あぐらで済ませてはいけません 膝を傷めてしまいます 一番膝に良いのは結跏趺坐です]



●服
ぴったりしたズボン等は体を締め付けますから、なるべく避けます。逆に和服の場合はゆったりしますが、衣服が広がり過ぎて隣の人に迷惑をかけないようにまとめてください。
[在家修行者の正式な服装は、和服に袴(はかま)ですが、貫道老師の坐禅会ではほとんどいません]


●法界定印(ほっかいじょういん)

lotusposition_FotoSketcher2よく、指の組み方がいかにも坐禅の本質にせまるようなことを言われていたりしますが、そんなことは全くありません。

指の組み方が気になっているような状況ではまともに坐禅ができません。

自然に手を組めば自然に落ち着く場所があるでしょう。


法界定印がちゃんとたまご型になっているか、一度そのまま手を目の高さに持って来て、確認して下さい。


組んだ手は体に沿って静かに下ろした位置に置きます。あまり身体から離して前の方に置くと、筋肉が緊張しがちです。

結跏趺坐宙ぶらりん時々、腕が宙吊りになっている人がいますが、それは肩に力が入っているからです。

肩から力を抜いて、法界定印を組んだ脚の上においてください。

それでも、まだ腕が宙吊りになる人がいますが、それは腕が短いからです。
その場合は、組んだ脚の上にタオルなどを置いてその上に法界定印を載せるようにすると安定します。



●口
tongueinzazen普通に口を閉じてください。そうすると舌が上あごに付きます。少し舌には力が入っていますかね。
力が完全に抜けていると上あごに付かないですね。

気力がなくなっているかどうかというときに大事なことです。また、気の抜けたように口を開かないこと。







●目
坐禅中は開けています。

zazenshisenwitheyesopenshalftone
目を閉じていると、目の前のことが見えなくなり、代わりにいろんなことがいっぱい想起されてきます。真実を見極めようとしているのに、想像の世界で見極めようとすると、あやまちが多くなります。




目を開いていると、必然的に頭の中に思い起こされることが休まるようにできています。「妄想」というものが起こりにくくなります。また眠気も起りにくいです。

そして前方45度、1mぐらいの所に視線を落とすと、自然に半眼になります。


「目を開けると言っても、一点を見つめるのではないですよ。
どこかに焦点を合わせるのではありません。」




●法界定印が崩(くず)れていないか、舌が上あごについているか、目が開いているかの3点セットが、気が抜けていないかのポイントになります。

hokkaijointongueinzazen












【閑話休題】
自然な坐禅をしたら、3日間ぶっ続けで坐禅できた人の体験談はこちら




●欠気(かんき)
形が整ったら、口をわずかに開いて、息を全部吐(は)き切ります。吐き切ることが大事です。吐き切れば自然に空気が入ってきます。これを2~3度やると、形を崩さずに身体の緊張が取れ、坐りやすくなります。

坐禅中は、あとは呼吸は意識しません。
息を整えたり、数息観も不要です。

呼吸を意識しないのが、呼吸が整っているということです。




●左右揺身(さゆうようしん)
sayuyoshintoright_FotoSketcher両手を両ひざの上に仰向けて起き、身体を左右に、最初は大きく、徐々に小さく揺らしていき、身体を緩めます。最後に真ん中で静かに坐ります。

このとき大事なのは、肛門の括約筋をきちっと締めることです。足を開くと肛門も開くため、そのまま坐ると痔になりやすいですから、きちっと締めます。「痔じ」って、やまいだれに「寺」ですね。お坊さんが痔になりやすかったってことでしょう。




坐禅を解く時は、両手を両ひざの上に仰向けて起き、身体を左右に、
今度は、最初は小さく、徐々に大きく揺らしていき、身体を緩めます。

sayuyoshintoleft_FotoSketcherこういった左右揺身も、本当の修行者はないがしろにはしません。ちょうど、一流のプロ選手が基本を大事にするのと同じです。ベテランになったからと言って、やらなくて良いというものじゃありません。










●兀兀(ゴツゴツ)と坐る
山がドシンと坐ってるように、どっしりと坐ります。







舌を上顎つまり硬口蓋につけるようにすると、呼吸も口呼吸ではなくて、鼻呼吸となります。 
免疫力も向上するという臨床例が上がっているようです   <--ここまで管理人
>







 座禅作法を教える曹洞宗の図解入りホームページ


以上が、座禅の組み方(外見)の基本ですが、
大切なのは、どのように坐禅中を過ごしているか、その内容です
道元禅師によれば、内容によって、

「毫氂も差あれば、天地懸かに隔たる」 (普勧坐禅儀)
髪の毛一本も差があると、天と地とくらいに隔たりが出てくる

と言われています。


貫道老師
「(坐禅中、どのように時間を過ごしているかに話題を戻される。)

ものすごく嫌がる話題ですね、これね。(笑) 
参禅会に来てて、一番、たぶん、触れられたくないところ、誰も。


だから、坐禅があんまり本当に効果が上がらないのは、それが一番、元かと思うな。


分かったような顔して坐ってるだけ。

それらしい格好して坐ってるだけ。


本当はそこらへんが十分に理解が行かないまま坐ってる。
それ、長くやって苦労した人、話してごらん、聞いてごらん、きっとそうだよ。(笑) 


そこが分からなくて時間がかかるんだよ。


で、そういう話題を提供してくれないもん、なかなか。坐禅をするったって。


だからそういう意味では、井上義衍老師の流れを汲んでる人たちのところは、
まことにありがたいと思いますよ。

得難いですよ。

うん。



【閑話休題】
自然な坐禅をしたら、3日間ぶっ続けで坐禅できた人の体験談はこちら




坐禅の内容、坐禅中にどうしたら良いのかについては、下記をご覧ください。気に入ったタイトルだけ読まずにすべてお読み下さい。

次は、「坐禅の仕方・方法 の注意点」です。

または、
上の方にあるメニューの「座禅の仕方・坐禅の方法」をクリックすると、すべての記事が古い記事から順に読めます。

zenkokuzazenkaimenu

関連記事の坐禅中の想念について を読む


井上貫道坐禅の仕方ダウンロードする
無料です↑ 編集者からのご厚意で提供されている 『井上貫道老師提唱:真実・悟り・禅修行とは』から作成された抄本です

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本当に坐禅できるようになるには何が必要なのですか?


質問 (今日初めて参加した人) ちゃんと坐れる様になるというのは、頭の中にいろんなことが出てくるのとちゃんと坐れるようになる間には何かあるんですか?


答え
間にはないです。いろんなことが出てくるだけでいれるかどうかです。

出てきたものをすぐ相手になって、それを詮議するように自分の中で なると、それは考え方だけを相手にしてる世界だから、座ってる世界ではない。

形は座ってるけど内容は考えごとをずっとして過ごしているだけであって、どこが座っているんだって言われるぐらい。


本当に坐るということは、そういう考え方で取り扱わずにいてみる。

思いが出ないようにするわけでもない。

音がすれば聞こえるし、ものがあれば見える。

自分で思わないのに音がするとこうなる。

だけど相手にしないとどうなってるかっていうと、カチッて言っただけで、何もする用がない。
片付ける用がない。片付けるものがない。聞こえたんだけど。


すごいことだと思いませんか。
音が聞こえたのにも関わらず、どこにも、跡形もない。

音がしてない時に聞こえたら厄介ですよ。

有り難いでしょう、音がした時だけ、聞こえる。

どうもしないのに、どこ行ったか分からない。


でも不安でも何でもない。
気が狂うようなこともない、聞こえなくなったからって。
ちゃんと聞こえたからそれで大丈夫。


―井上貫道老師 12/21/2017大阪坐禅会の提唱DVDから
DVD制作をされている参禅者による文字起こしになります


関連記事の坐禅中の想念について を読む


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本当の坐禅とは―坐禅の仕方と方法手段なき坐禅


下のURLに参禅者の一人のある会社員の方の修行体験記が書かれています。


毎日通勤している或るIT系サラリーマン参禅者の11ヶ月間坐禅修行記

 https://tinyurl.com/zazentaikenstories ※     

※には、この記事11/10 坐禅と眠気とかこの記事11/11 あきらめて坐るとか書いてあります。
 ・坐禅と眠気
 ・毎日勤めに出ている人は何時頃坐ればいいか
 ・電車の中での坐禅
 ・坐禅中にしてはいけないこと集
 ・坐禅の仕方が分かった後の長時間坐禅のすすめ 11/9
 ・転機の体験と「ハッキリ」する
 などなど

(画像は記事とは関係ありません)

この体験記一番古い投稿はこちらの記事11/06です。zazenposture

peg
最後の投稿は
こちらの記事11/13
こちらの記事11/14です。


⇒ アルバイト青年が、自宅で1日10時間の坐禅ができるようになった訳(平成の話)  を読む









井上貫道老師関連摂心情報

ネットで公表がない今後の摂心(せっしん)・連続坐禅会のお知らせがあります。

昨年2017年もネットでは発表されない攝心が2回ありました。
人数限定の摂心であるため、ネットに発表すると申込が殺到して、受付事務が混雑し、日常の業務・寺務に影響が出るからです(摂心の主催をされるということは、それ以外でも主催者に相当な負担がかかります)

摂心には、初心とかベテランとかは何の関係もなく参禅ができます。
修行には、「初めて」とか「何年もしている」とかは無関係だからです。


上記のIT系サラリーマンは、摂心において修行を飛躍的に進められました

摂心情報の希望者は、以下からご登録下さい。

  摂心・集中坐禅会情報に登録する
         本名不要です 登録後、いつでも自力で配信停止することができます ここに登録しても攝心に参加する義務は発生しません

上記がクリックできない方は、
    https://tinyurl.com/inoueroshisesshin
から登録が可能です 同じものです ハンドルネームでの登録可です

登録された方にはすぐに詳しい摂心情報・集中坐禅会情報をお送りします。
登録された方には、それ以後も臨時の摂心情報・集中坐禅会情報をお送りします。

ここに登録しても攝心に参加する義務は発生しませんのでご安心下さい



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瞑想中・座禅中に眠くなる原因ー僧侶やベテラン一般人はなぜ坐禅中に眠るのか

坐禅中・瞑想中に眠くならない方法

現代の日本に夜中も眠らず坐禅できる人たちがいる

座禅・瞑想中の眠気の原因【続き】―室温や服装に注意


座禅や瞑想・スポーツでの眠気対策に仮眠が良い
もご覧ください。





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坐禅の組み方 http://zazen.blog.jp/archives/1029047318.html   ※
に図を挿入しました

hokkaijoin 








法界定印(ほっかいじょういん) 



坐禅の組み方 つまり坐禅の時にどのように身体を整えるかについては、上記※にありますが、

坐禅する間、どのようにして過ごすのか、坐禅の仕方については、

メニューの「座禅の仕方・坐禅の方法」をクリックすると、すべての記事が読めます。



坐禅は、道元禅師の普勧坐禅儀による只管打坐をすべきであると井上貫道老師は常々言われています。

数息観、公案工夫(公案禅)を用いません。

 
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「坐禅が進んで、内も外もなくなった人がいます

こうなると人生観が変わりますよ」

[ これが悟りだと言われているのではありません 念のため ]
ー(2014年夏の緑陰接心の提唱:接心3日目)井上貫道老師
 
内も外もない=内外打成一片 ないげ・だじょう・いっぺん

(このブログは実践を前提に書かれています

更新がなくても、
今までの過去記事を
一番上のメニュー(スマホの場合はカテゴリー)から、
じっくりと学んでいただければ幸いです)




● 一般には、この身を境界として、自分と自分以外に分けて考えていますね。
 
いわゆる自分も、自分以外の世界も、自己と言います。






niwa
● この身だけが自分の様子ではありませんよ。

何から何まですべてが自分の様子です。









● 本当は目、耳と区切ることはできないんです。

これら全部が自分の様子、全体です。






● 大抵の人は、自分に入ってきたものを、あとから眺めているんです。

だから満足できないんです。




● 「音、音、音」じゃないですよ。「ザワザワザワザワ・・・」、これだけですよ。

「ザワザワザワザワ・・・」、これこそが本当の受け身というんでしょうね。




● 坐禅をどうしたらよいか知らないもんだから、
坐禅して少し心が静まってくると、すぐに居眠り坐禅してしまうんだね。

長年参禅している人は、たいてい寝ていますね。
10年、20年坐禅している人は皆そう。

寝ることは坐禅とは言いません。




● 専門家に坐禅を指導すると、

「今日は、よく坐れました(=よく坐禅出来ました)」

とか

「今日はあっという間に坐禅が済んだ」

とか感想を述べますけど、そんな程度なんだね、専門家でも。


そういうのは坐禅とは言いません
[ 専門家に対する批判ではなくて、坐禅会のわたしたちも、そうじゃないですか? と言われているのです ]





● 道元禅師の『普勧坐禅儀』に則って坐禅することが不可欠なんです。
   普勧坐禅儀 ふかんざぜんぎ

 http://zazen.blog.jp/archives/cat_958258.html
にて学んで下さい




Q.
普段から修行や正しい行いを続けて行こうと思うのですが、なかなか忙しくて難しいです。
継続していくのが大変だなと思います。

A.
考え方として申し上げるならば、こうやれば楽になるんじゃないですか -- 
 
つまり、これからずーっとそういうことが出来るかと考える必要がない。
 
今、きちっと出来さえすれば。ただそれだけなんですね。


人間て不思議ですね。
 
こういう状況がずーっと続かないといけないって思っている。
 
でも実際は、今のこの状況が続くなんてことではなく、
いつも今のこれがきちっとできるかということだけです。
 
今日一日出来るかしら、なんて、そんな長いことは考えない。
 

今やってることがちゃんとそこで出来ればそれでいい。


こういう話をすると、「今、今、今って、そんなことだけやってるのは、たまらん」という人がいる。 

考え方だとそうなっちゃう。

「これ飲んだらこれだけ」「これ食べたらこれだけ」なんて、
それは考え方。


普通、
これ飲んだら、自ずからこれを飲んでいる時だけの様子になるし、
食べたら食べた時だけの様子に、必ずなっているんです。

心配ない。






Q.
坐禅をすると、わーっといろんなことが出てくるんです。

A.
実際には普段から出ているんです。

でも普段はいろんなことで気が紛れているから、出ていることに気がつかないだけです。


坐禅をしていると他のことが収まるから、
いろんなことが出ていることに気づくだけです。


その出ていることを抑えようとするのは、かえって心を騒がしていることになるでしょ。

だって、出てきてしまったものをあとから無くそう無くそうとしているわけだから。


出てきてしまったものはどうしようもないのに。
 


そうではなく、
出たものを出たままに、何も手を付けずにいれば、
全然心を煩わさないよね。

これが本当の「心静か」ってことです。





● 仏道修行は、
今ここ で修行します。

「今」というと、「この瞬間だ」と言って、
「イマッ!」と切り出そうとしますが、
今はそんな風になっていませんね。





● 本当に「今の様子」それだけを見ている時は、それだけだっていうことも分からないはずです。
 
だって、「これが今の様子か」なんて余分なことが出てくる余地がないんだから。





● 修行は「思い」ではないんです。

「こうやればいいんだ」って方程式を立てておいて、それに沿ってやることではないです。




● 参禅は、「今の自分自身の様子」に参じることです。

そのために見聞覚知の六根を開放するのです。




● 五官にまかせる とか 六根を開放するって、
見えること、聞こえることを 観察するんじゃないですよ。
観察する自分などいないのですから。

「見ている」「聞いている」って風じゃないです。

だれかが言いましたね。
「主なくて見聞覚知する人を、いき仏とは是をいふなり」

 [至道無難禅師しどうぶなんぜんじ:白隠禅師の師の正受老人の師]





● 坐禅を◯◯の方法で10年やって来ましたという人がいたら、
10年やってどうなったのですか?
と尋ねてみてください。





●概念だけを取り上げているんです、実物じゃなく。

それが人間の世界です。


実物があるにも関わらず、実物の話をしないんです。


仏道ってのは実物です、
扱うのは。


実物は私には必要ない、って人はいないですね。



宗派に関係ない。
宗教に関係ない。

こういうものが仏道なんです。


  この記事のタイトル中:内外打成一片 ないげだいじょういっぺん と読みます
 
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坐禅 只管打坐はシンプルー座禅中に目を開くことの意義


禅 座禅後の指導 目を開けること ~2012年9月井上貫道老師・東京都青梅禅会より③ 
今回の③は約17分です。


椅子座禅30分終わって、そのあとの井上貫道老師のお話です。


  
やってる事はそんなに難しい事は何もないと思うんですよね。
 
 
だけどー、先ず第一に眠いねー。
 
ほとんどの人が目を瞑(つぶ)っちゃうんですよね。
 
あのう、時々回ってみましたけども、触るとふっと目を開けるところを見ると、
目を瞑ってるって事でしょう。
 

こんな事がなかなか目を開けたままじっとしていられないんですよね。
耳はですね、耳はご承知のようにこのままで開きっ放しですから
耳はふさがるって事はほとんどないんですよね。
目は自分の力で開けないと瞑ってしまう。

目は塞がったらものが見えなくなる。

まず皆さんに勉強して欲しい事ですね。

目を塞いだら見えなくなる。


ところがこうひとりずつたぶんあたって聞いてみると、
目を閉じてもいろんなものが見えるんです。
 
そういうたぶん答えになるのですね。
 
それは厳密に言って絶対見えているんじゃない。
 
普通見えるというのはですね、自分の外側にあるものを見れるのを見るっていうんですね、
自分の中にあるものを指して見るとはあまり言いません。
 
同じ見るのでもそれは心の中を見るとかっていう風になればそういう事があるけど、
眼(まなこ)がものを見る時にはそういう事はありませんね。


だから目を閉じたら見えなくなるから楽になるのでしょう。
 
布団に入って目を閉じてもですね、いろんなものが走馬灯のように
浮かぶって人もいるでしょう。
 
寝られないよ。気になって。
 
だけど、本来は目を閉じると見えなくなるから寝れるんです。
 
それが証拠に自分の目の前にあるものを目を閉じて見える人いますか?
 
目の前にいろんなものがある、
目を閉じたら見えなくなるでしょう。


目を開けてください。
開けるとちゃんとわかるようになっているでしょう。


じゃあ日常生活もこのように目を開けていさえすれば
目の前の物事ははっきり見えるはずなんです。
それが己を見極めるって事ですよね。
 
にも関わらず、皆さん、目を開けてものを見た時に、
よくわからんっていう人たくさんいるんですよね。
わからないって人


パッと見ただけで見違える事はないでしょう。
 
全部違うんだもの。
その通り見える、
そういう風に見えているのにも関わらず、わからないって事をいう人が多いのです。
 
それで修行をして頂く時、本当に勉強して頂く時は、わからない事を相手にしないんですね、
わからない事の方を探らない、

わからないことは放っておく


皆さん、わからない方を知りたいわけでしょ。わからないと。
わからない方をわかるようになりたいと。
そうじゃなくて、


はっきりしている事、こっちを大切に扱うんです。


研究するんだって、わからない事を研究するんでしょうけど
研究は必ずはっきりしている事を相手にします。
 
なんだかわからない事なんて研究できないんですよ。
 
はっきりしている事、研究しているとはっきりしてる事があるんです。
 
はっきりしてる事があるけども、それがなんだかわからないんです。
 
ね、そういう事あるでしょう。
 
理論的にはわからない、
だけども、こういう風にすればこうなるって事だけははっきりしているから、
それをとりあげる。
 
わからない事はとりあげません。

 

だからこうやって目を開けていると、ちゃんと見えているでしょう。

見えている、はっきりしている事だけを修行で取り上げる、

どういうふうにやってるかだけです。


今、静かな場所、一定の所でこう、過ごしていたから、
変化が少ないので眠ってしまうのかもしれないけど、
さっき川の土手を歩いたりいろんな事をしてきましたけども、
あれ、全部目を開けてたぶん見てきた事です。
 
それ以外にはやって来なかったんだね。
あれが、皆さんのさっきまでの人生です。



で、あわせてですよ、今日この教えの話をするわけですが、
仏教っていう風な言われ方をしているんだけども
どれくらい正確に仏教というものが世の中に伝えられているかの中でですね、
仏教っていうのは、己以外、自分以外をどうこうすることではありません、
 
仏教っていうのは、本当に自分自身を見きわめる事に尽きるんです。
 
ところが一般的には仏教はですね、こうやって生活していると自分の中で
どこかこう満ち足りないものを感じるからそれで昔のりっぱな人たちが
そうやって一生過ごすから、この事を勉強しないとだめなんです。

他の人なんか用はないんですよ。

他の人の事なんか。
 
間違えないで下さいよ。
 
他の人に用はないっていうのは、こうやって見ている事が自分の事だからですよ。
 
ここにいる方お互い見ている事自体が、自分の事だから。自分が今やっている事だから。
 
自分がやっている事がわかりずらい人は、自分の目で見ているって表現したらよくわかるでしょう。
 
自分の目で見てる事が、見えてるって事です。


それ、他人(ひと)の事じゃあないですね。


これなんかもよく理解できてないかもしれない。
自分を見極めてませんから、どうしても他人(ひと)の事を私が見ているんだって、
そういうふうに見ている。


じゃあもうちょっと突っ込んでお話するとですね、
あの人はなんであんな歩き方をするんだろうって、
誰がやるんですか。
私がこんな格好して歩いたりしているとさ、(老師がすごく変に腰を曲げて歩く)、
どうしちゃったんだろうって。これは皆さんがやるんでしょう。
私はただこうやってるだけです。(老師がすごく変に腰を曲げて歩く)


そういうふうに皆さんが勝手に見方をつけるんです。自分の見方を。
見解を。
 
それで、そういう見方をどこでじゃあ起こすかったら、必ず、今なんです。
これがどっかで起こすんではなくて、
必ず見た時にふっと起こすんです。
その時に起こすんです。
 
これらをよくわかってないですね。
 


悩み、苦しみっていうのは、必ず今起こすだけなんですよ。
 
気にいらないとかっていう思いが起きるんだってどこで起きるかって、
物に触れたりした時にふっとその時に起きた時が気にいらないというふうに
なっているだけであってその他にはないですよ。
 

思いっていうのはねー、夏に使う氷みたいなもんだね。
どういう事かっていうと、氷が解けちゃうと、何処にもない。
 
さっきまであんなにちゃんとした形があったのに、
あの人、気にいらない人だなという思いが出たとすると
ちゃんと氷のようにきちっとその思いがここにあるんだけども、
それが時間が経つとですね、溶けて何処にもない。
 
だけど、溶けた後にここら辺に少し乾くまでしみが残る。
 
それがですね、さっきまであーいうふうに思えたというか事です。
 
さっきまであーいうふうに思えたって事なんですね、しみが。

 
本当は思いってそういうふうにどこにも影も形もないように働くようにできているんですね。
だけども、あの人憎らしいって思うと、みんなそれで、自分の中がおかしくなるのですよ。
 
他の人が思うんじゃあないんですよ。
 
ひとりひとり自分の中で思って、自分の中でおかしくなるだけなんですよ。

 
そういう事が自分を見極めるって事なんです。
 
どういうふうに問題が起きてるか、
どこに問題があるのか、
だって目で見て御覧なさい。

こうやって物を見た時に、
気にいるとか、いらんとかって一切ないでしょ?
 
どうですか?皆さん、自分の目の前の様子見て。
 
その通りにただ見えるだけっていうのが間違いなく基本でしょ。
 
どこ見てもいいですよ。その通りにただ見えるだけなんでしょ。
 
これ、勉強して欲しいんですね。
そんな事ないっていう人たくさんいます。


(老師がマジック二つをかざして)
こうやってどっちが大きいって見えますか?って聞くとですね、
見事に皆さん引っかかるね。
 
どちらが大きいっていうふうに見えますか?って言ったら、
はい、こっちだよって大きいって言うんですね。
 

それは、分別っていうものが動くからです。
(老師がまたマジック二つをかざして)

目はこういうふうに出されてもですね、大きいとも小さいとも比べないんですよ。

その通りにとる。
 
そしてその通りに見て自分でどうもしないのにちゃんとわかる、
置いてある場所の違いもよくわかる、
絶対ごちゃごちゃにならない。
 

どっちが綺麗ですか?って出すと困る、
なんで困るかって、これを出されてみてですね、
どっちが綺麗ですか?って、目は困った事ないでしょ?
このまま見てなんにも困らない。
皆さん、困りますか?



(老師が頭を指して)
困るとしたらここです。
あなたがたの考え方がどういうふうに答えを出したらいいかって
働き出すとわからないって答えになるんです。
 
はっきりしないとか、難しいとか、
 
実際はものすごく明確です。
 
 
そういう事が私達の本来のあり方です。
 
これが自分ではっきりすれば生活の中で、ぐずぐずするような事はありません。
 
要は物ははっきりしているはずなのに、はっきりしている事がどうなってるかを
自分で確かめてみた事がないから自分の素晴らしさがわからない。
 
そういう人が多いから、古くは釈迦のような人がこういう自分を見きわめるって事を
きちっとした代表者です。
 
そういう人がいて、自分を見きわめた話をされて、そして見きわめた人を
そこに生前いる間、取り巻きで触れた人が一緒に生活をして、その言動に触れて
ご自分のそういう事を体験されてなるほど、釈迦のやっている事、
言ってる事は間違いない、確かさがあるって事を各自自分で気づいているんですね。

そういう事によって教えが伝わってきたんです。
 
まあ、それで話は終わりなんですねー。
 
皆さん方はだから勉強もっと違う事しているんじゃあないですか?
 

もしあれだったら、質問たくさん出して下さい。そしたらそれによって深めていけると思います。



この文章は、保護犬マロンと小山っ子いぶきの気ままな日記 〜お茶も~禅も~ のうちの井上貫道老師の坐禅会のテープ起こし部分から引用させてもらっています  貫道老師青梅坐禅会の部分がなかなか探しにくいので、管理人さんに許可を得てここにまとめています



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