坐禅の仕方と悟り,見性,身心脱落:井上貫道老師の庵 まとめサイト

Dharma Talks of a perfectly enlightened Japanese Zen Master Roshi Kando Inoue 井上貫道老師が、悟りを体現された経験から坐禅の方法や仏道について語られたものを掲載しています web上に散見される魯山貫道老師のことばも引用掲載し、まとめブログとしました ( これは参禅者によるブログであり、公式サイトではありません ) このブログが正師への参禅のきっかけになりますように

座禅のやり方

坐禅がうまく行かない本当の理由ー魯山貫道老師著書から

2104-05schedule
 井上貫道老師の健康寺子屋(四谷・笹寺)の坐禅会は4月中止です

韓国でワクチン接種後に2人死亡
 日本でワクチン接種の60代女性死亡=新型コロナ、因果関係は不明―厚労省
 日本赤十字が、ワクチン接種者は献血を禁止することを発表
(日本赤十字社のサイトに「新型コロナウイルスのワクチンを接種された方は、当面の間、献血をご遠慮いただいています」と書いてあります つまり安全ではないということです)


これが理由―①わざわざ回り道をしている ②坐禅中の思い・考えを相手にしている

①わざわざ回り道をしている

老師は、ここでは説明をされていませんが、
「自分には悟る資格がまだないので、善行に励もう、徳を積もう」
「慈悲深い人・優しいでないと悟れない」
などと考えて、自分で結果を先延ばしをするとかがあります
哲玄老師や貫道老師は、悟る前は、お二人ともどちらかと言えば、短気な怒りっぽい性格だったと本人たちが言われています

悟りを開いた方々が、異口同音に「誰でも悟れますよ」と言われるのに、「とてもとても自分のようなものには、悟りなんて無理です」と言って、それを信じられないのは、仏道的に言うと、謙遜に見えて、実は高慢、増上慢の変形と言われます。 つまり、卑下するのも高慢の一種で卑下慢と呼ばれています そもそも、存在しない「自分」という固定的なものを勝手に立てているからです

「戒律を厳守しないと悟れない」と、勝手に信じ込むのもわざわざ回り道をしている例です
もしくは、それを逃げ口上に使って、「戒律が戒律が」と言って、少しも本当の仏道に励もうとしないのです


回り道のもう一つには、

「只管打坐は難しいので、まずは、数息観などから始めよう」
などと自分勝手に修行に段階を設けて、結局、数息観もはかどらずに、長年が経過してしまい(年もとり)、やがて、修行の真剣さが失われてしまう
などがあると思います 


「ヨガをやって、身体を浄化して、悟りやすい身体にしてから修行に励もう」
「悟るためには、クンダリニーを目覚めさせないといけない」
等というのも、回り道と言いますか、体の良い「逃げ道」ですね
(ヨガしか知らない人はしようがないですが、正法に出会った人が、わざわざ今からそういうところに時間をかけるのは、逃げているのだと思います 老師の話をちゃんと聞いていないのかもしれません)

 [ 以上の部分の文責は管理人にあります ]
 
 「スリランカ仏教の言う悟りの4段階は間違いである」という記事を読む

②坐禅中の雑念・思い考えを相手にしている

修行してもなかなか悟りにたどり着けない理由②―坐禅中の雑念の処理を知らないから
坐禅中の雑念・思い考えの対処方法
[註] 老師は、雑念という用語を一切使われませんが、ここでは、参禅されていない方を対象に、わざと「雑念」という文字をタイトルに使用しています。

ちなみに、道元禅師の『普勧坐禅儀』にある雑念つまり、思い・考えは、大きさで3つに分類されていて、
それは、念・想・観の3種です。
普勧坐禅儀の本文には、「念・想・観の測量(しきりょう)を止(や)めて、作仏と図ること莫かれ」とあります。



『真実とは悟りとは修行とは禅とは』のamazonに載せられた抜粋↓

井上貫道老師:
「では坐っているときにどうやって過ごすか。

坐る時のあり方として、

問題になるのは思量分別、色々なことが思えるというか、出てくるというか、

あるいはこちらから(意図的に)考えるということがあります。

…坐禅中はそういうものを、とにかく相手にしない。

出てくる思いに対して、自分の見解で識別しない。

いわゆる善し悪しを図らない。

これは良いこと、これは悪いこと、これは正しい、これは間違っているというようなことをやらない、

ということです。 

もう少し具体的に話をすれば、坐っていて色々なことが出てきたときに、4b0fc9cb5ac42a45611d7347609a1d88_s
人間と言うものは、気に掛かることが結構あるものです。

ですから通常は、その気になっていることを解決しようと思って、
自分の頭の中で色々なことを始めます。

これをとにかくやらないことですね。
だからどのようなことが出てきても、
思い出したものや考えたことで気にかかることがあっても、
それを相手にどうこうする、手を付けて過ごすということをしない。

また、その出てくるものに対して出ないようにするようなことも一切しません。

こちらから造作をして、作り変えるようなことは一切しないで坐るのですね。

それが坐禅をする時の工夫と言われる修行のあり方です。」

―以上は、アマゾンの下記著書からの引用


「言うとおりやってみようか・・・」なんて遠慮がちにやるからスカッと行かないんだね、半分ぐらいの人は。―井上貫道老師




【著書第二弾】 
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関連記事の坐禅中の想念について を読む


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ちょっと待ってください。このままブログを閉じずに、↓↓
スリランカ仏教の言う悟りの4段階は間違いである

瞑想中・座禅中に眠くなる原因ー僧侶やベテラン一般人はなぜ坐禅中に眠るのか

坐禅中・瞑想中に眠くならない方法

現代の日本に夜中も眠らず坐禅できる人たちがいる

座禅・瞑想中の眠気の原因【続き】―室温や服装に注意


座禅や瞑想・スポーツでの眠気対策に仮眠が良い
もご覧ください。


閑話休題 








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座禅の重要点


◯ 坐禅は五感を開放する  気に入ろうと気に食わなかろうと聞こえる 見ようと思わないのに見える

◯ 思いは取り上げない(相手にしない 考えない 思いが自然に起こるのは構わない)

◯ 空になろうとしない、悟ろうと思わない


坐禅は、五感に任せきること

▷静かにして六感に任せてごらんなさい。
心の方は災いし易いからこれを別として、後の五感そのものヽ働きをみて御覧なさい。

五感全体は環境と共にいやおう無しに、如何しても環境の動く通りに、知らぬうちに、一緒になって動くように出来ている。

初めから人を離れておるんです。

本当に自分自身の真相は、今その様にうまく出来上っておる。
―井上義衍『牛頭法融禅師心銘』p.41


空になろうとするのは違う

▷空にならにゃならんと思うて、心経などに空、空とあるもんじゃから、本当に空でなきゃあならんと思うて、なることを一生懸命工大しようとする。そういうことをする為にかえって出来ないのです。

じゃからなろうとすることを止めると、本当に空そのものに根本的に徹するという事が有り得るのです。
―井上義衍『牛頭法融禅師心銘』p.67



自分の好き嫌いなく聞こえるし、見える、それが真相

▷皆さん、一切を手放して素裸になって、自分の全体を正直に放り出して六感に任せ切ってごらんなさい。
「森羅一相」とあるでしょう。日常の生活がその通り内外なき一合相です。


耳で云えば、声が聞こえるのに、気に入った声、気に入らぬ声、そんな事に関係ないのです。

矢張り「森羅一相」です。

人間的には気に入る、いらんと云うけれど、耳そのものは一相です。ちゃんとしているのです。

初めから人と物との関係は何時でも何処でも矛盾せん様に出来ているのです。

―『牛頭法融禅師心銘』p.44





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座禅の組み方・坐禅の方法・坐禅の仕方ー悟りの体現者・井上貫道老師



坐禅中は、かならず目を開けます

道元禅師は、「目は常にすべからく開くべし」

「常に」 と 「すべからく」ですから、
「坐禅中は目を開けなさい亅とかなり強く言われているわけです―井上貫道老師


(正しくは坐禅であって、座禅ではありません 坐は動詞、座は名詞です)
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『普勧坐禅義提唱』ふかんざぜんぎていしょう に基づいて


まずは身体の整えかたから。by 少林寺・井上貫道(いのうえかんどう)老師


[ 禅堂には、時計やスマホはもちろん自分の荷物は持って入れません。
また坐禅をする禅堂とトイレでは会話をしてはいけません

禅堂と東司(とうす=トイレ)と浴司(よくす=風呂場)とは三黙道場と言って、会話をしてはならない場所です

dabb8682ba0bf83bab636ca47ddeaf77_s禅堂に入る前に、夏冬かかわらず、靴下は脱いでおきます



禅堂に入ったら、一歩進んだところで一礼してから叉手(しゃしゅ)で、坐禅の場所である「単(たん)」までゆっくりと進みます  この時、聖僧(しょうそう)様と堂頭老師(どうちょうろうし、壁に向かわずこちらを向いて坐禅されている)の前は横切ってはいけません]





●「袈裟けさを掛かくべし」と書かれてありますが、ビジネスで喩(たと)えれば背広を着てネクタイを締めるってことです。正装ということです。だらだら坐らないこと。それが心に影響するからです。在家得度(とくど)されている方なら絡子(らくす)を掛けます。

お坊さんが袈裟をつけて坐禅をするということは最高の服装で坐禅をしているということです。
在家の人も、たとえばデートをするという時には最高の服装をなさるでしょう。
ですから、坐禅をする時は、身体も清めて、清潔な服装をする必要があります。


[投稿者:ここでは触れておられませんが、一般の人がお寺や道場で他の人と坐禅する時は、黒や紺などの地味な、目に障りにくい色が良いとされています 黄色や赤、しま模様は目にチカチカすることがあり、おすすめではありません]



●坐蒲(ざふ、ざぶ)
zensuwarikatahairichibu_FotoSketcher坐蒲は前半分を使います。真上からどっかと座るのではありません。 尾てい骨が坐蒲の中心に来るぐらいに坐ります。












●結跏趺坐と半跏趺坐(けっかふざ、はんかふざ) 

冬でも靴下・ストッキングは脱いでおきます

hokkaijoin_FotoSketcherpencil5どちらも正式な形です。半跏趺坐が略式だと思われがちですが、そうではありません。どちらも正式です。

両ひざと尾てい骨、頭で三角錐になります。120°ぐらいの一番安定する角度で足を組みます。


結跏趺坐で両方の足を組めばそういう形になりますが、半跏趺坐だと片方の膝が浮く場合もあります。
身体が硬いとそうなります。膝が上がりすぎるようなら何かそこにかませれば安定するでしょう。

あぐらは坐禅にはなりません。第一長時間組めないですよ、あぐらでは。
何千年の歴史を経て、結跏趺坐とか半跏趺坐が坐禅に最適だと立証されて来ているんです。


[怪我などで]足が組めない人は他の形でもかまいません。西洋の人などは椅子でやっているような場合もあります。
足が無い人だって、それなりの形で坐ってもらえればけっこうです。

足は腿の上まで上げて、足の裏が見えるようにします。ふくらはぎの上ですませている人がいますが、腿(もも)の上まで上げます。

外国から来た人は、真剣だから、脚が痛くても結跏趺坐や半跏趺坐を組んでいますよ
[あぐらで済ませてはいけません 膝を傷めてしまいます 一番膝に良いのは結跏趺坐です]



●服
ぴったりしたズボン等は体を締め付けますから、なるべく避けます。逆に和服の場合はゆったりしますが、衣服が広がり過ぎて隣の人に迷惑をかけないようにまとめてください。
[在家修行者の正式な服装は、和服に袴(はかま)ですが、貫道老師の坐禅会ではほとんどいません]


●法界定印(ほっかいじょういん)

lotusposition_FotoSketcher2よく、指の組み方がいかにも坐禅の本質にせまるようなことを言われていたりしますが、そんなことは全くありません。

指の組み方が気になっているような状況ではまともに坐禅ができません。

自然に手を組めば自然に落ち着く場所があるでしょう。


法界定印がちゃんとたまご型になっているか、一度そのまま手を目の高さに持って来て、確認して下さい。


組んだ手は体に沿って静かに下ろした位置に置きます。あまり身体から離して前の方に置くと、筋肉が緊張しがちです。

結跏趺坐宙ぶらりん時々、腕が宙吊りになっている人がいますが、それは肩に力が入っているからです。

肩から力を抜いて、法界定印を組んだ脚の上においてください。

それでも、まだ腕が宙吊りになる人がいますが、それは腕が短いからです。
その場合は、組んだ脚の上にタオルなどを置いてその上に法界定印を載せるようにすると安定します。



●口
tongueinzazen普通に口を閉じてください。そうすると舌が上あごに付きます。少し舌には力が入っていますかね。
力が完全に抜けていると上あごに付かないですね。

気力がなくなっているかどうかというときに大事なことです。また、気の抜けたように口を開かないこと。







●目
坐禅中は開けています。

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目を閉じていると、目の前のことが見えなくなり、代わりにいろんなことがいっぱい想起されてきます。真実を見極めようとしているのに、想像の世界で見極めようとすると、あやまちが多くなります。




目を開いていると、必然的に頭の中に思い起こされることが休まるようにできています。「妄想」というものが起こりにくくなります。また眠気も起りにくいです。

そして前方45度、1mぐらいの所に視線を落とすと、自然に半眼になります。


「目を開けると言っても、一点を見つめるのではないですよ。
どこかに焦点を合わせるのではありません。」




●法界定印が崩(くず)れていないか、舌が上あごについているか、目が開いているかの3点セットが、気が抜けていないかのポイントになります。

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【閑話休題】
自然な坐禅をしたら、3日間ぶっ続けで坐禅できた人の体験談はこちら




●欠気(かんき)
形が整ったら、口をわずかに開いて、息を全部吐(は)き切ります。吐き切ることが大事です。吐き切れば自然に空気が入ってきます。これを2~3度やると、形を崩さずに身体の緊張が取れ、坐りやすくなります。

坐禅中は、あとは呼吸は意識しません。
息を整えたり、数息観も不要です。

呼吸を意識しないのが、呼吸が整っているということです。




●左右揺身(さゆうようしん)
sayuyoshintoright_FotoSketcher両手を両ひざの上に仰向けて起き、身体を左右に、最初は大きく、徐々に小さく揺らしていき、身体を緩めます。最後に真ん中で静かに坐ります。

このとき大事なのは、肛門の括約筋をきちっと締めることです。足を開くと肛門も開くため、そのまま坐ると痔になりやすいですから、きちっと締めます。「痔じ」って、やまいだれに「寺」ですね。お坊さんが痔になりやすかったってことでしょう。




坐禅を解く時は、両手を両ひざの上に仰向けて起き、身体を左右に、
今度は、最初は小さく、徐々に大きく揺らしていき、身体を緩めます。

sayuyoshintoleft_FotoSketcherこういった左右揺身も、本当の修行者はないがしろにはしません。ちょうど、一流のプロ選手が基本を大事にするのと同じです。ベテランになったからと言って、やらなくて良いというものじゃありません。










●兀兀(ゴツゴツ)と坐る
山がドシンと坐ってるように、どっしりと坐ります。







舌を上顎つまり硬口蓋につけるようにすると、呼吸も口呼吸ではなくて、鼻呼吸となります。 
免疫力も向上するという臨床例が上がっているようです   <--ここまで管理人
>







 座禅作法を教える曹洞宗の図解入りホームページ


以上が、座禅の組み方(外見)の基本ですが、
大切なのは、どのように坐禅中を過ごしているか、その内容です
道元禅師によれば、内容によって、

「毫氂も差あれば、天地懸かに隔たる」 (普勧坐禅儀)
髪の毛一本も差があると、天と地とくらいに隔たりが出てくる

と言われています。


貫道老師
「(坐禅中、どのように時間を過ごしているかに話題を戻される。)

ものすごく嫌がる話題ですね、これね。(笑) 
参禅会に来てて、一番、たぶん、触れられたくないところ、誰も。


だから、坐禅があんまり本当に効果が上がらないのは、それが一番、元かと思うな。


分かったような顔して坐ってるだけ。

それらしい格好して坐ってるだけ。


本当はそこらへんが十分に理解が行かないまま坐ってる。
それ、長くやって苦労した人、話してごらん、聞いてごらん、きっとそうだよ。(笑) 


そこが分からなくて時間がかかるんだよ。


で、そういう話題を提供してくれないもん、なかなか。坐禅をするったって。


だからそういう意味では、井上義衍老師の流れを汲んでる人たちのところは、
まことにありがたいと思いますよ。

得難いですよ。

うん。



【閑話休題】
自然な坐禅をしたら、3日間ぶっ続けで坐禅できた人の体験談はこちら




坐禅の内容、坐禅中にどうしたら良いのかについては、下記をご覧ください。気に入ったタイトルだけ読まずにすべてお読み下さい。

次は、「坐禅の仕方・方法 の注意点」です。

または、
上の方にあるメニューの「座禅の仕方・坐禅の方法」をクリックすると、すべての記事が古い記事から順に読めます。

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関連記事の坐禅中の想念について を読む


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悟りの体現者・井上貫道老師(曹洞宗)の語録

「道本円通。。。然れども毫釐(ごうり)も差あれば、天地懸(はるか)に隔(へだた)り」ー普勧坐禅儀 (道元禅師)
(道はあらゆる方向に広がり、融通無碍である しかし、髪の毛一本の違いで、天と地との差が出る)



だから考え方を止めると、素通しでものがどうなっているかっていうのが初めて見ることができる。

そうするとその違いが自分でよくわかる。

驚くはずです、見たことのない世界。

同じように生活してるんですよ、ほとんど。

もうひとつの生活なんかしないからね、同じように生活をしてるんだけど、考え方を付けるか付けないかで、全く違う。

― 井上貫道老師


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[ 管理人 ]
人身(にんしん)受け難(うけがた)し、今すでに受く
[自覚した人の] 佛法聞き難し、今すでに聞く

このブログは独学のためにあらず
たった一度の命ある間に、正(しょう)師家(しけ)に参ぜられんことを








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坐禅は形を作っても坐禅にはならない 中身がないと

zensuwarikatahair_FotoSketcher座らないと分からないじゃなくて、坐るってことはこういうことやってるんです。 要するに考え方でない世界なんです。 考え方で過ごしている時間じゃないんです。 坐るっていうことは。



「形だけの座禅」

外から見た時に形だけを作って、あれで座ってると思ってるから。
そうじゃない、坐るってことの内容は本当にこうやって考え方でない今事実にこうやって生きてるってことが、座ってる時になかったら坐禅にはならない。

仰るように、坐るとあんなにいろんなことが次々出てきてっていうぐらい、本当に自分とまともに向き合ってないんだよ。ほとんど考え方を相手にして生きてるわけだから。

それは一応こうやって座って、あからさまに言わなきゃ外から見たら真面目に座ってるなって言うかもしれない。
中見たら、なあんだ こんな状況か  っていうぐらい坐禅でないような時間を過ごしてる。



「本当の坐禅」

これを本当に座ってほしいんです、だから。そういうことが、こうやって座ってるわけです。
こうやって座ってるわけ。
考え方でない。そういうことがあります。

充実感がないなんてことはないでしょう、だから。なんだろう、充実感がないと言わないんだったら、何かじゃあ、物足りないものがあるかって言ったら、そういう気が起きないでしょう。
そういうことでいいでしょう。

寒風の吹き荒ぶ中に立ってて、はあはあって、それだけでも楽しめるもんでしょう。
楽しめない人もいるかもしれないけど。
(笑)寒いなあ、やだなあって。
でも思うこととは違うんだよね、だから。

―井上貫道老師 12/21/2017大阪坐禅会の提唱DVDから
DVD制作をされている参禅者による文字起こしになります
 











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坐禅 只管打坐はシンプルー座禅中に目を開くことの意義


禅 座禅後の指導 目を開けること ~2012年9月井上貫道老師・東京都青梅禅会より③ 
今回の③は約17分です。


椅子座禅30分終わって、そのあとの井上貫道老師のお話です。


  
やってる事はそんなに難しい事は何もないと思うんですよね。
 
 
だけどー、先ず第一に眠いねー。
 
ほとんどの人が目を瞑(つぶ)っちゃうんですよね。
 
あのう、時々回ってみましたけども、触るとふっと目を開けるところを見ると、
目を瞑ってるって事でしょう。
 

こんな事がなかなか目を開けたままじっとしていられないんですよね。
耳はですね、耳はご承知のようにこのままで開きっ放しですから
耳はふさがるって事はほとんどないんですよね。
目は自分の力で開けないと瞑ってしまう。

目は塞がったらものが見えなくなる。

まず皆さんに勉強して欲しい事ですね。

目を塞いだら見えなくなる。


ところがこうひとりずつたぶんあたって聞いてみると、
目を閉じてもいろんなものが見えるんです。
 
そういうたぶん答えになるのですね。
 
それは厳密に言って絶対見えているんじゃない。
 
普通見えるというのはですね、自分の外側にあるものを見れるのを見るっていうんですね、
自分の中にあるものを指して見るとはあまり言いません。
 
同じ見るのでもそれは心の中を見るとかっていう風になればそういう事があるけど、
眼(まなこ)がものを見る時にはそういう事はありませんね。


だから目を閉じたら見えなくなるから楽になるのでしょう。
 
布団に入って目を閉じてもですね、いろんなものが走馬灯のように
浮かぶって人もいるでしょう。
 
寝られないよ。気になって。
 
だけど、本来は目を閉じると見えなくなるから寝れるんです。
 
それが証拠に自分の目の前にあるものを目を閉じて見える人いますか?
 
目の前にいろんなものがある、
目を閉じたら見えなくなるでしょう。


目を開けてください。
開けるとちゃんとわかるようになっているでしょう。


じゃあ日常生活もこのように目を開けていさえすれば
目の前の物事ははっきり見えるはずなんです。
それが己を見極めるって事ですよね。
 
にも関わらず、皆さん、目を開けてものを見た時に、
よくわからんっていう人たくさんいるんですよね。
わからないって人


パッと見ただけで見違える事はないでしょう。
 
全部違うんだもの。
その通り見える、
そういう風に見えているのにも関わらず、わからないって事をいう人が多いのです。
 
それで修行をして頂く時、本当に勉強して頂く時は、わからない事を相手にしないんですね、
わからない事の方を探らない、

わからないことは放っておく


皆さん、わからない方を知りたいわけでしょ。わからないと。
わからない方をわかるようになりたいと。
そうじゃなくて、


はっきりしている事、こっちを大切に扱うんです。


研究するんだって、わからない事を研究するんでしょうけど
研究は必ずはっきりしている事を相手にします。
 
なんだかわからない事なんて研究できないんですよ。
 
はっきりしている事、研究しているとはっきりしてる事があるんです。
 
はっきりしてる事があるけども、それがなんだかわからないんです。
 
ね、そういう事あるでしょう。
 
理論的にはわからない、
だけども、こういう風にすればこうなるって事だけははっきりしているから、
それをとりあげる。
 
わからない事はとりあげません。

 

だからこうやって目を開けていると、ちゃんと見えているでしょう。

見えている、はっきりしている事だけを修行で取り上げる、

どういうふうにやってるかだけです。


今、静かな場所、一定の所でこう、過ごしていたから、
変化が少ないので眠ってしまうのかもしれないけど、
さっき川の土手を歩いたりいろんな事をしてきましたけども、
あれ、全部目を開けてたぶん見てきた事です。
 
それ以外にはやって来なかったんだね。
あれが、皆さんのさっきまでの人生です。



で、あわせてですよ、今日この教えの話をするわけですが、
仏教っていう風な言われ方をしているんだけども
どれくらい正確に仏教というものが世の中に伝えられているかの中でですね、
仏教っていうのは、己以外、自分以外をどうこうすることではありません、
 
仏教っていうのは、本当に自分自身を見きわめる事に尽きるんです。
 
ところが一般的には仏教はですね、こうやって生活していると自分の中で
どこかこう満ち足りないものを感じるからそれで昔のりっぱな人たちが
そうやって一生過ごすから、この事を勉強しないとだめなんです。

他の人なんか用はないんですよ。

他の人の事なんか。
 
間違えないで下さいよ。
 
他の人に用はないっていうのは、こうやって見ている事が自分の事だからですよ。
 
ここにいる方お互い見ている事自体が、自分の事だから。自分が今やっている事だから。
 
自分がやっている事がわかりずらい人は、自分の目で見ているって表現したらよくわかるでしょう。
 
自分の目で見てる事が、見えてるって事です。


それ、他人(ひと)の事じゃあないですね。


これなんかもよく理解できてないかもしれない。
自分を見極めてませんから、どうしても他人(ひと)の事を私が見ているんだって、
そういうふうに見ている。


じゃあもうちょっと突っ込んでお話するとですね、
あの人はなんであんな歩き方をするんだろうって、
誰がやるんですか。
私がこんな格好して歩いたりしているとさ、(老師がすごく変に腰を曲げて歩く)、
どうしちゃったんだろうって。これは皆さんがやるんでしょう。
私はただこうやってるだけです。(老師がすごく変に腰を曲げて歩く)


そういうふうに皆さんが勝手に見方をつけるんです。自分の見方を。
見解を。
 
それで、そういう見方をどこでじゃあ起こすかったら、必ず、今なんです。
これがどっかで起こすんではなくて、
必ず見た時にふっと起こすんです。
その時に起こすんです。
 
これらをよくわかってないですね。
 


悩み、苦しみっていうのは、必ず今起こすだけなんですよ。
 
気にいらないとかっていう思いが起きるんだってどこで起きるかって、
物に触れたりした時にふっとその時に起きた時が気にいらないというふうに
なっているだけであってその他にはないですよ。
 

思いっていうのはねー、夏に使う氷みたいなもんだね。
どういう事かっていうと、氷が解けちゃうと、何処にもない。
 
さっきまであんなにちゃんとした形があったのに、
あの人、気にいらない人だなという思いが出たとすると
ちゃんと氷のようにきちっとその思いがここにあるんだけども、
それが時間が経つとですね、溶けて何処にもない。
 
だけど、溶けた後にここら辺に少し乾くまでしみが残る。
 
それがですね、さっきまであーいうふうに思えたというか事です。
 
さっきまであーいうふうに思えたって事なんですね、しみが。

 
本当は思いってそういうふうにどこにも影も形もないように働くようにできているんですね。
だけども、あの人憎らしいって思うと、みんなそれで、自分の中がおかしくなるのですよ。
 
他の人が思うんじゃあないんですよ。
 
ひとりひとり自分の中で思って、自分の中でおかしくなるだけなんですよ。

 
そういう事が自分を見極めるって事なんです。
 
どういうふうに問題が起きてるか、
どこに問題があるのか、
だって目で見て御覧なさい。

こうやって物を見た時に、
気にいるとか、いらんとかって一切ないでしょ?
 
どうですか?皆さん、自分の目の前の様子見て。
 
その通りにただ見えるだけっていうのが間違いなく基本でしょ。
 
どこ見てもいいですよ。その通りにただ見えるだけなんでしょ。
 
これ、勉強して欲しいんですね。
そんな事ないっていう人たくさんいます。


(老師がマジック二つをかざして)
こうやってどっちが大きいって見えますか?って聞くとですね、
見事に皆さん引っかかるね。
 
どちらが大きいっていうふうに見えますか?って言ったら、
はい、こっちだよって大きいって言うんですね。
 

それは、分別っていうものが動くからです。
(老師がまたマジック二つをかざして)

目はこういうふうに出されてもですね、大きいとも小さいとも比べないんですよ。

その通りにとる。
 
そしてその通りに見て自分でどうもしないのにちゃんとわかる、
置いてある場所の違いもよくわかる、
絶対ごちゃごちゃにならない。
 

どっちが綺麗ですか?って出すと困る、
なんで困るかって、これを出されてみてですね、
どっちが綺麗ですか?って、目は困った事ないでしょ?
このまま見てなんにも困らない。
皆さん、困りますか?



(老師が頭を指して)
困るとしたらここです。
あなたがたの考え方がどういうふうに答えを出したらいいかって
働き出すとわからないって答えになるんです。
 
はっきりしないとか、難しいとか、
 
実際はものすごく明確です。
 
 
そういう事が私達の本来のあり方です。
 
これが自分ではっきりすれば生活の中で、ぐずぐずするような事はありません。
 
要は物ははっきりしているはずなのに、はっきりしている事がどうなってるかを
自分で確かめてみた事がないから自分の素晴らしさがわからない。
 
そういう人が多いから、古くは釈迦のような人がこういう自分を見きわめるって事を
きちっとした代表者です。
 
そういう人がいて、自分を見きわめた話をされて、そして見きわめた人を
そこに生前いる間、取り巻きで触れた人が一緒に生活をして、その言動に触れて
ご自分のそういう事を体験されてなるほど、釈迦のやっている事、
言ってる事は間違いない、確かさがあるって事を各自自分で気づいているんですね。

そういう事によって教えが伝わってきたんです。
 
まあ、それで話は終わりなんですねー。
 
皆さん方はだから勉強もっと違う事しているんじゃあないですか?
 

もしあれだったら、質問たくさん出して下さい。そしたらそれによって深めていけると思います。



この文章は、保護犬マロンと小山っ子いぶきの気ままな日記 〜お茶も~禅も~ のうちの井上貫道老師の坐禅会のテープ起こし部分から引用させてもらっています  貫道老師青梅坐禅会の部分がなかなか探しにくいので、管理人さんに許可を得てここにまとめています



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井上貫道老師・坐禅の方法と秘訣


●修行して解脱するんじゃないです。

すでに解脱してるんです。

そのことに気づき、ああ、なるほど、確かに解脱してるな、となるのが坐禅です。

こういう実証方法を伝えてきたのが仏教のすばらしいところですね。




●自分の抱えている問題を修正しよう、なんてするとだめですね。そんなもの、きりがありません。人生終わっちゃいますよ。




●疑問があればとことん質問して消化しておいてくださいよ。疑問を抱えたままだと、坐禅中にその考えが出てきちゃいますからね。

 
 

●眠気が起こったら、ちょっとそれに気づいてあげればいいです。気づけば眠気は去ります。釈尊も『覚すれば即ち滅す』と言っています。とはいえ、眠気が起こらないような体調や環境を整えることが第一ですね。




●真剣に道を求めて修行している人は、警策(木の棒)で叩いても大丈夫です。中途半端にやっている人は叩いてはだめです。おびえちゃいます。




●坐禅は、何もせず、自分を立てず、今の様子そのままになること。




●事実を知るためには考える必要なんて一切ないのに、それを知らないから、みんなあれこれ考えてしまうんですね。

考えなくても、お茶を飲めばお茶を飲んだ様子に、お菓子を食べればお菓子を食べた様子に、みーんななります。

どこに考える必要がありますか? 考えないとお茶の味がしませんか?




●いつでも今の様子だけです。徹底して今の様子のみです。努力してそうなるんじゃありません。

だってそうでしょ、一瞬だって「今」から離れられるわけないじゃないですか。





● 頭の中に気になることが残っていると、雨の音が雨の音として聞こえないですよね。ちゃんと聞こえている時は、きれいさっぱり他のものがなくなっているんです。消すんじゃないですよ。






● 雨の音っていうのは、「ぱしゃぱしゃぱしゃぱしゃ・・・」(口で擬音)これだけです。

これに親し~く目を向けてください。





●事実に証明される、という禅の言葉があります。この意味は、自分の様子に「あ、なるほど」っていうことです。





●自分の見解や気持ちを持ったまま坐禅しないことです。




●坐禅中にいろんな考えがわいてくることに対して「これはいけない」とやっちゃうと、これがもう自分の見解ですね。

いいとか悪いとかは自分の気持ちでしかありません。

考えがわいてきてること自体も今の様子なんですよ。





●考え、足の痛み、ミーンミーン、ワンワン、全部自分の今の様子です。





●苦しい、つらいといった感情も、自分の今の様子です。





●坐禅中に何かを観察したり、何かに集中したりするのではありません。自分から物に向かわないことです。逆にボーッとしてしまうのは、それも違います。




(独学では勘違い、意味の取り違いなどがあり、結果的に失敗しますので、必ず、正師に直接会って、その指導を受けて下さい それを参禅といいます 

仏教以外でも古来よりインドでは覚者から直接学ぶこと、覚者と共にいることをサットサンと言います サットとは事実・真理、サンとはサング 居る  サットサンは不可欠とされています)


https://youtu.be/nAuc6MCgyS0?t=2s



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