坐禅の仕方と悟り,見性,身心脱落:井上貫道老師の庵 まとめサイト

Dharma Talks of a perfectly enlightened Japanese Zen Master Roshi Kando Inoue 井上貫道老師が、悟りを体現された経験から坐禅の方法や仏道について語られたものを掲載しています web上に散見される魯山貫道老師のことばも引用掲載し、まとめブログとしました ( これは参禅者によるブログであり、公式サイトではありません ) このブログが正師への参禅のきっかけになりますように

魯山貫道老師のことば

禅 座禅の心構え ~2012年9月井上貫道老師・東京都青梅禅会より①

以下井上貫道老師より御挨拶、座禅の心構え、座禅指導


 坐禅のやり方、坐禅の実践方法 ← ここにも井上貫道老師が詳しく話されています


ご丁寧な紹介並びにご挨拶頂きましてありがとうございます。
それほど忙しい者ではございません。
暇だから出てきているので。

というのはですね、誰も一日は24時間なんですね、
だからそれを超える人もなければ、それよりも短い生活をしている人もない程、
あとは何処にいるかだけなんですね。

それで何処にいるかをよーく見ると、
皆さんどういう風に考えているか知りませんが、
掛川から東京まで来るの大変だねっていうけど、この身体ずーっと運んでいるだけなんですね。

皆さん今日一日だってそうでしょう。
この身体がいろんなところに行っているだけじゃないですか。

それをよく見るといつもここにいるんですね。

ここというのはこの身体のあるところです。
自分がいるんですね。

そういう意味では行き来するものがないんです。

頭の隅で掛川と起点を置いて東京ってやると、掛川と東京まで大変だって思うけど、
この身体をずーっと見てると、ずーっとこの身体のあるところの様子だけがあるんですよ。
どこへも行かない。


そういうことが伝えたい事なんです。

間違えなくそうなんです。


そうすると忙しくなくなるでしょ?

あそこ行かなきゃ、ここに行かなきゃってそんな事無くなるじゃない。
今この身体のあるところのあり方をきちっとやって行けばそれで済む事でしょう。

それでこの後、座禅をして頂くのだけども、座禅について心構えという事だけども、
こういう事言ったらいいかと思うんですよね。


人は考えていない時に悩んだ事はない。

どうですか?
(左図はイメージです)

自分の中に考えが浮かばない時は悩まない。

どうですか?

そういう体験はわかりますか? kandoroshiteishochu16062326


悩むっていう時には、あーどうしようか、あのときに、あの人と、、、
そうやっていろんな事思い起こして
考えてること、やり始めるとものがよくわからなくってどうしようかって
いうことになるんだけども

考えること止めている時はものすごく、クリアーでしょう、物事が。


で、何をするってことも必要のないくらい穏やかに、そこで生活していて
しかも自分のその内容が自分で手にとるように明確にわかって
疑いが一つもそこにはない。


そういうことで坐禅をすることは自分自身を見究めるってことなんでしょうね。


だから、最初から自分のそういう風な姿というものが今現前とありますから、
尋ねなくていい、それが坐禅のおもしろいところですね。

距離がないってことです。

今間違いなく自分のあり方ですから、
その自分の間違いない自分のあり方がここにあるから、
それがですね、探さなきゃわからないようなものじゃあない。
ということですね。



坐禅をするとき、たずねない、

尋ねないっていうことは、距離がないていうことですね。

これが坐禅の時の、どういう風にしているかっていう時にこういうことです、


尋ねない、

距離がない、

隔てがない、

これがですね、皆さん方にこういう話をしたときに、なぜか難しいんですよね。
なぜか難しく感じるんです。


それは皆さん、普段生活しているときに、必ず向こうに対象物を置いて、そしてそれに
一緒になるということをやっているんですねー。

そういう生活しかしてない。


だから対象物もないから、いきなり自分自身の様子ですから、そうすると
探さないということはですね、すごく難しいんですね。

探すほうが楽なんですね。

探すんだったらやることがあるから。


やることがあるといいんだけど、これ(坐禅)、やることないんだよー。座っていて、
やることがないと、皆さんの頭の中がパニックになる。

どうしてパニックになるかというと、
何もしない、どうするんだろうって考えるからですよ。

それを止めるのですね。

そういう思考を止める。

そうすると、今こうやって身体全体で活動している動きがそのまま、そこにさらけ出されます。

それを皆さんが見ることが、自分を見究めるって事になるんですね。

まあ後でゆっくり話はしましょう。
    (長いので下に続きあります)









禅 座禅指導 ~2012年9月青梅禅会より②  
続きです。

椅子に座ったままでの坐禅指導をしていただきました。

それでは席を後ろ向きにしましょうかね。

五分くらい、作法を簡単に説明をして、30分くらい座ってみたいと思います。


まずですね、

椅子に腰掛けて頂いた時に、背もたれがありますが、せっかくの背もたれは利用しません。

背もたれから離します。

要するに、自分の力で背中を伸ばすということです。




それでは下のほうからやりますが、

足を肩幅くらいにちょっと開いて頂いて姿勢を起します。

顎を引きます。
顎を引くっていうのは、頭を垂れるってことではないんですね。
頭をまっすぐにしたまま、顎を引き寄せる。


でそれから膝の上に置いた手を両方仰向けにいたしまして、左手の上に右手を、
そして親指の先を軽く触れ合わせてそこに楕円形を作ります[法界定印ほっかいじょういん]。


そしたら肩の力を抜いておろします。
下ろした位置はあまり前の方に出すと肩を引っ張りますから、できたらお腹の方に触れるように寄せてください。
そして肩の力を抜いてください。


次に口の処理です、
口は結んで頂いて、舌べろの先を上歯の付け根に少し着くようにします。
そして、唇、歯、を結びます。


力を抜いて体が萎むような感じで息をずーっと吐いてください。
吐ききったら大きく息を吸ってください。
そしてゆっくり吐きます。

三、四回そうやって腹式の深呼吸をして頂いたら、静かに止まって、これから30分位座ります。



鳴り物を入れますので次の鐘がなるまでの間


もう一つは目の処理ですが
目は開けて頂いて座ります。

これはなかなか話をしているのだけども、目を瞑って座られる方が圧倒的に多い。
座禅は目を開けて座るのが一応正式と言っていいでしょう。


それには深い訳があります。
目を開けて座る。
だいたい前方45度位の視線にして頂く。
そうすると半眼位の目の開きになりますので、そういった形で目を処理します。


ここまで出来たら、椅子の場合はですね、ちょっと作法が変わりますが
体を少し左右にゆっくり振ってください。
曲げてください。
それは上半身、腰から上の体を楽にします。

緊張を解す意味がございますので力を抜いてゆっくり左右に曲げていって、
その時に息を吐いて曲げてもらうとさらに効果があります。

そして息を吸いながら元に戻して、腰の付け根からずーっと
四、五回そうやって体を緩めて頂いたら中央に止まって頂いて、
今度は息をゆっくり静かに全部吐き切って頂きます。



 坐禅30分しました。


坐禅の途中、老師は静かな声で、


目を開けて下さい。

目の前の様子が見える、いろんな音がします。

それらは考え事ではありません。

見たもの、聞こえたものに価値判断をしなければ、事実そのものに触れています



と語られ更に坐禅は続きます。


 坐禅のやり方、坐禅の実践方法 ← ここにも井上貫道老師が詳しく話されています





引用元:
http://ameblo.jp/10wanko28/entry-11498533585.html
http://ameblo.jp/10wanko28/themeentrylist-10067613814.html





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坐禅 只管打坐はシンプルー座禅中に目を開くことの意義


禅 座禅後の指導 目を開けること ~2012年9月井上貫道老師・東京都青梅禅会より③ 
今回の③は約17分です。


椅子座禅30分終わって、そのあとの井上貫道老師のお話です。


  
やってる事はそんなに難しい事は何もないと思うんですよね。
 
 
だけどー、先ず第一に眠いねー。
 
ほとんどの人が目を瞑(つぶ)っちゃうんですよね。
 
あのう、時々回ってみましたけども、触るとふっと目を開けるところを見ると、
目を瞑ってるって事でしょう。
 

こんな事がなかなか目を開けたままじっとしていられないんですよね。
耳はですね、耳はご承知のようにこのままで開きっ放しですから
耳はふさがるって事はほとんどないんですよね。
目は自分の力で開けないと瞑ってしまう。

目は塞がったらものが見えなくなる。

まず皆さんに勉強して欲しい事ですね。

目を塞いだら見えなくなる。


ところがこうひとりずつたぶんあたって聞いてみると、
目を閉じてもいろんなものが見えるんです。
 
そういうたぶん答えになるのですね。
 
それは厳密に言って絶対見えているんじゃない。
 
普通見えるというのはですね、自分の外側にあるものを見れるのを見るっていうんですね、
自分の中にあるものを指して見るとはあまり言いません。
 
同じ見るのでもそれは心の中を見るとかっていう風になればそういう事があるけど、
眼(まなこ)がものを見る時にはそういう事はありませんね。


だから目を閉じたら見えなくなるから楽になるのでしょう。
 
布団に入って目を閉じてもですね、いろんなものが走馬灯のように
浮かぶって人もいるでしょう。
 
寝られないよ。気になって。
 
だけど、本来は目を閉じると見えなくなるから寝れるんです。
 
それが証拠に自分の目の前にあるものを目を閉じて見える人いますか?
 
目の前にいろんなものがある、
目を閉じたら見えなくなるでしょう。


目を開けてください。
開けるとちゃんとわかるようになっているでしょう。


じゃあ日常生活もこのように目を開けていさえすれば
目の前の物事ははっきり見えるはずなんです。
それが己を見極めるって事ですよね。
 
にも関わらず、皆さん、目を開けてものを見た時に、
よくわからんっていう人たくさんいるんですよね。
わからないって人


パッと見ただけで見違える事はないでしょう。
 
全部違うんだもの。
その通り見える、
そういう風に見えているのにも関わらず、わからないって事をいう人が多いのです。
 
それで修行をして頂く時、本当に勉強して頂く時は、わからない事を相手にしないんですね、
わからない事の方を探らない、

わからないことは放っておく


皆さん、わからない方を知りたいわけでしょ。わからないと。
わからない方をわかるようになりたいと。
そうじゃなくて、


はっきりしている事、こっちを大切に扱うんです。


研究するんだって、わからない事を研究するんでしょうけど
研究は必ずはっきりしている事を相手にします。
 
なんだかわからない事なんて研究できないんですよ。
 
はっきりしている事、研究しているとはっきりしてる事があるんです。
 
はっきりしてる事があるけども、それがなんだかわからないんです。
 
ね、そういう事あるでしょう。
 
理論的にはわからない、
だけども、こういう風にすればこうなるって事だけははっきりしているから、
それをとりあげる。
 
わからない事はとりあげません。

 

だからこうやって目を開けていると、ちゃんと見えているでしょう。

見えている、はっきりしている事だけを修行で取り上げる、

どういうふうにやってるかだけです。


今、静かな場所、一定の所でこう、過ごしていたから、
変化が少ないので眠ってしまうのかもしれないけど、
さっき川の土手を歩いたりいろんな事をしてきましたけども、
あれ、全部目を開けてたぶん見てきた事です。
 
それ以外にはやって来なかったんだね。
あれが、皆さんのさっきまでの人生です。



で、あわせてですよ、今日この教えの話をするわけですが、
仏教っていう風な言われ方をしているんだけども
どれくらい正確に仏教というものが世の中に伝えられているかの中でですね、
仏教っていうのは、己以外、自分以外をどうこうすることではありません、
 
仏教っていうのは、本当に自分自身を見きわめる事に尽きるんです。
 
ところが一般的には仏教はですね、こうやって生活していると自分の中で
どこかこう満ち足りないものを感じるからそれで昔のりっぱな人たちが
そうやって一生過ごすから、この事を勉強しないとだめなんです。

他の人なんか用はないんですよ。

他の人の事なんか。
 
間違えないで下さいよ。
 
他の人に用はないっていうのは、こうやって見ている事が自分の事だからですよ。
 
ここにいる方お互い見ている事自体が、自分の事だから。自分が今やっている事だから。
 
自分がやっている事がわかりずらい人は、自分の目で見ているって表現したらよくわかるでしょう。
 
自分の目で見てる事が、見えてるって事です。


それ、他人(ひと)の事じゃあないですね。


これなんかもよく理解できてないかもしれない。
自分を見極めてませんから、どうしても他人(ひと)の事を私が見ているんだって、
そういうふうに見ている。


じゃあもうちょっと突っ込んでお話するとですね、
あの人はなんであんな歩き方をするんだろうって、
誰がやるんですか。
私がこんな格好して歩いたりしているとさ、(老師がすごく変に腰を曲げて歩く)、
どうしちゃったんだろうって。これは皆さんがやるんでしょう。
私はただこうやってるだけです。(老師がすごく変に腰を曲げて歩く)


そういうふうに皆さんが勝手に見方をつけるんです。自分の見方を。
見解を。
 
それで、そういう見方をどこでじゃあ起こすかったら、必ず、今なんです。
これがどっかで起こすんではなくて、
必ず見た時にふっと起こすんです。
その時に起こすんです。
 
これらをよくわかってないですね。
 


悩み、苦しみっていうのは、必ず今起こすだけなんですよ。
 
気にいらないとかっていう思いが起きるんだってどこで起きるかって、
物に触れたりした時にふっとその時に起きた時が気にいらないというふうに
なっているだけであってその他にはないですよ。
 

思いっていうのはねー、夏に使う氷みたいなもんだね。
どういう事かっていうと、氷が解けちゃうと、何処にもない。
 
さっきまであんなにちゃんとした形があったのに、
あの人、気にいらない人だなという思いが出たとすると
ちゃんと氷のようにきちっとその思いがここにあるんだけども、
それが時間が経つとですね、溶けて何処にもない。
 
だけど、溶けた後にここら辺に少し乾くまでしみが残る。
 
それがですね、さっきまであーいうふうに思えたというか事です。
 
さっきまであーいうふうに思えたって事なんですね、しみが。

 
本当は思いってそういうふうにどこにも影も形もないように働くようにできているんですね。
だけども、あの人憎らしいって思うと、みんなそれで、自分の中がおかしくなるのですよ。
 
他の人が思うんじゃあないんですよ。
 
ひとりひとり自分の中で思って、自分の中でおかしくなるだけなんですよ。

 
そういう事が自分を見極めるって事なんです。
 
どういうふうに問題が起きてるか、
どこに問題があるのか、
だって目で見て御覧なさい。

こうやって物を見た時に、
気にいるとか、いらんとかって一切ないでしょ?
 
どうですか?皆さん、自分の目の前の様子見て。
 
その通りにただ見えるだけっていうのが間違いなく基本でしょ。
 
どこ見てもいいですよ。その通りにただ見えるだけなんでしょ。
 
これ、勉強して欲しいんですね。
そんな事ないっていう人たくさんいます。


(老師がマジック二つをかざして)
こうやってどっちが大きいって見えますか?って聞くとですね、
見事に皆さん引っかかるね。
 
どちらが大きいっていうふうに見えますか?って言ったら、
はい、こっちだよって大きいって言うんですね。
 

それは、分別っていうものが動くからです。
(老師がまたマジック二つをかざして)

目はこういうふうに出されてもですね、大きいとも小さいとも比べないんですよ。

その通りにとる。
 
そしてその通りに見て自分でどうもしないのにちゃんとわかる、
置いてある場所の違いもよくわかる、
絶対ごちゃごちゃにならない。
 

どっちが綺麗ですか?って出すと困る、
なんで困るかって、これを出されてみてですね、
どっちが綺麗ですか?って、目は困った事ないでしょ?
このまま見てなんにも困らない。
皆さん、困りますか?



(老師が頭を指して)
困るとしたらここです。
あなたがたの考え方がどういうふうに答えを出したらいいかって
働き出すとわからないって答えになるんです。
 
はっきりしないとか、難しいとか、
 
実際はものすごく明確です。
 
 
そういう事が私達の本来のあり方です。
 
これが自分ではっきりすれば生活の中で、ぐずぐずするような事はありません。
 
要は物ははっきりしているはずなのに、はっきりしている事がどうなってるかを
自分で確かめてみた事がないから自分の素晴らしさがわからない。
 
そういう人が多いから、古くは釈迦のような人がこういう自分を見きわめるって事を
きちっとした代表者です。
 
そういう人がいて、自分を見きわめた話をされて、そして見きわめた人を
そこに生前いる間、取り巻きで触れた人が一緒に生活をして、その言動に触れて
ご自分のそういう事を体験されてなるほど、釈迦のやっている事、
言ってる事は間違いない、確かさがあるって事を各自自分で気づいているんですね。

そういう事によって教えが伝わってきたんです。
 
まあ、それで話は終わりなんですねー。
 
皆さん方はだから勉強もっと違う事しているんじゃあないですか?
 

もしあれだったら、質問たくさん出して下さい。そしたらそれによって深めていけると思います。



この文章は、保護犬マロンと小山っ子いぶきの気ままな日記 〜お茶も~禅も~ のうちの井上貫道老師の坐禅会のテープ起こし部分から引用させてもらっています  貫道老師青梅坐禅会の部分がなかなか探しにくいので、管理人さんに許可を得てここにまとめています



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仏道修行・坐禅修行の根本 自分を見極める時は思考を使わない  
~2012年9月井上貫道老師・東京都青梅禅会より④ 

人は如何に自分の思いの中にいて、事実(=真理)を知らないか


ここから法話:
 kandoroshiatshorinji
皆さんどんな勉強普段しているんですか?
 
自分の事みんな放っぽっていませんか?

 
自分の事ほとんど見てない。
 

(老師、机をたたく)
こうやって座ってて隣で音がする。

(パシッ 老師が机をたたく)
 
音ってこうなっているんですよね。
わかりますか?こういう風になってるって。


(パシッ)
聞いてますか?皆さん、今、どうなってますか?
 
難しい?
 
だって聞こえてるって事は難しくないでしょー?


探す用も、尋ねる用もないでしょ?


隣の人に聞かなくても自分の意見を言って下さい。
 
誰かに相談して答える事は用がない、
 
あのー、これはどんな答えも恥ずかしい事はないですよ。



参加者 「扇子を叩いて何やってるんだろう」

それは思う事でしょ?はっきり申しますけど。
 
何やっているんだろうって思う事を私は聞いてない
どういう風に聞こえるか?って聞いているんです。

 
何をやっているんだろう?っていうのは思いです。
 
聞こえた事に対する思いです。


参加者 「うるさい、」

うるさいのもそうです。うるさいのも思いです。

 
だからこういう意見が出るから勉強になるんです。
 
ほとんどそう思っているんですよ、みんな。

 
あの、こうやってどういう風に聞こえますかって聞いて、何してるんだろうって思うって、
そういう風には聞こえてないんです。
 
それは聞こえてる事ではない。
 
思ってる事であって聞こえてる事はそういう事ではない。
 
それくらい、自分のあり様というのを見ていない。



こうやって音がしているものに対して自分がどうなってるか。
 
この位の音ならまだいいですよ。

 
人間のしゃべっている音声も音なんだけど、人間のしゃべっている音声に対して
もっと皆さん方今言われるように、それは何だ?って、必ず思うんですよ。
 
それはしゃべっている事の中の意味合いを理解しようと思って探る、
聞こえてる事とは違う、
そういうのを皆さんは聞いてると思ってるんですねー。
 
 
だからもう一回基本的な勉強をし直す必要がある。

 

そういう事を釈迦って人はやったんです。
こうやって6年も。明けても暮れても。こうやってどうなってるか勉強した人です。座って、


これは事実に学んだんです。

考え方でなくて、
 

どうなってるんでしょうね?
子供だってわかる話ですよ。
何で大人の人が難しいのかしら?
いいですか?


(老師、扇子をたたくふりしただけ)
聞こえた人誰もいないね。


(パシッ 老師が机をたたく)
 
こうやってやると聞こえるでしょ?


じゃあ今はどうですか?
(老師、扇子をたたくふりしただけ)
 
聞こえて、ない、でしょ?
 
そういう事なんですよ。


それが大事なんです。
いつなくなるんでしょう?
いつ聞こえなくなってるでしょう?
 
皆さん、自分の耳で聞いてるでしょ?
 
だったら音がしたのならわかるかもしれない。聞こえなくなったのはいつからですか?

今、
こういう事がはっきりしないってことは、いかに自分を見極めてないかって事です。
 
これだけで勉強するんですよ。


考えると難しくなるんですよ。
 
皆さんの少々の頭じゃわからん。
 
考えたら難しくなる。
 
だけど、事実はちゃんとこの中にある。答えは。


(パシッ 老師が机をたたく)
 
音がして音を聞いて、どうなったかっていった時に、この中に答えはあるじゃん。
 
今、音がした、ところにあるから、考えなくたっていいじゃない。


(パシッ 老師が机をたたく)
これで勉強すれば。
 
その他のところに思いを巡らして、あれはどうか、、、全然当て外れでしょ。


(パシッ 老師が机をたたく)
 
これどうなってますか?ったら、ここで勉強するでしょ。
 
必ずだから、今、 勉強するでしょ。
 
今の事をね。
 
それだけなんです。


 
修行って、それだけ。
 
これがわかったら、卒業ですね。


参加者「扇子が机に触れた時に音がするって、いうことですか?」

まあ現象的にはそうですね。

 
じゃあもうちょっと、机に扇子が当たった時に、どこで聞くんだろう?
 
どこで聞いているんだろう?
 
どこで音がしている?っていうと、耳で聞く、と本当にそう答えが返ってくるんですねー。


(パシッ 老師が机をたたく)
 
耳で聞こえる?
 
え?耳で聞こえる人いる?
 
もっと丁寧にやったらカチっというだけでしょ?
 
違いますか?正直に。
 
カチっというだけでしょ?
 
それ以外何もないでしょう?
 
どうですか?
 
カチっ、それだけじゃないですか?
 
カチっという事が聞いている事でしょ?
 
その時に、あっちで音がした、こっちで聞いたっていう事はないでしょう?
 
いきなり、カチっでしょう?


カチっ
 
音がしたから聞こえたって、
そんな事あるかしら?
 
こういう事ですよ、勉強って。
 
今まで先輩がいろんな事を言って遺しているから、そういうものを聞いたりして
或いは読んだりして理解しているだけであって、

この事実に自分が触れて本当にどうなっているかを確かめた事ないんじゃないですか? 


他人の意見で皆、終わっているのではないですか?
 
耳で音を聞くとか、向こうで音がするとか、
 
こっちで聞こえるとか、そういうみな、理由だけではないですか。
 
本当に実物でこうやって今音がした時に自分のあり様って、どうなってるか?


(ここで参加者の携帯が鳴る)
 

いいですよ、あーいうのだって皆勉強になるんですよ。
 

いきなりでしょうが、
 
いきなり、音があるんでしょう。
 
いきなり、音がある時に、人はうるさいとか、邪魔だとか、一切やってないでしょう?
 
音がしてるだけで済んでませんか?

 
それが私達の救われている世界なんです。

 
知らないから、すぐ音がした後に、自分の考え方を持ってきて、
 
なんでこんな時に音を出してって、たぶん思った人いると思う。
 
そうすると思う人もいれば

人がそう思うんじゃないかって思う方もいて、
 
お互いにまずい事をしちゃったなって、思って、
 
そこで苦しむ種を自分で作ってしまってるんです。
 
だけど、この耳はですよ、その通りに音がするだけで、どちらにも傷をつけない。
 
どちらも責めません。
 

今ご覧の通り音がしてないから言う必要がない、何も。

 
言う必要がないんだけども、さっきあーいう事したんじゃないかって、つつく人は中にいるの。

ないものを何故つつくの?
 
子供育てる時、さっきやった事があったとしても、
 
今やってないものに対してそれは何だ?って事はないでしょう?

 
じゃあそれと同じように、音がし終わったのに、うるさい、だとか邪魔だとかっていう事は
甚だ心外な事をやってませんか。
 
どこをつつくんですか?
 
音がしてないのに、うるさい、って、どこをつつくんですか?
 
ありもしない事をそうやってあたかもあるようにしてつついたらいじめじゃないですか?
 
いじめ。虐待じゃないですか?



参加者
「そういう場合、どうしても、老師が扇子で机を叩いてるって、考えちゃうんです。
誰かさんの携帯がさっき鳴ってたって、すぐ考えちゃう。」



[老 師]だから、もう一回申し上げますが、

見極めるって時は思考を使わない。

 

参加者
「だからいかに自分を見極めてないかって事で、
いかに自分がわからないかっていうのがわかった。自分を見てない。」



[老 師]そうです、いつも考え方で見ている、



参加者
「どうしても、ここで(頭を指して)考えちゃうんですね。
 あー、何さんの携帯が鳴ってるな。
 先生、こんな事やってるな。それだけです、考えちゃう。」


[老 師]
それは、いかにも他人事なんです。
 
だけど、本当は自分が今生きているあり様そのものなのに、
 
そういう風に自分が他人事のように見ているって事が二つ目の、大きな誤りでしょう。



誰が聞いたんでもないですよ。
 
自分が聞いたからそういう事が起きた。
 
自分が見たからそういう事が起きたのであって、
 
私のやってる事でないし、あちらのやってる事でないんです。

 
でも人間って、そういう風にしか今迄見てこないんです。
100パーセントたぶんそうですね。


そういう中に釈迦って人が生まれたんです。
 
だからそういう勉強しか、おそらく当時してないですね。


そこから抜け出したんですよ。


初めて、そういう人間の考え方を外してみた時にこうやってやると
 
(老師、扇子かざす)
 
その通りに見えるっていう事は、私の事ではないですね。


見えてるって事は皆、一人一人自分の今の生きている様子でしょ?


生活している内容でしょう?


これを見ているって事は、一人一人がこれを見ているって事は、

自分の今生きている内容でしょう?

そういう事は理解できますよね?



でもまだ向こうの人が言っている事って思っているのかしら?
 
だから思う事と自分が目でやってる事は違うじゃないですか?
 

自分の目は、思う事じゃないから、本当に自分の目でこの通り見てる動きしかないでしょう?
 
だって他の人の目で見れないんですよ。


こういう事、必ず自分の目で見てこれが見えるんですよ。


これ、見えると、あーあっちで扇子開いてるからそういう風に見えたっていう
考え方や思いをここに付けるじゃないですか。


じゃ、考え方や思いを外したら、これ、見えなくなるかっていうと、
どうですか? 


見えなくならないって事は、考え方や思いじゃないって事でしょ?


もし考え方や思いだったら、考え方や思いを外したら、たちどころに見えなくなりますよ。



だけど不思議に人間のあーいう風に見えるとかあーいう風な事やってるとか
全部外してもこの確かさは絶対なくならない。


それは考え方じゃないからです。


(老師扇子を開く。)
 
こうやってやると必ずこうなる。
 
(老師扇子を開く。)
 

どんな事を思ってても皆さんが思っている事とは関係なくこうやってやるとこうなる、
 
さっきまで開いていたのにって、いくら思ったって、ここしかない。
 

それくらい思い方と事実は違うんです。いいですか?

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禅 本物ちゃんとわかるようにできている~2012年9月井上貫道老師・東京都青梅禅会より⑤ 
④の続きです。


本物
ちゃんとわかるようにできている 

本物を見るのに、自分の余分な考え方を入れたらわからなくなりますよ。
本物は人に苦労かけずにちゃんとわかるようにできている

この中にお茶をいっぱい入れてさ、
こうやって飲むと、本物だから、必ずちゃんと味がします。
本物だから。

考えなくてもちゃんとわかる。

本物って、そんなに簡単なんです。

ちゃんとわかるようにできている。全部。


さっきいろんな野山の雑草や花や、見てきた。蝉や赤とんぼや、見てきた。

みな、今日実物に触れた。ちゃんとわかるでしょう?

曖昧だった人一人もいないでしょう?物の方は。

だけども理解の方になるとわからないでしょう?


これ何という名前だとか・

それは考え方の上だから。


考え方の方は知識がないとわかるわけがないでしょう。




だけど実物はそこにあるから、知識がなくてもわかりますよ。

どんな形をしているのか、どんな色をしているのか、色の名前を知らなくても、 
その通り見えます。

実物って、それだけ私達にすごい事をさせているんだけど、 
自分の実物、こんなに身近にある実物なんだけども、この実物を見極めた事がないから、

(パシッ 老師が机をたたく)

こんな事ひとつやっても、毎日聞いているんだけども、
どういう風に聞こえて、いつその音がどこですっかりなくなっているか
なんて事知らないじゃん。


だから朝、あんた何グズグズしているの?って、言われたのが、夜になってまで響くように思っている。

そんな事はないでしょうがこれ。 



(パシッ 老師が机をたたく)

それは音じゃないんだよ。
朝グズグズしてって、言われたのが夜わかるのは音じゃない。

その時しゃべってた声じゃない。

思い起こした働きなんです。全部。

実物じゃない、
そういう事皆さん、知るべきでしょう。


騙されないって事でしょう。 

本物と本物でないのを見分けできたら騙されないでしょう。

皆さんは実物と偽物を見分けつかないから騙されるわけでしょう。 


朝グズグズしててって言われて、夜になっても、こいつ、うるさい事言ってってグズグズ言う人は騙されている人でしょう。実物は言っ

た時しか、

(パシッ 老師が机をたたく)

音が出た時しか聞こえないようにできているのでしょう。

これが実物でしょう。 


(パシッ 老師が机をたたく)

やってみたらわかるでしょう。



(パシッ 老師が机をたたく)


もうどこにも聞こえてないでしょう。

だから問題にしなくて済むでしょう。


なんで、ここでいろんな言葉を聞いてると、いちいち自分を 不愉快にさせるのですか?



本当はいちばんやってみたい事は

まっさらで余分な考え方がついてないときの動きが、 

人がどういうふうな動きをしてるかって事を知った上でやらないと

人を縛る事になりますね、みな。



その代表が宗教といわれるジャンルです。

宗教ってものは非常に人を苦しめている。

例えば、人は生まれながらにして原罪というものを持っている、

罪を持っている、とかいうような事を誰が教えたか知りませんが 

そういう事を言って、だからそれを取り除くのが私達の教えだといって、

さあ来なさい、さあ来なさいと言って取り除くような話をする。

最初にそんなものはついてないのが本当なんですよ。



最初に何もついてなかったんです。だから優しい目で見れるんですよ。

ものを見る時に良し悪しを持って見てないから。

自分の眼(まなこ)が。



私達の眼ってそうじゃないですか?

初めは良いとか悪いとかっていうような考え方で見てない。

ただものに向かうとその通りに見えるように出来ている。

それだから優しくできるんでしょう。腹立たないです。見ても。 


もうちょっと大きくなっていろんな考え方が見たものに対して起きるようになると 

自分の思う通りになってないというふうな感覚があるから、そうすると腹が立ってるだけ。


こっちくる前に

ある修行道場にいた方が女性だけども、手紙をよこして、話を聞いてくれますか? 

っていう手紙だったから、どうぞって。

そしたら私が耳を傾けて聞いたところでは、(中略)

どんな事を修行してきたんだろうって思うぐらい、

なんでこんな事が修行だって思ってやってるのかなって思うね、やる方も。


で、お寺にいけば、トップの方に会いに行っても女性だからと行って、女性は来ちゃいけないって。

今の世の中ですよ、今の世の中で、男性が、女性がって、ここから入っちゃいけない部屋なんかないよね。

現代ですよ。
びっくりしちゃう。


じゃあ病院行ってあなたは女性だから診ない、なんてそんなとこないでしょ。

死ぬか生きるかって時に。

まあそういう事を話しておられて、あまり好感が持てなかった といっておりましたけど。 



私は基本的には仏教っていうのはこういう事をしてるって言って話をしておきました。

もう本当勘違いしてるんだね。

いわゆるノウハウを勉強してくるんですね。


鐘をどうやって鳴らすとか、
お経はどうやって読むとか、
儀式の時どんな事をするのかとか。

そんな事一生懸命勉強してる。



それも必要だっていえば必要だけど、人を救う上にほとんど役に立たない。

だってここにおられる方は別に家に帰って、どういうふうにお祀りの仕方をするとか、専門に別になくたって何にも困らないわけでしょ

。 



本当に必要なのは、自分がどうあったらいいかって事が問われているだけで、 
今の職業のままで毎日生活している時、どうやったら本当にいいかって事が問われている。

それを基本的にきちっと伝えていくっていうのが、修行道場の一番根幹でなければならないと思う。


だけど、そういう事、ほとんど欠落している、
あんた、お経下手だ、もっとじょうずになれとか、
お拝の仕方が悪いとか、
着物の着方がどうだとか、
こういう時に挨拶の仕方は、まあやらないよりはいいですよ。

できる方がいいのだけども、

それよりも基本は、本当にこれをいますぐやってもらいたい、

これは、何故必要かっていうと、この世に生まれた以上、自分の事は自分でやるしかないんだよ。 



自分の事を放っておいて生きられる人はないじゃないですか。 


一番身近な事でどうしても放っておかれないものは自分自身をよく知るって事ではないですか? 



健康面だってそうじゃないですか、
他人に任せておけないじゃないですか、これ、

自分がどうなってるか一番自分がよく知ってるじゃないですか、

いつ食べたの?
って聞いたって、お医者さんがその人に聞いたって、
答えなかったら推測するしかないじゃないですか。

だから本人は一番よく知ってますよ。

いつ食べた、何を食べた、どこで食べた、いつ頃からどこが痛くなったとか、
だけども、自分の事なのに、本当に無責任に生きているよね。

無責任に生きているんですよ。

人と相談事があってこうやって触れた時に、
それを聞いて、
自分の中で聞いた時に、 
(老師、体を指して)
どういうふうにこれがなっているのか。

まず聞いた時にどうなるかって。

聞いたら聞いた通りに入ってくるっていう事でしょう。

その時に余分な事しちゃダメだって事を言っておきたい。 


聞く時には何もつけずにそのままいれる。 



買い物行って自分で勝手に値段変えちゃまずいでしょ。

千円と書いてあって、五百円でいいやって、そんなふうに買ってきたら怒られるでしょ。

一応、千円とついていたら千円で買って、
その後、もしもう少しまけてくれないかねって相談はあってもいいかもしれない、
そしたら、じゃあまけるかたくさん買ってくれたからっていうような事はあるかもしれない。 



一番最初はその通りにいれる事ですよ。 


それを自分でめちゃくちゃやったら犯罪ですよ。


だから皆さん、こうやって聞いたり、見たりいろんな事を 
(御自分の体を指す)
これがしてますよ、

そういう時にそうやって犯罪を冒してはダメ。

それが間違いの元なんだもの。


正しくものを入れないって事は。

正しくものをいれないから、次に考える時に、最初が間違ってたものの上に考えるから 

正しい答えを引き出せないじゃないですか。

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禅 事実は人を騙さない、苦しめない~2012年9月井上貫道老師・東京都青梅禅会より⑥ 


うち[井上貫道老師の寺院・少林寺]の座禅会でもこの前、こんな事があった、

おじいちゃん、人は生まれたら必ず死ぬのになんで働くの?って、
小学校一年生の子がおじいちゃんに夏休み聞いたって話。


で、お前はいつからそんな事を思うようになった?って聞いたら、

五才の時に自分でそういう事を思ってるって、
小学校一年生の子が答えた。


皆さん、そういう質問されたらどうしますか?

人は、生まれたら死ぬ、間違いなく死ぬのにどうして毎日あくせく働いてるの?

何のために生きている?

生きるってどういう事かって事でしょう。


そういう意味でしょう。

そういう事、一年生で聞く力があるんですよ。


もしそれをちゃーんと聞いて育てられたらすごいな。

こちらに力がなければその子供を育てる事はできないね。

真面目にそのこが言ってる事、受け入れられないね。



それ一例ですよ。

そういうような事、日常茶飯に行われているわけでしょ。

大人の方はなんか子供より偉いと思っているんだよね。

そんな事はないって。


それ位大人は傲慢なんです。


だから成長しないじゃないですか。大人になると。

ある程度までいくと成長しない。

あとはなんだか突っぱねるだけ。

で、もっと突っぱねておもしろくなくなると、
嫌な顔してもう口も聞かないような人生になる。
自分で。



それで隔離されていく、
どんどん社会から。
一軒の家から。

それでこっそり死んでいく。

亡くなる頃には誰も見向きもしない。

そういうふうな人生歩んでいる人たくさんいますよ。 



だから、今を勉強して欲しいんですよ。 

本当に簡単な事ですよ。 


自分を見極める。


向かいさえすれば必ず見えるんだからね。 


いつでも。そんなに上手くで来ているんですよ。

空っぽのような頭でも、向かいさえすれば見える。 


(老師、手を握る)


こうやって握りさえすれば、すぐわかる、
握った事が。

重さでも温かさでも。


実物ってそれ位膨大な思量、内容を持っているんですね。


研究して蓄えるよりはもっとすごい内容を持っているんです。

事実は。

もっと気楽に生きたらいいじゃないですか。



初めて会う人にこうやって会ったって、
何にも苦労しないじゃないですか。

知っておかなきゃ、会って話するのに困る事ありますか?

なにか。

そんな事ないでしょう。


なんでいろんな事探るの?

粗末にならないようにするっていうんだろうけども、
粗末にするような気持ち何で起こるの?

それは、あの人は偉い人とか偉くない人って事自分で見て知るから、 
そういうふうなつまらない事が起きるんでしょう


それがなければ必ず丁寧に触れるでしょう。
そういうもんでしょう。

持ち物がなければ必ずどんな人にだって素直にその通りに触れるようにできているんじゃないですか?

ところが自分の中で、いろんな事知る事によって逆に立派な人だったらこういうふうにするけども、
ちょっとどうでもいい人だったらまあこれくらいでいいかなって
そういう事をするつまらないものでもあるね。

知った為に。


レストラン行ったってそうでしょう。

あー、なんだ、百円のものかって。

そういう扱いするんじゃないですか?

知りもしないのに、なんかすごいシェフが作った千円位の料理だって言われると
じゃあしっかり味わって食べなきゃ。 

そうやって、そんな味わい方をするから、
本当の味を味わう事できないんじゃないですか?

何もついてないで、どっちもやったらちゃんと味わえるんじゃないですか?

それが私達の本義じゃないですか?

皆、そういうレッテルに騙されているんじゃないですか、
人がつけた、あるいは自分がつけた。

そこまで一回自分を剥ぎ取って見てください。 


私は釈迦って人は、本当に六年、
菩提樹の下で来る日も来る日も座ってたって事を読んで、 
そういう事を思う。


六年の間、何をしてたんだろう。


本を読むわけでもない、
人に話を聞くわけでもない、
こうやって座って、
寝てるわけじゃない。

目を開けてこうやって、



ひたすらこの真実に目を向けて、
それが自分の真実に触れてる時どうなってるか、
極め尽くしたんだと思いますよ。



(カチッ)
 

向こうで音がしてこっちで聞こえるなんて時間はない。

ないですよ。



(カチッ)

いきなりカチッと音がして終りです。


聞こえたとも、聞いたとも、なんともそんな事はないんだけども
 

(カチッ)


カチッってそうなるね。


上手く出来てますね。
 

それまではやっぱり普通に勉強していれば、
聞くから聞こえるんだとか、
そんな事いうじゃないですか。


じゃあ聞かないって言って、
私は絶対そんな事聞かないって言って、
聞かないようにしてて、


(カチッ)


こんな事したら、どうなるか

いくら頑張っても聞こえちゃうな。


(カチッ)

こういう事勉強するわけです、

考え方じゃないって事を、



事実というのは考え方を遥かに超えて、人を騙さない、苦しめない、

しかも、どこにもそれが体験したにもかかわらず、いきなりそれで終わってしまう。


蓄えてなくても、

(カチッ)

聞くのに何にも困らない。

さっき聞いた聞き方を蓄えてなくても、何にも困らない。



(カチッ)

音がしたらちゃんと聞こえる。



練習しなくてもいいようにできているって事ですね。

練習して初めて聞こえるって事ない。

人間の本質だから子供が成長するんでしょう。すごい勢いで。
 
大人は顔負けって言っていいでしょう。
 

大人がとっても敵わないくらい。
 

普段は大人が子供を育てるとき、大人は知らないから、子供の良さを全部壊していく、
 

力関係でやっぱり大人の方が力があるからぐっと抑えつけられる、

何にもできないからしょうがない、その子供は言われるままにやる。



言葉でもそう、ばばばばって言われれば、返す言葉もない、子供の頭では、

だからしょうがない、そうやっているけども、

ものすごい理不尽な事だから体力がついて能力が学校出る位になったらばんばん返ってきますよ。



その頃になると、急に何でうちの子はおかしくなった?って、
反抗期だ、恐ろしい
とかって言うけど、そうじゃない。


そんなの、前から予兆はあるんだよ。

知らないのは本人、大人達だけです。


自分がそういう事やってきた事知らないから。

正しいと思ってそれをやってきた、
だけど一番正しい事全部、ないがしろにして育ててきている事、 
子供に対して耐えられない事なんです、


せっかくの伸びる力、全部むしりとってきたんだもの。



そういうのは現代社会で著しく今、問われているんじゃないですか?



いろんなところで研究会して、文部省とかあーいうのでも、学校の先生も困ってる、


どうやったら、

子供はそんなに愚かじゃないって、触れてごらん、地域の子供でも。

どうしようもない子供なんか一人もいないんだよ。


そこまでなるのには理由があるんです。



もうほとんどの人が承知のようにその身の回り、一番近い環境にいる人達が影響してるって事、みんな知ってますよ。



あとざっくばらんにいろいろ話してください。




引用元:(ブログ作成者の許可をえています)
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◇井上貫道老師のことば◇

● 修行に時間がかかる人は、結局、何も実践していなんだね。
(月1回の座禅会に2つ、3つ来て、坐禅して法話聞いて、1か月後にまた坐禅会に来て、坐禅して法話聞いて、それをまじめに長年繰り返すなど)


● 
Q.
坐禅はどうやればいいのですか?

A.
この身体で、今、生きているこの様子がありますから、それに無条件でいてみるっていうことです。

頭のほうで何か探るのでなくて。

事実、今、こうあるものの方にこう、そのまま、照らされると言っていいのかな。このままいてみる。



考えを使ってないからといってボヤーッとしているってことはありません。


よく「坐禅で何も考えないようにしてお坐りください」って言うと、「なんかボーッとして何してるのか分かんなくなる」って質問される人がたくさんいるけど、そんなことはありません。

明確です。

クリアです。


そして、そういうものによって、本当に、
最終的には、
自分も物も、そういう隔てるものが一切なくて、
いきなり「向こう」と「こっち」とか、
「私」とか「あなた」とか
っていうようなことがなしの動きがそこに展開してる、

そういうものに必ず人は触れます。
 

そういう時に、少なからず、今まで祖師がたがいっておられるような内容がですね、

ちらっと「なるほど、そうだな」って思えるぐらいには間違いなくなると思いますね。


そっから、今度は安心して修行が出来るんじゃないですか
ね。


「どうしたらいいか」っていうようなことも問わなくなる。


そこまで連れて行きたいですね。あとはもう、やってもらうしかないな。


以上は、本来のカテゴリー 坐禅の仕方 にも置いておきます
→ http://zazen.blog.jp/archives/1029348259.html
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禅 茶話会 思わない時に人は苦しんだことがない、~2012年9月井上貫道老師東京都青梅禅会⑦


一旦中座し、お茶お菓子を頂きながらの茶話会となりました。
前半はやはり老師のお話がそのまま続きました。




今の一瞬一瞬なんですね、って事おっしゃった方が
おられたので触れておきますが、
 
一瞬ってどういう時間でしょう。
 
 
皆さん、頭でなんかここからここまでというスパンを切って
そうやって一瞬っていう時間を作るけども、
時というものはですねえ、
そんなふうに区切られた事ないんですね。

 
ずーっと、私よく使ってるけど、今のあり様だけども、
今のあり様っていうのは、どこから今の様子になるかっていって、
スパンないんですよね、どこにも。
 
 
だけど間違いなく、さっきの事ではないんですね。
そういうふうに本当はできているんじゃないですか?
 

一瞬なんてどっか区切られるような気配は全くない。
 
頭でどっかで線を入れて区切ってつけるんだけども、
事実ってそんな事ないのに見事に変わるんですよ。
 
変わるのもですねえ、



(老師扇子を広げる)
 
こうやって、勉強ですよ、いいですか、こうやって、
今こういうふうに見えてるけども、皆さんの目の前で
こうやってやると、前の事はどこに行くんでしょう?
 
今見えてるの、どこに行くんでしょう?
 
今見えてたの、変わるんだけど、前見てたものどこに
行くんでしょう?


どこから新しい事が出てくるんでしょう?
 
手品みたいだけども、こうやって皆さん毎日過ごして物に
触れてるんですよ。
 
だけど、見極めた事がない。
 
どうなってるか、
前の物がなくなって新しい物がそこに出てくるって
いう事はないです。
 
いいですか?
 
このまま、今こういう形のもの、こうやったら一瞬のうちに
こういう形になるのであって
前の物がどっかに行く、なんていう気配がないうちに
ただ、こういう動きがあるだけで終りですね。
 
こんな事知ってますか? 



これは、例えば、子供が悪い事をしたって言った時に、
悪い事を止めて正しい事をするように教えるって事がいかに
この道理から比べたら違ってるかって事を学ぶべきでしょう。
 
悪い事を止めといて、新しい事をとりあげるなんて事は、
このままで、いきなり今の事が展開されて全部変わっちゃう。


ところが道徳っていうのは、いったん悪い事をした事を認める、
それを改めて良い事をするように教えていく、それ道徳。
 
だけど事実は道徳と違ってもっとすごい働きをしている。


そういう事も釈迦という人は自分を見極め、
そういう事もきちんと認めてますね。


いっぱい、いろんな事で私達は普通に、そこに平常心、

誰もが普通に生活している事で、しかも見極めてない事だらけです。

 
(老師、扇子を広げる)
 
こうやって私がやったら、どうしてもそれは井上さん[井上貫道老師]がやってる事
ってしか思えないじゃないですか。そうでしょ?

 
自分はやってないものね。
 
扇子を持って広げたわけではないもの。
 
そんなことないって、みんな思うんですよ。
 
思うんだけども、自分の眼をよく見てみると、その通りの事を
自分の眼がやるのですねえ。
 
不思議ですねえ。
 
人の事だと思ってるはずなのに、自分の眼が
、人がやってる事で一緒にやってるんですね。

あっちで虫が泣いてるから虫の声だって、
私には関係ないと思ってるかもしれないけど、
ミンミンミンミンミン って、これ、ちゃんと響いてる。
 
そうやって豊かに生活するんでしょ?これが。

 
あるいは向こうで泣いてても聞こえないなんて、
何にもおもしろくないじゃないですか。



泣いた時に、その一時間くらい経ってから聞こえるようだったらさ、
事故を起こしちゃうよね。
ズレができてね、


だけどズレがないからそうやって楽しめるんでしょう。
 
トンボが目の前飛んだのに、30分後に飛んだようにみえる
なんて大変なんでしょう。 
それは自分の事だからそうなるんですよ、
 
人の事だったらそれくらいなるけど、自分の事は、
トンボが目の前飛んだで済むでしょう。
 
そういう生活をそこで楽しんでいる。
トンボの事でなくて。
 
そういうので、ずいぶん誤解してるよね。


 
別々に見てるんです。物事を。
だけど理論的に考えたって、今っていうものは、
向こうに今っていう時間があって、
こっちに今っていう時間があるって、
二つの今っていう時間なんてないんですよ。
 
それが理論的に説明する時に使う。
 
 
今っていうのは、必ず一枚。
 
向こうとこっちっていう関係ではない。必ず。
 
だからずれない。


(ぱしっ、老師扇子で机をたたく)
 
 
ずれない。

 
 
ずれないから役にたつ。
 
親子でも息がぴったり合う。
 
(ぱしっ)
 
ずれない。
 
(ぱしっ)
 
意見の違いが絶対起きない。

 
そういう真理が基本的にあるじゃあないですか。
 
好き嫌いとは別に。
 
いい悪いとは別に。
 
人間の感情とは別に。
 
どうしてもそれと一緒になって生活しなければならないように
出来てるって事。

 

それを知らないから
人間生活の上では
自分の考え方、自分の好き嫌いの上からものを見るって事が
習わしになって、まあ誰もがやってるから、
公に良しとされてるんでしょう。


それ以上、深い自分のあり様っていうのをみようとしないから、
結局本当の自分のあり様を見極めてない。
自分の事でありながら。
 

で、何か事柄があると、騒ぐんだけど、どうあったらいいかって
騒いだ時に根本がわかってないから、どうしようもないのが、
疑いじゃあないですか?
一番最初は何も騒いでませんよ。
 
どんな事でも。
 

俺おれ詐欺とかってあるけど、騙されるっていうんだって、
気がついた時から始まるんだよ。
 
「あっ、騙された」
って思った時から問題が起きるんで、それまでは
いい気持ちでさー、「どうぞっ」とか言って施しができて
気持ちよく施してるんでしょう。
やってあげて。
 
一瞬のうちに地獄に落ちるんでしょう。
 
「騙されたー、くそー、」とかって言って。そんなもんだよ。
 

で、騙していいかっていうとそんな問題じゃないけどね。
そういうことを問うわけではないけども。
 
それくらい平和に過ごせた自分がいるにもかかわらず、自分の思いで
平和に過ごせてた時の素晴らしさを全部ないがしろにして
奈落の底に自分で落ちるって事じゃん。
 
つまらない考え方を起こして。

 
誰も他の人はやってない。
 
そこも大事な事でしょう。
 
他の人が、「あんた、騙されたねっていって、「思いなさいよ」って、
「間違いなく騙されたんだから騙されたって腹立てなさいよ」って言われて、
そうやってくそーと思ったわけではない。
 
たった自分が一人、「あっ」、と思っただけでそうなる。


それが、日常騙されるってそういう悪い事でなくても、
親子の会話の中でもそれに似た事しょっちゅうやってるわけじゃない。


いつも自分のものの見方やそういうものがあって、
聞いたり見たり、触れたりしているからそうなるんですね、
考え方なんかめちゃくちゃなんだもの、人間って。


さっきまではいい人だと思ってたものに対して、なんだ、あいつは、って
すぐそれくらいコロっと変わるような事平気で思えるんだものね。

 
あてにはならないね、自分の思いって。
そのくらい、いいかげんな思いを皆さん方、信じて生きてる。
 
そういう事だって、考えて御覧なさい。
 

自分自身って変な奴ですよ。
 
ものすごい変な奴ですよ。
 
それで、みんな人のせいにする。

 
そういうふうになったのは、人がなにかさせたと思ってる。
そうじゃないしょ。
 
自分が自分の中でふっと思っただけですよ。

 

だからそういう事思うなっていうんじゃなくて、その事がわかりさえすれば
それに騙されないじゃないですか。
 
そういうふうな思いが起きても。
 
そういう人になったらいいじゃないですか。

 
そうしたら放っておけるじゃないですか、いろんな思いが起きても。
それがわからないと自分の中に起きた思いが気に入らない思いだと
自分で騙されるから、もっと手をつけてぐじゃぐじゃになって
どうしていいかわからんようになる、
そういう事をしないように生きて欲しいですね。
腹の立つ思いが起きたって、

(ぱしっ)
この通りです。

 

思った時だけそういう事がそこにかろうじてあるけど、
思いが止んだらないじゃん。


 
だから最初に申し上げたように、

思わない時に人は苦しんだ事ないですよ。
 

手がこう、すばっと切られたりして、
それだけですよ。
 
思い始めると、いろんな事ぐずぐずぐずぐずいっぱい出てくる。


だから時々何も思わないでいると人間楽になるんですよ。
 
スッキリするでしょう?しませんか?

 
疲れきっちゃうと、もう考えやめてる。

 
大の字になって寝るとはあー、いいなー、
 
ほとんど考えてない時ですよ。
 
だったら止めたらいいじゃないですか。

 
考え方止めたってねー、本当にお茶飲んだらお茶の味が
わからなくならないんです。
考え方止めたら、

(ぱしっ)
 
音がしても聞こえないって事はないんだよ。
 
全部機能はきちんとしてるんです。考え方止めても。


 
ところが考え方止めると人間愚かになると思ってる。
 
だからいろいろつまらない事考えてる。いつまでも。


だから日常生活にいるとなかなか難しいから、
さっきのように(座禅30分した事)少しの時間暇をとって、
いつでもどこでもいいから、静かに座って考え方を止めて
過ごしてごらんなさい。


その時なら間違いなくどんなものでも、どんな考え起きても、
放っておいても、生活の支障はないから。
放っておいたら楽になる。
 


焚き木だって、燃えた時に火に油を注がなければ燃えて終りです。
 
ところが、人間は何か思うと、そこに次の思いを加えるから、
あたかも火に油を注ぐようにどんどんいろんな思いを入れるから
いつまで経ったって余分な思いが止まないだけですね。

 
そんなことみんなよく知ってるでしょ?
 
 
考え方で何か整理ができると思うからつぎ込むんですね、考え方を。

 
考え方を使わない事が考え方を離れる唯一の道でしょう。

 
あとは、実践して、なるほどってものにするしかないじゃん。


 
こんなの、いくら後で、理屈で考えたって何の役にも立ちませんよ。


引用元

⑧へ続く。

 

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只管打坐の基本―坐禅入門8  東京都禅会by井上貫道老師


井上貫道老師の師・井上義衍老師のことば
  井上義衍老師とは→こちら
 ▷ 「我見をこれから離れるのではない。

我見の起る前があって、その前が自分の真実です。

それが本来の私共の心の在り方です。


空にする前に空であった事実がそのままズバーッと、みな、それだけでいいんです。


それをやると、必然に人我の見というものが、みな離れる。それが「道」です。
坐禅の一番大事な様子です。
 
作り手も、作られてもなしに生じ、生まれてくる。
知らずに出来たという、その根底まで、必ず落ちるに決まっているのです。

他に行き場所はないのです。決定的に落ちるんです。」




▷ 「五感というものは正直なものですから、その縁のまんまに受けるんです。

それが、ただそのまんまに受け入れられるようなところまでいけば大丈夫です。

ところが今の私共には、そこまで本当にいかんのじゃから、
縁に触れると、そこにすぐ心がついて動いてゆく、
そういう点を大いに警戒したほうがよい。

人の為に何かいいたくなる、やりたくてしょうがないという、
そういう気持ちが先に動きますというと、
自分の修行というものは結局できなくなる。」 

                                                        以上 井上義衍老師

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 禅 茶話会続き~2012年9月井上貫道老師東京都青梅禅会⑧
2013年04月17日(水) 




inouekandoroshizazen2ske2各参加者からの質問に貫道老師が答えました。


 
(主催者)
あのー、そろそろ、時間が迫りました。
何か質問のある方はどんどんご遠慮なく聞いてみてください。




(参加者)
考え方を止めようっていう事ですけども、

座ってて考え方を止めよう、
 
そうすると、また自分の考えでもって、自分の考え方を止めようとするとまた自分の考え方を使ってる事になると。

 
いつまでたっても終わらないんですね、考え方止めようとまた次の考え方、、、

 
結局座っている時間中追いかけていって終わらない




―それは、考え方を止めるって事がどういう事かわからないから
やってるんです。




(参加者)
それで、ある時、今老師の話を伺ってまして、
今、こういうふうに聞こえてる、
見えてるってとても大事な事だと、
今までのお話を伺ってる時に、あっそうだと強く感じた事がございまして、
あっそうか、そうか。
 

なんか非常に気持ちがスーッと楽になりまして、
今までこう気張ってた事が全部とれちゃいましてね。。。
 

気持ちが素直になっちゃうと、もう何でもよく、
考えとか、余計な事が必要なくなると。


そういう気持ちになった事がございまして、
だからやはり最初にそういう大きな気持ちがあれば、
あとはずっといれるんではないか、
という事がありますので、
ただ、それが一時的なものであって、
どういうふうにしたらよろしいかお伺いしたい。





―だから、これに尽きるんですねえ。

(バシッ)

こうやって音がしてるだけでいてみる、
それが考え方を止めてる証拠です。



こうやってものが見えてるだけでいてみる、って事が
考え方を止めてる証拠です。



人が喋ってる時にその話がその通りに聞けてるだけで
いれるって事が考え方を止めてる証拠です。



お茶飲めばお茶の味がきちっとしてるって事が
考え方を離れてる証拠です。



それに対して次の段階で、
それが、なんだって
ふうに出てくるんです。

それもただ音が聞こえる、
それなんだって
自分の事がそこで動いただけですから、
それだけです。

それだけなんですねえ。



思いって振り返ってみたらわかるように、
今思ったって事がわかった時に
初めて思ってたって事が取り上げられるんですね。



もっといえば、
思いが出てない時は、思いがあるとかないとか一切ないじゃないですか。


どうしなきゃいけないって事一切ないじゃないですか?


だけども、思いが動いた時でなければ、思いっていうのはないもんだから。

で、思いが動いた時にみてると、取り上げようと思った時にこの通りじゃん。



(バシッ)



音がしたんだけど、
今音がしたって取り上げようと思っても
音がないじゃないですか。



思いもそうでしょう。



さっきあーいう事思ってただけじゃないですか。

さっきあーいう思いが自分に生まれたってだけじゃないですか。



違いますか?


それを気がつくだけでしょう。



(参加者)
それ逆なんじゃないですか?
事実の見たもの、聞いたものは、もう消えちゃってる。
 
ものだけがひっぱってる、いつまでもある。
 
思いは消えちゃわないでいつまでも残ってる、だから悩むんじゃないですか?




―どうでしょうか?

皆さんどうですか?




(参加者)
よくあのー、どうこういう事が止まないんですけどっていう人多いですよね。
 
その時にそれを止めればいいじゃないと言われるでしょう。
 
それとまさにその思いがどうこうって止まないんですよ。と言った瞬間だけですね、
出てきたらこう。

で、それをぱっと気がつけば、叩いたのと同じように、消えてるわけですよね。
取り扱った時だけが、問題起こしてるだけですから。


今まではそれを止めろって言われたら、なんか言葉の綾で
ばんと言われただけだと思ってた、
正にそれ、適切にそれを言ってるんですね。

やっとちょっと気がつきました。




―だって、言葉だって、喋ってる時だけしか喋ってる様子はないでしょう。

それだけなんです。


思いも、思いが出てきてる時、
そういう動きをしてるだけであって、
その後にも先にもない。



もっというと、

次の思いが出てくる時はこれを見てると同じように
次の様子が出てくると前の様子は自然となくなるんですね。



前、見てた様子はこうやったらないでしょう。
ありますか?




(参加者)
あの、現実はそれはなくなりますよ、




―現実です。




(参加者)
だけど、思いだけが、
ずっと引きずっていくから、
問題がいろいろ起きるんじゃないですか?

消えないから。




―だから見てよ。消えてるかどうか。


じゃあ、言葉でちょっとやってみますがね、
昨日あの人にひどく殴られたよ、腹立ってるんだよって。


私が今やって、

そういや、さっき、
子供が遊んでたなー

っていう思いを起こした時に、
さっきの思いの事をその時やってるでしょうか。


やってないから、今子供があんなふうな事してるって事になるんでしょう。


もし、さっきの、その前の思いがあったらこんなふうにはならないでしょう。

入り混じっちゃって、思いが。



二つの事同時に思えないですよ。人間って。




(参加者)
そうですか?



―思いません。

必ず順番にやってく。



あれもこれも、
っていったって見てください。


あれも。


これも。

です。



あれもこれも一緒にやってません。


あれも。
これも。
それも。
これも。


何もかも
っていうけども、

何も。

かも。

です。



ひとつひとつ、

みんな、

です。



実際に、そういうふうにしかやってません。


体の動きもそうです。


いろんな事をするっていうけど、
よく見てると、
ひとつひとつ、その事をやってるだけです。


そんな単純なんですよね。



だけど、頭の中の構造は、ものを推察する時に、
そういうふうに見ないんですよ。



おっしゃる通りなんです。

ずーっと前の事が、残っているように、

そういうふうに観察してるんですね。



だからそれはね、もう一度、丁寧に自分の事ですから、
どういうふうになってるかを思いが起きた時に触れてみてください、
 
それではじめて、少しずつこうやって
 
あー、なるほど
 
って思える、

 
それまでは、なかなか言う事きかない。


 


まあ、百人中百人、恐らく同じなんですよね、
正解なんです、何さんの言われる事が。


それくらいにしか見てないんです、自分の思いに対して。



それだから厄介なんです。



話しても話してもなかなか通じない。





(老師、黒板に線をひいて説明する)

思わない時はないし、

思った時にはここで思って、

この間なくて、

ここで思って、

こうやって思うとですね、


ここで思ったものは、ここで思うとですね、
ずーっとなくならずに
あるように思うんですね。



これが、まず見てない事です。


また思えると、

あーやっぱりなくなってないじゃないか

っていう見方をするんです。



だけど、よく見ると、
この間は何にも思ってません。
そんなことは。



そういう事がわかってないんです。

だから、この間は何にも問題起きてません。不思議に。


この思いが起こった時にここにあるんだけども、
忘れて、
また同じ思いがここに出てくるまでの間は
思ってませんから
この時苦しんでいる人はいませんね。


だけど、これがまた同じようなこと、
二度目に思えると、
やられるんですね。


ほら、やっぱりなくなってないじゃないかっていうんだけど、
これはさっきの事ではないんですね。

さっきの事ではない。


(黒板を指して)

さっきはここで思った事。


これはここで思ってる事であって違うんです。



それはいつも申し上げるように、
ご飯何回も食べるけども
一回、一回初めて食べるのと同じです。



だけど常識的には、またお昼ご飯かというような言い方になるんですね。

だけど内容は違うんです。


だからこうやって自分の本当のあり様を一度見極めてもらわないと
普通にしゃべってる事がですね、
本当は違うんです。
それが誤解と自分で思うんです。





(参加者)
じゃあ、よく知り合いの人なんかで、ずーっとなんか考えちゃって
困るわーっていう人いるんですけど、

ずーっと考えてるわけではないんですよね?




―ずーっと考えてる人なんていません。




(参加者)
ずーっと考えちゃってて
その事で頭いっぱいで何もあまりできないのよ
という人いるんですけど、
ずーっと考えてて半年過ぎてるわけじゃない。
 

―あなたのところに来てね、
「考えてて頭いっぱいで何もできない」って
言ってる事自体が、みてください。

 
自分の思ってる事と違う事やってるじゃないですか。
 
既にしゃべれてるじゃないですか。

 
頭いっぱいで何もできないのではなくて、しゃべれてる。

 
それなのに、自分は頭いっぱいで何もできない、
 
そういうふうに思ってる。

 
それくらい違うんですよね。
 


引用元


⑨へ続く

 



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禅 茶話会また続き~2012年9月井上貫道老師東京都青梅禅会⑨
2013年04月17日(水) 


掛川 少林寺の井上貫道老師のお話です。


kandoroshioumesketch2

うちに来る人なんかでもそう。

「もう頭いっぱいで何もできなくて、どこにも行く気がしない」って。

うちに来てるじゃない。



「もう、食べるのも飲むのもできない」って言って、
お茶飲んでるんですよ。



それくらい、自分がやっていても、自分の事はどういう事か、
(老師、頭を指して)
本当にここがいっぱいになってる人は、
自分の事なんかわからない。


それで、「いったいどうしたら楽になる?」
っていうんですね。
「どうしたら楽になる?」って言ってる事が
もうスッカリ余分な事が抜けて
楽になってる動きなんです。


そんな事一切思ってないんだもの。

「どうしたら楽になる?」って思ってるだけでの話をしてるわけですから。


それなのに、自分の中にいろんな思いが残ってるって、みてる。

ないのに。


それだから何かしないと楽になれないと思ってるから
余計おかしいじゃないですか。


それくらい、自分を見るのが下手ですね。


で、聞かないね。なかなか。

なかなか人の話を聞かない。


聞き入れない。言っても。


「それはそうかもしれないけど、、、」と言って

何か他人事のように扱ってる。



だから、話よりも、自分の生活している事実に学ぶって事が
ものすごく確かさがある。

人の話だと受け入れて初めて役に立つけど、
自分の生きている事実だったら、否応なし。

逃れられない事ですからね。


実際どうなってるか、
歩いて来たんでしょ?




(参加者)
もし私が友人にまた愚痴みたいに言われたら、
「でも今は大丈夫じゃないですか!。」と言ってあげればいいんですよね?




そうです、はっきりしている事を教えるって事が大事なんです。

わからない事を問題にするんではない。


ね、人には必ずはっきりしている事がある。


そんなに苦しんでても、



(パシッ)



「こうやって聞こえるか?」って聞いたら
「聞こえる」と、
「大丈夫だっ」、と。

それを大事にさせるんです。

それが薬なんです。


ところが知らない人は病んでる方を治そうとするじゃないですか。




(参加者)
難しくしちゃう。




―ね、
走る時だって、
体がどっか悪い時に悪い所は酷使しないよ。

使える所だけでやるよ。

ね、
わからないっと、痛んでる所をいじってる。

何かしたくなる。

こっちは、放っておけば治るんです。

こっちのいいとこだけで、治るんです。

だからみなさん知ってるのは、
人を褒めるでしょ。
それが最高です。


気にいらない事いっぱいあるにきまってる。

だけども、下手の人はこっちをやるじゃないですか。

こっちを治そうと思って、またあんな事してって、
全部死んじゃう。

そうじゃない。


ちゃんとしてる事をはっきりさせて大事にしてったら必ず伸びる。



今度の震災なんかでも、ニュース聞いてると出てくるけど、
子供達にいろんな仕事を与えて、
小さな子でも、何でもいいから。



そうすると、それをやった後に、

ありがとうとか、
おかげでとか、

大人達がそういうふうに言う事によって、

僕でも、私でも
人の為になれるんだという事自覚して
みんな伸びてるんですねえ。

それやってますね。

まあ、ボランティアの最たるものです。


だから一番震災に遭った現場の人達が伸びてます。

今まで勉強しなかった。そういうこと。


そんな小さい時から、自分がこの世の中に生きてて、
人の役に立つっていう自覚があったら
生きてる力沸くじゃないですか。

駄目になるのは、私、こんなとこに生きてて
何の役に立つのかしら?って思う人達。


年がいくと特にそうじゃないですか。


あの人生きている価値があるのかしら?
って思えておかしくなるんでしょう。


これはこういう事だ、
はっきりしている事を、
ちゃんとしている事を
修行の上では大事にする。



だからそれをもうちょっというと、
考え方の方は置いとくんですね。

修行の時は。

考え方の上の事だから。



(老師、頭を指して)

別にこれ、とりあげなくてもいいんです。

事実の方をちゃんととりあげたらいいんです。

修行って。



だけど、
知らない人は、
ここで悩んでるとか、
苦しんでいるとか
いろんな思いがあるからこれを持ってくるわけでしょう。


どうか楽になるように教えてくれって。


これを取り扱う人は下手な人です。


これ取り扱ったら必ずやる方も考え方、
学ぶ方も考え方、
だから考え方の中でぐるぐるやってるだけ。


事実の方に絶対行かない。


だからこれを置いといて事実がどうなっているかを
きちんと見ていくっていう事が一番原動力です。




(老師、黒板を指し)
ここで思って、

ここで思って、

この間は思ってない

って事実がちゃんとありますから、


思ってない時どうだったか?

って聞いたら


苦しんでなかった


って言うでしょう。


問題なかったって。



だったらそれでいい、
そういう事が過ごし方として大事だという事でしょう。



それで、ここでまた思ったら、繋げる必要がないって事でしょう。




繋げるんですね。考え方を。

それやってますよ。

なかったのに、繋げちゃう。




そういう誤解をしている。 

だからやっば、どうしてもねー、
真実をよく、どうなっているかを見極めるって事が
修行の根幹なんです。



一日中一緒にいるんだから、
全ての動きの中で
勉強できるじゃないですか。

自分が今どうなっているか、
どんな事してるか。



それだけやってれば間違いなくちゃんと生きる。
道をそれずに。


本当はそういう事がいっぱい書いてあるのですよ。

それだけなんですよ。本当は。


八万四千の法門といって膨大な量をいうけどね、

いろんな、一、一に触れた時にどうあるかっていうことは、

細かく書けば八万四千なんです。数で。
めったやったら多いわけです。




けど、事実はそれだけです。
だって他で生活しないんだからしょうがないじゃない。私ら。



時間的には必ず、今生活する以外生活する場所ないんだもの。

この体のある所でこの体で活動するしか生き様ないんだもの。


しょうがないじゃない。



それなのに、そんな事から頭を遥かに離れた事考えさせるからね。

考えなかったら、人間的に欠陥者かったらそうじゃないしょ。


健康な人はたくさんできるって一番いい事でしょ。


お医者さんだって、自分が健康でなければ、
病気にかかってて人を診るって事しないでしょ。
移しちゃう。来たら。


自分が溺れてながら人が溺れてるのを助けようなんて
おこがましいというよりも、共に死んじゃうねー。


そういう愚かな事はするべきじゃないと思う。



生きてちゃんとしてさえすれば、役に立つよ。

必ず役に立つ。



動くんだもの、触れたら、これが。



さっき、何さんが歩いている時に
ビニールの袋が二つ道に落ちていた。

ちゃんと拾っていかれた。


どうするかなと思ってみたらさっと拾って。

やっぱりゴミが落ちてるってわかるからですよ。




その時に、「私の事じゃない、まあいいわ」っていう人は
見て見ぬ振りするのでしょう。

見て見ぬ振りするから、「落ちてたんじゃないか?」っていうと、
「知らない」とかって言うんだけど、
それは嘘を言うから自分の中で
スッキリしない嫌ーな気持ちで過ごすんだ、

よく知ってるよね、


誰か責めるわけでもない。

自分の本心と違う動きを自分が見解でもってしてる。


で、自分を擁護するようにちゃんと見解っていうのは立つから
人から責められた時、
別に悪い事してないしって守るように、
ちゃんとそういう考え方をふっと起こす。


それを起こして相手にその答えをしても
自分が一番よく知ってるもんだから
本当は自分はそうじゃないとわかってるから
そこをぐさってやられると
内心はちゃんと響いてる。


そういう事ですね、

そんなのが日常茶飯。



て、4時になったのですが



(主催者)
時間になりましたので、ここで第四回青梅禅会を終了させていただきます。

長いことどうもありがとうございました。


引用元

上のブログの作者様、これだけの文章を起こしてくださってありがとうございました。
修行者にたいへん役に立つお話が再現されたようです。












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「佛道をならふといふは、自己をならふなり」 ―道元禅師


▶仏道とは、本来の自己を自分で本当に見届けて、それに動かされることです。  ―井上貫道老師

▶修行とは、どっか他所(よそ)でやるんじゃないんですよ。 ここでやるんです。
いつもここでしか生きていないんだから。
もう1つの今なんてないんですから。  ー井上貫道老師


 
 

『学道用心集』の提唱の最終日:

inouekandoroshizazen2ske2全体に一言でまとめれば、みなさん、一緒に目を通していただいてるとおり、
自分自身の、今、生活している、今、今、生活している「ここ」でね、
この様子に学んでくれれば、このことがみな分かるようになってる。


でその具体的には、人間の持っている、五官ないし六官と言われるそういう道具がありますから、
五官=眼耳鼻舌身  六官=眼耳鼻舌身意 
その道具の働き、それを「諸機能」と言っておられますが、
その諸機能は、みなさんが考えておられるようなつまらない働きではない、
もっともっと、底抜け、大きな働きをして、初めっから、飛び抜けた立派な様子であるということ。


だからそういうお互いですから、自分自身の、その素晴らしい働きをしている、「本来の相(すがた)」と言っていいですか、
「本来の自己」と言っていいですか「自分」と言っていいと思います、
そういう誰もが持ち合わせてる素晴らしさ、宝物がありますから、
それを自分で本当に見届けて、
それに生涯動かされて、
思う存分、悔いなく、生きていただきたいと、
こういうことです。


あとは、何か条か出てましたけども、「有所得の心」。
いろんな意味で有所得の心、
「あれが欲しい」「これが欲しい」「ああなってほしい」「こうなってほしい」
いうようなものが人間にはありますが、
そういう、ケチなというか、小っぽけなというか、(義衍)老師が「つまらない」と言ってるんでしょう、
そういうものを、少しいただいて、喜んでるようなことにならんように修行してください。


ま、こういうことですね。


あとはほとんど、いいんじゃないかと思います。


もう少し補足をすれば、「どうしてそれでいいのか」いうことでしょう。

みなさんが描いている、本当に「知りたい」「得たい」「なりたい」境涯。


そういうものが、今のみなさんがたの動きそのものに、全部、あるということです。
どっか他所(よそ)にあるのじゃなくて。


だから、修行の仕方、求め方、というものが、
目を他所に付けるのではなくて、
自分自身の、今、生活している、このことに目を向けて、
そしてそれが本当にどうあるか、いうことが基本的なあり方でしょ。


そうやっていきますと、当然、自分の考え方なんてものは、全く、要らなくなる。

そんなものに手を付けててもしょうがない、それこそ。


ここに実物があるわけですからね。
生活してる実物があるんですから、それを人間の考え方で手を付けて、壊して、どうこうするんじゃなくて、
この、生活してるこの事実に用がある。

それをそっくりそのままいただいてみる。考え方を通すんじゃなくて。

それだけを、丁寧にやってくれれば、修行になるでしょ。






私たち自分が今生活してる様子が、坐禅の時は坐禅をしてる様子がある。
そんなにはっきりしているのに、そのことに参じて、触れていながら、生活を自分でしていながら、
そのことが自分でどうなっているか分からないっていうほど、愚かであっていいわけがない。

いわゆる、自分の生活を本当になおざりにしてるっていうことになるでしょ。


要するに、この今生活してる中に大事なものがあると思ってないから、いい加減にしてるんでしょ。

もっと他に大事なものがあると思ってるから、ここ今生活しているこの今のありように本当に目を向けていないのでしょ。


ところが、これも理論的に話したら少し理解がいくと思うんだけど、
私たちは、いついかなる時でもですよ、時間の上から言ったら、「今」だけですよ。
いるのは、自分がいるのは。

場所的に言えば、このものがいる「ここ」と言われる場所だけですよ、いつも。
そっから離れたことがないですよ、「今」とか「ここ」とかって言われる。


何十年生きようが。


嘘だと思うなら自分の様子を見てごらんなさい。
この身体のある所でしか生きてないでしょ。
この身体が行った先々でそのとおりのこのまま生活をしているだけじゃないですか、生涯。
それを端的に言えば「今こうやってるだけ」でしょ。


今だって「これ」以外にないでしょ。自分の生活してる、場所、時間帯。
だから、ここで勉強するしかないんですよ。このことで。


ところが、頭がちょっとおかしいもんだから、
「こんな所に?」って思ってますから、
「もっと他の時間帯/他の場所に行ったら何かいいことがあるんじゃないか」、端(はな)からそう思ってる。
そういう考え方の上で修行しちゃ、駄目ですね。それは修行にならない。


事実を抜きにしてものを学ぼうと思っても通んないですよ。


もっと普通に言えば、お茶の味を本当に味わいたいのに、飲まないでお茶の味を知ろうと思ってるのと同じぐらい愚かですよ。
やってごらんなさい、飲んだら必ず分かる。

どうもしないでも。

ここ(頭)じゃない。
これ(お茶)が教えてくれるの。


そうやって勉強するの、修行するの。

私の都合じゃないから、必ずこの中に入ってるお茶の味がするように出来てる。
いくらたくさんお茶碗があって注いであっても、他の人のお茶碗の味は絶対こうやってしないように出来てる。
そんなにはっきりしてる。
迷わないように。


それで十分じゃないですか、
このものの中に入ってるお茶の味が飲んだ時したら、それで。


このまま飲んだ時、他の人の中に入ってるお茶の味がするようだったら、もう人生めちゃくちゃだ。(笑)

そんなこと一切ない。

基本ですね。
修行、修行をどういうふうにして、どこで、何に学ぶのか、どうあるのか。

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▶私達は毎日朝から晩まで真実の中に生きていながら
「おそらく一度も真実に直接触れた事はない」って言っていいでしょう。


▶ 「お寺に座禅をしたいから」と言って座禅に来る。
「何かわからない事ありませんか?」と聞く。

誰も何も言わない。
 
「では、座りましょう。」と言って座る。
 
問うべき事を問わないんじゃないですか?
 
 
一応パンフレットみたいなもの渡して、冊子のようなもので図解ができてるものを差し上げる。
口頭でも多少話をする。
一応の形はできる。
そして坐禅をする。

 
こういう座り方(坐禅の仕方)で座禅になってるのだろうか? 
 
修行になってるのだろうか?というような事ですね。

―井上貫道老師
 



2013年4月の井上貫道老師の静岡禅会でのお話です。①

道元禅師 正法眼蔵春秋の巻
 
私達は毎日朝から晩まで真実の中に生きていながら
「おそらく一度も真実に直接触れた事はない」って言っていいでしょう。
 
考え方、を通して見てる、
いつでもって言っていいほど。
 
だから心底納得しない事があるんでしょう。 
 
ちょっと何か揺り動かすと自分の中で疑いが起きる。
 
不安な気持ちになる。
 
揺らぐじゃない。


それで。人につつかれればなおさら揺らぎますねえ。


どこに行こうがその事がその事としてきちっと伝わるようにできてる。
あたかも暗記してるように。
 
初めて出会うものだけども、初めて出会ってうろたえるような事はない。
 
どこへ行っても。
どんな事に出会っても。
うろたえるような事はない。

 
うろたえるのは現実を見ないで自分の頭の中でその現実を捉えて 
どうこうするようになると問題が起きてますね。


「痛い」っていう時に、「どうかしてくれ」っていうようなものはないんですね。
不思議に。
それだけで済むんでしょう。
 
「なんで?」というのは起きないんですね。

 
道を歩いてていきなりバタバターと足元から鳥が飛び立つ。
 
「なぜ?」とか、「どうして?」とか本当に起きないんだよねー。
 
それ、皆さん、経験あるんじゃないですか?

 
それが済んでから、「今のは何だったんだろう?」、「どういうことだ?」 
っていうような問題を起こす人はたくさんいる。
 
その時にはもう、問題がなかったところを通った後じゃないですか。
 
問題なく生活した後じゃないですか。

 
違いますか?
ちゃんと通れたんじゃないですか?
 

『正法眼蔵』はこうやって読んでみるとよくわかるように、 
『正法眼蔵』はそこに書いてある事を読んで理解するって
いうような事ではない事ですよね。
 
必ず自分自身のあり様としてそこがちゃんとしてるか、 
必ず問われています。

 
これが道元禅師の親切なとこでしょう。


もう一つ人間が生きてる場所があるならいいですよ。同時に。
今こうやって生きてるものと、もう一つ自分が生きてる場所があるんだったら、 
そっちがよければ、そっちにいけばいいんです。
 
ねえ、ところが、誰もよく見て下さい。
もう一つ生きてる場所なんかないじゃないですか。
 
時間的にももう一つの別の場所があるわけじゃないじゃないですか。
そういう事をまず熟知するべきじゃないですか。
 
ものを学ぶのに。 
 
 
パシッ(老師、手を叩く)
 
だからこの音を聞くのには必ずここで聞くしかないじゃないですか。
後にも先にも。
この場所で、
この時に。
この音を聞く以外にないじゃないですか。
 
あと、どこでこの音を触れる事ありますか?
一々そうですよ。
この音だけじゃなくて。生きてる様子見て下さい。
 
 
一々の生きてる様子は今ここで本当にその事が行われているだけであって、 
その他のところにどこにもないですよ。
 
 
そういう生き方を私達してるって事が脱落の身心と言われる所以でしょう。
何もかも離れ切っている。
 
要するに、私達が普段勉強して考えてる事と違うんですよ。 
このもののあり様は。

 
だからこのものの事実の方から学ぶんです。 

 
(老師、頭を指して)
この変な頭の方から学ぶんではないんです。
ここはつまらないものいっぱい詰めてますから、
そのつまらないものいっぱい詰めてる方から見たら、
そこにいくら真実が展開されていても
それを正しく見る能力は皆無に等しいでしょう。


どうしてそういう立派な人のところについて修行しているのに
きちっと問うべき事を問わないのか、聞くべき事を聞かないのか。
 
暑いという事はどういう事を言ってるのか。
寒いという事はどういう事を言ってるのか。
「そんな事、聞かなくたってわかってる」って、思うから問わないですね。


座禅もそうですねー、
「お寺に座禅をしたいから」と言って座禅に来る。
「何かわからない事ありませんか?」と聞く。
誰も何も言わない。
「では、座りましょう。」と言って座る。
 
問うべき事を問わないんじゃないですか?

 
一応パンフレットみたいなもの渡して、冊子のようなもので図解ができてるもの 
を差し上げる。
口頭でも多少話をする。一応の形はできる。
そして座る。

 
こういう座り方で座禅になってるのだろうか? 
修行になってるのだろうか?というような事ですね。
ここで言わんとする事は。



自分自身の事を本当に自分自身で見極めるって
誰からも指図される事ではない。
 
強要される事でもない。
 
人としてこの世に生まれて自分自身の事本当に知らないと 
いうのは哀れな事じゃないですかね?

 
なんで、この一個の中で、こうやっておりに触れて生活してて 
問題が起こるかって、よくよく見てみれば、自分自身というもの
わからないから問題が起きるんじゃないですか?
 
だってどこで問題が起こるかって、必ずここなんですね。
 
今以外のところで、問題起きた人いないんですよ。
 
問題起きると必ず、しかも自分の上なんです。
 
他所の人の体の上で問題が起きた事ありません。
 
必ず自分自身の上で問題が起きる。

 
その問題もですね、いろんなものにこうやって接触しますけれども、 
接触したその時に問題が起きるんです。
 
どういう風にして問題が起きるかっていうと、「何言ってんだー」、
「それどういう事だ?」、「あんなやり方ないじゃないか」
そうやって自分の中に触れたものに対して、皆自分のそういった見解を
起こして、それで問題起こしているんじゃないですか?
 
他にはないでしょう? 



「あー、なんてかわいそうな事か、私だけこんな事してていいのかしら?」 
そういって自分の中でふっと思うといたたまれなくなって、
「こんな贅沢してちゃいかん」と言って、
ご飯も食べずに人の為に施すような事する人もいるでしょう。
 
じゃあ、それずっと続けたらどうなるかって、 
自分は一週間食べずにいたら必ずおかしくなりますよ。
 
「みんな汗水たらして夜も休まずに働いている、私も」って言って 
一週間飲まず食わずに人の為にやるのはいいけど、ぶっ通しやって倒れる、
それ、皆考え方の生んだ愚かな事じゃないですか?
 
本当はそんな事が大事な事じゃないじゃないですか?
 
そんな無茶苦茶な事をしろっていうんじゃないでしょう?

 
もっと平凡な中に本当に誰もができて実行力があって、 
効果がある事あるんじゃないですか?
 
とにかく人間はそうやって、自分が触れたものに対して、 
自分の中で見解が起きるという事が
それから問題が起きてるんでしょ?
 
じゃあ回避するんだったら、その問題が起きてないところに 
目をつける必要があるんじゃないですか?

 
じゃあそれどこにあるか


人間の見解を起こす前にどうなってるかを見るべきじゃないですか?

 
触れたものが自分の見解を起こしてどうこうじゃなくて、 
触れたその一々のものが自分の見解を通さずに
それがどのように本当になってるか、それ抜きにして自分の好き嫌いで
ものを取扱って、ものが解決できるわけないじゃないですか。
 
参禅ってそういう事をするんじゃないですか。
 
本当に自分自身の今の様子に参ずるという事。 
 
用があるのはそこじゃないですか?

 
で、自分自身の本当の様子がない人は一人もいないんだから。
 
だけどすぐに見解が起きて自分の考え方でものを見る癖があって 
その前の正しいもののあり方のところに着眼する人ほとんどいないって事でしょう。
 
そういう事ずーっとこうやって伝えてきてる、そこやって欲しいという事を。
 
それが仏祖のかじょうなんでしょう、
で、あんまり当たり前だから修行にお見えになった立派な方々でも、 
立派な人のそばにいてもそれ以上追求するこない。聞く事もない。
 
そういう生活をしているから淋しいなと言ってるんでしょう。 

 

毎月一回木曜日、静岡駅から南へ徒歩10分の崇福寺 鯖大師で、
井上貫道老師の座禅会があります。
崇福寺臨済宗
 
夜6時半から9時まで、出入り自由、会費一回1200円、
25年続いており、正法眼蔵をテキストにして
井上貫道老師の提唱、お話があります。
会場などの詳細は、
井上貫道老師全国坐禅会日程にあります。



上記の文章の
引用元:http://ameblo.jp/10wanko28/entry-11528265009.html
文中、脱落の心身とあるのは、脱落の身心 に書き換えました

(このブログは
井上貫道老師まとめブログです
すなわちネット上にある井上貫道老師の様々な語録と坐禅会情報を一つにまとめて、
学人の参学の便宜とするものです)
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▶自分の見解を起こさずに、
本当に相手がしゃべってる時そのまま聞いているっていう事が
穏やかな生活ができている証拠じゃないですか?
ー井上貫道老師 



2013年4月の井上貫道老師の静岡禅会でのお話です。② 
道元禅師・正法眼蔵春秋の提唱から
 
①の続き

この前も紹介したんだけども、
あるお母さんがお寺に参禅に来てるから、 
「皆さん、ここお寺に参禅に来て何か目的あるんでしょう?」
って聞いたら、
「心が穏やかでいれたらいい」
ってその人は言われました。



「穏やかになれたらいいって、普段穏やかじゃないんですか?」 
って聞いたら、
「子供と話をするとすぐ喧嘩になるんです」 
って。


「すぐ喧嘩になるっていうけど、いつもそうなの?」
ったら、
「いや、そうでない時ある」 
って言ってました。


「どういう時?」

「それ、自分で相手の話をただ聞いてる時だ」 
って言ってた。

それ、穏やかだそうです。
喧嘩にならないそうです。


自分の生活の中知ってますよ、だから。
だけどもそういう事が修行だと思ってないから。
お寺でも行ったら、もっと楽になるんじゃないかと思ってる。

そうじゃない。


本当はそうやって自分の見解を起こさずに、本当に相手が 
しゃべってる時そのまま聞いているっていう事が
穏やかな生活ができている証拠じゃない?


それが、禅の教えだとか、仏教の教えだとか思ってないんですよ。
不思議ですね~。

どっかに別な教えがあると思ってる。



そういう事が問われてるだけなんですよ。
 

知らないと、その話をしてる時に、まだ他の何かをして 
幸せになれると思ってるんですよ。
 

やりかえて、何か他の事やりかえて、人は幸せになれると思ってる。 


そうじゃない、ただ本当に聞いているだけで居れるようになったら
人は幸せになれるんです。



だって自分の主義主張を立てて相手の話を聞くからすぐ喧嘩になる。



修行は他の時間にないじゃないですか。

他の時間帯で修行する事はない。

その時にどうあるかだけじゃないですか?


そのやってる事、今会話してる事の外じゃなくて、 
会話してる事を材料としてその時に自分がどうあるかだけが、
それ以外のところで修行する場所ないじゃないですか。
 
取り替えて。
 

今会話してる事、会話するといつも喧嘩になるから会話する事は 
止めといて他の事でって会話始まってやるような事したら
おかしいじゃないですか。
 

お茶を出されてお茶を飲む事止めて、じゃあ何するんですか?

そうじゃない。


その事でいつも勝負でしょう。



その事の中に修行があるんでしょう。
こういう事が伝わってない事ですねー。 


町の方に出て行っていろんな人達と話してみるとよくわかる。
今やってる事を外してどこか違ったものを持ってきて、そこにあてはめて。
そういう事が修行のように思ってますねえ。



道を明らめた人、真実を見極められた人達のとりあげられているものと
ただ単なる見解、そういうもので取り扱っているものとは違う。

実物と偽者は違うと言っていいのかしら。



一度も本当の熱さに触れた事がないのに、 
文章に熱いとは火傷をするような事だとか、温度が何度かとか
書いてある事を知って、いかにも熱いって事を知っているように
思ってる事は愚夫の法でしょうかねえ。




今の社会ではだんだんそういう人増えてきた。


実物抜きでインターネットなんかを通してでもですね、 
あらゆる知識がすぐに検索できて、検索したものをみると
あたかもそれ、自分で知ったかのように自分の知識にしてる。


だけどそれは他人がやった事をわずかに見て 
そう思い込んだ位の事なんでしょう。

そういう事だと思いますよ。 


直ちに、今、ここで、直接に。
家に帰ってからとかこれからとか言わずに、 
今、ここで、すぐに。


この音声ひとつだってそうでしょう。

いきなり聞こえてそれで終わりです。

回避する所なんかどこにもない、
という事が春秋の巻の最後の詰めになってますね。


そういう事のために、『正法眼蔵』読んで 
どういうふうに、何を、どこに向かって、どのように
生活をしたらいいのかっていうことが伝わって。


伝わるっていうことは実践して頂けるようになるということですかね。

どうしたらいいかって事が伝わるって事は実践するって事になりますね。

実践しなければ、どうしたらいいかって事が伝わったって事ではないですね。

それでいいでしょう。

それ、すごい大事な事なんですねえ。


「あーそういうふうに書いてある」、「そういう事か」っていうのは 
伝わったんじゃあないですね。

それ理解に終わっただけですね。
あるって事は実践するんですね。
必ず実践します。


右行ったらちゃんとした所に着くよと書いてあったら右に行くんです。
そうするとなるほどここかあって必ず着く場所があるからそれでいいんでしょう。
そうすると書いてあったものが初めて自分で信じられる。


そこまでやって頂くと、こんなもの(老師、『正法眼蔵』を持ち)を 
持ち歩かなくても済む人になるんじゃないですか。


是非そうやって頂きたい。と思います。 



毎月一回木曜日、静岡駅から南へ徒歩10分の崇福寺 鯖大師で、
井上貫道老師の座禅会があります。
崇福寺臨済宗
 
夜6時半から9時まで、出入り自由、会費一回1200円、
25年続いており、正法眼蔵をテキストにして
井上貫道老師の提唱、お話があります。
会場などの詳細は、
井上貫道老師全国坐禅会日程にあります。



引用元
http://ameblo.jp/10wanko28/entry-11528265828.html
文中の 愚ふの法 を 愚夫の法 に書き換えました。


(このブログは
井上貫道老師まとめブログです
すなわちネット上にある井上貫道老師の様々な語録と坐禅会情報を一つにまとめて、
学人の参学の便宜とするものです) 

通常のブログでは、その記事の続きを読みたいと思いましても、インターネットの達人でない限り、
次の記事が探しにくいものですので

 
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▶思考回路は真実からいつも乗りおくれているから、
自分のなかで葛藤が起きるのです。
―井上貫道老師





『意根を断つ今一度坐禅について』前編
静岡県少林寺住職 井上貫道
 悟りの体現者・井上貫道老師のプロフィールはこちら

真実に目を向ける
 
 ようこそ一泊坐禅会にご参加くださいました。本日は坐禅の経験がある方、ない方と いらっしゃると思いますので、坐禅の経験のあまりない方もおわかりになるように、 お話を進めさせていただきたいと思います。

 先ほど坐禅をしていただいて、人間がこれだけ集まっていてなお、こんなに静寂な雰囲気が つくれる、ということを体験していただけたと思います。


普通は人が大勢集まると、静かには ならないことが多い。
 
ですけれども、坐禅という行をするときには、何千人いようが、何万人 いようが、
誰もそこに人がいないぐらいの静けさというものができます。


 それが雑踏のなかで生活をしている人は、「たまには静かなところへ行って過ごしたいな」 と思う。
人のいないところを探して、「きょうは静かないいところへ来たな」と思っている。
 
けれども、だいたいそういうところにみんな行くものですから、せっかくの静かな場所がたち まち騒々しいところになってしまう。
 

こういうことが普通の生活のなかで起こることです。
 

ところが坐禅は、どんな喧騒のなかでも、みなさん方が自ずから静かな場所をつくるという行 であります。



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それから坐禅を行なう時の注意点として、道元禅師さまは目を開けて坐るということを おっしゃっています。
これはひじょうに大事なことです。

坐禅は瞑想とは違います。
 
だから目を開けて坐る。


ではこれにどういう効果があるのでしょう。


目を開けて坐ると妄想が 断ち切れるのです。


目の前のものが見えてますから、見えているだけでいるあいだは、 妄想が起きてこない。



 坐禅は、「真実」に用があるのです。


妄想は頭のなかで描いた青写真、あるいは砂上の楼閣 のようなもので実際にはありません。

 
しかし、考え方、思いの上に生じたものと造りものでない 事実との区分けをよく知らないと、
妄想を相手に坐るようになる。


そうではなく、真実(ぬきさ しならない今)に目を向けるのです。



 そこで本日の題「意根を断つ」ということになろうかと思います。

「意根」の「意」は「思い」 です。

こころのいろんなものを思わせる働き。その大きなものを「意根」といいます。
 

 人間の生活のなかでいちばん厄介なことはなんでしょう。

それは、なかなか自分の思いどおりに ならない、ということではないかと思います。
 
もし自分の思いどおりに全てのことが運ぶのだったら、苦労をしませんね。
 


ですがそんななかにあっても、この「思い」というものを自由に、世のため、人のため、そして人の邪魔にならないとか、傷つけないとか、汚さないというように使える人 になってほしい。

今日はそうした人になれるようにお話をしていきたいと思います。



 自分の「思い」が不自由のもと

 ではどんなことが日常起こっているのでしょう。

私たちは事柄にふれて、そのままの「思い」で いられる人はほとんどいません。
 

たとえば夕方お寺に着いて、控室に通してもらった。
 
通してもらったはいいけれども「どこへ坐ったらいいかな」と様子をうかがう。
 
先にいた人に「空いているところへどうぞ」とか、「こちらへどうぞ」とか言われると、安心してすっと坐れる。


今度は坐った はいいけれども、誰も何も口をきかないでじーっとしている。
 
5分、10分と時間が過ぎるにつれ、ひじょうに重苦しい雰囲気になってくる。


そのあいだどうしているかというと、ほんとうにいろんなことを「思う」のです。
 
 
 
「これから何をするんだろう」、

「あとどのくらいこうしているのだろう」、

どんどんいろんなことを思い、負担となってきます。 



こうして、人は自分の「思い」によって不自由になるのです。
 


 お釈迦さまは6年間坐禅をされたといわれていますけど、
その間、いろんな「思い」をする働きから離れて、
真実のまま活動している自分に目を向けられました。

 
ですから坐禅も、
こころで思いをめぐらすということをやめないと、正式には坐禅とはいいがたい。



 お釈迦さまが出家をされて修行をはじめた当時は、どの修行者も人間の考えかたを中心にしていました。


お釈迦さまも、出家をしてはじめのうちはそういう指導者のもとで、
いわれるとおり、断食をしたり苦行といわれるあらゆることをされました。



それでも、自分のなかで一つも解決されていかない。
これはどういうことかと申しますと、
頭のなかでこういうふうに思ったら、このように理論づけていったら、という定義があるだけ。

このことをやめたら、たちまちただの人になってしまいます。



 もっといえば、力を入れているときだけ立派そうに見える。
 
願力とか信念をもって続ける、戒を守る。
こうした人は生活態度を拝見しても実に清浄な姿で、あこがれでもあり、「立派な人だ」とみんな思ってくれる。

でも、お釈迦さまはそれではご自分の解決がはかれなかったのでしょう。



 そして、自分でどれだけ苦行などをやってみても、この自分の「考え」というものが自分を承服させない。
最終的に納得させないということにいたった。

当時の世の修行者と違う方向に向かった理由は、 これではないかと思うわけです。



 幸いに当時、『梵我一如』=「宇宙と自分は一体である」という思想がありました。
 
だけども、どうしたらそういうふうになるかわからない。


そこでお釈迦さまは、「これはなに」、「これをやって」、 というような、
人間の考えかたで物事を追求することをやめてみたんですね。


時々刻々と追求せずに過ごしてみる。
 
人間の考えかたで追求することをやめてものごとにふれてみる。



 こんなことはみなさんやったことがないでしょう。
 
普通は、これは四角形であるとか、こっちは黄色で、こっちは白いとか思う。



でもそういうこともやめて、有るとおりに生活をして、

是非をつけない。 

よしあしでものを見ない。比べない。
 

これが「意根を断つ」ということでしょう。

 

そうするとみなさんがあまり見たことのない、気づいたことのない世界が出現すると思うのです。





 思考回路から離れる

 いまのみなさんは自分の考え方で、追求していったら幸せになれる、何かが見つかると思って、
思考回路の総力を挙げて考えています。
 
これが普通かもしれません。
 

そう考えますと、お釈迦さまの考え方はまったく違います。
 

360度方向が違うのです。
わかりますか。

180度というと正反対の向きになります。 


これが360度というと、始点と終点がピッタリとしていて、見た目には何も変わりません。


どこが違うの かと思いますが、これがまったく違う。

お釈迦さまだけがやったことでしょう。



 (パンパン)と手をたたきますと、
人間の思考で追求しなくても、
不思議なことに聞こえてきます。 


「認識」というもののの育ちきらない小さなお子さんに、
(パンパン)
とやる。
 
その子に「聞こえたの?」と聞いても反応はない。
 
自分で聞いたという認識はないからです。


だけども、
(パンパン)
とやると、からだが反応する。
 
それでおとなは「聞こえているんだな」と思います。



 またはそこに熱い物が置いてある。
 
おとなは「熱かったから手を引いた」と思います。


ところが 「認識」のまだない子どもは、なにも思わずにやっているだけです。



そういう世界がある。お釈迦さまはそういうことを悟ったのです。



これは聞いてみればみなさん方も気がつくでしょう。

でも、 たいがい気がつかない。



それで何をやるかといいますと、
思考回路のうえで物事を追求することしか知らないからいろいろ思うのです。


 思考回路は人を苦しめ、悩ませ、ものがわからなくなる唯一の道ゆき、または配線です。
(使いようによってはすばらしいものだけれども)。


いま世の中で問題にされていることは、ほとんど思考回路のうえで起こってきました。




 ですから修行をするときに、この思考回路という道ゆきはいらないのです。


使わなくても、自分のからださえあれば足ります。


なぜそう言いきれるのかといいますと、
人というのは、いつでも、どこでも、だれでも、
このからだのあるところでしか生きられないし、
生きているところはこのからだの上の様子なのです。


これがすごく大事なことです。
 


 ですからお釈迦さまは、菩提樹の下で自分おひとりで六年も過ごされたのです。
 
ほかのものは何にも相手にしていません。
 

こんな簡単で単純なことです。
 

場所的にいえば、「ここ」という表現でしょうか。


では、どこを指して「ここ」というかというと、
このからだのあるところを「ここ」というわけです。



 みなさんは帰る家がおありかもしれませんが、そんなところで生活してないでしょう、いまは。 

 
 
家があると思っているだけです。

 

なくても大丈夫。
 
 
ここでちゃんとこうして生きています。

何の心配もありません。
 

これはキリスト教のおことばをかりれば、「三位一体」ということです。


サイコロの目のようなもので、1が出ようが6が出ようが一箇のサイコロのすがたに違いない。



時間的に いうと、「いま」。

 
場所的にいうと、「ここ」です。
 

それだけが人の生きている真実なのです。





 いま、完璧な真実

 仏教はだいたいいま申し上げたことが全てですね。これが「真実」。


これ以外は全部頭に描いたことです。


 
だけども不思議です。頭に描いたことで、お互いに話ができます。

 

「きのう、あそこで 会ったね」、「うん、あそこで会った」と、いろんなことをちゃんと話せる。
 

確かにきのうそういうことがあったに違いないのですが、
事実は事実よりも奇なりです。

人間の想像を絶します。


確かに体験して、あったはずのものだけれども、どこにもないんですね。


握った、離した、もう握った ことはどこにもないのです。

 

こうして両手を広げて、この広げていた両手は、いま、どこにあるで しょう。

 

思考の追求をやめてみるとはっきりわかるはずです。
 

広げていた手を握った途端に、げん こつがあるだけ。

これが真実ですね。



 立ったり、坐ったりといいますけれども、人間は同時に二つのことはできません。
 
立つと、坐っていたものはどこにもなくなります。
 
こんなにはっきりしている。


だけども、「立っていたのはどこへ行った」と聞かれると、
頭で追求して「坐ってそこにいるではないか」となる。
 
さっきそこへ立っていた人がいるように思う。



ここは頭がかたいものですから、どうしても事実のあり方につ いてこない。

それでみなさん乗りおくれるのです。

思考回路は真実からいつも乗りおくれているから、自分のなかで葛藤が起きるのです。




 それから、みなさんは目的というものを先に持っているかもしれませんが、いまやっていることで完璧ですよ。

 
布巾を持ったときはこの持ったとおりになるから、これで完璧。

 
離したら離したようになるから、これで完璧。
 
持っていたから、離したからどうかなるということではないのです。 


事実を見てごらんなさい。


握ったとき、確かに握ったことしかない。
 
離したら、離したということ しかない。



 きょうもある、あしたもあると思っている。
 
あしたになったら立派な人になると教えられて、信じています。
 
そうではないのです。
 


ほんとうに立派な人になるのには、
ただ、いま完璧にできているものを自分で、
「あ、ほんとうにそうだ」と納得のいくところまで事実に参ずることです。



 思考回路を使わないと、真実というものがよく見えます。
 
真実を見てみると、自分が探し求めていたものとぴったり符合します。

 
そういうことを、私たちは生活のなかでやっているのに、
思考回路が働くとすぐにそのことから目がそれてしまうのです。



 (パン)
この音と、

(パン)
この音は違うことを知っていますか。

 
人生のなかで、(パン)この音と同じ音はもう絶対にありません。
 

そういうことを知っていますか。
 

真実というのはそういうものです。



 「このことはいまに役に立つから、よく覚えておきなさい」と教えられるから、みんな一生懸命覚えます。
 
だけども、事自分の内面のことに関しては、役に立ちません。


似たようなことはあっても、二度と同じことがないからです。
 


 それでも自分の思考は、思考を重ねて、
似たようなことが出てきたから、あのとき、もし、
似たようなことが出たらこういうふうに次にやったら間違いないとか、
失敗しないだろうかとやり出す。 


だけども、そのようにやってみても、
思考回路が自分にたいして
「うん、それで間違いない」
と言わせないんですね。
 
これで「よし」と言わせてくれたら、ものすごく楽です。
 


みなさんが使っているマニュアルの世界で十分になってしまう。
 
マニュアルほどおもしろくないものはないですね。



 たとえばこのお茶碗をあそこからこちらへ持ってくるのに、ちゃんと足の運びまで決められてごらんなさい。
運ぶのにたいへんですよ。



真実とは、二度と同じことがないようにできているのです。 


ですから、やりっぱなしで平気でいられます。



一回一回がそれで完璧。いちいち完成度100%の真実なのです。   


         合掌



(後編へ続く)
引用元 http://www.nakanojouganji.jp/kihou/12inoue1.htm
『意根を断つ今一度坐禅について』前編 




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真実というのは、自分の思慮、分別、考えかたをやめてみたときの自分のすがたです。


事実を人は思考で汚しています
「思い」というものが人をたぶらかして、真実からかけ離れさせてしまうのです。

―井上貫道老師



*************************************************************************************************

◇ 目に見えるもの、耳に聞こえるもの、これらはすべて自分自身の様子なんです

事実に即していれば、考えが「やまる」んです。



◇ 六根(眼耳鼻舌身意)の働きのままに、浮かんできた思いをとらえずに手をつけずにそのままにしておく。



◇ (机を叩いて)「コン」とやると、
音がして気がつきますね。

音がするから気がつくんです。

気がつくのが必ず後になります。

気がつくより先にこういうこと(「コン」)があるんです。


これを丁寧によく見ていけば、それは人間の好き嫌いを超えているものだということがわかります。

そういうことに学ぶのが坐禅です。



◇ (外を車が走り去る音に)「ブーーーー」だけじゃないですか。

これだけです。

これだけじゃないですか。 




◇ 考えを「やめる」んじゃないですよ。
 



◇修行とは何もしないこと



◇五感を自分のために使うことをやめる



◇思いが起こってもそれを相手にしない、手をつけない  [思考を観察することでもありません]



◇思いがでないようにするのではありません




*************************************************************************************************




『意根を断つ今一度坐禅について』後編


静岡県少林寺住職 井上貫道

 人の行ないというのは、1回1回完成度100%の真実なのでありますが、自分思いからいえば、 「完璧ではなかったな」と思うことがあるかもしれません。

歩いていて、転んだりなんかすると、 「あっ、失敗した」と思う。

でもそれは、そう「思う」ことであって、目の前の事実は違う。

歩い ていて転んだら、転んだようにあるだけ。

それで何も悪くないのです。

それなのに、転ばないこと が人の求めているすがただと思っている。



 真実というのは、自分の思慮、分別、考えかたをやめてみたときの自分のすがたです。

まだ認識というものが育たない子どもさんたちがそうですね。

赤ちゃんには、ものにたいするこだわり はまったくありませんから、だから天真爛漫と表現されるようなすがたがある。
 

 ところが、赤ちゃんを抱き上げたとたんに泣かれたりなんかすると、私は嫌われているんだなと思う。

それなのに、「あの人の時は泣かないな」となると、「あの赤ちゃんは私が嫌いだ。あの人のことは好きだ」とこう思う。
「今度もまた泣かれるだろうな。いやだな」と。

ただ、こちらの姿がそのままその時赤ちゃんに伝わるから、泣いたり笑ったりするんです。

赤ちゃんのほうには、こだわりがないんですよ。

だからいくら大きいダイヤモンドをあげても、かたいし甘くもないから見向きもしません。

逆に汚いものでも口に入れて、うわーっとみんなが慌ててとるなんてことが起こる。

 

 だから仲良くなると、大事にしているものでもみんなくれますね。

先日、3歳ぐらいの子ですが、 私の名前を覚えて「貫道さん、貫道さん」と言いながら、お菓子を「これも、これもあげる」と手渡してくれました。

私が坐禅堂へとすがたを消しましたら、向こうで大きな声で泣いていました。

ところが泣き疲れてくると、そのうち知らん顔して、それで終わり。

でも、おとなはこういうことに弱いですね。 すぐに「ああすればよかったかな」なんて思う。


 なんにでもそうですが、すぐに余分な思いが起きてきます。

そして、「ああすればよかった」、 「こうすればよかった」と思いをいっぱい重ねて、しまいにはどれがもとの色だったかわからなくなってしまう。

「思い」というものが人をたぶらかして、真実からかけ離れさせてしまうのです。





 思いから離れ、目の前のことをやる

 これから道元禅師が残されたお言葉を参考に、お話を進めてまいります。

まず、
「修行の用心を授くるにも、修のほかに証を待つ思いなかれと教ふ」
とあります。

修行はどうしたらいいか。今やっていることの外に、なにかもっと素晴らしい世界があるのではない。

今にそいきれない人が、むなしさを感じるのです。

今から目が離れてどこかに探し求めるから、いよいよどうしていいかわからなくなる。

ただ純粋に、今のことをやりさえすればすむということです。



 ところが「なんで私が? どうして?」と、こういう気持が次から次に起きてくる。

その思い にしばられて、結局やれなくなってしまう。

やれなくなった自分がいやになって、卑下をしたり、落ち込んだり、結局もっと苦しむことになる。

そこへ人から「なぜやらないんだ」なんて言われると、 もう、もっといやになる。
たまらなくなる。

みなさんは身に覚えがないですか。


 おとなりの中国に昔、趙州さまという立派な和尚さんがおられました。

大勢の修行者が訪ねたそうですが、ある日、はじめて趙州さまのもとに来た人が、「どう修行をしたらいいですか」と尋ねられたそうです。


すると「朝ご飯は食べたかね」と逆に問われた。

 みなさんどう思われますか。どんな修行をすればよいのか尋ねているのに、この返答。

この人ちょっとピントがずれているんじゃないかと思いませんか。


 ところが修行にやって来た人、「朝ご飯は食べたかね」と自分の耳に聞こえるから、「はい、 確かに食べました」と答えたそれだけなのです。

すごいでしょう。

みなさんはこういうふうにできますか。

みなさんの場合は、すぐに思考回路が働いて、
「なんで修行のやり方を教えてくれないんだ。不親切じゃないか」
くらいのことを思うのではないですか。


 ところがこの2人、

「朝ご飯は食べたか」、
「食べました」、
「それなら器を洗いなさい」と、

それだけ。


修行の場でなくともわれわれの日常に転がっている話です。

これが、目の前にあったら 次から次へとやればよいということの一例になるかと思います。

 

 他にも例えましょうか。

本を速く読もうとして、先のほうへと字を追って読む。

でもそうしているうちに、なにがなんだかわからなくなってしまう。

結局は速く読みたいからといっても、書いてある内容が正しく読みとれなければ、本を速く読んだことにはならない。

われわれの生活も、いろいろあって忙しいと言いもし思いもしますが、実際には1つずつやるだけなのです。

うっかりすると 忙しさにだまされて、こころまでいらいらして、やるべきことが手につかなくなるのです。



 
痛いことでも、全部が大事なこと

 「修を離れぬ証を染汚せざらしめんがために、仏祖しきりに修行の緩くすべからざると教ふ」。
なにかをした時、そのとおりの事実というものがあります。

これは先ほどから申しておりますように、 その事実を人は思考で汚しています。

人間は思考によって追求すると、真実がわからなくなる。

 「直指の本證なるがゆえなるべし」、

パン、

この音は、この音のなかにしかない。

そういうのを直指といいます。

ほかに指さしてあたる場所はないですね。


だけども人間は愚かだから、どこかほかに真実があると思う。

今やっていることが本当だとはなかなか思えません。

それはそうなんですね。

自分の描いた思いのほうが自分に近いわけですから、自分の思いに当てはまらないことは、真実だと思いたくないわけです。
 

 日常的なことを例にしてお話ししますと、誰でもお腹はいつも正常に働いて、痛くないほうがいいと思っています。

どなたでもそう願っていると思うのですが、では痛いのを自分の意志でとめてみる。

でもね、ほんとうはそんなことはよくないですね。

人間のからだは、痛みが出てくるときには 必要があって痛むようにできています。

それなのに自分の意志で痛くないようになったらたいへんです。 
 
お腹の中が破れていても気がつきません。

自分の思いでは、痛くないほうがいいかもしれません が、この今の傷みを除いては今が成り立たないようにうまくできているんですね。

なんでも全部がありがたいこと、大事なことです。

自分の思考で色をつけ変えるより先にある全部が真実、大事なこと なのです。

それから手当ということが出てくるのです。




 毎日、毎回が驚きの生き方

h4zazendosk2 「初心の弁道、すなわち一分の本性を無為の地に得るなり」。

みなさんのなかに坐禅がはじめてという人はどのくらいおられますか。

はい、この方たちのこと、初心だと思いますか。

実は、初心というのは、ここにいる全員。

私も含めて初心なのです。

なぜかといいますと、きょうの坐禅は誰もやったことのない坐禅だからです。

人生で一度もやったことのない坐禅を、きょうみなさんはやった。

こういうことを初心といいます。

ところが何回も経験している人は、自分は初心ではないと思っています。  
 
でもそんなことはありません。一度もやったことがないんですから。
 

 私たちの人生はみなそうです。

これからやることは、一度も経験したことのないものばかり。

毎日がこれからはじめてやること。

なんとすばらしいことでしょう。

なんと輝かしいことでしょう か。

一度も見たことのない世界に出会うのです。

毎回、時々刻々と驚きばかりです。


ところが、ちょっと頭のかたい人は、「毎日、毎日同じだ」なんて思っている。

これは、思考回路で見ているか らですね。 
 
だから、どんどん老けていきます。

こころがどんどん老けて、なんの喜びも感動もなく なってしまいます。
 

 定年退職された方が趣味を何ももってなくて、寂しくぼーっと過ごしている。

ところが、趣味も何もなくても、人は毎日毎日、生まれてから見たこともないものばかりに、朝から晩までふれるのです。

だから、「あっ」「あっ」と驚きばかり。

それくらい新鮮な生きかたができるようになっているのです。
 

 そうしますと、おじいちゃん、おばあちゃんが孫と遊んだりしましても、おじいちゃん、おば あちゃんが、毎日毎回を新鮮に感じていればお孫さんも楽しい。

さきほど申しましたけど、自分の気持ちそのままが小さいお子さんには反映されるのです。

それが、何百回も経験したことだ、毎日同じだと思う人は、なにを見てもふれても感動がない。

そういうおじいちゃんやおばあちゃんが子どもと遊んでも、子どもは喜びませんね。
 

 「初心の弁道、すなはち一分の本証を無為の地にうるなり」
という、「一分いちぶん」というのは今ということです。

「今本性を無為の地に得る」となります。



 先ほどの控室に

「無為最も尊し」

と書いてありました。


どなたかが「何もしないということが尊いのですか」と聞かれましたが、これはね、パンという音を聞くときに、私たちは何かをしましたかということ。

特別に何かをしたわけじゃありませんよね。

それなのに、ちゃんと聞こえるようになっている。

こういうことを「無為」といいます。

人間の思考を離れた、本当の活動をしていることが 「無為」というのです。

「無為」というところに気が付いて、目を向けていくと、本当の修行ができるようになってくる。

これが「意根を断つ」ということになろうかと思います。


本日はありがとうございました。


  合掌


引用元 http://www.nakanojouganji.jp/backno/50inoue2.htm


▶事実には見解は一切つかない。事実は本当に一枚岩です。他に何もありません。

▶人の見解が本当にぶち切れてしまうということがない限り、本当の救いというものはないんです。

▶理性は、人を惑わす親玉です。理性を無視するんじゃないんですよ。

▶徹頭徹尾、死んでゆくことが大切なんです。人の見解というものは、絶体に自分を救う道ではないのです。

▶ものの存在も、人の存在も、すべてなくなってしまうという事実があるんです。

―井上義衍老師 
 



道元禅師は、当時、日本に高僧は多けれど、本当に悟りを開いている方がいないと分かって、
生存確率の非常に低かった中国行きの船に乗って、
仏法を真に伝えている正師を探しに行かれました。
いるかもいないかも分からないのに、命を賭けられたのです。


古人すら猶かくの如し、いわんや今人なんぞ弁ぜざる


現代の正師に参禅されんことを。


正師とは、宗教界で立身出世を遂げたいわゆる高僧のことではありません。
人間の決めた決まりの中で宗教的ヒエラルキー(ピラミッド型の上下関係組織)の中において
高僧になっている人は、正師とは無関係です。

自己を本当に悟り得たか(決着がついたか、大悟徹底できたか)、
お釈迦様と同じ体験をしたか、
ここだけです。

それを体現した方が、正師と言えるのです。
仮に、宗教界の中では、目立たない存在でも、その点がハッキリしていればそれで良いのです。

幸い、法燈は今の日本でも消えていないのです。








 
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悟りの体現者・井上貫道老師の大阪坐禅会での提唱DVD一般頒布しています



【内 容】井上貫道老師大阪坐禅会(年4回開催中)の提唱と質疑のすべて
提唱講本は、道元禅師『普勧坐禅儀』
貫道老師神戸坐禅会での動画は、こちらでは取扱がありません。

【頒布状況】
3ヶ月に1枚ずつの発行です。

3月6月9月12月の3ヶ月ごとに開催されている大阪坐禅会終了後完成まで最短で約70日が必要です。ですので、最新版は、坐禅会終了後から約70日程お待ち下さい。
大阪坐禅会の日程はこちら です。

200dvd0915200dvd0623 











1日分が1枚のDVDに収められています(プラスチックケース入り)

 

井上貫道老師の提唱は、ご自身が言われているとおり、

「いつも1回完結です 次の話を聞かないと分からないというようにはなっていません。」
 
 
ですから、どの日付のDVDを視聴されても大丈夫です。
仏道修行、坐禅修行、自分の今の様子の参究にお役立てください。

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上記ボタンがうまく行かない場合はこちらからご注文ください⇒ https://ssl.form-mailer.jp/fms/581a3b42462652



【12/15分からの抜粋】
2016年12月15日井上貫道老師大阪坐禅会DVDの内容詳細はこちらをご覧ください



【6/23分からの抜粋 (DVD製作者様から)】 今後、もう少し追記する予定です

「いつでもそのことがただその通りにあるだけじゃないですか。


他のものは一切無いじゃないですか。」


 


「自分がどのように生きているか、よく見て下さい。」









【9/15分からの抜粋 (DVD製作者様から)】

「実際に生活をしているにもかかわらず、取り上げるのはみな終わった後。

実際に生活しているど真ん中のことを本当に相手にする人は、百人中百人ほとんどいない。」




「(参禅者全員に向かって)

坐禅をやって手応えのある人、手を上げて下さい」


( 何人か手を上げる )







【頒布対象】このサイトをご覧の方々。
井上貫道老師の坐禅会に参加したことのない人もご購入になれます。
 
参禅未経験の方が、これをきっかけに、各地方の貫道老師坐禅会に参禅して実参実究くださることを願っています。




【製 品 詳 細】
参禅者である素人が撮影し、素人が作成した手製です。
音声は明瞭になるように、集音マイクを講師の傍に置くなどしています。
雑音は可能な限り処理してあります。

坐禅会参禅者は映っていません。
6/23分は左右に参禅者が座っていたため、それをカットしているので画面が狭くなっています。

 
DVD-Video形式なので、DVDプレーヤ、パソコンで視聴可能です。

無断複製は禁止とさせていただきます。
複製許可は、ご注文後の返信メールの返信で、大阪坐禅会にご相談下さい。 



【価 格】1枚500円、送料180円(2枚まで、3枚以上は360円)



【お支払い方法】振込:ゆうちょ銀行    または、大阪坐禅会現地での現金払い



【お渡し方法】郵送(スマートレター 郵便受け投函)または井上貫道老師大阪坐禅会 (神戸坐禅会や大阪高槻月曜坐禅会ではお受け取りできません それぞれ主催者・世話人が異なります)
日本郵便のスマートレターですので、受取日時の指定はできません。不在でも郵便受けに投函されます。
製作者は、毎日の仕事の後のプライベート時間の合間を見て無償で作業をされています。従いまして通常のネット通販のような迅速な対応・発送はできません。お申込からお受け取りまで最大1週間ほどはお待ちくださることをお願いします。



【販売元・発行人】大阪坐禅会 
主催者が異なりますので、大阪坐禅会以外の貫道老師関西坐禅会や他の貫道老師坐禅会でのお取り扱いはありません。
老師関係寺院でのお取扱もありません。

 

【売 上】大阪坐禅会運営費として、会場使用料・講師交通費・宿泊費・備品代などに充当します。 年に一度会計報告の予定です。




【注 意】
DVD発行元は、参禅者による「大阪坐禅会」です。老師の許可のもとにDVDを頒布していますが、お寺では扱いがありません。関係がありません。
書籍の発行元とも関係がありません。


・今後若干値上がりすることがあります。


・各坐禅会後、何ヶ月か遅れてyoutubeなどに無償で一般公開ありましても、それをご承知の上ご注文下さい。
 (youtube公開は、現在予定がありません(平成29年6月14日現在))

・パソコンにDVDプレーヤーが入っていなかったという理由( 特にWindows10ではご注意下さい )では返品返金できませんので、予め他の市販DVDなどを視聴してご確認下さい。


・上記以外の理由で再生できないなど製品不良・瑕疵の場合は、交換いたします。

 
無料のDVDプレーヤーがネットでダウンロードできます。⇒    http://www.gigafree.net/media/MediaPlayer/ などを参考にしてください。    (ただし自己責任でお願いします)

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箇の不思量底を思量せよ

「不思量底」とは何を指すのか。

 (カチン)これは人間の思い量りで聞いてるわけではない。

大きな音だとか、いい音だとか、一切そういうようなことなしに行われてる、

 その辺を不思量底と言うんですね。

いちいち皆さんが今触れているところです。     



――井上貫道老師17/3/23提唱から 【3/23提唱DVDからの抜粋】 DVD製作者様による文字起こしになります
不明点、疑問、足らないところは、坐禅会への参禅をお願い致します  実践して何か体験を得た場合も正師への参禅が必須です


【重  要】
神戸楽の森「坐る会」のサイト https://tinyurl.com/kobeteisho
にも、井上貫道老師の神戸坐禅会の提唱の一部が文字に起こされています。

大切なことを分かりやすく提唱されている部分ですので、ぜひ、ご覧ください。


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