坐禅の仕方と悟り,見性,身心脱落:井上貫道老師の庵 まとめサイト

Dharma Talks of a perfectly enlightened Japanese Zen Master Roshi Kando Inoue 井上貫道老師が、悟りを体現された経験から坐禅の方法や仏道について語られたものを掲載しています web上に散見される魯山貫道老師のことばも引用掲載し、まとめブログとしました ( これは参禅者によるブログであり、公式サイトではありません ) このブログが正師への参禅のきっかけになりますように

魯山貫道老師語録


『正法眼蔵』は道元禅師の思想ではない


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読みの一例:しょしゅんのれいげつにして、きよくかぜやわらぎ、うめはきょうぜんのこをひらき、らんははいごのかをくゆらす(かおらす)

「珮ハイ」とは腰に付ける飾り。帯につける飾りの玉。古代の装身具のひとつ。腰帯とそれにつりさげた飾りなどの総称。
香 の読みは、「こう」でも良いでしょうが、管理人は「か」と読みます。そして「かをかおらす(薫)」では、かとかが重なるので、「かをくゆらす」とします。


正法眼藏(しょうぼうげんぞう)は道元禅師(ぜんじ)の思想の結晶だと言っている方が居りますが、正法眼蔵は思想ではないですよ。

自分が、本当はどうなっているか、それが正法眼藏に説かれているのです

正法眼蔵は『曹洞宗』の書物でもないんです

―井上貫道老師

井上老師 静岡市の座禅会で正法眼藏を提唱

静岡市・崇福寺そうふくじ での井上貫道老師坐禅会

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貫道老師静岡市鯖大師坐禅会

【場 所】 静岡市駿河区稲川1-3-17  崇福寺そうふくじ(鯖大師)万松閣:門を入って右手白い建物2階です
JR静岡駅より徒歩約7分   ※崇福寺は臨済宗妙心寺派の寺院で、鯖大師(さばだいし)として有名です

【日 時】 毎月一回第一または第二木曜日夜6時半から9時まで

日程は主催者にご確認ください 

時:   18時30分~21時 早く着いた人は隨意坐(ずいいざ、ずいざ)が可能です 随意坐とは自主的に座禅することです



【内容】 提唱⇒坐禅⇒質疑応答 早い目に着いた人は、会場にて随意坐ができます
質疑応答まで出ないとなんのこっちゃで終わります。今までと何も変わりません。

【会 費】 一回1500円

【講 本】『正法眼蔵』水野弥穂子校注、岩波文庫(一~四巻まで有ります 古書店を探すと文字の大きい大判のもあります)
2019年7月現在で第三巻中程まで進んでいます

【問い合せ先】 ☎090-5856-1712 川上ふさ子様
【会 費】 一回1500円
【講 本】『正法眼蔵』水野弥穂子校注、岩波文庫(一~四巻まで有ります 古書店を探すと文字の大きい大判のもあります)2019年7月現在で第三巻中程まで進んでいます

【問い合せ先】 ☎090-5856-1712 川上ふさ子

【その他1】
質問、相談大歓迎 質疑応答の時間あります(茶話会)ので不明不詳をその場で解消することができます。 
お茶菓子ご持参下さる方 大歓迎です。

【その他2】 平成1年発足、30年続いている坐禅会 テキストは『正法眼蔵』(上記の水野弥穂子版)

関連ブログ:http://ameblo.jp/10wanko28/entry-11528265009.html (ブログ記事に貫道老師のことばが文字に起こされています)



井上貫道老師 静岡県磐田市の座禅会

井上貫道老師福王寺坐禅会

【場 所】 〒438-0084 静岡県磐田市城之崎4丁目2722−1 福王寺
【アクセス】 JR磐田駅前からバスが出ています
http://info.entetsu.co.jp/navi/pc/dispjikokutable.aspx?tp=HTML&bs=260120&pn=2&nw=0 (バス時刻表)
城之崎下車 北へ徒歩    磐田駅からの徒歩でもそんなに遠くないです
【日 時】 午前中です 原則は第3日曜日の9時から正午まで  2020年は6月に再開
日程の確認は必ず主催者にしてください
【内 容】 坐禅と法話と質疑応答
【問い合せ先】 ☎0538-35-7272 福王寺

磐田の福王寺は大変歴史の古い名刹です


井上貫道老師・磐田「りんごの会」

お母さん方の勉強会 (日程は変更になる場合がありますので、直接ご確認下さい) 
本音をぶつけるお母さん達のユニークな勉強会です
【場 所】 磐田見付公民館
【内 容】 お問い合わせ下さい
【問い合せ先】 問い合せ先 ℡0538-37-3068 主催者 高梨和子


月末には、浜松の弘誓寺坐禅会、龍泉寺坐禅会があります。井上貫道老師が講師です。弘誓寺(ぐぜいじ)、龍泉寺のご住職が講師ではありません。






 


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Transmission of True Buddhism

English translations of Dharma Talks of Zen Master Roshi Kando Inoue

Buddhism is not Buddha's thought like philosophy.
It comes from Buddha's Enlightenment and from nothing else.


Real Buddhism based on direct realization has been transmitted from age to age,though by not verbally nor literally.

In Japan some peole,albeit only a few,have got enlightened as Shakyamuni Budda dit 2500 years ago.


kandoroshiinzazen

Master Kando Inoue preaches Dharma for years

Among them a 76-year-old Japanese Zen Master Kando Inoue(1944-) teaches Buddhism and its training for years after his enlightenment in his teens.

Being a most prominent Zen Master of Soto School,he is one of the successors of a Zen Master Roshi Gien Genro(1894-1981), who is said among Zen Buddhists to be such a great Master as one who should appear only once in 500 years.


He teaches,living in Shizuoka Prefecture,widely in Japan from Tokyo down to Shikoku district,responding to Buddhism seekers' ardent demands.

His Dharma talks are recently published in several books and are open to public in Youtube videos.


Fortunately for those who do not speak Japanese Ms.Shizuka Tatsuta,one of his pupils, has started to translate those into English.

Many have already been translated and you can see here for her English traslations not only of those of Master Kando Inoue,but of Master Gien Genro,and of Master Dogen,who after his enlightenmen in 1225 under the guidance of Nyojo Zennji,one of the greatest Chinese Zen Masters, for the first time transmitted Real Buddhism from China to Japan in 1227 during the Kamakura Period.

written  by the author of this website

悟りの体現者・井上貫道老師が北米オリンピア禅会でZOOM提唱

高知坐禅会主催のShikkaさんによって井上貫道老師の語録の英訳がされています

また、ハンドブック『井上義衍老師語録』も彼女の手で英訳されています
上の英文は、禅に興味のある方にお知らせしていただくためのものです
女史の英文サイトにリンクされています


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井上貫道老師が中野成願寺じょうがんじの坐禅会で云われた言葉から

在家の人が悟る

世界的パンデミックの様相を示してきた今こそ、修行に励む時だと思います

明治19年(1887年)、コレラが蔓延して人が次々と亡くなりました 10万8千人に及んだとされています
巨匠・飯田欓隠(いいだとういん)老師は、東京大学附属病院の医師としてその治療にあたっていましたが、ついに医師としての無力感から人生の無常を感じ、広島県に行って人生はじめての坐禅を始められました【続きはhttp://zazen.blog.jp/archives/1076855603.html の中程から



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「倶舎論(くしゃろん)にありますが、在家の人であっても、悟った人はいきなりお坊さんと同じ扱いなんだよね。
そういう人は、僧侶になる手続き無しで、僧侶と同じになる。
……
力のある人が坐禅会をすると人が集まりますね。
だれもすすめないのに人が行くようになる。」


仏道というものは皆があとを嗣いでも問題はない


「ここに居る全員が悟ってもいんですよ。全然構わない。
世間のことだったら、全員があとを嗣(つ)ぐなんてできないけれど、この道はそれができるんです」
―2019年4月井上貫道老師

悟りの4ステージは間違い:預流,一来,不還,阿羅漢と悟りに四段階あるのは後世の作為で在家の人も阿羅漢という最高の悟りを開ける を読む


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今回は、代々木の松本自證師も成願寺坐禅会に参禅されていました。
松本自證師は在家で悟られています。
成願寺坐禅会を主催されている豊島徹禪(とよしまてつぜん) 宗師(しゅうし)は、料理人をされていた在家の時に自己を忘じられています。

松本自證老師の 「悟後の修行はないのが本当」を読む



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現代人だって悟りを開くことができる、今の人も大悟ができる根拠がある

今日、昔の人のように本当に大悟などできるものかという人が多いけど、これはうそです。

 
絶対にそういうことはない。
今日の人だって、必ずできるということです。
 

現代人だって悟れることを信じず、本当に修行しないから悟れないだけである

ただ、そういうことのあることを信じない。
 

それですから、せつかく坐禅儀などに方法も手段も説いてあっても、
それをただ理解するだけであって、
本当にやらんから分からん。


それだから、その体験がないから多数決でもって、
そんなことが今日の人にできるもんか、
と片付けたくなる。

 

もし、現代人が悟れないなら、お釈迦様の教えが嘘をついていることになる

もし本当に今日の人にできなんだら、経論みな焼き捨てにやならんです。

教えんでもいいんです。


こんなことが本当にあります、というたって、
今日説明として残っているだけで、
事実がないようならうそをついている。
そういうことになるでしょ。

そういう面で大いに考えなければならんところです。

―井上義衍老師 (井上貫道老師の師)『無相伝光録』p.41-42)
『無相伝光録』購入はこちら 

井上義衍老師とは→
こちら  

以下に、井上義衍老師の法嗣の井上貫道老師のことばがあります。
galaxies


以下は井上貫道老師『正法眼蔵』提唱から

悟りを体験せずに批評したり、否定したりすることは根拠なき発言となる


気付かない限り[悟らない限り]、人間は本当にはケリがつかない。
毛筋ほどの疑いであっても必ず残る。


そういうものが残ると表現しきれない。


そのために生ずる
「悟りなどどうでもいい・必要ない・ないのが本当だ.あったら嘘だ」
というようなご意見は、もう一度考えて欲しいのですね。


悟りの正体を見届けた上でのお話として扱ってもらいたい。



一度も食べたことのない人が
「どうでもいい」とか「必要がない」とか「そんな味がするわけがない」とか、
もしそういう評価をしたらおかしいじゃないですか。


少なくともそのものをお食べになって味わった人なら
「これは商品として大したことない」とか酷評をしても構わないじゃないですか、
その場合言われていることに何か真意がありますからね。



ちゃんと食べたなら、
なんで「悟りなどどうでもいい」というのか、
なんで「必要ない」というのか、
「悟りなんていうのはあったら嘘だ」となぜ言うのか、
ちゃんとした理由がある筈(はず)です。


だけど食べない前に、食べた事のあるような話をしたらおかしいです。


だからここの処は私たちも気をつけたいところですね。


ー井上貫道老師 『げんにーび』 (正法眼蔵現成公案提唱) p.89
井上貫道老師『げんにーび』購入詳細はこちら 


悟りの様子は誰にでも有るが、自覚がないとそう思えない


悟りの様子もみんなに具わっているんだけれども、
自覚がない限りは誰も自分にそれがあると思っていないのです。

そんな素晴らしいことがあるとは思っていない。

ー井上貫道老師








 他の井上貫道老師『正法眼蔵』提唱は、こちらのブログにあります
 ⇒ 『正法眼蔵を学ぶ』

 
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【坐禅会開催の最新情報】※成願寺坐禅会の参加方法(予約制・昼食持参・終了時間)が変更されているのでご注意下さい 成願寺坐禅会の予約はこちらのページから主催者へ  神田は、神田坐禅会専用ページ: http://yotaro12.livedoor.blog/ に最新情報があります

坐禅中に思い・想念が出て来ても… [重要]

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出てきたって言って取り扱うから、そのことが厄介になっているだけであって、出てきたことが問題じゃないんですよ。

ああまた出てきたっていう取り扱いをすることが、自分で嫌なんです。
出てくる方はただその時にそういうことがあるだけ。
「また出てきた」って風にはならない。

ただポッと出てくるだけです。


ポッと出てくると、あ、また出てきた、まだ忘れられない、まだ離れられないって言って、そういう風にして出てきたことに対して、違った自分の見方でとらえて、作り替えてるでしょう。

出てきたものにそんなものついてないじゃない。

また出てきたとか、まだやまらないとか。
何回出てくるんだ、しつこいなとか、一切ないんですよ。

ただ出てくるだけなんですよ。

だからその思うことが問題なんです。出てきたことに対して、そうやって。

だけど思いをやめてみると、ただそういう風にポツッと出てきただけで終わるってことがよく分かるから、なんだあって。そうすると楽になるじゃん。

楽になると大体そんなことはね、しょっちゅう思い出さなくなるよ。

―井上貫道老師 12/21/2017大阪坐禅会の提唱DVDから
DVD制作をされている参禅者による文字起こしになります



関連記事の坐禅中の想念について を読む


井上貫道坐禅の仕方ダウンロードする
無料です↑ 編集者からのご厚意で提供されている 『井上貫道老師提唱:真実・悟り・禅修行とは』から作成された抄本です
 












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現代の悟りの体現者の説くやさしい正法眼蔵提唱録

正法眼蔵は自分自身(あなた自身)の取説とりせつ(取扱説明書)だと言われています。
正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)は道元禅師の哲学ではありません。

それを現代の悟りの体現者・井上貫道老師が提唱されています。

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現在、
井上貫道老師の正法眼蔵提唱録の書籍が3冊出版されています。

『げんにーび 正法眼蔵現成公案提唱』
『正法眼蔵・梅花提唱録』
『正法眼蔵・三十七品菩提分法提唱録』

老師の渾身の提唱が、会下(えか)の龍田しづか女史によって文字化され出版されています。(『げんにーび』以外)。

皆様の参学のお供におすすめいたします。

しづか出版専用サイト 
をご覧下さい。
そちらから直販されています。

Amazonでも井上貫道老師書籍販売中

Amazonからも購入が可能です。
 井上貫道『正法眼蔵梅花提唱録』はこちら
 井上貫道『正法眼蔵 三十七品菩提分法提唱録』はこちら
 井上貫道『げんにーび 正法眼蔵現成公案提唱』はこちら
 井上貫道『真実・禅修行・悟りー新潟東山寺接心提唱録』はこちら

 正法眼蔵は 「しょうぼうげんぞう」と読みます
 眼 は 仏教では、眼耳鼻舌身意(げんにびぜつしんに)とか、慧眼(えげん)、仏眼(ぶつげん)のように「げん」と読みます

井上貫道老師提唱DVDも頒布中

井上貫道老師の『坐禅の仕方・普勧坐禅儀提唱録』のDVDが頒布中です。
在庫なくなり次第終了します。
 井上貫道老師提唱DVDのご注文はこちらから

自他があるように思うのがすべての誤りの根源

私達だって只一枝でしょう。この世に只一人です。本当は。

人が何億の人が居ようが、只一枝ですよ。何処まで行っても、何処まで行っても自分の様子ばかりです。

本当にそう言う風に出来てるから不思議です。
エーそれで、『只一枝』だって言う事は、どう言う風に有難いかって言うと、「異枝にあらず。」出てきますね。他のものは無いですよね。一枝だ。

これが中々、でも話してるんだけども、心底自分で納得が出来るかって言うと、中々そうでもないですね。
隣に奥さんが居たり、旦那さんが居たり、子供が居たり、回りに社会の人が居たりする、一杯色んな人が居るじゃないかって。其処が先ず第一の関門なんでしょう。一枝だとは思えない。自分自身の様子だけではないって言う風に、そこで勘違いするんだよね。

 何回も申し上げますけど、そのそう言う風に認識が出来てる事自体も、このものの働きですからね。他の人の様子ではないですね。見えてる事自体もこのものの働きです。そしてそれが数えられる働きも皆自分自身の様子、働きです。

他の人が一切やってません。それだのに、自分がやってるんだけども、何時かしら、自分自身が自分自身のやってる事の中で、自他を立てるんですね。
そして、自分でないと思わせるんです。知らない内にそうやって自分に納得させるんですね。
―井上貫道老師『正法眼蔵梅花提唱録』より


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正法眼蔵を正しく理解している人は皆無

正法眼蔵の解説書はたくさんあり、正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)を読む人は無数に居ますがみんな道元禅師の思想だと思っている
そして今、誰も本当の仏道修行をしていないのですwaterfallandmonk
上はブログなどへの転載のために作成されたフリー画像です

正法眼蔵はまったく誤解されている 1,000人中1人も理解できていないという現実

[この事は]ありきたりの話ですよ。もの凄く当たり前の話です。パン!(机を打つ)だけども、当たり前なんだけども、噛みしめてみるとですね、噛みしめれば噛みしめる程、この事が如何に大事な事かって言う事がよく分ります。
これなくして、ものは成り立たないのです。本当に。
でもこんな事が仏法だって思ってる人、千人の中に一人も居ませんよ、悪いけど。千人よっても。
現代の社会で。だからこの道元禅師がこうやって残してくれている物があっても、これ読んでる人が沢山居るんだけども、そう言う風に伝わってないんですよ。これは大問題ですね。大問題。


悲しいことに大多数の人は無闇に修行している

そんな修行はお釈迦様以来本当の仏教では教えていない

 だから私達が、本当にこの受け継ぎをきちっと出来る人を育てないと困る、と思います。でも話してみれば、当たり前の事です。誰でもが当たり前の事だから、誰にでも勧めるのです。誰にでも勧めて、そうなってる事を誰でも分れば、必ず救われていくんです。他人の力借りずに。

これは自分の事だけど、自分の事がそうやって分らないから、問題が起きてるんです。殆どの場合。どうして良いか、何処に手をつけていいか分らない儘に、無暗に修行してるんですよ。

どっか行けばその内、犬も歩けば棒に当たると思ってるんです。無理です、そう言う修行の仕方は。そんな事はお釈迦様以来正伝の仏教の中には無いんです。そんないい加減な導き方はない。そう言う事が、正法眼蔵だと思います。正法眼蔵と言われる所以だと思うんです。
                    ―井上貫道、正法眼蔵梅花提唱録より


井上貫道老師のこの語録をもっと読みたい方は、
 井上貫道老師の著作(本・書籍)ーあなたの取扱説明書




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大原の孚上座が、宿泊僧のアドバイスで坐禅に励み、何日も経たないうちに太鼓の音で大悟

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説教師・孚上座が大悟するくだりのあらすじ

夾山[かっさん]の典座(てんぞ=台所係り)和尚が、雪に阻まれて予定外に或るお寺に宿泊をした。

その寺院では、孚上座(ふじょうざ)が大乗経典の一つ涅槃経(ねはんぎょう)の講釈をしていた。それに列席した典座和尚は、講義の途中、思わず失笑してしまった。

それを見逃さなかった孚上座は、その旦過の典座(てんぞ)和尚を部屋に呼び、どこがおかしかったのか、どこか間違っているのかを尋ねた。するともう一度そのくだりを講釈させた。
間違いではないけれどあなたは本当に意味が分かってそう説いているのかそれが問題だ。真意が知りたければしばらく講釈は止めて10日間ほど坐禅に専念したらどうですかとアドバイスをした。

そう言われた孚上座は正直に坐禅に励んだ。するとある夜、坐禅が思わず深夜まで続き五更(午前3-5時)の明け方になった。すると太鼓が鳴った。禅宗僧侶なら毎日聞いている太鼓である。。。

正法眼蔵梅華「夾山の典座に開発せられて大悟せり」

[夾山かっさん=寺のこと 中国では寺院は山にあったので◯山と言えば寺院の名称ということになります 転じてその山の住職の名前にもなります 日本では、山号としてそれを留めています 例:嵩山少林寺 禅宗僧侶の道号として◯山と言われることも多いです 例:魯山貫道、夾山善会(かっさんぜんね)]
[典座てんぞ=禅宗寺院の台所係]
[ 「上座」は僧侶の位(現在の曹洞宗や臨済宗の僧階とは位置づけが異なります) 
「孚」が僧侶の諱(いみな)2文字の下の文字  宗源そうげん なら 「源」さん と呼びます  ここでは僧侶は◯孚 という諱だったと思われます
曹洞宗には下の1文字だけで僧を呼ぶ習慣はなくフルの2文字で呼びますが、臨済宗に下の1文字で呼ぶ習慣が残っています 
江戸時代のある時期以降、元々面壁だったのを対座に変更するなど(これは明代に日本に来た黄檗宗の僧侶の影響)ことごとく古式を改変してしまった臨済宗に残っているのは不思議です]


井上貫道老師正法眼蔵梅花提唱

その孚上座の事が、所謂夾山[かっさん]の典座に開発せられて大悟したという因縁のものが、補注に出てます。475頁の補注です。
正法眼蔵梅華「夾山の典座に開発せられて大悟せり」

孚上座はもと、とあります。ざっと見てみると、「大原孚上座、揚州光孝寺にありて涅槃経[ねはんぎょう]を講ず。」「孚上座はもと講者なり。」とありますように、涅槃経の講釈、内容を講義をしてる人だったと言う事ですね。

旅をしていた夾山の典座(てんぞ)和尚が寺に一泊する

「游方の僧あり即ち夾山の典座なり」ですね。旅をしているお坊さん(夾山の典座)がおられて、たまたま、涅槃経を話している時に、そこに足を止められた。それは雪が深くてですね、雪にはばまるとあります。寺にありて、だから雪が深くなったもんだからしょうがない、そこに泊まる事になった。


その僧、涅槃経(ねはんぎょう)の席で講釈を聴く

そして泊まった時に丁度、この孚上座がですね、涅槃経の話をされていたので、ご自分もそこに連なって、お話を聞いたと言う事です。それで、話がどんどん進んで行く。「講すること三因仏性、三徳法身」そう言う所に、涅槃経のそう言う所になって、その講釈をしておられるのでしょうね。「広く法身の妙理を談ず」。

典座和尚、講釈を聴いて失笑

「典座忽然[こつねん]として失笑せり」孚上座が話をしているのを聞いて、思わずこの夾山の典座という方がですね、失笑だから、笑ってしまった。人が真面目に話してる時に、クスって笑うって言うのは、凄いまあ失礼な事かも知れない。或いは喋ってる方としては気になるね。もの凄い気になる。「孚、乃ち目顧して」目で顧みて、その笑った方ちょっと見たんでしょうね。

終了後典座和尚呼ばれる

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お話が終わって、その夾山をお呼びになった。「講罷りて禅者を請ぜしむ」まあ、何処からお見えになったとかって言う様な事で、お話になるのですね、向き合って。その中で問うて曰く、「某素智狭劣、文に依りて義を解す。適来講次、上人失笑せらる。某必ず短乏せらるる処あるべし。請ふ、上人説かんことを。」

私は話をしてるけども、本当は大した者じゃない。かろうじて、そこに言葉があるから、その言葉を解釈をして話している。そうしている中で、あなたが笑われたから、私の話を聞いて笑われたから、きっと何か私の話している中に、問題点があるんだろうと思うんで、どうぞ、そう言う間違った処があったら教えて貰いたい、指摘をして貰いたいって言って話してます。

偉い人ですね。普通、話をした人は、人がそんな事言ったら、黙って聞けって言う位、怒りとばすかも知れないけど、自分の事よく知っておられる。

典座和尚、なぜ笑ってしまったのかその理由を答える

 それで典座曰く、「座主問わずんば敢えて説かじ。座主既に問ふ、即ち言わずんばあるべからず。某実に是れ座主の法身を識らざるを笑ひしなり。」私は別に失礼な事をした訳じゃない。あなたが話した、法身の話を色々解釈されているのを聞いていて、全くこの方は法身というものを知らないなあって言う事があって、それでつい笑ってしまったって、こう言ってます。

あなたがその様に私を、私が笑ったのを見て、こうやってお招きして、それが私のどこに非があるかって聞かれるから、そこまで言われるんだったら言いますけど、って遠慮しながら言ってますね、夾山。

大原の孚上座、自分の説法が間違っている理由を問う

それに対して、「此の如く解説するに、何れの処か不是なる」私はあの様に話を、法身の内容を説いたんだけど、何処があなたが指摘するよう駄目な処、過ちがあるんでしょうかって、あくまで法に対して親切な勉強ぶりですね、大原の孚上座。

それに対して夾山と言われる典座職をしていた方、「請ふ、座主更に説くこと一遍せよ」もう一回話してください。孚曰く「法身の理は、猶ほ太虚のごとし。竪に三際を窮め、横に十方に亘る。八極に弥綸し、二儀を包括す。縁に従ひ感に赴く。周遍せずといふこと靡し。」って再び説いたんですね。

典座和尚の答え

典座曰、「座主の説不是なりとは道はず、只だ法身量辺の事を識得して、実にまだ法身を識らざること在り」言う事はですね、それらしい事はちゃんと言っておりますけども、まあ、もっと酷い表現をすればですね、本当にあなたはその事を見て来ないのに、見て来た様な嘘を言ってるじゃないかと、こう言う事です。

 本当に見なくたって、書いてあるものを勉強すれば、私達だってそうでしょ。大体の事は今だって言えるでしょ、勉強して。そう言う指摘です。頭からバチャッと否定したい処なのに、やんわりと痛いところを刺されたのが、この夾山と言う人の、何だろうね、懐の深さですかね。さすがあなたはよく勉強しておられて、法身の事をこうやって説いて、上手にお説きになる。それは間違いだとは言わないけれど、あなた本当に法身の真相そのものを、自分で見届けた事があるのでしょうか。誰か人の言ってる話を鵜呑みにして話してるだけじゃないのかって、こう言ってる訳ですね。きついとこですね。

それでも通るんですよ。通りますよ、それで一般には。だけど仏道を修行するって言う事では、そんな事では許されない。自分の中にも疑義が残るでしょう、人から突かれなくても。

孚上座、本当の様子とは何かと尋ねる

 えー、それを聞いてですね、孚上座が言われるのに、「既に然も是の如くならば、禅者当に我が為に説くべし。」だったら、本当の様子をぜひ伺いたい。この時、それだけ指摘した方の夾山が自分にその体験が無かったら、こりゃわやですね。話にもならないんだけど、ちゃんとしてるから、それに対して対応するんでしょう。

真相を知るには坐禅しかない

一度説法を中止して10日ほど[旬日]坐禅をせよ

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典座曰「若し是の如くならば、座主暫く講を輟むること旬日、静室中に於て端然として静慮すべし。心を収め、念を摂し、善悪の諸縁一時に放却し、自ら窮究看すべし」要するに本当に坐禅をしておらん、とおっしゃっております。考え方じゃない。事実を、本当に坐禅をして事実がどうなってるか、事実に学んで見なさい、とこう言っておりますね。

ここにも出て来る、「善悪の諸縁一時に放却し」とある。要するに自分の考え方で評価しない、ものに対して良いとか悪いとか。花で言えば、美しいとか汚いとかって評価をせずに、本当にそこに花があるんだから、その花の在り様そのものに、自分の評価を一切入れずにふれてごらん、と言う。そうすると、花の様子がよくわかる、とこう言う事でしょう。

坐禅のやり方

坐禅の時もそうです。色んな事が坐禅している時に、自分の活動があるけど、それに対して人間と言うのはすぐ自分で評価をする。例えば、何か思いが出てくると、思いに手をつけるなって言われてるから、手をつけない様にしなきゃいけないって、そう言う風な事やったりするのでしょう。ほっとけって、ほっとけば出て来ても、そのままほっとけ、あるいはそのまま流しとけば良いって言うと、そのままほって置く様な、流して置く様な、そう言うに扱うんでしょ。人間がやってるのは。人間がやってる善悪諸法を一時に放却してる状況ではありません。皆手をつけてる様子ですよね。知らずに手をつけちゃうんですよね、そうやって。教えられてる事を基準にして。何もしない様にって言えば、何もしない様に守る。そう言う事じゃない。何もしないって言う事は、そう言う事さえもしないのでしょう。手をつけないって事は、手をつけない様にする事じゃないのでしょう。ここら辺が本当によく話してみないと違うんですよ。真面目に一生懸命そうやってやってるから、ずれてくるんです。自分では言われた通りの事でキチッとやってると思ってるんです。それは諸縁を放捨してない。自分の考え方が、あくまで聞いたものに対して、自分の考えで受け取った受け取り方で、修行してるって言う事が、この辺のとっても大事な事でしょう。「極めつくしみるべし」本当に事実がどうなってるか、徹底自分の見解を入れずに触れてごらん、とこう言うのでしょうね。


孚上座、坐禅で徹宵して明け方に太鼓の音で大悟する


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 そして言われる通り「孚、一に所言に依り」夾山がおっしゃった事に拠って、「初夜より五更に至り」「鼓角の鳴るを聞きて忽然契悟せり。」一晩朝になるまで坐ったのでしょうね。そして明け方に太鼓がドーン!と鳴った。それによってアッって気がついたんですね。

「便ち去って禅者の門を叩く」だから昨日教えてくれた夾山の所に行って、自分の心境を告げたんでしょう。叩くだから、先ず行ったんですね。行ったら、典座「誰だ」って言う事です。戸を叩くやつは誰だって言う事です。孚云「私です」。で典座咄して曰く「汝をして大教を伝持し、仏に代わって説法せしむ。夜半什麼としてか酒に酔うて街に臥する」この夜中に、まだ夜が明けない頃に、丁度お酒に酔って町の中で寝てしまう様な事挙げてますね。ちょっとたしなめたんですね。普通だったら、夜が明けて、ちゃんと衣服を整えて、そして香をたいてお拝をして、そして参禅をする。これがまあ当時の在り方です。それだのに、まだ夜中寝ている頃に叩き起こしてって言う事ですね。非礼なんでしょう。そう言うの丁度酔っ払った奴が所かまわず喚いてる、夜中に入ってきたって言う様な表現をしております。

だけどそれにはそれなりの意味がある。そんなに急を要するって言う事は意味があるのですね。そこら辺が次の様子なんでしょう。孚云、「自来の講経は生身の父母の鼻孔を将って扭捏せり。今日より已後は、更に敢て是の如くならじ。」今迄は本当にいい加減な事を自分でさも本当らしく話して来たけど、もう二度とそう言う間違った事は、これから先しません、とこう言ってる。まあそう言うのが、一段の、碧巌の方にも出て来るのでしょう。

それがここの「孚上座はもと講者なり。夾山の典座に開発せられて大悟せり。」今そう言う風な因縁話があって、その話がそこに展開した事ですが。

 「これ梅花の春風を大少吹せしむるなり。」まあここでは、夾山の典座和尚さんに教えを乞うて、一晩坐って、朝の太鼓がドーン!と響いた。その事に拠って本当の在り様が手に入ったって言う事ですね。

これが梅花の春風、春風が吹いてきて、梅の花が咲いたと言う事でしょう。そう言う風に普通は読むのでしょう。春風が吹いてきて、梅の花が自ずからって。そこで、何輪か知りません、大少ですから、花がさいた。

太鼓の音に触れただけでそう言う事が、どうして悟ったか、理由は無い。ダーン!(大きな声で)それだけですよね。それまでは、太鼓の音をまさしく聞いてた人なんですね。ああ、太鼓が鳴ったって、その位にしかやってない。そう言うのを、お父さんお母さんの身体を借りて、この世に出て来た生身の体と言うのでしょう。そう言う上で、でっちあげた教えられた話。人から聞いて教えられた話であって、自分で本当に触れた自分の内容ではない。皆さんがドーン!とやった時に、どうですか。誰の力も借りなくても、その太鼓が一声鳴った時に、どうあるか。そう言う体験をしているに違いない。だけども従来の自分を見る癖がありますから、何だ、今、太鼓が鳴ってる、あれは何の合図の太鼓だとか、そう言うな事だけで生活してる。


 まあ修行寺に行くと、鳴り物が基本ですから、まずそうやって教えられるから、幾つ鳴ったらどうだとか、何時になったらどうだとか言う事を覚えて、そう言うものの上から太鼓の音を聞く癖がついてる。それはここで言う様に、人に教えられた聞き方でしょう。そうじゃなくて自分でなければ絶対聞く事の出来ない真相があるでしょう、一人一人。だって生涯他人の耳を借りて聞かないのですよ。言っときますが、音を聞くのに、片時も人の耳を借りて聞いた音はないのですよ、生涯。だったら、騙される事ないでしょ、聞いて。何で自分が聞いているだけなのに、腹が立ったり騙されたりするんですか、自分自身がやってる事で、自分自身が騙される様な愚かな事がありますか。眼だってそうでしょ。自分自身の持ってる眼以外のもので、見た物は私達は無いでしょう、生涯。一切他の人の眼を借りて、物は見ない。借りなくてもちゃんと見えるのだからいいじゃないですか。他人の見てるものと、自分の見てるものとで、何で争わなきゃならない。まあそう言うな事も出てきますね。時間もうちょっとあるんですが、どうしましょうか、一応梅花の巻き、終わったので、今日はこれで終りにします。

   ―井上貫道、正法眼蔵梅花提唱録より

その後の大原の孚上座

孚上座はその後、いつも1500人の雲水が修行していたとされる巨匠・雪峰義存禅師(822年-908年 せっぽうぎぞんぜんじ)に見(まみ)え、その法を嗣いでおられます。
伝燈の祖師の一人です。

井上貫道老師の大悟の因縁

井上貫道老師は、發心寺僧堂で畑に野菜を採りに行く時に、自分の下駄の音で大悟、決着をされています。

臘八接心の最中でしたが、野菜係の菜頭の役目があってずっと坐禅堂で坐っておられた訳ではありません。(一年で最大行事の臘八接心(ろうはつせっしん)中といえども、食事の準備をする裏方が必要です)

また大悟の瞬間は坐禅中ではありませんでした。僧堂安居2回目の臘八攝心中のことでした。


井上貫道老師の著作(書籍)

井上貫道老師のこのような語録をもっと読みたい方は、
 井上貫道老師の著作(本・書籍)ーあなたの取扱説明書


shobogenzobaika




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坐禅がうまく行かない本当の理由

 

【著書第二弾】
100kandoroshiteishoroku

『井上貫道老師提唱録amazon kindle版』
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これが最短の道―①わざわざ回り道をしないこと ②坐禅中の雑念の対処方法を知ること


雑念というのはないと教えられていますが、一応、まだ参禅したことのない方を対象にここでは「雑念」と呼びます

①わざわざ回り道をしないこと

修行してもなかなか悟りにたどり着けない理由①―やらなくても良いことをやって、わざわざ回り道しているから


上記、井上貫道老師の著書からのレビューです:
 個人的には後半に、心惹かれる、お話しが多くあった。一つだけ例を挙げる。
「悟るって言ったって、何のことはない。自分自身の“本心”に目覚めるだけなんですね。

……長い間色んなことやって、工夫したりそれを用いたりしているのは、“偽修”っていうのは、本当はやらなくてもいいっていうことでしょう。

そういうことをやっている時間があるから、なかなか辿り着かないだけなんですよね」(p88)

スリランカ仏教(上座部分別説部)の教えるラベリングをすると必ず自他が生じることになる

上記、井上貫道老師の著書からのレビューです:
家の近くのお寺で坐禅を始め、すぐに、故井上義衍老師の印可を受けている井上貫道老師が指導されている坐禅会(四谷三丁目の笹寺)で初心者指導を受けました。
「なぜ思量分別を用いないのか、

この考え方を離れている今の事実というものが

修行の上でなぜ欠かすことができないのか」


これまでスリランカ仏教の長老の教える瞑想をしていましたが、
欲、怒りと思量分別すると、
思量分別する主体(私・自我)が生じ、
言葉でラベリングをすると言葉を使っている主体(私・自我)が生じます。

対象に気づくこと、言葉でラベリングするという事は、
気づきの主体(自我)がずっと生じることになるという根本的な問題に気づいて、
スリランカ仏教から離れました。
(このレビュー全体を読む )
以上のレビューは、アマゾンに掲載された個人的な読後感想です。


※ラベリング=ヴィパッサナー瞑想で用いられる技法
現在、世界で教え、実践されているヴィパッサナー瞑想(タイ仏教・スリランカ仏教)は、19世紀になってから開発されたものです(もっと最近に開発されたという説もあります) しかも、シャマタが難しいものであるということが前提になっています

「スリランカ仏教の教える『悟りの4段階』や誤り」という記事を読む

※笹寺の坐禅会は、毎月一度土曜日夕方に四谷で開催中 参加者が多いです
老師は、午前午後は中野の成願寺坐禅会をされたあと、夕方の笹寺の坐禅会(主催:健康寺子屋)のために、四谷に移動されます
詳細は、井上貫道老師の全国坐禅会日程をご覧ください 
新宿四谷の笹寺での貫道老師坐禅会は、申込順で
定員があります。




②については、続きをご覧ください。
ちなみに、
念に「雑念」というのはないと教えられています。
どこかよそで聞いてきただけです。

②坐禅中の雑念の対処方法を知ること を読む





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坐禅がうまく行かない本当の理由ー魯山貫道老師著書から

2104-05schedule
 井上貫道老師の健康寺子屋(四谷・笹寺)の坐禅会は4月中止です

韓国でワクチン接種後に2人死亡
 日本でワクチン接種の60代女性死亡=新型コロナ、因果関係は不明―厚労省
 日本赤十字が、ワクチン接種者は献血を禁止することを発表
(日本赤十字社のサイトに「新型コロナウイルスのワクチンを接種された方は、当面の間、献血をご遠慮いただいています」と書いてあります つまり安全ではないということです)


これが理由―①わざわざ回り道をしている ②坐禅中の思い・考えを相手にしている

①わざわざ回り道をしている

老師は、ここでは説明をされていませんが、
「自分には悟る資格がまだないので、善行に励もう、徳を積もう」
「慈悲深い人・優しいでないと悟れない」
などと考えて、自分で結果を先延ばしをするとかがあります
哲玄老師や貫道老師は、悟る前は、お二人ともどちらかと言えば、短気な怒りっぽい性格だったと本人たちが言われています

悟りを開いた方々が、異口同音に「誰でも悟れますよ」と言われるのに、「とてもとても自分のようなものには、悟りなんて無理です」と言って、それを信じられないのは、仏道的に言うと、謙遜に見えて、実は高慢、増上慢の変形と言われます。 つまり、卑下するのも高慢の一種で卑下慢と呼ばれています そもそも、存在しない「自分」という固定的なものを勝手に立てているからです

「戒律を厳守しないと悟れない」と、勝手に信じ込むのもわざわざ回り道をしている例です
もしくは、それを逃げ口上に使って、「戒律が戒律が」と言って、少しも本当の仏道に励もうとしないのです


回り道のもう一つには、

「只管打坐は難しいので、まずは、数息観などから始めよう」
などと自分勝手に修行に段階を設けて、結局、数息観もはかどらずに、長年が経過してしまい(年もとり)、やがて、修行の真剣さが失われてしまう
などがあると思います 


「ヨガをやって、身体を浄化して、悟りやすい身体にしてから修行に励もう」
「悟るためには、クンダリニーを目覚めさせないといけない」
等というのも、回り道と言いますか、体の良い「逃げ道」ですね
(ヨガしか知らない人はしようがないですが、正法に出会った人が、わざわざ今からそういうところに時間をかけるのは、逃げているのだと思います 老師の話をちゃんと聞いていないのかもしれません)

 [ 以上の部分の文責は管理人にあります ]
 
 「スリランカ仏教の言う悟りの4段階は間違いである」という記事を読む

②坐禅中の雑念・思い考えを相手にしている

修行してもなかなか悟りにたどり着けない理由②―坐禅中の雑念の処理を知らないから
坐禅中の雑念・思い考えの対処方法
[註] 老師は、雑念という用語を一切使われませんが、ここでは、参禅されていない方を対象に、わざと「雑念」という文字をタイトルに使用しています。

ちなみに、道元禅師の『普勧坐禅儀』にある雑念つまり、思い・考えは、大きさで3つに分類されていて、
それは、念・想・観の3種です。
普勧坐禅儀の本文には、「念・想・観の測量(しきりょう)を止(や)めて、作仏と図ること莫かれ」とあります。



『真実とは悟りとは修行とは禅とは』のamazonに載せられた抜粋↓

井上貫道老師:
「では坐っているときにどうやって過ごすか。

坐る時のあり方として、

問題になるのは思量分別、色々なことが思えるというか、出てくるというか、

あるいはこちらから(意図的に)考えるということがあります。

…坐禅中はそういうものを、とにかく相手にしない。

出てくる思いに対して、自分の見解で識別しない。

いわゆる善し悪しを図らない。

これは良いこと、これは悪いこと、これは正しい、これは間違っているというようなことをやらない、

ということです。 

もう少し具体的に話をすれば、坐っていて色々なことが出てきたときに、4b0fc9cb5ac42a45611d7347609a1d88_s
人間と言うものは、気に掛かることが結構あるものです。

ですから通常は、その気になっていることを解決しようと思って、
自分の頭の中で色々なことを始めます。

これをとにかくやらないことですね。
だからどのようなことが出てきても、
思い出したものや考えたことで気にかかることがあっても、
それを相手にどうこうする、手を付けて過ごすということをしない。

また、その出てくるものに対して出ないようにするようなことも一切しません。

こちらから造作をして、作り変えるようなことは一切しないで坐るのですね。

それが坐禅をする時の工夫と言われる修行のあり方です。」

―以上は、アマゾンの下記著書からの引用


「言うとおりやってみようか・・・」なんて遠慮がちにやるからスカッと行かないんだね、半分ぐらいの人は。―井上貫道老師




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上記内容は下記の著書でご確認下さい。

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関連記事の坐禅中の想念について を読む


井上貫道坐禅の仕方ダウンロードする
無料です↑ 編集者からのご厚意で提供されている 『井上貫道老師提唱:真実・悟り・禅修行とは』から作成された抄本です



ちょっと待ってください。このままブログを閉じずに、↓↓
スリランカ仏教の言う悟りの4段階は間違いである

瞑想中・座禅中に眠くなる原因ー僧侶やベテラン一般人はなぜ坐禅中に眠るのか

坐禅中・瞑想中に眠くならない方法

現代の日本に夜中も眠らず坐禅できる人たちがいる

座禅・瞑想中の眠気の原因【続き】―室温や服装に注意


座禅や瞑想・スポーツでの眠気対策に仮眠が良い
もご覧ください。


閑話休題 








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悟った人は他人の喜怒哀楽の感情は理解できるのかー悟った人の生活・感情


今年2021年のGW中の井上貫道老師の新潟東山寺摂心は中止です
4月の井上貫道老師の東京での坐禅会は神田のみ実施、他は中止です
2104-05schedule


母が亡くなりました

hahatoko


何年か前のこと、母親がガンで亡くなりました。ちょうどお寺で接心が始まったので、葬儀の翌日、わたしは接心に行きました。(管理人の事です)

それまで毎回接心(攝心)には参加していたのですが、さすがにお通夜と葬儀の日には参加できませんでした。



接心参加した初日に早速独参に行きました。

内容はほぼ覚えていませんが、接心に遅れた理由として、母親の死の事を老師に告げました。
今思い起こせば、お通夜や葬儀では涙は出しませんでした。


そしたら、突然悲しみがこみ上げてきて、老師の前で大声で泣いてしまいました。

老師は、その間ずっと無言で対座されています。


老師のお母様は、
老師が2歳の頃病死されたこと、
老師は流石に母親の面影も何も覚えておられないこと
を以前伺ったことがあります。

しかし、その時は、私の悲しみと一緒に居てくださった、そのような感じがハッキリとありました。

葬儀でも涙を流さなかったのに、なぜ老師の前では声を出して泣いてしまったのかわかりません。
(老師はわたしの母はご存じないです)
お葬式の翌日でしたし、
この方の前ではどんな感情もさらけ出して良いと、心の奥では知っていたのかもしれません。


そして、静かになったわたしに一言、


「母親は一人しか居ないですからね」


それが母親の顔を知らないし思い出もない老師に言える正直な一言でした。



しかし、それは数々した独参中の老師の言葉で、最も印象的な言葉でした。


その後、自分の母のことに対して愚痴をこぼす人には、老師のその言葉をお借りして、
「でも、お母さんは一人しか居ないですからね」
と、そのように言っています。


その中で一人、とても親孝行になった人がいます。
老師のことばの威力だと思っています。

⇒ 【質問】悟ると喜怒哀楽の感情はどうなるのですか?  という記事を読む

--------------

仏教ではなかったのですが、母親の宗教心はわたしに多大な影響を及ぼしました。
20代になって仏道にご縁をいただいたのも母親のお蔭だと思っています。


ちなみに、母親のガンについては発見した時にはもう手遅れだったこと、本人の希望があったことで、胃ろうも含み延命治療は一切しなかったです。
心臓マッサージも断りました(骨が折れて惨めな姿になるだけだから)。
病院には儲からない患者でした。


しかし、最後までまったく苦しむこともなく安らかに逝きました。
ガンで苦しむのはガン自体ではなくて、がん治療のせいだということを聞いていましたが、母親の場合を見ていて本当にそうだったと思います。
abotoorugan2joken
安保 徹『人がガンになるたった2つの条件』 (講談社+α文庫)


日本のがん治療は諸外国に比べて相当遅れているようですよ。

新潟大学名誉教授だった安保徹博士は、
「「恒温動物である人間は一定の酸素と温度が必要だが、この二つの条件が得られないと生きにくくなる。その状態が続くと体はこれに適応できる細胞を新たに作り出す。それがガン細胞。ガンは低酸素、低体温に適応現象として現れるものに過ぎない。遺伝子や発がん物質などを持ち出さなくても自身の日常を振り返ればガンの原因が見えてくる。3大療法(手術、抗がん剤、放射線治療)に依存しなくても低酸素、低体温状態に陥った生活を見直していくことで治癒させることもできる。逆にそれをせずにガン細胞を取り除いたところでガンはなくならない。(中略)代替医療にはさまざまなものがあるが、成果をあげているものに共通しているのは体を温める効果があるもの」ー『人がガンになるたった2つの条件』
と述べています。

安保徹医師は、テレビにも出られたことがありましたが、影響が大きくなるにつれて、医学界やマスコミからは無視されるようになりました。
新潟大学大学院の名誉教授なのに、亡くなられた時は、訃報が一行も新聞に取り上げられませんでした。

マスコミが報じて、「薬を使わない医療」なんて注目されたら、お金儲け先行の医師も、製薬会社も、それで成り立つTVや新聞も困るからです。

医師も製薬会社も仕事ですから、儲けていいですよ。医業でも薬業でも、利益を取らないと生活できないし、病院も会社も潰れます。
新聞やTVも製薬メーカーが広告を出してくれなくなったら運営ができません。それは分かります。


でも、薬を使わないことを推奨する医師の意見も取り上げてもいいでしょう。

どこまでも貪ろうとするのを三毒-貪瞋痴の三毒というのです。
これが人間を誤らせます。


最近は、世の中が利益優先で動くのが、ちょっとひどくなっています。
しかも、外国の勢力が日本を侵していて、日本の会社でも資本は海外ということが大変多くなっています。
法律が不整備なのか、大多数の日本人の知らないところで、日本は侵攻されています。
表立って攻め入られていないように見えるだけで、実は中国や西洋の資本が攻めて来ています。

利益優先にしているものだから、断れないのです。



9割の国民が騙されている?レジ袋有料化は本当はECOのためではなくて...



 ふるさと納税の闇、ECOは大嘘:ゴミ分別にうごめく闇の勢力 という記事を読む


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悟りの体現者・井上貫道老師の坐禅の方法のエッセンスをDVDで

東京の2021年5月坐禅会は中止です
金曜日夜の渋谷区福昌寺坐禅会は7月まで中止となっています

井上貫道老師の大阪坐禅会提唱DVD頒布中ー品切れ間近

【あるDVDの質疑内容】 2017/3/23 6/29 9/21の分の内容は別記事に掲載
このDVDの内容とても重要です
・坐禅の本当の方法;
・坐禅中にほとんどの人が陥るあやまち;
・坐禅中によいアイデアが浮かんだり、忘れていたことを思い出すことについて;
・考え方を離れるとは;
・坐禅は楽なもの;
・事実とは;
・修行をうんと積むことではない;
・他人がなんと言おうが追求を続けた人;
・坐禅中に模様が見えるのはなぜか;
・坐禅すると眠くなるがどうしたものかについて;
・考え方をやめると生き生きとしてくる;
・坐禅は、思いを出ないようにすることではない;
・坐禅は、出てきた思いを押さえ込むことではない;
・外の景色が綺麗に見える;
・10年間一度も休まず毎月真面目に禅会に通い続けるが、あとはほとんど坐禅をしない人々;
・坐禅の実践:一日でスキマ時間を見つけて坐禅をする;
・病と坐禅;
・坐禅で底抜けに人は救われる
 (2016/12/15版から)



【12/15提唱DVDからの抜粋 ( DVD製作者様の文字起こし ) 】

自分を中心にしてよそを眺めるようなことばかりしているのをやめて、自分自身の今のあり様に目を向けてみる。


その通り、見えている様子、ある様子だけでいてみる。


それはどういうことだろう、何だろうと、見た時に、触れた時にすぐ、そういう考え方で取り扱うことが世の常です。


それをしない。ただこうなっているだけ。



何で探るかというと、探らないと分からないと思うのでしょうね。でも、探る前に味がしてるのじゃないですか。


考えたら味が出てくるのかしら。探ったらもっと違うものが出てくるのかしら。


本当の味は飲んでいる時にしているだけなんでしょう。

それをそのまま十分に味わったらいいのでしょう。最初からこの通りの事実がいきなりあるのでしょう。


真実って、皆さんが思っている以上に素晴らしい出来映えでしょう




丁寧に自分のことを見てみると、こうやっているしかないじゃないですか、一日。この身体のあるところでやるだけでしょう、生活って。他に生活できる場所ありますか。


難しいことでは絶対ない。

誰もやってますよ。


でも考え方がちらっとはさまると、こういうこと(事実)はどうでもよくなるんだね。



ああなりたい、こうなりたい、ああじゃ嫌だ、こうじゃ嫌だ、とか


その思いを相手にして、その思いの通りに自分を仕向けていくことと、今実際にこうやって生きている様子は、違いますよ。


自分の思っている方に真実を歪められますか。変えられますか。無理でしょう。


その無理なことを何で生涯かけてやるんですか。



この身心ひとつ、一人一人自分自身の有り様だけで学んでいくんです。


しかも今、時間もこれからじゃなくて今。


場所を選ぶことなくここで。こんな素晴らしい修行って、他にないじゃないですか。




手放れた様子に本当に学ぶってことでしょう。


手放れたままでいてみるってことでしょう。



どんなことがそこに出てきても、それに対して手を付けずにいる。


とにかくいろんなことが出て来る。


出て来てもそれを一切取り上げない。


全てのものから本当に手を付けずにいてみるっていう行です。


本当のありのままってどういうことですか。


ありのまま聞くってどういうことですか。


ありのまま見るってどういうことですか。


やってますか、


本当に。



あ、そういう風にやるのがありのままだっていうぐらいの程度じゃないですか。

みな、理解じゃないですか。



自分の認識を通した上の、ありのままじゃないですか。



本当のありのままには、人間の認識なんか付いてませんよ。


知ってますか。そんなもの付いてない、一切。


だから素晴らしいんですよ




出てくる思いを抑えるとか、

出ないようにするとか、

気にならないようにするとか、

そういう行じゃないですよ、坐禅て。



何にも思わないように、空っぽになる、それみんな手を付けた話でしょう。


あああったらいい、こうあったらいい、そういうことをするなって言ってるんですよ。


それが手を付けないとかありのままっていうことなんでしょう。




仏様というのは自分自身の真相を自覚した人ですよ。


ただそれだけですよ。他には無いんですよ。



迷ってないことを知らないってだけですよ。分からないと思い込んでいるだけ。


今のこの事実だけでこうやっていて、その事実の内容がどうなってるか、考えをやめて、学んでいくんですね。


そうすると、人の考え方を付けてみていた時と違うんだよ。




(考え方をやめると眠くなるという質問に対して)考え方をやめると生き生きとしてくることを知らないんですよ。


いつも心に気にかけている必要がある。


時間があったらちょっとでもいいから座ってみる。



考え方から離れた時間ですね。どこででも出来るよ。


いくらでも一日の中でそういう時間はある。



だけどこのことに心がけを向けてない人は、そういうわずかな時間でももっと違ったことをやる。


頭をもっと働かす、いろんなことを思う方にその時間を費やしていくわけじゃないですか。

それ、逆にしてみると面白い。




間違いなく楽になるね、まず。


考え方をやめるともっと自由に頭が動く。


余裕が出てくる。


ゆとりがある。


優しくなる。


二三発叩かれてから、ちょっと怒ってみようかなって思うくらいですよ。


反応しないと悪いかなって。そのくらい余裕が出てくる。



座るとやっぱり楽になるんですね。


思いを離れたら間違いなく楽になる。


坐禅は大安楽の法門ていうけど、ただ単に楽になるためにやるっていうようなものでもないよね。


もっと底抜けに人を救うよね。

       (以上、2016/12/15分から)


本当に悟りを開けば、元に戻ることはない という記事を読む



仏教DVD:道元禅師『普勧坐禅儀』提唱 by 井上貫道老師

【頒布対象】
井上貫道老師の坐禅会に参加されたことのない人もご購入になれます。
 参禅未経験の方が、これをきっかけに、各地方の井上貫道老師坐禅会やオンライン禅会に参禅してくだされば幸いです。
200dvd0915








1日分が1枚のDVDに収められています(プラスチックケース入り)
500円/1枚
古いですが、2021年になってもお申し込みがあります(^o^)

平成28(2016)年6月、9月、12月
平成29(2017)年3月、6月、9月、12月
平成30(2018)年3月
お申込み画面で在庫切れと書いてあるものについては申し訳ございませんが今後頒布の予定はございません。
在庫は、2016年6月版のみが少数あるだけとなりました(2021年4月16日記)

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上記ボタンがうまく行かない場合はこちらからご注文ください⇒ https://ssl.form-mailer.jp/fms/581a3b42462652



【大阪坐禅会発行 井上貫道老師提唱DVDの内容】
井上貫道老師大阪坐禅会(年4回開催)の提唱と質疑のすべて
提唱講本は、道元禅師『普勧坐禅儀』
講本は各自でご用意下さい。(普勧坐禅儀がなくても、問題なくDVDは視聴できます)
曹洞宗の日課経本などに掲載されています。

井上貫道老師の提唱は、ご自身が言われているとおり、
「いつも1回完結です 次の話を聞かないと分からないというようにはなっていません。」
ですから、どの日付のDVDを視聴されても大丈夫です。

仏道修行、坐禅修行、自分の今の様子の参究にお役立てください。


大阪坐禅会の日程はこちら です。現在会場を使用してのリアルの坐禅会は休止です(2021年4月記)


【製 品 詳 細】
参禅者である素人が撮影し、素人が作成した手製です。
坐禅会の参加者は映っていません。
音声は明瞭になるように、集音マイクを講師の傍に置くなどしています。
雑音は可能な限り処理してあります。

DVD-Video形式なので、DVDプレーヤ、パソコンで視聴可能です(すべての機器においての動作は保証いたしかねます)。

無断複製およびyoutube等の動画共有サービスなどへのアップロードは禁止とさせていただきます。
複製許可は、ご注文後の返信メールの返信で、大阪坐禅会にご相談下さい。 


【価 格】1枚500円、送料180円 (2枚以内180円、3枚以上360円)

【お支払い方法】振込:ゆうちょ銀行の専用口座    または、大阪坐禅会現地での現金払い 振込先は、購入者にお知らせいたします。

【お渡し方法】郵送(スマートレター による郵便受け投函)または井上貫道老師大阪坐禅会
日本郵便のスマートレターですので、受取日時の指定はできません。不在でも郵便受けに投函されます。

製作者は、毎日の仕事の後のプライベート時間の合間を見て無償で頒布を作業をされています。通常のネット通販のような迅速な対応・発送はできません。お申込からお受け取りまで1週間ほどはお待ちくださることをお願いします。


【販売元・発行人】大阪坐禅会 
他の貫道老師坐禅会(関西も含みます)や老師関係寺院でのお取扱はありません。
貫道老師神戸坐禅会での動画は、こちらでは取扱がありません。

他の主催者さまによる井上貫道老師の動画はyoutubeにアップされていますので、そちらをご覧ください


【売 上】大阪坐禅会運営費として、会場使用料・講師交通費・宿泊費・備品代などに充当します。


【注 意】
DVD発行元は、参禅者による「大阪坐禅会」です。老師の許可のもとにDVDを頒布していますが、お寺では扱いがありません。関係がありません。
書籍の発行元とも関係がありません。


 
パソコンにDVD再生ソフトが入っていない場合、無料のDVDプレーヤーがネットでダウンロードできます。⇒    http://www.gigafree.net/media/MediaPlayer/ などを参考にしてください。    (ただし自己責任でお願いします)


1枚500円
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上記ボタンがうまく行かない場合はこちらからご注文ください⇒ https://ssl.form-mailer.jp/fms/581a3b42462652



本当に悟りを開けば、元に戻ることはない という記事を読む


現代に生きる悟りを開いた人という記事を読む



ワクチン優先接種を受けた医療従事者の女性が死亡

書籍の紹介: 新コロは本当は存在しない!?


『PCRは、RNAウイルスの検査に使ってはならない』 ヒカルランド、2020年12月、212ページ
著者 徳島大学名誉教授 大橋眞氏

皆がなぜマスクをするか、緊急事態宣言するかは、「無症状でも武漢ウィルスを体内に持っている可能性がある」ということが大前提になっています。
(コロナウィルス自体は新型より以前から存在しています)

これに管理人は長い間疑問を抱いていました。
もし、この大前提が間違っていれば、マスクも緊急事態宣言も不要なのです。
そしたら、仕事をなくして自殺する人が減るのです。
コロナにかかって死ぬより怖いのは経済で死ぬ人がどんどん増えているということです。

ちょうど、大橋眞氏がそのことを議論しておられますので、このブログに掲載しました。
dontusepcrkit




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悟るまでは、似たような体験 (似て非なる体験) をすることがあります―井上貫道老師

本当に悟りを開けば、元に戻ることはない

井上貫道老師の『正法眼蔵現成公案』提唱 (『げんにーび』)から 
space

悟り体験をすれば、もう元には戻らないです

以後は、諸仏の過ごされた境涯というものをこの身体で楽しむことが出来るのです
   
―井上貫道老師



大事了畢(だいじりょうひつ)とは

修行ということに関しては、一応悟ってしまえばもう関係はないと思っている人もおりますが、
とんでもない事だと思います。



悟るという事はですね、それで終わりというのではありませんで、二度と迷いの世界に戻れなくなるという事です。

例えば、分わかりやすくいうと、一度も来てもらったことのないこのお寺へ来てもらったら、もうその日からお寺に来なかった人にはならない。

どんなに騒いでみても、どんなにやってみても、もうお寺に来なかった前の人には戻らない。



それくらい悟りという事は人を迷わせない確かさがある、ということが悟りの大事な事ですね。



もし時間が経ったら忘れてしまうとか、元に戻ってしまうとかいうものだったら、尊ぶ所以(ゆえん)がないですね。


だから道元禅師が「一生の参学の大事おわりぬ」というような表現をしている。 参学の大事了畢(だいじりょうひつ)



その体験をした事によって一応の決着がつきましたって、いうことですね。


悟れば諸仏の境涯を楽しんで行ける

kandoroshiinzazen
それで
私たちは見たこともなかった、

行ったこともなかった悟りの世界に初めて足を踏み込んで、

諸仏方の過ごされた境涯というものをこの身体で楽しむことが出来るのです。



これで初めてそれが悟後の生活という事になるのかね。

ここら辺が楽しい処でしょう。

本当はこれをやってみたいわけですね。


そうじゃなければ、こういう祖師方の書かれたもの、残されたものを、
共に手を携(たずさ)え本当に参究して、
その味わいを味わうことはなかなかありませんね。

松本自證老師の指導を受けて3年で悟られたしみPという会社員(千葉県在住 1969年生)の方も、悟られて以後も多忙なサラリーマン生活の中、毎日1時間以上坐禅を楽しんで居られるようです。

悟っていない人が悟りの話をしても、無益であるし、外れている

そういう人を作っていかないと仏法とかいうようなものがつまらなくなるんですね。
そうでしょ。

 

向こうの岸へ行ってないのに、こつちの岸から向こうの岸の話を一生懸命しているんですから、
こっちにみんな居るんでしょ。

お互いこっちに居るものどうしが、その中の人が向こう岸の話をした。

「お前行った事があるか」と言った時、「ない」といったらどうなるんですか?


(井上貫道『げんにーび』 (正法眼蔵現成公案提唱)p.181) 
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松本自證師のことば


◯ 悟りは意識の状態ではないです。『事実』だからこそ、お釈迦様(ブッダ)から今まで伝わっているのです


◯ ハッキリする(悟る)と決してハッキリする前(悟る前)に戻りません、戻れません。


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【問い】 自己を忘じると悟るとは同じことですか?

【答】 そうです。

一瞥(いちべつ)体験とか「自分がなかった」ことを自覚する体験とは違います。
それらは、ハッキリしません。認識が完全に止(や)んでいないからです。


◯ お釈迦様が明けの明星(金星)を見て悟られた時のことは、
自分がハッキリする(悟る)までは決して分かりません。

どんなに[理解しようと]頑張ってもそれは無理です。


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