坐禅の仕方と悟り,見性,身心脱落:魯山貫道老師の庵 まとめサイト

Dharma Talks of a perfectly enlightened Japanese Zen Master Roshi Kando Inoue 魯山貫道老師が、悟りを体現された経験から坐禅の方法や仏道について語られたものを掲載しています web上に散見される魯山貫道老師のことばも引用掲載し、まとめブログとしました ( これは参禅者によるブログであり、公式サイトではありません ) このブログが正師への参禅のきっかけになりますように

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魯山貫道老師語録

(指一本立てて)こうやるだけで「自分」というものが死にますね                       ー 井上貫道老師「坐禅は修禅にはあらず」   ―道元禅師●漫然と坐っている人は寝ちゃうね。「何もしないのが坐禅」って言いながら・・・。三十年も坐ってる
『坐禅は年月を重ねて上達するものではない (坐禅は修禅にはあらず)』の画像

「坐禅が進んで、内も外もなくなった人がいますこうなると人生観が変わりますよ」[ これが悟りだと言われているのではありません 念のため ]ー(2014年夏の緑陰接心の提唱:接心3日目)井上貫道老師 内も外もない=内外打成一片 ないげ・だじょう・いっぺん(このブログは実
『内も外もない(内外打成一片)―本当の坐禅修行の方法』の画像

仏道は理想を追求することではない仏道は人間が描く理想とは関係がない▶多くの人が、坐禅中においてさえ、理想を求める境地を頭で探しています。それは一見坐禅らしく見えますが、真実から外れています。ー井上貫道老師 ●人間が理想を画(えが)いていると、いかにも立派そ
『仏道は理想を求めて修行することではない』の画像

「佛道をならふといふは、自己をならふなり」 ―道元禅師▶仏道とは、本来の自己を自分で本当に見届けて、それに動かされることです。  ―井上貫道老師▶修行とは、どっか他所(よそ)でやるんじゃないんですよ。 ここでやるんです。いつもここでしか生きていないんだから
『修行とは、いまここ自分ー自分の考え方・人間らしい見解なんてものは全く要らない』の画像

▶私達は毎日朝から晩まで真実の中に生きていながら「おそらく一度も真実に直接触れた事はない」って言っていいでしょう。▶ 「お寺に座禅をしたいから」と言って座禅に来る。「何かわからない事ありませんか?」と聞く。誰も何も言わない。 「では、座りましょう。」と言っ

▶自分の見解を起こさずに、本当に相手がしゃべってる時そのまま聞いているっていう事が穏やかな生活ができている証拠じゃないですか?ー井上貫道老師 2013年4月の井上貫道老師の静岡禅会でのお話です。② 道元禅師・正法眼蔵春秋の提唱から ①の続きこの前も紹介したんだ

▶思考回路は真実からいつも乗りおくれているから、自分のなかで葛藤が起きるのです。―井上貫道老師『意根を断つ今一度坐禅について』前編静岡県少林寺住職 井上貫道 悟りの体現者・井上貫道老師のプロフィールはこちら真実に目を向ける  ようこそ一泊坐禅会にご参加く
『意根を断つ―死に切る(大死一番),自己を忘じる』の画像

真実というのは、自分の思慮、分別、考えかたをやめてみたときの自分のすがたです。事実を人は思考で汚しています「思い」というものが人をたぶらかして、真実からかけ離れさせてしまうのです。―井上貫道老師*************************************************************
『意根を断つ―死に切る(大死一番),自己を忘じる 続き』の画像

真実、悟り、禅修行とは(1): 道元禅師『学道用心集・普勧坐禅儀』、黄檗希運禅師『伝心法要』提唱録ー井上貫道老師語録がAmazonから出版されました  修行の大前提:悟りとは、修行とは 井上貫道老師語る井上貫道老師提唱録が8月28日、出版されました※書籍タイトルが『
『井上貫道老師提唱録が出版されました Amazon と製本版』の画像

真実、悟り、禅修行とは(1)道元禅師『学道用心集』『普勧坐禅儀』、黄檗希運禅師『伝心法要』提唱録』(井上貫道提唱、2016年)※書籍タイトルを『井上貫道老師提唱録 修行の大前提:真実とは、悟りとは、修行とは、禅とは』から変更しました詳細・ご注文はこちらから(
『書籍の注文方法 『真実、悟り、禅修行とは1』』の画像

悟りの体現者・井上貫道老師の大阪坐禅会での提唱DVD一般頒布しています【内 容】井上貫道老師大阪坐禅会(年4回開催中)の提唱と質疑のすべて提唱講本は、道元禅師『普勧坐禅儀』貫道老師神戸坐禅会での動画は、こちらでは取扱がありません。【頒布状況】3ヶ月に1枚ずつの発行
『井上貫道老師の提唱DVD一般頒布しています』の画像

箇の不思量底を思量せよ 「不思量底」とは何を指すのか。 (カチン)これは人間の思い量りで聞いてるわけではない。 大きな音だとか、いい音だとか、一切そういうようなことなしに行われてる、 その辺を不思量底と言うんですね。 いちいち皆さんが今触れているところで

不思量底如何が思量せん 思量と不思量 思う前の状況がある 思うっていうことがあるということは、そもそもその前の状況がある、ということでしょう。思うという前はどうなってるかって言ったら、思いがついてないってことでしょう。人間はその思いがついていないところをあま

不思量底、如何が思量せん。非思量。これ乃ち坐禅の要術なり。非思量「非思量」ここから先は理屈抜きなんだよ。説明の必要でないところじゃないですか。(コン)どうしたら人間の思量分別のついてないところで聞くことができるかって、説明なんか要らないじゃない。(コン)

いわゆる坐禅は、習禅にはあらず。ただこれ安楽の法門なり。 いわゆる坐禅は、習禅にはあらず(坐禅は)「習禅には非ず」いつもその一回こっきりで終わりです。坐禅は、積み重ねてだんだん上手になるような行をしているわけではない。もう一回さっきの音を聞きたいなんて無理で

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