坐禅の仕方と悟り,見性,身心脱落:井上貫道老師の庵 まとめサイト

Dharma Talks of a perfectly enlightened Japanese Zen Master Roshi Kando Inoue 井上貫道老師が、悟りを体現された経験から坐禅の方法や仏道について語られたものを掲載しています web上に散見される魯山貫道老師のことばも引用掲載し、まとめブログとしました ( これは参禅者によるブログであり、公式サイトではありません ) このブログが正師への参禅のきっかけになりますように

魯山貫道老師語録

(指一本立てて)こうやるだけで「自分」というものが死にますね
                       ー 井上貫道老師




「坐禅は修禅にはあらず」   ―道元禅師


●漫然と坐っている人は寝ちゃうね。

「何もしないのが坐禅」って言いながら・・・。
三十年も坐ってる人は必ず寝ますね。

今の様子に参ずるのが下手なんだね。

寝たら坐禅になりませんよ。





●これほどの事実に参じていれば、脳は刺激だらけで寝ようがないんだけどね。







●想(おも)いがやまるほどに、このもの(自分)が無限の活動をしていることが分かってきます。決して「心静か」なんていう状態ではないですよ。






● 「坐禅」というのは、今の実相、活動にそのまま親しくしていればいいんです。

「ただ坐る」というのは、事実、実相(じっそう)、この(自分の)一大活動に親しくいることです。


事実との間に距離がないからこそ「手を付けない」という表現になるわけでしょ。






● 観察するのではなく、事実のままにあることです。



car1_sensukandoroshi●(目の前の布を閉じたり開いたりしつつ)


人間って一瞬過去のことを相手にできますから、

記憶とのつながりで「閉じたものが開いたな」と思いますけど、

実際にはその時その時の様子があるだけですよ。





● みなさんからすれば「自分がこっちにいて、向こうでお坊さんが布を閉じたり開いたりしてるな」と思うでしょ。

本当はみなさん、自分ですよ、自分の動きですよ。







● こういうことを他のお坊さんに話すと「難しい」っていうんですよ。

みんな学問として仏教を研究してきてるからね。


すっからかんで話を聞かないから。





● 大道にはここからここまで、という端がありません。

「無端」です。






● 自分が素晴らしい存在だと思ってないから愚痴るんです。

自分に豊かなものがないと思うからむさぼるんです。







● 只管打坐の「管」の字は、よく「ひたすら」と訳されます。

でも宋代の意味としては「必ず」「確かに」です。

一番偉い人を管主と言ったりもしますね。



(手を叩いて)「パン!」


訓練も練習もしてないのに、必ずこうなるでしょ。



「パン!」


確かですね。







● 事実とずれがなければ「自分」が死にます。
 
(指一本立てて)こうやるだけで「自分」というものが死にますね。






● 自分自身が一番良い師匠ですよ。

自分の中でいろいろな動きがあって、それを見ていくことが自分を救う道ですから。






● 相手の話をあえてポジティブにいい方向で聞こうとすると、かえって良くないですね。

そのまんま聞くのが本当のポジティブなんでしょうね。







● 少し気を付けて坐禅を続けている人は変わってくるね。

ひとつ気が付いたらガタガタと変わっていくね。







参禅者:
先ほど老師が風呂敷を閉じたり開いたりして、

「これは自分の動きですよ」とおっしゃいました。

それがよくわかりません。




老師:
一般の人は、「自分」がここにいて「対象物」を見てる、という考えで生活してるでしょ。

だから自分が動いていることがわからないんです。





参禅者:
うーん、私が動いている、というのがやっぱりわかりません。


老師:
「私」というのが邪魔をしてるんです。

すこーし気を付けてやれば分かります。


お茶を飲むことと同じでしょ?




お茶は「自分が飲んでる」、

風呂敷は「向こうでやってる」

と思うけど、どちらも向こう側にあるものを受けてるだけじゃないですか。



お茶は自分の中に入ってくるから、いかにも「自分がしてる」と思いこんじゃうんですね~。



みなさんはこのことがクリアになってますか?

一般には、こんなことが仏教だとは思われてないんですね~。




別の参禅者:
自分のことだとはいえ、でもやっぱり問題にしちゃうんです。


老師:
そうね~。人は、問題にした所からしか物事を見ないからね。



だからこそ六根を解放して、まだ問題になっていない時点から物事を見る必要があるんですよ。
  ※六根=眼耳鼻舌身意





● 修行に時間がかかる人は、結局、言われたことをやっていないんだね。

 事実 [ 真理 ] より、考え方のほうが好きなんだね。


坐禅会での話を楽しんでいるだけなんだから。

そんなの何年やったって自分のものにならないですよ。





● 話を聞いて、実行したら、次回(の坐禅会で)、どうなったかを教えて下さい。

一ヶ月あるんだから。



 
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「坐禅が進んで、内も外もなくなった人がいます

こうなると人生観が変わりますよ」

[ これが悟りだと言われているのではありません 念のため ]
ー(2014年夏の緑陰接心の提唱:接心3日目)井上貫道老師
 
内も外もない=内外打成一片 ないげ・だじょう・いっぺん

(このブログは実践を前提に書かれています

更新がなくても、
今までの過去記事を
一番上のメニュー(スマホの場合はカテゴリー)から、
じっくりと学んでいただければ幸いです)




● 一般には、この身を境界として、自分と自分以外に分けて考えていますね。
 
いわゆる自分も、自分以外の世界も、自己と言います。






niwa
● この身だけが自分の様子ではありませんよ。

何から何まですべてが自分の様子です。









● 本当は目、耳と区切ることはできないんです。

これら全部が自分の様子、全体です。






● 大抵の人は、自分に入ってきたものを、あとから眺めているんです。

だから満足できないんです。




● 「音、音、音」じゃないですよ。「ザワザワザワザワ・・・」、これだけですよ。

「ザワザワザワザワ・・・」、これこそが本当の受け身というんでしょうね。




● 坐禅をどうしたらよいか知らないもんだから、
坐禅して少し心が静まってくると、すぐに居眠り坐禅してしまうんだね。

長年参禅している人は、たいてい寝ていますね。
10年、20年坐禅している人は皆そう。

寝ることは坐禅とは言いません。




● 専門家に坐禅を指導すると、

「今日は、よく坐れました(=よく坐禅出来ました)」

とか

「今日はあっという間に坐禅が済んだ」

とか感想を述べますけど、そんな程度なんだね、専門家でも。


そういうのは坐禅とは言いません
[ 専門家に対する批判ではなくて、坐禅会のわたしたちも、そうじゃないですか? と言われているのです ]





● 道元禅師の『普勧坐禅儀』に則って坐禅することが不可欠なんです。
   普勧坐禅儀 ふかんざぜんぎ

 http://zazen.blog.jp/archives/cat_958258.html
にて学んで下さい




Q.
普段から修行や正しい行いを続けて行こうと思うのですが、なかなか忙しくて難しいです。
継続していくのが大変だなと思います。

A.
考え方として申し上げるならば、こうやれば楽になるんじゃないですか -- 
 
つまり、これからずーっとそういうことが出来るかと考える必要がない。
 
今、きちっと出来さえすれば。ただそれだけなんですね。


人間て不思議ですね。
 
こういう状況がずーっと続かないといけないって思っている。
 
でも実際は、今のこの状況が続くなんてことではなく、
いつも今のこれがきちっとできるかということだけです。
 
今日一日出来るかしら、なんて、そんな長いことは考えない。
 

今やってることがちゃんとそこで出来ればそれでいい。


こういう話をすると、「今、今、今って、そんなことだけやってるのは、たまらん」という人がいる。 

考え方だとそうなっちゃう。

「これ飲んだらこれだけ」「これ食べたらこれだけ」なんて、
それは考え方。


普通、
これ飲んだら、自ずからこれを飲んでいる時だけの様子になるし、
食べたら食べた時だけの様子に、必ずなっているんです。

心配ない。






Q.
坐禅をすると、わーっといろんなことが出てくるんです。

A.
実際には普段から出ているんです。

でも普段はいろんなことで気が紛れているから、出ていることに気がつかないだけです。


坐禅をしていると他のことが収まるから、
いろんなことが出ていることに気づくだけです。


その出ていることを抑えようとするのは、かえって心を騒がしていることになるでしょ。

だって、出てきてしまったものをあとから無くそう無くそうとしているわけだから。


出てきてしまったものはどうしようもないのに。
 


そうではなく、
出たものを出たままに、何も手を付けずにいれば、
全然心を煩わさないよね。

これが本当の「心静か」ってことです。





● 仏道修行は、
今ここ で修行します。

「今」というと、「この瞬間だ」と言って、
「イマッ!」と切り出そうとしますが、
今はそんな風になっていませんね。





● 本当に「今の様子」それだけを見ている時は、それだけだっていうことも分からないはずです。
 
だって、「これが今の様子か」なんて余分なことが出てくる余地がないんだから。





● 修行は「思い」ではないんです。

「こうやればいいんだ」って方程式を立てておいて、それに沿ってやることではないです。




● 参禅は、「今の自分自身の様子」に参じることです。

そのために見聞覚知の六根を開放するのです。




● 五官にまかせる とか 六根を開放するって、
見えること、聞こえることを 観察するんじゃないですよ。
観察する自分などいないのですから。

「見ている」「聞いている」って風じゃないです。

だれかが言いましたね。
「主なくて見聞覚知する人を、いき仏とは是をいふなり」

 [至道無難禅師しどうぶなんぜんじ:白隠禅師の師の正受老人の師]





● 坐禅を◯◯の方法で10年やって来ましたという人がいたら、
10年やってどうなったのですか?
と尋ねてみてください。





●概念だけを取り上げているんです、実物じゃなく。

それが人間の世界です。


実物があるにも関わらず、実物の話をしないんです。


仏道ってのは実物です、
扱うのは。


実物は私には必要ない、って人はいないですね。



宗派に関係ない。
宗教に関係ない。

こういうものが仏道なんです。


  この記事のタイトル中:内外打成一片 ないげだいじょういっぺん と読みます
 
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仏道は理想を追求することではない
仏道は人間が描く理想とは関係がない




▶多くの人が、坐禅中においてさえ、理想を求める境地を頭で探しています。

それは一見坐禅らしく見えますが、真実から外れています。

ー井上貫道老師 



risokyoheart●人間が理想を画(えが)いていると、いかにも立派そうなんですけれども、

それが迷いの根源なんです。

それを人類ことごとく知らんのです。(井上義衍老師)



●人間の考え方が、どんなに立派な考えでも、それは、

その人間、その人の考え方なんです。(井上義衍老師)





Q.
「貪」「瞋」「痴」の中で一番大事なのは何ですか?

A.
大事というより…言ってみれば不要なものでしょうね。

Q.
一番それを破りやすいのは「瞋」(怒り)でしょうか?

A.
いや、一番破りやすいのは「痴」、ものが分からないということでしょう。
だから貪りや怒りが出るんですね。
なんで貪ってるか、なんで怒りが出るか分からないから、いくら抑えても取れない。

それは普通の教えだから。人間の考えた上の話だから。
いくらそれをやっても、努力してもすぐにだめになるね。

それは仏教の教えではないな。

いわゆる倫理道徳の世界ですね。

それを要らないとは言いません。




Q.
分かるようにするにはどうすれば?


A.
こうやって生活している時の、自分のありように目を向けることです。

それは本当に「平常心」と呼ばれる、常日頃生活している中に答えがある。
 

簡単に言うと、たとえば、いきなり出会った人に対して先入観がないってことがあるでしょ。
先入観を持てない。

先入観がない時には、余分なことが自分の中から起きてこないでしょ。


だから腹が立たないし、もっとどうかしてほしいとかいうことも思わないし、触れたままのことがはっきりしてます。


そういうのをみなさんが日常毎日、本当はきちんとやってることでしょ。


初めて触れることばっかりでしょ、本当は。



でも、初めて触れるってことがどういうことか知らないから、
「また会いましたね」っていうことになってる。

「初めて」ってことを見ていません。


今こうしてこうやって動いていること自体が今初めてのことなんですね、本当は。

生きてるってことは、一度も経験したことのないことをやってるんです。


お湯呑みを持つにしたって、今まで持ったことないわけです。
 
初めて今こうやって持ったんです、この持ち方はね。
 

前も持ったことあるかもしれないけど、この持ち方、触れ方は今初めてやったんです。

この味も、何回もお茶を飲んだことあるかもしれないけど、この味は今初めてなんですね。


初めての時には、今言ったように、先入観がないんです、入れたくても。


そういう自分の動きを見てみると、貪りも起きていない。

そのままの味をそのままいただいて、それ以上欲しいともなんともなく、この味だけで足りてる。

だから腹も立たないでしょ。
はっきりしてるでしょ。


そうやって修行するんです。
 
それが仏道の修行です。



全然違いますね、だから。



Q.
そういうものは、出家して大きなお寺などで修行していると、自然に身に付くのですか?

A.
それは違います。

zazenshisenwitheyesopenshalftone
修行しなくても、誰しも初めっからこうなんです。

だから大事なんです。
修行した人たちだけが出来る教えでは役に立たないんです。

もう、はなっから。みなさんに用が無いじゃないですか。

修行してないんだから。

そうじゃない。

誰でも最初からちゃんと出来ていることなんです。


出来ていることなんだけれども、知らずにいるから、それを自分で、なるほどと自覚をしてほしいんです。


自覚をするためにはほっとけないから、必ず自分で修行をせざるを得ない。


どういう修行をするかっていったら、自分自身の今の様子に目を向けて、それをきちっと見極める。


自覚をするっていうことは他の人では出来ませんから、
否応なしに自分でやるしかない。




こういうように修行が約束されていくわけです。他人から勧められるわけじゃなくて。


     (略)

本当に、誰でもがそういうふうにきちっと出来てることがある。

それを釈迦って人は自分で見届けたから、実行して、
人にも伝えて、人が育って、
何千年も絶えずに来ているんです。
 

だから根本的に違うんですよ。



このようにコオロギが泣いているでしょ。

修行した人だけが聞こえますか?

 
修行してない人でもこのとおり聞こえるでしょ。
 

そのことが修行の根幹なんです。

ひとつも人を騙さない、迷わせない。
 

ちゃんとあのとおり鳴いている。


でも自分の中に受け取り方っていう、考え方や、今まで育ててきた物の見方があって、
そういうものを通して聞くようになると、
「あれはミミズが鳴いているんじゃないか」って言うと、
「いや、そんなことはない」って、誰でも言うでしょ。

学問があるから。
そうやって、必ずなってる。


だけど、あの鳴いている声に対しては、どんな表現をしても変わらないんです。
本当は。


でも言葉を変えて言うと言葉の上で問題が起きる。
 

要するに、聞いていることに用の無い人が、
考え方の上で問題が起きて、その考えの上で問題が起きると、
それをお互いが「正しい」「正しくない」ってやってるだけで、
本当のものを見る力をすぐ忘れちゃう。



それはもう修行にならないですね。

修行ってそういうことじゃないですね。


そこが、たぶん、一番伝わっていない。


だから、せっかく坐禅しても、ほとんどの場合「ちょっと気持ちよかった」程度で終わっちゃう。

     (略)

昔から、人が育つのは、この禅会のように、一握りの人が集まってやってるようなところです。

誰からも権力的に支配されずにやれるからね、独自に。


だから、皆さんが自分で情報を探し、検索し、いい指導者を探すしかない。

買い物と同じようにね。
 
自己責任です。


昔からそうです。
 
いろんなところを旅し、話をし、この人に教えてもらいたい、とそこに逗留し、修行してたんですね。 諸方行脚。


今は人の噂だけでやってる人が多いからね。

自分で実際に行ってやってみないとつまらないね。

昔より簡単に指導者を探して行けるのにね。
そういう時代になればなるほど、軽率にものを扱ってるかなあ。
 
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「佛道をならふといふは、自己をならふなり」 ―道元禅師


▶仏道とは、本来の自己を自分で本当に見届けて、それに動かされることです。  ―井上貫道老師

▶修行とは、どっか他所(よそ)でやるんじゃないんですよ。 ここでやるんです。
いつもここでしか生きていないんだから。
もう1つの今なんてないんですから。  ー井上貫道老師


 
 

『学道用心集』の提唱の最終日:

inouekandoroshizazen2ske2全体に一言でまとめれば、みなさん、一緒に目を通していただいてるとおり、
自分自身の、今、生活している、今、今、生活している「ここ」でね、
この様子に学んでくれれば、このことがみな分かるようになってる。


でその具体的には、人間の持っている、五官ないし六官と言われるそういう道具がありますから、
五官=眼耳鼻舌身  六官=眼耳鼻舌身意 
その道具の働き、それを「諸機能」と言っておられますが、
その諸機能は、みなさんが考えておられるようなつまらない働きではない、
もっともっと、底抜け、大きな働きをして、初めっから、飛び抜けた立派な様子であるということ。


だからそういうお互いですから、自分自身の、その素晴らしい働きをしている、「本来の相(すがた)」と言っていいですか、
「本来の自己」と言っていいですか「自分」と言っていいと思います、
そういう誰もが持ち合わせてる素晴らしさ、宝物がありますから、
それを自分で本当に見届けて、
それに生涯動かされて、
思う存分、悔いなく、生きていただきたいと、
こういうことです。


あとは、何か条か出てましたけども、「有所得の心」。
いろんな意味で有所得の心、
「あれが欲しい」「これが欲しい」「ああなってほしい」「こうなってほしい」
いうようなものが人間にはありますが、
そういう、ケチなというか、小っぽけなというか、(義衍)老師が「つまらない」と言ってるんでしょう、
そういうものを、少しいただいて、喜んでるようなことにならんように修行してください。


ま、こういうことですね。


あとはほとんど、いいんじゃないかと思います。


もう少し補足をすれば、「どうしてそれでいいのか」いうことでしょう。

みなさんが描いている、本当に「知りたい」「得たい」「なりたい」境涯。


そういうものが、今のみなさんがたの動きそのものに、全部、あるということです。
どっか他所(よそ)にあるのじゃなくて。


だから、修行の仕方、求め方、というものが、
目を他所に付けるのではなくて、
自分自身の、今、生活している、このことに目を向けて、
そしてそれが本当にどうあるか、いうことが基本的なあり方でしょ。


そうやっていきますと、当然、自分の考え方なんてものは、全く、要らなくなる。

そんなものに手を付けててもしょうがない、それこそ。


ここに実物があるわけですからね。
生活してる実物があるんですから、それを人間の考え方で手を付けて、壊して、どうこうするんじゃなくて、
この、生活してるこの事実に用がある。

それをそっくりそのままいただいてみる。考え方を通すんじゃなくて。

それだけを、丁寧にやってくれれば、修行になるでしょ。






私たち自分が今生活してる様子が、坐禅の時は坐禅をしてる様子がある。
そんなにはっきりしているのに、そのことに参じて、触れていながら、生活を自分でしていながら、
そのことが自分でどうなっているか分からないっていうほど、愚かであっていいわけがない。

いわゆる、自分の生活を本当になおざりにしてるっていうことになるでしょ。


要するに、この今生活してる中に大事なものがあると思ってないから、いい加減にしてるんでしょ。

もっと他に大事なものがあると思ってるから、ここ今生活しているこの今のありように本当に目を向けていないのでしょ。


ところが、これも理論的に話したら少し理解がいくと思うんだけど、
私たちは、いついかなる時でもですよ、時間の上から言ったら、「今」だけですよ。
いるのは、自分がいるのは。

場所的に言えば、このものがいる「ここ」と言われる場所だけですよ、いつも。
そっから離れたことがないですよ、「今」とか「ここ」とかって言われる。


何十年生きようが。


嘘だと思うなら自分の様子を見てごらんなさい。
この身体のある所でしか生きてないでしょ。
この身体が行った先々でそのとおりのこのまま生活をしているだけじゃないですか、生涯。
それを端的に言えば「今こうやってるだけ」でしょ。


今だって「これ」以外にないでしょ。自分の生活してる、場所、時間帯。
だから、ここで勉強するしかないんですよ。このことで。


ところが、頭がちょっとおかしいもんだから、
「こんな所に?」って思ってますから、
「もっと他の時間帯/他の場所に行ったら何かいいことがあるんじゃないか」、端(はな)からそう思ってる。
そういう考え方の上で修行しちゃ、駄目ですね。それは修行にならない。


事実を抜きにしてものを学ぼうと思っても通んないですよ。


もっと普通に言えば、お茶の味を本当に味わいたいのに、飲まないでお茶の味を知ろうと思ってるのと同じぐらい愚かですよ。
やってごらんなさい、飲んだら必ず分かる。

どうもしないでも。

ここ(頭)じゃない。
これ(お茶)が教えてくれるの。


そうやって勉強するの、修行するの。

私の都合じゃないから、必ずこの中に入ってるお茶の味がするように出来てる。
いくらたくさんお茶碗があって注いであっても、他の人のお茶碗の味は絶対こうやってしないように出来てる。
そんなにはっきりしてる。
迷わないように。


それで十分じゃないですか、
このものの中に入ってるお茶の味が飲んだ時したら、それで。


このまま飲んだ時、他の人の中に入ってるお茶の味がするようだったら、もう人生めちゃくちゃだ。(笑)

そんなこと一切ない。

基本ですね。
修行、修行をどういうふうにして、どこで、何に学ぶのか、どうあるのか。

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▶私達は毎日朝から晩まで真実の中に生きていながら
「おそらく一度も真実に直接触れた事はない」って言っていいでしょう。


▶ 「お寺に座禅をしたいから」と言って座禅に来る。
「何かわからない事ありませんか?」と聞く。

誰も何も言わない。
 
「では、座りましょう。」と言って座る。
 
問うべき事を問わないんじゃないですか?
 
 
一応パンフレットみたいなもの渡して、冊子のようなもので図解ができてるものを差し上げる。
口頭でも多少話をする。
一応の形はできる。
そして坐禅をする。

 
こういう座り方(坐禅の仕方)で座禅になってるのだろうか? 
 
修行になってるのだろうか?というような事ですね。

―井上貫道老師
 



2013年4月の井上貫道老師の静岡禅会でのお話です。①

道元禅師 正法眼蔵春秋の巻
 
私達は毎日朝から晩まで真実の中に生きていながら
「おそらく一度も真実に直接触れた事はない」って言っていいでしょう。
 
考え方、を通して見てる、
いつでもって言っていいほど。
 
だから心底納得しない事があるんでしょう。 
 
ちょっと何か揺り動かすと自分の中で疑いが起きる。
 
不安な気持ちになる。
 
揺らぐじゃない。


それで。人につつかれればなおさら揺らぎますねえ。


どこに行こうがその事がその事としてきちっと伝わるようにできてる。
あたかも暗記してるように。
 
初めて出会うものだけども、初めて出会ってうろたえるような事はない。
 
どこへ行っても。
どんな事に出会っても。
うろたえるような事はない。

 
うろたえるのは現実を見ないで自分の頭の中でその現実を捉えて 
どうこうするようになると問題が起きてますね。


「痛い」っていう時に、「どうかしてくれ」っていうようなものはないんですね。
不思議に。
それだけで済むんでしょう。
 
「なんで?」というのは起きないんですね。

 
道を歩いてていきなりバタバターと足元から鳥が飛び立つ。
 
「なぜ?」とか、「どうして?」とか本当に起きないんだよねー。
 
それ、皆さん、経験あるんじゃないですか?

 
それが済んでから、「今のは何だったんだろう?」、「どういうことだ?」 
っていうような問題を起こす人はたくさんいる。
 
その時にはもう、問題がなかったところを通った後じゃないですか。
 
問題なく生活した後じゃないですか。

 
違いますか?
ちゃんと通れたんじゃないですか?
 

『正法眼蔵』はこうやって読んでみるとよくわかるように、 
『正法眼蔵』はそこに書いてある事を読んで理解するって
いうような事ではない事ですよね。
 
必ず自分自身のあり様としてそこがちゃんとしてるか、 
必ず問われています。

 
これが道元禅師の親切なとこでしょう。


もう一つ人間が生きてる場所があるならいいですよ。同時に。
今こうやって生きてるものと、もう一つ自分が生きてる場所があるんだったら、 
そっちがよければ、そっちにいけばいいんです。
 
ねえ、ところが、誰もよく見て下さい。
もう一つ生きてる場所なんかないじゃないですか。
 
時間的にももう一つの別の場所があるわけじゃないじゃないですか。
そういう事をまず熟知するべきじゃないですか。
 
ものを学ぶのに。 
 
 
パシッ(老師、手を叩く)
 
だからこの音を聞くのには必ずここで聞くしかないじゃないですか。
後にも先にも。
この場所で、
この時に。
この音を聞く以外にないじゃないですか。
 
あと、どこでこの音を触れる事ありますか?
一々そうですよ。
この音だけじゃなくて。生きてる様子見て下さい。
 
 
一々の生きてる様子は今ここで本当にその事が行われているだけであって、 
その他のところにどこにもないですよ。
 
 
そういう生き方を私達してるって事が脱落の身心と言われる所以でしょう。
何もかも離れ切っている。
 
要するに、私達が普段勉強して考えてる事と違うんですよ。 
このもののあり様は。

 
だからこのものの事実の方から学ぶんです。 

 
(老師、頭を指して)
この変な頭の方から学ぶんではないんです。
ここはつまらないものいっぱい詰めてますから、
そのつまらないものいっぱい詰めてる方から見たら、
そこにいくら真実が展開されていても
それを正しく見る能力は皆無に等しいでしょう。


どうしてそういう立派な人のところについて修行しているのに
きちっと問うべき事を問わないのか、聞くべき事を聞かないのか。
 
暑いという事はどういう事を言ってるのか。
寒いという事はどういう事を言ってるのか。
「そんな事、聞かなくたってわかってる」って、思うから問わないですね。


座禅もそうですねー、
「お寺に座禅をしたいから」と言って座禅に来る。
「何かわからない事ありませんか?」と聞く。
誰も何も言わない。
「では、座りましょう。」と言って座る。
 
問うべき事を問わないんじゃないですか?

 
一応パンフレットみたいなもの渡して、冊子のようなもので図解ができてるもの 
を差し上げる。
口頭でも多少話をする。一応の形はできる。
そして座る。

 
こういう座り方で座禅になってるのだろうか? 
修行になってるのだろうか?というような事ですね。
ここで言わんとする事は。



自分自身の事を本当に自分自身で見極めるって
誰からも指図される事ではない。
 
強要される事でもない。
 
人としてこの世に生まれて自分自身の事本当に知らないと 
いうのは哀れな事じゃないですかね?

 
なんで、この一個の中で、こうやっておりに触れて生活してて 
問題が起こるかって、よくよく見てみれば、自分自身というもの
わからないから問題が起きるんじゃないですか?
 
だってどこで問題が起こるかって、必ずここなんですね。
 
今以外のところで、問題起きた人いないんですよ。
 
問題起きると必ず、しかも自分の上なんです。
 
他所の人の体の上で問題が起きた事ありません。
 
必ず自分自身の上で問題が起きる。

 
その問題もですね、いろんなものにこうやって接触しますけれども、 
接触したその時に問題が起きるんです。
 
どういう風にして問題が起きるかっていうと、「何言ってんだー」、
「それどういう事だ?」、「あんなやり方ないじゃないか」
そうやって自分の中に触れたものに対して、皆自分のそういった見解を
起こして、それで問題起こしているんじゃないですか?
 
他にはないでしょう? 



「あー、なんてかわいそうな事か、私だけこんな事してていいのかしら?」 
そういって自分の中でふっと思うといたたまれなくなって、
「こんな贅沢してちゃいかん」と言って、
ご飯も食べずに人の為に施すような事する人もいるでしょう。
 
じゃあ、それずっと続けたらどうなるかって、 
自分は一週間食べずにいたら必ずおかしくなりますよ。
 
「みんな汗水たらして夜も休まずに働いている、私も」って言って 
一週間飲まず食わずに人の為にやるのはいいけど、ぶっ通しやって倒れる、
それ、皆考え方の生んだ愚かな事じゃないですか?
 
本当はそんな事が大事な事じゃないじゃないですか?
 
そんな無茶苦茶な事をしろっていうんじゃないでしょう?

 
もっと平凡な中に本当に誰もができて実行力があって、 
効果がある事あるんじゃないですか?
 
とにかく人間はそうやって、自分が触れたものに対して、 
自分の中で見解が起きるという事が
それから問題が起きてるんでしょ?
 
じゃあ回避するんだったら、その問題が起きてないところに 
目をつける必要があるんじゃないですか?

 
じゃあそれどこにあるか


人間の見解を起こす前にどうなってるかを見るべきじゃないですか?

 
触れたものが自分の見解を起こしてどうこうじゃなくて、 
触れたその一々のものが自分の見解を通さずに
それがどのように本当になってるか、それ抜きにして自分の好き嫌いで
ものを取扱って、ものが解決できるわけないじゃないですか。
 
参禅ってそういう事をするんじゃないですか。
 
本当に自分自身の今の様子に参ずるという事。 
 
用があるのはそこじゃないですか?

 
で、自分自身の本当の様子がない人は一人もいないんだから。
 
だけどすぐに見解が起きて自分の考え方でものを見る癖があって 
その前の正しいもののあり方のところに着眼する人ほとんどいないって事でしょう。
 
そういう事ずーっとこうやって伝えてきてる、そこやって欲しいという事を。
 
それが仏祖のかじょうなんでしょう、
で、あんまり当たり前だから修行にお見えになった立派な方々でも、 
立派な人のそばにいてもそれ以上追求するこない。聞く事もない。
 
そういう生活をしているから淋しいなと言ってるんでしょう。 

 

毎月一回木曜日、静岡駅から南へ徒歩10分の崇福寺 鯖大師で、
井上貫道老師の座禅会があります。
崇福寺臨済宗
 
夜6時半から9時まで、出入り自由、会費一回1200円、
25年続いており、正法眼蔵をテキストにして
井上貫道老師の提唱、お話があります。
会場などの詳細は、
井上貫道老師全国坐禅会日程にあります。



上記の文章の
引用元:http://ameblo.jp/10wanko28/entry-11528265009.html
文中、脱落の心身とあるのは、脱落の身心 に書き換えました

(このブログは
井上貫道老師まとめブログです
すなわちネット上にある井上貫道老師の様々な語録と坐禅会情報を一つにまとめて、
学人の参学の便宜とするものです)
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▶自分の見解を起こさずに、
本当に相手がしゃべってる時そのまま聞いているっていう事が
穏やかな生活ができている証拠じゃないですか?
ー井上貫道老師 



2013年4月の井上貫道老師の静岡禅会でのお話です。② 
道元禅師・正法眼蔵春秋の提唱から
 
①の続き

この前も紹介したんだけども、
あるお母さんがお寺に参禅に来てるから、 
「皆さん、ここお寺に参禅に来て何か目的あるんでしょう?」
って聞いたら、
「心が穏やかでいれたらいい」
ってその人は言われました。



「穏やかになれたらいいって、普段穏やかじゃないんですか?」 
って聞いたら、
「子供と話をするとすぐ喧嘩になるんです」 
って。


「すぐ喧嘩になるっていうけど、いつもそうなの?」
ったら、
「いや、そうでない時ある」 
って言ってました。


「どういう時?」

「それ、自分で相手の話をただ聞いてる時だ」 
って言ってた。

それ、穏やかだそうです。
喧嘩にならないそうです。


自分の生活の中知ってますよ、だから。
だけどもそういう事が修行だと思ってないから。
お寺でも行ったら、もっと楽になるんじゃないかと思ってる。

そうじゃない。


本当はそうやって自分の見解を起こさずに、本当に相手が 
しゃべってる時そのまま聞いているっていう事が
穏やかな生活ができている証拠じゃない?


それが、禅の教えだとか、仏教の教えだとか思ってないんですよ。
不思議ですね~。

どっかに別な教えがあると思ってる。



そういう事が問われてるだけなんですよ。
 

知らないと、その話をしてる時に、まだ他の何かをして 
幸せになれると思ってるんですよ。
 

やりかえて、何か他の事やりかえて、人は幸せになれると思ってる。 


そうじゃない、ただ本当に聞いているだけで居れるようになったら
人は幸せになれるんです。



だって自分の主義主張を立てて相手の話を聞くからすぐ喧嘩になる。



修行は他の時間にないじゃないですか。

他の時間帯で修行する事はない。

その時にどうあるかだけじゃないですか?


そのやってる事、今会話してる事の外じゃなくて、 
会話してる事を材料としてその時に自分がどうあるかだけが、
それ以外のところで修行する場所ないじゃないですか。
 
取り替えて。
 

今会話してる事、会話するといつも喧嘩になるから会話する事は 
止めといて他の事でって会話始まってやるような事したら
おかしいじゃないですか。
 

お茶を出されてお茶を飲む事止めて、じゃあ何するんですか?

そうじゃない。


その事でいつも勝負でしょう。



その事の中に修行があるんでしょう。
こういう事が伝わってない事ですねー。 


町の方に出て行っていろんな人達と話してみるとよくわかる。
今やってる事を外してどこか違ったものを持ってきて、そこにあてはめて。
そういう事が修行のように思ってますねえ。



道を明らめた人、真実を見極められた人達のとりあげられているものと
ただ単なる見解、そういうもので取り扱っているものとは違う。

実物と偽者は違うと言っていいのかしら。



一度も本当の熱さに触れた事がないのに、 
文章に熱いとは火傷をするような事だとか、温度が何度かとか
書いてある事を知って、いかにも熱いって事を知っているように
思ってる事は愚夫の法でしょうかねえ。




今の社会ではだんだんそういう人増えてきた。


実物抜きでインターネットなんかを通してでもですね、 
あらゆる知識がすぐに検索できて、検索したものをみると
あたかもそれ、自分で知ったかのように自分の知識にしてる。


だけどそれは他人がやった事をわずかに見て 
そう思い込んだ位の事なんでしょう。

そういう事だと思いますよ。 


直ちに、今、ここで、直接に。
家に帰ってからとかこれからとか言わずに、 
今、ここで、すぐに。


この音声ひとつだってそうでしょう。

いきなり聞こえてそれで終わりです。

回避する所なんかどこにもない、
という事が春秋の巻の最後の詰めになってますね。


そういう事のために、『正法眼蔵』読んで 
どういうふうに、何を、どこに向かって、どのように
生活をしたらいいのかっていうことが伝わって。


伝わるっていうことは実践して頂けるようになるということですかね。

どうしたらいいかって事が伝わるって事は実践するって事になりますね。

実践しなければ、どうしたらいいかって事が伝わったって事ではないですね。

それでいいでしょう。

それ、すごい大事な事なんですねえ。


「あーそういうふうに書いてある」、「そういう事か」っていうのは 
伝わったんじゃあないですね。

それ理解に終わっただけですね。
あるって事は実践するんですね。
必ず実践します。


右行ったらちゃんとした所に着くよと書いてあったら右に行くんです。
そうするとなるほどここかあって必ず着く場所があるからそれでいいんでしょう。
そうすると書いてあったものが初めて自分で信じられる。


そこまでやって頂くと、こんなもの(老師、『正法眼蔵』を持ち)を 
持ち歩かなくても済む人になるんじゃないですか。


是非そうやって頂きたい。と思います。 



毎月一回木曜日、静岡駅から南へ徒歩10分の崇福寺 鯖大師で、
井上貫道老師の座禅会があります。
崇福寺臨済宗
 
夜6時半から9時まで、出入り自由、会費一回1200円、
25年続いており、正法眼蔵をテキストにして
井上貫道老師の提唱、お話があります。
会場などの詳細は、
井上貫道老師全国坐禅会日程にあります。



引用元
http://ameblo.jp/10wanko28/entry-11528265828.html
文中の 愚ふの法 を 愚夫の法 に書き換えました。


(このブログは
井上貫道老師まとめブログです
すなわちネット上にある井上貫道老師の様々な語録と坐禅会情報を一つにまとめて、
学人の参学の便宜とするものです) 

通常のブログでは、その記事の続きを読みたいと思いましても、インターネットの達人でない限り、
次の記事が探しにくいものですので

 
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▶思考回路は真実からいつも乗りおくれているから、
自分のなかで葛藤が起きるのです。
―井上貫道老師





『意根を断つ今一度坐禅について』前編
静岡県少林寺住職 井上貫道
 悟りの体現者・井上貫道老師のプロフィールはこちら

真実に目を向ける
 
 ようこそ一泊坐禅会にご参加くださいました。本日は坐禅の経験がある方、ない方と いらっしゃると思いますので、坐禅の経験のあまりない方もおわかりになるように、 お話を進めさせていただきたいと思います。

 先ほど坐禅をしていただいて、人間がこれだけ集まっていてなお、こんなに静寂な雰囲気が つくれる、ということを体験していただけたと思います。


普通は人が大勢集まると、静かには ならないことが多い。
 
ですけれども、坐禅という行をするときには、何千人いようが、何万人 いようが、
誰もそこに人がいないぐらいの静けさというものができます。


 それが雑踏のなかで生活をしている人は、「たまには静かなところへ行って過ごしたいな」 と思う。
人のいないところを探して、「きょうは静かないいところへ来たな」と思っている。
 
けれども、だいたいそういうところにみんな行くものですから、せっかくの静かな場所がたち まち騒々しいところになってしまう。
 

こういうことが普通の生活のなかで起こることです。
 

ところが坐禅は、どんな喧騒のなかでも、みなさん方が自ずから静かな場所をつくるという行 であります。



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それから坐禅を行なう時の注意点として、道元禅師さまは目を開けて坐るということを おっしゃっています。
これはひじょうに大事なことです。

坐禅は瞑想とは違います。
 
だから目を開けて坐る。


ではこれにどういう効果があるのでしょう。


目を開けて坐ると妄想が 断ち切れるのです。


目の前のものが見えてますから、見えているだけでいるあいだは、 妄想が起きてこない。



 坐禅は、「真実」に用があるのです。


妄想は頭のなかで描いた青写真、あるいは砂上の楼閣 のようなもので実際にはありません。

 
しかし、考え方、思いの上に生じたものと造りものでない 事実との区分けをよく知らないと、
妄想を相手に坐るようになる。


そうではなく、真実(ぬきさ しならない今)に目を向けるのです。



 そこで本日の題「意根を断つ」ということになろうかと思います。

「意根」の「意」は「思い」 です。

こころのいろんなものを思わせる働き。その大きなものを「意根」といいます。
 

 人間の生活のなかでいちばん厄介なことはなんでしょう。

それは、なかなか自分の思いどおりに ならない、ということではないかと思います。
 
もし自分の思いどおりに全てのことが運ぶのだったら、苦労をしませんね。
 


ですがそんななかにあっても、この「思い」というものを自由に、世のため、人のため、そして人の邪魔にならないとか、傷つけないとか、汚さないというように使える人 になってほしい。

今日はそうした人になれるようにお話をしていきたいと思います。



 自分の「思い」が不自由のもと

 ではどんなことが日常起こっているのでしょう。

私たちは事柄にふれて、そのままの「思い」で いられる人はほとんどいません。
 

たとえば夕方お寺に着いて、控室に通してもらった。
 
通してもらったはいいけれども「どこへ坐ったらいいかな」と様子をうかがう。
 
先にいた人に「空いているところへどうぞ」とか、「こちらへどうぞ」とか言われると、安心してすっと坐れる。


今度は坐った はいいけれども、誰も何も口をきかないでじーっとしている。
 
5分、10分と時間が過ぎるにつれ、ひじょうに重苦しい雰囲気になってくる。


そのあいだどうしているかというと、ほんとうにいろんなことを「思う」のです。
 
 
 
「これから何をするんだろう」、

「あとどのくらいこうしているのだろう」、

どんどんいろんなことを思い、負担となってきます。 



こうして、人は自分の「思い」によって不自由になるのです。
 


 お釈迦さまは6年間坐禅をされたといわれていますけど、
その間、いろんな「思い」をする働きから離れて、
真実のまま活動している自分に目を向けられました。

 
ですから坐禅も、
こころで思いをめぐらすということをやめないと、正式には坐禅とはいいがたい。



 お釈迦さまが出家をされて修行をはじめた当時は、どの修行者も人間の考えかたを中心にしていました。


お釈迦さまも、出家をしてはじめのうちはそういう指導者のもとで、
いわれるとおり、断食をしたり苦行といわれるあらゆることをされました。



それでも、自分のなかで一つも解決されていかない。
これはどういうことかと申しますと、
頭のなかでこういうふうに思ったら、このように理論づけていったら、という定義があるだけ。

このことをやめたら、たちまちただの人になってしまいます。



 もっといえば、力を入れているときだけ立派そうに見える。
 
願力とか信念をもって続ける、戒を守る。
こうした人は生活態度を拝見しても実に清浄な姿で、あこがれでもあり、「立派な人だ」とみんな思ってくれる。

でも、お釈迦さまはそれではご自分の解決がはかれなかったのでしょう。



 そして、自分でどれだけ苦行などをやってみても、この自分の「考え」というものが自分を承服させない。
最終的に納得させないということにいたった。

当時の世の修行者と違う方向に向かった理由は、 これではないかと思うわけです。



 幸いに当時、『梵我一如』=「宇宙と自分は一体である」という思想がありました。
 
だけども、どうしたらそういうふうになるかわからない。


そこでお釈迦さまは、「これはなに」、「これをやって」、 というような、
人間の考えかたで物事を追求することをやめてみたんですね。


時々刻々と追求せずに過ごしてみる。
 
人間の考えかたで追求することをやめてものごとにふれてみる。



 こんなことはみなさんやったことがないでしょう。
 
普通は、これは四角形であるとか、こっちは黄色で、こっちは白いとか思う。



でもそういうこともやめて、有るとおりに生活をして、

是非をつけない。 

よしあしでものを見ない。比べない。
 

これが「意根を断つ」ということでしょう。

 

そうするとみなさんがあまり見たことのない、気づいたことのない世界が出現すると思うのです。





 思考回路から離れる

 いまのみなさんは自分の考え方で、追求していったら幸せになれる、何かが見つかると思って、
思考回路の総力を挙げて考えています。
 
これが普通かもしれません。
 

そう考えますと、お釈迦さまの考え方はまったく違います。
 

360度方向が違うのです。
わかりますか。

180度というと正反対の向きになります。 


これが360度というと、始点と終点がピッタリとしていて、見た目には何も変わりません。


どこが違うの かと思いますが、これがまったく違う。

お釈迦さまだけがやったことでしょう。



 (パンパン)と手をたたきますと、
人間の思考で追求しなくても、
不思議なことに聞こえてきます。 


「認識」というもののの育ちきらない小さなお子さんに、
(パンパン)
とやる。
 
その子に「聞こえたの?」と聞いても反応はない。
 
自分で聞いたという認識はないからです。


だけども、
(パンパン)
とやると、からだが反応する。
 
それでおとなは「聞こえているんだな」と思います。



 またはそこに熱い物が置いてある。
 
おとなは「熱かったから手を引いた」と思います。


ところが 「認識」のまだない子どもは、なにも思わずにやっているだけです。



そういう世界がある。お釈迦さまはそういうことを悟ったのです。



これは聞いてみればみなさん方も気がつくでしょう。

でも、 たいがい気がつかない。



それで何をやるかといいますと、
思考回路のうえで物事を追求することしか知らないからいろいろ思うのです。


 思考回路は人を苦しめ、悩ませ、ものがわからなくなる唯一の道ゆき、または配線です。
(使いようによってはすばらしいものだけれども)。


いま世の中で問題にされていることは、ほとんど思考回路のうえで起こってきました。




 ですから修行をするときに、この思考回路という道ゆきはいらないのです。


使わなくても、自分のからださえあれば足ります。


なぜそう言いきれるのかといいますと、
人というのは、いつでも、どこでも、だれでも、
このからだのあるところでしか生きられないし、
生きているところはこのからだの上の様子なのです。


これがすごく大事なことです。
 


 ですからお釈迦さまは、菩提樹の下で自分おひとりで六年も過ごされたのです。
 
ほかのものは何にも相手にしていません。
 

こんな簡単で単純なことです。
 

場所的にいえば、「ここ」という表現でしょうか。


では、どこを指して「ここ」というかというと、
このからだのあるところを「ここ」というわけです。



 みなさんは帰る家がおありかもしれませんが、そんなところで生活してないでしょう、いまは。 

 
 
家があると思っているだけです。

 

なくても大丈夫。
 
 
ここでちゃんとこうして生きています。

何の心配もありません。
 

これはキリスト教のおことばをかりれば、「三位一体」ということです。


サイコロの目のようなもので、1が出ようが6が出ようが一箇のサイコロのすがたに違いない。



時間的に いうと、「いま」。

 
場所的にいうと、「ここ」です。
 

それだけが人の生きている真実なのです。





 いま、完璧な真実

 仏教はだいたいいま申し上げたことが全てですね。これが「真実」。


これ以外は全部頭に描いたことです。


 
だけども不思議です。頭に描いたことで、お互いに話ができます。

 

「きのう、あそこで 会ったね」、「うん、あそこで会った」と、いろんなことをちゃんと話せる。
 

確かにきのうそういうことがあったに違いないのですが、
事実は事実よりも奇なりです。

人間の想像を絶します。


確かに体験して、あったはずのものだけれども、どこにもないんですね。


握った、離した、もう握った ことはどこにもないのです。

 

こうして両手を広げて、この広げていた両手は、いま、どこにあるで しょう。

 

思考の追求をやめてみるとはっきりわかるはずです。
 

広げていた手を握った途端に、げん こつがあるだけ。

これが真実ですね。



 立ったり、坐ったりといいますけれども、人間は同時に二つのことはできません。
 
立つと、坐っていたものはどこにもなくなります。
 
こんなにはっきりしている。


だけども、「立っていたのはどこへ行った」と聞かれると、
頭で追求して「坐ってそこにいるではないか」となる。
 
さっきそこへ立っていた人がいるように思う。



ここは頭がかたいものですから、どうしても事実のあり方につ いてこない。

それでみなさん乗りおくれるのです。

思考回路は真実からいつも乗りおくれているから、自分のなかで葛藤が起きるのです。




 それから、みなさんは目的というものを先に持っているかもしれませんが、いまやっていることで完璧ですよ。

 
布巾を持ったときはこの持ったとおりになるから、これで完璧。

 
離したら離したようになるから、これで完璧。
 
持っていたから、離したからどうかなるということではないのです。 


事実を見てごらんなさい。


握ったとき、確かに握ったことしかない。
 
離したら、離したということ しかない。



 きょうもある、あしたもあると思っている。
 
あしたになったら立派な人になると教えられて、信じています。
 
そうではないのです。
 


ほんとうに立派な人になるのには、
ただ、いま完璧にできているものを自分で、
「あ、ほんとうにそうだ」と納得のいくところまで事実に参ずることです。



 思考回路を使わないと、真実というものがよく見えます。
 
真実を見てみると、自分が探し求めていたものとぴったり符合します。

 
そういうことを、私たちは生活のなかでやっているのに、
思考回路が働くとすぐにそのことから目がそれてしまうのです。



 (パン)
この音と、

(パン)
この音は違うことを知っていますか。

 
人生のなかで、(パン)この音と同じ音はもう絶対にありません。
 

そういうことを知っていますか。
 

真実というのはそういうものです。



 「このことはいまに役に立つから、よく覚えておきなさい」と教えられるから、みんな一生懸命覚えます。
 
だけども、事自分の内面のことに関しては、役に立ちません。


似たようなことはあっても、二度と同じことがないからです。
 


 それでも自分の思考は、思考を重ねて、
似たようなことが出てきたから、あのとき、もし、
似たようなことが出たらこういうふうに次にやったら間違いないとか、
失敗しないだろうかとやり出す。 


だけども、そのようにやってみても、
思考回路が自分にたいして
「うん、それで間違いない」
と言わせないんですね。
 
これで「よし」と言わせてくれたら、ものすごく楽です。
 


みなさんが使っているマニュアルの世界で十分になってしまう。
 
マニュアルほどおもしろくないものはないですね。



 たとえばこのお茶碗をあそこからこちらへ持ってくるのに、ちゃんと足の運びまで決められてごらんなさい。
運ぶのにたいへんですよ。



真実とは、二度と同じことがないようにできているのです。 


ですから、やりっぱなしで平気でいられます。



一回一回がそれで完璧。いちいち完成度100%の真実なのです。   


         合掌



(後編へ続く)
引用元 http://www.nakanojouganji.jp/kihou/12inoue1.htm
『意根を断つ今一度坐禅について』前編 




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真実というのは、自分の思慮、分別、考えかたをやめてみたときの自分のすがたです。


事実を人は思考で汚しています
「思い」というものが人をたぶらかして、真実からかけ離れさせてしまうのです。

―井上貫道老師



*************************************************************************************************

◇ 目に見えるもの、耳に聞こえるもの、これらはすべて自分自身の様子なんです

事実に即していれば、考えが「やまる」んです。



◇ 六根(眼耳鼻舌身意)の働きのままに、浮かんできた思いをとらえずに手をつけずにそのままにしておく。



◇ (机を叩いて)「コン」とやると、
音がして気がつきますね。

音がするから気がつくんです。

気がつくのが必ず後になります。

気がつくより先にこういうこと(「コン」)があるんです。


これを丁寧によく見ていけば、それは人間の好き嫌いを超えているものだということがわかります。

そういうことに学ぶのが坐禅です。



◇ (外を車が走り去る音に)「ブーーーー」だけじゃないですか。

これだけです。

これだけじゃないですか。 




◇ 考えを「やめる」んじゃないですよ。
 



◇修行とは何もしないこと



◇五感を自分のために使うことをやめる



◇思いが起こってもそれを相手にしない、手をつけない  [思考を観察することでもありません]



◇思いがでないようにするのではありません




*************************************************************************************************




『意根を断つ今一度坐禅について』後編


静岡県少林寺住職 井上貫道

 人の行ないというのは、1回1回完成度100%の真実なのでありますが、自分思いからいえば、 「完璧ではなかったな」と思うことがあるかもしれません。

歩いていて、転んだりなんかすると、 「あっ、失敗した」と思う。

でもそれは、そう「思う」ことであって、目の前の事実は違う。

歩い ていて転んだら、転んだようにあるだけ。

それで何も悪くないのです。

それなのに、転ばないこと が人の求めているすがただと思っている。



 真実というのは、自分の思慮、分別、考えかたをやめてみたときの自分のすがたです。

まだ認識というものが育たない子どもさんたちがそうですね。

赤ちゃんには、ものにたいするこだわり はまったくありませんから、だから天真爛漫と表現されるようなすがたがある。
 

 ところが、赤ちゃんを抱き上げたとたんに泣かれたりなんかすると、私は嫌われているんだなと思う。

それなのに、「あの人の時は泣かないな」となると、「あの赤ちゃんは私が嫌いだ。あの人のことは好きだ」とこう思う。
「今度もまた泣かれるだろうな。いやだな」と。

ただ、こちらの姿がそのままその時赤ちゃんに伝わるから、泣いたり笑ったりするんです。

赤ちゃんのほうには、こだわりがないんですよ。

だからいくら大きいダイヤモンドをあげても、かたいし甘くもないから見向きもしません。

逆に汚いものでも口に入れて、うわーっとみんなが慌ててとるなんてことが起こる。

 

 だから仲良くなると、大事にしているものでもみんなくれますね。

先日、3歳ぐらいの子ですが、 私の名前を覚えて「貫道さん、貫道さん」と言いながら、お菓子を「これも、これもあげる」と手渡してくれました。

私が坐禅堂へとすがたを消しましたら、向こうで大きな声で泣いていました。

ところが泣き疲れてくると、そのうち知らん顔して、それで終わり。

でも、おとなはこういうことに弱いですね。 すぐに「ああすればよかったかな」なんて思う。


 なんにでもそうですが、すぐに余分な思いが起きてきます。

そして、「ああすればよかった」、 「こうすればよかった」と思いをいっぱい重ねて、しまいにはどれがもとの色だったかわからなくなってしまう。

「思い」というものが人をたぶらかして、真実からかけ離れさせてしまうのです。





 思いから離れ、目の前のことをやる

 これから道元禅師が残されたお言葉を参考に、お話を進めてまいります。

まず、
「修行の用心を授くるにも、修のほかに証を待つ思いなかれと教ふ」
とあります。

修行はどうしたらいいか。今やっていることの外に、なにかもっと素晴らしい世界があるのではない。

今にそいきれない人が、むなしさを感じるのです。

今から目が離れてどこかに探し求めるから、いよいよどうしていいかわからなくなる。

ただ純粋に、今のことをやりさえすればすむということです。



 ところが「なんで私が? どうして?」と、こういう気持が次から次に起きてくる。

その思い にしばられて、結局やれなくなってしまう。

やれなくなった自分がいやになって、卑下をしたり、落ち込んだり、結局もっと苦しむことになる。

そこへ人から「なぜやらないんだ」なんて言われると、 もう、もっといやになる。
たまらなくなる。

みなさんは身に覚えがないですか。


 おとなりの中国に昔、趙州さまという立派な和尚さんがおられました。

大勢の修行者が訪ねたそうですが、ある日、はじめて趙州さまのもとに来た人が、「どう修行をしたらいいですか」と尋ねられたそうです。


すると「朝ご飯は食べたかね」と逆に問われた。

 みなさんどう思われますか。どんな修行をすればよいのか尋ねているのに、この返答。

この人ちょっとピントがずれているんじゃないかと思いませんか。


 ところが修行にやって来た人、「朝ご飯は食べたかね」と自分の耳に聞こえるから、「はい、 確かに食べました」と答えたそれだけなのです。

すごいでしょう。

みなさんはこういうふうにできますか。

みなさんの場合は、すぐに思考回路が働いて、
「なんで修行のやり方を教えてくれないんだ。不親切じゃないか」
くらいのことを思うのではないですか。


 ところがこの2人、

「朝ご飯は食べたか」、
「食べました」、
「それなら器を洗いなさい」と、

それだけ。


修行の場でなくともわれわれの日常に転がっている話です。

これが、目の前にあったら 次から次へとやればよいということの一例になるかと思います。

 

 他にも例えましょうか。

本を速く読もうとして、先のほうへと字を追って読む。

でもそうしているうちに、なにがなんだかわからなくなってしまう。

結局は速く読みたいからといっても、書いてある内容が正しく読みとれなければ、本を速く読んだことにはならない。

われわれの生活も、いろいろあって忙しいと言いもし思いもしますが、実際には1つずつやるだけなのです。

うっかりすると 忙しさにだまされて、こころまでいらいらして、やるべきことが手につかなくなるのです。



 
痛いことでも、全部が大事なこと

 「修を離れぬ証を染汚せざらしめんがために、仏祖しきりに修行の緩くすべからざると教ふ」。
なにかをした時、そのとおりの事実というものがあります。

これは先ほどから申しておりますように、 その事実を人は思考で汚しています。

人間は思考によって追求すると、真実がわからなくなる。

 「直指の本證なるがゆえなるべし」、

パン、

この音は、この音のなかにしかない。

そういうのを直指といいます。

ほかに指さしてあたる場所はないですね。


だけども人間は愚かだから、どこかほかに真実があると思う。

今やっていることが本当だとはなかなか思えません。

それはそうなんですね。

自分の描いた思いのほうが自分に近いわけですから、自分の思いに当てはまらないことは、真実だと思いたくないわけです。
 

 日常的なことを例にしてお話ししますと、誰でもお腹はいつも正常に働いて、痛くないほうがいいと思っています。

どなたでもそう願っていると思うのですが、では痛いのを自分の意志でとめてみる。

でもね、ほんとうはそんなことはよくないですね。

人間のからだは、痛みが出てくるときには 必要があって痛むようにできています。

それなのに自分の意志で痛くないようになったらたいへんです。 
 
お腹の中が破れていても気がつきません。

自分の思いでは、痛くないほうがいいかもしれません が、この今の傷みを除いては今が成り立たないようにうまくできているんですね。

なんでも全部がありがたいこと、大事なことです。

自分の思考で色をつけ変えるより先にある全部が真実、大事なこと なのです。

それから手当ということが出てくるのです。




 毎日、毎回が驚きの生き方

h4zazendosk2 「初心の弁道、すなわち一分の本性を無為の地に得るなり」。

みなさんのなかに坐禅がはじめてという人はどのくらいおられますか。

はい、この方たちのこと、初心だと思いますか。

実は、初心というのは、ここにいる全員。

私も含めて初心なのです。

なぜかといいますと、きょうの坐禅は誰もやったことのない坐禅だからです。

人生で一度もやったことのない坐禅を、きょうみなさんはやった。

こういうことを初心といいます。

ところが何回も経験している人は、自分は初心ではないと思っています。  
 
でもそんなことはありません。一度もやったことがないんですから。
 

 私たちの人生はみなそうです。

これからやることは、一度も経験したことのないものばかり。

毎日がこれからはじめてやること。

なんとすばらしいことでしょう。

なんと輝かしいことでしょう か。

一度も見たことのない世界に出会うのです。

毎回、時々刻々と驚きばかりです。


ところが、ちょっと頭のかたい人は、「毎日、毎日同じだ」なんて思っている。

これは、思考回路で見ているか らですね。 
 
だから、どんどん老けていきます。

こころがどんどん老けて、なんの喜びも感動もなく なってしまいます。
 

 定年退職された方が趣味を何ももってなくて、寂しくぼーっと過ごしている。

ところが、趣味も何もなくても、人は毎日毎日、生まれてから見たこともないものばかりに、朝から晩までふれるのです。

だから、「あっ」「あっ」と驚きばかり。

それくらい新鮮な生きかたができるようになっているのです。
 

 そうしますと、おじいちゃん、おばあちゃんが孫と遊んだりしましても、おじいちゃん、おば あちゃんが、毎日毎回を新鮮に感じていればお孫さんも楽しい。

さきほど申しましたけど、自分の気持ちそのままが小さいお子さんには反映されるのです。

それが、何百回も経験したことだ、毎日同じだと思う人は、なにを見てもふれても感動がない。

そういうおじいちゃんやおばあちゃんが子どもと遊んでも、子どもは喜びませんね。
 

 「初心の弁道、すなはち一分の本証を無為の地にうるなり」
という、「一分いちぶん」というのは今ということです。

「今本性を無為の地に得る」となります。



 先ほどの控室に

「無為最も尊し」

と書いてありました。


どなたかが「何もしないということが尊いのですか」と聞かれましたが、これはね、パンという音を聞くときに、私たちは何かをしましたかということ。

特別に何かをしたわけじゃありませんよね。

それなのに、ちゃんと聞こえるようになっている。

こういうことを「無為」といいます。

人間の思考を離れた、本当の活動をしていることが 「無為」というのです。

「無為」というところに気が付いて、目を向けていくと、本当の修行ができるようになってくる。

これが「意根を断つ」ということになろうかと思います。


本日はありがとうございました。


  合掌


引用元 http://www.nakanojouganji.jp/backno/50inoue2.htm


▶事実には見解は一切つかない。事実は本当に一枚岩です。他に何もありません。

▶人の見解が本当にぶち切れてしまうということがない限り、本当の救いというものはないんです。

▶理性は、人を惑わす親玉です。理性を無視するんじゃないんですよ。

▶徹頭徹尾、死んでゆくことが大切なんです。人の見解というものは、絶体に自分を救う道ではないのです。

▶ものの存在も、人の存在も、すべてなくなってしまうという事実があるんです。

―井上義衍老師 
 



道元禅師は、当時、日本に高僧は多けれど、本当に悟りを開いている方がいないと分かって、
生存確率の非常に低かった中国行きの船に乗って、
仏法を真に伝えている正師を探しに行かれました。
いるかもいないかも分からないのに、命を賭けられたのです。


古人すら猶かくの如し、いわんや今人なんぞ弁ぜざる


現代の正師に参禅されんことを。


正師とは、宗教界で立身出世を遂げたいわゆる高僧のことではありません。
人間の決めた決まりの中で宗教的ヒエラルキー(ピラミッド型の上下関係組織)の中において
高僧になっている人は、正師とは無関係です。

自己を本当に悟り得たか(決着がついたか、大悟徹底できたか)、
お釈迦様と同じ体験をしたか、
ここだけです。

それを体現した方が、正師と言えるのです。
仮に、宗教界の中では、目立たない存在でも、その点がハッキリしていればそれで良いのです。

幸い、法燈は今の日本でも消えていないのです。








 
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真実、悟り、禅修行とは(1): 道元禅師『学道用心集・普勧坐禅儀』、黄檗希運禅師『伝心法要』提唱録ー井上貫道老師語録がAmazonから出版されました

 

修行の大前提:悟りとは、修行とは 井上貫道老師語る

井上貫道老師提唱録が8月28日、出版されました
※書籍タイトルが『井上貫道老師提唱録 修行の大前提:真実とは、悟りとは、修行とは、禅とは』から変更されました



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今年5月にある曹洞宗寺院で、井上貫道老師を師家に迎えて攝心が行われましたが、その時の攝心の提唱がまとめ上げられて書物(電子ブック)になりました。

井上貫道老師とは、こちら

(本書初版中の、貫道老師の生年1943年は正しくは1944年(昭和19年サル年)です 9月2日以降のものは訂正済み)


初日の井上貫道老師の提唱は特に素晴らしく、法悦にむせび泣く方が続出しました。
爾来、静かで熱心な攝心となり、5日間の修行が円成しました。


 

その井上貫道老師の提唱の録音を、在家のお弟子の一人が文字に起こし、貫道老師の最終チェックを経て一冊の書籍となりました。
 
今回は電子ブック*としてAmazon Kindle本での出版です。
 (そもそも Amazonあまぞん って何だ?、という人には、このページ最下部に登録方法を書いています 電子ブックの扱い方も下に書いています)

 
『井上貫道老師提唱録amazon kindle版』の
 ご注文はこちらから⇒ http://amzn.to/2cjIIh1


不安な方は、上記URLで、無料サンプルをお試しください

*電子ブックリーダーがなくても、アプリを使用すれば、パソコン、android、iPhone、iPad などで読めます。
また、一度購入されると、同じAmazonアカウントでログインすれば、スマホでも、タブレットでもパソコンでも読めます。(パソコン・スマートフォンでの扱い方はこのページの最下部に図解しています)



9月1日付記:製本版も他社から出版されました⇒ https://satorizen.wixsite.com/satori/blank

お支払いは、コンビニ決済、各種クレジットカード決済、楽天ID決済、Paypal決済が可能です。
注文を受けてからの印刷・製本なので、本が届くまでは1週間前後かかります。
 



※ (攝心とは、数日間諸縁を放捨して、朝起きてから夜の就寝まで、他と会話せず、休むことなく油断せず、修行三昧となる修行期間 1日11炷から12炷の坐禅、提唱、独参あり)
この攝心は、僧俗合わせて総勢30名 (定員あり) の参禅者でした。
女性の参加率が高く、他所の坐禅会に比して平均年齢もかなり低かったようです。


さて、その井上貫道老師ですが、大阪の由緒ある古道場にて1日坐禅会を定期的にされていますが、
井上貫道老師大阪坐禅会の提唱DVD(手製)も頒布中です。
 『普勧坐禅儀』提唱と質疑合わせて約90分 頒価1回分1枚500円、送料200円
 ご注文は、 https://ssl.form-mailer.jp/fms/581a3b42462652 
 (ネットのみの注文です)

    売上は、関西での貫道老師坐禅会の運営に使用します(会場費や備品代と講師交通費に充当)



【『井上貫道老師提唱録』本文より抜粋】 

「…修行するっていうことは、思量分別を扱う世界じゃないのですね。
それをやったら、ものの真相がほとんど永遠にわからない。

私の前に生きてきた人たちが、何億もいるでしょう。そういう人たちが皆、経験したことなのですよ。…
気が付いた(悟りを開いた)人たちは、そういう(思量分別を扱う)ことをしないで、それで初めてものがわかったと皆さんに伝えているのだから、信じたらいいじゃない。
数から言ったって、膨大な試験をやった上で、それが事実だっていうことは、もう明白なのです。
一万人に飲ませたら、たった一人しか生き残らなかったというくらいの毒薬だったら、飲まないでしょうが。

…それだのに、思量分別を取り扱うこと止めなさいって言っても、止めない。死んでもいいと思っているのだよ。」




◇    ◆    ◇    ◆    ◇    ◆    ◇    ◆    ◇

この度の出版ですが、心に響くところがあれば、
老師に実際にお会いして、法を尋ねてくださることを希望します。
書物よりもライブに勝るものはありません。

東京、静岡、関西、岡山などで毎月坐禅会がありますし、アポイントを取って老師に直接お会いに行かれることも可能です。


全国各地の 井上貫道老師坐禅会情報 は、こちら↓
 http://zazen.blog.jp/archives/cat_958259.html

(各地の主催者の求めに応じて、その地で坐禅会が開催されています)

◇    ◆    ◇    ◆    ◇    ◆    ◇    ◆    ◇




電子ブックリーダーがなくても、パソコン、android、iPhone、iPad などで読めます。
また、一度購入されると、同じAmazonアカウントでログインすれば、スマホでも、タブレットでもパソコンでも読めます。


無料アプリのダウンロード方法は以下の図解をご覧ください。

1 .パソコンで読む場合は、
   http://amzn.to/2bwdL86 の「ダウンロード」をクリックします。




2. Amazon 電子ブックリーダー(有料)を購入する場合は  http://amzn.to/2bweaaP




3. スマートフォンやタブレットで読む場合は、 
  http://amzn.to/2cjIIh1 に行って無料のアプリをダウンロードします。下に図解しています。


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次に、上の図の赤丸をクリックします

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すると、小さなウィンドウが現れるので、Eメールアドレスを記入すると、メールがAmazonから来ます。スマホでそのEメールを見ると、その文面に無料アプリのダウンロードリンクがあります。


これらのアプリを使用することで購入した書籍が読めます。



iPhoneのKindleアプリは、問題ないのですが、Android版は下に「Kindle無料マンガ雑誌」として無関係な本の表紙が表示されてしまいます。いろいろ調べましたが、現在のところ、それらは非表示にできないようです。
目障りに感じる場合は、パソコンで読むか、
専用のAmazon kindle を購入して、それで読むと良いでしょう。

 Amazon 電子ブックリーダー Kindle Voyageを入手する ⇒ http://amzn.to/2bwTmQi (あまりレビューの評判がよろしくないです)
 最安のAmazon 電子ブックリーダー入手する ⇒ http://amzn.to/2bweaaP (キャンペーンありの最安値のを入手すると毎回最初に宣伝が出て煩わしいらいしので、キャンペーンなしの10,000円少々のがおすすめです)




井上貫道老師 Amazon電子ブック 購入方法―一度も電子ブックを読んだことのない人へ

いや、むつかしそうなので、
わたしは製本版が良いという方に

製本版が他社から出版されました⇒ https://satorizen.wixsite.com/satori/blank



文字も大きくします
以下に、Amazon の会員登録方法を書いています。 

最初は面倒かもしれませんが、一度登録すれば、家に居ながら大変便利にショッピンができます。
管理人は、洗濯機や冷蔵庫、炊飯器、電子レンジも最近、このAmazonで大手量販店より安く購入できました。
洗濯機と冷蔵庫は据え付け作業もやってくれました。もちろん購入先の電気店ですが。

もちろん、Amazonは、日本の有名メーカの家電を扱っています。
トイレットペーパーなどの日用消耗品も購入できますので、大荷物を抱えて買い物から帰ってくる必要がありません。田舎に住まっている人にも大変便利です。


◆Amazon とは、総合通販インターネットショッピングサイト 最初に書籍のインターネット通販からスタートしたが、今は、書籍以外に、日本国内で販売されているパソコン、パソコン周辺機器、家電、家具、ファッション、日用消耗品、食品、飲料、お酒など一般のお店でも販売されている製品が購入できる 書籍は送料無料 他のものも買い物総額2,000円以上の購入で送料無料 Amazonの扱っている分野の商品一覧

注文して大体、翌日または翌々日に届くので、すぐに必要なときにも便利です
年会費3,900円のプライム会員に登録すれば、2,000円に満たなくても送料無料、即日配達、翌日配達、日時指定便などが自由にでき、また、数々の特典がある ⇒ Amazonプライム会員とは

Amazonの会員登録方法は、図解入りで、色々ネットに書いてありますので、それをご紹介します。

まずは、登録の前に、Eメールアドレスが必要ですが、docomo.ne.jpやezweb.ne.jp    softbank.ne.jp  などの携帯アドレスははじかれるので、おすすめではありません。一般的に通販でも、携帯アドレスは、返信が来ないことが大半ですので、要注意です。
iPhoneアドレスのi.softbank.jp は大丈夫のようです。


プロバイダーアドレスか、無料のYahoo!アドレス ……@yahoo.co.jp  か無料のGmailアドレス ……@gmail.com で登録してください。
このアドレスの取得方法が知りたい方は、



メールアドレスを取得したら、いよいよ本題のAmazonの登録です
下の1か2の説明をご覧ください

1. http://www.ipodwave.com/app/kindle_account.htm



2. 動画での説明はこれ↓

 




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cover_teisho1kindle20170707small真実、悟り、禅修行とは(1)
道元禅師『学道用心集』『普勧坐禅儀』、黄檗希運禅師『伝心法要』提唱録』
(井上貫道提唱、2016年)


※書籍タイトルを『井上貫道老師提唱録 修行の大前提:真実とは、悟りとは、修行とは、禅とは』から変更しました


詳細・ご注文はこちらから
(新しいウェブページが立ち上がります)
https://satorizen.wixsite.com/satori/blank


 真実に気付く(悟る)ためにはどうすればよいのか。十代で悟りを開いた井上貫道老師が、修行の大前提としてまず理解するべき基本(真実、悟り、修行、禅とは何か)を、道元禅師の『学道要心集』『普勧坐禅儀』、黄檗希運禅師『伝心法要』を紐解きながら、懇切丁寧に説明。さらに只管打坐の坐り方についての具体的な説明も独立した一章としてあり、即実践を始められるようになっている。真実を求め、修行を志す方は必読の書。


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悟りの体現者・井上貫道老師の大阪坐禅会での提唱DVD一般頒布しています



【内 容】井上貫道老師大阪坐禅会(年4回開催中)の提唱と質疑のすべて
提唱講本は、道元禅師『普勧坐禅儀』
貫道老師神戸坐禅会での動画は、こちらでは取扱がありません。

【頒布状況】
3ヶ月に1枚ずつの発行です。

3月6月9月12月の3ヶ月ごとに開催されている大阪坐禅会終了後完成まで最短で約70日が必要です。ですので、最新版は、坐禅会終了後から約70日程お待ち下さい。
大阪坐禅会の日程はこちら です。

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1日分が1枚のDVDに収められています(プラスチックケース入り)

 

井上貫道老師の提唱は、ご自身が言われているとおり、

「いつも1回完結です 次の話を聞かないと分からないというようにはなっていません。」
 
 
ですから、どの日付のDVDを視聴されても大丈夫です。
仏道修行、坐禅修行、自分の今の様子の参究にお役立てください。

185-45dvdの注文ボタン2ndbest青0984e4背景白抜き ←必要なDVDを選択して注文できます

上記ボタンがうまく行かない場合はこちらからご注文ください⇒ https://ssl.form-mailer.jp/fms/581a3b42462652



【12/15分からの抜粋】
2016年12月15日井上貫道老師大阪坐禅会DVDの内容詳細はこちらをご覧ください



【6/23分からの抜粋 (DVD製作者様から)】 今後、もう少し追記する予定です

「いつでもそのことがただその通りにあるだけじゃないですか。


他のものは一切無いじゃないですか。」


 


「自分がどのように生きているか、よく見て下さい。」









【9/15分からの抜粋 (DVD製作者様から)】

「実際に生活をしているにもかかわらず、取り上げるのはみな終わった後。

実際に生活しているど真ん中のことを本当に相手にする人は、百人中百人ほとんどいない。」




「(参禅者全員に向かって)

坐禅をやって手応えのある人、手を上げて下さい」


( 何人か手を上げる )







【頒布対象】このサイトをご覧の方々。
井上貫道老師の坐禅会に参加したことのない人もご購入になれます。
 
参禅未経験の方が、これをきっかけに、各地方の貫道老師坐禅会に参禅して実参実究くださることを願っています。




【製 品 詳 細】
参禅者である素人が撮影し、素人が作成した手製です。
音声は明瞭になるように、集音マイクを講師の傍に置くなどしています。
雑音は可能な限り処理してあります。

坐禅会参禅者は映っていません。
6/23分は左右に参禅者が座っていたため、それをカットしているので画面が狭くなっています。

 
DVD-Video形式なので、DVDプレーヤ、パソコンで視聴可能です。

無断複製は禁止とさせていただきます。
複製許可は、ご注文後の返信メールの返信で、大阪坐禅会にご相談下さい。 



【価 格】1枚500円、送料180円(2枚まで、3枚以上は360円)



【お支払い方法】振込:ゆうちょ銀行    または、大阪坐禅会現地での現金払い



【お渡し方法】郵送(スマートレター 郵便受け投函)または井上貫道老師大阪坐禅会 (神戸坐禅会や大阪高槻月曜坐禅会ではお受け取りできません それぞれ主催者・世話人が異なります)
日本郵便のスマートレターですので、受取日時の指定はできません。不在でも郵便受けに投函されます。
製作者は、毎日の仕事の後のプライベート時間の合間を見て無償で作業をされています。従いまして通常のネット通販のような迅速な対応・発送はできません。お申込からお受け取りまで最大1週間ほどはお待ちくださることをお願いします。



【販売元・発行人】大阪坐禅会 
主催者が異なりますので、大阪坐禅会以外の貫道老師関西坐禅会や他の貫道老師坐禅会でのお取り扱いはありません。
老師関係寺院でのお取扱もありません。

 

【売 上】大阪坐禅会運営費として、会場使用料・講師交通費・宿泊費・備品代などに充当します。 年に一度会計報告の予定です。




【注 意】
DVD発行元は、参禅者による「大阪坐禅会」です。老師の許可のもとにDVDを頒布していますが、お寺では扱いがありません。関係がありません。
書籍の発行元とも関係がありません。


・今後若干値上がりすることがあります。


・各坐禅会後、何ヶ月か遅れてyoutubeなどに無償で一般公開ありましても、それをご承知の上ご注文下さい。
 (youtube公開は、現在予定がありません(平成29年6月14日現在))

・パソコンにDVDプレーヤーが入っていなかったという理由( 特にWindows10ではご注意下さい )では返品返金できませんので、予め他の市販DVDなどを視聴してご確認下さい。


・上記以外の理由で再生できないなど製品不良・瑕疵の場合は、交換いたします。

 
無料のDVDプレーヤーがネットでダウンロードできます。⇒    http://www.gigafree.net/media/MediaPlayer/ などを参考にしてください。    (ただし自己責任でお願いします)

185-45dvdの注文ボタン2ndbest青0984e4背景白抜き ←必要なDVDを選択して注文できます
上記ボタンがうまく行かない場合はこちらからご注文ください⇒ https://ssl.form-mailer.jp/fms/581a3b42462652
製作者は、毎日の仕事の後のプライベート時間の合間を見て無償で頒布をされています。従いまして通常のネット通販のような迅速な対応・発送はできかねます。待ち遠しいとは存じますが、お申込からお受け取りまで1週間ほどはお待ちくださることをお願いします。







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箇の不思量底を思量せよ

「不思量底」とは何を指すのか。

 (カチン)これは人間の思い量りで聞いてるわけではない。

大きな音だとか、いい音だとか、一切そういうようなことなしに行われてる、

 その辺を不思量底と言うんですね。

いちいち皆さんが今触れているところです。     



――井上貫道老師17/3/23提唱から 【3/23提唱DVDからの抜粋】 DVD製作者様による文字起こしになります
不明点、疑問、足らないところは、坐禅会への参禅をお願い致します  実践して何か体験を得た場合も正師への参禅が必須です


【重  要】
神戸楽の森「坐る会」のサイト https://tinyurl.com/kobeteisho
にも、井上貫道老師の神戸坐禅会の提唱の一部が文字に起こされています。

大切なことを分かりやすく提唱されている部分ですので、ぜひ、ご覧ください。


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不思量底如何が思量せん

思量と不思量

思う前の状況がある

思うっていうことがあるということは、そもそもその前の状況がある、ということでしょう。

思うという前はどうなってるかって言ったら、思いがついてないってことでしょう。

人間はその思いがついていないところをあまり大事にしないんですよね。

思いのまだついていないところ、そこに用がある。


人と出会った時でも、綺麗だとか汚いだとか、若そうだとか年寄りだとか、そういうこと一切なしに、こう、ぱっと触れただけでいる、そういうようなところ。こういうところに用がある。


――井上貫道老師17/3/23提唱から 【3/23提唱DVDからの抜粋】 DVD製作者様による文字起こしになります

【重  要】
神戸楽の森「坐る会」のサイト https://tinyurl.com/kobeteisho
にも、井上貫道老師の神戸坐禅会の提唱の一部が文字に起こされています。

大切なことを分かりやすく提唱されている部分ですので、ぜひ、ご覧ください。



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不思量底、如何が思量せん。非思量。これ乃ち坐禅の要術なり。

非思量


「非思量」
ここから先は理屈抜きなんだよ。説明の必要でないところじゃないですか。

(コン)
どうしたら人間の思量分別のついてないところで聞くことができるかって、説明なんか要らないじゃない。

(コン)こういうことを本当にやったらいい。


――井上貫道老師17/3/23提唱から 【3/23提唱DVDからの抜粋】 DVD製作者様による文字起こしになります


【重  要】
神戸楽の森「坐る会」のサイト https://tinyurl.com/kobeteisho
にも、井上貫道老師の神戸坐禅会の提唱の一部が文字に起こされています。

大切なことを分かりやすく提唱されている部分ですので、ぜひ、ご覧ください。


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いわゆる坐禅は、習禅にはあらず。ただこれ安楽の法門なり。

いわゆる坐禅は、習禅にはあらず

(坐禅は)「習禅には非ず」いつもその一回こっきりで終わりです。

坐禅は、積み重ねてだんだん上手になるような行をしているわけではない。

もう一回さっきの音を聞きたいなんて無理ですから。やれないんです、もう一回。



ただこれ安楽の法門なり。

「安楽の法門」(コン)こうやって音がするととにかくそのようになる。

目を開けてると目の前のものがその通りに見えるように出来てる。

本当に何もしなくたって大丈夫。

こんな楽なことはないじゃないですか。



――井上貫道老師17/3/23提唱から 【3/23提唱DVDからの抜粋】 DVD製作者様による文字起こしになります


【重  要】
神戸楽の森「坐る会」のサイト https://tinyurl.com/kobeteisho
にも、井上貫道老師の神戸坐禅会の提唱の一部が文字に起こされています。

大切なことを分かりやすく提唱されている部分ですので、ぜひ、ご覧ください。





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