坐禅の仕方と悟り,見性,身心脱落:井上貫道老師の庵 まとめサイト

Dharma Talks of a perfectly enlightened Japanese Zen Master Roshi Kando Inoue 井上貫道老師が、悟りを体現された経験から坐禅の方法や仏道について語られたものを掲載しています web上に散見される魯山貫道老師のことばも引用掲載し、まとめブログとしました ( これは参禅者によるブログであり、公式サイトではありません ) このブログが正師への参禅のきっかけになりますように

坐禅の仕方・座禅の方法

坐禅の内容=坐禅中にどのように過ごすか




坐禅の形・組み方(目・手・脚・口)―井上貫道老師 はこちら


大切なのは、どのように坐禅するかということです


井上貫道老師は、今の自分自身の様子(「事実」)を本当に見届ける(悟る・見性する)ための坐禅を教えておられます


chokokujisk32◇ 修行とは今の自分自身の様子に参じること



◇ 坐禅とは考え事をすることではありません
坐禅を組んでいて考え事をしているのだったら、
それは考え事をしているのであって、坐禅をしているのではありません



◇ 五官(眼耳鼻舌身)の機能にまかせる



◇ 目に見えるもの、耳に聞こえるもの、これらはすべて自分自身の様子なんです

事実に即していれば、考えが「やまる」んです。



◇ 六根(眼耳鼻舌身意)の働きのままに、浮かんできた思いをとらえずに手をつけずにそのままにしておく。




◇ (机を叩いて)「コン」とやると、
音がして気がつきますね。

音がするから気がつくんです。

気がつくのが必ず後になります。

気がつくより先にこういうこと(「コン」)があるんです。


これを丁寧によく見ていけば、それは人間の好き嫌いを超えているものだということがわかります。

そういうことに学ぶのが坐禅です。





◇ (外を車が走り去る音に)「ブーーーー」だけじゃないですか。

これだけです。

これだけじゃないですか。 





◇ 考えを「やめる」んじゃないですよ。
 



◇修行とは何もしないこと




◇五感を自分のために使うことをやめる



◇思いが起こってもそれを相手にしない、手をつけない

 [思考を観察することでもありません] 

[「観照者」というのも一つの思い・観念に過ぎません したがって、観照者だけになっても悟りではありません ほど遠いです]



◇思いがでないようにするのではありません



◇ よく、捨て切る、などと言います。これを聞いて、何か自分の持っているものを捨てるんだと思っていませんか?

何も捨てるものはないんですよ。


「コン」、

この瞬間にすべて捨て切っているんですよ。




◇ ワン、と聞こえると、あっ犬だ、と思いますよね。

思ったその瞬間には、もうワン自体はありません。

つかんだつもりの時にはもう無いんです。


考えるより先に事実があるんです。後から考え方に変えてるだけです。




◇数息観は数息観であって、坐禅ではありません
数息観を教える人がいたら、「あなたは数息観を行じて、その結果どうなったのですか?」と尋ねてみて下さい



◇数息観を教えれば、いくらでも人を引っ張れるんだね  完璧に出来る人いないから、教わる人は、自分はまだ修行が足りないと思って、何年でもついてくるからね



◇呼吸は普段無意識でしているでしょう それをわざわざ坐禅中に意識する必要はありません




◇事実に参じるのに目を閉じたらいけないですよね



◇『なぜ私というものが起きてくるのか?
それは有ると思うからです。……

悟りの様子もみんなに具わっているんだけれども、
自覚がない限りは誰も自分にそれがあると思っていないのです。

そんな素晴らしいことがあるとは思っていない。』




●漫然と坐っている人は寝ちゃうね。

「何もしないのが坐禅」って言いながら・・・。
三十年も坐ってる人は必ず寝ますね。

今の様子に参ずるのが下手なんだね。

寝たら坐禅になりませんよ。




●これほどの事実に参じていれば、脳は刺激だらけで寝ようがないんだけどね。




●想(おも)いがやまるほどに、このもの(自分)が無限の活動をしていることが分かってきます。決して「心静か」なんていう状態ではないですよ。



●機能としての「想い」は問題ありません。

それに自分の考えをかぶせるから問題になるんです。
手を付けてしまっているんです。



●眠るのは坐禅の大敵です。

坐禅ってどういうことなのか、よく分かっていないからボーッと眠るんです。


「坐禅」というのは、今の実相、活動にそのまま親しくしていればいいんです。

「ただ坐る」というのは、事実、実相(じっそう)、この(自分の)一大活動に親しくいることです。


事実との間に距離がないからこそ「手を付けない」という表現になるわけでしょ。

観察するのではなく、事実のままにあることです。




●今の様子に親しくいれば、先ほどの様子は微塵(みじん)もありません。そのことで十分です。



●悟っている人も、悟っていない人も、(手にした杖を立てて)こうすればこう見えるでしょ。



●坐禅の間には休憩時間がありますが、あれは休憩ってわけではないですよ。

その時間におしゃべりしたりすると、人間は会話に引きずられますからね。

せっかくの坐禅が台無しになってしまいます。



● (坐禅会の終わりに、古い参禅者が言いました) 

「ま、そのうち、
だんだん分かるようになるでしょう}


老師:(即座に) いえ、だんだん分かってくるということはないのです。




● (別の坐禅会での参禅者が)
「ここの坐禅会に来るようになって、
今まで読んで分からなかった本(仏教書や井上義衍老師の本)が
同じ所を読んでも分かるようになってきました」


老師:それはね、考え方の話です。
考えが整理されただけのことです。




● (ある夏の接心3日目の提唱で)
参加者には、もう、
内と外がなくなった人がいます。

そうなれば、それだけでも人生観変わるでしょうね。




次は、





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井上貫道老師・坐禅の方法と秘訣


●修行して解脱するんじゃないです。

すでに解脱してるんです。

そのことに気づき、ああ、なるほど、確かに解脱してるな、となるのが坐禅です。

こういう実証方法を伝えてきたのが仏教のすばらしいところですね。




●自分の抱えている問題を修正しよう、なんてするとだめですね。そんなもの、きりがありません。人生終わっちゃいますよ。




●疑問があればとことん質問して消化しておいてくださいよ。疑問を抱えたままだと、坐禅中にその考えが出てきちゃいますからね。

 
 

●眠気が起こったら、ちょっとそれに気づいてあげればいいです。気づけば眠気は去ります。釈尊も『覚すれば即ち滅す』と言っています。とはいえ、眠気が起こらないような体調や環境を整えることが第一ですね。




●真剣に道を求めて修行している人は、警策(木の棒)で叩いても大丈夫です。中途半端にやっている人は叩いてはだめです。おびえちゃいます。




●坐禅は、何もせず、自分を立てず、今の様子そのままになること。




●事実を知るためには考える必要なんて一切ないのに、それを知らないから、みんなあれこれ考えてしまうんですね。

考えなくても、お茶を飲めばお茶を飲んだ様子に、お菓子を食べればお菓子を食べた様子に、みーんななります。

どこに考える必要がありますか? 考えないとお茶の味がしませんか?




●いつでも今の様子だけです。徹底して今の様子のみです。努力してそうなるんじゃありません。

だってそうでしょ、一瞬だって「今」から離れられるわけないじゃないですか。





● 頭の中に気になることが残っていると、雨の音が雨の音として聞こえないですよね。ちゃんと聞こえている時は、きれいさっぱり他のものがなくなっているんです。消すんじゃないですよ。






● 雨の音っていうのは、「ぱしゃぱしゃぱしゃぱしゃ・・・」(口で擬音)これだけです。

これに親し~く目を向けてください。





●事実に証明される、という禅の言葉があります。この意味は、自分の様子に「あ、なるほど」っていうことです。





●自分の見解や気持ちを持ったまま坐禅しないことです。




●坐禅中にいろんな考えがわいてくることに対して「これはいけない」とやっちゃうと、これがもう自分の見解ですね。

いいとか悪いとかは自分の気持ちでしかありません。

考えがわいてきてること自体も今の様子なんですよ。





●考え、足の痛み、ミーンミーン、ワンワン、全部自分の今の様子です。





●苦しい、つらいといった感情も、自分の今の様子です。





●坐禅中に何かを観察したり、何かに集中したりするのではありません。自分から物に向かわないことです。逆にボーッとしてしまうのは、それも違います。




(独学では勘違い、意味の取り違いなどがあり、結果的に失敗しますので、必ず、正師に直接会って、その指導を受けて下さい それを参禅といいます 

仏教以外でも古来よりインドでは覚者から直接学ぶこと、覚者と共にいることをサットサンと言います サットとは事実・真理、サンとはサング 居る  サットサンは不可欠とされています)


https://youtu.be/nAuc6MCgyS0?t=2s



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只管打坐の極意 by 井上貫道老師   の続きです


inouekandoroshizazen2ske2以下すべて坐禅・只管打坐の方法について話されています

Q.
坐禅中、畳の目が見えているのですが、外で鳥が鳴くといきなり畳の目がなくなって鳥の声に感覚が動きます。

鳥の声が消えればまた畳の目が戻ってきます。

そういうものでしょうか? 


それとも目と耳が同時に働かなければ間違いでしょうか?



(井上貫道老師)A.
そういうことはあります。

もっと言えば、考え事をすればもう何も見えず何も聞こえなくなりますよね。

そういうものです。


目を開いているからといって必ずしも見ているわけではなく、
耳があるからといって必ずしも聞いているわけではないんですよね。

ただ、五官[眼耳鼻舌身]の働きはそんなに単純じゃなく、もっと複雑で、変幻自在に変わります。

目と耳だけじゃなく、これ(身体)全てです。そういった五官の自在な機能に学んでください。
 

たとえば耳の機能はすごいですよ。

3人でしゃべればどうなりますか。

ちゃんと3人でしゃべっている様子になりますよね。




●『自分が物を見る』とやると、物を見てる自分が立っちゃいますね。

自分を立たせるのではなく、自分と物と、実際は一つなんです。





●何かをつかもうとしないことです。

実際はなーんにもつかむものなんてないのに。何かつかむものがあるんでしょうかね?




●普段の社会生活では自分を立てなければやっていけません。

だからこそ、お寺のような場所で、一定の時間、自分を立てずに今の様子だけに参じる意味があるんです。





●飛行機のゴーッという音が聞こえたとき、はっと飛行機の音だと気づくのは、人間がそういう作用を働かせているからです。

そうじゃなく、単にゴーッのままにしておけばいいです。






●今の事実なんて、いつだって何もしなくてもそのままになっています。

何も考えずそのままですから、一見愚か者のように見えます。
ryokando
良寛さんなんかは『大愚』と呼ばれてますね。

本当に愚かなわけじゃないです。













●車を運転しているときには坐禅してはいけません。
車に乗るときはただ車に乗るだけです。

『車に乗るときは、ただ車に乗る』、
それこそが坐禅と同じことじゃないですか。



●坐禅中にいろんな考えが出てくること自体は「事実」です。

でもそれにひきずられたまま考えにひたっていると、「考え方」の世界に行っちゃいますね。

だからと言って『考えが出てきた、まずい』と思うと、それも考え方の世界ですね。

もちろん『考えないようにしよう』と努力するのも考え方の世界でしかありません。
考えが出てくるという事実に自分が関わって考え方に変えてしまっているんです。


実際には、つかむものなんて何にもないんです。





●想いがやまるほどに、このもの(自分)が無限の活動をしていることが分かってきます。

決して「心静か」なんていう状態ではないですよ。




●機能としての「想い」は問題ありません。

それに自分の考えをかぶせるから問題になるんです。

手を付けてしまっているんです。





●坐禅は知識の勉強じゃないですよ。体でやるんです。





●物を見ると、たいがいの人は「むこうの物」と「こっちで見てる自分」を立てます。

でもそれは人間の見解が作り上げただけのものです。


実際にはむこうもこっちもないですよ。

 



●(坐禅中の老師の境地はどうですか、という質問に対して)

こうやってると、今、まわりでコオロギが鳴いてますね。

その中にポンと身を置いている感じ。


聞いている気配はありませんし、聞こえてくるという気配もありません。


ただ音だけ。
不思議に自分がないんですねえ。

ごくごく平凡です。






●坐禅するということは、生地(きじ)のままでいることです。

自分の生地に触れる時間帯が坐禅です。




● 六根の働きのままに、浮かんできた思いをとらえずに手をつけずにそのままにしておく。




●(外を車が走り去る音に)「ブーーーー」だけじゃないですか。

これだけです。

これだけじゃないですか。



 
●(手にした扇子の角度をいろいろ変えながら)こうやればこう見えるでしょ。

こう変えればこう変わるでしょ。

これが不思量底を思量するということです。


坐禅はいくら姿勢を整えたって、この不思量底を思量するということがなければ、なんにもなりません。





●(机を叩いて)「コン」とやると、音がして気がつきますね。

音がするから気がつくんです。

気がつくのが必ず後になります。

気がつくより先にこういうこと(「コン」)があるんです。


これを丁寧によく見ていけば、それは人間の好き嫌いを超えているものだということがわかります。

そういうことに学ぶのが坐禅です。





●真実は考え方じゃないんです。真実には説明がいらないんです。


 
 

●考え方で作ったものは脆いんです。

人間はあれやこれやと考えて、
重箱の隅を突っつくようにして考え尽くし、
これで完璧だ~
なんて思ったりすることがあるけど、
そこにちょっと違うものが入ってくると、とたんに崩れちゃいますよね。

 
 

●(机を叩いて「コン」)この音は崩れないですね。






● 目・耳は良し・悪し、好き・嫌いを判断しない。

聞こえたもの、見えたものはその場でその場で完結しており、一切残らない。

それが事実であり、その事実に参じるのが修行。






●多くの人が、坐禅中においてさえ、理想を求める境地を頭で探しています。

それは一見坐禅らしく見えますが、真実から外れています。





Q.坐禅をしている最中、自分を観察しているもう一人の自分がいつまでも残って消えないんです。

A.それは間違ってますね。
もともと自分なんてないんです。

自分を観察している自分がいると感じるとすれば、
それは一瞬でも過去の状態を振り返ろうとしているということです。

過去を振り返らず、本当に今の事実だけになればもう一人の自分はなくなります。






● 自分を中心にして物事を見てしまっているから自分が消えないんです。
もともと自分はないんです。

実は、考え方や見解も自分が作っているのではないんです。

自分を中心に据えて物事を見るのではなく、物事の方からやってくるんです。


それが五官に任せ切るということです。





●修行が進むと何事にも用がなくなってくるので、一見バカになったように見えます。

それが怖くて多くの人は頭を使っちゃうんですね。

大丈夫です、本当のバカにはなりませんから。





●私(老師)が坐禅をする時ですか? 本当になーにもしません。ハハハ。






●本当に事実に触れれば、底が抜けてすっきりしますよ。






考え[思い・感情も]が出てきてもそれを取り扱わないのが坐禅です
何もしないのが坐禅です



自分のほうから探ったりたずねたりすることをやめれば、
「事実」(真実)がそこにあるんです


どうしたらそうなるかじゃない
すでに出来ている
それを見極めるのが修行です

今の自分が本当にどうなっているか、それを見極める、見届けるのです








Q.
眼耳鼻舌身意っていうと、森羅万象、人間の生きている全てですよね。

それが「無」(無眼耳鼻舌身意)ってことになると、いったいどういうふうに解釈していいのかと。




A.
今、申し上げたように、一応説明しますけど、説明じゃ届かないでしょ、
「超越する」[=無]って。


物を見る時、眼なんかがあると思ってないでしょ。



眼なんかどこにも出てこないでしょ。

それが眼の働きでしょう。


ごらんのように、有るとか無いとかを超越してます。



カエルの声がするとき、一応耳があるから聞こえるんだと説明はするんだけど、
聞いてる時に耳があったら邪魔でしょう。


耳なんか感じてないでしょう。
音がしてるだけでしょ。


そういうのを無眼耳鼻舌身意というんです。



Q.
そのあとの色声香味触法、それは眼耳鼻舌身意を実際に表現するものだと聞ききましたが・・・

A.
たとえばあそこに五色の旗がありますが、見てごらんなさい。

Q.
ハイ。

A.
いや、だから、見てごらんなさい。

Q.
ハイ。

A.
いやいや(笑)、だから、見てごらんなさい。

Q.
ハァ。

A.
見てごらんなさいって。

Q.
(ようやく目を向ける)

A.
見えました?

Q.
見えました。(目を戻す)

A.
今はどうですか?

Q.
もう見えない。

A.
そうでしょ。

あんなにちゃんとあると思ってるのに、眼というものは、向かった時しか絶対にそのものを見てません。

Q.
ハァ。

A.
でも頭の中は、見えなくても、見てなくても、あそこにあると思ってるでしょ。


Q.
それは記憶が。

A.
眼はそんなことしてないでしょ。眼にはそんなこと残ってないでしょ。

だから無色声香味触法ってなるんです。

音だって、今鳴いてるってことが確かに聞こえるのに、鳴き止んだらどこにも。

だけど記憶があるから、さっき鳴いたってことを思い起こす力があるけど、
じゃあ思い起こしたときに耳に音がしてるのかっていえば?


Q.
ないですね。

A.
ないでしょ。そういうふうに活動してる。


Q.
しかしそういうことは、私のような凡人には、すんなりとは…。

A.
凡人じゃなくて、自分のことだから。

自分のことでしょ、みなさん。

自分のことだから、こうやって見た時に見えて、こうやって見たらあそこのものは見えない。


見えないけど、確かにあそこにあると「思って」います。


じゃあ眼はどうなってるかっていったら、確かに見たんだけど、
絶対にそんなものなしで今見えてるものだけで生活してる。


それぐらい「無眼」「無色」、眼も物もみんな超えてる。


だからといって、なくなって寂しいかというと、何も寂しくないでしょ。

なくなったとも思っていないでしょ。

あれが見えなくなったとも思わずに生活してるんでしょ。

不思議でしょ。


考えてることは違いますね。


こうやって勉強するんです。



Q.
執着心があるから、ってことですか。

A.
自分の眼に、執着してるものがあるかどうか見てください。

修行していないにも関わらず、ああやって見た時に見えて、
こうやって見た時に執着もしないで全部あれから離れ切って、
いまこうやってこういうものが見えるだけでしょ。


こんなにうまく生活ができてるのに、
自分をよく知らないから、どうしたら執着から離れることができるんだろうって、
ここ(頭)だけで考えてる。


そんなの修行になりませんよ。


ただ考え方をもてあそんでるだけ。

四六時中。

それは修行じゃない。



修行は、実際に自分がどうなっているか、
この体でどうなっているかを見極めていく。

本当にどこにも残ってない、
くっついてないな、
こんなに自由に動けるようになってるな、
一切問題が起きないようになってるな、

って生活したらいい。



そっちをやらないからだめなの。

それをやらないと修行にはならない。


だから修行の時には考え方ではやらない。


坐禅してても、考え方でどうこうすることは用いません。



坐禅してるといろんなものが出てくるでしょ。

出てきたものを取り上げて、こうしたらいいかな、ああしたらいいかなって、そういうことを一切やりません。


それは修行にならないから。



Q.
瞑想してると次から次へと出てくるんです。


A.
だからみなさんのは迷走なんです。(笑) それはもう坐禅ではない。



Q.
頭の中で無意識にそういうことを考えてるんですかね?

A.
いやいや無意識じゃないですよ。

知らないから、出てきたものを取り上げる。


取り上げない、ってことはどういうことか分からないから、

「出てきたものを取り上げないようにして坐りなさい」と教えても、
出てくるとすぐ相手にしてる。

それぐらい愚かなんですよ、
自分を知らないっていうことは。



Q.
「貪」「瞋」「痴」の「痴」ですね。とんじんち

A.
そうそう。

だって、「本当に自分を使わない」って、
そんな難しい言葉じゃないから一応分かるじゃないですか。


思いを加えないってこと、分かるじゃないですか。


お茶を飲んでも思いを加えなかったらどうなるかっていったら、
うまいとかまずいとかっていうようなこと出てこないじゃないですか。

ただその味がするばかりで。


それが「思いを加えてない」ってことでしょ。


考えが出てきたにしても、それを取り扱わないってことは、
このお茶を飲んだら味がしてるだけっていうことでしょ。

いいとか悪いとか、
邪魔になるとか、
整理が付かないとか、
まだこんなことを思ってとか、
そんなことはみんな手を付けてるってことでしょ。

出てきたものに対して。



そのぐらいのことは分かるでしょ。


そしたら坐る時もそうことをしないで坐ったらいい。

それで初めて「坐禅」っていわれる。




Q.
そうすると心の持ち方っていうのは、坐禅をしながら、すべてを自然のままに…。

A.
いいですよ。

自然のままっていうよりも、それしかないんです。

その動きしかない。

その時その動き以外にない。


そういうことを本当にやるのが坐禅なんです。


だけどもその動きに対して人はすぐ考え方を付けていく。

それだから事実がどうなってるか分からない。


ただ足を組んでいればいいとか、そういうものじゃない。



     (略)

難しい話じゃないでしょ。本当に普通、誰しもがやっていることでしょ。



Q.
それがまた難しいんです。


A.
難しくするのは考え方です。

考え方が入ると難しくなるんです。


どうやって聞いたらいいかって考えたら難しいでしょ、


(机を叩いて)

「コン」

この音を聞くのに。


「コン」


こうやって何もしないでいたら、ちゃんと聞こえるようにできてる。

「コン」

こうやって何もしないで聞いていることが修行です。


これに自分の考え方を加えずに、

「コン」

こうやって音がしたら、そのとおり聞いているということが修行なんです。




こんなこと、誰も教えないんです。

教えてこなかったんですよ。



「何かすること」だと教えてきたんです。



道元という人が、初めてこうやって修行ができるよと教えたんです。




そりゃそうでしょ。


「コン」


何もしないのが一番よく聞こえる。

ちょっとでも何か付けたり削ったりするようなことがあれば、
このままの様子がそのまま伝わらないじゃないですか。

真実が。



真実を本当に伝えるんだったら

「コン」


このままで何もしない。そのまま、ズバッと。





Q.
そういうところが一番肝心で、一番難しい…。


A.
だから一日中いろんなものを、眼耳鼻舌身意っていって六つの感覚器官があるから、
それが触れた時にみなそういうことをやってるわけだから、
それを今までは、すぐ触れると、人間の考え方でこうやって探ってたから。


それをやめるんです。




自分のほうから探ったりたずねたりすることをやめれば、

その事実がそこにあるんだから。

そのまま事実がそのとおりのことを、
直に自分に、
時間の隔たりもなしに、
場所の隔たりもなく、
そこに一分の隙もないし、
疑いもないし、
ゴミも入らないで、
きちっとあるってことが、
理屈の上からしたってちゃんとそうなってるじゃん。


それをただやるだけなの。


それぐらい坐禅ってものが、世間に伝わってるものと違ってるの。


それをまずここでちゃんと話をして、やってもらいたい。


そうでないと、本当に、考え方しかしてないんだよね、坐ってて。


一般にはそれですむかもしれない。

やったってことで。



だけど自分自身が自分自身にたずねたときに、ただ頭の中でぐるぐる堂々巡りしてるだけですよ。

考え方で。


そんなもの、どうしようもないじゃないですか。




Q.
それが煩悩ですかね。

A.
煩悩。わずらわしく悩ませるんでしょ。

ありもしないものを自分であるって認識して、
それでいっぱいいろんなものを作って。

ないところに、いろんな思いを起こして、
起こした思いを本当にあると思って、
それを問題にしてる。

そっちじゃないですよ、修行は。




      (略)

難しいっていえばそういうところかね。

考え方がこびりついているからね。


でも、そんなにこびりついている人でさえも、こうやって聞くときに、

「コン」

ただ、こうやって聞こえるだけだっていうことを言っとこう。


だから難しくないってことでしょ。

どうしたらそうしたものが取れるかじゃなくて、
実際に今、そんなものなしに聞こえるようになってますから。


だからできるとかできないとかっていうようなことじゃなく、
できてます。


「コン」


みな、やれてます。
誰も。


だからいいんです。



あとは気づいたらいいんです。


そのまま。



無いものに気づけっていったら無理です。

やれてないものを、っていったらやらなきゃできませんけど、
すでにやれてますから。

探さなくたっていい。


どうかしてできるわけじゃないでしょ、これから。



(手を叩いて)
「パン」

これから何かして今のように音が聞こえるようになるわけじゃない。

もう聞こえちゃったんだから。

このとおりね。


自分で作り変えたことなんかひとつもしないんだから。



「パン」

いきなり聞こえて終わりですよ。



それだのにここ(頭)は、
何かしないとそのとおりにならないと思ってる。




Q.
と言われても、生活に追われてると、なかなかそこまでは…。

A.
生活に追われてるからじゃなくて、自分の今の事実に目を向けるということがない、
ということ。


ここから上(頭)でしか生活してないんですよ。



仏道ってのはそういう違いがあるの。







● 修行に時間がかかる人は、結局、何も実践していなんだね。
(月1回の座禅会に来て、坐禅して法話聞いて、1か月後にまた坐禅会や接心に来て、坐禅して法話聞いて、それをまじめに繰り返すだけなど)




Q.
坐禅はどうやればいいのですか?

A.
この身体で、今、生きているこの様子がありますから、それに無条件でいてみるっていうことです。

頭のほうで何か探るのでなくて。

事実、今、こうあるものの方にこう、そのまま、照らされると言っていいのかな。このままいてみる。



考えを使ってないからといってボヤーッとしているってことはありません。


よく「坐禅で何も考えないようにしてお坐りください」って言うと、
「なんかボーッとして何してるのか分かんなくなる」って質問される人がたくさんいるけど、
そんなことはありません。

明確です。

クリアです。


そして、そういうものによって、本当に、
最終的には、
自分も物も、そういう隔てるものが一切なくて、
いきなり「向こう」と「こっち」とか、
「私」とか「あなた」とか
っていうようなことがなしの動きがそこに展開してる、

そういうものに必ず人は触れます。
 

そういう時に、少なからず、今まで祖師がたがいっておられるような内容がですね、

ちらっと「なるほど、そうだな」って思えるぐらいには間違いなくなると思いますね。


そっから、今度は安心して修行が出来るんじゃないですかね。


「どうしたらいいか」っていうようなことも問わなくなる。


そこまで連れて行きたいですね。あとはもう、やってもらうしかないな。
(「なるほど、そうだな」という所まで来た人の体験談は以下にあります)
体験談をすべて読む



上のボタンをクリックすると井上貫道老師参禅者の体験談がすべて最初から読めます




(以上は、坐禅を実際にしようとする人、実際に坐禅を組んでいる人へのアドバイスですので、ただ読むだけだと概念化されて却ってあとでそのことが障害になる可能性があります。ご注意下さい)



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井上貫道老師ー只管打坐の方法、坐禅の仕方

(坐禅を実際にしようとする人、実際に坐禅を組んでいる人へのアドバイスですので、ただ読むだけだと概念化されて却ってあとでそのことが障害になる可能性があります。ご注意下さい)

Q.
考え方を離れよと言われますが、考えを断ち切ろうとするというのは間違いですか? 坐禅すると、ずーっと考えが出ていて止まらないんですが。


A.
断ち切るというより、断ち切れているんじゃないですか。

ずっと考えが続いているように思うかもしれませんが、よく見れば、次の考えが出た時、それまでの考えは次の考えによってすっかり消されているはずです。考えによって考えが断ち切られているんです。
最初に出た考えがそのままずーーーーっと最後までその考えだけで続いているなんてことはないでしょう。

でも人間は記憶があるから、それらの考えをつなげて、ずっと考えが続いているように思い込んでしまう。




Q.
「空(くう)」ってのはどういうことですか?

A.
このように、お茶を飲めばお茶の味がするし、飲まなければ味がしない。事実に触れればそのとおりになるし、触れなければ触れないようになっている。そういったことを「空くう」と呼んでいます。要するに、普段の我々の心身のありようのことです。

「無心」ってのも同じ意味です。一般には、雑念や妄想が出てこず、心の中に何も無く静まり返った様子のことだと勘違いされていますけどね。「無念無想むねんむそう」とか(笑)。

Q.
坐禅をすると、わーっといろんなことが出てくるんです。

A.
実際には普段から出ているんです。でも普段はいろんなことで気が紛れているから、出ていることに気がつかないだけです。坐禅をしていると他のことが収まるから、いろんなことが出ていることに気づくだけです。

その出ていることを抑えようとするのは、かえって心を騒がしていることになるでしょ。だって、出てきてしまったものをあとから無くそう無くそうとしているわけだから。出てきてしまったものはどうしようもないのに。

そうではなく、出たものを出たままに、何も手を付けずにいれば、全然心を煩わさないよね。これが本当の「心静か」ってことです。



Q.
「自分の様子をきちんと見るのが坐禅だ」と言われたり、「自分で自分を眺めていては坐禅になりません」と言われたりします。何が違うのかよく分かりません。

A.
「自分を眺(なが)める」ってのは、過去の様子を後から見てることです。自分の感覚や経験を一瞬あとから思い出して取り上げているんです。

そうではなく、「今」の自分の様子をきちんと見ることが大切です。

本当に「今の様子」それだけを見ている時は、それだけだっていうことも分からないはずです。だって、「これが今の様子か」なんて余分なことが出てくる余地がないんだから。





●不思量底(ふしりょうてい)を思量(しりょう)す
これが一番大事なところです。「坐る」というのがどうすることなのかということです。

今までは身体の形を整えるということでしたが、その後、時間をどのように過ごせばよいかということ、これが抜けたら坐禅にならないということです。

人間の考え方を入れないというのが「不思量ふしりょう」です。直通であるということです。全てのものに、わけへだてなく。



●坐禅については、今、説明したことが全てです。世間の書物などで坐禅について書いてあるのは、形を整えたりなんだのばっかりです。ここのところを書いてあるものはありません。



Q.
普段の生活の中でも「不思量底を思量する」必要があるのですか?

A.
坐ってるときだけが坐禅じゃないです。24時間そうです。

あなたが生きているということだって、「時々生きている」なんてことないでしょ。
坐禅だって同じことです。


自分自身を学ぶというのは、よそにあるものをここに受け入れてこれを改造することではないです。

仏様の教えが外にあって、それを受け入れて学ぶということじゃありません。

自分自身を自分で学ぶということが仏教です。

それをしたのがブッダです。
「自覚した人」という意味です。


自分自身をしっかり見極めるということに尽きます。

その時に考え方が入り、考え方を通して見るようになると、
自分自身の事実がそのまま把握できず、間違ったことになります。




Q.
考え方に惑(まど)わされなければ迷わないのですか?

A.
惑わされないのではなく、考え方を使わない、です。

誰だって、考える前の様子があるでしょ。


例えば、音がしたとき「音がした」って思うかもしれませんが、本当は、自分の動き、身体の働きに気づいたってことでしょ。
音がするっていうのはこの身体の働き、様子なんですよ。

身体の働きに気づいたってことが「見えた」「聞こえた」ってことです。


みなさん、向こうに音があって、それをこちらで自分が聞いていると思っているが、そうじゃないです。

このもの(身体)の活動に触れたんですよ。

このものの活動に触れることが「見た」「聞いた」「味わい」だとかっていうことですよ。


この身体の上でしか体験できないんですよ。





Q.
たとえば、集合写真とかを見た時、まず自分の顔を一番最初に見ますよね?

A.
一番最初には見ません。まず最初に写真の様子があるでしょ。その後で自分の顔を探し始めるんでしょ? 写真の様子がなければ自分を探すこともできないでしょ。探す前に、一番最初に見えているこのことが、自分の様子なんですよ。

写真じゃなくて、自分の様子なんですよ。見えるってことは自分の様子なんですよ。だって他の人が見てるんじゃないでしょ。



Q.
ああ! 自分が見てますね。

A.
自分が見てるってことが、今、自分の生きてる証拠でしょ。それ以外にないでしょ。



Q.
いつごろから自我意識が出てくるんでしょう? 幼稚園のころから? 三歳のころから?

A.
人が寄ってたかって教えるから。名前を付けて、何万回と呼ぶから、「私のことを言ってるんだな」と認識するんですね。他の人ではなく私のことを言ってるんだという自己意識が生まれる。

最初は、本人自体、声が聞こえてるって認識(にんしき)もないですね。

自我意識が出てくるのは二歳ぐらいでしょう。三つ子の魂といいますね。昔は数え歳ですから。



Q.
自我意識はあって当然ということですか? 不思量ってのはそういうことですか? あって当たり前と思えばいいんですか?

A.
そういうことじゃないです。

どんなに自我意識があっても、みなさんは自我意識を使わずに生活していますよ。

(両手を叩いて)「パン」、こうやった時に、「私が聞いた」なんてことは一つも使わないでしょ。どれだけ自我意識のある人であっても。「私」っていうのは入らないんです。聞いたあとから起きてくるんでしょ。「今私が聞きました」ってことは、もう聞こえたあとですね。

画鋲を踏んだ時に「痛っ!」ってのも、そういうことがただあるだけです。「なんで俺が!」ってことはないでしょ。みんなそういうふうに、自我意識なしで生活していますよ。自我意識はあとで付くんですよ。終わった頃に付ける。

そっちから物をながめたら真実が見えないです。



Q.
修行って、自分の思いを断ち切ることですか? 無色になることですか?

A.
(机を叩(たた)いて)「コン」、これを聞くときに、自分の思いを断(たち)ち切るんですか?



Q.
断ち切るんじゃなくて、無いですね。

A.
「思いを断ち切る」なんて言葉が出てくるってことは、何か違うものを学んできたんでしょうね。断ち切らないとうまく行かないと思ってるんでしょう。

でも現実は断ち切ることなしに、「コン」、うまく行くようにできている。





●「私」らしいものは付かないで、人は、確かにいつも触れています。だからずれないんだよね。正確にものが伝わるというのはそういうことです。もしみんな自我意識で物を見ていたら、てんでばらばらになっちゃうね。



●よーく自分に参じて、自分を見てみれば、自我意識がついてないことがよく分かります。でも考え方の上から勉強する人は、到底その話は通じない。



●色眼鏡を掛けている人が、色眼鏡を外さずにものを見てると、必ず色眼鏡を掛けた色でしか見えないからね。色眼鏡を外したときの色なんて分かりっこないね。そのように、考え方で生活している人は、考え方を外れた時のものの見え方なんて、無理だね。
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●「パン!」と聞こえて「音がした」って思う時には、もうその音は無いんです。
だから人間の思量分別をそこに差し挟(はさ)むことができないんです。

だから坐禅は、人間の「知る」「知らない」といったことは論外ですね。



● 別々にものがあるんじゃないですよ。
向こうにものがあって、それをこっちで触れて、って、それはそう思ってるだけです。

事実はそうじゃない。
別々のものなんて一つもない。自分と別のものなんて一つもないじゃないですか。




● ここにたくさん人がいますが、これを自分の様子だって言っても、なかなか伝わらないね。
長年坐禅をやってる人でも分からない。

それぐらい自我意識をしっかり立てて区切ってるでしょ。

これ全部自分の様子ですよ。




● 修行は「思い」ではないんです。「こうやればいいんだ」って方程式を立てておいて、それに沿ってやることではないです。




● 「ああ、わかった!」ってなると、たいがい考え方です。




● (別の老師)この中には長いこと参禅しておられる人もおりますが、みなさん、どうも頭で理解しようとしている様子が見受けられますね。
頭で分かったふうになっても進歩はありません。

とことんまで聞いて、そのとおりやってくださいよ。

私もさんざん苦労したから言ってるんです。せっかく老師に来ていただいているんですから、もっともっと尋ねてください。





●初めて会った事実は、いつでもそのまま入ってきます。なのにすぐに概念化というオブラートをかけてしまうんですね。




●坐禅中にいろんな考えが出てくること自体は「事実」です。
でもそれにひきずられたまま考えにひたっていると、「考え方」の世界に行っちゃいますね。

だからと言って『考えが出てきた、まずい』と思うと、それも考え方の世界ですね。

もちろん『考えないようにしよう』と努力するのも考え方の世界でしかありません。
考えが出てくるという事実に自分が関わって考え方に変えてしまっているんです。

実際には、つかむものなんて何にもないんです。


 
 

●『悟り』という字は『吾を示す』となってますね。『仏』とは自覚した人のことです。自分に気が付いた人のことです。思いやはからいを入れずに、よーく自分を見てみることが大切です。

 
 

●仏教が難しいのは、ありがたいはずだ、超越した境地のはずだ、といった固定概念で真実を探そうとするからです。

 

● こういうふうに見ればちゃんとこういうふうに見えます。「こう見なけりゃ」っていうのはないです。



● 六根の働きのままに、浮かんできた思いをとらえずに手をつけずにそのままにしておく。




●考えを「やめる」んじゃないですよ。

事実に即していれば、考えが「やまる」んです。




●「音、音、音」じゃないですよ。「ザワザワザワザワ・・・」、これだけですよ。「ザワザワザワザワ・・・」、これこそが本当の受け身というんでしょうね。



●ほとんどの人は正しく見る力を持ってないですね。
何かが見えたと気がついた時には、もう見えた後になってしまっています。




●眼は前に見たものを残しません。それこそが救いでしょ。何にも束縛されないんです。 




● 目・耳は良し・悪し、好き・嫌いを判断しない。
聞こえたもの、見えたものはその場でその場で完結しており、一切残らない。

それが事実であり、その事実に参じるのが修行。



● みなさんは、本当に物があると思っていますからねぇー




●本当に事実に触れれば、底が抜けてすっきりしますよ。





●坐禅をやらなければ疑問があるはずですし、しっかりやればやったなりに、さらに聞くこと
が出てくるはずですよ。


 
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井上貫道老師が坐禅会で話されたことばから


◇考えを「やめる」んじゃないですよ。

事実に即していれば、考えが「やまる」んです。

事実に触れれば念が切れるんです。 ―井上貫道老師





kandouroushi●坐禅中にいろんな考えが出てくること自体は「事実」です。

でもそれにひきずられたまま考えにひたっていると、「考え方」の世界に行っちゃいますね。


だからと言って『考えが出てきた、まずい』と思うと、それも考え方の世界ですね。



もちろん『考えないようにしよう』と努力するのも考え方の世界でしかありません。

考えが出てくるという事実に自分が関わって考え方に変えてしまっているんです。



実際には、つかむものなんて何にもないんです。



事実に即していれば、考えが「やまる」んです。

事実に触れれば念が切れるんです。 









●修行が進むと何事にも用がなくなってくるので、一見バカになったように見えます。

それが怖くて多くの人は頭を使っちゃうんですね。


大丈夫です、本当のバカにはなりませんから。





●なんでみんな自分の真相を知らないのかなあ。

一度だって自分から離れたことなんてないのにね。





●これから本当の生活をしていこうという人はいないんです。
常にいつも本当の生活をしてます。

誰だってみな、いつもど真ん中にいるんじゃありませんか。




●世間では、自分探し、ってよく言いますよね。

自分探しには坐禅が一番です。


なにしろ自分自身と一日中一緒なんですから。






●事実とか真相とかいうと難しく思うかもしれませんが、今のありよう、って言ったほうがわかりやすいかもしれません。






●「事実それだけ」って簡単に言いますけどね、事実を説明できますか?
今の自分の事実って、まあ、この部屋ですね。

この部屋の様子だって、言葉では言い尽くせないほどものすごい事実の量ですよ。
 
宇宙に匹敵するほどの膨大な事実を、たった一目見ただけで分かってしまう我々って、すごいと思いませんか?


そのすばらしさを自覚できれば、それでOKなんです。





● このように襖を開くと、まさに襖を開いた様子になるんですね~。

実に面白いですね。




● 自分の上に現れないものは、知ろうとしたって無理です。





● 耳に入らないものは音とは言わないです。





● 眼と物の関係はキチッとしています。
 
でもそれが認識できない認知症なんかは、頭のほうに原因があるんです。
 
眼にはちゃんと正しく映っています。





●「むなしく死ぬ」っていうのは、自分のことが解決できないまま死ぬっていうことでしょうね~。






●「生まれ変わり」といいますが、次の生に生まれてきたということは、歴史上一度もありません。

人生は一回こっきりです。

[ 仏典にしても祖録にしても、個人がまた次の人生に生まれ変わるということはどこにもありません。
道元禅師は、『辧道話べんどうわ』の中で、
人が死ぬと身体から魂が抜け出るという考えや
人の魂は死後、大きな宇宙意識の中に帰るというような思想を
「仏教とは全く異なる」と指摘されている ]




●「真理」は追い続ける必要がないものです。

いつだって真理のど真ん中で生きているんですから。追いかけるとかえって間違いますよ。





●「いい死に方をした」なんて言いますが、あれは残された人が、残された側の立場で言っているだけです。

死んだ人にとってはいいも悪いもありません。






● 頭の中に気になることが残っていると、雨の音が雨の音として聞こえないですよね。

ちゃんと聞こえている時は、きれいさっぱり他のものがなくなっているんです。

消すんじゃないですよ。






● 雨の音っていうのは、「ぱしゃぱしゃぱしゃぱしゃ・・・」(口で擬音)これだけです。

これに親し~く目を向けてください。







● 義衍老師の法話は、いつも同じ内容ばかりです。

それを私は何百回と聞いてきましたが、一度も同じと思ったことはありません。

この雨の音と同じです。毎回違う。
 

でも人間は記憶なんかがあって、それを引っ張り出して、前に聞いたことがあるな・・・なんて。





● 普勧坐禅儀の内容なんて、3行ですみますよ。「このこと」しか言っていない。






● 痛みが消えることはありません。
 
でも人間は、過去の痛みの記憶やら不安やらで、それを心の中で増幅してしまうことがあるんです。
 
ほんとうに痛みだけになれば、そういうことはなくなりますよ。






● 人は好き嫌いを起こしますね。これは事実に対して評価をしているということです。


事実が入ってきてからわずかに遅れて評価をしているんです。

でもわずかの遅れとはいえ、評価をする前の段階の様子が必ずあります。


そこに着目していくといいですね。






● 事実をそのままに入れていれば、実に静かですよ。

こちらに余計なものがなくなり静かになった分、人の動きもよくわかるようになります。

たとえば剣道で殺気を感じるなどといいますが、打ち込もうとする瞬間には必ずなにか動きがあるんですね。
そういうことがわかります。





● (首をさして)みなさんは、ここから上、頭だけで生きていますね~ 

 [考えだけで生きていますね~ だから真相は分からない]





● 考えを「やめる」んじゃないですよ。

事実に即していれば、考えが「やまる」んです。





●「音、音、音」じゃないですよ。「ザワザワザワザワ・・・」、これだけですよ。

「ザワザワザワザワ・・・」、
 
これこそが本当の受け身というんでしょうね。





●「精進する」というと、力を入れて何かよりよいものを目指しがちです。
そうではないです。
 
即処即処、今この様子そのものであることが精進です。
 

修行というと難しいことをするんだと考えがちですが、そうではありません。





●頭の中で想像したものなんて二束三文です。

いくら想像したって、実際に実物が目の前に現れれば、一目見ただけですぐに分かりますよね。

想像は全部吹き飛びます。


事実に触れれば念が切れるんです。






●初めて会う人でも、いったん見ればすべて分かりますよね。
あっ、こういう顔の人だな、と。

自分で分かるでしょ。

それのどこが人の真相なもんですか。



全部自分の真相です。






●ほら、玄関でピンポーンと鳴ってますね。

あ、誰だろう、とか思うと、もう真相から離れちゃいますよ。

事実はピンポーンだけです。


誰だろう、なんてのは後から出てきた想像にすぎません。





● (別の老師)この中には長いこと参禅しておられる人もおりますが、みなさん、どうも頭で理解しようとしている様子が見受けられますね。
 
頭で分かったふうになっても進歩はありません。


とことんまで聞いて、そのとおりやってくださいよ。


私もさんざん苦労したから言ってるんです。

せっかく [貫道]老師に来ていただいているんですから、もっともっと尋ねてください。






●坐禅をやらなければ疑問があるはずですし、しっかりやればやったなりに、さらに聞くこと
が出てくるはずですよ。







 
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Q.「坐禅をしている最中、自分を観察しているもう一人の自分がいつまでも残って消えないんです。」


井上貫道老師
「それは間違ってますね。もともと自分なんてないんです。

自分を観察している自分がいると感じるとすれば、それは一瞬でも過去の状態を振り返ろうとしているということです。

過去を振り返らず、本当に今の事実だけになればもう一人の自分はなくなります。」

 
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考え[思い・感情も]が出てきてもそれを取り扱わないのが坐禅です
何もしないのが坐禅です



自分のほうから探ったりたずねたりすることをやめれば、
「事実」(真実)がそこにあるんです


どうしたらそうなるかじゃない
すでに出来ている
それを見極めるのが修行です

今の自分が本当にどうなっているか、それを見極める、見届けるのです



              ―井上貫道老師




井上貫道老師坐禅会における質疑応答から


hasuQ.
眼耳鼻舌身意っていうと、森羅万象、人間の生きている全てですよね。

それが「無」(無眼耳鼻舌身意)ってことになると、いったいどういうふうに解釈していいのかと。




A.
今、申し上げたように、一応説明しますけど、説明じゃ届かないでしょ、
「超越する」[=無]って。


物を見る時、眼なんかがあると思ってないでしょ。



眼なんかどこにも出てこないでしょ。

それが眼の働きでしょう。


ごらんのように、有るとか無いとかを超越してます。



カエルの声がするとき、一応耳があるから聞こえるんだと説明はするんだけど、
聞いてる時に耳があったら邪魔でしょう。


耳なんか感じてないでしょう。
音がしてるだけでしょ。


そういうのを無眼耳鼻舌身意というんです。



Q.
そのあとの色声香味触法、それは眼耳鼻舌身意を実際に表現するものだと聞ききましたが・・・

A.
たとえばあそこに五色の旗がありますが、見てごらんなさい。

Q.
ハイ。

A.
いや、だから、見てごらんなさい。

Q.
ハイ。

A.
いやいや(笑)、だから、見てごらんなさい。

Q.
ハァ。

A.
見てごらんなさいって。

Q.
(ようやく目を向ける)

A.
見えました?

Q.
見えました。(目を戻す)

A.
今はどうですか?

Q.
もう見えない。

A.
そうでしょ。

あんなにちゃんとあると思ってるのに、眼というものは、向かった時しか絶対にそのものを見てません。

Q.
ハァ。

A.
でも頭の中は、見えなくても、見てなくても、あそこにあると思ってるでしょ。


Q.
それは記憶が。

A.
眼はそんなことしてないでしょ。眼にはそんなこと残ってないでしょ。

だから無色声香味触法ってなるんです。

音だって、今鳴いてるってことが確かに聞こえるのに、鳴き止んだらどこにも。

だけど記憶があるから、さっき鳴いたってことを思い起こす力があるけど、
じゃあ思い起こしたときに耳に音がしてるのかっていえば?


Q.
ないですね。

A.
ないでしょ。そういうふうに活動してる。


Q.
しかしそういうことは、私のような凡人には、すんなりとは…。

A.
凡人じゃなくて、自分のことだから。

自分のことでしょ、みなさん。

自分のことだから、こうやって見た時に見えて、こうやって見たらあそこのものは見えない。


見えないけど、確かにあそこにあると「思って」います。


じゃあ眼はどうなってるかっていったら、確かに見たんだけど、
絶対にそんなものなしで今見えてるものだけで生活してる。


それぐらい「無眼」「無色」、眼も物もみんな超えてる。


だからといって、なくなって寂しいかというと、何も寂しくないでしょ。

なくなったとも思っていないでしょ。

あれが見えなくなったとも思わずに生活してるんでしょ。

不思議でしょ。


考えてることは違いますね。


こうやって勉強するんです。



Q.
執着心があるから、ってことですか。

A.
自分の眼に、執着してるものがあるかどうか見てください。

修行していないにも関わらず、ああやって見た時に見えて、
こうやって見た時に執着もしないで全部あれから離れ切って、
いまこうやってこういうものが見えるだけでしょ。


こんなにうまく生活ができてるのに、
自分をよく知らないから、どうしたら執着から離れることができるんだろうって、
ここ(頭)だけで考えてる。


そんなの修行になりませんよ。


ただ考え方をもてあそんでるだけ。

四六時中。

それは修行じゃない。



修行は、実際に自分がどうなっているか、
この体でどうなっているかを見極めていく。

本当にどこにも残ってない、
くっついてないな、
こんなに自由に動けるようになってるな、
一切問題が起きないようになってるな、

って生活したらいい。



そっちをやらないからだめなの。

それをやらないと修行にはならない。


だから修行の時には考え方ではやらない。


坐禅してても、考え方でどうこうすることは用いません。



坐禅してるといろんなものが出てくるでしょ。

出てきたものを取り上げて、こうしたらいいかな、ああしたらいいかなって、そういうことを一切やりません。


それは修行にならないから。



Q.
瞑想してると次から次へと出てくるんです。


A.
だからみなさんのは迷走なんです。(笑) それはもう坐禅ではない。



Q.
頭の中で無意識にそういうことを考えてるんですかね?

A.
いやいや無意識じゃないですよ。

知らないから、出てきたものを取り上げる。


取り上げない、ってことはどういうことか分からないから、

「出てきたものを取り上げないようにして坐りなさい」と教えても、
出てくるとすぐ相手にしてる。

それぐらい愚かなんですよ、
自分を知らないっていうことは。



Q.
「貪」「瞋」「痴」の「痴」ですね。とんじんち

A.
そうそう。

だって、「本当に自分を使わない」って、
そんな難しい言葉じゃないから一応分かるじゃないですか。


思いを加えないってこと、分かるじゃないですか。


お茶を飲んでも思いを加えなかったらどうなるかっていったら、
うまいとかまずいとかっていうようなこと出てこないじゃないですか。

ただその味がするばかりで。


それが「思いを加えてない」ってことでしょ。


考えが出てきたにしても、それを取り扱わないってことは、
このお茶を飲んだら味がしてるだけっていうことでしょ。

いいとか悪いとか、
邪魔になるとか、
整理が付かないとか、
まだこんなことを思ってとか、
そんなことはみんな手を付けてるってことでしょ。

出てきたものに対して。



そのぐらいのことは分かるでしょ。


そしたら坐る時もそうことをしないで坐ったらいい。

それで初めて「坐禅」っていわれる。




Q.
そうすると心の持ち方っていうのは、坐禅をしながら、すべてを自然のままに…。

A.
いいですよ。

自然のままっていうよりも、それしかないんです。

その動きしかない。

その時その動き以外にない。


そういうことを本当にやるのが坐禅なんです。


だけどもその動きに対して人はすぐ考え方を付けていく。

それだから事実がどうなってるか分からない。


ただ足を組んでいればいいとか、そういうものじゃない。



     (略)

難しい話じゃないでしょ。本当に普通、誰しもがやっていることでしょ。



Q.
それがまた難しいんです。


A.
難しくするのは考え方です。

考え方が入ると難しくなるんです。


どうやって聞いたらいいかって考えたら難しいでしょ、


(机を叩いて)

「コン」

この音を聞くのに。


「コン」


こうやって何もしないでいたら、ちゃんと聞こえるようにできてる。

「コン」

こうやって何もしないで聞いていることが修行です。


これに自分の考え方を加えずに、

「コン」

こうやって音がしたら、そのとおり聞いているということが修行なんです。




こんなこと、誰も教えないんです。

教えてこなかったんですよ。



「何かすること」だと教えてきたんです。



道元という人が、初めてこうやって修行ができるよと教えたんです。




そりゃそうでしょ。


「コン」


何もしないのが一番よく聞こえる。

ちょっとでも何か付けたり削ったりするようなことがあれば、
このままの様子がそのまま伝わらないじゃないですか。

真実が。



真実を本当に伝えるんだったら

「コン」


このままで何もしない。そのまま、ズバッと。





Q.
そういうところが一番肝心で、一番難しい…。


A.
だから一日中いろんなものを、眼耳鼻舌身意っていって六つの感覚器官があるから、
それが触れた時にみなそういうことをやってるわけだから、
それを今までは、すぐ触れると、人間の考え方でこうやって探ってたから。


それをやめるんです。




自分のほうから探ったりたずねたりすることをやめれば、

その事実がそこにあるんだから。

そのまま事実がそのとおりのことを、
直に自分に、
時間の隔たりもなしに、
場所の隔たりもなく、
そこに一分の隙もないし、
疑いもないし、
ゴミも入らないで、
きちっとあるってことが、
理屈の上からしたってちゃんとそうなってるじゃん。


それをただやるだけなの。


それぐらい坐禅ってものが、世間に伝わってるものと違ってるの。


それをまずここでちゃんと話をして、やってもらいたい。


そうでないと、本当に、考え方しかしてないんだよね、坐ってて。


一般にはそれですむかもしれない。

やったってことで。



だけど自分自身が自分自身にたずねたときに、ただ頭の中でぐるぐる堂々巡りしてるだけですよ。

考え方で。


そんなもの、どうしようもないじゃないですか。




Q.
それが煩悩ですかね。

A.
煩悩。わずらわしく悩ませるんでしょ。

ありもしないものを自分であるって認識して、
それでいっぱいいろんなものを作って。

ないところに、いろんな思いを起こして、
起こした思いを本当にあると思って、
それを問題にしてる。

そっちじゃないですよ、修行は。




      (略)

難しいっていえばそういうところかね。

考え方がこびりついているからね。


でも、そんなにこびりついている人でさえも、こうやって聞くときに、

「コン」

ただ、こうやって聞こえるだけだっていうことを言っとこう。


だから難しくないってことでしょ。

どうしたらそうしたものが取れるかじゃなくて、
実際に今、そんなものなしに聞こえるようになってますから。


だからできるとかできないとかっていうようなことじゃなく、
できてます。


「コン」


みな、やれてます。
誰も。


だからいいんです。



あとは気づいたらいいんです。


そのまま。



無いものに気づけっていったら無理です。

やれてないものを、っていったらやらなきゃできませんけど、
すでにやれてますから。

探さなくたっていい。


どうかしてできるわけじゃないでしょ、これから。



(手を叩いて)
「パン」

これから何かして今のように音が聞こえるようになるわけじゃない。

もう聞こえちゃったんだから。

このとおりね。


自分で作り変えたことなんかひとつもしないんだから。



「パン」

いきなり聞こえて終わりですよ。



それだのにここ(頭)は、
何かしないとそのとおりにならないと思ってる。




Q.
と言われても、生活に追われてると、なかなかそこまでは…。

A.
生活に追われてるからじゃなくて、自分の今の事実に目を向けるということがない、
ということ。


ここから上(頭)でしか生活してないんですよ。



仏道ってのはそういう違いがあるの。



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「坐禅が進んで、内も外もなくなった人がいます

こうなると人生観が変わりますよ」

[ これが悟りだと言われているのではありません 念のため ]
ー(2014年夏の緑陰接心の提唱:接心3日目)井上貫道老師
 
内も外もない=内外打成一片 ないげ・だじょう・いっぺん

(このブログは実践を前提に書かれています

更新がなくても、
今までの過去記事を
一番上のメニュー(スマホの場合はカテゴリー)から、
じっくりと学んでいただければ幸いです)




● 一般には、この身を境界として、自分と自分以外に分けて考えていますね。
 
いわゆる自分も、自分以外の世界も、自己と言います。






niwa
● この身だけが自分の様子ではありませんよ。

何から何まですべてが自分の様子です。









● 本当は目、耳と区切ることはできないんです。

これら全部が自分の様子、全体です。






● 大抵の人は、自分に入ってきたものを、あとから眺めているんです。

だから満足できないんです。




● 「音、音、音」じゃないですよ。「ザワザワザワザワ・・・」、これだけですよ。

「ザワザワザワザワ・・・」、これこそが本当の受け身というんでしょうね。




● 坐禅をどうしたらよいか知らないもんだから、
坐禅して少し心が静まってくると、すぐに居眠り坐禅してしまうんだね。

長年参禅している人は、たいてい寝ていますね。
10年、20年坐禅している人は皆そう。

寝ることは坐禅とは言いません。




● 専門家に坐禅を指導すると、

「今日は、よく坐れました(=よく坐禅出来ました)」

とか

「今日はあっという間に坐禅が済んだ」

とか感想を述べますけど、そんな程度なんだね、専門家でも。


そういうのは坐禅とは言いません
[ 専門家に対する批判ではなくて、坐禅会のわたしたちも、そうじゃないですか? と言われているのです ]





● 道元禅師の『普勧坐禅儀』に則って坐禅することが不可欠なんです。
   普勧坐禅儀 ふかんざぜんぎ

 http://zazen.blog.jp/archives/cat_958258.html
にて学んで下さい




Q.
普段から修行や正しい行いを続けて行こうと思うのですが、なかなか忙しくて難しいです。
継続していくのが大変だなと思います。

A.
考え方として申し上げるならば、こうやれば楽になるんじゃないですか -- 
 
つまり、これからずーっとそういうことが出来るかと考える必要がない。
 
今、きちっと出来さえすれば。ただそれだけなんですね。


人間て不思議ですね。
 
こういう状況がずーっと続かないといけないって思っている。
 
でも実際は、今のこの状況が続くなんてことではなく、
いつも今のこれがきちっとできるかということだけです。
 
今日一日出来るかしら、なんて、そんな長いことは考えない。
 

今やってることがちゃんとそこで出来ればそれでいい。


こういう話をすると、「今、今、今って、そんなことだけやってるのは、たまらん」という人がいる。 

考え方だとそうなっちゃう。

「これ飲んだらこれだけ」「これ食べたらこれだけ」なんて、
それは考え方。


普通、
これ飲んだら、自ずからこれを飲んでいる時だけの様子になるし、
食べたら食べた時だけの様子に、必ずなっているんです。

心配ない。






Q.
坐禅をすると、わーっといろんなことが出てくるんです。

A.
実際には普段から出ているんです。

でも普段はいろんなことで気が紛れているから、出ていることに気がつかないだけです。


坐禅をしていると他のことが収まるから、
いろんなことが出ていることに気づくだけです。


その出ていることを抑えようとするのは、かえって心を騒がしていることになるでしょ。

だって、出てきてしまったものをあとから無くそう無くそうとしているわけだから。


出てきてしまったものはどうしようもないのに。
 


そうではなく、
出たものを出たままに、何も手を付けずにいれば、
全然心を煩わさないよね。

これが本当の「心静か」ってことです。





● 仏道修行は、
今ここ で修行します。

「今」というと、「この瞬間だ」と言って、
「イマッ!」と切り出そうとしますが、
今はそんな風になっていませんね。





● 本当に「今の様子」それだけを見ている時は、それだけだっていうことも分からないはずです。
 
だって、「これが今の様子か」なんて余分なことが出てくる余地がないんだから。





● 修行は「思い」ではないんです。

「こうやればいいんだ」って方程式を立てておいて、それに沿ってやることではないです。




● 参禅は、「今の自分自身の様子」に参じることです。

そのために見聞覚知の六根を開放するのです。




● 五官にまかせる とか 六根を開放するって、
見えること、聞こえることを 観察するんじゃないですよ。
観察する自分などいないのですから。

「見ている」「聞いている」って風じゃないです。

だれかが言いましたね。
「主なくて見聞覚知する人を、いき仏とは是をいふなり」

 [至道無難禅師しどうぶなんぜんじ:白隠禅師の師の正受老人の師]





● 坐禅を◯◯の方法で10年やって来ましたという人がいたら、
10年やってどうなったのですか?
と尋ねてみてください。





●概念だけを取り上げているんです、実物じゃなく。

それが人間の世界です。


実物があるにも関わらず、実物の話をしないんです。


仏道ってのは実物です、
扱うのは。


実物は私には必要ない、って人はいないですね。



宗派に関係ない。
宗教に関係ない。

こういうものが仏道なんです。


  この記事のタイトル中:内外打成一片 ないげだいじょういっぺん と読みます
 
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坐禅の組み方 http://zazen.blog.jp/archives/1029047318.html   ※
に図を挿入しました

hokkaijoin 








法界定印(ほっかいじょういん) 



坐禅の組み方 つまり坐禅の時にどのように身体を整えるかについては、上記※にありますが、

坐禅する間、どのようにして過ごすのか、坐禅の仕方については、

メニューの「座禅の仕方・坐禅の方法」をクリックすると、すべての記事が読めます。



坐禅は、道元禅師の普勧坐禅儀による只管打坐をすべきであると井上貫道老師は常々言われています。

数息観、公案工夫(公案禅)を用いません。

 
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自己は消え、老師の声が聞こえるのみ――貫道老師坐禅会参加が2回目のある女性の体験



井上貫道老師のある坐禅会のことです。

午前中坐禅を3炷(ちゅう)、それから斎座(さいざ=昼食)、午後坐禅1炷、提唱、質疑応答という差定(さじょう=時間割)です。


老師の提唱後、お茶とお菓子をいただきながらの質疑応答で、
女性が発言されました。


「今日は、2回目の参加です。

前回、初めて参加した時に、司会の方が、提唱の聞き方として、
「メモを取らずにただ聞いてください※」と言われたので、
今日もそうしていました。

そしたら、老師の提唱中に、自分がなくなっていました。

自分がなく、ただ声だけが聞こえるのです。


なるほど、だから、メモを取らないほうが良いのかということが分かりました。」




※この坐禅会では、司会の方が最初にこう言われています。

「提唱の聞き方です。
ただ聞いてください。

普通の学習方法とは違います。 

zazenjosei2toblack_FotoSketcher_FotoSketcherメモも取りません。

メモを取るというのは、自分の気に入った言葉をメモするだけでしょう?
これは気にいる、これはそうでないと区別するのでしょう?


しかも、メモをしている間は、お話を聞いていませんし。


だから、

ただ聞いて下さい。


そのことがそのようにあるだけですから。」



井上貫道老師が坐禅の仕方として以下のように言われています。

 

「観察しないこと、

眺めないこと、

事実にいるだけ。

見る人がいなくなって事実だけになります。

そうやって座ってください。」 ――井上貫道老師


井上貫道老師による坐禅の仕方・坐禅の方法はこちら  
← クリックして下さい


 
上記の女性の方は、老師の提唱中でしたが、素直に参禅されていて、
まさに、聞く人がいなくなって、事実だけになられたのです。

*提唱 (ていしょう) とは、悟りの体験者が、実物そのものを見せること 
講義や解説ではない
自分のことを明らかにした仏道の人が、
事実を
各自の自分自身の様子( その場にいる参禅者自身の自分の様子 ) がどうなっているか
ということを直截に指し示すこと




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【投稿後記】
ここに記載した・これから掲載する参禅者体験は、1年を経過しているものを選んで投稿しています。
投稿者は、インタビュアーやレポーターではありませんので、その後、その人がどのように修行されているかは知りませんし、その後の修行をインタビューしていません。

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老師に言われて坐禅を中止した結果: ビルがそのままビルに見えた


師のアドバイスに従って坐禅を中止したら、思わず「事実」の体験が起こった




2008年5月参禅開始した熱心な修行者Sさんの、3年目の2010年12月に起こった体験です。
以下、原文のママです。「私」=Sさん です。


私:
先日の臘八接心の後、坐禅をしていてもやたら考えばかり出てきて、頭の中がいっぱいになってしまいます。

とても事実に参じるなんて感じではありません。

何か変なことをしてしまったのでしょうか。
どうすればいいでしょうか?



掛川の老師:
(この間、私との質疑応答。内容をほぼ忘れました。1時間以上にわたってびっしりと指導してくださいました。他の参禅者はそのやりとりを黙って聞いておられました。)



私:
もう、老師の言葉を聞いているだけでも、頭がずきずきしてくるんです。これは何なんでしょうか・・・。

他のどなたでも、何かアドバイスありませんでしょうか・・・。


修行中の雲水:
それは私にも経験があるんですが、きっと、事実を自分なりの枠にはめて捉えようとしているんじゃないですか。無意識のうちに。

私:
枠にはめて捉える・・・。


雲水:
事実なんて、そのままでいいはずなのに、それを「ありのままに見よう」とか「正しく見よう」とか、そういった自分の枠というか、あるべき姿に変換して捉えようとしているんです。

だから頭痛がする。


私:
(しばし沈黙)

なるほど・・・。


(またまたいろいろと質疑応答)


掛川の老師:
あなたは苦労するね。


私:
そうかもしれません。(苦笑)
でもやっぱり、頭で考えるのが好きなんですよね・・・。


掛川の老師:
うーん、坐禅をやめたほうがいいかもしれないね。

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がっくりきて、でも言われたとおり、坐禅をやめてみました。


まず翌日の土曜日は一日中ゴロゴロ。


「あなたは苦労するだろうね」
と[老師に]言われたのを思い出しつつ、
あと何年かかるんだろうか、
一生わからないんじゃないだろうかと泣きそうになりながら、
でもどうすることもできず、仏教も坐禅もやめて寝ていました。


そしてその翌日、日曜日には知人のライブがあったので街まで出かけました。


元城町の駐車場に車をとめて、交差点の地下道をくぐって、薄暗い階段を一歩一歩、足の裏の感覚だけで上がり、地上に出ました。

building


ふと顔を上げると、目の前にビルがあります。(たぶん鴻池ビルだか谷島屋だったか。)



その時に「あれっ」と感じました。




ビルがそのまま、ビルに見える。

いつだって、ビルを見ればこのように見えていたじゃないか。

幼稚園の頃からずっと、ビルを見ればこの感覚だったじゃないか。

仏教とかを知る前から、いつでもこうだったじゃないか。


えっ、えっ、えっ、という感じで、
目を下に向けてみると、
こんどは歩道がちゃんと歩道に見える。


「ええっ、本当か!?」


半信半疑で、しばらく歩いてみました。


信号があります。
赤です。
しばらく待っていると青に変わります。

さらに待っていると、点滅してまた赤に変わります。



「やっぱりそのまんまじゃないか!」


きっとこれだ

と思いつつ、嬉しくて街をうきうき散歩していると、だんだん分かってきました。


事実は全てできあがっている。

事実は全て結果でしかない。

こちらはその出来上がったものを、ただ、いただいておくことしかできない。

こちらが手出しする余地なんてない。

 全文を読む


という体験をされました。


Sさんについては、まだ続きます
続きは、こちら⇒ http://zazen.blog.jp/archives/1063114362.html


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【投稿後記】
Sさんは、井上貫道老師に参禅されている修行者の一人です。
(浜松の老師にも参禅されています)

すでにSさん自身が自分のブログに詳細に体験談を書かれていますが、すでに過去の記事となってしまっており、それを見つけにくいのでここに引用をさせていただきました。

大変真摯な姿勢で修行に取り組んでおられることが分かります。
分からないことはそのままにせずに、老師に質問をし、体験があれば、老師に確認を求めておられます。


そこでお願いです。
Sさんのブログにコメントをして質問されることはご遠慮ください。Sさんに要らぬ負担をかけることになります。
Sさんはまだ修行者の一人です。法の上の質問は、師つまり仏道を体得し終わった人にするのが修行者としてのただしい尋ね方です。ですので、くれぐれもよろしくお願いをします。



ここに記載した・これから掲載する参禅者体験は、1年を経過しているものを選んで投稿しています。
投稿者は、インタビュアーやレポーターではありませんので、その後、その人がどのようにされているかは存じていませんし、その後の修行をインタビューしていません。

上記Sさんのように、個人を知っている人であってもできるだけ個人を特定できないように余分な情報は書かないようにしています。使用した人名のアルファベットは、その人の本名とは全く関係がありません。ZからAまでを逆順に使っていきますので、まずはYさん、Wさん、Uさん、Tさん、Sさんという順番になります。

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いわゆる坐禅は、習禅にはあらず。ただこれ安楽の法門なり。

いわゆる坐禅は、習禅にはあらず

(坐禅は)「習禅には非ず」いつもその一回こっきりで終わりです。

坐禅は、積み重ねてだんだん上手になるような行をしているわけではない。

もう一回さっきの音を聞きたいなんて無理ですから。やれないんです、もう一回。



ただこれ安楽の法門なり。

「安楽の法門」(コン)こうやって音がするととにかくそのようになる。

目を開けてると目の前のものがその通りに見えるように出来てる。

本当に何もしなくたって大丈夫。

こんな楽なことはないじゃないですか。



――井上貫道老師17/3/23提唱から 【3/23提唱DVDからの抜粋】 DVD製作者様による文字起こしになります


【重  要】
神戸楽の森「坐る会」のサイト https://tinyurl.com/kobeteisho
にも、井上貫道老師の神戸坐禅会の提唱の一部が文字に起こされています。

大切なことを分かりやすく提唱されている部分ですので、ぜひ、ご覧ください。





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六感の働きで学ぶ・六感の働きでいればよい


純粋に耳の働きだけで学んで下さい。

耳には人の聞き方はないんですよ。

[どんな音でもその通りに聞こえる 人間の好き嫌いに関係なく聞こえる
 自分の見解に合致することでも聞こえるし、自分とは反対の意見の発言でもそのとおり聞こえる、
褒められようと非難されようと耳には内容に関係なく聞こえるetc]

知ってますか。


眼には人の見方はついてないのですよ。
[自分が見たいものでも見たくないものでもそういうことに関係なく眼に見えるetc.]


そういうことに用がある。


どこに目を向けて学ぶかってこと。


人間の考え方のうえの話をしているわけではない。



自分の聞き方というものが残っている上に継ぎ足していくのと、全部それを外しておいて本当に聞くのとでは、違うんですよ。


ものを学ぶのに、どうして自分の考え方を中心にするんでしょうか。

本当にものを学ぶんだったら、どんなに今まで学んだことがあったって、しばらくそれを使わなくたっていいじゃないですか。

なくなるわけじゃないから。


本当に空っぽで聞いて。





――井上貫道老師17/3/23提唱から 【3/23提唱DVDからの抜粋】 DVD製作者様による文字起こしになります
不明点、疑問、足らないところは、坐禅会への参禅をお願い致します  実践して何か体験を得た場合も正師への参禅が必須です
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今生きている事実から目をそらさない

あれだけいろんなものを見てきたのに、今見えているものはこれだけだからね。

これだけで十分だからね、どこへ行っても。

そこへ行った時にそこへ行ったものがその通りに見えさえすれば、それで十分。


どんなものでも、実物というのはたったひとつなんですよ。

実物が二つも三つも同じようなものがあるんだったら、どれにしようかって必ずなるよね。

ひとつだから要らないこと。何もしなくていい。


私達絶対忘れてはならないのは、今こうやって生きているこの事実から目をそらさない、ということ。

管理人註:この事実というのは、頭や心に浮かぶ色々な思いを取り上げて何かすることではありません。


そこで生きているんだもん。そのうえで、いろんなことやるんでしょう。



頭が先行するのではなくて、事実に触れて生きる

事実に生きると、ゆとりが生まれる  やらなくていいことが沢山あることに気づく

ものにこうやって触れていると、そういう風な生き方をしていると、ゆとりがあるじゃんね。
だけど頭の方が先行していると、常に準備をしとかなきゃとか、それだけ余分なことしならがら生きているじゃん。

ものを本当に見切ったら、やらなくてもいいこと沢山あるわけでしょ。


武術の極意――人がいなくなる・何もしない

この前 武術家の人と会った時に、武術は二通りあるって言ってた。
ひとつは自分に力をつけてねじ伏せること。
もうひとつはよけること。
最終的なのは自分がいなくなることだって。

武術の極意は自分がいなくなること。
争わないんだね。

そこにいなきゃ、大丈夫なんだ。
人気を感じさせない。殺気がない。

人がいなくなる。

本当に強くなったら、やっぱり何もしないんだろうね。

強いんだか弱いんだか分からなくなるくらいになるのが、一番いいね。





――井上貫道老師17/3/23提唱から 【3/23提唱DVDからの抜粋】 
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【重  要】
神戸楽の森「坐る会」のサイト https://tinyurl.com/kobeteisho
にも、井上貫道老師の神戸坐禅会の提唱の一部が文字に起こされています。

大切なことを分かりやすく提唱されている部分ですので、ぜひ、ご覧ください。





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「事実」に触れるためには、実践してみる



「本当に『事実』に触れると、今まで体験したことがないものだから、驚くんです」


本当にこういうことの内容に触れたかったら、やってみるしかないんじゃないですかね。

やらないで評価してみてもどうしようもないと思う。

やったら自ずから分かるようになってる。


実践するまでは修行をしているとは言えない

触れあっていく中でだんだん、あの人の言っていることはどういうことなんだろう、じゃ一度本当にやってみようっていう風に変わった時に初めて、この仏道の修行になってくるんだろうと思う。

それまでは仏道の修行ではないね。



坐禅中の「思い」の性質、「思い」の対処法


坐禅中の思いは自分で起こしているのではない

坐っている(=坐禅している)時にいろんなことが出てくるというのは、自分で思い起こしたことはほとんどない。出てきたものに気が付くだけですよ。

出てきた時に出てきた通りのことがあるだけで、終わっていくんですね。重なることはない。


坐っていて(=坐禅していて)精細に自分の様子に親しくいないと、自分で思いをつけて過ごしているか、そのままでいるかということが、容易に見ることが出来ないね。そのくらい瞬時に起こるものですよ、思いって。


「思い」の評価はしてはいけない


出て来るものに対して、人って本当に不思議なくらい評価するんだよね、自分で。

その評価が自分の中で混乱を起こす。


どんなことが思えても、それによって人が苦しむことは、本当にない。

出てきたものに対して自分の思いがくっついたことで苦しむ。


関連記事の質疑:坐禅中に思い・想念が出て来るのですが  (2018年5月29日投稿記事) を読む


――井上貫道老師17/3/23提唱から 【3/23提唱DVDからの抜粋】 
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大切なことを分かりやすく提唱されている部分ですので、ぜひ、ご覧ください。



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