伝光録 第九祖・伏駄密多尊者

伏駄密多尊者の巻【本 則】
第九祖・伏駄密多尊者は
仏陀難提の説くところを聞いた。
「あなたの言葉は、心と親しい。
父母は、それと比べることはできない。
あなたの行いは、道と合致している。
諸仏の心は、まさにこれである。
外に、形ある仏を求めるならば、
それはあなたとは似ていない。
あなたの本来の心を知ろうとするならば、
それは“合している”のでもなく、また“離れている”のでもない。」
師は、そこで大悟した。
伏駄密多尊者の巻【機縁】(本則の物語)
師は提伽国の人である。姓は毘舍羅。
仏陀難提が教えを広めて提伽国の城に至り、
毘舍羅の家に来たとき、
家の上に白い光が立ちのぼるのを見た。
その弟子たちに言った。
「この家には、まさに聖人がいるであろう。
口に言葉がなく、真に大乗の器である。
足は地を踏まず、触れれば穢れを知るだけである。
すなわち、この人は私の後継者であろう。」
言い終わると、長者が出てきて礼拝し、たずねた。
「何をお求めですか。」
[佛陀難提]尊者は言った。
「私は侍者を求めている。」
長者は言った。
「私には一人の子がいます。年はすでに五十です。
口はいまだ話したことがなく、足はいまだ歩いたことがありません。」
尊者は言った。
「あなたの言うとおりであれば、まさに私の弟子です。」
尊者がその人に会うと、そのように言われたのを聞いて、
師(=伏駄密多)はすぐに立ち上がり、礼拝して、詩を述べて問うた。
「父母は、私の真の親ではない。では誰が最も親しいのか。
諸仏は、私の道ではない。では誰が最も道であるのか。」
尊者は詩で答えた。
「あなたの言葉は心と親しい。
(そして)合でもなく離でもない。」
そのとき師は、その優れた詩を聞いて、すぐに七歩歩いた。
尊者は言った。
「この人は、昔すでに仏に会い、悲願が広大であった。
父母への愛情を捨てがたいことを思い、
あえて言わず、歩かなかっただけである。」
伏駄密多尊者の巻【拈提】(解説・説法)
実に、父母は私の親ではなく、諸仏は私の道ではない。
したがって、真に親しいものを知ろうとするならば、
父母と比べるべきではない。
真に道を知ろうとするならば、
諸仏に学ぶべきではない。
その理由は何か。
あなたの見聞は、他人の目や耳を借りているのではなく、
あなたの手足は、他人の動きを用いているのではない。
衆生もこのようであり、諸仏もこのようである。
あれがこれを学び、これがあれを学ぶという関係は、
ついに真の親しさではない。
どうしてそれを道とすることができようか。
このような道理を守り続けたために、
口で話さず、足で歩かず、
およそ五十年を過ごしたのである。
まさにこれは大乗の器であり、
汚れた境界の中にあるものではない。
「父母は私の親ではない」と言うのは、
それがあなたの言葉であり、
それはあなたの心と親しい。
「諸仏は私の道ではない」と言って、
足で歩かなかったのは、
それがあなたの行いであり、道と一致している。
したがって、外に形ある仏を求めることは、
結局は正しい行いではない。
このゆえに祖師の門下では、不立文字直指単伝、見性成仏なることを伝えてきた。
人に直接それを知らしめるために、単伝するのに特別な方法はない。
ただ人に、自らの意識の根を断ち切らせ、
口のまわりに白醭(はくぼく):白いよだれ(かびのようなもの)がつくほどにしておく。
これは言葉を忌むのではなく、
沈黙を尊ぶのでもない。
ただあなたの心がこのようであることを
知らしめるためである。
その心は、清水のようであり、虚空のようである。
純白で清らかで、融け合い、妨げがない。
したがって、自分の心の外に現れるものはなく、
自己の霊の上には、塵ひとつ覆うものはない。
全体は明るく輝き、
宝玉と並べるものではない。
太陽や月の光をもって、
自分の光と比べてはならない。
火の珠の光をもって、
自分の眼の明るさと比べてはならない。
見ていないのか。
すべての人が本来もっている光は、
千の太陽が同時に照らすように明るい。
暗い者は内に向かって探し、
明らかな者は外に向かって留まらない。
静かに考えよ。
内を親しいとすることもなく、
外を疎いとすることもない。
昔から今に至るまで、この通りであるが、
自分で倒れ、自分で起きるようなことをしてはならない。
だから祖師は親切に向き合うのであり、
ただこの「そのまま」において出会わせ、
それ以上のことはない。
この因縁によって明らかにすべきであり、
修行や証悟によって到達するとは限らず、
学問によって究めるとも限らない。
ただ、あなたの心は完全にあなたと親しい。
あなたこそがそのまま道である。
このほかに、形ある仏も求めず、
形なき仏も求めない。
すでに理解したであろう。
何に合わせるのか、何から離れるのか。
結局、合でもなく離でもない。
たとえこれを身体と呼んでも、離ではなく、
たとえこれを心と呼んでも、合ではない。
この境地に至っても、
身体の外に心を求めてはならない。
たとえ生や死の出入りがあっても、
それは身体や心の働きではない。
諸仏もこのように保ち、三世において常に証明し、
諸祖もこのように保ち、世に現れてきた。
人々もまたこのように保ち、
それ以上のことをする必要はない。
一日中、この真理は乱れることがない。
十二因縁もまた、そのまま法を転じる働きである。
この境地に至ると、
六道の輪廻はそのまま大乗の働きとなり、
四生の業もまた自己の営みである。
たとえ有情・無情といっても、
それはただ別の呼び名にすぎない。
衆生といっても、心の別名である。
心を優れたものとし、意を劣ったものとするな。
どうして目を卑しめて、太陽を尊ぶようなことがあろうか。
この境地には、六根と対象との区別はなく、
心というものとして捉えられるものもない。
したがって、すべての人がそのまま道であり、
すべての事が心でないものはない。
【頌 古】(詩)
豈有根塵染自性
言うこと莫(なか)れ、語黙 離微に捗(わた)ると
豈(あ)に根塵、自性を染むることあらんや
言葉を言うことや、沈黙することにおいて、
微細な分別に入り込むな。(???)
どうして感覚や対象が、
本来の性を汚すことができようか。
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ブログ編者註
「根塵」とは 根 と 塵 すなわち 六根 と 六塵(ろくじん)
六根=眼・耳・鼻・舌・身・意
六塵=人間が眼・耳・鼻・舌・身・意(六根)を通して認識する六つの対象のこと。六境 とも言う。
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「真に大乗の器なり。」
そうです。これは本当に言うことも、やる事もないのです。
もともと私ども、どうもせんでもいいように出来ている。
そうですけれども、悲しい事には、これを自分で見そこねている為に、いらん考えをおこして、これを持て余している、困っておるだけなのです。それを、衆生と言うたんです。
そういうふうに、迷いの本源というものが、きちんとしておるからです。それさえ分かれば、修行の態度もはっきりしてきます。
そういうわけであって、「足地を踏まえず」と。立ってその辺をぶらついたということもないと言う事です。
それから、「触穢を知るのみ」と、これは、坐禅をしておつて、大小便以外にほとんど立って動いた事が無いという事です。
それほど、熱心に坐禅をしておられた。
「則ち是吾が嗣ならんと。」これは、わしの弟子として、最も良い、というふうに言われた。ー『無相傳光録』p.139
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ブログ編者註
「根塵」とは 根 と 塵 すなわち 六根 と 六塵(ろくじん)
六根=眼・耳・鼻・舌・身・意
六塵=人間が眼・耳・鼻・舌・身・意(六根)を通して認識する六つの対象のこと。六境 とも言う。
【井上義衍老師の伏駄密多尊者の巻の提唱】
私共の生活の全て、口に言葉を出し、身に行住座臥あり、
眼、耳、鼻、舌の活動のいちいち、他の人の力を借りることなく、
全自己の活動である。それ故道とか法とかを自分以外の所に見、
今以外の所において、この自分を道や法に契うようにしようとするものの全く必要がない程、
いちいち、今の活動、それ自身が道そのものであり、法そのものの様子である。
そのことを言いたいのです。ー『無相傳光録』p.138
いちいち、今の活動、それ自身が道そのものであり、法そのものの様子である。
そのことを言いたいのです。ー『無相傳光録』p.138
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「真に大乗の器なり。」
そうです。これは本当に言うことも、やる事もないのです。
もともと私ども、どうもせんでもいいように出来ている。
そうですけれども、悲しい事には、これを自分で見そこねている為に、いらん考えをおこして、これを持て余している、困っておるだけなのです。それを、衆生と言うたんです。
そういうふうに、迷いの本源というものが、きちんとしておるからです。それさえ分かれば、修行の態度もはっきりしてきます。
そういうわけであって、「足地を踏まえず」と。立ってその辺をぶらついたということもないと言う事です。
それから、「触穢を知るのみ」と、これは、坐禅をしておつて、大小便以外にほとんど立って動いた事が無いという事です。
それほど、熱心に坐禅をしておられた。
「則ち是吾が嗣ならんと。」これは、わしの弟子として、最も良い、というふうに言われた。ー『無相傳光録』p.139