道元禅師『普勧坐禅儀』井上義衍老師提唱 その1



『普勧坐禅儀』原文

原(たず)ぬるに夫(そ)れ道本円通、いかでか修証を仮らん。宗乗自在、なんぞ功夫を費やさん。いわんや、全体はるかに塵埃を出ず。たれか払拭(ほっしき)の手段を信ぜん。おおよそ、当処を離れず。豈に修行の脚頭を用うる者ならんや。
しかれども、毫釐も差あれば、天地懸はるかに隔たり、違順わずかに起れば、紛然として心を失す。たとい、会に誇り、悟に豊かにして、瞥地の智通を獲、道を得、心を明らめて、衝天の志気を挙し、入頭の辺量に逍遥すといえども、ほとんど出身の活路を虧闕す。え~、もうちょっといっておきましょう。いわんや、かの祇園の生知たる、端坐六年の蹤跡見つべし。少林の心印を伝うる、面壁九歳の声名なお聞こゆ。古聖(こしょう)既にしかり、今人(こんじん)なんぞ弁ぜざる。ゆえに、すべからく言(こと)を尋ね、語を逐うの解行(げぎょう)を休すべし。すべからく回光返照の退歩を学すべし。身心(しんじん)自然(じねん)に脱落して、本来の面目現前せん。

井上義衍老師提唱

普勧坐禅儀とは

まあ、そのくらいにしといて、先に行きましょう。

タイトル「普勧坐禅儀」について。え~、道元禅師が、ここでこの「普勧坐禅儀」ということを言われる、この「あまねく勧める坐禅」。誰もがどうしても坐禅をしなければならない理由を、こういうふうに初めにお示しになったわけです。
それは元来、釈尊が大悟をせられた時に、よく分かっておりますように、初めて世界にこの道が生まれてきた。それは釈尊が明星を一見をせられて、自己を忘じられたその真相の上から、すべてのものをご覧になった時にですね、いっさいの人たちが自分と同じように、最初は迷っておったけれども、徹底をしてみたら、「なんじゃ、初めから私と、私の解脱をした境涯と同じような世界に、誰もが生きておるではないか。誰もこの道から外れておるものは一人も無いではないか」ということに気がつかれて、それがず~っと伝統として道元禅師にまで至っておる。

それで道元禅師ご自身も、ご承知のように「本来本法性(ほんらいほんほっしょう)、天然自性身(てんねんじしょうしん)」云々(うんぬん)という、そういう疑問があってですね、元来そういうものであるということを教えられたんですけども、その真相が本当は初めには分からなかったという。
ところが、ただ如浄禅師のもとにおいて「打睡一下」としてのですね、ただ隣の坊さんの居眠りをしておった、それを(如浄禅師が)警告をして、「坐禅は、身心脱落にあるのだ」「居眠りをすることではない」という(パン♪)、その声と同時にして、その起きたその途端に道元禅師も同じように大悟をせられた。

そしてごらんになると、祖師の言うておられるとおりの事実が自分の上にあり、一切の人にあるということがハッキリしたから、それで、それをやりさえすりゃ、どんな人でもですね、解脱をせんということはない、ということです。
苦しみから逃れる道というものはこれ以外にあるのではないということが、こうハッキリなさった。

そこでみなさんに、どういう人にでも初めっから勧めようとなさる。三祖僧璨(そうさん)大師の言葉を見ましても「円なること、大虚に同じし」「欠ること無く、余ること無し」「まことに取捨に由る」こうありますように、え~、円なること大虚に同じし、余ることなく欠くることのないのが、私どもの真相であるからです。これをただ知る上にいろいろな道がありますから、それがしまいに出てくるところです。まあこの題はそのくらいにしておきまして。


原ぬるに夫れ道本円通、争か修証を仮らん

「原(たず)ぬるに夫(そ)れ道本円通、争(いかで)か修証を仮らん」。直にこの「たずぬるに、それ、道本円通、いかでか、修証を仮らん」。こういうふうなことが冒頭に出ておりますけれども、その根源をですね、尋ねてみると、私どもの根源を尋ねてみますというと、今話したように、道本円通。道本円通ということは、初めからですね、道に通ずるんではなくて、道そのものによってこのものがこう出来上がっておる、ということです。
それですから「至道無難」なんです。ね、初めからその道であって、これからどうしなければならんということはない。それだから人の見解を離れてみると「洞然明白とうねん(として)めいばく」とあるように、こんなにハッキリとしておるではないですか。こういうふうなことが言われておるとおりです。私どもの現在、この様子でもそうです、初めから「道本円通」です。それですからこのものの様子の上にすべてがこうある。

このこのものいって、それじゃあ、この今の私どもと思うておるこの材料は、どういう性質のものであるか言いますとね、これ、なんにも持ちものが無いんです。一切、持ちもののないものが縁に触れて、どのよ~にでも活動しながらですね、それでどれにも居られんように、こう出来ておる。それがこう、道の様子です。
この圜悟(えんご)なんかも言うておられますけれどもですね、「道は無心を尊び、禅は名利を絶す。ただ、忘懐(ぼうかい)、眠絶して」というようなことがありますように、道といわれるものは初めからこう無心なんです。無為なんです。どうするんでもこうするんでもないんです。そのように満ち満ちておる、その事実裏に自分が本当にぶつかってみればええです。それですから今までの人間の考えとしてのものが離れてみると、その事実がハッキリする、ということですね。それでこんなことを言いますというと、何か、つまらないこう感じがし易いところがある。

そこで道元禅師はこういうことを言っておられます。え~、「人に、教え難きことあり。行住坐臥、直にこれ大道」。こういうふうに言われてます。朝から晩まで人が生活をしておる、この生活の事実がみなこれ大道であって、大道以外のものはありません。こういうふうに徹底した言葉を使っておられるです。これ、しかし分からない人、それですから「愚なる人は、やすしと思い、たまたま、本性を見ることあれども、常々、慣れし道に通う心が強いために」ですね、それがど~してもハッキリしないんだ。こういうふうに言われるぐらい平生底(へいぜいてい)です。そこに道は満ち満ちておるという所以があるわけです。そういうふうに初めから出来あがっておるんですから、「修証(しゅしょう)を仮らん」とこうありますけれども、何かこれからですね、修行をし人の力を用いて、そして悟ってから初めてこう道ができるように多くの人は思うけども、それが間違いだ言うんです。道そのものは人の修行するとか悟るとかいうことに関係はないんです、はじめっから。

それだから趙州(じょうしゅう)が南泉(なんせん)に参じた時分でもですよ、「道は知にも属せず、不知にも属せず」。こういうふうに言われておりますように、本当に大道というものは、人の知る知らんということに関係のないほど確かなことが、私どもの全体としてこう動いておる。それじゃから、こう生まれながにしてご覧なさい、どうしたんでもこうしたんでもないのに、必ずこのものと環境といわれておる事実が一如になってるし、人の知らないうちに活動をするようにできておるです。それは絶対に間違いのない道の在り方ですね。それでこういう素晴らしい自分を持っておりながら、みんなそれを他にこう尋ねようとするからです。そこに間違いが起きるわけです。ですけども、もう一つ言っておきたいのは、今のそういう境涯を本当~に自分でこう自覚をする。

-------------------宗乗自在、何ぞ功夫を費やさん-------------------
「宗乗自在、何ぞ功夫を費さん」。その自覚をしたのが次のですね、「宗乗自在、何ぞ功夫を費やさん」というのは、この「宗」というのは、ムネとありますように真意です。ね、仏のいわれておる真意、私どもの真実相に本当に徹してみるということです。その真意にこうみなすべてのものが現れておる、それを「宗乗」と言うたです。ね、このものの上にすべてがこう乗せられてるです。そして自由なんです。なん~にも他に尋ねるところの無い様子ですね。「宗乗自在、なんぞ功夫を費やさん」。みんなこれからどうにかしよう、しようと思う、その心が妨げておるです。それじゃ~やめてしまったらいいか、何もしないのがええか~って、そうじゃ~なくて、本当~にそういう漁る心を、徹底的に自分で拭い去ってしまってみればいいんです。そこにこの道元禅師の、お示しになるですね、只管(しかん)というこの道が一番良いんです。最高の道であるというのはそれなんです。


あの、いつですか、ちょっとこう、あの書いてみた「只管」に私、こういうもの、「只管というのは、直下承当(じきげじょうとう)の道なり」(パン♪)。直にそのものとして、コロっとそのまんまです、はじめから。それですから只管ということは「ただ」という構え方をするんじゃないんです。もう一切合切、本当~にこう離れてしまった事実です。それでその「只管」は、今話しとるように直下承当の道であるからですわ。時間も何もかにも、みな超越した道なんです、最初から。無量劫としてのですね、時間までも。過去無量劫から将来永遠に向かっての道を、みなそこで一遍にこう超えた。その様子が「只管」なんです。今の様子です。それだから一切の業法らしいものもですね、迷いの種らしいものを、もうみんなそれですからぶち破ってしまった、その様子です。それですから一切のものから越えておる教え、それが今ここでいう「道本円通、いかでか修証を仮らん。宗乗自在、なんぞ功夫を費やさん」といわれる所以です。

-------------------たれか払拭の手段を信ぜん-------------------
「況んや、全体迥(はる)かに塵埃(じんない)を出ず、孰(たれ)か払拭(ほっしき)の手段を信ぜん」。
それを重ねて「いわんや」ですね。
道理として今までこう述べたんですけれども、「いわんや、全体はるかに塵埃を出ず」と、これはもう道元禅師ご自身が、実感の様子ですよ。このもの自体が本当~に解脱をして、「ただ、眼横鼻直なることを認得して、一毫も仏法無し」っていって、ね。特殊な教えらしいものも、なんにも必要の無いようにこれ全体に出来上がっておるんだ~とこうおっしゃる所以ですわね。全体はるかに塵埃を出ず。ね、もう一切邪魔ものはひとっつもない。それじゃから「たれか払拭の手段を信ぜん」とあるです。なに、どうしようと言うんじゃ、どうするのこうするのという手段の必要がないほど、このものは完全にこう出来てるんですよ。これに徹底したいんですわね。それで、しかもそれがですね。

-------------------おおよそ、当処を離れず、豈に修行の脚頭を用うる者ならんや-------------------
「大都、当処を離れず、豈に修行の脚頭を用うる者ならんや」。「おおよそ、当処を離れず、豈に修行の脚頭を用うる者ならんや」とまで言われておるです(パン♪)。今この様子からですね、今この自分の事実から、なん~にもこう離れておるものはないじゃないですか。もうすでにそのものじゃないか。それじゃから、修行をするのしないのという、そういう必要がどこにあるんじゃ~いうです。ね、ここまで自分を本当に捨て切りたいんです、坐禅をする上に。それですから坐禅の心構えというものをみますとですね、それですから「是非を管することなかれ」なんていうことが出てきますのもそれです。ね、一切の人の是非を管することをやめてしまうと、この事実に徹するんです。それが只管の坐禅です。


「然れども」。しかれども、これまでは、なんですか、道元禅師ご自身が本当に大悟せられた上の、上からご覧になったすべての人の真相を今まで述べられたんです。ところが良く考えてみると、過去の自分をみると、今の人たちの迷いといいますか、手のつけられない様子がある。それを今ここで、お示しです。こうは言うてみても、ど~してもそれが信じられない。そこに問題があるからです。こうは言うてみたものの、ですね、自分の真相は述べてみたものの、私が最初に信じられなかったように、みんなもいきなりそれを信ずるということは恐らくできんだろう、こういうことがあるからです。

毫釐も差あれば、天地懸に隔たり、違順纔かに起れば、紛然として心を失す

「毫釐(ごうり)も差あれば、天地懸に隔たり、違順(いじゅん)纔かに起れば、紛然(ふんねん)として心を失す」。それだから「しかれども、毫釐も差あれば、天地はるかに隔たり、違順わずかに起れば、紛然として心を失す」。これは不思議なもんですわね。どん~なにそういう道理を聞いて、それを確実に自分で「思い込んで」ですね、「もう絶対にこれで間違いはないのじゃ~」いうてこう思い込んで、それを実行してみても、それではおさまらんです。そこに問題があるです。それがその「考え方」じゃからです。それだから、どんな、ほれじゃから、立派な考え方をしてみても、隔たりが出来て、なん~とも仕様がないところですね。そこに違順わずかに起こるということは、ご覧なさい。毫釐も思念がこう起きてきますというと、違順がすぐに起きる。それでフッと一念起きるというと、すぐにご覧なさい、前の道元禅師の言うておられるとおりの境涯がこう不審になってくる。そういうふうに心を失す、これがありますから。そこでその上からですね、その経路として本当に徹するまでの経路にいろいろなことがあるから、それでそれを次にまた述べられたんです。ね、違順の起きた上からの様子ですから。

直饒い会(え)に誇り悟に豊かにして瞥地の智通を獲-

「直饒(たと)い、会(え)に誇り、悟に豊かにして、瞥地(べっち)の智通を獲」。それで「たとい、会に誇り、悟に豊かにして、瞥地の智通を獲」。まあ、ここまで行く方がええでしょうね。それで悟に豊かにしてということがありますけれども、この会に誇るということは理解を十分にしたんです。それでその理解が十分にできたもんですから、それを盾にとって「これで良いのだ~」と思い込んでおる。その力でどうかしようとする。そうしてまた「悟に豊かにして」ということは、「いや~、いろんな自覚がありました」ですね。あの、大慧(だいえ)でしたか、言われたように「大悟十八、小悟数を知らず」なんてのはそれですね。あそこでも悟った、ここでも悟ったいうて、なに、今までこう気がつかなんだものへ、ちょっと目が覚めたような気がしたのが、ここにいう「悟に豊かにして」というのは大抵それです。ね、公案をいくつも通りましたいうのもそうです。それでいかにも分かったような気がするんです。ところがそういうようなものは、いくらやってみてもそれはその範囲のものです。やはり人の見解の上から一歩も離れるということがないからです。それかと言いますと今度は「瞥地の智通」いうんですからね、チラッとこう、その自己を忘じたような気がするんです。ね、洗濯しとって気がつきました、なんか、しよるのんがいるんです。あるところの方が師についてやっておって、それで洗濯してるうちに知らずに手が動いておった、そういったようなことをですね、良いと言われて本人もそれが良いのだと思うた。そういうようなところにこの「瞥地の智通」というの、チラッと気がついたんです。それですからやっぱりものにはならんです、十分に。そうらしい気がしたんです。

-------------------道を得、心を明らめて-------------------
「道を得、心を明めて、衝天の志気を挙し」。今度は「道を得、心を明らめて、衝天の志気を挙す」とありますから、これは大分、自覚を持ったんです。確かにそのものに徹すべくですね、ほとんど徹すべくと、いうてええです。「せいあり」といいます。そのものに少なくともこう触れた様子ですね。それだから「道を得、心を明らめて」(パン♪)、自分の真相はなるほどかくの如き様子で、別に何をどうするという手続きの要らんものであるらしいことが、こう気がついたんです。それですから大分自信がついておるから「衝天の志気」があるです。それでこういうふうなこれ、言いますというと、百丈(ひゃくじょう)なんかがもとそうです。馬祖(ばそ)について野鴨子(やかし)のところにおいて鼻をひねり上げられた途端にですね、自己を忘じたような気がしてた、そして「衝天の志気」というんですから。それから 10年間というものは人の指標になってあれ、立ち上がったんです。ところが 10年も経ちますというと、わ~ずかなですね、兎の毛ほどの自己が残っておったものが、こう、また頭上げてきた、是非が。それで 10年目に再び馬祖に参じて、そして一喝をこうされた途端に、本当~に徹したと見えてですね、「三日耳聾(じろう)す」。もう怒鳴りつけられて三日も聾になっとった言いますけども、なに、耳が聾になっとったんじゃなくてですね、本当に「は~、そうか~」いうことがこういうに気がつかれたんです。そういうふうなことがあったとしてもですね、その前の瞥地ですわね。


-------------------入頭の辺量に逍遥すといえども-------------------
「入頭(にゅうとう)の辺量(へんりょう)に逍遥(しょうよう)すと雖も、幾ど出身の活路を虧闕(きけつ)す」。「ほとんど出身の活路を虧闕す」(欠いている)。これは怖いんですよ。これはどういうことか言いますとね、洞山(とうざん)大師の悟道の上から言うてみましても、はじめにあの悟道せられた時分にこう、こういうことがあるですよ。過水(かすい)、水をこう渡っておられて影が映る、そしてその影によって初めて悟られた。「切に忌む、他に向かって求むることを。超超として我と疎なり」って、初めにそれで「我れ今、独り自ら往く」(コッ♪)。こういうあの自覚が初めて得られたです、影をご覧になって。それで「処々、彼に逢うことを得たり」。これもね、やはりこの「心を明らめ、衝天の志気を挙する」という範囲内にこれ、属するんです。それでどうしてそういうことが言われるか言いますと、ご覧なさい。やっぱり「我れ今、処々彼に逢う」いうて、自分が自覚した本性と自分とがこう別なんです。それですから「入頭の辺量に逍遥す」。分かるのは分かったんですけど、まだ門前におってその内容に飛び込んでいないんです。もう道元禅師のこの、なんですか、言われる様子というものは、本当~にあともう一回ですね、自己を忘ずるという必要があることを知らん、悟りを本当~に離れる力ですね。それが無いんです。多くはその面に道元禅師は……ちょうどあの脱落せられた時分に、如浄禅師のところに行って「身心を、脱落して来ました~」とこうおっしゃった時分にですね、そうじゃない、「始めから脱落の身心だよ」言われて、そして「はぁ~~」いうてコロッとこう 180度の転換です。まったくそこでこう一変せられた。それで初めてこういう「辺量」にですね、出身の活路を虧闕す(欠いている)。本当~に解脱をしてしまってみると、「このよ~な~」というので、こう抜き差しならん、最初に説かれておるとお~りの自分にコロッと本当にこう入ってしまわれた。そこに洞山大師で言いますというと、「渠(かれ)は今、正に是れ我れ。我は今、渠(かれ)にあらず」というので、最後にこう手放された時分に、「向後に会して、方に初めて如如に契(かな)うべし」というようなことがありますけれど、その時に「入頭の辺量に逍遥」ではなくてですね、本当に「出身の活路」が手に入ったところです。まぁ、これ本当にこの辺に十分に気をつけなければならん様子があるわけですね。


-------------------端坐六年の蹤跡見つべし-------------------
それで、「矧(いわ)んや彼の、祇園(ぎおん)の生知為る、端坐六年の蹤跡(しょうせき)見つ可し」。「端坐六年の蹤跡見つべし」。これは釈尊のことを言われたです。釈尊ですらもですね、あのとおりに 6年間も難行苦行をしながら、ようやく生知(しょうち)なんですわ。生まれながらにして立派な人であったのに違いないです。けれども、そういう性格的にもすでにこう出来上がっているような人ですらも、どうしようもない。それほど人間の「考え」というものはですね、人を妨げるものです。それだからそれが「端坐六年の蹤跡見つべし」。もうそんなに苦労をせられて、そしてようやく明星一見において大悟をせられたんじゃ~ないですか。それだからええ加減なことで得られる道ではないっていうことですね。ですけどもええ加減なことじゃなしに(パン♪)、真実でありさえすれば即座なんです。ね、他に道は無いんです。


-------------------少林の心印を伝うる、面壁九歳の声名尚聞こゆ-------------------
「少林の心印を伝うる、面壁九歳の声名尚聞こゆ」。それで「少林の心印を伝う」とありますように、達磨(だるま)大師が中国においでになって、嵩山の少林寺に入られて、そして坐禅をせられること、やっぱり 9年間。その前に既に得られておりますけれども、そうやって 9年間、なん~にも言うこともやることも無いです。言うこともやることも必要がないんです。それかいうて寝てるということじゃないです。もう本当~に修行というものは、どこにどうしておらなければならんということの無いほど、自分がこうすっぱり手放しになる、そういうところに初めて出身の活路があるです。それに至るまでの消息が、このように述べられておるわけでしょう。声名……これはもう実際に歴史的にですね、地上において釈尊にしても達磨大師にしても、そういうことが歴史に残っておるじゃないですか~ということです。「声名、なお聞ゆ」。


-------------------古聖すでに然り、今人なんぞ弁ぜざる-------------------
「古聖(こしょう)既に然り、今人(こんじん)盍(なん)ぞ弁ぜざる」。「古聖すでに然り、今人なんぞ弁ぜざる」。こういうわけですから、今の人が苦心せにゃならん、時間を掛けなければならんという理由は、あるんですよ。これは仕方がないですね。一応どうしてもその間、時間を掛けなければ、それが即時にそのいかんのですから。それもただここにあるとおりに、それさえ本当にやりさえすれば行くに決まっておるですね。


-------------------語を逐うの解行を休すべし-------------------
それから、「所以(ゆえ)に、須(すべから)く言を尋ね、語を逐(お)うの解行(げぎょう)を休すべし」。「語を逐うの解行を休すべし」。これがその、修行の本当の態度というのはですね、こういうふうに言葉によったりですね、人の言葉によって自分の行を立派に、こう立派な行らしいことを血みどろになってやってみても、それはその範囲のものです。それは見当違いだからです。徹する道ということとね、そして立派な人に成るということは違うんです。それですからどんなに立派な、自他共に許すほどですね、人間的に優れた人と言われてみても、それが解脱してるかいったら、それはもういかんのです。おもむきが違うんです。そういうところにその間違いのないようにせなけりゃならんです。それを今ここに「言をたずね」ですね、もう研究して人の言葉によって、そしてただその言葉どおりなことをなんとなしに実行するといったようなことを、いっくらやってみてもそれはダメですよっていうことです。それだから「語を逐うの解行を休すべし」。理解してそんなものを真似したってダメですって、こうあるでしょう。


-------------------すべからく回光返照の退歩を学すべし-------------------
それから、「須らく回光返照(えこうへんしょう)の退歩(たいほ)を学すべし」。「すべからく、回光返照の退歩を学すべし」。これ、なぜこの回光返照の退歩という、自分を顧みなければならんかいいますとね、始めっからそうですわ。道そのものによって出来上がっておる自分をですね、自分の考え方で壊しているからです。それですから考え方で取り扱ったら、どこまで行っても手が届かんというんです。そこでこの「回光返照」というのは、ご覧なさい。考え方をもってどうかし修行しようという態度をすべて放棄して、そしてこの六根と六境(ろっこんとろっきょう)、六官と環境とのですね、関係における必然性そのものに任せて、そしてこのものの動き、それにこう教わってみなさいということです。それに教わることが回光返照の退歩を学する様子。そうでしょう、コレ自体の必然な在り方としてのものが、こう教えてくれてるからです。それですから是非を管して、自分たちの今までのこう、すべての教えられたものを条件として、いいの悪いのですね、どうあるべきこうあるべきいうて、その細工をする、そういうことをやったらダメなんです。これ、坐禅する上にね、最も大切なところです。


それですから、今のこのものに本当~に任せて行きますというと、「身心自然に脱落して、本来の面目(めんもく)現前せん」。「身心自然に脱落して、本来の面目現前せん」と、こうあるでしょう。これ、あの六祖(ろくそ)にしてもご覧なさい。「応無所住而生其心(おうむしょじゅうにしょうごしん)」とありますように、本当にどこに心を置いて構えておらにゃ~ならん、どういうふうな態度をとらにゃ~ならん、というようなことが無いんです、ね。一切これ放り出して、そしてすべて自分の見解を用いてどうするということをやめさえすればですね、必ずその本来の様子というものがこう現れてくるに決まっておるですよ。他にもう現れようはないんですよ。そんなにハッキリしてるんですよ。

それだから、「恁麼(いんも)の事を得んと欲せば、急に恁麼の事を務めよ」。「急に恁麼の事を務めよ」。これはどういうことを言われたのかいいますと、回光返照の退歩。大道としててのものが本当、コレ自身がですね大道そのものですから、この大道自身としての自分のものに向かって、ただそのものから心の方がただ教えられていく態度に、徹底的になりさえすれば、それさえ本当にやりさえすれば、必ず本来の面目は現ずる以外に行きようはありません、ということですわね。恁麼というのは「本来の面目現前する」というたもんですから、「身心自然に脱落する」言われたもんですから、「そうですよ」、ね。この言を追いですね、解行を理解をするようなそういうことをしたんじゃダメですよ、あ~そうですか、いうので、それを本当にやめてしまって、真実そのものに向かって行かれた。無為、無心の様子です。

それでここのところで、もう一つ申し上げておきたいのは、道元禅師がいつでも坐禅をするときにですね、示されるように、人の心をもって、身心をもってですよ、身体と心によって修行をするということは、人間ですから当然です。けれどもその両方でやるんですけれども、「心を以って修行をする」と、永劫にそれに徹することは出来ませんよ。これはそうなんです。玄沙(げんしゃ)が言うたように「学道の人、真を識らず」。本当のことを、道を学ぶ人が本当のことを知らんということは、従前の、今までの人の認識の上のですね、「従前の識神(しきしん)」というのは今までの、みんなが理性とか理知とかいうて尊んでおる、その心を本当のものだと思い込むから、それじゃからダメなんだよと、こういうです。それが迷わせてる、ということを知らんのです。ね、それがハッキリしてるから、それで道元禅師でも「心」をもって修行するということは、絶対に不可能なんだ。これ、本当にそうです。それですから、この「身」をもって修行をするという、それで初めて回光返照の退歩を学する態度がこう、きち~んとしておる。それによってのみ真に徹するから。

それから玄沙の言葉を用いますと、無量……それはその今までのですね、心と思われておるみなさんが尊んでおる心です、ね。その心が自分を悩ましておる種であるということを、次にですね、「無量劫来(むりょうごうらい)、生死(しょうじ)の本(もと)」。それが迷いの根源だということをみんな知らんです。ね、無明(むみょう)の煩悩いうのはそれなんです。それですからど~んな立派なですね、明確な知識を持っておってもです、そういう人間的な知識において結論を出してみても、出してみてもですね、出した結論が自分で出したんです。そういうことまで理知、理性が全部自分の後ろ姿までみな知ってるんですよ。それですから「本当~」ということに対して、ど~~しても疑惑が起きるのが当然なんです。その疑惑が根本的に抜けるのには、人そのものの従前の心意識を離れなければ、絶対にそれに(パン♪)触れることが出来ないんですよ、自分の事実に。

それですから「癡人(ちにん)喚(よ)んでこれを、本来人と作(な)す」と次にあの、言いよるんでしょう、言うとるんです。みんながその一般、尊んどる心がとんでもないことをしてることを知らんのじゃ~。それを目覚めたら今度は大したもんですね。目覚めたらまた、そういうハッキリした人たちの力によっておお~~きく動くということです。それですから、この欲界(よくかい)の世界においてですね、人間の世界において、そういうことが出来るもんか~と思うておったのが、欲界に処しながらですね、すぐにそれを本当~に得る道というのは「知見の力なり」と、こうあるです。「知見の力」ということは、古人が今のように自分の見解を捨てて、そして一切に離れてしまう、その見を離れてしまう事実にぶつかって、そしてそれがこう明確になったから、それで意を用いるということさえ無ければ必ず、ね、徹するんだということが、こう誰にでも示される。ところが多くの人はそれを怖がるんですわ。そんなことをしたらどうかなるんじゃないかと思うほど、ね、心意識をみんなその重大視し過ぎるんです。そのために時間をとるんですよ。

   道元禅師『普勧坐禅儀』井上義衍老師提唱 その2に続く


【注 意】これはブログの管理人(投稿者)が、動画を聴いて独自に文字起こしをしたものです。動画についている文字起こしや書籍 井上義衍『普勧坐禅儀』(龍泉寺刊)になった文字とは相違点がある場合があります。また校正不足の点があるかもしれません。ご容赦ください。

【編集後記】
この記事はすでに井上貫道老師や松本自證師に参禅されている方のためのものではありません。
インターネット上で明眼の師を探している人のために書いています。

昭和の時代に、大悟徹底の方が出られました。
その方が井上義衍老師です。
老師が住職された寺院は大本山ではなく貧しい地方寺院で、
専門僧堂でもないのに
そこに全国から修行者が集まりました。
住職資格のためでなく、本当の法を求めた求道者が集まったのです。

ある時は、食事のおかずは皆で玉ねぎ1個を分け合ったと言われています。
また来客があっても水しかおもてなしすることが出来なかったと伝えられています。

何よりも法を重くした結果、仏道が見事に復興し現代まで伝わっています。
そのお一人が井上貫道老師です。

修行の疑問があっても残念ながら、釈尊は答えられないですし、道元禅師に著作がたくさんあっても質問出来ません。
井上義衍老師の提唱もたくさんの本になっていますが、それを読んでも分かりません。
義衍老師が大悟徹底であったことは感じ取れても、肝心の修行上の疑問は解決されません。

ですので、真に求める方は、井上貫道老師、松本自證師に参じられることをおすすめいたします。
どちらの方も、リアルの坐禅会とZOOMオンライン坐禅会をされています。