道元禅師『普勧坐禅儀』井上義衍老師提唱 その2


『普勧坐禅儀』井上義衍老師提唱 その2の文字起こし


[本 文] それ参禅は、静室よろしく、飲食節あり。諸縁を放捨し、万事を休息して、善悪を思わず、是非を管すること莫れ。心意識の運転をやめ、念想観の測量をやめて、作仏と図ること莫れ、あに坐臥に拘らんや。


よのつね坐処には、厚く坐物を敷き、上に蒲団を用う。あるいは結跏趺坐、あるいは半跏趺坐。いわく結跏趺坐は、まず右の足をもって左の腿の上に安じ、左の足をもって右の腿の上に安ず。半跏趺坐は、ただ左の足をもって右の腿を圧すなり。 


寛く衣帯をかけて、斉整ならしむべし。次に、右の手を左の足の上に安じ、左の掌を右の掌の上に安じ、両の大拇指、面いて相さそう[相支える]。すなわち正身端坐して、左に側ち右に傾き、前に躬(くぐま)り後に仰ぐことを得ざれ。耳と肩と対し、鼻と臍と対せしめんことを要す。舌、上の顎(あぎと)[硬口蓋]に掛けて、唇歯相著け、目は須らく常に開くべし。


鼻息微かに通じ、身相既に調えて、欠気一息し、左右揺振して、兀兀(ごつごっ)として坐定(ざじょう)して、箇の不思量底を思量せよ。不思量底、如何が思量せん。非思量。これすなわち坐禅の要術なり。

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まあ一応そこまでにしときましょう。「夫れ参禅は、静室宜しく、飲食(おんじき)節あり」。「それ、参禅は」とこうありますけど、参禅という言葉、その言葉はね、あれはそのものになるということなんです。参の字は「そのもの」ということですね。それですから禅そのもの。他にこう何にもあるんじゃないです。それだから、坐るときに坐る、話をするときに話をする、そういうことがこう、ただその時その時の因縁生としてこう次々こうあって、それでそのまんま終わりなんです。そういうふうに、ずーっと行っておるのが禅の様子ですね。本当の教えというものの真相はそういうところにあるから、それで「参禅」という言葉を、そのものと一つになっておる様子を言ったものだよ。


それで、坐禅をする上に考えなければならんのはですね、ここにあるように、初めの人たちは騒がしい場所ではこう、坐禅ができないんですよ。坐禅ができないんですよ。そこで、静かなところに行って、そしてはじめに坐禅を始める、そのためには暴飲暴食をしますと言うと、眠くなるしですね、いろんな関係でどうもうまく行かない、こういうことがあるから、それで食事の方面についても考えなければならんということが出たわけでしょう。


それからその次のことが大切なんです。一番大切なのはこれからですね。「諸縁を放捨し、万事を休息して、善悪を思わず、是非を管すること莫れ」。「諸縁を放捨し、万事を休息して」、「善悪を思わず、是非を管することなかれ」。これが坐禅の最初の人の心掛けとしての、大切なところです。なぜこういうことが出るか言いますとね、私どもでもそうです、これ自分の家におるとね、坐禅しておっても用がたくさんできてくるです。不思議に用ができるです。相手の人がこうたくさんありますからね。それだからコツンという音がしても、すぐにそれにこう責任があるから、チャッとそれを感ずる、そういったようなことがなんぼでも起きてくるもんです。それで足が痛いとか何か言うので、すぐ用事をこう思い出して、そうしてその用事の方に重きを置いて、坐禅をやめて逃げていく、こういうことができてくるです。


ところがこうして、なんでしょ、自分の家を離れてしまって、別な所においでになると、そういう気が一つも起きんのです。不思議に。起きてみてもどうしようもないです。それですから自然にそこに落ち着く様子がある。それですから自分の家を離れるということは一番ええんですね。それで坐禅の道場に入って、それでその道場で生活するということが一番都合のええ、それが「諸縁を放捨し、万事を休息して」ということです。一切、今までのことを全部を払い捨てる、ただそこの状況だけでこう行ける、これが環境としての、一応の様子ですわね。


それから今度は、自分の内部としてのものは「是非(善悪)を思わず、是非を管することなかれ」。これなぜこういうことを言うかといいますとね、迷いというものは、今ね、この今ある事実、ね、これは音ですけれども、どれでもそうです。みなさんの人生において問題に各自がしておる、その問題の起きるということ、問題が起きる前に起きる材料が、ちゃんとみんなのところに「ある」ということなんです。それだから「ある」んですからですね。例えばそうでしょう、この音があるんじゃから、もう既にそれをどうのこうの、それに触れるとか触れんとか、いいとか悪いとか言うてみたって、もうなんですか、自分のところにあった後です。どうしようもないんですね。そういうふうにこう、もう決定的なんですよ。きちっとしておるです。それが本来のみんなの姿です。

ところが、そういう決定的に決まっておるそのものに対して、「これがええのか悪いのか」「本当か嘘か」「どうあるべきか」そういうふうなことを、すぐに自分の今度はご都合ですね、ご都合主義の立場からですね、それをこう批判しよるね。それはなぜそういうことが起きるか言ったら、「私」という先入観があるです。で、それが主体になっておるからです。それが迷いを起こす種なんです。他のものが迷いを起こすんじゃないんです。それですから、そういう迷いの起きる根源をちゃんと祖師方が知っておられる、みなさんの心の内部の底の底まで知っておられるからですね、それでそれを整理するために、チャッとこういうふうに「善悪を思わず」。ね、自分に対していい悪い言ったって、今のようにただ既にあった後です。どうしようもないです。済んだんです。次々そうです。それですから、そういう是非を以て自分を批判するようなことをしてもつまりませんよということです。そんなことをすりゃもう、絶対にどこまで行ってもそういう範囲で手はつけられない。永久にただ混乱に陥る以外に、何にも他にあるんじゃーない。こういうことが、その言われるほどみんなを苦しめる種です。


そこで今のように、心に対して内部に対しての警告をせられた。重ねてまたそれを言われたのが、次に丁寧に今度は話したのが「心意識の運転をやめ、念・想・観の測量をやめて、作仏と図ること莫れ、あに坐臥に拘らんや」。「念・想・観の測量をやめて」、「作仏と図ることなかれ」。こういうふうにこの言われたわけです。それでここで心というものをこれ、三つに区分をしてみせたんです。それで本質的な、なんですか、みんながなんですか、自分の心、心と思うておる、そういうふうな根本的な心を初めの「心」とこういうたんです。それから、それに対してそれを直ぐにこう思う力があるでしょう、思う働きが出てくる、それを「意」というです。そしてそれを分別する心というものを持っていて、そしてこれ三つに区分を一応しただけです。それをなんですか、やめる。それから今度は「念・想・観」とありますけど、この念・想・観というのは「念」の字はですね、ただ一念、ポッとこう起きた。それから今度は「想」の字は、その念の起きたものをこういくつか繋いでですね、文章をこしらえたんです。一つの文章をちょっとこうこしらえるほどですね。これとにかく思いをこう重ねたんですね、いくつか。それを想と言うたんです。それからそれをハッキリとこう明文にするほどしっかりこう区分けをつけたのが「観」と言われる。念、想、観。これ別に言うてみてもそんな程度のもので、別にそれがどうというんじゃないんです。そういう働きがあるから、それを今まで習慣として使ってきてですね、それに迷わされておるからです。それが自分たちの本当の生活の真相であるがごとくに思い誤るところがあるからですね、それでそれをここで警告せられたんです。これ、経験者がですね、示されたんですから、もう絶対にもう間違いのないっていうことを信じてください。

そしてひどいのはご覧なさい、みんななんですか、理想を持ってるんですから、仏のごとく成りたいという理想を持ってる。それでその理想を持っておるんですけれども、そういう理想さえですね、それを使っちゃダメです、言うんです。こうなったら人間どうなります、ここですよ、一番問題なのはね。「作仏と図ることなかれ」、仏に成ろうとも思うな。そういう考えがあるとですね、本当に成りたいんじゃったらです、ここを間違えちゃいかんです、仏になるなということじゃないですよ。成りたいという要求があるから、それでその要求を満たすのには、考えておったってダメですよとこう言われる。そうでしょう、考えておることじゃなくて、それをいきなりそのまんまズバッとこうやるということなの。それですから、例えばね、こうやって坐っておるね、立ちたいな立ちたいな、思ったって立たなければその思いというものはご覧なさい、一つも成就しないんです。成功しない、思うとるだけ。そこでそういう思いのあるがごとくですね、思うよりもいっしょにこう同時に、思えると同時にポッと立ちさえすればご覧なさい、考え方じゃなくて、立てばそのまま直ぐにそのものです。で、そういうふうなことがあるからですね、作仏と図ることなかれ。要らんことをその、考えてぐずぐずしとるよりも実際にこうやんなさいということです。


『信心銘』という三祖大師(三祖鑑智僧璨(かんちそうさん)大師)の言われておるものの中にですね、「真(しん)を求むることを用いざれ」真実ですよ、みんなが真実、真実言うておるものを、求むることを用いざれ、「ただ、すべからく、見(けん)をやむべし」ってこう言ってるです。「考え方」をやめなさい、そうすると直にそのまんま真実なんですよ。そういうところとおんなじです。それほど古人は自分の経験の上から、もうキチンキチンとこうしておられる。道元禅師ご自身が経験をせられたその上から、これが出たんです。それだからこれを本当ーにみなさんがおやりになりさえすれば、否でも応でも自分のはじめっから「道本円通どうもとえんづう」とありましたように、道としてこれが出来上がっておる自分にぶつかる以外に行きどころはないんです。


そんなにハッキリしてるんです。そこで「あに、坐臥に拘(かかわ)らんや」ということはですね、そういうふうなわけですからね、もう一切の人間的なこの欲求としての、なんですか、考え方をみなこう捨てといて、それでいつも話しとるように、この全機能ですよ、自分の全体の六根として、六官としての機能自体にですね、彼自体に本当ーに任せ切って。任せる言うとまたみんな問題あるようですけれども、それ自体の活動です。任せるの任せないのいうのは無い、これはそれ自体の活動。それがそのまんまにおかれると、今度は環境の方だってそうでしょ、向こうもなんともない。この道具立てもなんともない。それでなんともないものどおしが、ただ縁に触れてこうやって活動を始める。そういうふうに本当に出来ておるからですね。それですからそれを寝ても覚めてもということです、これね。今度はこれ坐禅しとる時じゃなくて、寝ても覚めてもいつでもそうやって気をつけておってごらんなさい、必ずそのものにハッキリとこう目が覚める時がありますよ、いうのがここの言い分です。


それでこれに対して、曹山(そうざん)大師という方がいますが、その曹山大師がね、「四禁」ということがあるです。四つのやめてもらわにゃならん、そういう条件がある。それはこれ、だいぶ進んだ人なんかのところに適用するところですけどね。
これ、「心処の路を行くこと莫れ」。ね、考え方の世界ですべてを取り扱いながら生活しちょる、そんなことをしたらダメですよ。いいですか。人間の考え方としての世界で生きておったら、この坐禅の目的、自分の本質というものは、もう絶対に見つけることのできないものです。こう言われておる。


それから今度はね、「本来の衣を掛くることなかれ」。ね、本来、本来言うもんですから、すぐにそうか、「本来」っていうそういう、今度は「本来」という概念を持ってすべてがこれが「本来」じゃーいうてこうその見ようとする。そんなことやっとるとやっぱり考えの上じゃからそれもつまらん。それから「なんぞ用いん、正恁麼しょういんも」。ね、これ「正恁麼」と言うた、「今!」って言ったら、そういうことがそうじゃということなんです。ね、そのことがそのことじゃ、こういうことなんです。ところが、それなんかでもですね、「そのことが、そのことである」という概念で「そのこと」をこう処理していくと、やっぱりそれも人間の考え方です。これもつまらんです。

ところが言葉がそういうふうにたぐるように出てくるとね、本質的なもののような気がするんです。多くの人がみなそれでやられてしまう。それですから「切に忌む」、もう最後に言われたんです。

「切に忌む、不生(未生)の時」。なーんにも起きんときが本当なんじゃーいうてですね、そういう考えを起こして、そしてこれなんにも起きん時が本当なんじゃーいうので、その「起きん時、起きん時」っていうそういう考えをもってこういつもこうやってる。作りごとなんですよ、みんなそういうように。

ところがそれが分からんのですわね、人間には。そういうところに坐禅をするのにみんながその困るところがあるんです。だけれども、とにかく心得としてこれを本当にこうやってもらわなければならん。

そのついでに話しますのはね、あの六祖大鑑慧能禅師と言われる方が坐禅をせられて、そして大悟をせられて。大悟せられて許されたもんですからね、そこからしばらくその世界をこう離れた。

それはどういうことか言いますとね、六祖という方はあまりその大層立派な生活をした人でなかった。ところがその人が大悟をした。それからその前に、則天皇后の師でありするような、立派な神秀上座という方がおられた。その方と一緒に、なんですか、七百人からの坊さんの中でこう生活をしとったんですけれども、そのうちに今の五祖弘忍が六祖[慧能]を印可してですね。あ、よしっというのでこう印可された。

ところが神秀という人の方は本当のことを知らん。やっぱりどこまで行っても「考え方」の世界ですから、離れることができんからですね。それだけ立派な人であるんだけれども、それを印可しなかった。

そこで五祖が心配をせられたのは、いやこりゃ大変なことになってきた、こんなことをしたらこれは殺されてしまうかしらんというので危ぶまれてですね、この大事なのを殺しちゃいかんいうのでこういう逃がされた、(舟で)送っていかれた。

そしたらそれを聞いたですね、将軍の、元軍人上がりの力のある人が、明(みょう)上座と言われるので出家したのがおったです。それがその逃げて行った方向を知ってですね、そして後をこう追っかけていく。そして[五祖から六祖慧能に]鉄鉢と袈裟とを伝えられたもんですから。法を伝えるということはその釈尊から来た鉄鉢と、そして袈裟が本当の伝えた道なのだ、そういうふうにこう思い違いをしてですね。それさえ奪い取りさえすれば法は自分のものだ、いうような考えを起こしたんです。それでそれを奪いに行った。

それでそれを六祖が知られたもんですから、いやこれは危険なことになったいうので、その鉄鉢と袈裟を石の上へこう置いてですね、岩の上へ置いて、それでずーっと身を隠された。そしたらそれを明上座が来てですね、奪い取ろうとした時に、六祖が言われるには、
それはワシには用はないんです、ただ悟ったーという印に向こうがくれただけで、ワシのためにはそういう印があっても無くてもどっちでもいいんじゃ、持って行け。


そう言われたもんですから、もうギャフンとしちゃったんですね。それが法だと思っておったのがそんなものはカスであって、ただ印じゃ言うて言われたから、どうしようもなくなったです。それで初めて目が覚めたんです。そうか、法というものはそういう人間に対する真相としてのものにあるのかーということを初めて知ったー言うておりますわね、明上座という人。


その時に懺悔したもんですから、私はそれが本当は欲しくて来たんだ言うと、あぁそうかー、そんなら話してやるいうので出てきてですね。それじゃーお前に尋ねるけれども、「不思善、不思悪(ふしぜん ふしあく  善を思わず、悪を思わず)」というんですから、それですからいいとも悪いともですね、人間のそういう見解を用いない時の自分はどうなんじゃ? これを自分と思うたから自分なのか? なーんとも思わんでも自分なのか、どっちじゃ? そしたら、あー別にどうも思わんでもこれはこれに違いないです。


そういうふうなところに「不思善、不思悪、正恁麼[しょういんも](与麼よも)の時」ですね。「那箇(なこ)か是れ上座本来の面目」。お前の真相というものはそういうところにあるんじゃー言われてですね、初めて今までの考え方が間違うておったーね、修行の方法が間違うておったーということを知ったんです。そういうことがあるんです。そういうところにここに「善悪を思わず、是非を管することなかれ」。それで「心意識の運転をやめ、念・想・観の測量をやめて、作仏と図ることなかれ」。こういうことがその言われる所以です。


それあとは「尋常(よのつね)、坐処には厚く坐物を敷き、上に蒲団を用う」。こうありますが、これはね、今みなさんこう下に座布団を敷いて、そしてその上へ坐蒲が乗せてあるでしょう。下の敷物、それから上の坐蒲。それをここで言われたんです。それで、もうこれは私ちょうど[東京都港区]芝の青松寺(せいしょうじ  僧堂)に、北野元峰禅師のおられる時に垂示を受けたんですけれども。昔の人は真剣であっただけにですね、石の上へ行ってもどこでもこう坐禅せられたというです。それで痔を悪くせられた。その話をよくしておられましたけども。だけどやってみて、そういうつまらんことをするよりも、本当ーに健康を保つべくですね、下には十分に敷物をして、健康を損ねんようにして、そして坐禅をせい。それでも必ず悟れるもんじゃー言うて、その北野禅師はよく垂示をしてくれられたです。


そのとおりにですね、本当に健康を損ねるとつまりませんから、下に都合によりゃこれ、七枚まで許されてたんです、下の布団は。それから上に坐蒲をおいて、そして坐る。そういうふうなこの注意までしておられるですね。


それで「或いは、結跏趺坐、」ですね、「或いは、半跏趺坐」ですね。言うのは、これはここに書いてあるとおりにですね。いわく結跏趺坐は、まず右の足をですね、左の腿の上に置き。それから左の足を右の腿の上にこう置く。そしてこう組む様子ですかね。


それから左の足の上に右の手を置いてですね、そしてその右の手の上に左の手をこうもっていく、いうようなことがこうあります。左の足を右の腿の上に安ず。それから半跏趺坐ということは、ただ左の足を以て右の腿の上にこう置く。都合によりゃそりゃ足痛くなりゃ変えてもいいですね。



そして「寛く衣帯(えたい)を繋けて、斉整ならしむべし」とありますからね、こう着物なんかダメです。帯なんかでもね、あんまりきつくしめちゃイカンのです。これ、楽に、あんまりあの締めんようにですね、落ちん程度にこうやるぐらいに、ゆったりとこうするとええんです。下の方でも。それで上もそのとおりですね。窮屈なことをやりますと、それだけ始終気に掛かりますから。斉整ならしむべし。そして次に、右の手を左の足の上におき、そして左の掌を右の掌の上にこう安ずる。こういうふうに。そして「両の大拇指、向かいて相さそう」とありますが、こういうふうに、この法界定印といいますけども、そういうことをやる。


すなわち正身端坐して、左に傾いてもいかんが、右に傾いてもいかんが、前にくぐまっても、あんまり乗りすぎてもいかん。

これ乗り過ぎるとね、昔のあの体操なんか「気をつけー」いうようなね、きちーんとこうやりすぎたり。ここちょっと押されたら後へすぐひっくり返るような体勢です、不安定なんで。


そうじゃなくてですね、どっちからどういうふうに押されてみても、ちゃんとこうしてるような体勢があるです。その体勢におるという。


「耳と肩と対し、鼻と臍(ほぞ)と対せしめんことを要す」。それの様子をですね、真っ直ぐになるということを、耳と肩と対し、鼻と臍と、それが真っ直ぐにこうなった様子である、そういうふうにこう言われたですね。


これ坐るのにね、足をいっぺんこんなにせられたらですね、組んでね、それで蒲団の上へその安定を保つためにね、一応尻をこう据えたら、前へね、こうーやって一遍かがみ込むようになる。こうーして前へずーっとそのまま。

そうすると、そうするとお尻の位置がちょっとこう出るです。それで出たときに、それをそのままぐーっとこう起こして、それで真っ直ぐそのままこう上へ全体へこう乗せた様子です。


そういうふうにすると身体が自然に落ち着きますわね。そうするとまあ、あのこんなことはなんなんでしょう、口するような、みなできるはずですわね。「舌、上の顎に掛けて」。ことさらに舌、上の顎へくっつけよういうような、一緒のことやると思うてやるとダメなんです。そんなこと要らんことです。そっとただ口をすぼめばですね、これにあるとおーりのことがこう自然にできるようになってるんです。


それだから、それは心配せんでもいい。

それから「目はすべからく常に開くべし」。それでこれを半眼に言うたりなんか言うたりね、鏡を持ってきてですね、そして前を見て、半眼か半眼でないか、本当の坐禅か坐禅でないか、そういうようなもう形式だけに一生懸命するようになってですね、真面目にやっとる人がいる、それはつまらん話です。


これは一応の様子で、あんまり向こうの方を見ますと言うと心が散る。そういうことがあるから、あんまり向こうをこう見よう見ようって見ないで、自分の膝先からなんですか、1メートル半ぐらいなところを見ます。そうな程度の所にこう自然に落とす、そういう態度でおやりになればいい。


それから「鼻息微かに通じ、身相を調えて、欠気一息して、左右揺振し、兀兀として坐定する」と。こういうことがありますけれど、これは身体を調える上にですね、呼吸がいっぱいこうその悪気がこもっとる言いますかね、それがいっぱいになってる。それですからね、その時に心を沈めるためにね、あるだけの呼吸を全部こう口からですね、ハーーー、こうソーーっと吐き出してしまうんです。それを二ー三回やって、それで二ー三回やりますと胸がこう楽になる。そしたらその後はね、ただ自然の呼吸そのものにこう任せてやっておれば、呼吸はそれでこういいです。そうすると楽になります、呼吸が。そうして今度は「左右揺振し」とありますから、なんですか、この左右に初めに大きくこう振ってですね、そしてだんだんにこう小さくして、調えてきちんとしていく。それをこれ言われただけですね。こうなりますと言うと、安定したこう坐り形をしているんです。きちんとしてる。もうそれをここで「兀兀として坐定する」という形容をせられたんです。山がなんですか、不動のように、私どもをもう本当にこう安定し切った身体のおき方、そういうふうなことをこうやって示された。それによってコノモノを調えていくわけですね。


それですからその後で、それじゃーどうするのかー言いますとね、ここは今度は大切なとこですね。「箇の不思量底を思量せよ」。この不思量底を思量せよ。「この」ということ、そのことが非常に大切なんですね。それで今これ「この」っていうことは、もう言葉を変えますとね、「今」。この自分の「今」の様子を、それを本当ーにということです。この「今の」ということは一体、人間の考えた「無」だろうか、考えない「今」なんだろうかいうことでしょう。この「不思量」というた考え方を超えた、今のいちいちの動き方ですよ。それでそうです、この不思量底を思量せよいうのは、その様子をよーくこう見なさい。縁に触れて、すべての縁がそうですよ。すべての縁がですね、こう入るようにその事柄なんかご覧なさい、あなた方が思ったからそれがあるんじゃない。思わんでも必ずそういうことがこうあ、みなさんのとこに直ぐこうある。万事そのとおりですね。今この音ばかりじゃない。それをこっちの音を心配せんでもええ。ただみなさんのところにですね、今みなさんのところにあるこのコン!っていう音。それが大事なんです。


それはどうしたのか。どうしてこの人がですね、こうやりゃそうならにゃーならんのか、それでどこで成ったのか、どこに傷がついてるか、前後に何があるのか、一切なんでしょう、そういうのなーんにむ無しに、ただこうやりゃそういうことがコロっとこうあるだけで。そういうふうに出来上がっておるところに「不思量」ということがある、考え方じゃありませんよ。それだから心という、この「思い」と言われておるもの自体がですね、初めからそういうふうにこう出来てるものなんです。ね、「思い」と言われる作用がある。ところが、その作用に今まで多くの人がみな振り回されて、それを追っかけてばっかりおるから、それで分からない。ほんとに。こういうふうに言いよるです。「思いこそ、思い離れし、思いなれ」。「思いこそ、思い離れし、思いなれ」。思いであるということですよ。本当のあの、徹するとそういうことがこう、自分をいっぺん離れてみるとそういうことがよく分かるんです。


それで、要は今のように本当ーにただそのことがそのこととしてある。それがこう思い自体ですね、思い自体。これしばらく初めの間はこういうふうに、してごらんなさい。このすべての在り方というものは、なるほど思ったからあるんじゃない、思わんでもちゃんとあるんです。そんなら思う必要が無いということですね、ことさら。ね、思いによってどうのこうの言う必要がない。その必要が無いということが分かるのが、不思量を思量するという、こういうふうにいっぺん離してみるとそういうふうな言いようです。ところがそれを本当にやってみるというとなに、「思い」と言われておるものも実は人間の考え方によって生まれたんじゃなくてですね、自分の都合のええようにそれが生まれて来て思うことで生まれて来たんじゃなくてですね、必然にはじめからこう具わっておる相なんですよっていうことが、これ言いたいとこなんです。それだからそれに意を本当ーに自分で徹見をする、それが大事なんです。


それで次へ行きますと、それだから「不思量底、如何が思量せん」というですね。不思量というたら、それじゃーどういうふうに思量するのじゃー言ったらですね、「非思量」とこういう。そうです、はじめから思量というもの、「非」の字はね、これ「超越」なんです、離れてる。非・思量。ね、思量、自分の考え方から離れてる作用ですよっていうことなんです。「非思量。これすなわち坐禅の要術なり」。こういうふうにすると、人間の身体も離れるがですね、身体というものからも離れるが、心としてのものからもすっかりこう離れることができる方法なんです。両方とも離れてしまう、自然に。そうして初めて、真に徹するということがあるです。それだからここは非常にこう大切なところであるから、十分に気をつけてやってほしいというのがここの大体の様子ですわね。


それから「所謂、坐禅は習禅にはあらず。ただこれ、安楽の法門なり。菩提を究尽するの修証なり」というようなことがありますが、これはなんですか、今言うところの坐禅というものは、みんながね坐禅坐禅いうて、何か訓練するように思うんです。心を鎮めるとかね、なにやらそういうふうな手段のために訓練をして、これを立派なものにこう仕立て直そうとするようなそういう修行を、多くの人がしようとするけども、それはもう見当違いですよ。そうじゃーなくてですね、完全なですね、はじめからそうですよ、こうやって「道本円通」とあるように私どもこう完全にもう出来上がってるんです。最初から間違いの無いように出来てるんです。


それを間違えたのがね、人間が物心ついたその時点から、自分で要らんことをこう思うて思いはじめる、それを思うたために事実をみんーなこう失って、そして後は全部考え方に転換をしたんです。変なんですわね、事実があるのにその事実を無視して、そしてこんどは考え方の上ですべてをこう見てるですね。そしてそれが本当だーというふうに、人類すべてがそう思い込んでるんです。それでそれを一生懸命に時間掛けて、教育受けてですね、立派そうな言葉で人を迷わしてるじゃないですか。人間的に言うとそうなんですよ。この仏法の上から言うとね、みんーなそれによってえー、迷いをなんですか、立派な学問としてのですね背景をつけてますますそれを強固にしとる。それは迷いであるということを知らんからです。


それで今になってですね、人は如何にあるべきか、これはどうしたら本当なのか、人間のこの「考え方」から離れて徹し得るものか得ないものか。そんなことが出来るもんかーいうて、現代言うとるのはみんなそれです。


人間に人間の考えから離れて生活ができるってのは、この真相にぶつかるいうそんなバカなことが出来るもんかー言いたくなるのもそれです。


それは経験者がいないからです。ところが経験をするとそういう事実があるです。

それが釈尊の教えであり、祖師の教えなんです。

「欲にあって禅を行ずるは、知見の力なり」ということがありますけどもね。この人間の欲、欲の世界ですから、今のように考えから離れるということはできんとこう思うです。ところがそういう中においてですね、経験者がちゃんとその場所を知ってるです。こうすればこういう世界からもチャッとこう抜けれるんだという事実を知ってる。それが欲にあって禅を、欲界にあって坐禅ができるものである。そういうことを見つけたのが、釈尊の大悟せられた知見によって初めて得られたのであるということですね。それはまたできるんです。


それだから「習禅」ではないんです。そうしようとする何かこう立派なものに訓練しようとするその心を捨てて離れてる。そうすると自然に、着物を脱ぐとなんですか、裸体がこう出てくる以外には何にもないです。それはね、多くの人が透き通ったようなですね、着物をたくさんに重ね着をするんです。そして本当じゃー本当じゃー言うとか、重ね着をするからいよいよ分からんようになる。そういうところに大きな見当違いがあるですね。それだからそういうことを一切やめるところに「ただこれ、安楽の法門なり」。


こういうことがあるです。それで「菩提を究尽するの修証なり」ということは、菩提ということは道ですね。コノモノ自体の本質としての動きが、このようにですね単直にね、究尽するというんですから、もう尽くされておるじゃないですか。尽くされておるということはどういうことか言ったらですね、いいですか。みなさんの生涯のですね、現在を通じて前後に生涯必ず間違いの無いということがですね、私が「おい!」って言ったらですね、声は必ずそのように届いて来てる。動くように出来てるんです。それが菩提を究尽する様子です。もう既に尽くされておる。ところが、それが納得がいかんのでしょう。考え方が離れないと、それはなんとしても納得がいかんのです。

それで仮に知識的に自分で「そういうものじゃー」いうて、知見として決定をしてみても、どーもそこにね、それに違いないと思いながらですね、疑いが残るということが、自分が本当に死なんからです。この自己が本当に死んでしまう時節がなかったら、それは信じれるものじゃないです。仮に信じてみても、それは自分の力で押し切っとるだけです。それじゃから押し切っとることまで知ってる、それですから必ず根底に動揺がある。「動揺起こすことない」と思って努力せにゃならんような気持ちが起きるぐらいつまらん話です。そういうところに「菩提を究尽するの修証」ということがありますけれども。これ「修証一如」なんてことがありますけど、修証とはどういうことを言うのか言ったらですね。修というのは、修証一つなんですよ、二つあるんじゃ、ないんです。修行と悟りと二つあるんじゃないんです。この今の様子がみなさんのところにある。それを対象にして「そう成ろう」、そう思うのが修行という態度です。修めようというんです。ところがです、はぁそうかーいうてこれ、それ証拠です。それを素直にそういうふうに、はぁそうかーいうて本当にこう受け入れる力。それは自己が無くなってからでないと、それが本当ーには受け入れられんものです。受け入れてみても、やっぱり修行としての「修」と同じような態度で「そうじゃー」って思う程度に成ってしまう。それじゃーつまらんですわね。


【注 意】これはブログの管理人(投稿者)が、動画を聴いて独自に文字起こしをしたものです。動画についている文字起こしや書籍 井上義衍『普勧坐禅儀』(龍泉寺刊)になった文字とは相違点がある場合があります。また校正不足の点があるかもしれません。ご容赦ください。



【編集後記】
この記事はすでに井上貫道老師や松本自證師に参禅されている方のためのものではありません。
インターネット上で明眼の師を探している人のために書いています。

昭和の時代に、大悟徹底の方が出られました。
その方が井上義衍老師です。
老師が住職された寺院は大本山ではなく貧しい地方寺院で、
専門僧堂でもないのに
そこに全国から修行者が集まりました。
住職資格のためでなく、本当の法を求めた求道者が集まったのです。

ある時は、食事のおかずは皆で玉ねぎ1個を分け合ったと言われています。
また来客があっても水しかおもてなしすることが出来なかったと伝えられています。

何よりも法を重くした結果、仏道が見事に復興し現代まで伝わっています。
そのお一人が井上貫道老師です。

修行の疑問があっても残念ながら、釈尊は答えられないですし、道元禅師に著作がたくさんあっても質問出来ません。
井上義衍老師の提唱もたくさんの本になっていますが、それを読んでも分かりません。
義衍老師が大悟徹底であったことは感じ取れても、肝心の修行上の疑問は解決されません。

ですので、真に求める方は、井上貫道老師、松本自證師に参じられることをおすすめいたします。
どちらの方も、リアルの坐禅会とZOOMオンライン坐禅会をされています。


釈迦牟尼如来から玄魯義衍老師までの法の伝わり方

釈迦牟尼如来⇒2代・摩訶迦葉尊者⇒……⇒28代・般若多羅尊者⇒29代・菩提達磨大師⇒30代・二祖慧可大師⇒……⇒33代・大満弘忍禅師⇒34代・大鑑慧能禅師(中国第六祖)⇒35代・青原行思禅師⇒36代・石頭希遷禅師⇒37代・薬山惟儼禅師⇒38代・雲厳曇晟禅師⇒39代・洞山良价禅師⇒……⇒51代・天童如浄禅師⇒52代・永平道元禅師⇒53代・孤雲懐奘禅師(伝光録はここまで)⇒……⇒55代・瑩山紹瑾禅師⇒56代・明峰素哲禅師⇒……⇒86代・玄魯義衍老師⇒87代・井上魯山貫道老師


傳光録の歴代の数え方(釈尊を含まない)とは1代ずれます