道元禅師『普勧坐禅儀』を井上義衍老師が提唱

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道元禅師『普勧坐禅儀』井上義衍老師提唱 その1


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道元禅師『普勧坐禅儀』井上義衍老師提唱 その2




『普勧坐禅儀』井上義衍老師提唱 その2の文字起こし

[本 文] それ参禅は、静室よろしく、飲食節あり。諸縁を放捨し、万事を休息して、善悪を思わず、是非を管すること莫れ。心意識の運転をやめ、念・想・観の測量をやめて、作仏と図ること莫れ、あに坐臥に拘らんや。

よのつね坐処には、厚く坐物を敷き、上に蒲団を用う。あるいは結跏趺坐、あるいは半跏趺坐。いわく結跏趺坐は、まず右の足をもって左の腿(もも)の上に安じ、左の足をもって右の腿の上に安ず。半跏趺坐は、ただ左の足をもって右の腿を圧すなり。 

寛(ゆる)く衣帯をかけて、斉整ならしむべし。次に、右の手を左の足の上に安じ、左の掌(たなごころ)を右の掌の上に安じ、両の大拇指、面いて相(あい)拄(さそ)う。すなわち正身端坐して、左に側ち右に傾き、前に躬(くぐま)り後に仰ぐことを得ざれ。耳と肩と対し、鼻と臍(ほぞ)と対せしめんことを要す。舌、上の顎(あぎと)に掛けて、唇歯相著け、目は須らく常に開くべし。

鼻息微かに通じ、身相既に調えて、欠気一息(かんきいっそく)し、左右揺振して、兀兀(ごつごっ)として坐定して、箇の不思量底を思量せよ。不思量底、如何が思量せん。非思量。これすなわち坐禅の要術なり。


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まあ一応そこまでにしときましょう。「夫れ参禅は、静室宜しく、飲食(おんじき)節あり」。「それ、参禅は」とこうありますけど、参禅という言葉、その言葉はね、あれはそのものになるということなんです。参の字は「そのもの」ということですね。それですから禅そのもの。他にこう何にもあるんじゃないです。それだから、坐るときに坐る、話をするときに話をする、そういうことがこう、ただその時その時の因縁生としてこう次々こうあって、それでそのまんま終わりなんです。そういうふうに、ずーっと行っておるのが禅の様子ですね。本当の教えというものの真相はそういうところにあるから、それで「参禅」という言葉を、そのものと一つになっておる様子を言ったものです。



それで、坐禅をする上に考えなければならんのはですね、ここにあるように、初めの人たちは騒がしい場所ではこう、坐禅ができないんですよ。坐禅ができないんですよ。そこで、静かなところに行って、そしてはじめに坐禅を始める、そのためには暴飲暴食をしますと言うと、眠くなるしですね、いろんな関係でどうもうまく行かない、こういうことがあるから、それで食事の方面についても考えなければならんということが出たわけでしょう。



それからその次のことが大切なんです。一番大切なのはこれからですね。「諸縁を放捨し、万事を休息して、善悪を思わず、是非を管すること莫れ」。「諸縁を放捨し、万事を休息して」、「善悪を思わず、是非を管することなかれ」。これが坐禅の最初の人の心掛けとしての、大切なところです。なぜこういうことが出るか言いますとね、私どもでもそうです、これ自分の家におるとね、坐禅しておっても用がたくさんできてくるです。不思議に用ができるです。相手の人がこうたくさんありますからね。それだからコツンという音がしても、すぐにそれにこう責任があるから、チャッとそれを感ずる、そういったようなことがなんぼでも起きてくるもんです。それで足が痛いとか何か言うので、すぐ用事をこう思い出して、そうしてその用事の方に重きを置いて、坐禅をやめて逃げていく、こういうことができてくるです。



ところがこうして、なんでしょ、自分の家を離れてしまって、別な所においでになると、そういう気が一つも起きんのです。不思議に。起きてみてもどうしようもないです。それですから自然にそこに落ち着く様子がある。それですから自分の家を離れるということは一番ええんですね。それで坐禅の道場に入って、それでその道場で生活するということが一番都合のええ、それが「諸縁を放捨し、万事を休息して」ということです。一切、今までのことを全部を払い捨てる、ただそこの状況だけでこう行ける、これが環境としての、一応の様子ですわね。


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それから「目はすべからく常に開くべし」。それでこれを半眼に言うたりなんか言うたりね、鏡を持ってきてですね、そして前を見て、半眼か半眼でないか、本当の坐禅か坐禅でないか、そういうようなもう形式だけに一生懸命するようになってですね、真面目にやっとる人がいる、それはつまらん話です。


これは一応の様子で、あんまり向こうの方を見ますと言うと心が散る。そういうことがあるから、あんまり向こうをこう見よう見ようって見ないで、自分の膝先からなんですか、1メートル半ぐらいなところを見ます。そうな程度の所にこう自然に落とす、そういう態度でおやりになればいい。




それから「鼻息微かに通じ、身相を調えて、欠気一息して、左右揺振し、兀兀として坐定する」と。こういうことがありますけれど、これは身体を調える上にですね、呼吸がいっぱいこうその悪気がこもっとる言いますかね、それがいっぱいになってる。それですからね、その時に心を沈めるためにね、あるだけの呼吸を全部こう口からですね、ハーーー、こうソーーっと吐き出してしまうんです。それを二ー三回やって、それで二ー三回やりますと胸がこう楽になる。そしたらその後はね、ただ自然の呼吸そのものにこう任せてやっておれば、呼吸はそれでこういいです。そうすると楽になります、呼吸が。そうして今度は「左右揺振し」とありますから、なんですか、この左右に初めに大きくこう振ってですね、そしてだんだんにこう小さくして、調えてきちんとしていく。それをこれ言われただけですね。こうなりますと言うと、安定したこう坐り形をしているんです。きちんとしてる。もうそれをここで「兀兀として坐定する」という形容をせられたんです。山がなんですか、不動のように、私どもをもう本当にこう安定し切った身体のおき方、そういうふうなことをこうやって示された。それによってコノモノを調えていくわけですね。




それですからその後で、それじゃーどうするのかー言いますとね、ここは今度は大切なとこですね。「箇の不思量底を思量せよ」。この不思量底を思量せよ。「この」ということ、そのことが非常に大切なんですね。それで今これ「この」っていうことは、もう言葉を変えますとね、「今」。この自分の「今」の様子を、それを本当ーにということです。この「今の」ということは一体、人間の考えた「無」だろうか、考えない「今」なんだろうかいうことでしょう。この「不思量」というた考え方を超えた、今のいちいちの動き方ですよ。それでそうです、この不思量底を思量せよいうのは、その様子をよーくこう見なさい。縁に触れて、すべての縁がそうですよ。すべての縁がですね、こう入るようにその事柄なんかご覧なさい、あなた方が思ったからそれがあるんじゃない。思わんでも必ずそういうことがこうあ、みなさんのとこに直ぐこうある。万事そのとおりですね。今この音ばかりじゃない。それをこっちの音を心配せんでもええ。ただみなさんのところにですね、今みなさんのところにあるこのコン!っていう音。それが大事なんです。



それはどうしたのか。どうしてこの人がですね、こうやりゃそうならにゃーならんのか、それでどこで成ったのか、どこに傷がついてるか、前後に何があるのか、一切なんでしょう、そういうのなーんにむ無しに、ただこうやりゃそういうことがコロっとこうあるだけで。そういうふうに出来上がっておるところに「不思量」ということがある、考え方じゃありませんよ。それだから心という、この「思い」と言われておるもの自体がですね、初めからそういうふうにこう出来てるものなんです。ね、「思い」と言われる作用がある。ところが、その作用に今まで多くの人がみな振り回されて、それを追っかけてばっかりおるから、それで分からない。ほんとに。こういうふうに言いよるです。「思いこそ、思い離れし、思いなれ」。「思いこそ、思い離れし、思いなれ」。思いであるということですよ。本当のあの、徹するとそういうことがこう、自分をいっぺん離れてみるとそういうことがよく分かるんです。




それで、要は今のように本当ーにただそのことがそのこととしてある。それがこう思い自体ですね、思い自体。これしばらく初めの間はこういうふうに、してごらんなさい。このすべての在り方というものは、なるほど思ったからあるんじゃない、思わんでもちゃんとあるんです。そんなら思う必要が無いということですね、ことさら。ね、思いによってどうのこうの言う必要がない。その必要が無いということが分かるのが、不思量を思量するという、こういうふうにいっぺん離してみるとそういうふうな言いようです。ところがそれを本当にやってみるというとなに、「思い」と言われておるものも実は人間の考え方によって生まれたんじゃなくてですね、自分の都合のええようにそれが生まれて来て思うことで生まれて来たんじゃなくてですね、必然にはじめからこう具わっておる相なんですよっていうことが、これ言いたいとこなんです。それだからそれに意を本当ーに自分で徹見をする、それが大事なんです。



それで次へ行きますと、それだから「不思量底、如何が思量せん」というですね。不思量というたら、それじゃーどういうふうに思量するのじゃー言ったらですね、「非思量」とこういう。そうです、はじめから思量というもの、「非」の字はね、これ「超越」なんです、離れてる。非・思量。ね、思量、自分の考え方から離れてる作用ですよっていうことなんです。「非思量。これすなわち坐禅の要術なり」。こういうふうにすると、人間の身体も離れるがですね、身体というものからも離れるが、心としてのものからもすっかりこう離れることができる方法なんです。両方とも離れてしまう、自然に。そうして初めて、真に徹するということがあるです。それだからここは非常にこう大切なところであるから、十分に気をつけてやってほしいというのがここの大体の様子ですわね。




それから「所謂、坐禅は習禅にはあらず。ただこれ、安楽の法門なり。菩提を究尽するの修証なり」というようなことがありますが、これはなんですか、今言うところの坐禅というものは、みんながね坐禅坐禅いうて、何か訓練するように思うんです。心を鎮めるとかね、なにやらそういうふうな手段のために訓練をして、これを立派なものにこう仕立て直そうとするようなそういう修行を、多くの人がしようとするけども、それはもう見当違いですよ。そうじゃーなくてですね、完全なですね、はじめからそうですよ、こうやって「道本円通」とあるように私どもこう完全にもう出来上がってるんです。最初から間違いの無いように出来てるんです。




それだから「習禅」ではないんです。そうしようとする何かこう立派なものに訓練しようとするその心を捨てて離れてる。そうすると自然に、着物を脱ぐとなんですか、裸体がこう出てくる以外には何にもないです。それはね、多くの人が透き通ったようなですね、着物をたくさんに重ね着をするんです。そして本当じゃー本当じゃー言うとか、重ね着をするからいよいよ分からんようになる。そういうところに大きな見当違いがあるですね。それだからそういうことを一切やめるところに「ただこれ、安楽の法門なり」。

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道元禅師『普勧坐禅儀』井上義衍老師提唱 その3




釈迦牟尼如来から玄魯義衍老師までの法の伝わり方

釈迦牟尼如来⇒2代・摩訶迦葉尊者⇒……⇒28代・般若多羅尊者⇒29代・菩提達磨大師⇒30代・二祖慧可大師⇒……⇒33代・大満弘忍禅師⇒34代・大鑑慧能禅師(中国第六祖)⇒35代・青原行思禅師⇒36代・石頭希遷禅師⇒37代・薬山惟儼禅師⇒38代・雲厳曇晟禅師⇒39代・洞山良价禅師⇒……⇒51代・天童如浄禅師⇒52代・永平道元禅師⇒53代・孤雲懐奘禅師(伝光録はここまで)⇒……⇒55代・瑩山紹瑾禅師⇒56代・明峰素哲禅師⇒……⇒86代・玄魯義衍老師⇒87代・井上魯山貫道老師


傳光録の歴代の数え方(釈尊を含まない)とは1代ずれます