坐禅の仕方と提唱を聴く時は何の準備もしていないーこれが心構え

坐禅のよくある勘違い
・坐禅中に思考考えを使っていると坐禅になりません。尋ねることをしない、伺うことをしない※んです。―井上貫道老師
※古来より、無尋定、無伺定 と言われている(第二禅)
・坐禅中に思いが起こってはいけない とは今まで一度も言っていませんよ
―井上貫道老師
・皆さん、坐禅をして思いが無くなるのが良いと思っていませんか?
思いが無くなったらもうここから帰れませんよ。「帰ろう」と思えないんですから、皆さん、ここに泊まっていかないといけなくなる。
今日は坐禅会に行こうと思えたからここに来れたんでしょう?目的地までの切符も買えたんでしょう?
―松本自證師(1961-)
・思いがなくなったらハッキリする(悟る)のではありませんよ。
◯◯が止む必要があるんです。 一度止む必要があるんです。
―松本自證師
・坐禅中に色んな事が思えて困りますって独参で言う人が多いですね。
でも、色んな音が聞こえて困りますとは言わないんです。
音も思いも同じでしょう?
本当は思いは自分が無いけど起こってるんです。
今みなさんは自分が居ないと思えなくてもいいですけど、自分の居ないところに思いが起こっているだけなんです。
・お釈迦様の悟りの内容は、ハッキリしない限り(悟らない限り)どんなに想像しても的はずれです
―松本自證師( というホームページがあります)
松本自證師は、井上貫道老師に師事して修行を終えたお弟子で老師から見性の証明を受けられている
松本自證師は、井上貫道老師に師事して修行を終えたお弟子で老師から見性の証明を受けられている
修行をするってことを勘違いしていませんか-ある日の貫道老師の提唱から
ある日に、貫道老師がとても大事なことを提唱されました。講本は、『永平広録』です。下記はその文字起こしtransciiptです
<ここから-->
[このZOOM参禅道場の提唱では]
えー、 『永平広録』を読ませていただいておりますけれども 最初に 皆さんに 知っておいてもらいたい大事なことがあります。
それはどういうことかと 言いますとですね。
当時この道元禅師が 宇治[ママ 興聖寺は当時は京都の宇治ではなくて深草にあった]の興聖寺に 住職をされて 折に触れて このように上堂といって、本堂の方に出て来られてお示しを 示して おられたわけですけども、 その時に 皆さん方 気がついているかどうかわかりませんけれども 今日道元禅師が どのようなことを お話になるかということは 全く皆さん方の中には想定外 ですね。 何も用意がないはずなんです。
当時この道元禅師が 宇治[ママ 興聖寺は当時は京都の宇治ではなくて深草にあった]の興聖寺に 住職をされて 折に触れて このように上堂といって、本堂の方に出て来られてお示しを 示して おられたわけですけども、 その時に 皆さん方 気がついているかどうかわかりませんけれども 今日道元禅師が どのようなことを お話になるかということは 全く皆さん方の中には想定外 ですね。 何も用意がないはずなんです。
そして、もちろん 書き物が、だからあるわけじゃない。 それを見て 聞くわけではない。
いいですか?
今は皆さん もうすでに今日ここをやりますよっていう 話が出されておって そこにどういうことが書いてあるかを 読んで 心構えをして そしてこれから話が始まる。ということで そういう聞き方をしているっていうことがもしあったら、これはもう 全くこの上堂の話を勉強する人ではないね。
これが 多分一番この『永平広録』を読むときに 大事なところだと思います。
学者はすでに この残された 文字を見て、そしてそれを何度も想像して いろんな面から追求しておりますけれども、本当に道元禅師の上堂の説法を お聞きになった人は 自分の中に 何もないのですよ。聞くときに用意が。
これは今日どうしても 何回もやって いますけども 話しておかなければいけない ことだろうと 思うので 最初に 挙げておきます。
これはこの 上堂に関したことばかりじゃありません。
皆さんの生活でもそうでしょう。
実際に今日の一日が どのように行われるかというのは。 本当は 道元禅師のこの上堂のお話を受けたまると同じように 過ごしているはずです。
何回も今まで見てきた 外の景色を今見るわけじゃないでしょう?
どうですか? え?
何回も聞いた人の話を聞くわけじゃないでしょう。
何回も食べてきた ご飯の味を味わうわけじゃないでしょ。
もう本当に初めてなんです。
みな、何もないところに すっとそのことがいきなり あるのです。
このことが今日説いていく中にきっと 似たようなことが説かれている と 思います。
ちょっと読ん でみますね。
読んでみますということは 今道元禅師が皆さん方に 生で。この上堂の様子を初めて皆さんに 伝えている ところです。
だから 本を見る必要は ありません。
で、聞いて想像をしていると どんどん話が進みますから。 ただ耳に聞こえるように いてほしい。
道元禅師の場合は 皆さん方が直に道元禅師そのものが 説いているところにおられたので音声だけでなく 映像もそのまま 一緒にいただいたということになるでしょう。
私が今日それを 再現してみます。
「仏種(ブッシュ)は縁従(ヨ)り起こり、仏法は頭(トウ)従り起こる」……(4分ほど講本を読む そこはtranscript 中略)……
皆さんもこうやって 生活しているところの様子を見ても 最初にちょっと申し上げたように。 いきなり今のところで 物事が すべて 発生するのですね。
何もしてないのに 目が覚めると目が覚めた様子がそこで行われる。
眼を開けると眼が開いたような活動がそこですぐ行われる。 こういうものが 仏法の真相でしょ。
仏法って特別な要素に何かがあるんじゃないですよ。 残念なことに仏 というような 文字を 聞いたり見たりする。あるいは法というような 音声を聞いたりすると 皆さん方に 概念が 何だか知らないけど概念がある。
道元禅師はこの上堂をして最初に 口を開かれるときに、もし皆さん方の中に 道元禅師が今日こういうことをしゃべられるというものを持って 聞いたり見たりするようなことがあったら ダメでしょう。 ないでしょう。
なのにどうしてあなた方はすぐ 仏法といえば すぐ 仏法らしい何かを頭に浮かべる、
仏の種、 仏種 ブッシュ大統領もいるかな。
仏種って 本当に何にもないところから ものを見るんだってそうでしょ 何か最初にものを見といて どうしてものを見ますか? 前に物を見てたものがどこかに 物を見る時に 出てきますか?
これが皆さんが本当に修行する時に どうしても はっきりしてもらわないと修行 にならないところでしょう。 工夫をするって言うんだけど 皆さんの真相は誰でもそういう風にできてるはずなんですよ、本当は。
[00:13:18]
「仏法 頭(とう)より 起こる」、いきなりと言っていいでしょう。 初めてと言っていいでしょう。
かしら、頭(あたま) というのは 最初の方の 先端を言うというふうな 意味合いがあるので この頭の字は、頭より起こるということは今ここで 活動が始まるという。
いつでも どんなに長い人生を 過ごしている人でも 必ず今ここで活動している様子が あるだけですよ。
かしら、頭(あたま) というのは 最初の方の 先端を言うというふうな 意味合いがあるので この頭の字は、頭より起こるということは今ここで 活動が始まるという。
いつでも どんなに長い人生を 過ごしている人でも 必ず今ここで活動している様子が あるだけですよ。
うん。
それだのに いろんなことを自分の中で 思い起こしてそこへ持ってきて教材材料を いっぱい持ってきて 火をつけてくべるようなことをするものだから 大変なことが起こる。(それだのに=それなのに 浜松弁・三河弁)
妄想と言われるような ものが 炎のように 燃え上がる。
だからこれを 吹き消すのを涅槃ねはん というのでしょう。 煩悩の炎を 本当に吹き消す。
それを 吹き消された状態を 涅槃と 言っているわけでしょ。
涅槃は 悟りです。 大悟です。 皆さん方の真相そのものです。
他にはない。
何で迷ったり 騒ぐことが起きるかというと、 何もないところから今の様子がこうやって出てくるから、 一切煩悩らしいものがついていない。
すっきりいつでもしてるはずなのにその様子に皆さん方は目覚めたことがない。
そういうところにほんとに自分の様子なのに そういうところに触れたことがない。

えー、
「良縁にあって 蹉過(しゃか)すべからず」とあります。 今こんな素晴らしい いちいちの様子に出会っている自分の様子が あるのにそれを ほったらかしておいて、他に何か仏法らしい 真実らしい本物らしいものを求めているような過ごし方をしているということが すべてのことでしょう。
ずれるということでしょう。 見ていない 聞いていないということでしょう。
本当に自分自身の真相そのものにいないということでしょう。
こういうことが 道元禅師がそこに修行に来ている人たちを相手に 指導される 一番の 重要な着眼点なんでしょう。
これで一日が過ごせるわけですよ。
修行するって どういうふうに本当にあったらいいか?こうやって一緒に 一日 道元禅師の下では多くの修行僧が育っていったのでしょう。
皆さん方はこういうことを朝起きた時にもうすでに忘れてるんでしょう?
自分自身の真相ですよ今。
自分自身の真相をほっといて、 何かよそに他のものを求めて、 自分の真相を本当に 自覚しようと 愚かなことをしたら、もはやどんなに時間をかけたって無理でしょうが。
今の様子を本当にはっきりさせるのに、 今の様子から目がそれたら離れたら 無理でしょ?
そんなものはもう言わなくたって分かりきってることでしょ。
そんなものはもう言わなくたって分かりきってることでしょ。
それでもこんなに道元禅師が言わなきゃならないということは ご自身だって修行がはっきりしなかった頃は 毎日こうやって過ごしてたんでしょう。中国へ行っても しばらくは。
まさに修行するということはどういうこと か? ポン(老師手をたたかれる)
「修行に折伏(しゃくぶく)あり接取あり」と あります。
言ってみれば皆さん方の中に 何か やめて。 そしてただそれだけを本当に触れるようにする。と いうようなものは折伏のうちに入りますからね。
接取の方はいきなり その自分の中に何か?余分なものがあるように思っている人は 少なくともそうやって 取り除くような気配を 感じるのでしょう。 使うのでしょう。
それは何もしないでいてくださいというような ことを言うのはそうでしょう。
何もしないでいてくださいということは 一切余分なものをつけないということでしょう。取り除くとかということさえもしないということは、何もしないでいてくださいということでしょう。
自分の中に 余分なものがあるように思ったり まだそこに徹していないものを感じた 人が いた場合に 何もしないで行ってくださいっていう指導をするわけでしょ。
皆さんそれを私 の方からそうやって指導しないと、自分の中でまだ徹してないという気持ちが起きた時に 何かやるやりだすでしょ?
このままではいれないと思って、徹しようとすること何か始めるでしょ。
それをやったら 今の様子から離れてしまうから、だから何もしないでいてくださいと言って 指導するんです。
それ折伏です。
接取ありとあります(ぽん)こうやってやったらいきなりその通りにちゃんと皆さん方が どうもしないのに、 でもどうもしないのに、 ちゃーんとその通りの生活ができている、 受け入れている、 それ接取でしょ。
その 接取の様子というものは、こういう中にですよ、 向こうで音がして、こっちでそれを聞くというような、 中間にですね、 境目が一つもなしに、 時間的な距離も なしに行われているということで、 そこが 大切なとこでしょう。
だから一切自分の見解らしいものが入らない。 そのまま、 そのことが、 いやをうなし。そのまま。寸分ずれなくそのまま。 どうもしないのにそのままいただけるようになっている。
そうやって 過ごしてご覧なさいよ。 それが工夫をするということです。
修行をするということです。
「在這頭而不可蹉過」、這頭にあって、蹉過すべからず。
そのようなところ 今話したような 今皆さんの生活している ところの様子、それは絶対 ずれがあるものじゃない。
蹉過すべからず。 ずれを生じたらおかしいのです。
そのようにまさに弁道をすべし。 そうやって 過ごしてほしい。
参師聞法と坐禅はどちらも欠かせない
そこで道元禅師は、弁道に修行あり工夫ありとおっしゃっておられる。
これは時々 よそでも話されたんだろうと思いますけども、参師聞法(モンポウ)と只管打坐。 これは車の両輪のごとし。 一方だけでは道は成就しないとよくおっしゃっておられる。
師に尋ねるー参師聞法
修行するのに 今自分が修行している中で はっきりしないところがあった どうしたらいいか?疑いがあったり いろいろなことが起きた時には、必ず師に参じてそのところを尋ねる、問う必要がある。
自己流で 自分で勝手にその自分の中に起こった 問題を 扱ってはならない。
只管打坐ー今の自分自身の真相のままに時を過ごす
そして只管打坐と言われている、本当に その打ち任せて今の自分自身の真相そのままにこうやって 時を過ごす ということが 修行する上においては欠かせないことですね。
今日までこうやって 触れ合って いるわけですけども こちらからは一応 坐禅をするとか、修行するということに関して 話はしておりますけども、皆さんの方から こういうことですね。これでいいですねって言って 尋ねて問う人は10人に1人いるかいないかですね。
不思議ですね。
よくそんなことで平気で毎日過ごせますね。
お買い物に行ったって。自分の買ったものと お金を払う 額はですね。 あの、ちゃんとしなければ 払ってこないでしょ。
相手が いくらいくらですって請求されたら、自分の買ったものも見ずにですね、それを そのまま 払って帰ってくるようなことはしないのでしょう。 そんな無責任な買い方はしないでしょう。
どうですか? いろんなことをするときでもそうでしょう。
必ずそうやってきちっと自分ではっきりしたところまでやって、過ごしているのでしょう。
参禅の時はどうして 坐禅ってどういうことをするんですかって どういうふうに毎日坐禅してるんですか?って聞いても 返ってこないですよ。坐っている割には。
どういうふうに坐ってるんだろう。
要するに言えないぐらいはっきりしないまま過ごしてるんじゃないですか?
真面目だって 真面目そうに見えるけど、本当のことを言ったら 大したことはないんじゃない ですか? (笑) え?
私がとにかく言うことじゃないですよ。
皆さん自分自身が自分自身で 坐禅をするときに本当にこれでいいのかって、その上で坐るのでしょう。
半信半疑で時を過ごしていたら いつになったって ダメでしょう。
こういうことがこうやって毎日言われるでしょう。
「一朝に打徹すれば、萬法圓成なり」
今朝(こんちょう)ですね 今朝(けさ)ですね。今ですね。今そのことが本当にその通りに。この信心に徹すれば その通り。
これは 一々ものの様子はそのままはっきり 間違いなくするに決まってます。
ところがそれがなかったら どんなことに対しても 自分の中で これでいいはずなのに 間違いないと思うんだとか いうようなものが チラチラしてるってことは、みんな 真実から ずれてるっていうことですよ。
蹉過(さか)する、納得がいかないってことはずれてるってことでしょ。
自分の中で今の生活してることに対して。
そういうものがあるから納得しないのでしょう? え?
今生活しているところどこにズレがありますか?
一切のものに対してズレはないでしょう。
事実の上にはズレがないが、思考・考えを相手にするからズレがある
あえて 申し上げるならば 事実の上にズレがないけども、皆さん方事実を相手にしなくて考え方を相手にするから ズレがあるんでしょう。
はっきりしなくなるんでしょう。
修行は考え方の上でやるんじゃないですよ。 考え方をもてあそぶことじゃないですよ、修行は。
<--ここまで>
以上は井上貫道老師の提唱の文字起こしです
「」内は『永平広録』15より
[以下は『永平広録』に引かれている則公監院(そっこうかんにん)の丙丁童子来求火(びょうじょうどうじらいぐか)の話をされています]
上記の文の貫道老師提唱の音声を聴く

