悟りを開いた人の特徴ー井上義衍老師と貫道坊や

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住職資格も取れない田舎の寺院に真剣な雲水・修行者が集まる

昭和25年(1950年)頃から、井上義衍老師(1894-1981)の浜松・龍泉寺には、専門僧堂でもないのに全国から真剣な雲水が集まり、老師のもとで修行をしていました。
この現代にお釈迦様と同じ悟りを開いた和尚がいるという噂が全国に広まっていたからです。

当時は鬼叢林(おにそうりん)と言って、悟りを求める修行者は福井県小浜の発心寺(ほっしんじ)僧堂に俊英の修行僧が集まったのですが、住職資格もまだ取り終わらないのに、そこを密かに抜け出て、井上義衍老師のお寺にやってくる人も多かったのです。
高僧たちの弟子なども師匠に内緒で、義衍老師に参じたと言われています。
内緒にしないと寺に連れ戻される恐れがあるからです。

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貫道老師の長兄である哲玄老師(1933-)が18歳で、發心寺僧堂に掛搭されていますが、間もなく修行熱心な先輩たちが發心寺の道場を辞めて独接心をするとか言って次から次へと浜松の方に行くらしいが、最初はそれがまさか自分の師匠の寺院だとは思わなかったそうです。


後年小浜の発心寺僧堂の師家になられた蜂須賀(はちすか)雪溪和尚(のちの原田雪溪老師1926-2020)も初期の参禅者の一人です。發心寺僧堂掛搭中に僧堂を出奔して、井上義衍老師の龍泉寺に行き逗留されました。
ちょうど同じ頃、臨済宗で印可証明を受けられていた森 敬宗老師(のちの青野敬宗けいじゅう老師)は最初どちらかと言えば疑っていました。
臨済宗でも明眼(みょうげん)の師は絶えていないのに、曹洞宗にいるはずがない、論破でもしてやるというような勢いでやって来ましたが、義衍老師との問答に破れ、その場で修行することを誓われたそうです。
色々な職業につく居士大姉の修行者もたくさん参禅しました。


しかしながら義衍老師のお寺は専門僧堂ではないので、一般からの供養もなくて食べ物にも困る状態。
拾った一個の玉ねぎを数十人の皆で分けて食べたり、お昼になっても食事の代わりにさっきまでボウフラのいた水を訪問者に供されるということもあったようです。
(雲水はお寺の経済の邪魔をしないように自主的に托鉢をしていました)

龍泉寺境内の阿弥陀堂(家康が敵から逃れるために籠もったとされるお堂)はもとより、近くの神社、臨済宗のお寺、黄檗宗の空寺だった空性寺(現在の浜松医大の下)、袋井(浜松の東隣の隣の街)にある龍果院などに3人、5人と分宿し、坐禅を続けていたと言います。
龍果院以外どの分宿所にも電気などなく、ランプ生活。

修行は、常接心と言って、一度禅堂に入るとみな坐禅をしっぱなしだったようです。
(そのうち、人数が増えるに従って、規矩(きく)が設けられて、今から坐禅です 今から経行(きんひん)ですというようになりました。
接心もやがて2ヶ月に一度になりました)


義衍老師と貫坊(貫道老師の子供時代)

義衍老師のご子息である貫道坊やは、昭和19年(1944)生まれ。2歳の時に母親を亡くされています。

貫道坊やに悟りを体現していた義衍老師の話が自然に身体に滲み込む

龍泉寺は山寺と呼ばれ、寺域[土地]こそ広かったのですが、当時の堂宇[建物]はたいへん狭かったのです。
子供の居場所が特にあるわけではないので、貫坊を義衍老師は自分の膝に抱っこして、雲水(修行僧)や居士・大姉(こじだいし)の方々に法を説かれていました。

修行僧との数々の問答を貫坊も聞いています。知らず識らず貫坊には実物を示す本当の仏道が伝えられていたようです。[この辺の事情を下記宗教誌の他のページに貫道老師が書いて居られるで、近日中にここに書き足します]

その頃の思い出を貫道老師が『禅と念仏』25号に寄稿されていました。
その宗教雑誌の存在を忘れていましたが、それを偶々最近見つけましたので、読んでいましたところ、貫道老師の寄稿がありました。

著作権もあるので、ごく一部だけ以下に紹介したいと思います。

悟りを開いた人の特徴

「老師はどんなものにも注意深く観察をしておられ、ものの心髄を見極める一方で、利用価値を知り紙一枚も粗末な扱いをせず、清潔でお洒落な方でした。書にも生花にも造詣深く、芸術的鑑賞センスの良さは抜群。

兎にも角にも年間を通して、作務も程々に、昼となく夜となく雲水さん達とよく坐っておられ、何時寝るのだろうと思ったものです。」

義衍老師、貫坊をぎゅーと抱きしめる

「継母となじまない私に『可愛そうだが辛抱せよ』と耳元で囁きギュウ~と抱いてくれたのは、母の愛情に飢えて、ややもすればとんでもない過ちを犯しかねない私を一番よく理解してくれた老師ではなく、正しく父でした。」


中1の貫道坊や、事実に気づく

「中学一年の作文を、何処で見つけたのか「貫坊が~」と老師に誰かが見せた。
[庭に出て夜空を見上げたら、自分が星だったということを作文にして夏休みの宿題として提出した文章だったらしいです この宿題に対する先生のコメントは「先生には何のことか分かりません」だったとのこと]

それを読んだ義衍老師は、多くの人が本来の自己を参究するのに大苦労をしている一方で、意図もなくこの事実に触れていることを知り、これは大変なことだ、子供なんかに解るものかと意にも介さずにおったがと、以来子供に対する扱い見方が変わりました。」
[それ以後、義衍老師は子供にも法を説かれるようになったそうです]

―井上貫道『禅と念仏 第25号』p.74, 禅と念仏社,2008
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2歳でお母様を亡くされた貫道老師ですが、義衍老師にギューと抱きしめられて良かったですね。

その後の井上貫道老師

貫道老師は子供の頃から実物を示す本当の仏法を聴いて居られたので、修行に出られても、大悟まで時間がかかりませんでした。
(他のお兄様方は、井上義衍老師の法をあとあとになるまで知らなかったそうです)

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お兄様方と同じく貫道坊やも發心寺僧堂に掛搭されましたが、中卒の安居2年目の臘八接心(ろうはつせっしん)で早くも自分の下駄の音で大悟徹底をされました。まだ10代半ばのことでした。
しかも僧堂から夜間高校に通いながらのことです。
僧堂の老師が大いに驚かれたとのことです。


原田雪水老師が発心寺僧堂の指導者の後嗣ぎに欲しくて、貫道老師を自分の弟子にしたいと義衍老師に手紙を何度も書かれたようです。
義衍老師は断られています。

その後貫道老師は横浜鶴見の総持寺本山僧堂へと転錫(てんしゃく)されています。

35歳の時に井上義衍老師は井上貫道老師に印可証明を書かれています。

井上義衍老師は浜松禅会をされていましたが、会場が学校でした。それを引き継がれたのが井上貫道老師です。現在は会場が学校から東区の龍泉寺(りゅうせんじ)に移り、そこで貫道老師が坐禅会をされています。龍泉寺の住職は甥御様。
いわば、実家ならぬ実寺です。

井上貫道老師の龍泉寺金曜坐禅会は、5月28日、6月25日、7月30日      
 井上貫道老師の龍泉寺坐禅会の最新日程はこちら 金曜禅会 となっています。
龍泉寺の東司(とうす=便所)でも偶々一緒になりますが、東司に備え付けのタオルペーパーは貫道老師は一切使われません。いつも自分のハンカチで手を拭かれています。
当たり前のことかもしれませんが、そんなところにも、悟りを開いた人というか人間としての気遣いが見られますね。


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