今は坐禅に励む時ー坐禅のやり方

ところで、
130年以上昔の明治時代のことになりますが、明治19年(1887年)、コレラが蔓延して人が次々と亡くなりました 
死者が10万8千人に及んだとされています
( 治療を行わなかった場合のコレラの致死率はアジア型では75~80パーセントと言われています) 


巨匠・飯田欓隠(いいだとういん)老師(山口県出身)は、その頃、東京大学附属病院の医師としてその治療にあたっていましたが、ついに医師としての無力感から人生の無常を感じ、広島県に行って接心に参加して人生はじめての坐禅を始められました
この方から後日・浜松の井上義衍老師に繋がり、真の仏道が興隆することとなります 【続きはhttp://zazen.blog.jp/archives/1076855603.html の中程から


坐禅の方法 by 井上貫道老師

 
老師の或る本の中に有る『坐禅のやり方』が無料でダウンロードができます。


book

無料でダウンロードするには、こちらのページをご覧下さい。
神戸坐禅会「坐る会」のページに行きます。

元の本はこれ↓
bookniigatasesshintesho
この書籍の詳細・紹介はこちら→ 坐禅がうまく行かない本当の理由 に紹介されています


ただ、上記の無料ダウンロードのテキストを読んだだけでは、
詳しいことが分かりません。疑問点があっても自己解決するのは危険です。
思い違いが発生します。

ですので、正しい指導者に師事してくださいませ。
正しい指導者とは、自己を忘じて、事実をハッキリとさせた方、いわゆる悟りを開いて元には戻らなくなった方です。

それには、その指導者の修行期間の長短は関係がありません。
六祖慧能大師は数ヶ月です、慧能大師に参じた天台宗の永嘉玄覚は正師(六祖大師)に出会って一晩です。
これらの方々は、特にマスコミが喜ぶような「厳しい修行」をなさっていません。

逆に、「厳しい」道場で、一生懸命一生坐禅をしても眼を開かない場合もたくさんあります。
正しい師に出会わなかったからです。 正しい師に出会っても、思い違いをしていたからです。
思い違いの原因は何度も質問をしなかったからです。

眼を開いた指導者にわれわれは参じないといけません。
先輩としての尊敬の念は抱いても、人格崇拝やグルイズムは不要です。



教えの通りなろうしても、そうなれない訳ー井上義衍老師

【質 問】 教えの通りになろうと努力しているのですが、なかなかそうなれません。いったいどうしたらよいでしょうか。

【答】それですわ、それだからそういう風に教えの通りになろう、なろうと思うて自分で力を費すからです。

そこなんですわ、なりたかったら、なろうという事を止めなさい。


そう言ったって自分でなりたいのを、なろうという事を止めたら、なれんじやないか言いたいところですね。


ところがそうじやないでしよう。

「ポン」 (掌を打って) こうやったら、そういう事があるのでしよう。

それは思いじやないでしよう。


片一方は、思い方でなりたいと思っているのでしよう。

ところがやっている事は、やれているんでしよう。いらん事でしよう。

やれているものを、殊更に思うて叉やろうとするから、

それで出来んのですよ。
―飯田トウ隠老師について修行された井上義衍老師のことば


井上義衍老師が通参された大阪高槻の少林窟道場

高槻少林窟道場開単式193110
飯田トウ隠老師の道場・大阪高槻の少林窟道場開単式の様子 昭和6年(1931)10月

この大阪の少林窟道場に、浜松龍泉寺住職をされていた井上義衍老師は、接心に通われ、飯田トウ隠老師やその法嗣の伊牟田欓文(いむたとうぶん)老師に参禅されました
(お気をつけください:飯田トウ隠老師や伊牟田欓文老師の本をこれから読んでくださいということでは決してありません 必ず、めちゃくちゃ遠回りします 飯田欓隠の欓トウと伊牟田欓文の欓トウは同じ字です 伊牟田欓文は女学校の教師をしながら参禅して悟っておられました 飯田欓隠老師が病気になられた時に、伊牟田氏を出家されておられます)

井上義衍老師によれば、飯田トウ隠老師は、説明もせず学人(がくにん=修行者)をたたいたとのことです 

それがなぜ叩かれるか、なぜいけないかが義衍老師は分からなかった なので、修行が終わるのに時間がかかった(義衍老師は、飯田老師参禅後、ホオジロの声でハッキリされています) 

だから自分が指導する立場になったあとは、参禅者の理解のためには言葉を使って諄々と説くようにしたと言われています


また、管理人の感想でも、飯田老師の書物は学識があって、格調高い文章ですが、仏教の素養や禅の古典を知らないと話にならないところがあるので、昔のように修行の前に色々仏教の理論を学んだ時代とは現代は事情が異なるので、飯田老師の書物は修行中は要らないと思われます
臨済宗の師家の間では、飯田トウ隠老師の書物は極めて高い評価を受けています

たとえば、飯田欓隠老師の『碧眼集提唱録』や『槐安国語提唱録』が読めるためには、体験もそうですが、相当な教養を前提とされてるからです
あるいは公案をたくさんやった人でないとついていけません

そもそも「南柯之夢」が何のことか分からないと、槐安国かいあんこくという言葉の意味も不明です 中国の古典です
(ネットで検索してみますと、なぜか、今はアニメに南柯之夢というのがあるのですね 教養高い!!)
眼が開けば、貴重な法財として活用ができると思います


井上義衍老師や井上貫道老師や松本自證師が良いのは、そういう仏教や禅の用語をできるだけ使わず、一番大切な事だけを示されているというところにあります 
もちろん、どの御三方も禅の語録も必要に応じて自在に提唱されています