坐禅は形を作っても坐禅にはならない 中身がないと
座らないと分からないじゃなくて、坐るってことはこういうことやってるんです。 要するに考え方でない世界なんです。 考え方で過ごしている時間じゃないんです。 坐るっていうことは。「形だけの座禅」
外から見た時に形だけを作って、あれで座ってると思ってるから。そうじゃない、坐るってことの内容は本当にこうやって考え方でない今事実にこうやって生きてるってことが、座ってる時になかったら坐禅にはならない。
仰るように、坐るとあんなにいろんなことが次々出てきてっていうぐらい、本当に自分とまともに向き合ってないんだよ。ほとんど考え方を相手にして生きてるわけだから。
それは一応こうやって座って、あからさまに言わなきゃ外から見たら真面目に座ってるなって言うかもしれない。
中見たら、なあんだ こんな状況か っていうぐらい坐禅でないような時間を過ごしてる。
「本当の坐禅」
これを本当に座ってほしいんです、だから。そういうことが、こうやって座ってるわけです。
こうやって座ってるわけ。
考え方でない。そういうことがあります。
こうやって座ってるわけ。
考え方でない。そういうことがあります。
充実感がないなんてことはないでしょう、だから。なんだろう、充実感がないと言わないんだったら、何かじゃあ、物足りないものがあるかって言ったら、そういう気が起きないでしょう。
そういうことでいいでしょう。
寒風の吹き荒ぶ中に立ってて、はあはあって、それだけでも楽しめるもんでしょう。
楽しめない人もいるかもしれないけど。
(笑)寒いなあ、やだなあって。
でも思うこととは違うんだよね、だから。
(笑)寒いなあ、やだなあって。
でも思うこととは違うんだよね、だから。
―井上貫道老師 12/21/2017大阪坐禅会の提唱DVDから
DVD制作をされている参禅者による文字起こしになります