好評の貫道老師『げんにーび:正法眼蔵提唱録』は悟りへの最短の道を示しています


井上貫道老師提唱による『正法眼蔵「現成公案」提唱録 げんにーび』(2001年出版)が2018年1月に電子書籍化されました。製本版もあります。
『げんにーび』難解な語句などには言及せずに、日常語で語られる悟りの体現者のことば

絶賛発売中。
2020年11月から120冊が販売されています。
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内容紹介:曹洞宗開祖・道元禅師の主著『正法眼蔵』において最重要とされる「現成公案」の巻。

『正法眼蔵』の総論であり、核心が網羅されている本巻を、10代で悟りを開いた井上貫道老師が、7日間をかけて縦横無尽に提唱。

道元禅師の真髄、真実・悟り・修行とは何かを余すところなく示している。
意外な内容に驚かれるでしょう。

以下は、井上貫道老師『げんにーび』からの抜粋です。

坐禅中に音などでビクッとなってもいいのですか?

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【問】 坐禅中に警策((曹)きょうさく・(臨)けいさく)をまわすと、ビクッとする人がいますが、これはどうでしょう。

【答】 それだけだったら問題ないです。ビクッとするのはいいでも、悪いんでもないんですけれども、問題はビクッとする自分を見て、そして分別を起こすことです。

「これは無心の状況じゃない」とか「私はどうしたんだろう」とかね。

とにかく、ただビクッとあった時にビクッとなっただけのことを捉えて、そこから先に様々な分別を起こすから、それを止(や)めないといけないんですね。
止めるというのはビクッだけで終わることをいうのです。


私たちだって真っ暗な時にやられてごらんなさい。ハッとなるでしよ。

その時「驚いた」とか「びっくりした」というのはみな分別でしよ。


けれど本当に出合った時の様子を見てごらんなさい。〈ただ、そのこと、それだけ〉ですからね、それで終わりですからね。


苦しんだとも悩んだとも、お前がどうのとかも、何にもありません。


ところがそういう体験をした後で、自分でそれを捉えて、分析して、ああじゃないか、こうじゃないかっていう思い方(分別)でやってる範囲の所にいくとそうなっちゃうんですね。


そういうことは坐禅には用がないんです。

だから「一切善悪をおもわず」となってますね。


この身体の上でどんなことが行われようが、起きてこようが、その動きに対して、考えによる善し悪しで問題にするなというのが、坐禅の時のあり方ですね。


ところが分別を使い、この体の上で起きた様々なものに対して良いとか悪いとかいうようなことをやり始めたら、無分別の世界には絶対に行けないんだから、だからどんなことがあっても分別だけは一切するなということですし、不思議なことに分別をしないと(ハッ)それで終わるんですよ、間違いなく終わるんですよ。


分別を使うとこれが(ハッ)では終わらない。

分別ですと、さきほどの質問のように「驚かないほうがよいのか」とか「驚いちゃまずいのか」とか様々な質問が出てきます、分別は。


だから私たちは、坐禅をしているというけれど、本当に坐禅をしているのかを、もう一度たずねてみる必要がある。

いわゆるスケジュールとしての時間をこなすために、そこにこうやっているだけかも知れない。


教えるほうも学ぶほうも、今話しているようなことがキチッとしてないとそうなりますよ。[僧侶を対象にお話をされている]

誰にも分別を起こさない時の自分のありようというのがあるから、それを自分で一度確認してほしい。

だから居眠りなんかしてちゃ具合わるいんですね。

―井上貫道『げんにーび』pp.69-70



ある方が絶賛
「修行している人が本を読むとしたら、貫道老師の『げんにーび』だけでいいと思います」

「でも、
『げんにーび』に線を引きながら読んだり、欄外に自分のコメントを書き込んだりしていましたが、『ハッキリ』してみると、想像していた事とは全然違いましたね」
※ハッキリする=決着がつく=大悟徹底する=身心脱落する


「本を読む時間があったら、坐ってくださいね」ーーその参禅者さん

(昔この方の尽力で新宿の紀伊國屋書店に『げんにーび』が平積みで置いてあったそうです 今は東京新宿の紀伊國屋書店では、井上義衍老師のシリーズが宗教コーナーの一番良いところに平積みされています)


■製本版(A5版223ページ、第二版、税込1,000円、送料400円)
井上貫道老師『げんにーび』製本版は、
編集者しづか出版の直販とアマゾンでの販売とがあります。 
しづか出版⇒ https://ssl.form-mailer.jp/fms/daeb0842685782
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名著『げんにーび』から一部を引用した
悟り(見性)れば、もう元には戻らない―井上貫道老師  という記事を読む



井上貫道老師の大悟の因縁

井上貫道老師(1944-)は、發心寺僧堂で畑に野菜を採りに行く時に、自分の下駄の音で大悟、決着をされています。わずか16歳の時です。
野菜を採りに畑に行ったことまでは記憶があるようです。そして下駄の音で我に帰った時野菜をちゃんと手に持っていたそうです。

畑に行く前は、40人分の建長(けんちん)汁の刻みをしていてくたくたで頭がまったく働くなっていたのが良かったんだろうねと言われました。


臘八接心※の最中でしたが、野菜係の菜頭(さいじゅ)の役目があってずっと坐禅堂で坐っておられた訳ではありません。


※臘八接心(ろうはつせっしん):禅門では最大の接心と言われる。釈尊の成道(じょうどう=悟られたこと)にあやかり、12月1日から8日未明までの坐禅三昧の修行期間
お経を読むこと、作務、開浴(入浴)を省略し、睡眠時間を削って、坐禅をする
裏方の役目になった者は、その修行を支えるために食事の準備などをする


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