井上貫道老師に参禅を始めて、すぐに、自分はいない体験(自我消滅体験) をする人達


shikotaiken1井上貫道老師のある坐禅会の司会の方が、ある時このような発表をされました。


「最近、参禅始めた初心者の方に体験の出るのが多いです。


ある人は、自分の部屋に入った時、自分がいないことを体験されました。

ある人は、…………の時
ある人は、…………の時、

(このあたり体験の契機を記録したメモが見当たりませんでしたので、不明です たしか5名ほどだったと思います)
です。



この人達に共通しているのは、
話をちゃんと聞いていることです。
 
みんなよく坐禅をしています。

しかも皆さん、老師に参禅を始めて、皆半年以内、長い人でも1年以内です。


自分のないことを体験してから本当の修行が始まります。



古い人達,、古参の方々 [ 何年も何年も継続して坐禅会に通っている人 ] は、どうなんでしょう。
 
坐禅中に居眠りをしている人が多いです。
または、目をつぶって坐禅をしている。※

法界定印*の親指も離れている。。。

 

独参にも行かない。

これでは何年かかっても変わらないですね。」


以上のように話されました。


※[ 「事実を見届けるための坐禅ですから、目をつぶってはいけません」と貫道老師が常々言われています。

道元禅師も、『普勧坐禅儀ふかんざぜんぎ』に目を開くように強調されています ]

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* 法界定印 ほっかいじょういん   「ほうかい」ではありません
 眠ったり、気が抜けていると親指と親指が離れます  考え事をしていると卵型ではなくなっていびつな形になっています。
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あと5人ほど、参禅体験談があります。



以下は井上貫道老師のことばです。
 


「人の話聞きながら、頭のなかで色々比較したりするのは聞いているんじゃないんだね。
そんな聞き方したら、何十年聞いても無駄です。」




「では坐っている [ 坐禅している ]ときにどうやって過ごすか。

坐る時のあり方として、問題になるのは思量分別、

色々なことが思えるというか、出てくるというか、

あるいはこちらから(意図的に)考えるということがあります。



坐禅中はそういうものを、とにかく相手にしない。

出てくる思いに対して、自分の見解で識別しない。

いわゆる善し悪しを図らない。


これは良いこと、
これは悪いこと、
これは正しい、
これは間違っているというようなことをやらない、

ということです。


もう少し具体的に話をすれば、坐っていて色々なことが出てきたときに、
人間と言うものは、気に掛かることが結構あるものです。

ですから通常は、その気になっていることを解決しようと思って、
自分の頭の中で色々なことを始めます。


これを、とにかくやらないことですね。

だからどのようなことが出てきても、
思い出したものや考えたことで気にかかることがあっても、
それを相手にどうこうする、手を付けて過ごすということをしない。


また、その出てくるものに対して、出ないようにするようなことも一切しません。

こちらから造作をして、作り変えるようなことは一切しないで坐るのですね。


それが坐禅をする時の工夫と言われる修行のあり方です。」
―― 井上貫道老師

『井上貫道老師提唱録』(井上貫道著、2016年)




「飛行機のゴーッという音が聞こえたとき、はっと飛行機の音だと気づくのは、人間がそういう作用を働かせているからです。

そうじゃなく、単にゴーッのままにしておけばいいです。」



「ボーッとするのではないですよ。
意識はいつもクリアです。

そのために、坐禅中は、
目を開いている
舌を上顎につけている
法界定印の親指がくっついている
この3点セットを守ります」


[ 管理人より ]舌の位置:最近内科医や歯科医から、正しい舌の位置ということが盛んに言われるようになりました。

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以上は、歯科医の方々からの指摘です。
道元禅師は、800年前から『普勧坐禅儀』に言われていました。
坐禅中に限らず、健康な舌の位置は、舌が上顎骨にピッタリついていることです。
最初からこういう位置に舌が来ている人がいますが、そうでない場合は、意識的にこのような位置に持ってきます。あいうべ体操などが、内科医などによって提唱されています。
昔から、親が「口をぽかんと開けるな」と子供に注意したのは、医学的理由もあったのです。

舌を上顎つまり硬口蓋につけるようにすると、呼吸も口呼吸ではなくて、鼻呼吸となります。 
免疫力も向上するという臨床例が上がっているようです   以上管理人




「目を開けると言っても、一点を見つめるのではないですよ。
どこかに焦点を合わせるのではありません。」



「こうやってると、今、まわりでコオロギが鳴いてますね。

その中にポンと身を置いている感じ。


聞いている気配はありませんし、聞こえてくるという気配もありません。


ただ音だけ。
不思議に自分がないんですねえ。」





「多くの人が、坐禅中においてさえ、理想を求める境地を頭で探しています。

それは一見坐禅らしく見えますが、真実から外れています。」





「自分を中心にして物事を見てしまっているから自分が消えないんです。
もともと自分はないんです。

実は、考え方や見解も自分が作っているのではないんです。

自分を中心に据えて物事を見るのではなく、物事の方からやってくるんです。


それが五官に任せ切るということです。」






「事実について、考えを付けるか付けないかだけです。
考えをつけないままでいるのが、修行です。」






「観察しないこと、

眺めないこと、

[五感の]事実にいるだけ。

見る人がいなくなって事実だけになります。

そうやって座ってください。」 ――井上貫道老師




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【投稿後記】
以下はこのブログ管理人の発言です

このブログ記事のタイトルを、「自我消滅」というようにしていますが、最初から、自我はない というのが本当です。見出し的に使っているだけですので、ご了承下さい。

「話をちゃんと聞いている」ことはなかなか難しい人が多いようです。
「このままでいいんだ」というとんでもない誤解(微妙な誤解)をされている人も多いです。

そうか。「あるがまま」ということなんだと思っている人も多いです。(老師は一度も「あるがまま」と言われたことはありません)
「何をしていてもいいんだ」と思って、摂心中の休み時間になれば、私語ばかりしている人もいます。

ある人は、30年間も井上義衍老師に参禅したあと、
「老師は、いつもそれで話をごまかしている」と発言して、
老師が「パン」と手を打たれることの理解さえ出来ていなかったという話があります。
(30年前に、「ごまかしている」と発言すれば、そこから糸口があったのに)

他人事ではありません。


上に記載した・これから掲載する参禅者体験は、1年を経過しているものを選んで投稿しています。
投稿者は、同じ参禅者ですし、インタビュアーやレポーターではありませんので、その後、その人達がどのように修行されているかは知りませんし、その後の修行をインタビューしていません。