現代人だって悟りを開くことができる、今の人も大悟ができる根拠がある

今日、昔の人のように本当に大悟などできるものかという人が多いけど、これはうそです。

 
絶対にそういうことはない。
今日の人だって、必ずできるということです。
 

現代人だって悟れることを信じず、本当に修行しないから悟れないだけである

ただ、そういうことのあることを信じない。
 

それですから、せつかく坐禅儀などに方法も手段も説いてあっても、
それをただ理解するだけであって、
本当にやらんから分からん。


それだから、その体験がないから多数決でもって、
そんなことが今日の人にできるもんか、
と片付けたくなる。

 

もし、現代人が悟れないなら、お釈迦様の教えが嘘をついていることになる

もし本当に今日の人にできなんだら、経論みな焼き捨てにやならんです。

教えんでもいいんです。


こんなことが本当にあります、というたって、
今日説明として残っているだけで、
事実がないようならうそをついている。
そういうことになるでしょ。

そういう面で大いに考えなければならんところです。

―井上義衍老師 (井上貫道老師の師)『無相伝光録』p.41-42)
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井上義衍老師とは→
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以下に、井上義衍老師の法嗣の井上貫道老師のことばがあります。
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以下は井上貫道老師『正法眼蔵』提唱から

悟りを体験せずに批評したり、否定したりすることは根拠なき発言となる


気付かない限り[悟らない限り]、人間は本当にはケリがつかない。
毛筋ほどの疑いであっても必ず残る。


そういうものが残ると表現しきれない。


そのために生ずる
「悟りなどどうでもいい・必要ない・ないのが本当だ.あったら嘘だ」
というようなご意見は、もう一度考えて欲しいのですね。


悟りの正体を見届けた上でのお話として扱ってもらいたい。



一度も食べたことのない人が
「どうでもいい」とか「必要がない」とか「そんな味がするわけがない」とか、
もしそういう評価をしたらおかしいじゃないですか。


少なくともそのものをお食べになって味わった人なら
「これは商品として大したことない」とか酷評をしても構わないじゃないですか、
その場合言われていることに何か真意がありますからね。



ちゃんと食べたなら、
なんで「悟りなどどうでもいい」というのか、
なんで「必要ない」というのか、
「悟りなんていうのはあったら嘘だ」となぜ言うのか、
ちゃんとした理由がある筈(はず)です。


だけど食べない前に、食べた事のあるような話をしたらおかしいです。


だからここの処は私たちも気をつけたいところですね。


ー井上貫道老師 『げんにーび』 (正法眼蔵現成公案提唱) p.89
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悟りの様子は誰にでも有るが、自覚がないとそう思えない


悟りの様子もみんなに具わっているんだけれども、
自覚がない限りは誰も自分にそれがあると思っていないのです。

そんな素晴らしいことがあるとは思っていない。

ー井上貫道老師








 他の井上貫道老師『正法眼蔵』提唱は、こちらのブログにあります
 ⇒ 『正法眼蔵を学ぶ』