悟るまでは、似たような体験 (似て非なる体験) をすることがあります―井上貫道老師

本当に悟りを開けば、元に戻ることはない

井上貫道老師の『正法眼蔵現成公案』提唱 (『げんにーび』)から 
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悟り体験をすれば、もう元には戻らないです

以後は、諸仏の過ごされた境涯というものをこの身体で楽しむことが出来るのです
   
―井上貫道老師



大事了畢(だいじりょうひつ)とは

修行ということに関しては、一応悟ってしまえばもう関係はないと思っている人もおりますが、
とんでもない事だと思います。



悟るという事はですね、それで終わりというのではありませんで、二度と迷いの世界に戻れなくなるという事です。

例えば、分わかりやすくいうと、一度も来てもらったことのないこのお寺へ来てもらったら、もうその日からお寺に来なかった人にはならない。

どんなに騒いでみても、どんなにやってみても、もうお寺に来なかった前の人には戻らない。



それくらい悟りという事は人を迷わせない確かさがある、ということが悟りの大事な事ですね。



もし時間が経ったら忘れてしまうとか、元に戻ってしまうとかいうものだったら、尊ぶ所以(ゆえん)がないですね。


だから道元禅師が「一生の参学の大事おわりぬ」というような表現をしている。 参学の大事了畢(だいじりょうひつ)



その体験をした事によって一応の決着がつきましたって、いうことですね。


悟れば諸仏の境涯を楽しんで行ける

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それで
私たちは見たこともなかった、

行ったこともなかった悟りの世界に初めて足を踏み込んで、

諸仏方の過ごされた境涯というものをこの身体で楽しむことが出来るのです。



これで初めてそれが悟後の生活という事になるのかね。

ここら辺が楽しい処でしょう。

本当はこれをやってみたいわけですね。


そうじゃなければ、こういう祖師方の書かれたもの、残されたものを、
共に手を携(たずさ)え本当に参究して、
その味わいを味わうことはなかなかありませんね。


悟っていない人が悟りの話をしても、無益であるし、外れている

そういう人を作っていかないと仏法とかいうようなものがつまらなくなるんですね。
そうでしょ。

 

向こうの岸へ行ってないのに、こつちの岸から向こうの岸の話を一生懸命しているんですから、
こっちにみんな居るんでしょ。

お互いこっちに居るものどうしが、その中の人が向こう岸の話をした。

「お前行った事があるか」と言った時、「ない」といったらどうなるんですか?


(井上貫道『げんにーび』 (正法眼蔵現成公案提唱)p.181) 
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井上貫道老師の大悟の因縁

井上貫道老師(1944-)は、發心寺僧堂で畑に野菜を採りに行く時に、自分の下駄の音で大悟、決着をされています。わずか16歳の時です。

臘八接心※の最中でしたが、野菜係の菜頭(さいじゅ)の役目があってずっと坐禅堂で坐っておられた訳ではありません。


※臘八接心(ろうはつせっしん):禅門では最大の接心と言われる。釈尊の成道(じょうどう=悟られたこと)にあやかり、12月1日から8日未明までの坐禅三昧の修行期間
お経を読むこと、作務、開浴(入浴)を省略し、睡眠時間を削って、坐禅をする
裏方の役目になった者は、その修行を支えるために食事の準備などをする

お寺によっては、12月のその期間ではなくてずらしてする場合もある
また、8日の終了後、二祖慧可大師が達磨大師(だるまだいし=中国禅宗第一祖)に本気を示すために自分の腕を切り落とした故事にならって臘八接心に引き続き、断臂接心(だんぴせっしん)を行うところが曹洞宗にはある


「皆さん、鳥だって卵をかえす時は21日間気をそらしませんよ。たった7日間ひとつの事に打ち込めないのですかね」―井上貫道老師 ある摂心にて

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