坐禅の仕方と悟り,見性,身心脱落:井上貫道老師の庵 まとめブログ

Dharma Talks of an enlightened Japanese Zen Master Kando Inoue Roshi 井上貫道老師が、悟りを体現された経験から坐禅の方法や仏道について語られたものを掲載しています web上に散見される井上貫道老師のことばも引用掲載し、まとめブログとしました ( これは参禅者によるブログであり、公式サイトではありません ) このブログが正師への参禅のきっかけになりますように

タグ:道元禅師

不思量底如何が思量せん

思量と不思量

思う前の状況がある

思うっていうことがあるということは、そもそもその前の状況がある、ということでしょう。

思うという前はどうなってるかって言ったら、思いがついてないってことでしょう。

人間はその思いがついていないところをあまり大事にしないんですよね。

思いのまだついていないところ、そこに用がある。


人と出会った時でも、綺麗だとか汚いだとか、若そうだとか年寄りだとか、そういうこと一切なしに、こう、ぱっと触れただけでいる、そういうようなところ。こういうところに用がある。


――井上貫道老師17/3/23提唱から 【3/23提唱DVDからの抜粋】 DVD製作者様による文字起こしになります

【重  要】
神戸楽の森「坐る会」のサイト https://tinyurl.com/kobeteisho
にも、井上貫道老師の神戸坐禅会の提唱の一部が文字に起こされています。

大切なことを分かりやすく提唱されている部分ですので、ぜひ、ご覧ください。



箇の不思量底を思量せよ

「不思量底」とは何を指すのか。

 (カチン)これは人間の思い量りで聞いてるわけではない。

大きな音だとか、いい音だとか、一切そういうようなことなしに行われてる、

 その辺を不思量底と言うんですね。

いちいち皆さんが今触れているところです。     



――井上貫道老師17/3/23提唱から 【3/23提唱DVDからの抜粋】 DVD製作者様による文字起こしになります
不明点、疑問、足らないところは、坐禅会への参禅をお願い致します  実践して何か体験を得た場合も正師への参禅が必須です


【重  要】
神戸楽の森「坐る会」のサイト https://tinyurl.com/kobeteisho
にも、井上貫道老師の神戸坐禅会の提唱の一部が文字に起こされています。

大切なことを分かりやすく提唱されている部分ですので、ぜひ、ご覧ください。


▶自分の見解を起こさずに、
本当に相手がしゃべってる時そのまま聞いているっていう事が
穏やかな生活ができている証拠じゃないですか?
ー井上貫道老師 



2013年4月の井上貫道老師の静岡禅会でのお話です。② 
道元禅師・正法眼蔵春秋の提唱から
 
①の続き

この前も紹介したんだけども、
あるお母さんがお寺に参禅に来てるから、 
「皆さん、ここお寺に参禅に来て何か目的あるんでしょう?」
って聞いたら、
「心が穏やかでいれたらいい」
ってその人は言われました。



「穏やかになれたらいいって、普段穏やかじゃないんですか?」 
って聞いたら、
「子供と話をするとすぐ喧嘩になるんです」 
って。


「すぐ喧嘩になるっていうけど、いつもそうなの?」
ったら、
「いや、そうでない時ある」 
って言ってました。


「どういう時?」

「それ、自分で相手の話をただ聞いてる時だ」 
って言ってた。

それ、穏やかだそうです。
喧嘩にならないそうです。


自分の生活の中知ってますよ、だから。
だけどもそういう事が修行だと思ってないから。
お寺でも行ったら、もっと楽になるんじゃないかと思ってる。

そうじゃない。


本当はそうやって自分の見解を起こさずに、本当に相手が 
しゃべってる時そのまま聞いているっていう事が
穏やかな生活ができている証拠じゃない?


それが、禅の教えだとか、仏教の教えだとか思ってないんですよ。
不思議ですね~。

どっかに別な教えがあると思ってる。



そういう事が問われてるだけなんですよ。
 

知らないと、その話をしてる時に、まだ他の何かをして 
幸せになれると思ってるんですよ。
 

やりかえて、何か他の事やりかえて、人は幸せになれると思ってる。 


そうじゃない、ただ本当に聞いているだけで居れるようになったら
人は幸せになれるんです。



だって自分の主義主張を立てて相手の話を聞くからすぐ喧嘩になる。



修行は他の時間にないじゃないですか。

他の時間帯で修行する事はない。

その時にどうあるかだけじゃないですか?


そのやってる事、今会話してる事の外じゃなくて、 
会話してる事を材料としてその時に自分がどうあるかだけが、
それ以外のところで修行する場所ないじゃないですか。
 
取り替えて。
 

今会話してる事、会話するといつも喧嘩になるから会話する事は 
止めといて他の事でって会話始まってやるような事したら
おかしいじゃないですか。
 

お茶を出されてお茶を飲む事止めて、じゃあ何するんですか?

そうじゃない。


その事でいつも勝負でしょう。



その事の中に修行があるんでしょう。
こういう事が伝わってない事ですねー。 


町の方に出て行っていろんな人達と話してみるとよくわかる。
今やってる事を外してどこか違ったものを持ってきて、そこにあてはめて。
そういう事が修行のように思ってますねえ。



道を明らめた人、真実を見極められた人達のとりあげられているものと
ただ単なる見解、そういうもので取り扱っているものとは違う。

実物と偽者は違うと言っていいのかしら。



一度も本当の熱さに触れた事がないのに、 
文章に熱いとは火傷をするような事だとか、温度が何度かとか
書いてある事を知って、いかにも熱いって事を知っているように
思ってる事は愚夫の法でしょうかねえ。




今の社会ではだんだんそういう人増えてきた。


実物抜きでインターネットなんかを通してでもですね、 
あらゆる知識がすぐに検索できて、検索したものをみると
あたかもそれ、自分で知ったかのように自分の知識にしてる。


だけどそれは他人がやった事をわずかに見て 
そう思い込んだ位の事なんでしょう。

そういう事だと思いますよ。 


直ちに、今、ここで、直接に。
家に帰ってからとかこれからとか言わずに、 
今、ここで、すぐに。


この音声ひとつだってそうでしょう。

いきなり聞こえてそれで終わりです。

回避する所なんかどこにもない、
という事が春秋の巻の最後の詰めになってますね。


そういう事のために、『正法眼蔵』読んで 
どういうふうに、何を、どこに向かって、どのように
生活をしたらいいのかっていうことが伝わって。


伝わるっていうことは実践して頂けるようになるということですかね。

どうしたらいいかって事が伝わるって事は実践するって事になりますね。

実践しなければ、どうしたらいいかって事が伝わったって事ではないですね。

それでいいでしょう。

それ、すごい大事な事なんですねえ。


「あーそういうふうに書いてある」、「そういう事か」っていうのは 
伝わったんじゃあないですね。

それ理解に終わっただけですね。
あるって事は実践するんですね。
必ず実践します。


右行ったらちゃんとした所に着くよと書いてあったら右に行くんです。
そうするとなるほどここかあって必ず着く場所があるからそれでいいんでしょう。
そうすると書いてあったものが初めて自分で信じられる。


そこまでやって頂くと、こんなもの(老師、『正法眼蔵』を持ち)を 
持ち歩かなくても済む人になるんじゃないですか。


是非そうやって頂きたい。と思います。 



毎月一回木曜日、静岡駅から南へ徒歩10分の崇福寺 鯖大師で、
井上貫道老師の座禅会があります。
崇福寺臨済宗
 
夜6時半から9時まで、出入り自由、会費一回1200円、
25年続いており、正法眼蔵をテキストにして
井上貫道老師の提唱、お話があります。
会場などの詳細は、
井上貫道老師全国坐禅会日程にあります。



引用元
http://ameblo.jp/10wanko28/entry-11528265828.html
文中の 愚ふの法 を 愚夫の法 に書き換えました。


(このブログは
井上貫道老師まとめブログです
すなわちネット上にある井上貫道老師の様々な語録と坐禅会情報を一つにまとめて、
学人の参学の便宜とするものです) 

通常のブログでは、その記事の続きを読みたいと思いましても、インターネットの達人でない限り、
次の記事が探しにくいものですので

 

▶私達は毎日朝から晩まで真実の中に生きていながら
「おそらく一度も真実に直接触れた事はない」って言っていいでしょう。


▶ 「お寺に座禅をしたいから」と言って座禅に来る。
「何かわからない事ありませんか?」と聞く。

誰も何も言わない。
 
「では、座りましょう。」と言って座る。
 
問うべき事を問わないんじゃないですか?
 
 
一応パンフレットみたいなもの渡して、冊子のようなもので図解ができてるものを差し上げる。
口頭でも多少話をする。
一応の形はできる。
そして坐禅をする。

 
こういう座り方(坐禅の仕方)で座禅になってるのだろうか? 
 
修行になってるのだろうか?というような事ですね。

―井上貫道老師
 



2013年4月の井上貫道老師の静岡禅会でのお話です。①

道元禅師 正法眼蔵春秋の巻
 
私達は毎日朝から晩まで真実の中に生きていながら
「おそらく一度も真実に直接触れた事はない」って言っていいでしょう。
 
考え方、を通して見てる、
いつでもって言っていいほど。
 
だから心底納得しない事があるんでしょう。 
 
ちょっと何か揺り動かすと自分の中で疑いが起きる。
 
不安な気持ちになる。
 
揺らぐじゃない。


それで。人につつかれればなおさら揺らぎますねえ。


どこに行こうがその事がその事としてきちっと伝わるようにできてる。
あたかも暗記してるように。
 
初めて出会うものだけども、初めて出会ってうろたえるような事はない。
 
どこへ行っても。
どんな事に出会っても。
うろたえるような事はない。

 
うろたえるのは現実を見ないで自分の頭の中でその現実を捉えて 
どうこうするようになると問題が起きてますね。


「痛い」っていう時に、「どうかしてくれ」っていうようなものはないんですね。
不思議に。
それだけで済むんでしょう。
 
「なんで?」というのは起きないんですね。

 
道を歩いてていきなりバタバターと足元から鳥が飛び立つ。
 
「なぜ?」とか、「どうして?」とか本当に起きないんだよねー。
 
それ、皆さん、経験あるんじゃないですか?

 
それが済んでから、「今のは何だったんだろう?」、「どういうことだ?」 
っていうような問題を起こす人はたくさんいる。
 
その時にはもう、問題がなかったところを通った後じゃないですか。
 
問題なく生活した後じゃないですか。

 
違いますか?
ちゃんと通れたんじゃないですか?
 

『正法眼蔵』はこうやって読んでみるとよくわかるように、 
『正法眼蔵』はそこに書いてある事を読んで理解するって
いうような事ではない事ですよね。
 
必ず自分自身のあり様としてそこがちゃんとしてるか、 
必ず問われています。

 
これが道元禅師の親切なとこでしょう。


もう一つ人間が生きてる場所があるならいいですよ。同時に。
今こうやって生きてるものと、もう一つ自分が生きてる場所があるんだったら、 
そっちがよければ、そっちにいけばいいんです。
 
ねえ、ところが、誰もよく見て下さい。
もう一つ生きてる場所なんかないじゃないですか。
 
時間的にももう一つの別の場所があるわけじゃないじゃないですか。
そういう事をまず熟知するべきじゃないですか。
 
ものを学ぶのに。 
 
 
パシッ(老師、手を叩く)
 
だからこの音を聞くのには必ずここで聞くしかないじゃないですか。
後にも先にも。
この場所で、
この時に。
この音を聞く以外にないじゃないですか。
 
あと、どこでこの音を触れる事ありますか?
一々そうですよ。
この音だけじゃなくて。生きてる様子見て下さい。
 
 
一々の生きてる様子は今ここで本当にその事が行われているだけであって、 
その他のところにどこにもないですよ。
 
 
そういう生き方を私達してるって事が脱落の身心と言われる所以でしょう。
何もかも離れ切っている。
 
要するに、私達が普段勉強して考えてる事と違うんですよ。 
このもののあり様は。

 
だからこのものの事実の方から学ぶんです。 

 
(老師、頭を指して)
この変な頭の方から学ぶんではないんです。
ここはつまらないものいっぱい詰めてますから、
そのつまらないものいっぱい詰めてる方から見たら、
そこにいくら真実が展開されていても
それを正しく見る能力は皆無に等しいでしょう。


どうしてそういう立派な人のところについて修行しているのに
きちっと問うべき事を問わないのか、聞くべき事を聞かないのか。
 
暑いという事はどういう事を言ってるのか。
寒いという事はどういう事を言ってるのか。
「そんな事、聞かなくたってわかってる」って、思うから問わないですね。


座禅もそうですねー、
「お寺に座禅をしたいから」と言って座禅に来る。
「何かわからない事ありませんか?」と聞く。
誰も何も言わない。
「では、座りましょう。」と言って座る。
 
問うべき事を問わないんじゃないですか?

 
一応パンフレットみたいなもの渡して、冊子のようなもので図解ができてるもの 
を差し上げる。
口頭でも多少話をする。一応の形はできる。
そして座る。

 
こういう座り方で座禅になってるのだろうか? 
修行になってるのだろうか?というような事ですね。
ここで言わんとする事は。



自分自身の事を本当に自分自身で見極めるって
誰からも指図される事ではない。
 
強要される事でもない。
 
人としてこの世に生まれて自分自身の事本当に知らないと 
いうのは哀れな事じゃないですかね?

 
なんで、この一個の中で、こうやっておりに触れて生活してて 
問題が起こるかって、よくよく見てみれば、自分自身というもの
わからないから問題が起きるんじゃないですか?
 
だってどこで問題が起こるかって、必ずここなんですね。
 
今以外のところで、問題起きた人いないんですよ。
 
問題起きると必ず、しかも自分の上なんです。
 
他所の人の体の上で問題が起きた事ありません。
 
必ず自分自身の上で問題が起きる。

 
その問題もですね、いろんなものにこうやって接触しますけれども、 
接触したその時に問題が起きるんです。
 
どういう風にして問題が起きるかっていうと、「何言ってんだー」、
「それどういう事だ?」、「あんなやり方ないじゃないか」
そうやって自分の中に触れたものに対して、皆自分のそういった見解を
起こして、それで問題起こしているんじゃないですか?
 
他にはないでしょう? 



「あー、なんてかわいそうな事か、私だけこんな事してていいのかしら?」 
そういって自分の中でふっと思うといたたまれなくなって、
「こんな贅沢してちゃいかん」と言って、
ご飯も食べずに人の為に施すような事する人もいるでしょう。
 
じゃあ、それずっと続けたらどうなるかって、 
自分は一週間食べずにいたら必ずおかしくなりますよ。
 
「みんな汗水たらして夜も休まずに働いている、私も」って言って 
一週間飲まず食わずに人の為にやるのはいいけど、ぶっ通しやって倒れる、
それ、皆考え方の生んだ愚かな事じゃないですか?
 
本当はそんな事が大事な事じゃないじゃないですか?
 
そんな無茶苦茶な事をしろっていうんじゃないでしょう?

 
もっと平凡な中に本当に誰もができて実行力があって、 
効果がある事あるんじゃないですか?
 
とにかく人間はそうやって、自分が触れたものに対して、 
自分の中で見解が起きるという事が
それから問題が起きてるんでしょ?
 
じゃあ回避するんだったら、その問題が起きてないところに 
目をつける必要があるんじゃないですか?

 
じゃあそれどこにあるか


人間の見解を起こす前にどうなってるかを見るべきじゃないですか?

 
触れたものが自分の見解を起こしてどうこうじゃなくて、 
触れたその一々のものが自分の見解を通さずに
それがどのように本当になってるか、それ抜きにして自分の好き嫌いで
ものを取扱って、ものが解決できるわけないじゃないですか。
 
参禅ってそういう事をするんじゃないですか。
 
本当に自分自身の今の様子に参ずるという事。 
 
用があるのはそこじゃないですか?

 
で、自分自身の本当の様子がない人は一人もいないんだから。
 
だけどすぐに見解が起きて自分の考え方でものを見る癖があって 
その前の正しいもののあり方のところに着眼する人ほとんどいないって事でしょう。
 
そういう事ずーっとこうやって伝えてきてる、そこやって欲しいという事を。
 
それが仏祖のかじょうなんでしょう、
で、あんまり当たり前だから修行にお見えになった立派な方々でも、 
立派な人のそばにいてもそれ以上追求するこない。聞く事もない。
 
そういう生活をしているから淋しいなと言ってるんでしょう。 

 

毎月一回木曜日、静岡駅から南へ徒歩10分の崇福寺 鯖大師で、
井上貫道老師の座禅会があります。
崇福寺臨済宗
 
夜6時半から9時まで、出入り自由、会費一回1200円、
25年続いており、正法眼蔵をテキストにして
井上貫道老師の提唱、お話があります。
会場などの詳細は、
井上貫道老師全国坐禅会日程にあります。



上記の文章の
引用元:http://ameblo.jp/10wanko28/entry-11528265009.html
文中、脱落の心身とあるのは、脱落の身心 に書き換えました

(このブログは
井上貫道老師まとめブログです
すなわちネット上にある井上貫道老師の様々な語録と坐禅会情報を一つにまとめて、
学人の参学の便宜とするものです)

「佛道をならふといふは、自己をならふなり」 ―道元禅師


▶仏道とは、本来の自己を自分で本当に見届けて、それに動かされることです。  ―井上貫道老師

▶修行とは、どっか他所(よそ)でやるんじゃないんですよ。 ここでやるんです。
いつもここでしか生きていないんだから。
もう1つの今なんてないんですから。  ー井上貫道老師


 
 

『学道用心集』の提唱の最終日:

inouekandoroshizazen2ske2全体に一言でまとめれば、みなさん、一緒に目を通していただいてるとおり、
自分自身の、今、生活している、今、今、生活している「ここ」でね、
この様子に学んでくれれば、このことがみな分かるようになってる。


でその具体的には、人間の持っている、五官ないし六官と言われるそういう道具がありますから、
五官=眼耳鼻舌身  六官=眼耳鼻舌身意 
その道具の働き、それを「諸機能」と言っておられますが、
その諸機能は、みなさんが考えておられるようなつまらない働きではない、
もっともっと、底抜け、大きな働きをして、初めっから、飛び抜けた立派な様子であるということ。


だからそういうお互いですから、自分自身の、その素晴らしい働きをしている、「本来の相(すがた)」と言っていいですか、
「本来の自己」と言っていいですか「自分」と言っていいと思います、
そういう誰もが持ち合わせてる素晴らしさ、宝物がありますから、
それを自分で本当に見届けて、
それに生涯動かされて、
思う存分、悔いなく、生きていただきたいと、
こういうことです。


あとは、何か条か出てましたけども、「有所得の心」。
いろんな意味で有所得の心、
「あれが欲しい」「これが欲しい」「ああなってほしい」「こうなってほしい」
いうようなものが人間にはありますが、
そういう、ケチなというか、小っぽけなというか、(義衍)老師が「つまらない」と言ってるんでしょう、
そういうものを、少しいただいて、喜んでるようなことにならんように修行してください。


ま、こういうことですね。


あとはほとんど、いいんじゃないかと思います。


もう少し補足をすれば、「どうしてそれでいいのか」いうことでしょう。

みなさんが描いている、本当に「知りたい」「得たい」「なりたい」境涯。


そういうものが、今のみなさんがたの動きそのものに、全部、あるということです。
どっか他所(よそ)にあるのじゃなくて。


だから、修行の仕方、求め方、というものが、
目を他所に付けるのではなくて、
自分自身の、今、生活している、このことに目を向けて、
そしてそれが本当にどうあるか、いうことが基本的なあり方でしょ。


そうやっていきますと、当然、自分の考え方なんてものは、全く、要らなくなる。

そんなものに手を付けててもしょうがない、それこそ。


ここに実物があるわけですからね。
生活してる実物があるんですから、それを人間の考え方で手を付けて、壊して、どうこうするんじゃなくて、
この、生活してるこの事実に用がある。

それをそっくりそのままいただいてみる。考え方を通すんじゃなくて。

それだけを、丁寧にやってくれれば、修行になるでしょ。






私たち自分が今生活してる様子が、坐禅の時は坐禅をしてる様子がある。
そんなにはっきりしているのに、そのことに参じて、触れていながら、生活を自分でしていながら、
そのことが自分でどうなっているか分からないっていうほど、愚かであっていいわけがない。

いわゆる、自分の生活を本当になおざりにしてるっていうことになるでしょ。


要するに、この今生活してる中に大事なものがあると思ってないから、いい加減にしてるんでしょ。

もっと他に大事なものがあると思ってるから、ここ今生活しているこの今のありように本当に目を向けていないのでしょ。


ところが、これも理論的に話したら少し理解がいくと思うんだけど、
私たちは、いついかなる時でもですよ、時間の上から言ったら、「今」だけですよ。
いるのは、自分がいるのは。

場所的に言えば、このものがいる「ここ」と言われる場所だけですよ、いつも。
そっから離れたことがないですよ、「今」とか「ここ」とかって言われる。


何十年生きようが。


嘘だと思うなら自分の様子を見てごらんなさい。
この身体のある所でしか生きてないでしょ。
この身体が行った先々でそのとおりのこのまま生活をしているだけじゃないですか、生涯。
それを端的に言えば「今こうやってるだけ」でしょ。


今だって「これ」以外にないでしょ。自分の生活してる、場所、時間帯。
だから、ここで勉強するしかないんですよ。このことで。


ところが、頭がちょっとおかしいもんだから、
「こんな所に?」って思ってますから、
「もっと他の時間帯/他の場所に行ったら何かいいことがあるんじゃないか」、端(はな)からそう思ってる。
そういう考え方の上で修行しちゃ、駄目ですね。それは修行にならない。


事実を抜きにしてものを学ぼうと思っても通んないですよ。


もっと普通に言えば、お茶の味を本当に味わいたいのに、飲まないでお茶の味を知ろうと思ってるのと同じぐらい愚かですよ。
やってごらんなさい、飲んだら必ず分かる。

どうもしないでも。

ここ(頭)じゃない。
これ(お茶)が教えてくれるの。


そうやって勉強するの、修行するの。

私の都合じゃないから、必ずこの中に入ってるお茶の味がするように出来てる。
いくらたくさんお茶碗があって注いであっても、他の人のお茶碗の味は絶対こうやってしないように出来てる。
そんなにはっきりしてる。
迷わないように。


それで十分じゃないですか、
このものの中に入ってるお茶の味が飲んだ時したら、それで。


このまま飲んだ時、他の人の中に入ってるお茶の味がするようだったら、もう人生めちゃくちゃだ。(笑)

そんなこと一切ない。

基本ですね。
修行、修行をどういうふうにして、どこで、何に学ぶのか、どうあるのか。

井上貫道老師の『正法眼蔵現成公案』提唱から


space

悟り体験をすれば、もう元には戻らないです

以後は、諸仏の過ごされた境涯というものをこの身体で楽しむことが出来るのです
   
―井上貫道老師




修行ということに関しては、一応悟ってしまえばもう関係はないと思っている人もおりますが、
とんでもない事だと思います。



悟るという事はですね、それで終わりというのではありませんで、二度と迷いの世界に戻れなくなるという事です。

例えば、分わかりやすくいうと、一度も来てもらったことのないこのお寺へ来てもらったら、もうその日からお寺に来なかった人にはならない。

どんなに騒いでみても、どんなにやってみても、もうお寺に来なかった前の人には戻らない。



それくらい悟りという事は人を迷わせない確かさがある、ということが悟りの大事な事ですね。



もし時間が経ったら忘れてしまうとか、元に戻ってしまうとかいうものだったら、尊ぶ所以(ゆえん)がないですね。


だから道元禅師が「一生の参学の大事おわりぬ」というような表現をしている。 参学の大事了



その体験をした事によって一応の決着がつきましたって、いうことですね。



それで私たちは見たこともなかった、行ったこともなかった悟りの世界に初めて足を踏み込んで、

諸仏方の過ごされた境涯というものをこの身体で楽しむことが出来るのです。



これで初めてそれが悟後の生活という事になるのかね。

ここら辺が楽しい処でしょう。

本当はこれをやってみたいわけですね。


そうじゃなければ、こういう祖師方の書かれたもの、残されたものを、
共に手を携(たずさ)え本当に参究して、
その味わいを味わうことはなかなかありませんね。



そういう人を作っていかないと仏法とかいうようなものがつまらなくなるんですね。
そうでしょ。

 

向こうの岸へ行ってないのに、こつちの岸から向こうの岸の話を一生懸命しているんですから、
こっちにみんな居るんでしょ。

お互いこっちに居るものどうしが、その中の人が向こう岸の話をした。

「お前行った事があるか」と言った時、「ない」といったらどうなるんですか?


(井上貫道『げんにーび』 (正法眼蔵現成公案提唱)p.181) 
 

井上貫道老師のことばです。


●眼は色を認識しないんです。
これは世間の常識では理解されないんですけど、眼が色を認識しているのではありません。

どこで色を認識しているかわかりますか?



●耳は言葉を認識しませんね。
耳は音を聞くだけです。

言葉にしているのは、どこか別の所にあるんですね。

でもって同じ言葉を聞いても怒ったり怒らなかったり。




●「心は壁のごとし」と言います。
風が壁に当たれば壁はどうなりますか?

やっぱり風を感じますよ。

でも認識はしません。

それと同じです。


 

●「本気で修行」と言いますが、目標を立てて一生懸命努力したりするのは単に力んでいるだけです。

スポーツだって、本気でやるときは力を抜くでしょ。





●世間的には修行というと、目標を立てて努力し、今の自分とは違うものになることだというイメージがありますね。

そうではなく、今の自分そのものに参じていくことが修行です。



 

●海外で指導していると、日本も海外も一緒だなと思います。

みんな何か目標を立てて努力をして今の自分とは別なものになろうとしてしまっています。


そうじゃなく、今の自分そのままが真実で何の問題もないんだということがなかなか伝わらないですね。





●修行が進むと何事にも用がなくなってくるので、一見バカになったように見えます。それが怖くて多くの人は頭を使っちゃうんですね。大丈夫です、本当のバカにはなりませんから。


 

●「禅堂に入るときには左足から入りなさい」と言われて「なぜ?」と思っちゃうともう分からなくなりますね。

なぜなんて思わず、そのまま「はい」と左足から入ればいいんです。

それだけです。
理解しようとするから分からなくなります。




●弓道では、余分なことをせず弓を引いて放せば飛んでいくんです。
そのように弓は作られています。 
 
余計なことをすると飛ばないんです。当たり外れもありませんね。

いかなる場合にも、矢が飛んで行った方向に矢が飛んで行きます。
飛んで行った方向と違う方向に飛んで行くことはありません。





●多くの人が、坐禅中においてさえ、理想を求める境地を頭で探しています。それは一見坐禅らしく見えますが、真実から外れています。





●真実は考え方じゃないんです。真実には説明がいらないんです。



 

●考え方で作ったものは脆いんです。

人間はあれやこれやと考えて、重箱の隅を突っつくようにして考え尽くし、これで完璧だ~なんて思ったりすることがあるけど、そこにちょっと違うものが入ってくると、とたんに崩れちゃいますよね。




●(机を叩いて「コン」)この音は崩れないですね。


 

●ほとんどの人は正しく見る力を持ってないですね。何かが見えたと気がついた時には、もう見えた後になってしまっています。





●眼は前に見たものを残しません。それこそが救いでしょ。何にも束縛されないんです。





●「むなしく死ぬ」っていうのは、自分のことが解決できないまま死ぬっていうことでしょうね~。





●「生まれ変わり」といいますが、次の生に生まれてきたということは、歴史上一度もありません。人生は一回こっきりです。

*編者註 
[仏教では、
たくさんの個人の魂があるとか、
亡くなったら肉体から出て行くとか、
生まれ変わり死に変わりして、魂が向上していくとか、
そのようなことは経典のどこにも書かれていません。
道元禅師も、辧道話ではっきりと否定されています「それは仏教ではない」と]

 

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