悟るまでは、似たような体験 (似て非なる体験) をすることがあります―井上貫道老師 本当に悟りを開けば、元に戻ることはない 井上貫道老師の『正法眼蔵現成公案』提唱 (『げんにーび』)から 悟り体験をすれば、もう元には戻らないです以後は、諸仏の過ごされた境涯というも
道元禅師
不思量底如何が思量せん―道元禅師『普勧坐禅儀』から
不思量底如何が思量せん 思量と不思量 思う前の状況がある 思うっていうことがあるということは、そもそもその前の状況がある、ということでしょう。思うという前はどうなってるかって言ったら、思いがついてないってことでしょう。人間はその思いがついていないところをあま
不思量とは―道元禅師『普勧坐禅儀』から
箇の不思量底を思量せよ 「不思量底」とは何を指すのか。 (カチン)これは人間の思い量りで聞いてるわけではない。 大きな音だとか、いい音だとか、一切そういうようなことなしに行われてる、 その辺を不思量底と言うんですね。 いちいち皆さんが今触れているところで
道元禅師『正法眼蔵』春秋 提唱(2)―井上貫道老師
▶自分の見解を起こさずに、本当に相手がしゃべってる時そのまま聞いているっていう事が穏やかな生活ができている証拠じゃないですか?ー井上貫道老師 2013年4月の井上貫道老師の静岡禅会でのお話です。② 道元禅師・正法眼蔵春秋の提唱から ①の続きこの前も紹介したんだ
道元禅師『正法眼蔵』春秋 提唱―井上貫道老師
▶私達は毎日朝から晩まで真実の中に生きていながら「おそらく一度も真実に直接触れた事はない」って言っていいでしょう。▶ 「お寺に座禅をしたいから」と言って座禅に来る。「何かわからない事ありませんか?」と聞く。誰も何も言わない。 「では、座りましょう。」と言っ
修行とは、いまここ自分ー自分の考え方・人間らしい見解なんてものは全く要らない
「佛道をならふといふは、自己をならふなり」 ―道元禅師▶仏道とは、本来の自己を自分で本当に見届けて、それに動かされることです。 ―井上貫道老師▶修行とは、どっか他所(よそ)でやるんじゃないんですよ。 ここでやるんです。いつもここでしか生きていないんだから
修行とは何もしないこと、何かに向かうと修行じゃなくなるー井上貫道老師
井上貫道老師のことばです。●眼は色を認識しないんです。これは世間の常識では理解されないんですけど、眼が色を認識しているのではありません。どこで色を認識しているかわかりますか?●耳は言葉を認識しませんね。耳は音を聞くだけです。言葉にしているのは、どこか別の