坐禅の仕方と悟り,見性,身心脱落:井上貫道老師の庵 まとめブログ

井上貫道老師が、悟りを体現された経験から坐禅の方法や仏道について語られたものを掲載しています web上に散見される井上貫道老師のことばも引用掲載し、まとめブログとしました ( これは参禅者によるブログであり、公式サイトではありません ) このブログが正師への参禅のきっかけになりますように

タグ:見性

今日、昔の人のように本当に大悟などできるものかという人が多いけど、これはうそです。

 
絶対にそういうことはない。
今日の人だって、必ずできるということです。
 

ただ、そういうことのあることを信じない。
 

それですから、せつかく坐禅儀などに方法も手段も説いてあっても、
それをただ理解するだけであって、
本当にやらんから分からん。


それだから、その体験がないから多数決でもって、
そんなことが今日の人にできるもんか、
と片付けたくなる。

 
もし本当に今日の人にできなんだら、経論みな焼き捨てにやならんです。

教えんでもいいんです。


こんなことが本当にあります、というたって、
今日説明として残っているだけで、
事実がないようならうそをついている。
そういうことになるでしょ。

そういう面で大いに考えなければならんところです。


―井上義衍老師 (井上貫道老師の師) 
(井上義衍『無相伝光録』p.41-42)

井上義衍老師とは→
こちら 






以下は井上貫道老師『正法眼蔵』提唱から


seiun気付かない限り[悟らない限り]、人間は本当にはケリがつかない。

毛筋ほどの疑いであっても必ず残る。


そういうものが残ると表現しきれない。


そのために生ずる
「悟りなどどうでもいい・必要ない・ないのが本当だ.あったら嘘だ」
というようなご意見は、もう一度考えて欲しいのですね。


悟りの正体を見届けた上でのお話として扱ってもらいたい。



一度も食べたことのない人が
「どうでもいい」とか「必要がない」とか「そんな味がするわけがない」とか、
もしそういう評価をしたらおかしいじゃないですか。


少なくともそのものをお食べになって味わった人なら
「これは商品として大したことない」とか酷評をしても構わないじゃないですか、
その場合言われていることに何か真意がありますからね。



ちゃんと食べたなら、
なんで「悟りなどどうでもいい」というのか、
なんで「必要ない」というのか、
「悟りなんていうのはあったら嘘だ」となぜ言うのか、
ちゃんとした理由がある筈(はず)です。


だけど食べない前に、食べた事のあるような話をしたらおかしいです。


だからここの処は私たちも気をつけたいところですね。


ー井上貫道老師 『げんにーび』 (正法眼蔵現成公案提唱) p.89



悟りの様子もみんなに具わっているんだけれども、
自覚がない限りは誰も自分にそれがあると思っていないのです。

そんな素晴らしいことがあるとは思っていない。

ー井上貫道老師


 他の井上貫道老師『正法眼蔵』提唱は、こちらのブログにあります
 ⇒ 『正法眼蔵を学ぶ』

 

井上貫道老師の『正法眼蔵現成公案』提唱から


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悟り体験をすれば、もう元には戻らないです

以後は、諸仏の過ごされた境涯というものをこの身体で楽しむことが出来るのです
   
―井上貫道老師




修行ということに関しては、一応悟ってしまえばもう関係はないと思っている人もおりますが、
とんでもない事だと思います。



悟るという事はですね、それで終わりというのではありませんで、二度と迷いの世界に戻れなくなるという事です。

例えば、分わかりやすくいうと、一度も来てもらったことのないこのお寺へ来てもらったら、もうその日からお寺に来なかった人にはならない。

どんなに騒いでみても、どんなにやってみても、もうお寺に来なかった前の人には戻らない。



それくらい悟りという事は人を迷わせない確かさがある、ということが悟りの大事な事ですね。



もし時間が経ったら忘れてしまうとか、元に戻ってしまうとかいうものだったら、尊ぶ所以(ゆえん)がないですね。


だから道元禅師が「一生の参学の大事おわりぬ」というような表現をしている。 参学の大事了



その体験をした事によって一応の決着がつきましたって、いうことですね。



それで私たちは見たこともなかった、行ったこともなかった悟りの世界に初めて足を踏み込んで、

諸仏方の過ごされた境涯というものをこの身体で楽しむことが出来るのです。



これで初めてそれが悟後の生活という事になるのかね。

ここら辺が楽しい処でしょう。

本当はこれをやってみたいわけですね。


そうじゃなければ、こういう祖師方の書かれたもの、残されたものを、
共に手を携(たずさ)え本当に参究して、
その味わいを味わうことはなかなかありませんね。



そういう人を作っていかないと仏法とかいうようなものがつまらなくなるんですね。
そうでしょ。

 

向こうの岸へ行ってないのに、こつちの岸から向こうの岸の話を一生懸命しているんですから、
こっちにみんな居るんでしょ。

お互いこっちに居るものどうしが、その中の人が向こう岸の話をした。

「お前行った事があるか」と言った時、「ない」といったらどうなるんですか?


(井上貫道『げんにーび』 (正法眼蔵現成公案提唱)p.181) 
 

井上貫道老師ー只管打坐の方法、坐禅の仕方

(坐禅を実際にしようとする人、実際に坐禅を組んでいる人へのアドバイスですので、ただ読むだけだと概念化されて却ってあとでそのことが障害になる可能性があります。ご注意下さい)
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Q.
考え方を離れよと言われますが、考えを断ち切ろうとするというのは間違いですか? 坐禅すると、ずーっと考えが出ていて止まらないんですが。


A.
断ち切るというより、断ち切れているんじゃないですか。

ずっと考えが続いているように思うかもしれませんが、よく見れば、次の考えが出た時、それまでの考えは次の考えによってすっかり消されているはずです。考えによって考えが断ち切られているんです。
最初に出た考えがそのままずーーーーっと最後までその考えだけで続いているなんてことはないでしょう。

でも人間は記憶があるから、それらの考えをつなげて、ずっと考えが続いているように思い込んでしまう。




Q.
「空(くう)」ってのはどういうことですか?

A.
このように、お茶を飲めばお茶の味がするし、飲まなければ味がしない。事実に触れればそのとおりになるし、触れなければ触れないようになっている。そういったことを「空くう」と呼んでいます。要するに、普段の我々の心身のありようのことです。

「無心」ってのも同じ意味です。一般には、雑念や妄想が出てこず、心の中に何も無く静まり返った様子のことだと勘違いされていますけどね。「無念無想むねんむそう」とか(笑)。

Q.
坐禅をすると、わーっといろんなことが出てくるんです。

A.
実際には普段から出ているんです。でも普段はいろんなことで気が紛れているから、出ていることに気がつかないだけです。坐禅をしていると他のことが収まるから、いろんなことが出ていることに気づくだけです。

その出ていることを抑えようとするのは、かえって心を騒がしていることになるでしょ。だって、出てきてしまったものをあとから無くそう無くそうとしているわけだから。出てきてしまったものはどうしようもないのに。

そうではなく、出たものを出たままに、何も手を付けずにいれば、全然心を煩わさないよね。これが本当の「心静か」ってことです。



Q.
「自分の様子をきちんと見るのが坐禅だ」と言われたり、「自分で自分を眺めていては坐禅になりません」と言われたりします。何が違うのかよく分かりません。

A.
「自分を眺(なが)める」ってのは、過去の様子を後から見てることです。自分の感覚や経験を一瞬あとから思い出して取り上げているんです。

そうではなく、「今」の自分の様子をきちんと見ることが大切です。

本当に「今の様子」それだけを見ている時は、それだけだっていうことも分からないはずです。だって、「これが今の様子か」なんて余分なことが出てくる余地がないんだから。





●不思量底(ふしりょうてい)を思量(しりょう)す
これが一番大事なところです。「坐る」というのがどうすることなのかということです。

今までは身体の形を整えるということでしたが、その後、時間をどのように過ごせばよいかということ、これが抜けたら坐禅にならないということです。

人間の考え方を入れないというのが「不思量ふしりょう」です。直通であるということです。全てのものに、わけへだてなく。



●坐禅については、今、説明したことが全てです。世間の書物などで坐禅について書いてあるのは、形を整えたりなんだのばっかりです。ここのところを書いてあるものはありません。



Q.
普段の生活の中でも「不思量底を思量する」必要があるのですか?

A.
坐ってるときだけが坐禅じゃないです。24時間そうです。

あなたが生きているということだって、「時々生きている」なんてことないでしょ。
坐禅だって同じことです。


自分自身を学ぶというのは、よそにあるものをここに受け入れてこれを改造することではないです。

仏様の教えが外にあって、それを受け入れて学ぶということじゃありません。

自分自身を自分で学ぶということが仏教です。

それをしたのがブッダです。
「自覚した人」という意味です。


自分自身をしっかり見極めるということに尽きます。

その時に考え方が入り、考え方を通して見るようになると、
自分自身の事実がそのまま把握できず、間違ったことになります。




Q.
考え方に惑(まど)わされなければ迷わないのですか?

A.
惑わされないのではなく、考え方を使わない、です。

誰だって、考える前の様子があるでしょ。


例えば、音がしたとき「音がした」って思うかもしれませんが、本当は、自分の動き、身体の働きに気づいたってことでしょ。
音がするっていうのはこの身体の働き、様子なんですよ。

身体の働きに気づいたってことが「見えた」「聞こえた」ってことです。


みなさん、向こうに音があって、それをこちらで自分が聞いていると思っているが、そうじゃないです。

このもの(身体)の活動に触れたんですよ。

このものの活動に触れることが「見た」「聞いた」「味わい」だとかっていうことですよ。


この身体の上でしか体験できないんですよ。





Q.
たとえば、集合写真とかを見た時、まず自分の顔を一番最初に見ますよね?

A.
一番最初には見ません。まず最初に写真の様子があるでしょ。その後で自分の顔を探し始めるんでしょ? 写真の様子がなければ自分を探すこともできないでしょ。探す前に、一番最初に見えているこのことが、自分の様子なんですよ。

写真じゃなくて、自分の様子なんですよ。見えるってことは自分の様子なんですよ。だって他の人が見てるんじゃないでしょ。



Q.
ああ! 自分が見てますね。

A.
自分が見てるってことが、今、自分の生きてる証拠でしょ。それ以外にないでしょ。



Q.
いつごろから自我意識が出てくるんでしょう? 幼稚園のころから? 三歳のころから?

A.
人が寄ってたかって教えるから。名前を付けて、何万回と呼ぶから、「私のことを言ってるんだな」と認識するんですね。他の人ではなく私のことを言ってるんだという自己意識が生まれる。

最初は、本人自体、声が聞こえてるって認識(にんしき)もないですね。

自我意識が出てくるのは二歳ぐらいでしょう。三つ子の魂といいますね。昔は数え歳ですから。



Q.
自我意識はあって当然ということですか? 不思量ってのはそういうことですか? あって当たり前と思えばいいんですか?

A.
そういうことじゃないです。

どんなに自我意識があっても、みなさんは自我意識を使わずに生活していますよ。

(両手を叩いて)「パン」、こうやった時に、「私が聞いた」なんてことは一つも使わないでしょ。どれだけ自我意識のある人であっても。「私」っていうのは入らないんです。聞いたあとから起きてくるんでしょ。「今私が聞きました」ってことは、もう聞こえたあとですね。

画鋲を踏んだ時に「痛っ!」ってのも、そういうことがただあるだけです。「なんで俺が!」ってことはないでしょ。みんなそういうふうに、自我意識なしで生活していますよ。自我意識はあとで付くんですよ。終わった頃に付ける。

そっちから物をながめたら真実が見えないです。



Q.
修行って、自分の思いを断ち切ることですか? 無色になることですか?

A.
(机を叩(たた)いて)「コン」、これを聞くときに、自分の思いを断(たち)ち切るんですか?



Q.
断ち切るんじゃなくて、無いですね。

A.
「思いを断ち切る」なんて言葉が出てくるってことは、何か違うものを学んできたんでしょうね。断ち切らないとうまく行かないと思ってるんでしょう。

でも現実は断ち切ることなしに、「コン」、うまく行くようにできている。





●「私」らしいものは付かないで、人は、確かにいつも触れています。だからずれないんだよね。正確にものが伝わるというのはそういうことです。もしみんな自我意識で物を見ていたら、てんでばらばらになっちゃうね。



●よーく自分に参じて、自分を見てみれば、自我意識がついてないことがよく分かります。でも考え方の上から勉強する人は、到底その話は通じない。



●色眼鏡を掛けている人が、色眼鏡を外さずにものを見てると、必ず色眼鏡を掛けた色でしか見えないからね。色眼鏡を外したときの色なんて分かりっこないね。そのように、考え方で生活している人は、考え方を外れた時のものの見え方なんて、無理だね。





●「パン!」と聞こえて「音がした」って思う時には、もうその音は無いんです。
だから人間の思量分別をそこに差し挟(はさ)むことができないんです。

だから坐禅は、人間の「知る」「知らない」といったことは論外ですね。



● 別々にものがあるんじゃないですよ。
向こうにものがあって、それをこっちで触れて、って、それはそう思ってるだけです。

事実はそうじゃない。
別々のものなんて一つもない。自分と別のものなんて一つもないじゃないですか。




● ここにたくさん人がいますが、これを自分の様子だって言っても、なかなか伝わらないね。
長年坐禅をやってる人でも分からない。

それぐらい自我意識をしっかり立てて区切ってるでしょ。

これ全部自分の様子ですよ。




● 修行は「思い」ではないんです。「こうやればいいんだ」って方程式を立てておいて、それに沿ってやることではないです。




● 「ああ、わかった!」ってなると、たいがい考え方です。




● (別の老師)この中には長いこと参禅しておられる人もおりますが、みなさん、どうも頭で理解しようとしている様子が見受けられますね。
頭で分かったふうになっても進歩はありません。

とことんまで聞いて、そのとおりやってくださいよ。

私もさんざん苦労したから言ってるんです。せっかく老師に来ていただいているんですから、もっともっと尋ねてください。





●初めて会った事実は、いつでもそのまま入ってきます。なのにすぐに概念化というオブラートをかけてしまうんですね。




●坐禅中にいろんな考えが出てくること自体は「事実」です。
でもそれにひきずられたまま考えにひたっていると、「考え方」の世界に行っちゃいますね。

だからと言って『考えが出てきた、まずい』と思うと、それも考え方の世界ですね。

もちろん『考えないようにしよう』と努力するのも考え方の世界でしかありません。
考えが出てくるという事実に自分が関わって考え方に変えてしまっているんです。

実際には、つかむものなんて何にもないんです。


 
 

●『悟り』という字は『吾を示す』となってますね。『仏』とは自覚した人のことです。自分に気が付いた人のことです。思いやはからいを入れずに、よーく自分を見てみることが大切です。

 
 

●仏教が難しいのは、ありがたいはずだ、超越した境地のはずだ、といった固定概念で真実を探そうとするからです。

 

● こういうふうに見ればちゃんとこういうふうに見えます。「こう見なけりゃ」っていうのはないです。



● 六根の働きのままに、浮かんできた思いをとらえずに手をつけずにそのままにしておく。




●考えを「やめる」んじゃないですよ。

事実に即していれば、考えが「やまる」んです。




●「音、音、音」じゃないですよ。「ザワザワザワザワ・・・」、これだけですよ。「ザワザワザワザワ・・・」、これこそが本当の受け身というんでしょうね。



●ほとんどの人は正しく見る力を持ってないですね。
何かが見えたと気がついた時には、もう見えた後になってしまっています。




●眼は前に見たものを残しません。それこそが救いでしょ。何にも束縛されないんです。 




● 目・耳は良し・悪し、好き・嫌いを判断しない。
聞こえたもの、見えたものはその場でその場で完結しており、一切残らない。

それが事実であり、その事実に参じるのが修行。



● みなさんは、本当に物があると思っていますからねぇー




●本当に事実に触れれば、底が抜けてすっきりしますよ。





●坐禅をやらなければ疑問があるはずですし、しっかりやればやったなりに、さらに聞くこと
が出てくるはずですよ。


 
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