坐禅の仕方と悟り,見性,身心脱落:井上貫道老師の庵 まとめブログ

井上貫道老師が、悟りを体現された経験から坐禅の方法や仏道について語られたものを掲載しています web上に散見される井上貫道老師のことばも引用掲載し、まとめブログとしました ( これは参禅者によるブログであり、公式サイトではありません ) このブログが正師への参禅のきっかけになりますように

タグ:東京都坐禅会

◇井上貫道老師のことば◇

● 修行に時間がかかる人は、結局、何も実践していなんだね。
(月1回の座禅会に2つ、3つ来て、坐禅して法話聞いて、1か月後にまた坐禅会に来て、坐禅して法話聞いて、それをまじめに長年繰り返すなど)


● 
Q.
坐禅はどうやればいいのですか?

A.
この身体で、今、生きているこの様子がありますから、それに無条件でいてみるっていうことです。

頭のほうで何か探るのでなくて。

事実、今、こうあるものの方にこう、そのまま、照らされると言っていいのかな。このままいてみる。



考えを使ってないからといってボヤーッとしているってことはありません。


よく「坐禅で何も考えないようにしてお坐りください」って言うと、「なんかボーッとして何してるのか分かんなくなる」って質問される人がたくさんいるけど、そんなことはありません。

明確です。

クリアです。


そして、そういうものによって、本当に、
最終的には、
自分も物も、そういう隔てるものが一切なくて、
いきなり「向こう」と「こっち」とか、
「私」とか「あなた」とか
っていうようなことがなしの動きがそこに展開してる、

そういうものに必ず人は触れます。
 

そういう時に、少なからず、今まで祖師がたがいっておられるような内容がですね、

ちらっと「なるほど、そうだな」って思えるぐらいには間違いなくなると思いますね。


そっから、今度は安心して修行が出来るんじゃないですか
ね。


「どうしたらいいか」っていうようなことも問わなくなる。


そこまで連れて行きたいですね。あとはもう、やってもらうしかないな。


以上は、本来のカテゴリー 坐禅の仕方 にも置いておきます
→ http://zazen.blog.jp/archives/1029348259.html
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禅 茶話会 思わない時に人は苦しんだことがない、~2012年9月井上貫道老師東京都青梅禅会⑦


一旦中座し、お茶お菓子を頂きながらの茶話会となりました。
前半はやはり老師のお話がそのまま続きました。




今の一瞬一瞬なんですね、って事おっしゃった方が
おられたので触れておきますが、
 
一瞬ってどういう時間でしょう。
 
 
皆さん、頭でなんかここからここまでというスパンを切って
そうやって一瞬っていう時間を作るけども、
時というものはですねえ、
そんなふうに区切られた事ないんですね。

 
ずーっと、私よく使ってるけど、今のあり様だけども、
今のあり様っていうのは、どこから今の様子になるかっていって、
スパンないんですよね、どこにも。
 
 
だけど間違いなく、さっきの事ではないんですね。
そういうふうに本当はできているんじゃないですか?
 

一瞬なんてどっか区切られるような気配は全くない。
 
頭でどっかで線を入れて区切ってつけるんだけども、
事実ってそんな事ないのに見事に変わるんですよ。
 
変わるのもですねえ、



(老師扇子を広げる)
 
こうやって、勉強ですよ、いいですか、こうやって、
今こういうふうに見えてるけども、皆さんの目の前で
こうやってやると、前の事はどこに行くんでしょう?
 
今見えてるの、どこに行くんでしょう?
 
今見えてたの、変わるんだけど、前見てたものどこに
行くんでしょう?


どこから新しい事が出てくるんでしょう?
 
手品みたいだけども、こうやって皆さん毎日過ごして物に
触れてるんですよ。
 
だけど、見極めた事がない。
 
どうなってるか、
前の物がなくなって新しい物がそこに出てくるって
いう事はないです。
 
いいですか?
 
このまま、今こういう形のもの、こうやったら一瞬のうちに
こういう形になるのであって
前の物がどっかに行く、なんていう気配がないうちに
ただ、こういう動きがあるだけで終りですね。
 
こんな事知ってますか? 



これは、例えば、子供が悪い事をしたって言った時に、
悪い事を止めて正しい事をするように教えるって事がいかに
この道理から比べたら違ってるかって事を学ぶべきでしょう。
 
悪い事を止めといて、新しい事をとりあげるなんて事は、
このままで、いきなり今の事が展開されて全部変わっちゃう。


ところが道徳っていうのは、いったん悪い事をした事を認める、
それを改めて良い事をするように教えていく、それ道徳。
 
だけど事実は道徳と違ってもっとすごい働きをしている。


そういう事も釈迦という人は自分を見極め、
そういう事もきちんと認めてますね。


いっぱい、いろんな事で私達は普通に、そこに平常心、

誰もが普通に生活している事で、しかも見極めてない事だらけです。

 
(老師、扇子を広げる)
 
こうやって私がやったら、どうしてもそれは井上さん[井上貫道老師]がやってる事
ってしか思えないじゃないですか。そうでしょ?

 
自分はやってないものね。
 
扇子を持って広げたわけではないもの。
 
そんなことないって、みんな思うんですよ。
 
思うんだけども、自分の眼をよく見てみると、その通りの事を
自分の眼がやるのですねえ。
 
不思議ですねえ。
 
人の事だと思ってるはずなのに、自分の眼が
、人がやってる事で一緒にやってるんですね。

あっちで虫が泣いてるから虫の声だって、
私には関係ないと思ってるかもしれないけど、
ミンミンミンミンミン って、これ、ちゃんと響いてる。
 
そうやって豊かに生活するんでしょ?これが。

 
あるいは向こうで泣いてても聞こえないなんて、
何にもおもしろくないじゃないですか。



泣いた時に、その一時間くらい経ってから聞こえるようだったらさ、
事故を起こしちゃうよね。
ズレができてね、


だけどズレがないからそうやって楽しめるんでしょう。
 
トンボが目の前飛んだのに、30分後に飛んだようにみえる
なんて大変なんでしょう。 
それは自分の事だからそうなるんですよ、
 
人の事だったらそれくらいなるけど、自分の事は、
トンボが目の前飛んだで済むでしょう。
 
そういう生活をそこで楽しんでいる。
トンボの事でなくて。
 
そういうので、ずいぶん誤解してるよね。


 
別々に見てるんです。物事を。
だけど理論的に考えたって、今っていうものは、
向こうに今っていう時間があって、
こっちに今っていう時間があるって、
二つの今っていう時間なんてないんですよ。
 
それが理論的に説明する時に使う。
 
 
今っていうのは、必ず一枚。
 
向こうとこっちっていう関係ではない。必ず。
 
だからずれない。


(ぱしっ、老師扇子で机をたたく)
 
 
ずれない。

 
 
ずれないから役にたつ。
 
親子でも息がぴったり合う。
 
(ぱしっ)
 
ずれない。
 
(ぱしっ)
 
意見の違いが絶対起きない。

 
そういう真理が基本的にあるじゃあないですか。
 
好き嫌いとは別に。
 
いい悪いとは別に。
 
人間の感情とは別に。
 
どうしてもそれと一緒になって生活しなければならないように
出来てるって事。

 

それを知らないから
人間生活の上では
自分の考え方、自分の好き嫌いの上からものを見るって事が
習わしになって、まあ誰もがやってるから、
公に良しとされてるんでしょう。


それ以上、深い自分のあり様っていうのをみようとしないから、
結局本当の自分のあり様を見極めてない。
自分の事でありながら。
 

で、何か事柄があると、騒ぐんだけど、どうあったらいいかって
騒いだ時に根本がわかってないから、どうしようもないのが、
疑いじゃあないですか?
一番最初は何も騒いでませんよ。
 
どんな事でも。
 

俺おれ詐欺とかってあるけど、騙されるっていうんだって、
気がついた時から始まるんだよ。
 
「あっ、騙された」
って思った時から問題が起きるんで、それまでは
いい気持ちでさー、「どうぞっ」とか言って施しができて
気持ちよく施してるんでしょう。
やってあげて。
 
一瞬のうちに地獄に落ちるんでしょう。
 
「騙されたー、くそー、」とかって言って。そんなもんだよ。
 

で、騙していいかっていうとそんな問題じゃないけどね。
そういうことを問うわけではないけども。
 
それくらい平和に過ごせた自分がいるにもかかわらず、自分の思いで
平和に過ごせてた時の素晴らしさを全部ないがしろにして
奈落の底に自分で落ちるって事じゃん。
 
つまらない考え方を起こして。

 
誰も他の人はやってない。
 
そこも大事な事でしょう。
 
他の人が、「あんた、騙されたねっていって、「思いなさいよ」って、
「間違いなく騙されたんだから騙されたって腹立てなさいよ」って言われて、
そうやってくそーと思ったわけではない。
 
たった自分が一人、「あっ」、と思っただけでそうなる。


それが、日常騙されるってそういう悪い事でなくても、
親子の会話の中でもそれに似た事しょっちゅうやってるわけじゃない。


いつも自分のものの見方やそういうものがあって、
聞いたり見たり、触れたりしているからそうなるんですね、
考え方なんかめちゃくちゃなんだもの、人間って。


さっきまではいい人だと思ってたものに対して、なんだ、あいつは、って
すぐそれくらいコロっと変わるような事平気で思えるんだものね。

 
あてにはならないね、自分の思いって。
そのくらい、いいかげんな思いを皆さん方、信じて生きてる。
 
そういう事だって、考えて御覧なさい。
 

自分自身って変な奴ですよ。
 
ものすごい変な奴ですよ。
 
それで、みんな人のせいにする。

 
そういうふうになったのは、人がなにかさせたと思ってる。
そうじゃないしょ。
 
自分が自分の中でふっと思っただけですよ。

 

だからそういう事思うなっていうんじゃなくて、その事がわかりさえすれば
それに騙されないじゃないですか。
 
そういうふうな思いが起きても。
 
そういう人になったらいいじゃないですか。

 
そうしたら放っておけるじゃないですか、いろんな思いが起きても。
それがわからないと自分の中に起きた思いが気に入らない思いだと
自分で騙されるから、もっと手をつけてぐじゃぐじゃになって
どうしていいかわからんようになる、
そういう事をしないように生きて欲しいですね。
腹の立つ思いが起きたって、

(ぱしっ)
この通りです。

 

思った時だけそういう事がそこにかろうじてあるけど、
思いが止んだらないじゃん。


 
だから最初に申し上げたように、

思わない時に人は苦しんだ事ないですよ。
 

手がこう、すばっと切られたりして、
それだけですよ。
 
思い始めると、いろんな事ぐずぐずぐずぐずいっぱい出てくる。


だから時々何も思わないでいると人間楽になるんですよ。
 
スッキリするでしょう?しませんか?

 
疲れきっちゃうと、もう考えやめてる。

 
大の字になって寝るとはあー、いいなー、
 
ほとんど考えてない時ですよ。
 
だったら止めたらいいじゃないですか。

 
考え方止めたってねー、本当にお茶飲んだらお茶の味が
わからなくならないんです。
考え方止めたら、

(ぱしっ)
 
音がしても聞こえないって事はないんだよ。
 
全部機能はきちんとしてるんです。考え方止めても。


 
ところが考え方止めると人間愚かになると思ってる。
 
だからいろいろつまらない事考えてる。いつまでも。


だから日常生活にいるとなかなか難しいから、
さっきのように(座禅30分した事)少しの時間暇をとって、
いつでもどこでもいいから、静かに座って考え方を止めて
過ごしてごらんなさい。


その時なら間違いなくどんなものでも、どんな考え起きても、
放っておいても、生活の支障はないから。
放っておいたら楽になる。
 


焚き木だって、燃えた時に火に油を注がなければ燃えて終りです。
 
ところが、人間は何か思うと、そこに次の思いを加えるから、
あたかも火に油を注ぐようにどんどんいろんな思いを入れるから
いつまで経ったって余分な思いが止まないだけですね。

 
そんなことみんなよく知ってるでしょ?
 
 
考え方で何か整理ができると思うからつぎ込むんですね、考え方を。

 
考え方を使わない事が考え方を離れる唯一の道でしょう。

 
あとは、実践して、なるほどってものにするしかないじゃん。


 
こんなの、いくら後で、理屈で考えたって何の役にも立ちませんよ。


引用元

⑧へ続く。

 

禅 事実は人を騙さない、苦しめない~2012年9月井上貫道老師・東京都青梅禅会より⑥ 


うち[井上貫道老師の寺院・少林寺]の座禅会でもこの前、こんな事があった、

おじいちゃん、人は生まれたら必ず死ぬのになんで働くの?って、
小学校一年生の子がおじいちゃんに夏休み聞いたって話。


で、お前はいつからそんな事を思うようになった?って聞いたら、

五才の時に自分でそういう事を思ってるって、
小学校一年生の子が答えた。


皆さん、そういう質問されたらどうしますか?

人は、生まれたら死ぬ、間違いなく死ぬのにどうして毎日あくせく働いてるの?

何のために生きている?

生きるってどういう事かって事でしょう。


そういう意味でしょう。

そういう事、一年生で聞く力があるんですよ。


もしそれをちゃーんと聞いて育てられたらすごいな。

こちらに力がなければその子供を育てる事はできないね。

真面目にそのこが言ってる事、受け入れられないね。



それ一例ですよ。

そういうような事、日常茶飯に行われているわけでしょ。

大人の方はなんか子供より偉いと思っているんだよね。

そんな事はないって。


それ位大人は傲慢なんです。


だから成長しないじゃないですか。大人になると。

ある程度までいくと成長しない。

あとはなんだか突っぱねるだけ。

で、もっと突っぱねておもしろくなくなると、
嫌な顔してもう口も聞かないような人生になる。
自分で。



それで隔離されていく、
どんどん社会から。
一軒の家から。

それでこっそり死んでいく。

亡くなる頃には誰も見向きもしない。

そういうふうな人生歩んでいる人たくさんいますよ。 



だから、今を勉強して欲しいんですよ。 

本当に簡単な事ですよ。 


自分を見極める。


向かいさえすれば必ず見えるんだからね。 


いつでも。そんなに上手くで来ているんですよ。

空っぽのような頭でも、向かいさえすれば見える。 


(老師、手を握る)


こうやって握りさえすれば、すぐわかる、
握った事が。

重さでも温かさでも。


実物ってそれ位膨大な思量、内容を持っているんですね。


研究して蓄えるよりはもっとすごい内容を持っているんです。

事実は。

もっと気楽に生きたらいいじゃないですか。



初めて会う人にこうやって会ったって、
何にも苦労しないじゃないですか。

知っておかなきゃ、会って話するのに困る事ありますか?

なにか。

そんな事ないでしょう。


なんでいろんな事探るの?

粗末にならないようにするっていうんだろうけども、
粗末にするような気持ち何で起こるの?

それは、あの人は偉い人とか偉くない人って事自分で見て知るから、 
そういうふうなつまらない事が起きるんでしょう


それがなければ必ず丁寧に触れるでしょう。
そういうもんでしょう。

持ち物がなければ必ずどんな人にだって素直にその通りに触れるようにできているんじゃないですか?

ところが自分の中で、いろんな事知る事によって逆に立派な人だったらこういうふうにするけども、
ちょっとどうでもいい人だったらまあこれくらいでいいかなって
そういう事をするつまらないものでもあるね。

知った為に。


レストラン行ったってそうでしょう。

あー、なんだ、百円のものかって。

そういう扱いするんじゃないですか?

知りもしないのに、なんかすごいシェフが作った千円位の料理だって言われると
じゃあしっかり味わって食べなきゃ。 

そうやって、そんな味わい方をするから、
本当の味を味わう事できないんじゃないですか?

何もついてないで、どっちもやったらちゃんと味わえるんじゃないですか?

それが私達の本義じゃないですか?

皆、そういうレッテルに騙されているんじゃないですか、
人がつけた、あるいは自分がつけた。

そこまで一回自分を剥ぎ取って見てください。 


私は釈迦って人は、本当に六年、
菩提樹の下で来る日も来る日も座ってたって事を読んで、 
そういう事を思う。


六年の間、何をしてたんだろう。


本を読むわけでもない、
人に話を聞くわけでもない、
こうやって座って、
寝てるわけじゃない。

目を開けてこうやって、



ひたすらこの真実に目を向けて、
それが自分の真実に触れてる時どうなってるか、
極め尽くしたんだと思いますよ。



(カチッ)
 

向こうで音がしてこっちで聞こえるなんて時間はない。

ないですよ。



(カチッ)

いきなりカチッと音がして終りです。


聞こえたとも、聞いたとも、なんともそんな事はないんだけども
 

(カチッ)


カチッってそうなるね。


上手く出来てますね。
 

それまではやっぱり普通に勉強していれば、
聞くから聞こえるんだとか、
そんな事いうじゃないですか。


じゃあ聞かないって言って、
私は絶対そんな事聞かないって言って、
聞かないようにしてて、


(カチッ)


こんな事したら、どうなるか

いくら頑張っても聞こえちゃうな。


(カチッ)

こういう事勉強するわけです、

考え方じゃないって事を、



事実というのは考え方を遥かに超えて、人を騙さない、苦しめない、

しかも、どこにもそれが体験したにもかかわらず、いきなりそれで終わってしまう。


蓄えてなくても、

(カチッ)

聞くのに何にも困らない。

さっき聞いた聞き方を蓄えてなくても、何にも困らない。



(カチッ)

音がしたらちゃんと聞こえる。



練習しなくてもいいようにできているって事ですね。

練習して初めて聞こえるって事ない。

人間の本質だから子供が成長するんでしょう。すごい勢いで。
 
大人は顔負けって言っていいでしょう。
 

大人がとっても敵わないくらい。
 

普段は大人が子供を育てるとき、大人は知らないから、子供の良さを全部壊していく、
 

力関係でやっぱり大人の方が力があるからぐっと抑えつけられる、

何にもできないからしょうがない、その子供は言われるままにやる。



言葉でもそう、ばばばばって言われれば、返す言葉もない、子供の頭では、

だからしょうがない、そうやっているけども、

ものすごい理不尽な事だから体力がついて能力が学校出る位になったらばんばん返ってきますよ。



その頃になると、急に何でうちの子はおかしくなった?って、
反抗期だ、恐ろしい
とかって言うけど、そうじゃない。


そんなの、前から予兆はあるんだよ。

知らないのは本人、大人達だけです。


自分がそういう事やってきた事知らないから。

正しいと思ってそれをやってきた、
だけど一番正しい事全部、ないがしろにして育ててきている事、 
子供に対して耐えられない事なんです、


せっかくの伸びる力、全部むしりとってきたんだもの。



そういうのは現代社会で著しく今、問われているんじゃないですか?



いろんなところで研究会して、文部省とかあーいうのでも、学校の先生も困ってる、


どうやったら、

子供はそんなに愚かじゃないって、触れてごらん、地域の子供でも。

どうしようもない子供なんか一人もいないんだよ。


そこまでなるのには理由があるんです。



もうほとんどの人が承知のようにその身の回り、一番近い環境にいる人達が影響してるって事、みんな知ってますよ。



あとざっくばらんにいろいろ話してください。




引用元:(ブログ作成者の許可をえています)

禅 座禅の心構え ~2012年9月井上貫道老師・東京都青梅禅会より①

以下井上貫道老師より御挨拶、座禅の心構え、座禅指導


 坐禅のやり方、坐禅の実践方法 ← ここにも井上貫道老師が詳しく話されています


ご丁寧な紹介並びにご挨拶頂きましてありがとうございます。
それほど忙しい者ではございません。
暇だから出てきているので。

というのはですね、誰も一日は24時間なんですね、
だからそれを超える人もなければ、それよりも短い生活をしている人もない程、
あとは何処にいるかだけなんですね。

それで何処にいるかをよーく見ると、
皆さんどういう風に考えているか知りませんが、
掛川から東京まで来るの大変だねっていうけど、この身体ずーっと運んでいるだけなんですね。

皆さん今日一日だってそうでしょう。
この身体がいろんなところに行っているだけじゃないですか。

それをよく見るといつもここにいるんですね。

ここというのはこの身体のあるところです。
自分がいるんですね。

そういう意味では行き来するものがないんです。

頭の隅で掛川と起点を置いて東京ってやると、掛川と東京まで大変だって思うけど、
この身体をずーっと見てると、ずーっとこの身体のあるところの様子だけがあるんですよ。
どこへも行かない。


そういうことが伝えたい事なんです。

間違えなくそうなんです。


そうすると忙しくなくなるでしょ?

あそこ行かなきゃ、ここに行かなきゃってそんな事無くなるじゃない。
今この身体のあるところのあり方をきちっとやって行けばそれで済む事でしょう。


zendoshihotanそれでこの後、座禅をして頂くのだけども、座禅について心構えという事だけども、
こういう事言ったらいいかと思うんですよね。


人は考えていない時に悩んだ事はない。

どうですか?
(左図はイメージです)

自分の中に考えが浮かばない時は悩まない。

どうですか?

そういう体験はわかりますか?


悩むっていう時には、あーどうしようか、あのときに、あの人と、、、
そうやっていろんな事思い起こして
考えてること、やり始めるとものがよくわからなくってどうしようかって
いうことになるんだけども

考えること止めている時はものすごく、クリアーでしょう、物事が。


で、何をするってことも必要のないくらい穏やかに、そこで生活していて
しかも自分のその内容が自分で手にとるように明確にわかって
疑いが一つもそこにはない。


そういうことで坐禅をすることは自分自身を見究めるってことなんでしょうね。


だから、最初から自分のそういう風な姿というものが今現前とありますから、
尋ねなくていい、それが坐禅のおもしろいところですね。

距離がないってことです。

今間違いなく自分のあり方ですから、
その自分の間違いない自分のあり方がここにあるから、
それがですね、探さなきゃわからないようなものじゃあない。
ということですね。



坐禅をするとき、たずねない、

尋ねないっていうことは、距離がないていうことですね。

これが坐禅の時の、どういう風にしているかっていう時にこういうことです、


尋ねない、

距離がない、

隔てがない、

これがですね、皆さん方にこういう話をしたときに、なぜか難しいんですよね。
なぜか難しく感じるんです。


それは皆さん、普段生活しているときに、必ず向こうに対象物を置いて、そしてそれに
一緒になるということをやっているんですねー。

そういう生活しかしてない。


だから対象物もないから、いきなり自分自身の様子ですから、そうすると
探さないということはですね、すごく難しいんですね。

探すほうが楽なんですね。

探すんだったらやることがあるから。


やることがあるといいんだけど、これ(坐禅)、やることないんだよー。座っていて、
やることがないと、皆さんの頭の中がパニックになる。

どうしてパニックになるかというと、
何もしない、どうするんだろうって考えるからですよ。

それを止めるのですね。

そういう思考を止める。

そうすると、今こうやって身体全体で活動している動きがそのまま、そこにさらけ出されます。

それを皆さんが見ることが、自分を見究めるって事になるんですね。

まあ後でゆっくり話はしましょう。
    (長いので下に続きあります)









禅 座禅指導 ~2012年9月青梅禅会より②  
続きです。

椅子に座ったままでの坐禅指導をしていただきました。

それでは席を後ろ向きにしましょうかね。

五分くらい、作法を簡単に説明をして、30分くらい座ってみたいと思います。


まずですね、

椅子に腰掛けて頂いた時に、背もたれがありますが、せっかくの背もたれは利用しません。

背もたれから離します。

要するに、自分の力で背中を伸ばすということです。




それでは下のほうからやりますが、

足を肩幅くらいにちょっと開いて頂いて姿勢を起します。

顎を引きます。
顎を引くっていうのは、頭を垂れるってことではないんですね。
頭をまっすぐにしたまま、顎を引き寄せる。


でそれから膝の上に置いた手を両方仰向けにいたしまして、左手の上に右手を、
そして親指の先を軽く触れ合わせてそこに楕円形を作ります[法界定印ほっかいじょういん]。


そしたら肩の力を抜いておろします。
下ろした位置はあまり前の方に出すと肩を引っ張りますから、できたらお腹の方に触れるように寄せてください。
そして肩の力を抜いてください。


次に口の処理です、
口は結んで頂いて、舌べろの先を上歯の付け根に少し着くようにします。
そして、唇、歯、を結びます。


力を抜いて体が萎むような感じで息をずーっと吐いてください。
吐ききったら大きく息を吸ってください。
そしてゆっくり吐きます。

三、四回そうやって腹式の深呼吸をして頂いたら、静かに止まって、これから30分位座ります。



鳴り物を入れますので次の鐘がなるまでの間


もう一つは目の処理ですが
目は開けて頂いて座ります。

これはなかなか話をしているのだけども、目を瞑って座られる方が圧倒的に多い。
座禅は目を開けて座るのが一応正式と言っていいでしょう。


それには深い訳があります。
目を開けて座る。
だいたい前方45度位の視線にして頂く。
そうすると半眼位の目の開きになりますので、そういった形で目を処理します。


ここまで出来たら、椅子の場合はですね、ちょっと作法が変わりますが
体を少し左右にゆっくり振ってください。
曲げてください。
それは上半身、腰から上の体を楽にします。

緊張を解す意味がございますので力を抜いてゆっくり左右に曲げていって、
その時に息を吐いて曲げてもらうとさらに効果があります。

そして息を吸いながら元に戻して、腰の付け根からずーっと
四、五回そうやって体を緩めて頂いたら中央に止まって頂いて、
今度は息をゆっくり静かに全部吐き切って頂きます。



 坐禅30分しました。


坐禅の途中、老師は静かな声で、


目を開けて下さい。

目の前の様子が見える、いろんな音がします。

それらは考え事ではありません。

見たもの、聞こえたものに価値判断をしなければ、事実そのものに触れています



と語られ更に坐禅は続きます。


 坐禅のやり方、坐禅の実践方法 ← ここにも井上貫道老師が詳しく話されています





引用元:
http://ameblo.jp/10wanko28/entry-11498533585.html
http://ameblo.jp/10wanko28/themeentrylist-10067613814.html





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