坐禅の仕方と悟り,見性,身心脱落:井上貫道老師の庵 まとめブログ

Dharma Talks of an enlightened Japanese Zen Master Kando Inoue Roshi 井上貫道老師が、悟りを体現された経験から坐禅の方法や仏道について語られたものを掲載しています web上に散見される井上貫道老師のことばも引用掲載し、まとめブログとしました ( これは参禅者によるブログであり、公式サイトではありません ) このブログが正師への参禅のきっかけになりますように

タグ:東京坐禅会

井上貫道老師に参禅を始めて、すぐに、自分はいない体験(自我消滅体験) をする人達


shikotaiken1井上貫道老師のある坐禅会の司会の方が、ある時このような発表をされました。


「最近、参禅始めた初心者の方に体験の出るのが多いです。


ある人は、自分の部屋に入った時、自分がいないことを体験されました。

ある人は、…………の時
ある人は、…………の時、

(このあたり体験の契機を記録したメモが見当たりませんでしたので、不明です たしか5名ほどだったと思います)
です。



この人達に共通しているのは、
話をちゃんと聞いていることです。
 
みんなよく坐禅をしています。

しかも皆さん、老師に参禅を始めて、皆半年以内、長い人でも1年以内です。


自分のないことを体験してから本当の修行が始まります。



古い人達,、古参の方々 [ 何年も何年も継続して坐禅会に通っている人 ] は、どうなんでしょう。
 
坐禅中に居眠りをしている人が多いです。
または、目をつぶって坐禅をしている。※

法界定印*の親指も離れている。。。

 

独参にも行かない。

これでは何年かかっても変わらないですね。」


以上のように話されました。


※[ 「事実を見届けるための坐禅ですから、目をつぶってはいけません」と貫道老師が常々言われています。

道元禅師も、『普勧坐禅儀ふかんざぜんぎ』に目を開くように強調されています ]

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* 法界定印 ほっかいじょういん   「ほうかい」ではありません
 眠ったり、気が抜けていると親指と親指が離れます  考え事をしていると卵型ではなくなっていびつな形になっています。
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あと5人ほど、参禅体験談があります。



以下は井上貫道老師のことばです。
 


「人の話聞きながら、頭のなかで色々比較したりするのは聞いているんじゃないんだね。
そんな聞き方したら、何十年聞いても無駄です。」




「では坐っている [ 坐禅している ]ときにどうやって過ごすか。

坐る時のあり方として、問題になるのは思量分別、

色々なことが思えるというか、出てくるというか、

あるいはこちらから(意図的に)考えるということがあります。



坐禅中はそういうものを、とにかく相手にしない。

出てくる思いに対して、自分の見解で識別しない。

いわゆる善し悪しを図らない。


これは良いこと、
これは悪いこと、
これは正しい、
これは間違っているというようなことをやらない、

ということです。


もう少し具体的に話をすれば、坐っていて色々なことが出てきたときに、
人間と言うものは、気に掛かることが結構あるものです。

ですから通常は、その気になっていることを解決しようと思って、
自分の頭の中で色々なことを始めます。


これを、とにかくやらないことですね。

だからどのようなことが出てきても、
思い出したものや考えたことで気にかかることがあっても、
それを相手にどうこうする、手を付けて過ごすということをしない。


また、その出てくるものに対して、出ないようにするようなことも一切しません。

こちらから造作をして、作り変えるようなことは一切しないで坐るのですね。


それが坐禅をする時の工夫と言われる修行のあり方です。」
―― 井上貫道老師

『井上貫道老師提唱録』(井上貫道著、2016年)




「飛行機のゴーッという音が聞こえたとき、はっと飛行機の音だと気づくのは、人間がそういう作用を働かせているからです。

そうじゃなく、単にゴーッのままにしておけばいいです。」



「ボーッとするのではないですよ。
意識はいつもクリアです。

そのために、坐禅中は、
目を開いている
舌を上顎につけている
法界定印の親指がくっついている
この3点セットを守ります」


[ 管理人より ]舌の位置:最近内科医や歯科医から、正しい舌の位置ということが盛んに言われるようになりました。

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以上は、歯科医の方々からの指摘です。
道元禅師は、800年前から『普勧坐禅儀』に言われていました。
坐禅中に限らず、健康な舌の位置は、舌が上顎骨にピッタリついていることです。
最初からこういう位置に舌が来ている人がいますが、そうでない場合は、意識的にこのような位置に持ってきます。あいうべ体操などが、内科医などによって提唱されています。
昔から、親が「口をぽかんと開けるな」と子供に注意したのは、医学的理由もあったのです。

舌を上顎つまり硬口蓋につけるようにすると、呼吸も口呼吸ではなくて、鼻呼吸となります。 
免疫力も向上するという臨床例が上がっているようです   以上管理人




「目を開けると言っても、一点を見つめるのではないですよ。
どこかに焦点を合わせるのではありません。」



「こうやってると、今、まわりでコオロギが鳴いてますね。

その中にポンと身を置いている感じ。


聞いている気配はありませんし、聞こえてくるという気配もありません。


ただ音だけ。
不思議に自分がないんですねえ。」





「多くの人が、坐禅中においてさえ、理想を求める境地を頭で探しています。

それは一見坐禅らしく見えますが、真実から外れています。」





「自分を中心にして物事を見てしまっているから自分が消えないんです。
もともと自分はないんです。

実は、考え方や見解も自分が作っているのではないんです。

自分を中心に据えて物事を見るのではなく、物事の方からやってくるんです。


それが五官に任せ切るということです。」






「事実について、考えを付けるか付けないかだけです。
考えをつけないままでいるのが、修行です。」






「観察しないこと、

眺めないこと、

[五感の]事実にいるだけ。

見る人がいなくなって事実だけになります。

そうやって座ってください。」 ――井上貫道老師




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【投稿後記】
以下はこのブログ管理人の発言です

このブログ記事のタイトルを、「自我消滅」というようにしていますが、最初から、自我はない というのが本当です。見出し的に使っているだけですので、ご了承下さい。

「話をちゃんと聞いている」ことはなかなか難しい人が多いようです。
「このままでいいんだ」というとんでもない誤解(微妙な誤解)をされている人も多いです。

そうか。「あるがまま」ということなんだと思っている人も多いです。(老師は一度も「あるがまま」と言われたことはありません)
「何をしていてもいいんだ」と思って、摂心中の休み時間になれば、私語ばかりしている人もいます。

ある人は、30年間も井上義衍老師に参禅したあと、
「老師は、いつもそれで話をごまかしている」と発言して、
老師が「パン」と手を打たれることの理解さえ出来ていなかったという話があります。
(30年前に、「ごまかしている」と発言すれば、そこから糸口があったのに)

他人事ではありません。


上に記載した・これから掲載する参禅者体験は、1年を経過しているものを選んで投稿しています。
投稿者は、同じ参禅者ですし、インタビュアーやレポーターではありませんので、その後、その人達がどのように修行されているかは知りませんし、その後の修行をインタビューしていません。




 

禅 本物ちゃんとわかるようにできている~2012年9月井上貫道老師・東京都青梅禅会より⑤ 
④の続きです。


本物
ちゃんとわかるようにできている 

本物を見るのに、自分の余分な考え方を入れたらわからなくなりますよ。
本物は人に苦労かけずにちゃんとわかるようにできている

この中にお茶をいっぱい入れてさ、
こうやって飲むと、本物だから、必ずちゃんと味がします。
本物だから。

考えなくてもちゃんとわかる。

本物って、そんなに簡単なんです。

ちゃんとわかるようにできている。全部。


さっきいろんな野山の雑草や花や、見てきた。蝉や赤とんぼや、見てきた。

みな、今日実物に触れた。ちゃんとわかるでしょう?

曖昧だった人一人もいないでしょう?物の方は。

だけども理解の方になるとわからないでしょう?


これ何という名前だとか・

それは考え方の上だから。


考え方の方は知識がないとわかるわけがないでしょう。




だけど実物はそこにあるから、知識がなくてもわかりますよ。

どんな形をしているのか、どんな色をしているのか、色の名前を知らなくても、 
その通り見えます。

実物って、それだけ私達にすごい事をさせているんだけど、 
自分の実物、こんなに身近にある実物なんだけども、この実物を見極めた事がないから、

(パシッ 老師が机をたたく)

こんな事ひとつやっても、毎日聞いているんだけども、
どういう風に聞こえて、いつその音がどこですっかりなくなっているか
なんて事知らないじゃん。


だから朝、あんた何グズグズしているの?って、言われたのが、夜になってまで響くように思っている。

そんな事はないでしょうがこれ。 



(パシッ 老師が机をたたく)

それは音じゃないんだよ。
朝グズグズしてって、言われたのが夜わかるのは音じゃない。

その時しゃべってた声じゃない。

思い起こした働きなんです。全部。

実物じゃない、
そういう事皆さん、知るべきでしょう。


騙されないって事でしょう。 

本物と本物でないのを見分けできたら騙されないでしょう。

皆さんは実物と偽物を見分けつかないから騙されるわけでしょう。 


朝グズグズしててって言われて、夜になっても、こいつ、うるさい事言ってってグズグズ言う人は騙されている人でしょう。実物は言っ

た時しか、

(パシッ 老師が机をたたく)

音が出た時しか聞こえないようにできているのでしょう。

これが実物でしょう。 


(パシッ 老師が机をたたく)

やってみたらわかるでしょう。



(パシッ 老師が机をたたく)


もうどこにも聞こえてないでしょう。

だから問題にしなくて済むでしょう。


なんで、ここでいろんな言葉を聞いてると、いちいち自分を 不愉快にさせるのですか?



本当はいちばんやってみたい事は

まっさらで余分な考え方がついてないときの動きが、 

人がどういうふうな動きをしてるかって事を知った上でやらないと

人を縛る事になりますね、みな。



その代表が宗教といわれるジャンルです。

宗教ってものは非常に人を苦しめている。

例えば、人は生まれながらにして原罪というものを持っている、

罪を持っている、とかいうような事を誰が教えたか知りませんが 

そういう事を言って、だからそれを取り除くのが私達の教えだといって、

さあ来なさい、さあ来なさいと言って取り除くような話をする。

最初にそんなものはついてないのが本当なんですよ。



最初に何もついてなかったんです。だから優しい目で見れるんですよ。

ものを見る時に良し悪しを持って見てないから。

自分の眼(まなこ)が。



私達の眼ってそうじゃないですか?

初めは良いとか悪いとかっていうような考え方で見てない。

ただものに向かうとその通りに見えるように出来ている。

それだから優しくできるんでしょう。腹立たないです。見ても。 


もうちょっと大きくなっていろんな考え方が見たものに対して起きるようになると 

自分の思う通りになってないというふうな感覚があるから、そうすると腹が立ってるだけ。


こっちくる前に

ある修行道場にいた方が女性だけども、手紙をよこして、話を聞いてくれますか? 

っていう手紙だったから、どうぞって。

そしたら私が耳を傾けて聞いたところでは、(中略)

どんな事を修行してきたんだろうって思うぐらい、

なんでこんな事が修行だって思ってやってるのかなって思うね、やる方も。


で、お寺にいけば、トップの方に会いに行っても女性だからと行って、女性は来ちゃいけないって。

今の世の中ですよ、今の世の中で、男性が、女性がって、ここから入っちゃいけない部屋なんかないよね。

現代ですよ。
びっくりしちゃう。


じゃあ病院行ってあなたは女性だから診ない、なんてそんなとこないでしょ。

死ぬか生きるかって時に。

まあそういう事を話しておられて、あまり好感が持てなかった といっておりましたけど。 



私は基本的には仏教っていうのはこういう事をしてるって言って話をしておきました。

もう本当勘違いしてるんだね。

いわゆるノウハウを勉強してくるんですね。


鐘をどうやって鳴らすとか、
お経はどうやって読むとか、
儀式の時どんな事をするのかとか。

そんな事一生懸命勉強してる。



それも必要だっていえば必要だけど、人を救う上にほとんど役に立たない。

だってここにおられる方は別に家に帰って、どういうふうにお祀りの仕方をするとか、専門に別になくたって何にも困らないわけでしょ

。 



本当に必要なのは、自分がどうあったらいいかって事が問われているだけで、 
今の職業のままで毎日生活している時、どうやったら本当にいいかって事が問われている。

それを基本的にきちっと伝えていくっていうのが、修行道場の一番根幹でなければならないと思う。


だけど、そういう事、ほとんど欠落している、
あんた、お経下手だ、もっとじょうずになれとか、
お拝の仕方が悪いとか、
着物の着方がどうだとか、
こういう時に挨拶の仕方は、まあやらないよりはいいですよ。

できる方がいいのだけども、

それよりも基本は、本当にこれをいますぐやってもらいたい、

これは、何故必要かっていうと、この世に生まれた以上、自分の事は自分でやるしかないんだよ。 



自分の事を放っておいて生きられる人はないじゃないですか。 


一番身近な事でどうしても放っておかれないものは自分自身をよく知るって事ではないですか? 



健康面だってそうじゃないですか、
他人に任せておけないじゃないですか、これ、

自分がどうなってるか一番自分がよく知ってるじゃないですか、

いつ食べたの?
って聞いたって、お医者さんがその人に聞いたって、
答えなかったら推測するしかないじゃないですか。

だから本人は一番よく知ってますよ。

いつ食べた、何を食べた、どこで食べた、いつ頃からどこが痛くなったとか、
だけども、自分の事なのに、本当に無責任に生きているよね。

無責任に生きているんですよ。

人と相談事があってこうやって触れた時に、
それを聞いて、
自分の中で聞いた時に、 
(老師、体を指して)
どういうふうにこれがなっているのか。

まず聞いた時にどうなるかって。

聞いたら聞いた通りに入ってくるっていう事でしょう。

その時に余分な事しちゃダメだって事を言っておきたい。 


聞く時には何もつけずにそのままいれる。 



買い物行って自分で勝手に値段変えちゃまずいでしょ。

千円と書いてあって、五百円でいいやって、そんなふうに買ってきたら怒られるでしょ。

一応、千円とついていたら千円で買って、
その後、もしもう少しまけてくれないかねって相談はあってもいいかもしれない、
そしたら、じゃあまけるかたくさん買ってくれたからっていうような事はあるかもしれない。 



一番最初はその通りにいれる事ですよ。 


それを自分でめちゃくちゃやったら犯罪ですよ。


だから皆さん、こうやって聞いたり、見たりいろんな事を 
(御自分の体を指す)
これがしてますよ、

そういう時にそうやって犯罪を冒してはダメ。

それが間違いの元なんだもの。


正しくものを入れないって事は。

正しくものをいれないから、次に考える時に、最初が間違ってたものの上に考えるから 

正しい答えを引き出せないじゃないですか。

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