坐禅の仕方と悟り,見性,身心脱落:井上貫道老師の庵 まとめブログ

Dharma Talks of an enlightened Japanese Zen Master Kando Inoue Roshi 井上貫道老師が、悟りを体現された経験から坐禅の方法や仏道について語られたものを掲載しています web上に散見される井上貫道老師のことばも引用掲載し、まとめブログとしました ( これは参禅者によるブログであり、公式サイトではありません ) このブログが正師への参禅のきっかけになりますように

タグ:悟り体験

「事実」に触れるためには、実践してみる



「本当に『事実』に触れると、今まで体験したことがないものだから、驚くんです」


本当にこういうことの内容に触れたかったら、やってみるしかないんじゃないですかね。

やらないで評価してみてもどうしようもないと思う。

やったら自ずから分かるようになってる。


実践するまでは修行をしているとは言えない

触れあっていく中でだんだん、あの人の言っていることはどういうことなんだろう、じゃ一度本当にやってみようっていう風に変わった時に初めて、この仏道の修行になってくるんだろうと思う。

それまでは仏道の修行ではないね。



坐禅中の「思い」の性質、「思い」の対処法


坐禅中の思いは自分で起こしているのではない

坐っている(=坐禅している)時にいろんなことが出てくるというのは、自分で思い起こしたことはほとんどない。出てきたものに気が付くだけですよ。

出てきた時に出てきた通りのことがあるだけで、終わっていくんですね。重なることはない。


坐っていて(=坐禅していて)精細に自分の様子に親しくいないと、自分で思いをつけて過ごしているか、そのままでいるかということが、容易に見ることが出来ないね。そのくらい瞬時に起こるものですよ、思いって。


「思い」の評価はしてはいけない


出て来るものに対して、人って本当に不思議なくらい評価するんだよね、自分で。

その評価が自分の中で混乱を起こす。


どんなことが思えても、それによって人が苦しむことは、本当にない。

出てきたものに対して自分の思いがくっついたことで苦しむ。




――井上貫道老師17/3/23提唱から 【3/23提唱DVDからの抜粋】 
DVD製作者様による文字起こしになります
不明点、疑問、足らないところは、坐禅会への参禅をお願い致します  実践して何か体験を得た場合も正師への参禅が必須です


【重  要】
神戸楽の森「坐る会」のサイト https://tinyurl.com/kobeteisho
にも、井上貫道老師の神戸坐禅会の提唱の一部が文字に起こされています。

大切なことを分かりやすく提唱されている部分ですので、ぜひ、ご覧ください。



老師が提唱しているのではなくて、自分が提唱をしていたー一参禅者の体験




井上貫道老師のある坐禅会が終わって、会場片付けの時に、何人かの人が老師の周りに集まってきました。

その中の一人Wさんが言われました。

「実は、このところ坐禅をする時間がなくて、今日はガッツリ坐禅ができました。


300kandoroshiteishoatkobepen今日ですね、


老師が提唱しておられる時、


あれー、自分が提唱しているわー   ってなったんですよ。




……なんじゃらかんじゃら……



それから、老師が言われた人の話を聞いていないというお話、
わたしも、自分の子供の話を聞いていないということ、ズンと響きましたわー」

*************

井上貫道老師の提唱中に、提唱しているのが貫道老師ではなくて、自分が提唱している
ことに気づかれた体験でした。


Wさんは一般のお勤めの方です。
井上貫道老師に参禅始めて多分一年くらいでの出来事です。1年経っていないかもしれません。

「ちょっと気をつけて坐禅している人は、気づきが来ますね。 一旦気づきがあるとガタガタッと変わって行きますね。」―井上貫道老師




「…ほとんどの人が、

『私たちの生活しているのと違った別な教えが、諸仏方、悟りを開いた人たちにはあるんじゃないか。

だからそういう人たちの素晴らしいものを、できたら自分も味わってみたい』

そう思って間違えているのでしょう。

そもそもそれが間違えなのでしょう。

なんで今こうやっているのに、これで満足できないかを尋ねた方がいいのでしょう。

何が満足させていないのですか? 

それを本当に追求するためには、今まで使ってきた思量分別を一切使わずに、この事実にいて [居て]みることなんじゃないですか? 


それが、坐禅と言われる行なんじゃないですか?」 ―― 井上貫道老師




◇    ◆    ◇    ◆    ◇    ◆    ◇    ◆    ◇



上記体験者の言葉で、子供の話を聴いていないという話というのは、

老師:
「親って、子供の話を聞きませんね。
子供の話を聞いたら、その話で出たものを買ってあげないといけないもんだと思いこんでいるものだから、
最初から、子供の話を聞かない。

子供の話を聞く ということと 子供の話で欲しがっているものを買ってあげないといけない ということは別なんですよ。

話を聞いても、買うこともあるし、買わないかもしれない。


子供だって、ちゃんと親の経済状況を分かっているから、
話を聞いてもらったら、あとは、我慢することだってできるんですよ。

それくらい子供は賢いですよ。」


と井上貫道老師がその日の提唱と質疑の時間に話されたことからです。



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【投稿後記】
ここに記載した・これから掲載する参禅者体験は、1年を経過しているものを選んで投稿しています。
投稿者は、インタビュアーやレポーターではありませんので、その後、その人がどのように修行されているかは知りませんし、その後の修行をインタビューはしていません。

また名前を知っているのは、このWさん以外に2人くらいで他の体験者達の名前は知りません。
体験談を坐禅会中などに話されることがあっても、そもそもその人の顔を見ていないので、男女以外分かっていません。


上記Wさんのように、個人を知っている人であってもできるだけ個人を特定できないように余分な情報は書かないようにしています。使用した人名のアルファベットは、その人の本名とは全く関係がありません。ZからAまでを、日本人の姓にならないものは除外して使っていきますので、まずはYさん、次はWさん、次はUさん、Tさんという順番になります。



井上貫道老師に参禅を始めて1年で気がついたサラリーマン



 
これはある人Yさんの体験談です


わたし [このブログ投稿者] が、井上貫道老師の坐禅会に出た帰りのことでした。駅近くでYさんに出会って、多分初めてこの人に話しかけました。

前日の他所での貫道老師の坐禅会での一参禅者の人がちょっとした見解を話されたので、そのことについて、前夜も出席されていたYさんはどう思われますかということを尋ねました。


Yさんは、坐禅に真剣に取り組んでおられること、かならず井上貫道老師の独参の列に並んでおられること、経行(きんひん)(歩行禅)の姿が美しいことで、以前からはその存在には気づいていました。

僧侶ではなくて、企業に勤めていた一般人の方です。 


その時のわたしの質問に対してどう答えられたかは覚えていませんが、続いてこう言われたことをハッキリと覚えています。



「こういう会話って、この坐禅会の人ってあまりしないんですね。

実は、わたしは貫道老師に参禅始めてちょうど1年くらいの時、見性したんです。
[ 当時は、この「見性」という用語をYさんが使われたかどうか、記憶が定かではありません ]


攝心の時に朝の坐禅で、坐禅終了の鐘が鳴った時に体験がありました。
zendohansho 


貫道老師に出会ってから、言われたとおりに修行していただけです。

修行ってとても簡単なことだなと思いました。

 


そうそう、
そのあとの体操の時に、雨だったから本堂で体操があったのですが、インストラクターの人に向かうと、インストラクターの人以外誰もいないんですよ。
とても面白かったですよ。※




でも、そういう体験があるとどうしてもつかんじゃうんですね。」





投稿者「その体験のことを老師には独参で言われたのですか?」


Yさん「はい。 老師にも、その体験の内容ではないぞ、掴んではいけないよと言われたのですが、つかんじゃいました。」
(実際には老師とYさんとの間にどのようなやり取りがあったのかは不明ですのでご注意下さい)




Yさんの体験について、その時はもっと質問したいことがあったというか、体験の時は、どんな感じだったかもう少し詳しく知りたかったのですが、修行上の先輩であるMさんの所に行く約束があるということで時間切れになりました。

その後もYさんと話す機会はありましたが、人の体験については、興味がなくなってしまっていましたので、彼の上記の体験については、それ以上尋ねたりすることはありませんでした。


      *            *           *            *           *            *           *            *

 

Yさんは貫道老師に参禅を始めて1年で気づきを得られたのです。
その前に一度だけ、宗門の専門僧堂で修行僧に混じって、攝心をしたことがあったと話されていました。

体験を掴んでしまわれたので、終わりとはならず、それ以後も坐禅修行と参師聞法を続けられました。


ずっと、あとから分かったことですが、その人は、老師の指導される正しい坐禅が本当にすぐにできるようになったそうです。



「真っ正直な人って、修行が速く進みますね」 ―― 井上貫道老師


「一ヶ月に一度坐禅会にやって来て、そこで修行を思い出すのでしょう。 普段は何もやっていないんだね。
それでは、絶対に [修行成就は] 無理ですよ。
何年かけても無理。

世の中のことでもそうでしょう。

実践したら、一ヶ月もあれば何かあるはずだから、どうなったか教えてください。
やっていないと疑問も何も出てこないでしょう?」

―― 井上貫道老師
[ 井上貫道老師坐禅会では、必ず、質疑応答の時間があります ]





※[攝心 (せっしん) というのは、在家の人も、仕事は休み、人間関係を絶ち、ニュースやTVやスマホを見ずに、日記もつけず、すべてをお預けにして、道場に泊まり込んで行なう合宿型の坐禅修行期間のことです。
朝から寝るときまで坐禅を中心に一心不乱に修行に専念します。この期間は、心おきなく自分の様子に親しくいることができる大変貴重な時間です。

師家(老師)を指導者として、坐禅、提唱(ていしょう)、独参(個人指導)で構成されています。 食事は1日3度ありますが、食事を摂るのも、トイレも、昼の休憩中も、形の異なる坐禅修行になります。
提唱の講本以外、文章を読み書きするのも禁止です。 


よくある荒行のように、食事も睡眠も制限されることはありませんし、1日11炷と言っても、人と一緒にするので、よほどでなければリタイアするような厳しさはないので、ついつい、甘く見て真正面から取り組まずに、ただ外見上は坐禅の形を守るだけで数日を過ごす人もいないわけではありません。

あくまでも内面でどのように自分の今の様子と親しくいるかが問われますので、摂心のあとは、人によって大きな差が生まれてしまう行でもあります。


道元禅師や井上義衍老師は道場で、一夏90日間の安居期間中は、隣で坐禅している人の顔を見たことがなかったと言われています。 




この体験談当時は、攝心の暁天2炷の坐禅のあと、朝課(朝のお経)があって、その後、戸外で体操をしていました。その時は雨降りだったので、本堂でしていたようです]




【投稿後記】
ここに記載した・これから掲載する参禅者体験は、1年を経過しているものを選んで投稿しています。
投稿者は、インタビュアーやレポーターではありませんので、その後、その人がどのように修行されているかは知りませんし、その後の修行をインタビューはしていません。


上記Yさんのように、個人を知っている人であってもできるだけ個人を特定できないように余分な情報は書かないようにしています。使用した人名のアルファベットは、その人の本名とは全く関係がありません。ZからAまでを、日本人の姓にならないものは除外して使っていきますので、まずはYさん、次はWさん、次はUさん、Tさんという順番になります。

cover_teisho1kindle20170707small真実、悟り、禅修行とは(1)
道元禅師『学道用心集』『普勧坐禅儀』、黄檗希運禅師『伝心法要』提唱録』
(井上貫道提唱、2016年)


※書籍タイトルを『井上貫道老師提唱録 修行の大前提:真実とは、悟りとは、修行とは、禅とは』から変更しました


詳細・ご注文はこちらから
(新しいウェブページが立ち上がります)
https://satorizen.wixsite.com/satori/blank


 真実に気付く(悟る)ためにはどうすればよいのか。十代で悟りを開いた井上貫道老師が、修行の大前提としてまず理解するべき基本(真実、悟り、修行、禅とは何か)を、道元禅師の『学道要心集』『普勧坐禅儀』、黄檗希運禅師『伝心法要』を紐解きながら、懇切丁寧に説明。さらに只管打坐の坐り方についての具体的な説明も独立した一章としてあり、即実践を始められるようになっている。真実を求め、修行を志す方は必読の書。


井上貫道老師の『正法眼蔵現成公案』提唱から


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悟り体験をすれば、もう元には戻らないです

以後は、諸仏の過ごされた境涯というものをこの身体で楽しむことが出来るのです
   
―井上貫道老師




修行ということに関しては、一応悟ってしまえばもう関係はないと思っている人もおりますが、
とんでもない事だと思います。



悟るという事はですね、それで終わりというのではありませんで、二度と迷いの世界に戻れなくなるという事です。

例えば、分わかりやすくいうと、一度も来てもらったことのないこのお寺へ来てもらったら、もうその日からお寺に来なかった人にはならない。

どんなに騒いでみても、どんなにやってみても、もうお寺に来なかった前の人には戻らない。



それくらい悟りという事は人を迷わせない確かさがある、ということが悟りの大事な事ですね。



もし時間が経ったら忘れてしまうとか、元に戻ってしまうとかいうものだったら、尊ぶ所以(ゆえん)がないですね。


だから道元禅師が「一生の参学の大事おわりぬ」というような表現をしている。 参学の大事了



その体験をした事によって一応の決着がつきましたって、いうことですね。



それで私たちは見たこともなかった、行ったこともなかった悟りの世界に初めて足を踏み込んで、

諸仏方の過ごされた境涯というものをこの身体で楽しむことが出来るのです。



これで初めてそれが悟後の生活という事になるのかね。

ここら辺が楽しい処でしょう。

本当はこれをやってみたいわけですね。


そうじゃなければ、こういう祖師方の書かれたもの、残されたものを、
共に手を携(たずさ)え本当に参究して、
その味わいを味わうことはなかなかありませんね。



そういう人を作っていかないと仏法とかいうようなものがつまらなくなるんですね。
そうでしょ。

 

向こうの岸へ行ってないのに、こつちの岸から向こうの岸の話を一生懸命しているんですから、
こっちにみんな居るんでしょ。

お互いこっちに居るものどうしが、その中の人が向こう岸の話をした。

「お前行った事があるか」と言った時、「ない」といったらどうなるんですか?


(井上貫道『げんにーび』 (正法眼蔵現成公案提唱)p.181) 
 

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