坐禅の仕方と悟り,見性,身心脱落:井上貫道老師の庵 まとめブログ

井上貫道老師が、悟りを体現された経験から坐禅の方法や仏道について語られたものを掲載しています web上に散見される井上貫道老師のことばも引用掲載し、まとめブログとしました ( これは参禅者によるブログであり、公式サイトではありません ) このブログが正師への参禅のきっかけになりますように

タグ:悟り体験

老師が提唱しているのではなくて、自分が提唱をしていたー一参禅者の体験




井上貫道老師のある坐禅会が終わって、会場片付けの時に、何人かの人が老師の周りに集まってきました。

その中の一人Wさんが言われました。

「実は、このところ坐禅をする時間がなくて、今日はガッツリ坐禅ができました。


300kandoroshiteishoatkobepen今日ですね、


老師が提唱しておられる時、


あれー、自分が提唱しているわー   ってなったんですよ。




……なんじゃらかんじゃら……



それから、老師が言われた人の話を聞いていないというお話、
わたしも、自分の子供の話を聞いていないということ、ズンと響きましたわー」

*************

井上貫道老師の提唱中に、提唱しているのが貫道老師ではなくて、自分が提唱している
ことに気づかれた体験でした。


Wさんは一般のお勤めの方です。
井上貫道老師に参禅始めて多分一年くらいでの出来事です。1年経っていないかもしれません。

「ちょっと気をつけて坐禅している人は、気づきが来ますね。 一旦気づきがあるとガタガタッと変わって行きますね。」―井上貫道老師




「…ほとんどの人が、

『私たちの生活しているのと違った別な教えが、諸仏方、悟りを開いた人たちにはあるんじゃないか。

だからそういう人たちの素晴らしいものを、できたら自分も味わってみたい』

そう思って間違えているのでしょう。

そもそもそれが間違えなのでしょう。

なんで今こうやっているのに、これで満足できないかを尋ねた方がいいのでしょう。

何が満足させていないのですか? 

それを本当に追求するためには、今まで使ってきた思量分別を一切使わずに、この事実にいて [居て]みることなんじゃないですか? 


それが、坐禅と言われる行なんじゃないですか?」 ―― 井上貫道老師




◇    ◆    ◇    ◆    ◇    ◆    ◇    ◆    ◇



上記体験者の言葉で、子供の話を聴いていないという話というのは、

老師:
「親って、子供の話を聞きませんね。
子供の話を聞いたら、その話で出たものを買ってあげないといけないもんだと思いこんでいるものだから、
最初から、子供の話を聞かない。

子供の話を聞く ということと 子供の話で欲しがっているものを買ってあげないといけない ということは別なんですよ。

話を聞いても、買うこともあるし、買わないかもしれない。


子供だって、ちゃんと親の経済状況を分かっているから、
話を聞いてもらったら、あとは、我慢することだってできるんですよ。

それくらい子供は賢いですよ。」


と井上貫道老師がその日の提唱と質疑の時間に話されたことからです。



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【投稿後記】
ここに記載した・これから掲載する参禅者体験は、1年を経過しているものを選んで投稿しています。
投稿者は、インタビュアーやレポーターではありませんので、その後、その人がどのように修行されているかは知りませんし、その後の修行をインタビューはしていません。

また名前を知っているのは、このWさん以外に2人くらいで他の体験者達の名前は知りません。
体験談を坐禅会中などに話されることがあっても、そもそもその人の顔を見ていないので、男女以外分かっていません。


上記Wさんのように、個人を知っている人であってもできるだけ個人を特定できないように余分な情報は書かないようにしています。使用した人名のアルファベットは、その人の本名とは全く関係がありません。ZからAまでを、日本人の姓にならないものは除外して使っていきますので、まずはYさん、次はWさん、次はUさん、Tさんという順番になります。



井上貫道老師に参禅を始めて1年で見性したサラリーマン



 
これはある人Yさんの体験談です


わたし [このブログ投稿者] が、井上貫道老師の坐禅会に出た帰りのことでした。駅近くでYさんに出会って、多分初めてこの人に話しかけました。

前日の他所での貫道老師の坐禅会での一参禅者の人がちょっとした見解を話されたので、そのことについて、前夜も出席されていたYさんはどう思われますかということを尋ねました。


Yさんは、坐禅に真剣に取り組んでおられること、かならず井上貫道老師の独参の列に並んでおられること、経行(きんひん)(歩行禅)の姿が美しいことで、以前からはその存在には気づいていました。

僧侶ではなくて、企業に勤めていた一般人の方です。 


その時のわたしの質問に対してどう答えられたかは覚えていませんが、続いてこう言われたことをハッキリと覚えています。



「こういう会話って、この坐禅会の人ってあまりしないんですね。

実は、わたしは貫道老師に参禅始めてちょうど1年くらいの時、見性したんです。
[ 当時は、この「見性」という用語をYさんが使われたかどうか、記憶が定かではありません ]


攝心の時に朝の坐禅で、坐禅終了の鐘が鳴った時に体験がありました。
zendohansho 


貫道老師に出会ってから、言われたとおりに修行していただけです。

修行ってとても簡単なことだなと思いました。

 


そうそう、
そのあとの体操の時に、雨だったから本堂で体操があったのですが、インストラクターの人に向かうと、インストラクターの人以外誰もいないんですよ。
とても面白かったですよ。※




でも、そういう体験があるとどうしてもつかんじゃうんですね。」





投稿者「その見性体験のことを老師には独参で言われたのですか?」


Yさん「はい。 老師にも、その体験の内容ではないぞ、掴んではいけないよと言われたのですが、つかんじゃいました。」





Yさんの体験について、その時はもっと質問したいことがあったというか、体験の時は、どんな感じだったかもう少し詳しく知りたかったのですが、修行上の先輩であるMさんの所に行く約束があるということで時間切れになりました。

その後もYさんと話す機会はありましたが、人の体験については、興味がなくなってしまっていましたので、彼の上記の体験については、それ以上尋ねたりすることはありませんでした。


      *            *           *            *           *            *           *            *

 

Yさんは貫道老師に参禅を始めて1年で見性をされたのです。
その前に一度だけ、宗門の専門僧堂で修行僧に混じって、攝心をしたことがあったと話されていました。

体験を掴んでしまわれたので、終わりとはならず、それ以後も坐禅修行と参師聞法を続けられました。


ずっと、あとから分かったことですが、その人は、老師の指導される正しい坐禅が本当にすぐにできるようになったそうです。



「真っ正直な人って、修行が速く進みますね」 ―― 井上貫道老師


「一ヶ月に一度坐禅会にやって来て、そこで修行を思い出すのでしょう。 普段は何もやっていないんだね。
それでは、絶対に [修行成就は] 無理ですよ。
何年かけても無理。

世の中のことでもそうでしょう。

実践したら、一ヶ月もあれば何かあるはずだから、どうなったか教えてください。
やっていないと疑問も何も出てこないでしょう?」

―― 井上貫道老師
[ 井上貫道老師坐禅会では、必ず、質疑応答の時間があります ]





※[攝心 (せっしん) というのは、在家の人も、仕事は休み、人間関係を絶ち、ニュースやTVやスマホを見ずに、日記もつけず、すべてをお預けにして、道場に泊まり込んで行なう合宿型の坐禅修行期間のことです。
朝から寝るときまで坐禅を中心に一心不乱に修行に専念します。この期間は、心おきなく自分の様子に親しくいることができる大変貴重な時間です。

師家(老師)を指導者として、坐禅、提唱(ていしょう)、独参(個人指導)で構成されています。 食事は1日3度ありますが、食事を摂るのも、トイレも、昼の休憩中も、形の異なる坐禅修行になります。
提唱の講本以外、文章を読み書きするのも禁止です。 


よくある荒行のように、食事も睡眠も制限されることはありませんし、1日11炷と言っても、人と一緒にするので、よほどでなければリタイアするような厳しさはないので、ついつい、甘く見て真正面から取り組まずに、ただ外見上は坐禅の形を守るだけで数日を過ごす人もいないわけではありません。

あくまでも内面でどのように自分の今の様子と親しくいるかが問われますので、摂心のあとは、人によって大きな差が生まれてしまう行でもあります。


道元禅師や井上義衍老師は道場で、一夏90日間の安居期間中は、隣で坐禅している人の顔を見たことがなかったと言われています。 




この体験談当時は、攝心の暁天2炷の坐禅のあと、朝課(朝のお経)があって、その後、戸外で体操をしていました。その時は雨降りだったので、本堂でしていたようです]




【投稿後記】
ここに記載した・これから掲載する参禅者体験は、1年を経過しているものを選んで投稿しています。
投稿者は、インタビュアーやレポーターではありませんので、その後、その人がどのように修行されているかは知りませんし、その後の修行をインタビューはしていません。


上記Yさんのように、個人を知っている人であってもできるだけ個人を特定できないように余分な情報は書かないようにしています。使用した人名のアルファベットは、その人の本名とは全く関係がありません。ZからAまでを、日本人の姓にならないものは除外して使っていきますので、まずはYさん、次はWさん、次はUさん、Tさんという順番になります。

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『井上貫道老師提唱録 修行の大前提:真実とは、悟りとは、修行とは、禅とは: 道元禅師『学道用心集・普勧坐禅儀』、黄檗希運禅師『伝心法要』から』(井上貫道著、2016年)

本書は、井上貫道老師による2016年東山寺攝心会での5日間にわたる提唱と、坐禅のやり方についての具体的な説明をまとめたものです。

本書が真実を求め修行を志す方々の指標のひとつとなり、また、正師に実参するきっかけとなりますことを心より願っております。 


ご注文方法
本書は、製本版または電子ブック版で読むことができます。

製本版(税込1,800円、送料別、A5サイズ、148ページ)は、以下のボタンをクリックし、製本直送.com社から購入することができます。お支払いは、コンビニ決済、各種クレジットカード決済、楽天ID決済、Paypal決済が可能です。(※製本版の文字が大きくなりました)

(※ 本ブログを背景が緑のスマートフォン版でご覧の方は、ボタンをクリックしても注文ページに切り替わらない場合があります。お手数ですが、本ブログの最下部左側にある「PCモード」をクリックしてから、再度お試しください。) 
 
kindle電子ブック版税込1,080円)は、以下をクリックし、amazon社から購入することができます。(kindle電子ブックは、パソコン、スマートフォン、タブレットをお持ちであれば、電子書籍閲覧用kindleアプリ(無料)を使って読むことができます。アプリも下記リンクからダウンロード可能です。)

 
 
井上貫道老師略歴
1944年、静岡県生まれ。曹洞宗師家、嵩山少林寺東堂。井上義衍(ぎえん)老師について参禅し、十六歳で大事了畢(だいじりょうひつ)、印可証明を受ける。半世紀以上にわたり禅の指導にあたっており、現在は、東京、静岡、関西、岡山など各地の坐禅会で出家および一般を指導。難解とされる『正法眼蔵』なども平易な現代語を使ってわかりやすく自由自在に説く。著作に『げんにーび 正法眼蔵現成公案提唱』『少林寺史』『井上貫道老師提唱録 修行の大前提:真実とは、悟りとは、修行とは、禅とは: 道元禅師『学道用心集・普勧坐禅儀』、黄檗希運禅師『伝心法要』から』がある。



本文より抜粋
「…修行するっていうことは、思量分別を扱う世界じゃないのですね。それをやったら、ものの真相がほとんど永遠にわからない。私の前に生きてきた人たちが、何億もいるでしょう。そういう人たちが皆、経験したことなのですよ。…気が付いた(悟りを開いた)人たちは、そういう(思量分別を扱う)ことをしないで、それで初めてものがわかったと皆さんに伝えているのだから、信じたらいいじゃない。数から言ったって、膨大な試験をやった上で、それが事実だっていうことは、もう明白なのです。一万人に飲ませたら、たった一人しか生き残らなかったというくらいの毒薬だったら、飲まないでしょうが。…それだのに、思量分別を取り扱うこと止めなさいって言っても、止めない。死んでもいいと思っているのだよ。」



「…ほとんどの人が、「私たちの生活しているのと違った別な教えが、諸仏方、悟りを開いた人たちにはあるんじゃないか。だからそういう人たちの素晴らしいものを、できたら自分も味わってみたい」。そう思って間違えているのでしょう。そもそもそれが間違えなのでしょう。なんで今こうやっているのに、これで満足できないかを尋ねた方がいいのでしょう。何が満足させていないのですか? それを本当に追求するためには、今まで使ってきた思量分別を一切使わずに、この事実にいてみることなんじゃないですか? それが、坐禅と言われる行なんじゃないですか?」 



「この生涯、一身、このひとつの体、ひとつの心のあり方で過ごしていくから、他所から貰うものは何もないよね。皆さんが他所から色んなものを貰うと思っているのは、取り込んで初めて自分のものになっていると思っているからです。こうやっている時、全て自分の生きている様子でしょ? それを頭の中で向こうの物っていうふうに勝手に皆さん方が切り離して、いわゆる分別をして、もともとひとつのものを分け隔て起こして見るような習慣になった。それで分け隔てがあるような気がしている時に気が付いたものだから、どうしたらひとつになれるかと思うようになった。そういうものが、一般の行です。 

釈尊はそうではない。最初からひとつの様子であるということの上で、話をされる。そういうことに、気が付かれたからですね、よくわかっている。私たちが最初から別々でないのに、途中から分けて考えていたということを自分が気付いて、じゃあ最初からちゃんとしている様子を話した方が、伝えた方が、間違えないじゃないかということです。で、それを話しても…聞き入れられるだけの能力のある人はいなかった。なぜ聞き入れられないかというと、皆、自分を立てて物を見ている人ばかりだから。「そんなこと言ったって、そんなになっていない。あそこに座布団があるじゃないか。どうしてあれが私の様子?」ってそういうふうにしか見ないのですね。辛うじて言えば、「私があれを見ている」っていうぐらいの捉え方だから、やっぱり分別で分かれている。」



「一切の生き物と、諸々の仏菩薩と一体にして、ひとつも違いがない、そう言われても、何となくこのままで済まないところがあるでしょう。人の話ってやっぱり役に立たないのでしょうね、いくら聞いても。「本源清浄」、底抜け、徹底して残り物がない、「清浄」。皆さん自身の様子を見ていただければわかる。否応なしにそうなっているでしょう。自覚をする、しない、関係なく。 

だから更に自覚があれば、なおのこと有難いのでしょうね。そういうことで古来、「悟」というもの、「悟り」というものを大事にしてきている。自分自身のあり様に対して、自分自身の信憑性を自分で疑いなくいただけるっていうところまで連れて行ってくださるというのが悟りのあり様でしょう。だから一応それを大事にするし、そういうことを一回体験して超えないと、本当の意味では自分のものでありながら、借り物のような生活をしているのでしょうね。」



「坐禅の時の重要なことのなかに、「箇の不思量底を思量せよ。不思量底如何が思量せん。非思量これ坐禅の要術(法)なり」。そんなに難しいことが並べてあるわけじゃありません。人の見解をすっかり付けずに離れた様子はどうか、ということでしょう、「不思量底」。だからその時に、少し知ってもらいたいのは、ものに触れた時に、自分の見方、考え方、そういうものを付けている時と、付けていない時とが自分で判然としないと、この事は無理ですね。…「叩かれて腹がたつ」というのだけれども、その中にも不思量の時と、思量に渡っている時は、間違いなくあるでしょう。…だから、自分の思いが出てこない時、それはどうなっているだろうか。それを、修行する、坐禅の形を作って時を過ごす時のあり方として、最も重要なこととして挙げておられるのですね。これ、難しくはないでしょう?  

 例えば、山の中に行って、よく道に迷うというようなことを言う方がいますが、自分の思量分別、考え、そういうものを止めてみると、自分いる場所が現前として、今ある。迷わず、ここにいます。誰からも聞かなくても、ちゃーんと自分のいる場所の様子がさらけ出されている。迷いようのない程ちゃんとしている。そしてそういうふうな状況で、こうやって、そのままの様子に触れてみると、太陽があるとか、マイクがここにあるとか、色々ありますね。そういうことが皆出てくるのですよ。右の方見たら谷川があって、水が向こうの方からこっちの方に流れているとか、上の方見ると山が少し高いところで終わっているとか、あるいはずーっと続いているとか。とにかく、全部わかりますね。小学校一年生くらいでも大丈夫でしょうね。…この身心ひとつで、必ずそのとおり、今いる場所の様子が、全部そのとおりあるのですね、ピタ!っとズレずに。思量を用いると、わからない。思量を用いた人が、「迷っている、わからない」と言っています。最高の愚か者ですよね。 

…そういうような、考えを付けているのか、考えを付けずに実物そのままでいるかということが、思量と不思量です。それは思量でよくわかるのですね。ものに対して、自分の考え方、見方を付けているか、付けていないかということは、皆さんの思量分別でわかるのでしょう? 思量分別でそのことがわかったら、今度は思量分別を使わずに、思量分別の付いてないままでいてごらん、と言うのです。そうすると本物がそのままわかるようになる。」



「外に出ると、色んなものが咲いているでしょうけれども、どの草花でも出会ったらそのままですよ、そのまま。何も人間的な追及をしなくても、いきなりズバリそのものです。「身心自然に脱落して」、身も心もそういうものをすっかり離れ切って、本来のあり様というものがそこにズバッと示されているじゃないか、と言っているのですね。それをもう一回戻ると、どういう名前の花だとか、いつ頃にどうだこうだとかいうたくさんの知識がありますから、そういうたくさんの知識をそこに出してくることで、本当にその花を理解できる、そういうふうに多くの人は思っている。それよりも、今直にその花の本物に触れているってことが本来の面目、目の当たりにそこにあるということでしょう。触れているということでしょう。その方が遥かに、言語を尋ねて理解するよりも深いし、一点の欠落もない。そういうものの触れ方をしているんじゃないでしょうかね。修行ってそんなことなのですよね。」



「では坐っているときにどうやって過ごすか。坐る時のあり方として、問題になるのは思量分別、色々なことが思えるというか、出てくるというか、あるいはこちらから(意図的に)考えるということがあります。…坐禅中はそういうものを、とにかく相手にしない。出てくる思いに対して、自分の見解で識別しない。いわゆる善し悪しを図らない。これは良いこと、これは悪いこと、これは正しい、これは間違っているというようなことをやらない、ということです。 

もう少し具体的に話をすれば、坐っていて色々なことが出てきたときに、人間と言うものは、気に掛かることが結構あるものです。ですから通常は、その気になっていることを解決しようと思って、自分の頭の中で色々なことを始めます。これを、とにかくやらないことですね。だからどのようなことが出てきても、思い出したものや考えたことで気にかかることがあっても、それを相手にどうこうする、手を付けて過ごすということをしない。また、その出てくるものに対して、出ないようにするようなことも一切しません。こちらから造作をして、作り変えるようなことは一切しないで坐るのですね。それが坐禅をする時の工夫と言われる修行のあり方です。」
 


読者の声(amazonカスタマーレビューより)

5つ星のうち 5.0井上貫道老師の著書、待望の出版!
投稿者 星 飛雄馬 投稿日 2016/8/31
 
以前よりその著作の刊行が待望されていた、井上貫道老師の(私家版の本を除けば)初の著書が遂に出版された。

内容は、2016年に行われた東山寺における攝心会での提唱録が中心。

提唱の教材としては、道元禅師の『学道用心集』と『普勧坐禅儀』、そして黄檗希運禅師の『伝心法要』が取り上げられている。

曹洞宗の僧侶が道元禅師の著作を元に提唱するのは珍しくないと思うが、『臨済録』で知られる臨済義玄の師である黄檗希運禅師の『伝心法要』が提唱のテーマとして取り上げられているのが興味深い。

もちろん、そうした目新しい教材に対しても、貫道老師の提唱はいつも通り縦横無尽であり、あらゆる角度から極めて明快に法が説かれている。

個人的には、貫道老師による、「無所得・無所悟」の説明が分かりやすく、腑に落ちた。

提唱以外では、只管打坐の坐り方についての具体的な説明が独立した一章としてあり、即実践を始められるようになっている。

貫道老師の主著でありながら、現在は私家版でしか流通していない『げんにーび』も、ぜひ電子書籍化してほしいものだ。

 
投稿者 アッキー 投稿日 2016/9/6
 
井上貫道老師が、まさに禅の核心を手を変え品を変え、懇切丁寧に解説されている素晴らしい本だと思います。これから禅を始める人にとってはもちろん、既に禅道を歩んでいる人にとっても原点に立ち戻るよい機会となると思います。


5つ星のうち 5.0よくぞ出版してくれました。
投稿者 アマゾン二郎 投稿日 2016/9/25
 
これは凄い本です。井上老師の禅の核心を突く提唱が鮮やかに、しかも親切丁寧に再現されており、その場にいなかった者でも接心を追体験出来る様に工夫されています。本気で修業に励む者にとってまさに珠玉の一冊になると思います。

 
5つ星のうち 5.0

5つ星のうち 5.0初心者にもどの年齢層にも。翻訳本を期待
投稿者 Amazon カスタマー 投稿日 2017/1/3

色々な解釈がある中、この本は、本来の坐禅のあり方を明らかに示してくれる名著でした。
単に道を説く専門書ではなく、語りかける言葉で綴られている(実際の老師の話しを書き起こしてある)ので、道を極める方には勿論のこと、初心者にもわかりやすく、私も気がむいた時にページをめくって、そこで出会った言葉を日々の糧にしています。
最近は日本のメディアでも数多く取り上げられる座禅。海外に在住していますが「ZEN」は、既に多くの外国人にとっても日常。
この本でしたら、回り道をせず禅の本物に出会えると思います。
翻訳本を期待します。 

井上貫道老師の『正法眼蔵現成公案』提唱から


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悟り体験をすれば、もう元には戻らないです

以後は、諸仏の過ごされた境涯というものをこの身体で楽しむことが出来るのです
   
―井上貫道老師




修行ということに関しては、一応悟ってしまえばもう関係はないと思っている人もおりますが、
とんでもない事だと思います。



悟るという事はですね、それで終わりというのではありませんで、二度と迷いの世界に戻れなくなるという事です。

例えば、分わかりやすくいうと、一度も来てもらったことのないこのお寺へ来てもらったら、もうその日からお寺に来なかった人にはならない。

どんなに騒いでみても、どんなにやってみても、もうお寺に来なかった前の人には戻らない。



それくらい悟りという事は人を迷わせない確かさがある、ということが悟りの大事な事ですね。



もし時間が経ったら忘れてしまうとか、元に戻ってしまうとかいうものだったら、尊ぶ所以(ゆえん)がないですね。


だから道元禅師が「一生の参学の大事おわりぬ」というような表現をしている。 参学の大事了



その体験をした事によって一応の決着がつきましたって、いうことですね。



それで私たちは見たこともなかった、行ったこともなかった悟りの世界に初めて足を踏み込んで、

諸仏方の過ごされた境涯というものをこの身体で楽しむことが出来るのです。



これで初めてそれが悟後の生活という事になるのかね。

ここら辺が楽しい処でしょう。

本当はこれをやってみたいわけですね。


そうじゃなければ、こういう祖師方の書かれたもの、残されたものを、
共に手を携(たずさ)え本当に参究して、
その味わいを味わうことはなかなかありませんね。



そういう人を作っていかないと仏法とかいうようなものがつまらなくなるんですね。
そうでしょ。

 

向こうの岸へ行ってないのに、こつちの岸から向こうの岸の話を一生懸命しているんですから、
こっちにみんな居るんでしょ。

お互いこっちに居るものどうしが、その中の人が向こう岸の話をした。

「お前行った事があるか」と言った時、「ない」といったらどうなるんですか?


(井上貫道『げんにーび』 (正法眼蔵現成公案提唱)p.181) 
 

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