井上貫道老師が坐禅会で話されたことばから


◇考えを「やめる」んじゃないですよ。

事実に即していれば、考えが「やまる」んです。

事実に触れれば念が切れるんです。 ―井上貫道老師





kandouroushi●坐禅中にいろんな考えが出てくること自体は「事実」です。

でもそれにひきずられたまま考えにひたっていると、「考え方」の世界に行っちゃいますね。


だからと言って『考えが出てきた、まずい』と思うと、それも考え方の世界ですね。



もちろん『考えないようにしよう』と努力するのも考え方の世界でしかありません。

考えが出てくるという事実に自分が関わって考え方に変えてしまっているんです。



実際には、つかむものなんて何にもないんです。



事実に即していれば、考えが「やまる」んです。

事実に触れれば念が切れるんです。 









●修行が進むと何事にも用がなくなってくるので、一見バカになったように見えます。

それが怖くて多くの人は頭を使っちゃうんですね。


大丈夫です、本当のバカにはなりませんから。





●なんでみんな自分の真相を知らないのかなあ。

一度だって自分から離れたことなんてないのにね。





●これから本当の生活をしていこうという人はいないんです。
常にいつも本当の生活をしてます。

誰だってみな、いつもど真ん中にいるんじゃありませんか。




●世間では、自分探し、ってよく言いますよね。

自分探しには坐禅が一番です。


なにしろ自分自身と一日中一緒なんですから。






●事実とか真相とかいうと難しく思うかもしれませんが、今のありよう、って言ったほうがわかりやすいかもしれません。






●「事実それだけ」って簡単に言いますけどね、事実を説明できますか?
今の自分の事実って、まあ、この部屋ですね。

この部屋の様子だって、言葉では言い尽くせないほどものすごい事実の量ですよ。
 
宇宙に匹敵するほどの膨大な事実を、たった一目見ただけで分かってしまう我々って、すごいと思いませんか?


そのすばらしさを自覚できれば、それでOKなんです。





● このように襖を開くと、まさに襖を開いた様子になるんですね~。

実に面白いですね。




● 自分の上に現れないものは、知ろうとしたって無理です。





● 耳に入らないものは音とは言わないです。





● 眼と物の関係はキチッとしています。
 
でもそれが認識できない認知症なんかは、頭のほうに原因があるんです。
 
眼にはちゃんと正しく映っています。





●「むなしく死ぬ」っていうのは、自分のことが解決できないまま死ぬっていうことでしょうね~。






●「生まれ変わり」といいますが、次の生に生まれてきたということは、歴史上一度もありません。

人生は一回こっきりです。

[仏典にしても祖録にしても、個人がまた次の人生に生まれ変わるということはどこにもありません。
道元禅師は、『辧道話べんどうわ』の中で、人が死ぬと身体から魂が抜け出るという思想を、「仏教の教えとは全く異なる」と激しく非難している




●「真理」は追い続ける必要がないものです。

いつだって真理のど真ん中で生きているんですから。追いかけるとかえって間違いますよ。





●「いい死に方をした」なんて言いますが、あれは残された人が、残された側の立場で言っているだけです。

死んだ人にとってはいいも悪いもありません。






● 頭の中に気になることが残っていると、雨の音が雨の音として聞こえないですよね。

ちゃんと聞こえている時は、きれいさっぱり他のものがなくなっているんです。

消すんじゃないですよ。






● 雨の音っていうのは、「ぱしゃぱしゃぱしゃぱしゃ・・・」(口で擬音)これだけです。

これに親し~く目を向けてください。







● 義衍老師の法話は、いつも同じ内容ばかりです。

それを私は何百回と聞いてきましたが、一度も同じと思ったことはありません。

この雨の音と同じです。毎回違う。
 

でも人間は記憶なんかがあって、それを引っ張り出して、前に聞いたことがあるな・・・なんて。





● 普勧坐禅儀の内容なんて、3行ですみますよ。「このこと」しか言っていない。






● 痛みが消えることはありません。
 
でも人間は、過去の痛みの記憶やら不安やらで、それを心の中で増幅してしまうことがあるんです。
 
ほんとうに痛みだけになれば、そういうことはなくなりますよ。






● 人は好き嫌いを起こしますね。これは事実に対して評価をしているということです。


事実が入ってきてからわずかに遅れて評価をしているんです。

でもわずかの遅れとはいえ、評価をする前の段階の様子が必ずあります。


そこに着目していくといいですね。






● 事実をそのままに入れていれば、実に静かですよ。

こちらに余計なものがなくなり静かになった分、人の動きもよくわかるようになります。

たとえば剣道で殺気を感じるなどといいますが、打ち込もうとする瞬間には必ずなにか動きがあるんですね。
そういうことがわかります。





● (首をさして)みなさんは、ここから上、頭だけで生きていますね~ 

 [考えだけで生きていますね~ だから真相は分からない]





● 考えを「やめる」んじゃないですよ。

事実に即していれば、考えが「やまる」んです。





●「音、音、音」じゃないですよ。「ザワザワザワザワ・・・」、これだけですよ。

「ザワザワザワザワ・・・」、
 
これこそが本当の受け身というんでしょうね。





●「精進する」というと、力を入れて何かよりよいものを目指しがちです。
そうではないです。
 
即処即処、今この様子そのものであることが精進です。
 

修行というと難しいことをするんだと考えがちですが、そうではありません。





●頭の中で想像したものなんて二束三文です。

いくら想像したって、実際に実物が目の前に現れれば、一目見ただけですぐに分かりますよね。

想像は全部吹き飛びます。


事実に触れれば念が切れるんです。






●初めて会う人でも、いったん見ればすべて分かりますよね。
あっ、こういう顔の人だな、と。

自分で分かるでしょ。

それのどこが人の真相なもんですか。



全部自分の真相です。






●ほら、玄関でピンポーンと鳴ってますね。

あ、誰だろう、とか思うと、もう真相から離れちゃいますよ。

事実はピンポーンだけです。


誰だろう、なんてのは後から出てきた想像にすぎません。





● (別の老師)この中には長いこと参禅しておられる人もおりますが、みなさん、どうも頭で理解しようとしている様子が見受けられますね。
 
頭で分かったふうになっても進歩はありません。


とことんまで聞いて、そのとおりやってくださいよ。


私もさんざん苦労したから言ってるんです。

せっかく [貫道]老師に来ていただいているんですから、もっともっと尋ねてください。






●坐禅をやらなければ疑問があるはずですし、しっかりやればやったなりに、さらに聞くこと
が出てくるはずですよ。