坐禅の仕方と悟り,見性,身心脱落:井上貫道老師の庵 まとめブログ

Dharma Talks of an enlightened Japanese Zen Master Kando Inoue Roshi 井上貫道老師が、悟りを体現された経験から坐禅の方法や仏道について語られたものを掲載しています web上に散見される井上貫道老師のことばも引用掲載し、まとめブログとしました ( これは参禅者によるブログであり、公式サイトではありません ) このブログが正師への参禅のきっかけになりますように

タグ:座禅考え

井上貫道老師が坐禅会で話されたことばから


◇考えを「やめる」んじゃないですよ。

事実に即していれば、考えが「やまる」んです。

事実に触れれば念が切れるんです。 ―井上貫道老師





kandouroushi●坐禅中にいろんな考えが出てくること自体は「事実」です。

でもそれにひきずられたまま考えにひたっていると、「考え方」の世界に行っちゃいますね。


だからと言って『考えが出てきた、まずい』と思うと、それも考え方の世界ですね。



もちろん『考えないようにしよう』と努力するのも考え方の世界でしかありません。

考えが出てくるという事実に自分が関わって考え方に変えてしまっているんです。



実際には、つかむものなんて何にもないんです。



事実に即していれば、考えが「やまる」んです。

事実に触れれば念が切れるんです。 









●修行が進むと何事にも用がなくなってくるので、一見バカになったように見えます。

それが怖くて多くの人は頭を使っちゃうんですね。


大丈夫です、本当のバカにはなりませんから。





●なんでみんな自分の真相を知らないのかなあ。

一度だって自分から離れたことなんてないのにね。





●これから本当の生活をしていこうという人はいないんです。
常にいつも本当の生活をしてます。

誰だってみな、いつもど真ん中にいるんじゃありませんか。




●世間では、自分探し、ってよく言いますよね。

自分探しには坐禅が一番です。


なにしろ自分自身と一日中一緒なんですから。






●事実とか真相とかいうと難しく思うかもしれませんが、今のありよう、って言ったほうがわかりやすいかもしれません。






●「事実それだけ」って簡単に言いますけどね、事実を説明できますか?
今の自分の事実って、まあ、この部屋ですね。

この部屋の様子だって、言葉では言い尽くせないほどものすごい事実の量ですよ。
 
宇宙に匹敵するほどの膨大な事実を、たった一目見ただけで分かってしまう我々って、すごいと思いませんか?


そのすばらしさを自覚できれば、それでOKなんです。





● このように襖を開くと、まさに襖を開いた様子になるんですね~。

実に面白いですね。




● 自分の上に現れないものは、知ろうとしたって無理です。





● 耳に入らないものは音とは言わないです。





● 眼と物の関係はキチッとしています。
 
でもそれが認識できない認知症なんかは、頭のほうに原因があるんです。
 
眼にはちゃんと正しく映っています。





●「むなしく死ぬ」っていうのは、自分のことが解決できないまま死ぬっていうことでしょうね~。






●「生まれ変わり」といいますが、次の生に生まれてきたということは、歴史上一度もありません。

人生は一回こっきりです。

[仏典にしても祖録にしても、個人がまた次の人生に生まれ変わるということはどこにもありません。
道元禅師は、『辧道話べんどうわ』の中で、人が死ぬと身体から魂が抜け出るという思想を、「仏教の教えとは全く異なる」と激しく非難している




●「真理」は追い続ける必要がないものです。

いつだって真理のど真ん中で生きているんですから。追いかけるとかえって間違いますよ。





●「いい死に方をした」なんて言いますが、あれは残された人が、残された側の立場で言っているだけです。

死んだ人にとってはいいも悪いもありません。






● 頭の中に気になることが残っていると、雨の音が雨の音として聞こえないですよね。

ちゃんと聞こえている時は、きれいさっぱり他のものがなくなっているんです。

消すんじゃないですよ。






● 雨の音っていうのは、「ぱしゃぱしゃぱしゃぱしゃ・・・」(口で擬音)これだけです。

これに親し~く目を向けてください。







● 義衍老師の法話は、いつも同じ内容ばかりです。

それを私は何百回と聞いてきましたが、一度も同じと思ったことはありません。

この雨の音と同じです。毎回違う。
 

でも人間は記憶なんかがあって、それを引っ張り出して、前に聞いたことがあるな・・・なんて。





● 普勧坐禅儀の内容なんて、3行ですみますよ。「このこと」しか言っていない。






● 痛みが消えることはありません。
 
でも人間は、過去の痛みの記憶やら不安やらで、それを心の中で増幅してしまうことがあるんです。
 
ほんとうに痛みだけになれば、そういうことはなくなりますよ。






● 人は好き嫌いを起こしますね。これは事実に対して評価をしているということです。


事実が入ってきてからわずかに遅れて評価をしているんです。

でもわずかの遅れとはいえ、評価をする前の段階の様子が必ずあります。


そこに着目していくといいですね。






● 事実をそのままに入れていれば、実に静かですよ。

こちらに余計なものがなくなり静かになった分、人の動きもよくわかるようになります。

たとえば剣道で殺気を感じるなどといいますが、打ち込もうとする瞬間には必ずなにか動きがあるんですね。
そういうことがわかります。





● (首をさして)みなさんは、ここから上、頭だけで生きていますね~ 

 [考えだけで生きていますね~ だから真相は分からない]





● 考えを「やめる」んじゃないですよ。

事実に即していれば、考えが「やまる」んです。





●「音、音、音」じゃないですよ。「ザワザワザワザワ・・・」、これだけですよ。

「ザワザワザワザワ・・・」、
 
これこそが本当の受け身というんでしょうね。





●「精進する」というと、力を入れて何かよりよいものを目指しがちです。
そうではないです。
 
即処即処、今この様子そのものであることが精進です。
 

修行というと難しいことをするんだと考えがちですが、そうではありません。





●頭の中で想像したものなんて二束三文です。

いくら想像したって、実際に実物が目の前に現れれば、一目見ただけですぐに分かりますよね。

想像は全部吹き飛びます。


事実に触れれば念が切れるんです。






●初めて会う人でも、いったん見ればすべて分かりますよね。
あっ、こういう顔の人だな、と。

自分で分かるでしょ。

それのどこが人の真相なもんですか。



全部自分の真相です。






●ほら、玄関でピンポーンと鳴ってますね。

あ、誰だろう、とか思うと、もう真相から離れちゃいますよ。

事実はピンポーンだけです。


誰だろう、なんてのは後から出てきた想像にすぎません。





● (別の老師)この中には長いこと参禅しておられる人もおりますが、みなさん、どうも頭で理解しようとしている様子が見受けられますね。
 
頭で分かったふうになっても進歩はありません。


とことんまで聞いて、そのとおりやってくださいよ。


私もさんざん苦労したから言ってるんです。

せっかく [貫道]老師に来ていただいているんですから、もっともっと尋ねてください。






●坐禅をやらなければ疑問があるはずですし、しっかりやればやったなりに、さらに聞くこと
が出てくるはずですよ。







 

只管打坐の基本―坐禅入門8  東京都禅会by井上貫道老師


井上貫道老師の師・井上義衍老師のことば
  井上義衍老師とは→こちら
 ▷ 「我見をこれから離れるのではない。

我見の起る前があって、その前が自分の真実です。

それが本来の私共の心の在り方です。


空にする前に空であった事実がそのままズバーッと、みな、それだけでいいんです。


それをやると、必然に人我の見というものが、みな離れる。それが「道」です。
坐禅の一番大事な様子です。
 
作り手も、作られてもなしに生じ、生まれてくる。
知らずに出来たという、その根底まで、必ず落ちるに決まっているのです。

他に行き場所はないのです。決定的に落ちるんです。」




▷ 「五感というものは正直なものですから、その縁のまんまに受けるんです。

それが、ただそのまんまに受け入れられるようなところまでいけば大丈夫です。

ところが今の私共には、そこまで本当にいかんのじゃから、
縁に触れると、そこにすぐ心がついて動いてゆく、
そういう点を大いに警戒したほうがよい。

人の為に何かいいたくなる、やりたくてしょうがないという、
そういう気持ちが先に動きますというと、
自分の修行というものは結局できなくなる。」 

                                                        以上 井上義衍老師

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 禅 茶話会続き~2012年9月井上貫道老師東京都青梅禅会⑧
2013年04月17日(水) 




inouekandoroshizazen2ske2各参加者からの質問に貫道老師が答えました。


 
(主催者)
あのー、そろそろ、時間が迫りました。
何か質問のある方はどんどんご遠慮なく聞いてみてください。




(参加者)
考え方を止めようっていう事ですけども、

座ってて考え方を止めよう、
 
そうすると、また自分の考えでもって、自分の考え方を止めようとするとまた自分の考え方を使ってる事になると。

 
いつまでたっても終わらないんですね、考え方止めようとまた次の考え方、、、

 
結局座っている時間中追いかけていって終わらない




―それは、考え方を止めるって事がどういう事かわからないから
やってるんです。




(参加者)
それで、ある時、今老師の話を伺ってまして、
今、こういうふうに聞こえてる、
見えてるってとても大事な事だと、
今までのお話を伺ってる時に、あっそうだと強く感じた事がございまして、
あっそうか、そうか。
 

なんか非常に気持ちがスーッと楽になりまして、
今までこう気張ってた事が全部とれちゃいましてね。。。
 

気持ちが素直になっちゃうと、もう何でもよく、
考えとか、余計な事が必要なくなると。


そういう気持ちになった事がございまして、
だからやはり最初にそういう大きな気持ちがあれば、
あとはずっといれるんではないか、
という事がありますので、
ただ、それが一時的なものであって、
どういうふうにしたらよろしいかお伺いしたい。





―だから、これに尽きるんですねえ。

(バシッ)

こうやって音がしてるだけでいてみる、
それが考え方を止めてる証拠です。



こうやってものが見えてるだけでいてみる、って事が
考え方を止めてる証拠です。



人が喋ってる時にその話がその通りに聞けてるだけで
いれるって事が考え方を止めてる証拠です。



お茶飲めばお茶の味がきちっとしてるって事が
考え方を離れてる証拠です。



それに対して次の段階で、
それが、なんだって
ふうに出てくるんです。

それもただ音が聞こえる、
それなんだって
自分の事がそこで動いただけですから、
それだけです。

それだけなんですねえ。



思いって振り返ってみたらわかるように、
今思ったって事がわかった時に
初めて思ってたって事が取り上げられるんですね。



もっといえば、
思いが出てない時は、思いがあるとかないとか一切ないじゃないですか。


どうしなきゃいけないって事一切ないじゃないですか?


だけども、思いが動いた時でなければ、思いっていうのはないもんだから。

で、思いが動いた時にみてると、取り上げようと思った時にこの通りじゃん。



(バシッ)



音がしたんだけど、
今音がしたって取り上げようと思っても
音がないじゃないですか。



思いもそうでしょう。



さっきあーいう事思ってただけじゃないですか。

さっきあーいう思いが自分に生まれたってだけじゃないですか。



違いますか?


それを気がつくだけでしょう。



(参加者)
それ逆なんじゃないですか?
事実の見たもの、聞いたものは、もう消えちゃってる。
 
ものだけがひっぱってる、いつまでもある。
 
思いは消えちゃわないでいつまでも残ってる、だから悩むんじゃないですか?




―どうでしょうか?

皆さんどうですか?




(参加者)
よくあのー、どうこういう事が止まないんですけどっていう人多いですよね。
 
その時にそれを止めればいいじゃないと言われるでしょう。
 
それとまさにその思いがどうこうって止まないんですよ。と言った瞬間だけですね、
出てきたらこう。

で、それをぱっと気がつけば、叩いたのと同じように、消えてるわけですよね。
取り扱った時だけが、問題起こしてるだけですから。


今まではそれを止めろって言われたら、なんか言葉の綾で
ばんと言われただけだと思ってた、
正にそれ、適切にそれを言ってるんですね。

やっとちょっと気がつきました。




―だって、言葉だって、喋ってる時だけしか喋ってる様子はないでしょう。

それだけなんです。


思いも、思いが出てきてる時、
そういう動きをしてるだけであって、
その後にも先にもない。



もっというと、

次の思いが出てくる時はこれを見てると同じように
次の様子が出てくると前の様子は自然となくなるんですね。



前、見てた様子はこうやったらないでしょう。
ありますか?




(参加者)
あの、現実はそれはなくなりますよ、




―現実です。




(参加者)
だけど、思いだけが、
ずっと引きずっていくから、
問題がいろいろ起きるんじゃないですか?

消えないから。




―だから見てよ。消えてるかどうか。


じゃあ、言葉でちょっとやってみますがね、
昨日あの人にひどく殴られたよ、腹立ってるんだよって。


私が今やって、

そういや、さっき、
子供が遊んでたなー

っていう思いを起こした時に、
さっきの思いの事をその時やってるでしょうか。


やってないから、今子供があんなふうな事してるって事になるんでしょう。


もし、さっきの、その前の思いがあったらこんなふうにはならないでしょう。

入り混じっちゃって、思いが。



二つの事同時に思えないですよ。人間って。




(参加者)
そうですか?



―思いません。

必ず順番にやってく。



あれもこれも、
っていったって見てください。


あれも。


これも。

です。



あれもこれも一緒にやってません。


あれも。
これも。
それも。
これも。


何もかも
っていうけども、

何も。

かも。

です。



ひとつひとつ、

みんな、

です。



実際に、そういうふうにしかやってません。


体の動きもそうです。


いろんな事をするっていうけど、
よく見てると、
ひとつひとつ、その事をやってるだけです。


そんな単純なんですよね。



だけど、頭の中の構造は、ものを推察する時に、
そういうふうに見ないんですよ。



おっしゃる通りなんです。

ずーっと前の事が、残っているように、

そういうふうに観察してるんですね。



だからそれはね、もう一度、丁寧に自分の事ですから、
どういうふうになってるかを思いが起きた時に触れてみてください、
 
それではじめて、少しずつこうやって
 
あー、なるほど
 
って思える、

 
それまでは、なかなか言う事きかない。


 


まあ、百人中百人、恐らく同じなんですよね、
正解なんです、何さんの言われる事が。


それくらいにしか見てないんです、自分の思いに対して。



それだから厄介なんです。



話しても話してもなかなか通じない。





(老師、黒板に線をひいて説明する)

思わない時はないし、

思った時にはここで思って、

この間なくて、

ここで思って、

こうやって思うとですね、


ここで思ったものは、ここで思うとですね、
ずーっとなくならずに
あるように思うんですね。



これが、まず見てない事です。


また思えると、

あーやっぱりなくなってないじゃないか

っていう見方をするんです。



だけど、よく見ると、
この間は何にも思ってません。
そんなことは。



そういう事がわかってないんです。

だから、この間は何にも問題起きてません。不思議に。


この思いが起こった時にここにあるんだけども、
忘れて、
また同じ思いがここに出てくるまでの間は
思ってませんから
この時苦しんでいる人はいませんね。


だけど、これがまた同じようなこと、
二度目に思えると、
やられるんですね。


ほら、やっぱりなくなってないじゃないかっていうんだけど、
これはさっきの事ではないんですね。

さっきの事ではない。


(黒板を指して)

さっきはここで思った事。


これはここで思ってる事であって違うんです。



それはいつも申し上げるように、
ご飯何回も食べるけども
一回、一回初めて食べるのと同じです。



だけど常識的には、またお昼ご飯かというような言い方になるんですね。

だけど内容は違うんです。


だからこうやって自分の本当のあり様を一度見極めてもらわないと
普通にしゃべってる事がですね、
本当は違うんです。
それが誤解と自分で思うんです。





(参加者)
じゃあ、よく知り合いの人なんかで、ずーっとなんか考えちゃって
困るわーっていう人いるんですけど、

ずーっと考えてるわけではないんですよね?




―ずーっと考えてる人なんていません。




(参加者)
ずーっと考えちゃってて
その事で頭いっぱいで何もあまりできないのよ
という人いるんですけど、
ずーっと考えてて半年過ぎてるわけじゃない。
 

―あなたのところに来てね、
「考えてて頭いっぱいで何もできない」って
言ってる事自体が、みてください。

 
自分の思ってる事と違う事やってるじゃないですか。
 
既にしゃべれてるじゃないですか。

 
頭いっぱいで何もできないのではなくて、しゃべれてる。

 
それなのに、自分は頭いっぱいで何もできない、
 
そういうふうに思ってる。

 
それくらい違うんですよね。
 


引用元


⑨へ続く

 



坐禅 只管打坐はシンプルー座禅中に目を開くことの意義


禅 座禅後の指導 目を開けること ~2012年9月井上貫道老師・東京都青梅禅会より③ 
今回の③は約17分です。


椅子座禅30分終わって、そのあとの井上貫道老師のお話です。


  
やってる事はそんなに難しい事は何もないと思うんですよね。
 
 
だけどー、先ず第一に眠いねー。
 
ほとんどの人が目を瞑(つぶ)っちゃうんですよね。
 
あのう、時々回ってみましたけども、触るとふっと目を開けるところを見ると、
目を瞑ってるって事でしょう。
 

こんな事がなかなか目を開けたままじっとしていられないんですよね。
耳はですね、耳はご承知のようにこのままで開きっ放しですから
耳はふさがるって事はほとんどないんですよね。
目は自分の力で開けないと瞑ってしまう。

目は塞がったらものが見えなくなる。

まず皆さんに勉強して欲しい事ですね。

目を塞いだら見えなくなる。


ところがこうひとりずつたぶんあたって聞いてみると、
目を閉じてもいろんなものが見えるんです。
 
そういうたぶん答えになるのですね。
 
それは厳密に言って絶対見えているんじゃない。
 
普通見えるというのはですね、自分の外側にあるものを見れるのを見るっていうんですね、
自分の中にあるものを指して見るとはあまり言いません。
 
同じ見るのでもそれは心の中を見るとかっていう風になればそういう事があるけど、
眼(まなこ)がものを見る時にはそういう事はありませんね。


だから目を閉じたら見えなくなるから楽になるのでしょう。
 
布団に入って目を閉じてもですね、いろんなものが走馬灯のように
浮かぶって人もいるでしょう。
 
寝られないよ。気になって。
 
だけど、本来は目を閉じると見えなくなるから寝れるんです。
 
それが証拠に自分の目の前にあるものを目を閉じて見える人いますか?
 
目の前にいろんなものがある、
目を閉じたら見えなくなるでしょう。


目を開けてください。
開けるとちゃんとわかるようになっているでしょう。


じゃあ日常生活もこのように目を開けていさえすれば
目の前の物事ははっきり見えるはずなんです。
それが己を見極めるって事ですよね。
 
にも関わらず、皆さん、目を開けてものを見た時に、
よくわからんっていう人たくさんいるんですよね。
わからないって人


パッと見ただけで見違える事はないでしょう。
 
全部違うんだもの。
その通り見える、
そういう風に見えているのにも関わらず、わからないって事をいう人が多いのです。
 
それで修行をして頂く時、本当に勉強して頂く時は、わからない事を相手にしないんですね、
わからない事の方を探らない、

わからないことは放っておく


皆さん、わからない方を知りたいわけでしょ。わからないと。
わからない方をわかるようになりたいと。
そうじゃなくて、


はっきりしている事、こっちを大切に扱うんです。


研究するんだって、わからない事を研究するんでしょうけど
研究は必ずはっきりしている事を相手にします。
 
なんだかわからない事なんて研究できないんですよ。
 
はっきりしている事、研究しているとはっきりしてる事があるんです。
 
はっきりしてる事があるけども、それがなんだかわからないんです。
 
ね、そういう事あるでしょう。
 
理論的にはわからない、
だけども、こういう風にすればこうなるって事だけははっきりしているから、
それをとりあげる。
 
わからない事はとりあげません。

 

だからこうやって目を開けていると、ちゃんと見えているでしょう。

見えている、はっきりしている事だけを修行で取り上げる、

どういうふうにやってるかだけです。


今、静かな場所、一定の所でこう、過ごしていたから、
変化が少ないので眠ってしまうのかもしれないけど、
さっき川の土手を歩いたりいろんな事をしてきましたけども、
あれ、全部目を開けてたぶん見てきた事です。
 
それ以外にはやって来なかったんだね。
あれが、皆さんのさっきまでの人生です。



で、あわせてですよ、今日この教えの話をするわけですが、
仏教っていう風な言われ方をしているんだけども
どれくらい正確に仏教というものが世の中に伝えられているかの中でですね、
仏教っていうのは、己以外、自分以外をどうこうすることではありません、
 
仏教っていうのは、本当に自分自身を見きわめる事に尽きるんです。
 
ところが一般的には仏教はですね、こうやって生活していると自分の中で
どこかこう満ち足りないものを感じるからそれで昔のりっぱな人たちが
そうやって一生過ごすから、この事を勉強しないとだめなんです。

他の人なんか用はないんですよ。

他の人の事なんか。
 
間違えないで下さいよ。
 
他の人に用はないっていうのは、こうやって見ている事が自分の事だからですよ。
 
ここにいる方お互い見ている事自体が、自分の事だから。自分が今やっている事だから。
 
自分がやっている事がわかりずらい人は、自分の目で見ているって表現したらよくわかるでしょう。
 
自分の目で見てる事が、見えてるって事です。


それ、他人(ひと)の事じゃあないですね。


これなんかもよく理解できてないかもしれない。
自分を見極めてませんから、どうしても他人(ひと)の事を私が見ているんだって、
そういうふうに見ている。


じゃあもうちょっと突っ込んでお話するとですね、
あの人はなんであんな歩き方をするんだろうって、
誰がやるんですか。
私がこんな格好して歩いたりしているとさ、(老師がすごく変に腰を曲げて歩く)、
どうしちゃったんだろうって。これは皆さんがやるんでしょう。
私はただこうやってるだけです。(老師がすごく変に腰を曲げて歩く)


そういうふうに皆さんが勝手に見方をつけるんです。自分の見方を。
見解を。
 
それで、そういう見方をどこでじゃあ起こすかったら、必ず、今なんです。
これがどっかで起こすんではなくて、
必ず見た時にふっと起こすんです。
その時に起こすんです。
 
これらをよくわかってないですね。
 


悩み、苦しみっていうのは、必ず今起こすだけなんですよ。
 
気にいらないとかっていう思いが起きるんだってどこで起きるかって、
物に触れたりした時にふっとその時に起きた時が気にいらないというふうに
なっているだけであってその他にはないですよ。
 

思いっていうのはねー、夏に使う氷みたいなもんだね。
どういう事かっていうと、氷が解けちゃうと、何処にもない。
 
さっきまであんなにちゃんとした形があったのに、
あの人、気にいらない人だなという思いが出たとすると
ちゃんと氷のようにきちっとその思いがここにあるんだけども、
それが時間が経つとですね、溶けて何処にもない。
 
だけど、溶けた後にここら辺に少し乾くまでしみが残る。
 
それがですね、さっきまであーいうふうに思えたというか事です。
 
さっきまであーいうふうに思えたって事なんですね、しみが。

 
本当は思いってそういうふうにどこにも影も形もないように働くようにできているんですね。
だけども、あの人憎らしいって思うと、みんなそれで、自分の中がおかしくなるのですよ。
 
他の人が思うんじゃあないんですよ。
 
ひとりひとり自分の中で思って、自分の中でおかしくなるだけなんですよ。

 
そういう事が自分を見極めるって事なんです。
 
どういうふうに問題が起きてるか、
どこに問題があるのか、
だって目で見て御覧なさい。

こうやって物を見た時に、
気にいるとか、いらんとかって一切ないでしょ?
 
どうですか?皆さん、自分の目の前の様子見て。
 
その通りにただ見えるだけっていうのが間違いなく基本でしょ。
 
どこ見てもいいですよ。その通りにただ見えるだけなんでしょ。
 
これ、勉強して欲しいんですね。
そんな事ないっていう人たくさんいます。


(老師がマジック二つをかざして)
こうやってどっちが大きいって見えますか?って聞くとですね、
見事に皆さん引っかかるね。
 
どちらが大きいっていうふうに見えますか?って言ったら、
はい、こっちだよって大きいって言うんですね。
 

それは、分別っていうものが動くからです。
(老師がまたマジック二つをかざして)

目はこういうふうに出されてもですね、大きいとも小さいとも比べないんですよ。

その通りにとる。
 
そしてその通りに見て自分でどうもしないのにちゃんとわかる、
置いてある場所の違いもよくわかる、
絶対ごちゃごちゃにならない。
 

どっちが綺麗ですか?って出すと困る、
なんで困るかって、これを出されてみてですね、
どっちが綺麗ですか?って、目は困った事ないでしょ?
このまま見てなんにも困らない。
皆さん、困りますか?



(老師が頭を指して)
困るとしたらここです。
あなたがたの考え方がどういうふうに答えを出したらいいかって
働き出すとわからないって答えになるんです。
 
はっきりしないとか、難しいとか、
 
実際はものすごく明確です。
 
 
そういう事が私達の本来のあり方です。
 
これが自分ではっきりすれば生活の中で、ぐずぐずするような事はありません。
 
要は物ははっきりしているはずなのに、はっきりしている事がどうなってるかを
自分で確かめてみた事がないから自分の素晴らしさがわからない。
 
そういう人が多いから、古くは釈迦のような人がこういう自分を見きわめるって事を
きちっとした代表者です。
 
そういう人がいて、自分を見きわめた話をされて、そして見きわめた人を
そこに生前いる間、取り巻きで触れた人が一緒に生活をして、その言動に触れて
ご自分のそういう事を体験されてなるほど、釈迦のやっている事、
言ってる事は間違いない、確かさがあるって事を各自自分で気づいているんですね。

そういう事によって教えが伝わってきたんです。
 
まあ、それで話は終わりなんですねー。
 
皆さん方はだから勉強もっと違う事しているんじゃあないですか?
 

もしあれだったら、質問たくさん出して下さい。そしたらそれによって深めていけると思います。



この文章は、保護犬マロンと小山っ子いぶきの気ままな日記 〜お茶も~禅も~ のうちの井上貫道老師の坐禅会のテープ起こし部分から引用させてもらっています  貫道老師青梅坐禅会の部分がなかなか探しにくいので、管理人さんに許可を得てここにまとめています



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