坐禅の仕方と悟り,見性,身心脱落:井上貫道老師の庵 まとめブログ

井上貫道老師が、悟りを体現された経験から坐禅の方法や仏道について語られたものを掲載しています web上に散見される井上貫道老師のことばも引用掲載し、まとめブログとしました ( これは参禅者によるブログであり、公式サイトではありません ) このブログが正師への参禅のきっかけになりますように

タグ:座禅思考

仏道修行・坐禅修行の根本 自分を見極める時は思考を使わない  
~2012年9月井上貫道老師・東京都青梅禅会より④ 

人は如何に自分の思いの中にいて、事実(=真理)を知らないか


ここから法話:
 kandoroshiatshorinji
皆さんどんな勉強普段しているんですか?
 
自分の事みんな放っぽっていませんか?

 
自分の事ほとんど見てない。
 

(老師、机をたたく)
こうやって座ってて隣で音がする。

(パシッ 老師が机をたたく)
 
音ってこうなっているんですよね。
わかりますか?こういう風になってるって。


(パシッ)
聞いてますか?皆さん、今、どうなってますか?
 
難しい?
 
だって聞こえてるって事は難しくないでしょー?


探す用も、尋ねる用もないでしょ?


隣の人に聞かなくても自分の意見を言って下さい。
 
誰かに相談して答える事は用がない、
 
あのー、これはどんな答えも恥ずかしい事はないですよ。



参加者 「扇子を叩いて何やってるんだろう」

それは思う事でしょ?はっきり申しますけど。
 
何やっているんだろうって思う事を私は聞いてない
どういう風に聞こえるか?って聞いているんです。

 
何をやっているんだろう?っていうのは思いです。
 
聞こえた事に対する思いです。


参加者 「うるさい、」

うるさいのもそうです。うるさいのも思いです。

 
だからこういう意見が出るから勉強になるんです。
 
ほとんどそう思っているんですよ、みんな。

 
あの、こうやってどういう風に聞こえますかって聞いて、何してるんだろうって思うって、
そういう風には聞こえてないんです。
 
それは聞こえてる事ではない。
 
思ってる事であって聞こえてる事はそういう事ではない。
 
それくらい、自分のあり様というのを見ていない。



こうやって音がしているものに対して自分がどうなってるか。
 
この位の音ならまだいいですよ。

 
人間のしゃべっている音声も音なんだけど、人間のしゃべっている音声に対して
もっと皆さん方今言われるように、それは何だ?って、必ず思うんですよ。
 
それはしゃべっている事の中の意味合いを理解しようと思って探る、
聞こえてる事とは違う、
そういうのを皆さんは聞いてると思ってるんですねー。
 
 
だからもう一回基本的な勉強をし直す必要がある。

 

そういう事を釈迦って人はやったんです。
こうやって6年も。明けても暮れても。こうやってどうなってるか勉強した人です。座って、


これは事実に学んだんです。

考え方でなくて、
 

どうなってるんでしょうね?
子供だってわかる話ですよ。
何で大人の人が難しいのかしら?
いいですか?


(老師、扇子をたたくふりしただけ)
聞こえた人誰もいないね。


(パシッ 老師が机をたたく)
 
こうやってやると聞こえるでしょ?


じゃあ今はどうですか?
(老師、扇子をたたくふりしただけ)
 
聞こえて、ない、でしょ?
 
そういう事なんですよ。


それが大事なんです。
いつなくなるんでしょう?
いつ聞こえなくなってるでしょう?
 
皆さん、自分の耳で聞いてるでしょ?
 
だったら音がしたのならわかるかもしれない。聞こえなくなったのはいつからですか?

今、
こういう事がはっきりしないってことは、いかに自分を見極めてないかって事です。
 
これだけで勉強するんですよ。


考えると難しくなるんですよ。
 
皆さんの少々の頭じゃわからん。
 
考えたら難しくなる。
 
だけど、事実はちゃんとこの中にある。答えは。


(パシッ 老師が机をたたく)
 
音がして音を聞いて、どうなったかっていった時に、この中に答えはあるじゃん。
 
今、音がした、ところにあるから、考えなくたっていいじゃない。


(パシッ 老師が机をたたく)
これで勉強すれば。
 
その他のところに思いを巡らして、あれはどうか、、、全然当て外れでしょ。


(パシッ 老師が机をたたく)
 
これどうなってますか?ったら、ここで勉強するでしょ。
 
必ずだから、今、 勉強するでしょ。
 
今の事をね。
 
それだけなんです。


 
修行って、それだけ。
 
これがわかったら、卒業ですね。


参加者「扇子が机に触れた時に音がするって、いうことですか?」

まあ現象的にはそうですね。

 
じゃあもうちょっと、机に扇子が当たった時に、どこで聞くんだろう?
 
どこで聞いているんだろう?
 
どこで音がしている?っていうと、耳で聞く、と本当にそう答えが返ってくるんですねー。


(パシッ 老師が机をたたく)
 
耳で聞こえる?
 
え?耳で聞こえる人いる?
 
もっと丁寧にやったらカチっというだけでしょ?
 
違いますか?正直に。
 
カチっというだけでしょ?
 
それ以外何もないでしょう?
 
どうですか?
 
カチっ、それだけじゃないですか?
 
カチっという事が聞いている事でしょ?
 
その時に、あっちで音がした、こっちで聞いたっていう事はないでしょう?
 
いきなり、カチっでしょう?


カチっ
 
音がしたから聞こえたって、
そんな事あるかしら?
 
こういう事ですよ、勉強って。
 
今まで先輩がいろんな事を言って遺しているから、そういうものを聞いたりして
或いは読んだりして理解しているだけであって、

この事実に自分が触れて本当にどうなっているかを確かめた事ないんじゃないですか? 


他人の意見で皆、終わっているのではないですか?
 
耳で音を聞くとか、向こうで音がするとか、
 
こっちで聞こえるとか、そういうみな、理由だけではないですか。
 
本当に実物でこうやって今音がした時に自分のあり様って、どうなってるか?


(ここで参加者の携帯が鳴る)
 

いいですよ、あーいうのだって皆勉強になるんですよ。
 

いきなりでしょうが、
 
いきなり、音があるんでしょう。
 
いきなり、音がある時に、人はうるさいとか、邪魔だとか、一切やってないでしょう?
 
音がしてるだけで済んでませんか?

 
それが私達の救われている世界なんです。

 
知らないから、すぐ音がした後に、自分の考え方を持ってきて、
 
なんでこんな時に音を出してって、たぶん思った人いると思う。
 
そうすると思う人もいれば

人がそう思うんじゃないかって思う方もいて、
 
お互いにまずい事をしちゃったなって、思って、
 
そこで苦しむ種を自分で作ってしまってるんです。
 
だけど、この耳はですよ、その通りに音がするだけで、どちらにも傷をつけない。
 
どちらも責めません。
 

今ご覧の通り音がしてないから言う必要がない、何も。

 
言う必要がないんだけども、さっきあーいう事したんじゃないかって、つつく人は中にいるの。

ないものを何故つつくの?
 
子供育てる時、さっきやった事があったとしても、
 
今やってないものに対してそれは何だ?って事はないでしょう?

 
じゃあそれと同じように、音がし終わったのに、うるさい、だとか邪魔だとかっていう事は
甚だ心外な事をやってませんか。
 
どこをつつくんですか?
 
音がしてないのに、うるさい、って、どこをつつくんですか?
 
ありもしない事をそうやってあたかもあるようにしてつついたらいじめじゃないですか?
 
いじめ。虐待じゃないですか?



参加者
「そういう場合、どうしても、老師が扇子で机を叩いてるって、考えちゃうんです。
誰かさんの携帯がさっき鳴ってたって、すぐ考えちゃう。」



[老 師]だから、もう一回申し上げますが、

見極めるって時は思考を使わない。

 

参加者
「だからいかに自分を見極めてないかって事で、
いかに自分がわからないかっていうのがわかった。自分を見てない。」



[老 師]そうです、いつも考え方で見ている、



参加者
「どうしても、ここで(頭を指して)考えちゃうんですね。
 あー、何さんの携帯が鳴ってるな。
 先生、こんな事やってるな。それだけです、考えちゃう。」


[老 師]
それは、いかにも他人事なんです。
 
だけど、本当は自分が今生きているあり様そのものなのに、
 
そういう風に自分が他人事のように見ているって事が二つ目の、大きな誤りでしょう。



誰が聞いたんでもないですよ。
 
自分が聞いたからそういう事が起きた。
 
自分が見たからそういう事が起きたのであって、
 
私のやってる事でないし、あちらのやってる事でないんです。

 
でも人間って、そういう風にしか今迄見てこないんです。
100パーセントたぶんそうですね。


そういう中に釈迦って人が生まれたんです。
 
だからそういう勉強しか、おそらく当時してないですね。


そこから抜け出したんですよ。


初めて、そういう人間の考え方を外してみた時にこうやってやると
 
(老師、扇子かざす)
 
その通りに見えるっていう事は、私の事ではないですね。


見えてるって事は皆、一人一人自分の今の生きている様子でしょ?


生活している内容でしょう?


これを見ているって事は、一人一人がこれを見ているって事は、

自分の今生きている内容でしょう?

そういう事は理解できますよね?



でもまだ向こうの人が言っている事って思っているのかしら?
 
だから思う事と自分が目でやってる事は違うじゃないですか?
 

自分の目は、思う事じゃないから、本当に自分の目でこの通り見てる動きしかないでしょう?
 
だって他の人の目で見れないんですよ。


こういう事、必ず自分の目で見てこれが見えるんですよ。


これ、見えると、あーあっちで扇子開いてるからそういう風に見えたっていう
考え方や思いをここに付けるじゃないですか。


じゃ、考え方や思いを外したら、これ、見えなくなるかっていうと、
どうですか? 


見えなくならないって事は、考え方や思いじゃないって事でしょ?


もし考え方や思いだったら、考え方や思いを外したら、たちどころに見えなくなりますよ。



だけど不思議に人間のあーいう風に見えるとかあーいう風な事やってるとか
全部外してもこの確かさは絶対なくならない。


それは考え方じゃないからです。


(老師扇子を開く。)
 
こうやってやると必ずこうなる。
 
(老師扇子を開く。)
 

どんな事を思ってても皆さんが思っている事とは関係なくこうやってやるとこうなる、
 
さっきまで開いていたのにって、いくら思ったって、ここしかない。
 

それくらい思い方と事実は違うんです。いいですか?

坐禅 只管打坐はシンプルー座禅中に目を開くことの意義


禅 座禅後の指導 目を開けること ~2012年9月井上貫道老師・東京都青梅禅会より③ 
今回の③は約17分です。


椅子座禅30分終わって、そのあとの井上貫道老師のお話です。


  
やってる事はそんなに難しい事は何もないと思うんですよね。
 
 
だけどー、先ず第一に眠いねー。
 
ほとんどの人が目を瞑(つぶ)っちゃうんですよね。
 
あのう、時々回ってみましたけども、触るとふっと目を開けるところを見ると、
目を瞑ってるって事でしょう。
 

こんな事がなかなか目を開けたままじっとしていられないんですよね。
耳はですね、耳はご承知のようにこのままで開きっ放しですから
耳はふさがるって事はほとんどないんですよね。
目は自分の力で開けないと瞑ってしまう。

目は塞がったらものが見えなくなる。

まず皆さんに勉強して欲しい事ですね。

目を塞いだら見えなくなる。


ところがこうひとりずつたぶんあたって聞いてみると、
目を閉じてもいろんなものが見えるんです。
 
そういうたぶん答えになるのですね。
 
それは厳密に言って絶対見えているんじゃない。
 
普通見えるというのはですね、自分の外側にあるものを見れるのを見るっていうんですね、
自分の中にあるものを指して見るとはあまり言いません。
 
同じ見るのでもそれは心の中を見るとかっていう風になればそういう事があるけど、
眼(まなこ)がものを見る時にはそういう事はありませんね。


だから目を閉じたら見えなくなるから楽になるのでしょう。
 
布団に入って目を閉じてもですね、いろんなものが走馬灯のように
浮かぶって人もいるでしょう。
 
寝られないよ。気になって。
 
だけど、本来は目を閉じると見えなくなるから寝れるんです。
 
それが証拠に自分の目の前にあるものを目を閉じて見える人いますか?
 
目の前にいろんなものがある、
目を閉じたら見えなくなるでしょう。


目を開けてください。
開けるとちゃんとわかるようになっているでしょう。


じゃあ日常生活もこのように目を開けていさえすれば
目の前の物事ははっきり見えるはずなんです。
それが己を見極めるって事ですよね。
 
にも関わらず、皆さん、目を開けてものを見た時に、
よくわからんっていう人たくさんいるんですよね。
わからないって人


パッと見ただけで見違える事はないでしょう。
 
全部違うんだもの。
その通り見える、
そういう風に見えているのにも関わらず、わからないって事をいう人が多いのです。
 
それで修行をして頂く時、本当に勉強して頂く時は、わからない事を相手にしないんですね、
わからない事の方を探らない、

わからないことは放っておく


皆さん、わからない方を知りたいわけでしょ。わからないと。
わからない方をわかるようになりたいと。
そうじゃなくて、


はっきりしている事、こっちを大切に扱うんです。


研究するんだって、わからない事を研究するんでしょうけど
研究は必ずはっきりしている事を相手にします。
 
なんだかわからない事なんて研究できないんですよ。
 
はっきりしている事、研究しているとはっきりしてる事があるんです。
 
はっきりしてる事があるけども、それがなんだかわからないんです。
 
ね、そういう事あるでしょう。
 
理論的にはわからない、
だけども、こういう風にすればこうなるって事だけははっきりしているから、
それをとりあげる。
 
わからない事はとりあげません。

 

だからこうやって目を開けていると、ちゃんと見えているでしょう。

見えている、はっきりしている事だけを修行で取り上げる、

どういうふうにやってるかだけです。


今、静かな場所、一定の所でこう、過ごしていたから、
変化が少ないので眠ってしまうのかもしれないけど、
さっき川の土手を歩いたりいろんな事をしてきましたけども、
あれ、全部目を開けてたぶん見てきた事です。
 
それ以外にはやって来なかったんだね。
あれが、皆さんのさっきまでの人生です。



で、あわせてですよ、今日この教えの話をするわけですが、
仏教っていう風な言われ方をしているんだけども
どれくらい正確に仏教というものが世の中に伝えられているかの中でですね、
仏教っていうのは、己以外、自分以外をどうこうすることではありません、
 
仏教っていうのは、本当に自分自身を見きわめる事に尽きるんです。
 
ところが一般的には仏教はですね、こうやって生活していると自分の中で
どこかこう満ち足りないものを感じるからそれで昔のりっぱな人たちが
そうやって一生過ごすから、この事を勉強しないとだめなんです。

他の人なんか用はないんですよ。

他の人の事なんか。
 
間違えないで下さいよ。
 
他の人に用はないっていうのは、こうやって見ている事が自分の事だからですよ。
 
ここにいる方お互い見ている事自体が、自分の事だから。自分が今やっている事だから。
 
自分がやっている事がわかりずらい人は、自分の目で見ているって表現したらよくわかるでしょう。
 
自分の目で見てる事が、見えてるって事です。


それ、他人(ひと)の事じゃあないですね。


これなんかもよく理解できてないかもしれない。
自分を見極めてませんから、どうしても他人(ひと)の事を私が見ているんだって、
そういうふうに見ている。


じゃあもうちょっと突っ込んでお話するとですね、
あの人はなんであんな歩き方をするんだろうって、
誰がやるんですか。
私がこんな格好して歩いたりしているとさ、(老師がすごく変に腰を曲げて歩く)、
どうしちゃったんだろうって。これは皆さんがやるんでしょう。
私はただこうやってるだけです。(老師がすごく変に腰を曲げて歩く)


そういうふうに皆さんが勝手に見方をつけるんです。自分の見方を。
見解を。
 
それで、そういう見方をどこでじゃあ起こすかったら、必ず、今なんです。
これがどっかで起こすんではなくて、
必ず見た時にふっと起こすんです。
その時に起こすんです。
 
これらをよくわかってないですね。
 


悩み、苦しみっていうのは、必ず今起こすだけなんですよ。
 
気にいらないとかっていう思いが起きるんだってどこで起きるかって、
物に触れたりした時にふっとその時に起きた時が気にいらないというふうに
なっているだけであってその他にはないですよ。
 

思いっていうのはねー、夏に使う氷みたいなもんだね。
どういう事かっていうと、氷が解けちゃうと、何処にもない。
 
さっきまであんなにちゃんとした形があったのに、
あの人、気にいらない人だなという思いが出たとすると
ちゃんと氷のようにきちっとその思いがここにあるんだけども、
それが時間が経つとですね、溶けて何処にもない。
 
だけど、溶けた後にここら辺に少し乾くまでしみが残る。
 
それがですね、さっきまであーいうふうに思えたというか事です。
 
さっきまであーいうふうに思えたって事なんですね、しみが。

 
本当は思いってそういうふうにどこにも影も形もないように働くようにできているんですね。
だけども、あの人憎らしいって思うと、みんなそれで、自分の中がおかしくなるのですよ。
 
他の人が思うんじゃあないんですよ。
 
ひとりひとり自分の中で思って、自分の中でおかしくなるだけなんですよ。

 
そういう事が自分を見極めるって事なんです。
 
どういうふうに問題が起きてるか、
どこに問題があるのか、
だって目で見て御覧なさい。

こうやって物を見た時に、
気にいるとか、いらんとかって一切ないでしょ?
 
どうですか?皆さん、自分の目の前の様子見て。
 
その通りにただ見えるだけっていうのが間違いなく基本でしょ。
 
どこ見てもいいですよ。その通りにただ見えるだけなんでしょ。
 
これ、勉強して欲しいんですね。
そんな事ないっていう人たくさんいます。


(老師がマジック二つをかざして)
こうやってどっちが大きいって見えますか?って聞くとですね、
見事に皆さん引っかかるね。
 
どちらが大きいっていうふうに見えますか?って言ったら、
はい、こっちだよって大きいって言うんですね。
 

それは、分別っていうものが動くからです。
(老師がまたマジック二つをかざして)

目はこういうふうに出されてもですね、大きいとも小さいとも比べないんですよ。

その通りにとる。
 
そしてその通りに見て自分でどうもしないのにちゃんとわかる、
置いてある場所の違いもよくわかる、
絶対ごちゃごちゃにならない。
 

どっちが綺麗ですか?って出すと困る、
なんで困るかって、これを出されてみてですね、
どっちが綺麗ですか?って、目は困った事ないでしょ?
このまま見てなんにも困らない。
皆さん、困りますか?



(老師が頭を指して)
困るとしたらここです。
あなたがたの考え方がどういうふうに答えを出したらいいかって
働き出すとわからないって答えになるんです。
 
はっきりしないとか、難しいとか、
 
実際はものすごく明確です。
 
 
そういう事が私達の本来のあり方です。
 
これが自分ではっきりすれば生活の中で、ぐずぐずするような事はありません。
 
要は物ははっきりしているはずなのに、はっきりしている事がどうなってるかを
自分で確かめてみた事がないから自分の素晴らしさがわからない。
 
そういう人が多いから、古くは釈迦のような人がこういう自分を見きわめるって事を
きちっとした代表者です。
 
そういう人がいて、自分を見きわめた話をされて、そして見きわめた人を
そこに生前いる間、取り巻きで触れた人が一緒に生活をして、その言動に触れて
ご自分のそういう事を体験されてなるほど、釈迦のやっている事、
言ってる事は間違いない、確かさがあるって事を各自自分で気づいているんですね。

そういう事によって教えが伝わってきたんです。
 
まあ、それで話は終わりなんですねー。
 
皆さん方はだから勉強もっと違う事しているんじゃあないですか?
 

もしあれだったら、質問たくさん出して下さい。そしたらそれによって深めていけると思います。



この文章は、保護犬マロンと小山っ子いぶきの気ままな日記 〜お茶も~禅も~ のうちの井上貫道老師の坐禅会のテープ起こし部分から引用させてもらっています  貫道老師青梅坐禅会の部分がなかなか探しにくいので、管理人さんに許可を得てここにまとめています



只管打坐の極意 by 井上貫道老師   の続きです


inouekandoroshizazen2ske2以下すべて坐禅・只管打坐の方法について話されています

Q.
坐禅中、畳の目が見えているのですが、外で鳥が鳴くといきなり畳の目がなくなって鳥の声に感覚が動きます。

鳥の声が消えればまた畳の目が戻ってきます。

そういうものでしょうか? 


それとも目と耳が同時に働かなければ間違いでしょうか?



(井上貫道老師)A.
そういうことはあります。

もっと言えば、考え事をすればもう何も見えず何も聞こえなくなりますよね。

そういうものです。


目を開いているからといって必ずしも見ているわけではなく、
耳があるからといって必ずしも聞いているわけではないんですよね。

ただ、五官[眼耳鼻舌身]の働きはそんなに単純じゃなく、もっと複雑で、変幻自在に変わります。

目と耳だけじゃなく、これ(身体)全てです。そういった五官の自在な機能に学んでください。
 

たとえば耳の機能はすごいですよ。

3人でしゃべればどうなりますか。

ちゃんと3人でしゃべっている様子になりますよね。




●『自分が物を見る』とやると、物を見てる自分が立っちゃいますね。

自分を立たせるのではなく、自分と物と、実際は一つなんです。





●何かをつかもうとしないことです。

実際はなーんにもつかむものなんてないのに。何かつかむものがあるんでしょうかね?




●普段の社会生活では自分を立てなければやっていけません。

だからこそ、お寺のような場所で、一定の時間、自分を立てずに今の様子だけに参じる意味があるんです。





●飛行機のゴーッという音が聞こえたとき、はっと飛行機の音だと気づくのは、人間がそういう作用を働かせているからです。

そうじゃなく、単にゴーッのままにしておけばいいです。






●今の事実なんて、いつだって何もしなくてもそのままになっています。

何も考えずそのままですから、一見愚か者のように見えます。
ryokando
良寛さんなんかは『大愚』と呼ばれてますね。

本当に愚かなわけじゃないです。













●車を運転しているときには坐禅してはいけません。
車に乗るときはただ車に乗るだけです。

『車に乗るときは、ただ車に乗る』、
それこそが坐禅と同じことじゃないですか。



●坐禅中にいろんな考えが出てくること自体は「事実」です。

でもそれにひきずられたまま考えにひたっていると、「考え方」の世界に行っちゃいますね。

だからと言って『考えが出てきた、まずい』と思うと、それも考え方の世界ですね。

もちろん『考えないようにしよう』と努力するのも考え方の世界でしかありません。
考えが出てくるという事実に自分が関わって考え方に変えてしまっているんです。


実際には、つかむものなんて何にもないんです。





●想いがやまるほどに、このもの(自分)が無限の活動をしていることが分かってきます。

決して「心静か」なんていう状態ではないですよ。




●機能としての「想い」は問題ありません。

それに自分の考えをかぶせるから問題になるんです。

手を付けてしまっているんです。





●坐禅は知識の勉強じゃないですよ。体でやるんです。





●物を見ると、たいがいの人は「むこうの物」と「こっちで見てる自分」を立てます。

でもそれは人間の見解が作り上げただけのものです。


実際にはむこうもこっちもないですよ。

 



●(坐禅中の老師の境地はどうですか、という質問に対して)

こうやってると、今、まわりでコオロギが鳴いてますね。

その中にポンと身を置いている感じ。


聞いている気配はありませんし、聞こえてくるという気配もありません。


ただ音だけ。
不思議に自分がないんですねえ。

ごくごく平凡です。






●坐禅するということは、生地(きじ)のままでいることです。

自分の生地に触れる時間帯が坐禅です。




● 六根の働きのままに、浮かんできた思いをとらえずに手をつけずにそのままにしておく。




●(外を車が走り去る音に)「ブーーーー」だけじゃないですか。

これだけです。

これだけじゃないですか。



 
●(手にした扇子の角度をいろいろ変えながら)こうやればこう見えるでしょ。

こう変えればこう変わるでしょ。

これが不思量底を思量するということです。


坐禅はいくら姿勢を整えたって、この不思量底を思量するということがなければ、なんにもなりません。





●(机を叩いて)「コン」とやると、音がして気がつきますね。

音がするから気がつくんです。

気がつくのが必ず後になります。

気がつくより先にこういうこと(「コン」)があるんです。


これを丁寧によく見ていけば、それは人間の好き嫌いを超えているものだということがわかります。

そういうことに学ぶのが坐禅です。





●真実は考え方じゃないんです。真実には説明がいらないんです。


 
 

●考え方で作ったものは脆いんです。

人間はあれやこれやと考えて、
重箱の隅を突っつくようにして考え尽くし、
これで完璧だ~
なんて思ったりすることがあるけど、
そこにちょっと違うものが入ってくると、とたんに崩れちゃいますよね。

 
 

●(机を叩いて「コン」)この音は崩れないですね。






● 目・耳は良し・悪し、好き・嫌いを判断しない。

聞こえたもの、見えたものはその場でその場で完結しており、一切残らない。

それが事実であり、その事実に参じるのが修行。






●多くの人が、坐禅中においてさえ、理想を求める境地を頭で探しています。

それは一見坐禅らしく見えますが、真実から外れています。





Q.坐禅をしている最中、自分を観察しているもう一人の自分がいつまでも残って消えないんです。

A.それは間違ってますね。
もともと自分なんてないんです。

自分を観察している自分がいると感じるとすれば、
それは一瞬でも過去の状態を振り返ろうとしているということです。

過去を振り返らず、本当に今の事実だけになればもう一人の自分はなくなります。






● 自分を中心にして物事を見てしまっているから自分が消えないんです。
もともと自分はないんです。

実は、考え方や見解も自分が作っているのではないんです。

自分を中心に据えて物事を見るのではなく、物事の方からやってくるんです。


それが五官に任せ切るということです。





●修行が進むと何事にも用がなくなってくるので、一見バカになったように見えます。

それが怖くて多くの人は頭を使っちゃうんですね。

大丈夫です、本当のバカにはなりませんから。





●私(老師)が坐禅をする時ですか? 本当になーにもしません。ハハハ。






●本当に事実に触れれば、底が抜けてすっきりしますよ。






考え[思い・感情も]が出てきてもそれを取り扱わないのが坐禅です
何もしないのが坐禅です



自分のほうから探ったりたずねたりすることをやめれば、
「事実」(真実)がそこにあるんです


どうしたらそうなるかじゃない
すでに出来ている
それを見極めるのが修行です

今の自分が本当にどうなっているか、それを見極める、見届けるのです








Q.
眼耳鼻舌身意っていうと、森羅万象、人間の生きている全てですよね。

それが「無」(無眼耳鼻舌身意)ってことになると、いったいどういうふうに解釈していいのかと。




A.
今、申し上げたように、一応説明しますけど、説明じゃ届かないでしょ、
「超越する」[=無]って。


物を見る時、眼なんかがあると思ってないでしょ。



眼なんかどこにも出てこないでしょ。

それが眼の働きでしょう。


ごらんのように、有るとか無いとかを超越してます。



カエルの声がするとき、一応耳があるから聞こえるんだと説明はするんだけど、
聞いてる時に耳があったら邪魔でしょう。


耳なんか感じてないでしょう。
音がしてるだけでしょ。


そういうのを無眼耳鼻舌身意というんです。



Q.
そのあとの色声香味触法、それは眼耳鼻舌身意を実際に表現するものだと聞ききましたが・・・

A.
たとえばあそこに五色の旗がありますが、見てごらんなさい。

Q.
ハイ。

A.
いや、だから、見てごらんなさい。

Q.
ハイ。

A.
いやいや(笑)、だから、見てごらんなさい。

Q.
ハァ。

A.
見てごらんなさいって。

Q.
(ようやく目を向ける)

A.
見えました?

Q.
見えました。(目を戻す)

A.
今はどうですか?

Q.
もう見えない。

A.
そうでしょ。

あんなにちゃんとあると思ってるのに、眼というものは、向かった時しか絶対にそのものを見てません。

Q.
ハァ。

A.
でも頭の中は、見えなくても、見てなくても、あそこにあると思ってるでしょ。


Q.
それは記憶が。

A.
眼はそんなことしてないでしょ。眼にはそんなこと残ってないでしょ。

だから無色声香味触法ってなるんです。

音だって、今鳴いてるってことが確かに聞こえるのに、鳴き止んだらどこにも。

だけど記憶があるから、さっき鳴いたってことを思い起こす力があるけど、
じゃあ思い起こしたときに耳に音がしてるのかっていえば?


Q.
ないですね。

A.
ないでしょ。そういうふうに活動してる。


Q.
しかしそういうことは、私のような凡人には、すんなりとは…。

A.
凡人じゃなくて、自分のことだから。

自分のことでしょ、みなさん。

自分のことだから、こうやって見た時に見えて、こうやって見たらあそこのものは見えない。


見えないけど、確かにあそこにあると「思って」います。


じゃあ眼はどうなってるかっていったら、確かに見たんだけど、
絶対にそんなものなしで今見えてるものだけで生活してる。


それぐらい「無眼」「無色」、眼も物もみんな超えてる。


だからといって、なくなって寂しいかというと、何も寂しくないでしょ。

なくなったとも思っていないでしょ。

あれが見えなくなったとも思わずに生活してるんでしょ。

不思議でしょ。


考えてることは違いますね。


こうやって勉強するんです。



Q.
執着心があるから、ってことですか。

A.
自分の眼に、執着してるものがあるかどうか見てください。

修行していないにも関わらず、ああやって見た時に見えて、
こうやって見た時に執着もしないで全部あれから離れ切って、
いまこうやってこういうものが見えるだけでしょ。


こんなにうまく生活ができてるのに、
自分をよく知らないから、どうしたら執着から離れることができるんだろうって、
ここ(頭)だけで考えてる。


そんなの修行になりませんよ。


ただ考え方をもてあそんでるだけ。

四六時中。

それは修行じゃない。



修行は、実際に自分がどうなっているか、
この体でどうなっているかを見極めていく。

本当にどこにも残ってない、
くっついてないな、
こんなに自由に動けるようになってるな、
一切問題が起きないようになってるな、

って生活したらいい。



そっちをやらないからだめなの。

それをやらないと修行にはならない。


だから修行の時には考え方ではやらない。


坐禅してても、考え方でどうこうすることは用いません。



坐禅してるといろんなものが出てくるでしょ。

出てきたものを取り上げて、こうしたらいいかな、ああしたらいいかなって、そういうことを一切やりません。


それは修行にならないから。



Q.
瞑想してると次から次へと出てくるんです。


A.
だからみなさんのは迷走なんです。(笑) それはもう坐禅ではない。



Q.
頭の中で無意識にそういうことを考えてるんですかね?

A.
いやいや無意識じゃないですよ。

知らないから、出てきたものを取り上げる。


取り上げない、ってことはどういうことか分からないから、

「出てきたものを取り上げないようにして坐りなさい」と教えても、
出てくるとすぐ相手にしてる。

それぐらい愚かなんですよ、
自分を知らないっていうことは。



Q.
「貪」「瞋」「痴」の「痴」ですね。とんじんち

A.
そうそう。

だって、「本当に自分を使わない」って、
そんな難しい言葉じゃないから一応分かるじゃないですか。


思いを加えないってこと、分かるじゃないですか。


お茶を飲んでも思いを加えなかったらどうなるかっていったら、
うまいとかまずいとかっていうようなこと出てこないじゃないですか。

ただその味がするばかりで。


それが「思いを加えてない」ってことでしょ。


考えが出てきたにしても、それを取り扱わないってことは、
このお茶を飲んだら味がしてるだけっていうことでしょ。

いいとか悪いとか、
邪魔になるとか、
整理が付かないとか、
まだこんなことを思ってとか、
そんなことはみんな手を付けてるってことでしょ。

出てきたものに対して。



そのぐらいのことは分かるでしょ。


そしたら坐る時もそうことをしないで坐ったらいい。

それで初めて「坐禅」っていわれる。




Q.
そうすると心の持ち方っていうのは、坐禅をしながら、すべてを自然のままに…。

A.
いいですよ。

自然のままっていうよりも、それしかないんです。

その動きしかない。

その時その動き以外にない。


そういうことを本当にやるのが坐禅なんです。


だけどもその動きに対して人はすぐ考え方を付けていく。

それだから事実がどうなってるか分からない。


ただ足を組んでいればいいとか、そういうものじゃない。



     (略)

難しい話じゃないでしょ。本当に普通、誰しもがやっていることでしょ。



Q.
それがまた難しいんです。


A.
難しくするのは考え方です。

考え方が入ると難しくなるんです。


どうやって聞いたらいいかって考えたら難しいでしょ、


(机を叩いて)

「コン」

この音を聞くのに。


「コン」


こうやって何もしないでいたら、ちゃんと聞こえるようにできてる。

「コン」

こうやって何もしないで聞いていることが修行です。


これに自分の考え方を加えずに、

「コン」

こうやって音がしたら、そのとおり聞いているということが修行なんです。




こんなこと、誰も教えないんです。

教えてこなかったんですよ。



「何かすること」だと教えてきたんです。



道元という人が、初めてこうやって修行ができるよと教えたんです。




そりゃそうでしょ。


「コン」


何もしないのが一番よく聞こえる。

ちょっとでも何か付けたり削ったりするようなことがあれば、
このままの様子がそのまま伝わらないじゃないですか。

真実が。



真実を本当に伝えるんだったら

「コン」


このままで何もしない。そのまま、ズバッと。





Q.
そういうところが一番肝心で、一番難しい…。


A.
だから一日中いろんなものを、眼耳鼻舌身意っていって六つの感覚器官があるから、
それが触れた時にみなそういうことをやってるわけだから、
それを今までは、すぐ触れると、人間の考え方でこうやって探ってたから。


それをやめるんです。




自分のほうから探ったりたずねたりすることをやめれば、

その事実がそこにあるんだから。

そのまま事実がそのとおりのことを、
直に自分に、
時間の隔たりもなしに、
場所の隔たりもなく、
そこに一分の隙もないし、
疑いもないし、
ゴミも入らないで、
きちっとあるってことが、
理屈の上からしたってちゃんとそうなってるじゃん。


それをただやるだけなの。


それぐらい坐禅ってものが、世間に伝わってるものと違ってるの。


それをまずここでちゃんと話をして、やってもらいたい。


そうでないと、本当に、考え方しかしてないんだよね、坐ってて。


一般にはそれですむかもしれない。

やったってことで。



だけど自分自身が自分自身にたずねたときに、ただ頭の中でぐるぐる堂々巡りしてるだけですよ。

考え方で。


そんなもの、どうしようもないじゃないですか。




Q.
それが煩悩ですかね。

A.
煩悩。わずらわしく悩ませるんでしょ。

ありもしないものを自分であるって認識して、
それでいっぱいいろんなものを作って。

ないところに、いろんな思いを起こして、
起こした思いを本当にあると思って、
それを問題にしてる。

そっちじゃないですよ、修行は。




      (略)

難しいっていえばそういうところかね。

考え方がこびりついているからね。


でも、そんなにこびりついている人でさえも、こうやって聞くときに、

「コン」

ただ、こうやって聞こえるだけだっていうことを言っとこう。


だから難しくないってことでしょ。

どうしたらそうしたものが取れるかじゃなくて、
実際に今、そんなものなしに聞こえるようになってますから。


だからできるとかできないとかっていうようなことじゃなく、
できてます。


「コン」


みな、やれてます。
誰も。


だからいいんです。



あとは気づいたらいいんです。


そのまま。



無いものに気づけっていったら無理です。

やれてないものを、っていったらやらなきゃできませんけど、
すでにやれてますから。

探さなくたっていい。


どうかしてできるわけじゃないでしょ、これから。



(手を叩いて)
「パン」

これから何かして今のように音が聞こえるようになるわけじゃない。

もう聞こえちゃったんだから。

このとおりね。


自分で作り変えたことなんかひとつもしないんだから。



「パン」

いきなり聞こえて終わりですよ。



それだのにここ(頭)は、
何かしないとそのとおりにならないと思ってる。




Q.
と言われても、生活に追われてると、なかなかそこまでは…。

A.
生活に追われてるからじゃなくて、自分の今の事実に目を向けるということがない、
ということ。


ここから上(頭)でしか生活してないんですよ。



仏道ってのはそういう違いがあるの。







● 修行に時間がかかる人は、結局、何も実践していなんだね。
(月1回の座禅会に来て、坐禅して法話聞いて、1か月後にまた坐禅会や接心に来て、坐禅して法話聞いて、それをまじめに繰り返すだけなど)




Q.
坐禅はどうやればいいのですか?

A.
この身体で、今、生きているこの様子がありますから、それに無条件でいてみるっていうことです。

頭のほうで何か探るのでなくて。

事実、今、こうあるものの方にこう、そのまま、照らされると言っていいのかな。このままいてみる。



考えを使ってないからといってボヤーッとしているってことはありません。


よく「坐禅で何も考えないようにしてお坐りください」って言うと、
「なんかボーッとして何してるのか分かんなくなる」って質問される人がたくさんいるけど、
そんなことはありません。

明確です。

クリアです。


そして、そういうものによって、本当に、
最終的には、
自分も物も、そういう隔てるものが一切なくて、
いきなり「向こう」と「こっち」とか、
「私」とか「あなた」とか
っていうようなことがなしの動きがそこに展開してる、

そういうものに必ず人は触れます。
 

そういう時に、少なからず、今まで祖師がたがいっておられるような内容がですね、

ちらっと「なるほど、そうだな」って思えるぐらいには間違いなくなると思いますね。


そっから、今度は安心して修行が出来るんじゃないですかね。


「どうしたらいいか」っていうようなことも問わなくなる。


そこまで連れて行きたいですね。あとはもう、やってもらうしかないな。
(「なるほど、そうだな」という所まで来た人の体験談は以下にあります)
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(以上は、坐禅を実際にしようとする人、実際に坐禅を組んでいる人へのアドバイスですので、ただ読むだけだと概念化されて却ってあとでそのことが障害になる可能性があります。ご注意下さい)



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