坐禅の仕方と悟り,見性,身心脱落:井上貫道老師の庵 まとめブログ

Dharma Talks of an Enlightened Japanese Zen Master Kando Inoue Roshi 井上貫道老師が、悟りを体現された経験から坐禅の方法や仏道について語られたものを掲載しています web上に散見される井上貫道老師のことばも引用掲載し、まとめブログとしました ( これは参禅者によるブログであり、公式サイトではありません ) このブログが正師への参禅のきっかけになりますように

タグ:座禅中思考

井上貫道老師が坐禅会で話されたことばから


◇考えを「やめる」んじゃないですよ。

事実に即していれば、考えが「やまる」んです。

事実に触れれば念が切れるんです。 ―井上貫道老師





kandouroushi●坐禅中にいろんな考えが出てくること自体は「事実」です。

でもそれにひきずられたまま考えにひたっていると、「考え方」の世界に行っちゃいますね。


だからと言って『考えが出てきた、まずい』と思うと、それも考え方の世界ですね。



もちろん『考えないようにしよう』と努力するのも考え方の世界でしかありません。

考えが出てくるという事実に自分が関わって考え方に変えてしまっているんです。



実際には、つかむものなんて何にもないんです。



事実に即していれば、考えが「やまる」んです。

事実に触れれば念が切れるんです。 









●修行が進むと何事にも用がなくなってくるので、一見バカになったように見えます。

それが怖くて多くの人は頭を使っちゃうんですね。


大丈夫です、本当のバカにはなりませんから。





●なんでみんな自分の真相を知らないのかなあ。

一度だって自分から離れたことなんてないのにね。





●これから本当の生活をしていこうという人はいないんです。
常にいつも本当の生活をしてます。

誰だってみな、いつもど真ん中にいるんじゃありませんか。




●世間では、自分探し、ってよく言いますよね。

自分探しには坐禅が一番です。


なにしろ自分自身と一日中一緒なんですから。






●事実とか真相とかいうと難しく思うかもしれませんが、今のありよう、って言ったほうがわかりやすいかもしれません。






●「事実それだけ」って簡単に言いますけどね、事実を説明できますか?
今の自分の事実って、まあ、この部屋ですね。

この部屋の様子だって、言葉では言い尽くせないほどものすごい事実の量ですよ。
 
宇宙に匹敵するほどの膨大な事実を、たった一目見ただけで分かってしまう我々って、すごいと思いませんか?


そのすばらしさを自覚できれば、それでOKなんです。





● このように襖を開くと、まさに襖を開いた様子になるんですね~。

実に面白いですね。




● 自分の上に現れないものは、知ろうとしたって無理です。





● 耳に入らないものは音とは言わないです。





● 眼と物の関係はキチッとしています。
 
でもそれが認識できない認知症なんかは、頭のほうに原因があるんです。
 
眼にはちゃんと正しく映っています。





●「むなしく死ぬ」っていうのは、自分のことが解決できないまま死ぬっていうことでしょうね~。






●「生まれ変わり」といいますが、次の生に生まれてきたということは、歴史上一度もありません。

人生は一回こっきりです。

[仏典にしても祖録にしても、個人がまた次の人生に生まれ変わるということはどこにもありません。
道元禅師は、『辧道話べんどうわ』の中で、人が死ぬと身体から魂が抜け出るという思想を、「仏教の教えとは全く異なる」と激しく非難している




●「真理」は追い続ける必要がないものです。

いつだって真理のど真ん中で生きているんですから。追いかけるとかえって間違いますよ。





●「いい死に方をした」なんて言いますが、あれは残された人が、残された側の立場で言っているだけです。

死んだ人にとってはいいも悪いもありません。






● 頭の中に気になることが残っていると、雨の音が雨の音として聞こえないですよね。

ちゃんと聞こえている時は、きれいさっぱり他のものがなくなっているんです。

消すんじゃないですよ。






● 雨の音っていうのは、「ぱしゃぱしゃぱしゃぱしゃ・・・」(口で擬音)これだけです。

これに親し~く目を向けてください。







● 義衍老師の法話は、いつも同じ内容ばかりです。

それを私は何百回と聞いてきましたが、一度も同じと思ったことはありません。

この雨の音と同じです。毎回違う。
 

でも人間は記憶なんかがあって、それを引っ張り出して、前に聞いたことがあるな・・・なんて。





● 普勧坐禅儀の内容なんて、3行ですみますよ。「このこと」しか言っていない。






● 痛みが消えることはありません。
 
でも人間は、過去の痛みの記憶やら不安やらで、それを心の中で増幅してしまうことがあるんです。
 
ほんとうに痛みだけになれば、そういうことはなくなりますよ。






● 人は好き嫌いを起こしますね。これは事実に対して評価をしているということです。


事実が入ってきてからわずかに遅れて評価をしているんです。

でもわずかの遅れとはいえ、評価をする前の段階の様子が必ずあります。


そこに着目していくといいですね。






● 事実をそのままに入れていれば、実に静かですよ。

こちらに余計なものがなくなり静かになった分、人の動きもよくわかるようになります。

たとえば剣道で殺気を感じるなどといいますが、打ち込もうとする瞬間には必ずなにか動きがあるんですね。
そういうことがわかります。





● (首をさして)みなさんは、ここから上、頭だけで生きていますね~ 

 [考えだけで生きていますね~ だから真相は分からない]





● 考えを「やめる」んじゃないですよ。

事実に即していれば、考えが「やまる」んです。





●「音、音、音」じゃないですよ。「ザワザワザワザワ・・・」、これだけですよ。

「ザワザワザワザワ・・・」、
 
これこそが本当の受け身というんでしょうね。





●「精進する」というと、力を入れて何かよりよいものを目指しがちです。
そうではないです。
 
即処即処、今この様子そのものであることが精進です。
 

修行というと難しいことをするんだと考えがちですが、そうではありません。





●頭の中で想像したものなんて二束三文です。

いくら想像したって、実際に実物が目の前に現れれば、一目見ただけですぐに分かりますよね。

想像は全部吹き飛びます。


事実に触れれば念が切れるんです。






●初めて会う人でも、いったん見ればすべて分かりますよね。
あっ、こういう顔の人だな、と。

自分で分かるでしょ。

それのどこが人の真相なもんですか。



全部自分の真相です。






●ほら、玄関でピンポーンと鳴ってますね。

あ、誰だろう、とか思うと、もう真相から離れちゃいますよ。

事実はピンポーンだけです。


誰だろう、なんてのは後から出てきた想像にすぎません。





● (別の老師)この中には長いこと参禅しておられる人もおりますが、みなさん、どうも頭で理解しようとしている様子が見受けられますね。
 
頭で分かったふうになっても進歩はありません。


とことんまで聞いて、そのとおりやってくださいよ。


私もさんざん苦労したから言ってるんです。

せっかく [貫道]老師に来ていただいているんですから、もっともっと尋ねてください。






●坐禅をやらなければ疑問があるはずですし、しっかりやればやったなりに、さらに聞くこと
が出てくるはずですよ。







 

禅 茶話会また続き~2012年9月井上貫道老師東京都青梅禅会⑨
2013年04月17日(水) 


掛川 少林寺の井上貫道老師のお話です。


kandoroshioumesketch2

うちに来る人なんかでもそう。

「もう頭いっぱいで何もできなくて、どこにも行く気がしない」って。

うちに来てるじゃない。



「もう、食べるのも飲むのもできない」って言って、
お茶飲んでるんですよ。



それくらい、自分がやっていても、自分の事はどういう事か、
(老師、頭を指して)
本当にここがいっぱいになってる人は、
自分の事なんかわからない。


それで、「いったいどうしたら楽になる?」
っていうんですね。
「どうしたら楽になる?」って言ってる事が
もうスッカリ余分な事が抜けて
楽になってる動きなんです。


そんな事一切思ってないんだもの。

「どうしたら楽になる?」って思ってるだけでの話をしてるわけですから。


それなのに、自分の中にいろんな思いが残ってるって、みてる。

ないのに。


それだから何かしないと楽になれないと思ってるから
余計おかしいじゃないですか。


それくらい、自分を見るのが下手ですね。


で、聞かないね。なかなか。

なかなか人の話を聞かない。


聞き入れない。言っても。


「それはそうかもしれないけど、、、」と言って

何か他人事のように扱ってる。



だから、話よりも、自分の生活している事実に学ぶって事が
ものすごく確かさがある。

人の話だと受け入れて初めて役に立つけど、
自分の生きている事実だったら、否応なし。

逃れられない事ですからね。


実際どうなってるか、
歩いて来たんでしょ?




(参加者)
もし私が友人にまた愚痴みたいに言われたら、
「でも今は大丈夫じゃないですか!。」と言ってあげればいいんですよね?




そうです、はっきりしている事を教えるって事が大事なんです。

わからない事を問題にするんではない。


ね、人には必ずはっきりしている事がある。


そんなに苦しんでても、



(パシッ)



「こうやって聞こえるか?」って聞いたら
「聞こえる」と、
「大丈夫だっ」、と。

それを大事にさせるんです。

それが薬なんです。


ところが知らない人は病んでる方を治そうとするじゃないですか。




(参加者)
難しくしちゃう。




―ね、
走る時だって、
体がどっか悪い時に悪い所は酷使しないよ。

使える所だけでやるよ。

ね、
わからないっと、痛んでる所をいじってる。

何かしたくなる。

こっちは、放っておけば治るんです。

こっちのいいとこだけで、治るんです。

だからみなさん知ってるのは、
人を褒めるでしょ。
それが最高です。


気にいらない事いっぱいあるにきまってる。

だけども、下手の人はこっちをやるじゃないですか。

こっちを治そうと思って、またあんな事してって、
全部死んじゃう。

そうじゃない。


ちゃんとしてる事をはっきりさせて大事にしてったら必ず伸びる。



今度の震災なんかでも、ニュース聞いてると出てくるけど、
子供達にいろんな仕事を与えて、
小さな子でも、何でもいいから。



そうすると、それをやった後に、

ありがとうとか、
おかげでとか、

大人達がそういうふうに言う事によって、

僕でも、私でも
人の為になれるんだという事自覚して
みんな伸びてるんですねえ。

それやってますね。

まあ、ボランティアの最たるものです。


だから一番震災に遭った現場の人達が伸びてます。

今まで勉強しなかった。そういうこと。


そんな小さい時から、自分がこの世の中に生きてて、
人の役に立つっていう自覚があったら
生きてる力沸くじゃないですか。

駄目になるのは、私、こんなとこに生きてて
何の役に立つのかしら?って思う人達。


年がいくと特にそうじゃないですか。


あの人生きている価値があるのかしら?
って思えておかしくなるんでしょう。


これはこういう事だ、
はっきりしている事を、
ちゃんとしている事を
修行の上では大事にする。



だからそれをもうちょっというと、
考え方の方は置いとくんですね。

修行の時は。

考え方の上の事だから。



(老師、頭を指して)

別にこれ、とりあげなくてもいいんです。

事実の方をちゃんととりあげたらいいんです。

修行って。



だけど、
知らない人は、
ここで悩んでるとか、
苦しんでいるとか
いろんな思いがあるからこれを持ってくるわけでしょう。


どうか楽になるように教えてくれって。


これを取り扱う人は下手な人です。


これ取り扱ったら必ずやる方も考え方、
学ぶ方も考え方、
だから考え方の中でぐるぐるやってるだけ。


事実の方に絶対行かない。


だからこれを置いといて事実がどうなっているかを
きちんと見ていくっていう事が一番原動力です。




(老師、黒板を指し)
ここで思って、

ここで思って、

この間は思ってない

って事実がちゃんとありますから、


思ってない時どうだったか?

って聞いたら


苦しんでなかった


って言うでしょう。


問題なかったって。



だったらそれでいい、
そういう事が過ごし方として大事だという事でしょう。



それで、ここでまた思ったら、繋げる必要がないって事でしょう。




繋げるんですね。考え方を。

それやってますよ。

なかったのに、繋げちゃう。




そういう誤解をしている。 

だからやっば、どうしてもねー、
真実をよく、どうなっているかを見極めるって事が
修行の根幹なんです。



一日中一緒にいるんだから、
全ての動きの中で
勉強できるじゃないですか。

自分が今どうなっているか、
どんな事してるか。



それだけやってれば間違いなくちゃんと生きる。
道をそれずに。


本当はそういう事がいっぱい書いてあるのですよ。

それだけなんですよ。本当は。


八万四千の法門といって膨大な量をいうけどね、

いろんな、一、一に触れた時にどうあるかっていうことは、

細かく書けば八万四千なんです。数で。
めったやったら多いわけです。




けど、事実はそれだけです。
だって他で生活しないんだからしょうがないじゃない。私ら。



時間的には必ず、今生活する以外生活する場所ないんだもの。

この体のある所でこの体で活動するしか生き様ないんだもの。


しょうがないじゃない。



それなのに、そんな事から頭を遥かに離れた事考えさせるからね。

考えなかったら、人間的に欠陥者かったらそうじゃないしょ。


健康な人はたくさんできるって一番いい事でしょ。


お医者さんだって、自分が健康でなければ、
病気にかかってて人を診るって事しないでしょ。
移しちゃう。来たら。


自分が溺れてながら人が溺れてるのを助けようなんて
おこがましいというよりも、共に死んじゃうねー。


そういう愚かな事はするべきじゃないと思う。



生きてちゃんとしてさえすれば、役に立つよ。

必ず役に立つ。



動くんだもの、触れたら、これが。



さっき、何さんが歩いている時に
ビニールの袋が二つ道に落ちていた。

ちゃんと拾っていかれた。


どうするかなと思ってみたらさっと拾って。

やっぱりゴミが落ちてるってわかるからですよ。




その時に、「私の事じゃない、まあいいわ」っていう人は
見て見ぬ振りするのでしょう。

見て見ぬ振りするから、「落ちてたんじゃないか?」っていうと、
「知らない」とかって言うんだけど、
それは嘘を言うから自分の中で
スッキリしない嫌ーな気持ちで過ごすんだ、

よく知ってるよね、


誰か責めるわけでもない。

自分の本心と違う動きを自分が見解でもってしてる。


で、自分を擁護するようにちゃんと見解っていうのは立つから
人から責められた時、
別に悪い事してないしって守るように、
ちゃんとそういう考え方をふっと起こす。


それを起こして相手にその答えをしても
自分が一番よく知ってるもんだから
本当は自分はそうじゃないとわかってるから
そこをぐさってやられると
内心はちゃんと響いてる。


そういう事ですね、

そんなのが日常茶飯。



て、4時になったのですが



(主催者)
時間になりましたので、ここで第四回青梅禅会を終了させていただきます。

長いことどうもありがとうございました。


引用元

上のブログの作者様、これだけの文章を起こしてくださってありがとうございました。
修行者にたいへん役に立つお話が再現されたようです。












只管打坐の基本―坐禅入門8  東京都禅会by井上貫道老師


井上貫道老師の師・井上義衍老師のことば
  井上義衍老師とは→こちら
 ▷ 「我見をこれから離れるのではない。

我見の起る前があって、その前が自分の真実です。

それが本来の私共の心の在り方です。


空にする前に空であった事実がそのままズバーッと、みな、それだけでいいんです。


それをやると、必然に人我の見というものが、みな離れる。それが「道」です。
坐禅の一番大事な様子です。
 
作り手も、作られてもなしに生じ、生まれてくる。
知らずに出来たという、その根底まで、必ず落ちるに決まっているのです。

他に行き場所はないのです。決定的に落ちるんです。」




▷ 「五感というものは正直なものですから、その縁のまんまに受けるんです。

それが、ただそのまんまに受け入れられるようなところまでいけば大丈夫です。

ところが今の私共には、そこまで本当にいかんのじゃから、
縁に触れると、そこにすぐ心がついて動いてゆく、
そういう点を大いに警戒したほうがよい。

人の為に何かいいたくなる、やりたくてしょうがないという、
そういう気持ちが先に動きますというと、
自分の修行というものは結局できなくなる。」 

                                                        以上 井上義衍老師

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 禅 茶話会続き~2012年9月井上貫道老師東京都青梅禅会⑧
2013年04月17日(水) 




inouekandoroshizazen2ske2各参加者からの質問に貫道老師が答えました。


 
(主催者)
あのー、そろそろ、時間が迫りました。
何か質問のある方はどんどんご遠慮なく聞いてみてください。




(参加者)
考え方を止めようっていう事ですけども、

座ってて考え方を止めよう、
 
そうすると、また自分の考えでもって、自分の考え方を止めようとするとまた自分の考え方を使ってる事になると。

 
いつまでたっても終わらないんですね、考え方止めようとまた次の考え方、、、

 
結局座っている時間中追いかけていって終わらない




―それは、考え方を止めるって事がどういう事かわからないから
やってるんです。




(参加者)
それで、ある時、今老師の話を伺ってまして、
今、こういうふうに聞こえてる、
見えてるってとても大事な事だと、
今までのお話を伺ってる時に、あっそうだと強く感じた事がございまして、
あっそうか、そうか。
 

なんか非常に気持ちがスーッと楽になりまして、
今までこう気張ってた事が全部とれちゃいましてね。。。
 

気持ちが素直になっちゃうと、もう何でもよく、
考えとか、余計な事が必要なくなると。


そういう気持ちになった事がございまして、
だからやはり最初にそういう大きな気持ちがあれば、
あとはずっといれるんではないか、
という事がありますので、
ただ、それが一時的なものであって、
どういうふうにしたらよろしいかお伺いしたい。





―だから、これに尽きるんですねえ。

(バシッ)

こうやって音がしてるだけでいてみる、
それが考え方を止めてる証拠です。



こうやってものが見えてるだけでいてみる、って事が
考え方を止めてる証拠です。



人が喋ってる時にその話がその通りに聞けてるだけで
いれるって事が考え方を止めてる証拠です。



お茶飲めばお茶の味がきちっとしてるって事が
考え方を離れてる証拠です。



それに対して次の段階で、
それが、なんだって
ふうに出てくるんです。

それもただ音が聞こえる、
それなんだって
自分の事がそこで動いただけですから、
それだけです。

それだけなんですねえ。



思いって振り返ってみたらわかるように、
今思ったって事がわかった時に
初めて思ってたって事が取り上げられるんですね。



もっといえば、
思いが出てない時は、思いがあるとかないとか一切ないじゃないですか。


どうしなきゃいけないって事一切ないじゃないですか?


だけども、思いが動いた時でなければ、思いっていうのはないもんだから。

で、思いが動いた時にみてると、取り上げようと思った時にこの通りじゃん。



(バシッ)



音がしたんだけど、
今音がしたって取り上げようと思っても
音がないじゃないですか。



思いもそうでしょう。



さっきあーいう事思ってただけじゃないですか。

さっきあーいう思いが自分に生まれたってだけじゃないですか。



違いますか?


それを気がつくだけでしょう。



(参加者)
それ逆なんじゃないですか?
事実の見たもの、聞いたものは、もう消えちゃってる。
 
ものだけがひっぱってる、いつまでもある。
 
思いは消えちゃわないでいつまでも残ってる、だから悩むんじゃないですか?




―どうでしょうか?

皆さんどうですか?




(参加者)
よくあのー、どうこういう事が止まないんですけどっていう人多いですよね。
 
その時にそれを止めればいいじゃないと言われるでしょう。
 
それとまさにその思いがどうこうって止まないんですよ。と言った瞬間だけですね、
出てきたらこう。

で、それをぱっと気がつけば、叩いたのと同じように、消えてるわけですよね。
取り扱った時だけが、問題起こしてるだけですから。


今まではそれを止めろって言われたら、なんか言葉の綾で
ばんと言われただけだと思ってた、
正にそれ、適切にそれを言ってるんですね。

やっとちょっと気がつきました。




―だって、言葉だって、喋ってる時だけしか喋ってる様子はないでしょう。

それだけなんです。


思いも、思いが出てきてる時、
そういう動きをしてるだけであって、
その後にも先にもない。



もっというと、

次の思いが出てくる時はこれを見てると同じように
次の様子が出てくると前の様子は自然となくなるんですね。



前、見てた様子はこうやったらないでしょう。
ありますか?




(参加者)
あの、現実はそれはなくなりますよ、




―現実です。




(参加者)
だけど、思いだけが、
ずっと引きずっていくから、
問題がいろいろ起きるんじゃないですか?

消えないから。




―だから見てよ。消えてるかどうか。


じゃあ、言葉でちょっとやってみますがね、
昨日あの人にひどく殴られたよ、腹立ってるんだよって。


私が今やって、

そういや、さっき、
子供が遊んでたなー

っていう思いを起こした時に、
さっきの思いの事をその時やってるでしょうか。


やってないから、今子供があんなふうな事してるって事になるんでしょう。


もし、さっきの、その前の思いがあったらこんなふうにはならないでしょう。

入り混じっちゃって、思いが。



二つの事同時に思えないですよ。人間って。




(参加者)
そうですか?



―思いません。

必ず順番にやってく。



あれもこれも、
っていったって見てください。


あれも。


これも。

です。



あれもこれも一緒にやってません。


あれも。
これも。
それも。
これも。


何もかも
っていうけども、

何も。

かも。

です。



ひとつひとつ、

みんな、

です。



実際に、そういうふうにしかやってません。


体の動きもそうです。


いろんな事をするっていうけど、
よく見てると、
ひとつひとつ、その事をやってるだけです。


そんな単純なんですよね。



だけど、頭の中の構造は、ものを推察する時に、
そういうふうに見ないんですよ。



おっしゃる通りなんです。

ずーっと前の事が、残っているように、

そういうふうに観察してるんですね。



だからそれはね、もう一度、丁寧に自分の事ですから、
どういうふうになってるかを思いが起きた時に触れてみてください、
 
それではじめて、少しずつこうやって
 
あー、なるほど
 
って思える、

 
それまでは、なかなか言う事きかない。


 


まあ、百人中百人、恐らく同じなんですよね、
正解なんです、何さんの言われる事が。


それくらいにしか見てないんです、自分の思いに対して。



それだから厄介なんです。



話しても話してもなかなか通じない。





(老師、黒板に線をひいて説明する)

思わない時はないし、

思った時にはここで思って、

この間なくて、

ここで思って、

こうやって思うとですね、


ここで思ったものは、ここで思うとですね、
ずーっとなくならずに
あるように思うんですね。



これが、まず見てない事です。


また思えると、

あーやっぱりなくなってないじゃないか

っていう見方をするんです。



だけど、よく見ると、
この間は何にも思ってません。
そんなことは。



そういう事がわかってないんです。

だから、この間は何にも問題起きてません。不思議に。


この思いが起こった時にここにあるんだけども、
忘れて、
また同じ思いがここに出てくるまでの間は
思ってませんから
この時苦しんでいる人はいませんね。


だけど、これがまた同じようなこと、
二度目に思えると、
やられるんですね。


ほら、やっぱりなくなってないじゃないかっていうんだけど、
これはさっきの事ではないんですね。

さっきの事ではない。


(黒板を指して)

さっきはここで思った事。


これはここで思ってる事であって違うんです。



それはいつも申し上げるように、
ご飯何回も食べるけども
一回、一回初めて食べるのと同じです。



だけど常識的には、またお昼ご飯かというような言い方になるんですね。

だけど内容は違うんです。


だからこうやって自分の本当のあり様を一度見極めてもらわないと
普通にしゃべってる事がですね、
本当は違うんです。
それが誤解と自分で思うんです。





(参加者)
じゃあ、よく知り合いの人なんかで、ずーっとなんか考えちゃって
困るわーっていう人いるんですけど、

ずーっと考えてるわけではないんですよね?




―ずーっと考えてる人なんていません。




(参加者)
ずーっと考えちゃってて
その事で頭いっぱいで何もあまりできないのよ
という人いるんですけど、
ずーっと考えてて半年過ぎてるわけじゃない。
 

―あなたのところに来てね、
「考えてて頭いっぱいで何もできない」って
言ってる事自体が、みてください。

 
自分の思ってる事と違う事やってるじゃないですか。
 
既にしゃべれてるじゃないですか。

 
頭いっぱいで何もできないのではなくて、しゃべれてる。

 
それなのに、自分は頭いっぱいで何もできない、
 
そういうふうに思ってる。

 
それくらい違うんですよね。
 


引用元


⑨へ続く

 



◇井上貫道老師のことば◇

● 修行に時間がかかる人は、結局、何も実践していなんだね。
(月1回の座禅会に2つ、3つ来て、坐禅して法話聞いて、1か月後にまた坐禅会に来て、坐禅して法話聞いて、それをまじめに長年繰り返すなど)


● 
Q.
坐禅はどうやればいいのですか?

A.
この身体で、今、生きているこの様子がありますから、それに無条件でいてみるっていうことです。

頭のほうで何か探るのでなくて。

事実、今、こうあるものの方にこう、そのまま、照らされると言っていいのかな。このままいてみる。



考えを使ってないからといってボヤーッとしているってことはありません。


よく「坐禅で何も考えないようにしてお坐りください」って言うと、「なんかボーッとして何してるのか分かんなくなる」って質問される人がたくさんいるけど、そんなことはありません。

明確です。

クリアです。


そして、そういうものによって、本当に、
最終的には、
自分も物も、そういう隔てるものが一切なくて、
いきなり「向こう」と「こっち」とか、
「私」とか「あなた」とか
っていうようなことがなしの動きがそこに展開してる、

そういうものに必ず人は触れます。
 

そういう時に、少なからず、今まで祖師がたがいっておられるような内容がですね、

ちらっと「なるほど、そうだな」って思えるぐらいには間違いなくなると思いますね。


そっから、今度は安心して修行が出来るんじゃないですか
ね。


「どうしたらいいか」っていうようなことも問わなくなる。


そこまで連れて行きたいですね。あとはもう、やってもらうしかないな。


以上は、本来のカテゴリー 坐禅の仕方 にも置いておきます
→ http://zazen.blog.jp/archives/1029348259.html
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禅 茶話会 思わない時に人は苦しんだことがない、~2012年9月井上貫道老師東京都青梅禅会⑦


一旦中座し、お茶お菓子を頂きながらの茶話会となりました。
前半はやはり老師のお話がそのまま続きました。




今の一瞬一瞬なんですね、って事おっしゃった方が
おられたので触れておきますが、
 
一瞬ってどういう時間でしょう。
 
 
皆さん、頭でなんかここからここまでというスパンを切って
そうやって一瞬っていう時間を作るけども、
時というものはですねえ、
そんなふうに区切られた事ないんですね。

 
ずーっと、私よく使ってるけど、今のあり様だけども、
今のあり様っていうのは、どこから今の様子になるかっていって、
スパンないんですよね、どこにも。
 
 
だけど間違いなく、さっきの事ではないんですね。
そういうふうに本当はできているんじゃないですか?
 

一瞬なんてどっか区切られるような気配は全くない。
 
頭でどっかで線を入れて区切ってつけるんだけども、
事実ってそんな事ないのに見事に変わるんですよ。
 
変わるのもですねえ、



(老師扇子を広げる)
 
こうやって、勉強ですよ、いいですか、こうやって、
今こういうふうに見えてるけども、皆さんの目の前で
こうやってやると、前の事はどこに行くんでしょう?
 
今見えてるの、どこに行くんでしょう?
 
今見えてたの、変わるんだけど、前見てたものどこに
行くんでしょう?


どこから新しい事が出てくるんでしょう?
 
手品みたいだけども、こうやって皆さん毎日過ごして物に
触れてるんですよ。
 
だけど、見極めた事がない。
 
どうなってるか、
前の物がなくなって新しい物がそこに出てくるって
いう事はないです。
 
いいですか?
 
このまま、今こういう形のもの、こうやったら一瞬のうちに
こういう形になるのであって
前の物がどっかに行く、なんていう気配がないうちに
ただ、こういう動きがあるだけで終りですね。
 
こんな事知ってますか? 



これは、例えば、子供が悪い事をしたって言った時に、
悪い事を止めて正しい事をするように教えるって事がいかに
この道理から比べたら違ってるかって事を学ぶべきでしょう。
 
悪い事を止めといて、新しい事をとりあげるなんて事は、
このままで、いきなり今の事が展開されて全部変わっちゃう。


ところが道徳っていうのは、いったん悪い事をした事を認める、
それを改めて良い事をするように教えていく、それ道徳。
 
だけど事実は道徳と違ってもっとすごい働きをしている。


そういう事も釈迦という人は自分を見極め、
そういう事もきちんと認めてますね。


いっぱい、いろんな事で私達は普通に、そこに平常心、

誰もが普通に生活している事で、しかも見極めてない事だらけです。

 
(老師、扇子を広げる)
 
こうやって私がやったら、どうしてもそれは井上さん[井上貫道老師]がやってる事
ってしか思えないじゃないですか。そうでしょ?

 
自分はやってないものね。
 
扇子を持って広げたわけではないもの。
 
そんなことないって、みんな思うんですよ。
 
思うんだけども、自分の眼をよく見てみると、その通りの事を
自分の眼がやるのですねえ。
 
不思議ですねえ。
 
人の事だと思ってるはずなのに、自分の眼が
、人がやってる事で一緒にやってるんですね。

あっちで虫が泣いてるから虫の声だって、
私には関係ないと思ってるかもしれないけど、
ミンミンミンミンミン って、これ、ちゃんと響いてる。
 
そうやって豊かに生活するんでしょ?これが。

 
あるいは向こうで泣いてても聞こえないなんて、
何にもおもしろくないじゃないですか。



泣いた時に、その一時間くらい経ってから聞こえるようだったらさ、
事故を起こしちゃうよね。
ズレができてね、


だけどズレがないからそうやって楽しめるんでしょう。
 
トンボが目の前飛んだのに、30分後に飛んだようにみえる
なんて大変なんでしょう。 
それは自分の事だからそうなるんですよ、
 
人の事だったらそれくらいなるけど、自分の事は、
トンボが目の前飛んだで済むでしょう。
 
そういう生活をそこで楽しんでいる。
トンボの事でなくて。
 
そういうので、ずいぶん誤解してるよね。


 
別々に見てるんです。物事を。
だけど理論的に考えたって、今っていうものは、
向こうに今っていう時間があって、
こっちに今っていう時間があるって、
二つの今っていう時間なんてないんですよ。
 
それが理論的に説明する時に使う。
 
 
今っていうのは、必ず一枚。
 
向こうとこっちっていう関係ではない。必ず。
 
だからずれない。


(ぱしっ、老師扇子で机をたたく)
 
 
ずれない。

 
 
ずれないから役にたつ。
 
親子でも息がぴったり合う。
 
(ぱしっ)
 
ずれない。
 
(ぱしっ)
 
意見の違いが絶対起きない。

 
そういう真理が基本的にあるじゃあないですか。
 
好き嫌いとは別に。
 
いい悪いとは別に。
 
人間の感情とは別に。
 
どうしてもそれと一緒になって生活しなければならないように
出来てるって事。

 

それを知らないから
人間生活の上では
自分の考え方、自分の好き嫌いの上からものを見るって事が
習わしになって、まあ誰もがやってるから、
公に良しとされてるんでしょう。


それ以上、深い自分のあり様っていうのをみようとしないから、
結局本当の自分のあり様を見極めてない。
自分の事でありながら。
 

で、何か事柄があると、騒ぐんだけど、どうあったらいいかって
騒いだ時に根本がわかってないから、どうしようもないのが、
疑いじゃあないですか?
一番最初は何も騒いでませんよ。
 
どんな事でも。
 

俺おれ詐欺とかってあるけど、騙されるっていうんだって、
気がついた時から始まるんだよ。
 
「あっ、騙された」
って思った時から問題が起きるんで、それまでは
いい気持ちでさー、「どうぞっ」とか言って施しができて
気持ちよく施してるんでしょう。
やってあげて。
 
一瞬のうちに地獄に落ちるんでしょう。
 
「騙されたー、くそー、」とかって言って。そんなもんだよ。
 

で、騙していいかっていうとそんな問題じゃないけどね。
そういうことを問うわけではないけども。
 
それくらい平和に過ごせた自分がいるにもかかわらず、自分の思いで
平和に過ごせてた時の素晴らしさを全部ないがしろにして
奈落の底に自分で落ちるって事じゃん。
 
つまらない考え方を起こして。

 
誰も他の人はやってない。
 
そこも大事な事でしょう。
 
他の人が、「あんた、騙されたねっていって、「思いなさいよ」って、
「間違いなく騙されたんだから騙されたって腹立てなさいよ」って言われて、
そうやってくそーと思ったわけではない。
 
たった自分が一人、「あっ」、と思っただけでそうなる。


それが、日常騙されるってそういう悪い事でなくても、
親子の会話の中でもそれに似た事しょっちゅうやってるわけじゃない。


いつも自分のものの見方やそういうものがあって、
聞いたり見たり、触れたりしているからそうなるんですね、
考え方なんかめちゃくちゃなんだもの、人間って。


さっきまではいい人だと思ってたものに対して、なんだ、あいつは、って
すぐそれくらいコロっと変わるような事平気で思えるんだものね。

 
あてにはならないね、自分の思いって。
そのくらい、いいかげんな思いを皆さん方、信じて生きてる。
 
そういう事だって、考えて御覧なさい。
 

自分自身って変な奴ですよ。
 
ものすごい変な奴ですよ。
 
それで、みんな人のせいにする。

 
そういうふうになったのは、人がなにかさせたと思ってる。
そうじゃないしょ。
 
自分が自分の中でふっと思っただけですよ。

 

だからそういう事思うなっていうんじゃなくて、その事がわかりさえすれば
それに騙されないじゃないですか。
 
そういうふうな思いが起きても。
 
そういう人になったらいいじゃないですか。

 
そうしたら放っておけるじゃないですか、いろんな思いが起きても。
それがわからないと自分の中に起きた思いが気に入らない思いだと
自分で騙されるから、もっと手をつけてぐじゃぐじゃになって
どうしていいかわからんようになる、
そういう事をしないように生きて欲しいですね。
腹の立つ思いが起きたって、

(ぱしっ)
この通りです。

 

思った時だけそういう事がそこにかろうじてあるけど、
思いが止んだらないじゃん。


 
だから最初に申し上げたように、

思わない時に人は苦しんだ事ないですよ。
 

手がこう、すばっと切られたりして、
それだけですよ。
 
思い始めると、いろんな事ぐずぐずぐずぐずいっぱい出てくる。


だから時々何も思わないでいると人間楽になるんですよ。
 
スッキリするでしょう?しませんか?

 
疲れきっちゃうと、もう考えやめてる。

 
大の字になって寝るとはあー、いいなー、
 
ほとんど考えてない時ですよ。
 
だったら止めたらいいじゃないですか。

 
考え方止めたってねー、本当にお茶飲んだらお茶の味が
わからなくならないんです。
考え方止めたら、

(ぱしっ)
 
音がしても聞こえないって事はないんだよ。
 
全部機能はきちんとしてるんです。考え方止めても。


 
ところが考え方止めると人間愚かになると思ってる。
 
だからいろいろつまらない事考えてる。いつまでも。


だから日常生活にいるとなかなか難しいから、
さっきのように(座禅30分した事)少しの時間暇をとって、
いつでもどこでもいいから、静かに座って考え方を止めて
過ごしてごらんなさい。


その時なら間違いなくどんなものでも、どんな考え起きても、
放っておいても、生活の支障はないから。
放っておいたら楽になる。
 


焚き木だって、燃えた時に火に油を注がなければ燃えて終りです。
 
ところが、人間は何か思うと、そこに次の思いを加えるから、
あたかも火に油を注ぐようにどんどんいろんな思いを入れるから
いつまで経ったって余分な思いが止まないだけですね。

 
そんなことみんなよく知ってるでしょ?
 
 
考え方で何か整理ができると思うからつぎ込むんですね、考え方を。

 
考え方を使わない事が考え方を離れる唯一の道でしょう。

 
あとは、実践して、なるほどってものにするしかないじゃん。


 
こんなの、いくら後で、理屈で考えたって何の役にも立ちませんよ。


引用元

⑧へ続く。

 

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