坐禅の仕方と悟り,見性,身心脱落:井上貫道老師の庵 まとめブログ

Dharma Talks of an enlightened Japanese Zen Master Kando Inoue Roshi 井上貫道老師が、悟りを体現された経験から坐禅の方法や仏道について語られたものを掲載しています web上に散見される井上貫道老師のことばも引用掲載し、まとめブログとしました ( これは参禅者によるブログであり、公式サイトではありません ) このブログが正師への参禅のきっかけになりますように

タグ:坐禅見性

自己は消え、老師の声が聞こえるのみ――貫道老師坐禅会参加が2回目のある女性の体験



井上貫道老師のある坐禅会のことです。

午前中坐禅を3炷(ちゅう)、それから斎座(さいざ=昼食)、午後坐禅1炷、提唱、質疑応答という差定(さじょう=時間割)です。


老師の提唱後、お茶とお菓子をいただきながらの質疑応答で、
女性が発言されました。


「今日は、2回目の参加です。

前回、初めて参加した時に、司会の方が、提唱の聞き方として、
「メモを取らずにただ聞いてください※」と言われたので、
今日もそうしていました。

そしたら、老師の提唱中に、自分がなくなっていました。

自分がなく、ただ声だけが聞こえるのです。


なるほど、だから、メモを取らないほうが良いのかということが分かりました。」




※この坐禅会では、司会の方が最初にこう言われています。

「提唱の聞き方です。
ただ聞いてください。

普通の学習方法とは違います。 

zazenjosei2toblack_FotoSketcherメモも取りません。

メモを取るというのは、自分の気に入った言葉をメモするだけでしょう?
これは気にいる、これはそうでないと区別するのでしょう?


しかも、メモをしている間は、お話を聞いていませんし。


だから、

ただ聞いて下さい。


そのことがそのようにあるだけですから。」



井上貫道老師が坐禅の仕方として以下のように言われています。

 

「観察しないこと、

眺めないこと、

事実にいるだけ。

見る人がいなくなって事実だけになります。

そうやって座ってください。」 ――井上貫道老師


井上貫道老師による坐禅の仕方・坐禅の方法はこちら  
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上記の女性の方は、老師の提唱中でしたが、素直に参禅されていて、
まさに、聞く人がいなくなって、事実だけになられたのです。

*提唱 (ていしょう) とは、悟りの体験者が、実物そのものを見せること 
講義や解説ではない
自分のことを明らかにした仏道の人が、
事実を
各自の自分自身の様子( その場にいる参禅者自身の自分の様子 ) がどうなっているか
ということを直截に指し示すこと




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【投稿後記】
ここに記載した・これから掲載する参禅者体験は、1年を経過しているものを選んで投稿しています。
投稿者は、インタビュアーやレポーターではありませんので、その後、その人がどのように修行されているかは知りませんし、その後の修行をインタビューしていません。

老師が提唱しているのではなくて、自分が提唱をしていたー一参禅者の体験




井上貫道老師のある坐禅会が終わって、会場片付けの時に、何人かの人が老師の周りに集まってきました。

その中の一人Wさんが言われました。

「実は、このところ坐禅をする時間がなくて、今日はガッツリ坐禅ができました。


300kandoroshiteishoatkobepen今日ですね、


老師が提唱しておられる時、


あれー、自分が提唱しているわー   ってなったんですよ。




……なんじゃらかんじゃら……



それから、老師が言われた人の話を聞いていないというお話、
わたしも、自分の子供の話を聞いていないということ、ズンと響きましたわー」

*************

井上貫道老師の提唱中に、提唱しているのが貫道老師ではなくて、自分が提唱している
ことに気づかれた体験でした。


Wさんは一般のお勤めの方です。
井上貫道老師に参禅始めて多分一年くらいでの出来事です。1年経っていないかもしれません。

「ちょっと気をつけて坐禅している人は、気づきが来ますね。 一旦気づきがあるとガタガタッと変わって行きますね。」―井上貫道老師




「…ほとんどの人が、

『私たちの生活しているのと違った別な教えが、諸仏方、悟りを開いた人たちにはあるんじゃないか。

だからそういう人たちの素晴らしいものを、できたら自分も味わってみたい』

そう思って間違えているのでしょう。

そもそもそれが間違えなのでしょう。

なんで今こうやっているのに、これで満足できないかを尋ねた方がいいのでしょう。

何が満足させていないのですか? 

それを本当に追求するためには、今まで使ってきた思量分別を一切使わずに、この事実にいて [居て]みることなんじゃないですか? 


それが、坐禅と言われる行なんじゃないですか?」 ―― 井上貫道老師




◇    ◆    ◇    ◆    ◇    ◆    ◇    ◆    ◇



上記体験者の言葉で、子供の話を聴いていないという話というのは、

老師:
「親って、子供の話を聞きませんね。
子供の話を聞いたら、その話で出たものを買ってあげないといけないもんだと思いこんでいるものだから、
最初から、子供の話を聞かない。

子供の話を聞く ということと 子供の話で欲しがっているものを買ってあげないといけない ということは別なんですよ。

話を聞いても、買うこともあるし、買わないかもしれない。


子供だって、ちゃんと親の経済状況を分かっているから、
話を聞いてもらったら、あとは、我慢することだってできるんですよ。

それくらい子供は賢いですよ。」


と井上貫道老師がその日の提唱と質疑の時間に話されたことからです。



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【投稿後記】
ここに記載した・これから掲載する参禅者体験は、1年を経過しているものを選んで投稿しています。
投稿者は、インタビュアーやレポーターではありませんので、その後、その人がどのように修行されているかは知りませんし、その後の修行をインタビューはしていません。

また名前を知っているのは、このWさん以外に2人くらいで他の体験者達の名前は知りません。
体験談を坐禅会中などに話されることがあっても、そもそもその人の顔を見ていないので、男女以外分かっていません。


上記Wさんのように、個人を知っている人であってもできるだけ個人を特定できないように余分な情報は書かないようにしています。使用した人名のアルファベットは、その人の本名とは全く関係がありません。ZからAまでを、日本人の姓にならないものは除外して使っていきますので、まずはYさん、次はWさん、次はUさん、Tさんという順番になります。



井上貫道老師に参禅を始めて1年で気がついたサラリーマン



 
これはある人Yさんの体験談です


わたし [このブログ投稿者] が、井上貫道老師の坐禅会に出た帰りのことでした。駅近くでYさんに出会って、多分初めてこの人に話しかけました。

前日の他所での貫道老師の坐禅会での一参禅者の人がちょっとした見解を話されたので、そのことについて、前夜も出席されていたYさんはどう思われますかということを尋ねました。


Yさんは、坐禅に真剣に取り組んでおられること、かならず井上貫道老師の独参の列に並んでおられること、経行(きんひん)(歩行禅)の姿が美しいことで、以前からはその存在には気づいていました。

僧侶ではなくて、企業に勤めていた一般人の方です。 


その時のわたしの質問に対してどう答えられたかは覚えていませんが、続いてこう言われたことをハッキリと覚えています。



「こういう会話って、この坐禅会の人ってあまりしないんですね。

実は、わたしは貫道老師に参禅始めてちょうど1年くらいの時、見性したんです。
[ 当時は、この「見性」という用語をYさんが使われたかどうか、記憶が定かではありません ]


攝心の時に朝の坐禅で、坐禅終了の鐘が鳴った時に体験がありました。
zendohansho 


貫道老師に出会ってから、言われたとおりに修行していただけです。

修行ってとても簡単なことだなと思いました。

 


そうそう、
そのあとの体操の時に、雨だったから本堂で体操があったのですが、インストラクターの人に向かうと、インストラクターの人以外誰もいないんですよ。
とても面白かったですよ。※




でも、そういう体験があるとどうしてもつかんじゃうんですね。」





投稿者「その体験のことを老師には独参で言われたのですか?」


Yさん「はい。 老師にも、その体験の内容ではないぞ、掴んではいけないよと言われたのですが、つかんじゃいました。」
(実際には老師とYさんとの間にどのようなやり取りがあったのかは不明ですのでご注意下さい)




Yさんの体験について、その時はもっと質問したいことがあったというか、体験の時は、どんな感じだったかもう少し詳しく知りたかったのですが、修行上の先輩であるMさんの所に行く約束があるということで時間切れになりました。

その後もYさんと話す機会はありましたが、人の体験については、興味がなくなってしまっていましたので、彼の上記の体験については、それ以上尋ねたりすることはありませんでした。


      *            *           *            *           *            *           *            *

 

Yさんは貫道老師に参禅を始めて1年で気づきを得られたのです。
その前に一度だけ、宗門の専門僧堂で修行僧に混じって、攝心をしたことがあったと話されていました。

体験を掴んでしまわれたので、終わりとはならず、それ以後も坐禅修行と参師聞法を続けられました。


ずっと、あとから分かったことですが、その人は、老師の指導される正しい坐禅が本当にすぐにできるようになったそうです。



「真っ正直な人って、修行が速く進みますね」 ―― 井上貫道老師


「一ヶ月に一度坐禅会にやって来て、そこで修行を思い出すのでしょう。 普段は何もやっていないんだね。
それでは、絶対に [修行成就は] 無理ですよ。
何年かけても無理。

世の中のことでもそうでしょう。

実践したら、一ヶ月もあれば何かあるはずだから、どうなったか教えてください。
やっていないと疑問も何も出てこないでしょう?」

―― 井上貫道老師
[ 井上貫道老師坐禅会では、必ず、質疑応答の時間があります ]





※[攝心 (せっしん) というのは、在家の人も、仕事は休み、人間関係を絶ち、ニュースやTVやスマホを見ずに、日記もつけず、すべてをお預けにして、道場に泊まり込んで行なう合宿型の坐禅修行期間のことです。
朝から寝るときまで坐禅を中心に一心不乱に修行に専念します。この期間は、心おきなく自分の様子に親しくいることができる大変貴重な時間です。

師家(老師)を指導者として、坐禅、提唱(ていしょう)、独参(個人指導)で構成されています。 食事は1日3度ありますが、食事を摂るのも、トイレも、昼の休憩中も、形の異なる坐禅修行になります。
提唱の講本以外、文章を読み書きするのも禁止です。 


よくある荒行のように、食事も睡眠も制限されることはありませんし、1日11炷と言っても、人と一緒にするので、よほどでなければリタイアするような厳しさはないので、ついつい、甘く見て真正面から取り組まずに、ただ外見上は坐禅の形を守るだけで数日を過ごす人もいないわけではありません。

あくまでも内面でどのように自分の今の様子と親しくいるかが問われますので、摂心のあとは、人によって大きな差が生まれてしまう行でもあります。


道元禅師や井上義衍老師は道場で、一夏90日間の安居期間中は、隣で坐禅している人の顔を見たことがなかったと言われています。 




この体験談当時は、攝心の暁天2炷の坐禅のあと、朝課(朝のお経)があって、その後、戸外で体操をしていました。その時は雨降りだったので、本堂でしていたようです]




【投稿後記】
ここに記載した・これから掲載する参禅者体験は、1年を経過しているものを選んで投稿しています。
投稿者は、インタビュアーやレポーターではありませんので、その後、その人がどのように修行されているかは知りませんし、その後の修行をインタビューはしていません。


上記Yさんのように、個人を知っている人であってもできるだけ個人を特定できないように余分な情報は書かないようにしています。使用した人名のアルファベットは、その人の本名とは全く関係がありません。ZからAまでを、日本人の姓にならないものは除外して使っていきますので、まずはYさん、次はWさん、次はUさん、Tさんという順番になります。

「この頃諸方坐禅をゆるくするが故に、仏道衰えたるなり」  ー道元禅師


▶死ぬまでに一度でいいから自分自身が本当はどうなっているか、自己の真相に気づいてほしいですね
ビックリしますから  ―井上貫道老師



まもなく、井上貫道老師語録(今までに未掲載のもの)がまとまる予定です 詳細が決まりましたらここに発表します
2016年9月 まとまりました。こちらの記事です⇒ http://zazen.blog.jp/archives/cat_1228032.html

以下の記事は過去記事の再掲載です
   井上貫道老師参禅者の体験談 をもご覧下さい。

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過去の少林寺摂心・接心での井上貫道老師提唱から

[  接心とは、在家の人も、諸縁を放捨して、道場に寝泊まりして、坐禅修行に専念する数日間
テ レビ新聞携帯メールLine見ない、電話にも出ない、参加者同士挨拶も不要、お互い話をしない、自己に参ずるのみの期間 この期間に修行の進む人、悟る人昔から多 し 道元禅師は、修行時代、90日間の安居期間中、隣で坐禅する人の顔を知らず 接心のことは欧米では禅リトリートと呼ばれる ] 
 

今回は「普勧坐禅義 提唱録」(井上義衍老師)を、井上貫道老師が提唱してくださいました。
以下、最終日の提唱より抜粋。

●漫然と坐っている人は寝ちゃうね。
「何もしないのが坐禅」って言いながら・・・。
三十年も坐ってる人は必ず寝ますね。

今の様子に参ずるのが下手なんだね。

寝たら坐禅になりませんよ。




● 眠るのは坐禅の大敵です。

坐禅ってどういうことなのか、よく分かっていないからボーッと眠るんです。




● 坐禅の間には休憩時間がありますが、あれは休憩ってわけではないですよ。

その時間におしゃべりしたりすると、人間は会話に引きずられますからね。

せっかくの坐禅が台無しになってしまいます。




● 接心や坐禅会に来て、おしゃべりをする人は、絶対に修行ができていませんね。
何の世界でも一流の人が自分の仕事をする時は、おしゃべりをしません。

一流のシェフがおしゃべりをしながら、料理を作りますか?

修行者は話をしないものです。

 
 
 

● 「坐禅」というのは、今の実相、活動にそのまま親しくしていればいいんです。
 
「ただ坐る」というのは、
事実、実相、この(自分の)一大活動に親しくいることです。



事実との間に距離がないからこそ「手を付けない」という表現になるわけでしょ。



観察するのではなく、事実のままにあることです。





●今の様子に親しくいれば、先ほどの様子は微塵もありません。そのことで十分です。




●悟っている人も、悟っていない人も、(手にした杖を立てて)こうすればこう見えるでしょ。




● 生きているうちに片を付けないと、ものにならないですよ。
使えません。

できるだけ若いうちに決着を付けて、長い間役に立ってください。

だから修行をぐずぐずしないこと。





zazenkaisaichuske● 近い人も遠方の人も、わざわざこの寺に来て接心しようというわけですから、社会のことをここまで持ち込むのはもったいないですよ。

世間のことは打ち捨てて坐ってください。




●本気になって求めると言ったりしますが、本当に坐りたければ坐るもんですよ。

他人がおしゃべりしてようが、寝てようが、そんなの放っておいて坐りますね。




●本当に気になっていれば、四六時中そのことが心から離れないですよ。

気にかかっているものを放っておけるわけがないんです。




●「言うとおりやってみようか・・・」なんて遠慮がちにやるからスカッと行かないんだね、半分ぐらいの人は。(笑)





●「作務」は、一般の仕事とはちょっとおもむきが違います。
ただそのことをそのこととしてやるだけです。

人のためやお寺のためではありません。





●達磨大師は9年間坐禅したと言いますが、9年かけて悟ったのではありません。

すでに悟った上で、坐禅というものの実物を9年間見せ続けたんです。

そして慧可という弟子が得られたんですね。

 ※達磨大師面壁九年で二祖慧可大師を得る 
慧可は達磨大師の前で本気を示すのに、臂(肘ひじ)を自分で切り落としたと伝えられている
この故事に因んで、臘八大接心のあと12月9日に断臂接心(だんぴせっしん)をする道場がある






●なぜ「自分自身に徹見せよ」というかというと、生涯、この自分自身の一大活動しかないからです。 
これこっきりだからです。




   井上貫道老師参禅者の体験談 をもご覧下さい。




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