坐禅の仕方と悟り,見性,身心脱落:井上貫道老師の庵 まとめブログ

井上貫道老師が、悟りを体現された経験から坐禅の方法や仏道について語られたものを掲載しています web上に散見される井上貫道老師のことばも引用掲載し、まとめブログとしました ( これは参禅者によるブログであり、公式サイトではありません ) このブログが正師への参禅のきっかけになりますように

タグ:坐禅の仕方

「坐禅は習禅にはあらず」・坐禅はトレーニングではない  坐禅は本当に何もする必要が無かった



「修行は「思い」ではないんです。

『こうやればいいんだ』
って方程式を立てておいて、それに沿ってやることではないです。」
― 井上貫道老師

坐禅の形・組み方(目・手・脚・口)―井上貫道老師 はこちら


以下は、Sさんのブログからの引用です  
3日間ぶっ続けに坐禅できた体験談です
本当に坐禅できるようになるとはこういう事だということが述べられています:


[ 事実に触れる体験前ページ参照 のあとです ]


帰宅後、近所のファミレスで禅の本を読んでいると、「坐禅は習禅にあらず」という道元禅師の言葉が目に入りました。

「うわぁ、そういうことか・・・本当にそうだった」


さっそく家に帰って坐禅すると、本当に何もする必要がありません。


kodomozazen_FotoSketcher
壁に向かって坐禅の足を組む前から、もう壁が壁そのままです。


「なんだ、坐禅はトレーニングじゃないんだ。」

「禅の初心者が最初の日に足を組んだその時から、もうちゃんとこうなってるじゃないか。」

「なーんにも練習も努力もする必要がなかったじゃないか。」


新人が先輩に仕事を習うとき、「まず俺のやることをただ見てろ」と言われたら、わけなどわからず、ただ横に立って見ているだけでいいんです。

下手に手出しをすると怒られます。そんな感じでしょうか。


   *   *   *

幸福感に包まれて、3日間ぶっ続けに坐禅した

そんなこんなで、とにかく気持ちがいい。

「リアル極楽浄土とはこのことか・・・」

鳥肌が立つような快感と幸福感に包まれながら、3日間ほど続けて坐禅ばっかりしていました。


そうこうしているうちに買い置きの食材もなくなったので、買い物に出かけました。




帰ってきて車から外を見ると、雑草が風にゆれています。


ジョギングをしているおじさんが目の前を走り過ぎていきます。

「草も木も、みんな、昔から、ずっと一緒に、このとおりいてくれたじゃないか・・・」

涙が少し出ました。


「もしかして、悟ったか!」

そう思ってしまうほどのものでした。


[自身が、ブログに「以上は坐禅の誤りに気づいたということであり、悟ったということではありません。」とブログの冒頭にコメントを付加されています]


ということで、1月の坐禅会にて老師に確認してもらうことにしました。[下に一部分 引用しています]
   
   引用元:http://ameblo.jp/hamamatsu-zen/entry-11254771638.html




老師の点検

私 [ Sさん ] :
先月のクリスマス坐禅会以降、また気づいたことがいくつかありますので、だらだら長くなりますが…。


掛川の老師:
どうぞ、どうぞ。(笑)

私:
老師から「坐禅をやめたらどうですか」と言われたんで、坐禅をやめて街をブラブラしてました。
で、地下道から地上に出た時、ふと見上げるとビルがあるんです。

その時に「あれっ、これじゃないか」と気づいたんです。


どういうことかというと、坐禅や仏法に出会う前から、いつでもこのビルを見たらこういうふうに見えてたじゃないか、昔からの平凡な自分の感覚のまんまでいいんじゃないかと気づいたということです。


本当か?と思ってしばらく確認しながら歩いてたんですが、交差点に来ると赤信号がある。
待ってると青信号に変わる。

渡り終えると向こう側に渡っている。

なんだ、やっぱりこれじゃないか、と。


「坐禅を始めて2年半、俺はいったい何を見当違いのことをやっていたんだろう」とがっくりきて、
笑いがこみあげてきました。


嬉しくなってさらにブラブラしてたら、
10分ぐらいして「なんだ~これらは全て出てきちゃったものじゃないか。
出来上がってるんじゃないか。

結果として表れてきたものであって、
自分はそれに手の付けようがなく、
ただ立ち会っているしかないんだな」と気づきました。

で、家に帰って普勧坐禅義を読み返していたら、
「坐禅は習禅に非ず」という言葉が目に入って、
「ああ、そういうことか!」と本当に意味が分かりました。

坐禅の形に足を組んで、あとはもうすでに表れている昔からの平凡な自分に立ち会うというか、確認するというか、一緒にいるというか、それだけでいいんだ、と。


坐禅の初心者が最初に座ったその瞬間からちゃんと坐禅できてるじゃないか、と。

あまりに気持ち良くて、
そのまま3日間ほど坐禅やってたんですが、
買い物に出ようとして外に出ると風に草がなびいている。
おじさんがジョギングしている。

「な~んだ~、昔から今までみんなずっと一緒にいてくれたんじゃないか」と気づいてウルウルしました。

というところまで気づきました。


引き続きこんな感じで坐禅を続けていきますが、続ける上でさらにご指導ありましたらお願いします。



掛川の老師:
そのまま坐禅を続けてよいです。

ただ…今話を聞いている様子では、やっぱり、そういう様子っていうものをこっちで見ている。
どうしても「教え」と「自分」というものがあるね。

それ、それだけ。


観察しないこと、眺めないこと、事実にいるだけ。
見る人がいなくなって事実だけになります。

そうやって座ってください。

まあ、今おっしゃったとおり、どうするこうするということがなくなってるからいいじゃないですか。

    全文を読む




「今のありように本当にこう、いてごらん。他で見つかることはないんですよ。

「他の時間帯で」「どっか他所で」「何か」。そんなことはないです。今の様子の中にあるんだから、いつでも。

一番厄介な問題なんですよ、これ。坐禅して。
一番厄介な問題でしょ。

一応、形を作らせて止静を入れて、坐禅始めますよってって、一応そこに坐ってるけど、
鐘が鳴って、経行ですよとか、抽解があって止まって、
また坐るんです。

だけど坐ってる時のありようはどうあったらいいかっていうことが、一番問題なんでしょ。」― 井上貫道老師





坐禅の形・組み方(目・手・脚・口)―井上貫道老師 はこちら

大切なのは、どのように坐禅するかということです

井上貫道老師は、今の自分自身の様子(「事実」)を本当に見届ける(悟る・見性する)ための坐禅を教えておられます

体験談をすべて読む



上のボタンをクリックすると井上貫道老師参禅者の体験談がすべて最初から読めます。



【投稿後記】
Sさんは、井上貫道老師に参禅されている修行者の一人です。
(浜松の老師にも参禅されています)

すでにSさん自身が自分のブログに詳細に体験談を書かれていますが、すでに過去の記事となってしまっており、それを見つけにくいのでここに引用をさせていただきました。

3日間ぶっ続けに坐禅したときは、ご飯一回炊いたままでそれを食べていたと確か言われていました。

大変真摯な姿勢で修行に取り組んでおられることが分かります。
分からないことはそのままにせずに、老師に質問をし、体験があれば、老師に確認を求めておられます。

そこでお願いです。
Sさんのブログにコメントをして質問されることはご遠慮ください。Sさんに要らぬ負担をかけることになります。
Sさんはまだ修行者の一人です。法の上の質問は、師つまり仏道を体得し終わった人にするのが修行者としてのただしい尋ね方です。ですので、くれぐれもよろしくお願いをします。



ここに記載した・これから掲載する参禅者体験は、1年を経過しているものを選んで投稿しています。
投稿者は、インタビュアーやレポーターではありませんので、その後、その人がどのようにされているかは存じていませんし、その後の修行をインタビューしていません。

上記Sさんのように、個人を知っている人であってもできるだけ個人を特定できないように余分な情報は書かないようにしています。使用した人名のアルファベットは、その人の本名とは全く関係がありません。ZからAまでを逆順に使っていきますので、まずはYさん、Wさん、Uさん、Tさん、Sさんという順番になります。

参禅歴15年で見性した参禅者は、15年のうち、実は1年しか修行していなかった

 14年間、間違った坐禅をしていた=14年間、坐禅の仕方が分かっていなかった の意味です


「修行して解脱するんじゃないです。

すでに解脱してるんです。

そのことに気づき、ああ、なるほど、確かに解脱してるな、となるのが坐禅です。

こういう実証方法を伝えてきたのが仏教のすばらしいところですね。」ー 井上貫道老師



70歳の参禅者が摂心中に突然、見性体験をした例
 Tさんの参禅体験談続編です


Tさんの体験談をインタビューして『浜松で…』のブログに載せたの管理人Sさんは、別の記事でこのように追記されています。



「20年間の修行期間のうち、19年は修行の方法、坐禅の方法がわかっていなかったのだ」と。

(事実関係としては、20年は、15年の、19年は、14年の間違いです)


「15年間の修行期間のうち、14年は修行の方法、坐禅の方法がわかっていなかったのだと。」




以下、当ブログ管理人の感想ですので、主観が入っています:
ところが、本ブログの管理人わたしが、ちょうど、初心で、Tさんに出会った時は、本当に修行底(しゅぎょうてい)の人だなあという印象でした。

と、言いますのは、初めて出会ったのが体験談http://zazen.blog.jp/archives/1062539620.htmlと同じ年の半年前夏の摂心の時なのですが、その時に、
Tさんは、遠方からお寺に車でやって来られた様でした。

バッグを控室に置いて、やれやれ一休み、
として、同じ参加者に挨拶して、雑談しながら、
「坐禅が始まるまであと30分あるな」とか「摂心は明日からだから」
という感じの人が多い中、
そのTさんはバッグを控室に置くとすぐに、禅堂に向かわれたのです。
 
坐禅会が始まると、あるいは、摂心に突入すると、おはようございます こんにちは お久しぶりです などの挨拶は要らないとされています 非礼にはならないのです

摂心の途中でやむを得ず帰宅する場合も、参加者の方々には挨拶はせず、黙って他の人の邪魔にならないように帰るのが良いとされています 食事の関係があるので、寺院(主催者)には当然下山することを報告します 
]



くしくも『浜松で禅修行』の管理人Sさんも、当時は全く同じでした。

Sさんも、お寺に到着して、バッグを控室に置くと、すぐに禅堂に行く。

日常の工夫と坐禅工夫がシームレスなんです。
これは日常、これは坐禅 という風な修行ではない ということです。


TさんとSさん(40代)はそうでした。


そんなTさんでした。

zendonaibu

 
さて、禅堂でですが、
世の中の普通の講演会などでご高齢の方に居眠りをしている人が多いのと同じで、 
高齢の方が坐禅をするとどうしても居眠り坐禅やボーっと坐禅されていることが多いのですが、Tさんの坐禅はそうではありませんでした。



金曜坐禅会の始まるずっと前や摂心の抽解時(坐禅と坐禅の間のブレイク時間)にも広い禅堂に、
一人ポツンと坐禅されていることも多いTさんでしたが、その姿は、重心が低く大変安定のあるものでした。


もちろん身体は揺れていません。

目は開いて坐禅をされていることが遠方からも分かります。



2列の単が並ぶ大きな見通しの良い禅堂なので、遠くから坐禅姿が見られたのです。


「坐禅を楽しんでいる」
そんな姿でした。 
あくまでも個人的感想です。 



そして、その年の12月。
わたしは親の急な入院で、残念ながらその年の臘八摂心は参加できませんでしたが、のちに『禅修行』のTさんの体験記事を知った時は、すぐに、その見性体験記は、多分Tさんのことに違いないと確信できました。

以上のようなTさんの姿を知っていたからです。 




本人は、こう言っておられます、 70歳の参禅者が摂心中に突然、見性体験をした例 参照

「十何年こう坐っていて[坐禅していて]、もう毎回毎回
『どうして、どういうふうに坐禅すればいいんだ、これでいいのか、どうのこうの』とだけが頭にありました。


それがねえ、ここちょっと [どのように坐禅していたら良いのかという] 悩みがなくなっちゃって、
こういうふうに坐っとけばいいんだ
というのが出て来た。

で、そういうふうにうちでも坐ってるんです。」


これが参禅歴15年のうち、直近の1年だけが、坐禅ができるようになった ということです。

本当に坐禅ができるようになった(迷いなく坐禅ができるようになった)年に私は出会っていたのです。




修行上の先輩のZさんによると、

「世の中で自覚している人が少ないように思える理由は、2つあります。

まず、井上貫道老師のように本当の坐禅を教えている人になかなか出会えないこと。

次に、正師に出会えても、話を聞いた本人がどうしても自分の考えを入れたり概念で捉えて聞くので、坐禅がどういうものであるかが分かり実践できるまでに時間がかかるのです

正しい楽な坐禅ができるようになると、誰でも間違いなく自覚(悟り)は起こります。


自覚しても、『わたしは悟った』みたいにはなりませんよ。

私のいない体験です。

いや、そういう意味では体験とは言えないかもしれませんね。


 疑いは微塵もなくなります。」





Tさんは、15年間のうち、ちゃんと坐禅が出来ていたのは、たった1年間だけだったということになります。
(実を言うと、Tさんの15年目のこの体験は悟りではありません そこで修行が終わったのではありません   さすがに実質1年の修行では、大事了畢とはなりません) 

Tさんのことは、実はわれわれのことです。
本当に坐禅ができているのか自分自身に問わねばなりません。
師に確認をしてもらわないといけません。





以下は、貫道老師のことばです。


「本当は[坐禅に来ている]一人一人に、お尋ねをしてみたい。

長い人は何十年も坐ってるって言うんだけど、坐ってる時、どういうふうに過ごしてるのか。

さらにそれを推し進めれば、今度は、人に尋ねられた時、
「あなたは何十年も坐っておられるけど、
坐るってどういうことですか? 
坐禅ってどういうことなんですか?」
って言われた時に、
どういうふうに答えられるのか、
どういうふうに示されるのか、教えられるのか、
ということが必要だと思いますよ。


もし教えられないような坐禅ておかしいですよね、
人に、聞かれて。

そう思いませんか。


要はどうやってるか自分に分からないってことでしょ。

だから教えられないっていうことでしょ。



ていうことは、坐禅をしていても、
どうしているか自分でも坐禅のありようが分かっていないで、
ただ時を過ごしているっていうことになってくるんじゃないですか。

そう思いませんか。論理的に話をしても。(笑)」





「だから、坐禅があんまり本当に効果が上がらないのは、それが一番、元かと思うな。

分かったような顔して坐ってるだけ。

それらしい格好して坐ってるだけ。

本当はそこらへんが十分に理解が行かないまま坐ってる。


それ、長くやって苦労した人、話してごらん、聞いてごらん、きっとそうだよ。(笑)

そこが分からなくて時間がかかるんだよ。」 ーー井上貫道老師
以上は、どこかよその坐禅会の人たちのことを言われているわけではありません。

参禅者、我々のことです。
自分の修行の方向をハッキリさせるために、質疑応答や独参の時間を設けてくださっています。



体験談をすべて読む



上のボタンをクリックすると井上貫道老師参禅者の体験談がすべて最初から読めます
体験談はあと1人あります



【投稿後記】
井上貫道老師は、
ある参禅者が、見性とか小悟とか大悟とか段階を経るものかという質問をされた時に、
「元に戻ってしまったら悟りではない」、
「見性とか小悟とか大悟とか、そういうことがあるのは、その参禅者の師が許すからだ」

「悟るまでは、よく似た体験をするものなんです」

と言われたことがあります。


ここに記載した・これから掲載する参禅者体験は、1年を経過しているものを選んで投稿しています。
投稿者は、インタビュアーやレポーターではありませんので、その後、その人がどのようにされているかは存じていませんし、その後の修行をインタビューしていません。

使用した人名のアルファベットは、その人の本名とは全く関係がありません。
ZからAまでを、日本人の姓にならないものは除外して使っていきますので、まずはYさん、Wさん、Uさん、Tさん、Sさん、、、、という順番になります。


 

▶私達は毎日朝から晩まで真実の中に生きていながら
「おそらく一度も真実に直接触れた事はない」って言っていいでしょう。


▶ 「お寺に座禅をしたいから」と言って座禅に来る。
「何かわからない事ありませんか?」と聞く。

誰も何も言わない。
 
「では、座りましょう。」と言って座る。
 
問うべき事を問わないんじゃないですか?
 
 
一応パンフレットみたいなもの渡して、冊子のようなもので図解ができてるものを差し上げる。
口頭でも多少話をする。
一応の形はできる。
そして坐禅をする。

 
こういう座り方(坐禅の仕方)で座禅になってるのだろうか? 
 
修行になってるのだろうか?というような事ですね。

―井上貫道老師
 



2013年4月の井上貫道老師の静岡禅会でのお話です。①

道元禅師 正法眼蔵春秋の巻
 
私達は毎日朝から晩まで真実の中に生きていながら
「おそらく一度も真実に直接触れた事はない」って言っていいでしょう。
 
考え方、を通して見てる、
いつでもって言っていいほど。
 
だから心底納得しない事があるんでしょう。 
 
ちょっと何か揺り動かすと自分の中で疑いが起きる。
 
不安な気持ちになる。
 
揺らぐじゃない。


それで。人につつかれればなおさら揺らぎますねえ。


どこに行こうがその事がその事としてきちっと伝わるようにできてる。
あたかも暗記してるように。
 
初めて出会うものだけども、初めて出会ってうろたえるような事はない。
 
どこへ行っても。
どんな事に出会っても。
うろたえるような事はない。

 
うろたえるのは現実を見ないで自分の頭の中でその現実を捉えて 
どうこうするようになると問題が起きてますね。


「痛い」っていう時に、「どうかしてくれ」っていうようなものはないんですね。
不思議に。
それだけで済むんでしょう。
 
「なんで?」というのは起きないんですね。

 
道を歩いてていきなりバタバターと足元から鳥が飛び立つ。
 
「なぜ?」とか、「どうして?」とか本当に起きないんだよねー。
 
それ、皆さん、経験あるんじゃないですか?

 
それが済んでから、「今のは何だったんだろう?」、「どういうことだ?」 
っていうような問題を起こす人はたくさんいる。
 
その時にはもう、問題がなかったところを通った後じゃないですか。
 
問題なく生活した後じゃないですか。

 
違いますか?
ちゃんと通れたんじゃないですか?
 

『正法眼蔵』はこうやって読んでみるとよくわかるように、 
『正法眼蔵』はそこに書いてある事を読んで理解するって
いうような事ではない事ですよね。
 
必ず自分自身のあり様としてそこがちゃんとしてるか、 
必ず問われています。

 
これが道元禅師の親切なとこでしょう。


もう一つ人間が生きてる場所があるならいいですよ。同時に。
今こうやって生きてるものと、もう一つ自分が生きてる場所があるんだったら、 
そっちがよければ、そっちにいけばいいんです。
 
ねえ、ところが、誰もよく見て下さい。
もう一つ生きてる場所なんかないじゃないですか。
 
時間的にももう一つの別の場所があるわけじゃないじゃないですか。
そういう事をまず熟知するべきじゃないですか。
 
ものを学ぶのに。 
 
 
パシッ(老師、手を叩く)
 
だからこの音を聞くのには必ずここで聞くしかないじゃないですか。
後にも先にも。
この場所で、
この時に。
この音を聞く以外にないじゃないですか。
 
あと、どこでこの音を触れる事ありますか?
一々そうですよ。
この音だけじゃなくて。生きてる様子見て下さい。
 
 
一々の生きてる様子は今ここで本当にその事が行われているだけであって、 
その他のところにどこにもないですよ。
 
 
そういう生き方を私達してるって事が脱落の身心と言われる所以でしょう。
何もかも離れ切っている。
 
要するに、私達が普段勉強して考えてる事と違うんですよ。 
このもののあり様は。

 
だからこのものの事実の方から学ぶんです。 

 
(老師、頭を指して)
この変な頭の方から学ぶんではないんです。
ここはつまらないものいっぱい詰めてますから、
そのつまらないものいっぱい詰めてる方から見たら、
そこにいくら真実が展開されていても
それを正しく見る能力は皆無に等しいでしょう。


どうしてそういう立派な人のところについて修行しているのに
きちっと問うべき事を問わないのか、聞くべき事を聞かないのか。
 
暑いという事はどういう事を言ってるのか。
寒いという事はどういう事を言ってるのか。
「そんな事、聞かなくたってわかってる」って、思うから問わないですね。


座禅もそうですねー、
「お寺に座禅をしたいから」と言って座禅に来る。
「何かわからない事ありませんか?」と聞く。
誰も何も言わない。
「では、座りましょう。」と言って座る。
 
問うべき事を問わないんじゃないですか?

 
一応パンフレットみたいなもの渡して、冊子のようなもので図解ができてるもの 
を差し上げる。
口頭でも多少話をする。一応の形はできる。
そして座る。

 
こういう座り方で座禅になってるのだろうか? 
修行になってるのだろうか?というような事ですね。
ここで言わんとする事は。



自分自身の事を本当に自分自身で見極めるって
誰からも指図される事ではない。
 
強要される事でもない。
 
人としてこの世に生まれて自分自身の事本当に知らないと 
いうのは哀れな事じゃないですかね?

 
なんで、この一個の中で、こうやっておりに触れて生活してて 
問題が起こるかって、よくよく見てみれば、自分自身というもの
わからないから問題が起きるんじゃないですか?
 
だってどこで問題が起こるかって、必ずここなんですね。
 
今以外のところで、問題起きた人いないんですよ。
 
問題起きると必ず、しかも自分の上なんです。
 
他所の人の体の上で問題が起きた事ありません。
 
必ず自分自身の上で問題が起きる。

 
その問題もですね、いろんなものにこうやって接触しますけれども、 
接触したその時に問題が起きるんです。
 
どういう風にして問題が起きるかっていうと、「何言ってんだー」、
「それどういう事だ?」、「あんなやり方ないじゃないか」
そうやって自分の中に触れたものに対して、皆自分のそういった見解を
起こして、それで問題起こしているんじゃないですか?
 
他にはないでしょう? 



「あー、なんてかわいそうな事か、私だけこんな事してていいのかしら?」 
そういって自分の中でふっと思うといたたまれなくなって、
「こんな贅沢してちゃいかん」と言って、
ご飯も食べずに人の為に施すような事する人もいるでしょう。
 
じゃあ、それずっと続けたらどうなるかって、 
自分は一週間食べずにいたら必ずおかしくなりますよ。
 
「みんな汗水たらして夜も休まずに働いている、私も」って言って 
一週間飲まず食わずに人の為にやるのはいいけど、ぶっ通しやって倒れる、
それ、皆考え方の生んだ愚かな事じゃないですか?
 
本当はそんな事が大事な事じゃないじゃないですか?
 
そんな無茶苦茶な事をしろっていうんじゃないでしょう?

 
もっと平凡な中に本当に誰もができて実行力があって、 
効果がある事あるんじゃないですか?
 
とにかく人間はそうやって、自分が触れたものに対して、 
自分の中で見解が起きるという事が
それから問題が起きてるんでしょ?
 
じゃあ回避するんだったら、その問題が起きてないところに 
目をつける必要があるんじゃないですか?

 
じゃあそれどこにあるか


人間の見解を起こす前にどうなってるかを見るべきじゃないですか?

 
触れたものが自分の見解を起こしてどうこうじゃなくて、 
触れたその一々のものが自分の見解を通さずに
それがどのように本当になってるか、それ抜きにして自分の好き嫌いで
ものを取扱って、ものが解決できるわけないじゃないですか。
 
参禅ってそういう事をするんじゃないですか。
 
本当に自分自身の今の様子に参ずるという事。 
 
用があるのはそこじゃないですか?

 
で、自分自身の本当の様子がない人は一人もいないんだから。
 
だけどすぐに見解が起きて自分の考え方でものを見る癖があって 
その前の正しいもののあり方のところに着眼する人ほとんどいないって事でしょう。
 
そういう事ずーっとこうやって伝えてきてる、そこやって欲しいという事を。
 
それが仏祖のかじょうなんでしょう、
で、あんまり当たり前だから修行にお見えになった立派な方々でも、 
立派な人のそばにいてもそれ以上追求するこない。聞く事もない。
 
そういう生活をしているから淋しいなと言ってるんでしょう。 

 

毎月一回木曜日、静岡駅から南へ徒歩10分の崇福寺 鯖大師で、
井上貫道老師の座禅会があります。
崇福寺臨済宗
 
夜6時半から9時まで、出入り自由、会費一回1200円、
25年続いており、正法眼蔵をテキストにして
井上貫道老師の提唱、お話があります。
会場などの詳細は、
井上貫道老師全国坐禅会日程にあります。



上記の文章の
引用元:http://ameblo.jp/10wanko28/entry-11528265009.html
文中、脱落の心身とあるのは、脱落の身心 に書き換えました

(このブログは
井上貫道老師まとめブログです
すなわちネット上にある井上貫道老師の様々な語録と坐禅会情報を一つにまとめて、
学人の参学の便宜とするものです)

井上貫道老師のお話からの抜粋です




●本当に事実に触れれば[=悟れば]、底が抜けてすっきりしますよ。




●みんな、常日頃たくさん問題を抱えてますよね。

修行を始めるとき、それらの問題には一切手をつけず、今、この状態そのままから修行を始めるんです。

決して問題を整理解決してから始めるんじゃないんです。

そんなことしてたら一生修行できません。

反省してたらきりがなくなっちゃいますよね。

本当に『今』に用があるんです。





●人間って、事実に触れると楽になるもんなんです。

人前であがった時は、聴衆の顔を一人一人眺めると落ち着きますよ。
ピッチャーが満塁のピンチで緊張してるとき、地面を這ってるアリを数えることで気持ちが落ち着くって話もありますよね。




●人間は、受け止めた物事や事実を、自分なりに解釈し、意味づけし、整理しようとする。

でもそうじゃなく、事実そのまま、整理しないでおけばいいんです。




●虫が鳴くから声が聞こえるんです。
虫が鳴いていないのに聞こえるってことはありません。

草が伸びるとき、茎の下のほうが上を追い越すってこともありませんよね。

世の中のものは、全てこのように順じてるんです。逆になるものは一切ありません。




●禅では『心は鏡』だとよく言いますが、
本当は『鏡の中の様子だけ』なんです。

鏡は存在しないんです。

鏡の中だけってことは、つまり鏡の外だけってことなんですけどね。




Q.禅で言う「心」とは何でしょうか?

A.こうやってるこの様子です。こうやってる働き全て。「事実」「ありのまま」ということと同じです。

ただ、限界や範疇というものはありません。

ここまでが自分の生きている様子だ、なんていう範囲はありません。

世界が全て心です。「三界唯心」と言うじゃないですか。


一口に「心意識」と言いますが、
どこまでが心の働きで、どこまでが意で、どこまでが識なのかあいまいです。

だから「仮に名付づけて心となす」なんて言ったりします。

日本語に訳すなら『それ/これ』とか言うほうがふさわしいかもしれませんね。



「心、壁の如し」と言います。心は壁のようなものです。
壁ってどういう働きをしますかね? 

壁に向かって『おーい』と呼べば、壁はどういう働きをしますか?

壁にうなぎパイをあげれば壁はどういう働きをしますか?


そういったことを参究するといいですね。

「眼耳鼻舌身意」と言いますが、眼耳鼻舌身からの感覚がなければ、意は起きてきません。






Q.悟りに向けて進歩しているのかどうか不安なのですが・・・。

A.「悟り」って、どこかで聞いてきただけでしょ。悟りって、きっとあんな感じだ、こんな感じだというイメージがあるだけでしょ。だから危険なんです。


進歩っていうと、その勝手なイメージまでの距離を測り、どこまで進んだかな、なんてやってるんじゃないですか。

そのような行為を「念想観を測量する」と言います。測量はやめましょう。



悟りに用がないということにすればいいんです。
 
悟りたい、分かりたいという気持ちに用がある人は何してるかというと、
いつも追っかけっこしてるんです。
 

実際は手を叩くと「パン」だけで終わってるでしょ。


それで満足いかないのは「考え方」があるからです。





Q.事実を見ても、どこかすっきりしないのはなぜですか?

いつも自分の中に薄い膜が張っているように感じるのですが。



A.自分の中を整えようとしちゃいけません。事実そのものに学びなさい。





Q.「事実に学ぶ」とはどういう意味ですか?

A.事実は全て教えてくれてるじゃないですか。
湯のみ茶碗自身がそれ自身のことを教えてくれてるじゃないですか。




Q.実際に湯のみ茶碗を見ても、間違いなくこれだけ、のはずなのに、幸福感や安心感がないのはなぜでしょうか?


A.そこに参じてないからです。




Q.「参じる」とはどういう意味ですか?
 

A.すっかりこちらのものがなくなり、「事実」だけになった様子です。
 
事実に照らされている様子です。


自分の持ち物は全て事実に照らされてなくなります。


湯飲み茶碗をこうやって見れば、これに何の疑いもないでしょ。

そこに安心がないというのは、参じきってないんです。

人間ってね、頭の中でイメージを勝手に作りあげ、
それと実物が一致すれば分かった気になって納得するんです。


でも本当は実物だけなんです。



頭のいい人が修行すると大変ですよ。一を聞いて十を知っちゃうんですから。

「パン」と聞いただけで、ざーっと理路整然といろんなものが出ちゃうんですから。


頭ではなく体に任せてみなさい。




● みなさんは、本当に物があると思っていますからねぇー




●本当に事実に触れれば、底が抜けてすっきりしますよ。

 



▷井上貫道老師の師・井上義衍老師のことば
 井上義衍老師とは

今日、昔の人のように本当に大悟などできるものかという人が多いけど、これはうそです。
絶対にそういうことはない。
今日の人だって、必ずできるということです。

ただ、そういうことのあることを信じない。


それですから、せつかく坐禅儀などに方法も手段も説いてあっても、それをただ理解するだけであって、本当にやらんから分からん。


それだから、その体験がないから多数決でもって、そんなことが今日の人にできるもんか、と片付けたくなる。
 
もし本当に今日の人にできなんだら、経論みな焼き捨てにやならんです。教えんでもいいんです。


こんなことが本当にあります、というたって、
今日説明として残っているだけで、事実がないようなら
うそをついている。
 
そういうことになるでしょ。

 
(井上義衍『無相伝光録』 p41)
 

只管打坐の基本―坐禅入門8  東京都禅会by井上貫道老師


井上貫道老師の師・井上義衍老師のことば
  井上義衍老師とは→こちら
 ▷ 「我見をこれから離れるのではない。

我見の起る前があって、その前が自分の真実です。

それが本来の私共の心の在り方です。


空にする前に空であった事実がそのままズバーッと、みな、それだけでいいんです。


それをやると、必然に人我の見というものが、みな離れる。それが「道」です。
坐禅の一番大事な様子です。
 
作り手も、作られてもなしに生じ、生まれてくる。
知らずに出来たという、その根底まで、必ず落ちるに決まっているのです。

他に行き場所はないのです。決定的に落ちるんです。」




▷ 「五感というものは正直なものですから、その縁のまんまに受けるんです。

それが、ただそのまんまに受け入れられるようなところまでいけば大丈夫です。

ところが今の私共には、そこまで本当にいかんのじゃから、
縁に触れると、そこにすぐ心がついて動いてゆく、
そういう点を大いに警戒したほうがよい。

人の為に何かいいたくなる、やりたくてしょうがないという、
そういう気持ちが先に動きますというと、
自分の修行というものは結局できなくなる。」 

                                                        以上 井上義衍老師

----------------------------------------------------


 禅 茶話会続き~2012年9月井上貫道老師東京都青梅禅会⑧
2013年04月17日(水) 




inouekandoroshizazen2ske2各参加者からの質問に貫道老師が答えました。


 
(主催者)
あのー、そろそろ、時間が迫りました。
何か質問のある方はどんどんご遠慮なく聞いてみてください。




(参加者)
考え方を止めようっていう事ですけども、

座ってて考え方を止めよう、
 
そうすると、また自分の考えでもって、自分の考え方を止めようとするとまた自分の考え方を使ってる事になると。

 
いつまでたっても終わらないんですね、考え方止めようとまた次の考え方、、、

 
結局座っている時間中追いかけていって終わらない




―それは、考え方を止めるって事がどういう事かわからないから
やってるんです。




(参加者)
それで、ある時、今老師の話を伺ってまして、
今、こういうふうに聞こえてる、
見えてるってとても大事な事だと、
今までのお話を伺ってる時に、あっそうだと強く感じた事がございまして、
あっそうか、そうか。
 

なんか非常に気持ちがスーッと楽になりまして、
今までこう気張ってた事が全部とれちゃいましてね。。。
 

気持ちが素直になっちゃうと、もう何でもよく、
考えとか、余計な事が必要なくなると。


そういう気持ちになった事がございまして、
だからやはり最初にそういう大きな気持ちがあれば、
あとはずっといれるんではないか、
という事がありますので、
ただ、それが一時的なものであって、
どういうふうにしたらよろしいかお伺いしたい。





―だから、これに尽きるんですねえ。

(バシッ)

こうやって音がしてるだけでいてみる、
それが考え方を止めてる証拠です。



こうやってものが見えてるだけでいてみる、って事が
考え方を止めてる証拠です。



人が喋ってる時にその話がその通りに聞けてるだけで
いれるって事が考え方を止めてる証拠です。



お茶飲めばお茶の味がきちっとしてるって事が
考え方を離れてる証拠です。



それに対して次の段階で、
それが、なんだって
ふうに出てくるんです。

それもただ音が聞こえる、
それなんだって
自分の事がそこで動いただけですから、
それだけです。

それだけなんですねえ。



思いって振り返ってみたらわかるように、
今思ったって事がわかった時に
初めて思ってたって事が取り上げられるんですね。



もっといえば、
思いが出てない時は、思いがあるとかないとか一切ないじゃないですか。


どうしなきゃいけないって事一切ないじゃないですか?


だけども、思いが動いた時でなければ、思いっていうのはないもんだから。

で、思いが動いた時にみてると、取り上げようと思った時にこの通りじゃん。



(バシッ)



音がしたんだけど、
今音がしたって取り上げようと思っても
音がないじゃないですか。



思いもそうでしょう。



さっきあーいう事思ってただけじゃないですか。

さっきあーいう思いが自分に生まれたってだけじゃないですか。



違いますか?


それを気がつくだけでしょう。



(参加者)
それ逆なんじゃないですか?
事実の見たもの、聞いたものは、もう消えちゃってる。
 
ものだけがひっぱってる、いつまでもある。
 
思いは消えちゃわないでいつまでも残ってる、だから悩むんじゃないですか?




―どうでしょうか?

皆さんどうですか?




(参加者)
よくあのー、どうこういう事が止まないんですけどっていう人多いですよね。
 
その時にそれを止めればいいじゃないと言われるでしょう。
 
それとまさにその思いがどうこうって止まないんですよ。と言った瞬間だけですね、
出てきたらこう。

で、それをぱっと気がつけば、叩いたのと同じように、消えてるわけですよね。
取り扱った時だけが、問題起こしてるだけですから。


今まではそれを止めろって言われたら、なんか言葉の綾で
ばんと言われただけだと思ってた、
正にそれ、適切にそれを言ってるんですね。

やっとちょっと気がつきました。




―だって、言葉だって、喋ってる時だけしか喋ってる様子はないでしょう。

それだけなんです。


思いも、思いが出てきてる時、
そういう動きをしてるだけであって、
その後にも先にもない。



もっというと、

次の思いが出てくる時はこれを見てると同じように
次の様子が出てくると前の様子は自然となくなるんですね。



前、見てた様子はこうやったらないでしょう。
ありますか?




(参加者)
あの、現実はそれはなくなりますよ、




―現実です。




(参加者)
だけど、思いだけが、
ずっと引きずっていくから、
問題がいろいろ起きるんじゃないですか?

消えないから。




―だから見てよ。消えてるかどうか。


じゃあ、言葉でちょっとやってみますがね、
昨日あの人にひどく殴られたよ、腹立ってるんだよって。


私が今やって、

そういや、さっき、
子供が遊んでたなー

っていう思いを起こした時に、
さっきの思いの事をその時やってるでしょうか。


やってないから、今子供があんなふうな事してるって事になるんでしょう。


もし、さっきの、その前の思いがあったらこんなふうにはならないでしょう。

入り混じっちゃって、思いが。



二つの事同時に思えないですよ。人間って。




(参加者)
そうですか?



―思いません。

必ず順番にやってく。



あれもこれも、
っていったって見てください。


あれも。


これも。

です。



あれもこれも一緒にやってません。


あれも。
これも。
それも。
これも。


何もかも
っていうけども、

何も。

かも。

です。



ひとつひとつ、

みんな、

です。



実際に、そういうふうにしかやってません。


体の動きもそうです。


いろんな事をするっていうけど、
よく見てると、
ひとつひとつ、その事をやってるだけです。


そんな単純なんですよね。



だけど、頭の中の構造は、ものを推察する時に、
そういうふうに見ないんですよ。



おっしゃる通りなんです。

ずーっと前の事が、残っているように、

そういうふうに観察してるんですね。



だからそれはね、もう一度、丁寧に自分の事ですから、
どういうふうになってるかを思いが起きた時に触れてみてください、
 
それではじめて、少しずつこうやって
 
あー、なるほど
 
って思える、

 
それまでは、なかなか言う事きかない。


 


まあ、百人中百人、恐らく同じなんですよね、
正解なんです、何さんの言われる事が。


それくらいにしか見てないんです、自分の思いに対して。



それだから厄介なんです。



話しても話してもなかなか通じない。





(老師、黒板に線をひいて説明する)

思わない時はないし、

思った時にはここで思って、

この間なくて、

ここで思って、

こうやって思うとですね、


ここで思ったものは、ここで思うとですね、
ずーっとなくならずに
あるように思うんですね。



これが、まず見てない事です。


また思えると、

あーやっぱりなくなってないじゃないか

っていう見方をするんです。



だけど、よく見ると、
この間は何にも思ってません。
そんなことは。



そういう事がわかってないんです。

だから、この間は何にも問題起きてません。不思議に。


この思いが起こった時にここにあるんだけども、
忘れて、
また同じ思いがここに出てくるまでの間は
思ってませんから
この時苦しんでいる人はいませんね。


だけど、これがまた同じようなこと、
二度目に思えると、
やられるんですね。


ほら、やっぱりなくなってないじゃないかっていうんだけど、
これはさっきの事ではないんですね。

さっきの事ではない。


(黒板を指して)

さっきはここで思った事。


これはここで思ってる事であって違うんです。



それはいつも申し上げるように、
ご飯何回も食べるけども
一回、一回初めて食べるのと同じです。



だけど常識的には、またお昼ご飯かというような言い方になるんですね。

だけど内容は違うんです。


だからこうやって自分の本当のあり様を一度見極めてもらわないと
普通にしゃべってる事がですね、
本当は違うんです。
それが誤解と自分で思うんです。





(参加者)
じゃあ、よく知り合いの人なんかで、ずーっとなんか考えちゃって
困るわーっていう人いるんですけど、

ずーっと考えてるわけではないんですよね?




―ずーっと考えてる人なんていません。




(参加者)
ずーっと考えちゃってて
その事で頭いっぱいで何もあまりできないのよ
という人いるんですけど、
ずーっと考えてて半年過ぎてるわけじゃない。
 

―あなたのところに来てね、
「考えてて頭いっぱいで何もできない」って
言ってる事自体が、みてください。

 
自分の思ってる事と違う事やってるじゃないですか。
 
既にしゃべれてるじゃないですか。

 
頭いっぱいで何もできないのではなくて、しゃべれてる。

 
それなのに、自分は頭いっぱいで何もできない、
 
そういうふうに思ってる。

 
それくらい違うんですよね。
 


引用元


⑨へ続く

 




☆井上貫道老師は悟りを開き、仏道を体得された方です。

厳しい修行を長年したとかではなくて、正師の指導による正しい修行によって、釈尊と同じ体験をして自己を明らめた、悟りを開いた、事実を見届けた方です。




井上貫道老師の坐禅会は、本来仏道修行や坐禅修行は、初心者、経験者、久参・古参、関係がありませんので、初心者歓迎です
従いまして、坐禅がまったく初めての方や今まで仏教を学んだことのない方でも参加が可能です。

 坐禅作法についてはこちらで予め練習しておいて下さい

☆掛川市少林寺(曹洞宗認可参禅道場)の井上貫道老師(前の住職)の坐禅会が全国であります。
これは各地の道心のある主催者が、貫道老師を拜請して行われている坐禅会です。

従いまして、それぞれに特色のある坐禅会・禅会となっています。


◆ 平成29年前半の井上貫道老師参禅会の予定
       1月  2月  3月  4月  5月  6月
福昌寺    13   3   3   7  12   2
成願寺    14   4   4   8  13   3
健康寺子屋 14   4   4   8  13   3
新宿禅会   15   5   5   9  14   3
中日文化セン28  25  25  22  27  24
円通寺    28  25  25  22  27  24
神戸      29   ー   ー  23   ー   ー
京都      30                    24
大阪      ー   ー  23   ー   ー  22
りんごの会  19   9  16  13  18   8
静岡      19   9   ー  13  18   8
福王寺     8  12  12  16   7  11
弘誓寺    31  28  28  25  30  27
竜泉寺    27  24  24  28  26  30


◆ 平成29年後半の井上貫道老師参禅会の予定
2017kohanschedule

















この一覧表で、金子 とは、下記詳細案内の「東新宿坐禅会」のことです。

今年の全国日程と、以後の変更については、嵩山少林寺フェイスブックページをご覧ください。
上記一覧表発表以後も、時として変更のある場合があります。


また真剣な参禅者は全くの初心であっても、直接井上貫道老師に相見に行き、法を尋ねることができます(相見しょうけん=師家との面談のこと) 事前にアポイントを取ってからお会いに行ってください。
井上貫道老師  少林寺東堂老師(前の住職) 〒436-0013静岡県掛川市子隣309 電話0537-22-5355
 貫道老師は、前の住職であって、2016年9月以降は住職ではありません。貫道老師にご用の場合は、自分の名前を名乗った上で、「貫道老師」と明確にお告げ下さい。

少林寺のアクセス:掛川駅で降りて、駅の北側(新幹線側は南口)の静鉄バス大東浜岡線 のりばから10分の「子隣」で下車 徒歩8分  バス時刻表⇒http://data.justline.co.jp/nanj/polelist.do?busstopcode=62010



なお、このページ、このブログhttp://zazen.blog.jp/ では、井上貫道老師のみの坐禅会をお知らせしています。
また、井上貫道老師が講師を勤められる攝心がある場合でも、インターネットでの告知が禁じられているものについては、当ブログ、当ブログ関連のSNSも含めて、ネット上には掲載していません。その情報は各地の井上貫道老師坐禅会で収集してください。



◆各禅会の日時、開始時間終了時間、参加費用(無料のものから3,500円乃至それ以上など禅会により異なります)

日程の確認は必ず主催者にしてください。




「坐禅の間には休憩時間がありますが、あれは休憩ってわけではないですよ。その時間におしゃべりしたりすると、人間は会話に引きずられますからね。せっかくの坐禅が台無しになってしまいます。」―井上貫道老師




以下日本各地での2017年現在の坐禅会情報です。
記載事項に誤りなどがありましたら、ご指摘いただければありがたいです。
ご指摘のコメントは、こちらからお願いいたします。

なお、会費と講本については、原則ここに記載していません。あらかじめ各坐禅会の主催者にお尋ねになるか、現地でご確認下さい。



東京地区、静岡地区、関西地区、岡山地区の順に掲載しています。



<<東京地区>>

恵比寿・福昌寺での井上貫道老師坐禅会
【場 所】 〒150-0011 東京都渋谷区東3丁目10−13
恵比寿駅西出口から駒沢通りを東に向かって数分歩くと明治通りにぶつかりますので、その交差点の横断陸橋を渡ると、鉄筋造りの寺院があります 角のビルの隣です
「渋谷橋」というバス停の前にお寺があります
電話:03-3407-1652
【地 図】 https://goo.gl/maps/053Na
【日 時】 基本月初の第一金曜日(変更のある場合がありますので、必ず主催者にお問合せください)の夜午後6時半から午後9時半くらいまで
【内 容】 坐禅と法話・質疑応答
【問い合わせ先】 電話:03-3407-1652 福昌寺

恵比寿の福昌寺は恵比寿駅から徒歩5分位のところにある鉄筋造りの寺院ですが、
歴史は大変古いようです 正式名称は渋谷山・福昌寺です
6階に坐禅堂があります




中野坂上成願寺での井上貫道老師坐禅会

【場 所】 東京都中野区本町2-26-6 成願寺(じょうがんじ)の南書院です。時々この南書院が葬儀などで使用されるときには、本堂地下の坐禅堂に変わります。
アクセス地図などは、http://www.nakanojouganji.jp/accessmap.html にあります。地図上に小さく「南書院」と出ています
なお、井上貫道老師坐禅会は、成願寺主催ではないので、寺院に問合せの電話はいれないで下さるようお願いいたします
問合せは下記にあります

【日 時】 毎月第一金曜日の翌土曜日が基本で行われています(なので第一土曜日とは限りません)
成願寺のサイトに予定が記載されています
(変更のある場合がありますので、必ず主催者の豊島徹禅師(成願寺の僧侶ではありません)にお問合せください 電話番号は下記です)

平成29年下半期予定(2017/6/4掲載)
7/8   8/5    9/2   10/7   11/4   12/2   


【内 容】 午前9時半から坐禅、昼食、提唱と質疑、後片付けと掃除終わって午後5時前散会
独参は坐禅中に希望者のみ受けられます
【講 本】『正法眼蔵』水野弥穂子校注、岩波文庫(一~四巻まで有ります 古書店を探すと文字の大きい大判ワイド版岩波文庫のもあります)
【会 費】 1,500円  テキストは会場にコピーあり(初参加の人用) 続けて参加される方は、自分用に講本をご用意下さい  2017年6月現在で、(一)~(四)のうち、(三)のほぼ真ん中「見仏」まで進んでいます
【問い合わせ先】 主催者の豊島徹禅師 ☎090-7288-4191

日程の確認は必ず主催者にしてください

【その他】初めての方は少し早い目に来られると、坐禅作法などを教えて下さいます
午後4時半に質疑が終わり、皆で内外の掃除をしてから、午後5時までには解散
会場をお借りした御礼に全員で内外の掃除をします

昼食必ず持参してください(おかずは主催和尚が供養して下さいますので主食のみ持参して下さい)



◆井上貫道老師四谷坐禅会

東京四谷の笹寺の健康寺子屋
f0581eff

会場 
笹寺 本堂
新宿区四谷4-4

参加費 
どなたでも1000円で参加できます。
たくさんの方々のご参加をお待ちしております。

※動きやすい服装をご用意ください(更衣室あり)



健康寺子屋のホームページに書いてあります

曹洞宗の老師・井上貫道老師は中野坂上成願寺(じょうがんじ)での
月初の土曜日の座禅会(9時15分~17時)にて、ご指導のあと、
中野坂上から四谷に移動されます

詳細は健康寺子屋のサイトをご覧ください 










◆井上貫道老師東新宿坐禅会

2016年10月より井上貫道老師を毎月お招きして坐禅会を開催します。
毎月第1又は第2日曜日 9:00~12:30
日程や時間の確認を必ず主催者にしてからご参加ください

主催 金子 閑道 080-4466-6934
※ここは個人マンションに付き場所が狭いので収容人数が少なくなります 土曜日の成願寺に行ける方はできるだけ土曜日にご参加ください
とのことです

●主な内容:坐禅 3炷、質疑応答、独参、清掃後解散


●定員16名

※参加費2000円(当日お支払い下さい)

 
●問い合わせ・申し込み
 主催:金子閑道 080-4466-6934


●会場  クリオ新宿戸山壱番館 101集会室 新宿区新宿7-3-35
 来場の際は上記に電話しオートロックを解除し入室下さい

 ・都営新宿大江戸線 若松河田駅 河田口 エレベーター

  ⇒ 職安通りを渡り直進、大久保通りを左に徒歩8分 総務省統計局の隣の隣です

 ・副都心線 東新宿駅 B2 エレベーター

  ⇒ 大久保通りを飯田橋方面に徒歩8分

shinjukuzazenkaikaijokanekohousekenkoshome















図が小さいので見えにくいですが、図の右端が大江戸線「若松河田駅」、図の左端が副都心線「東新宿駅」です  総務省統計局の西隣のさらに西隣です




<<静岡地区>>

◆井上貫道老師静岡市鯖大師坐禅会
【場 所】 静岡市駿河区稲川1-3-17  崇福寺(鯖大師)万松閣:門を入って右手白い建物2階です
JR静岡駅より徒歩約7分 
【日 時】 毎月一回木曜日夜6時半から9時まで 
日程の確認は必ず主催者またはこちらからしておいてください

【会 費】 一回1200円
【講 本】『正法眼蔵』水野弥穂子校注、岩波文庫(一~四巻まで有ります 古書店を探すと文字の大きい大判のもあります)
【問い合せ先】 ☎054-284-1057 川上宅    090-5856-1712 川上ふさ子

【その他】 25年続いている坐禅会 テキストは『正法眼蔵』
関連ブログ:http://blog.livedoor.jp/lrf6662/archives/cat_634792.html
関連ブログ:http://ameblo.jp/10wanko28/entry-11528265009.html




◆井上貫道老師福王寺坐禅会
【場 所】 〒438-0084 静岡県磐田市城之崎4丁目2722−1 福王寺
【アクセス】 JR磐田駅前からバスが出ています
http://info.entetsu.co.jp/navi/pc/dispjikokutable.aspx?tp=HTML&bs=260120&pn=2&nw=0
城之崎下車 北へ徒歩    磐田駅からの徒歩でもそんなに遠くないです
【日 時】 午前中です
日程の確認は必ず主催者にしてください
【内 容】 坐禅と法話と質疑応答
【問い合せ先】 ☎0538-35-7272 福王寺

磐田の福王寺は大変歴史の古い名刹です




◆ 井上貫道老師・磐田「りんごの会」 お母さん方の勉強会 (日程は変更になる場合がありますので、直接
  ご確認下さい) 本音をぶつけるお母さん達のユニークな勉強会
【場 所】 磐田見付公民館
【内 容】 お問い合わせ下さい
【問い合せ先】 問い合せ先 ℡0538-37-3068 主催者 高梨和子

 




◆ 井上貫道老師川根「大泉院」坐禅会 (日程は変更になる場合がありますので、直接ご確認下さい)
【場 所】 静岡県榛原郡川根本町徳山993
【日 時】 今年は実施されていないかもしれません
【問い合わせ先】 掛川の少林寺 電話0537-22-5355 にお問い合わせ下さい








◆火曜日の夜の浜松・弘誓寺での貫道老師坐禅会
【場 所】 〒430-0824 静岡県浜松市南区富屋町6 弘誓寺(ぐぜいじ)
053-425-5099   浜松駅からバスがあります
遠鉄バス8番のりばから「掛塚」行きに乗り、立野で下車
【日 時】基本月最後の火曜日(変更のある場合がありますので、必ず主催者にお問合せください)
【内 容】 坐禅と法話・質疑応答
【問い合わせ先】 ☎053-425-5099 弘誓寺(ぐぜいじ) 
【地 図】 https://goo.gl/maps/yvHx6





◆浜松市東区半田山・龍泉寺での井上貫道老師坐禅会

【場 所】 〒431-3125 静岡県浜松市東区半田山4-18-5 龍泉寺  浜松には同名の龍泉寺がいくつかあります
【日 時】 基本月最後の金曜日の夜6時半から午後10時まで(変更のある場合がありますので、必ず主催者にお問合せくださるか下記の龍泉寺公式サイトでご確認下さい)
※宿泊希望者はあらかじめ龍泉寺のご住職(井上哲秀老師)とご相談ください
【内 容】 坐禅と提唱と質疑応答
【主催者】 龍泉寺東堂・井上哲玄老師 龍泉寺住職・井上哲秀老師
【問い合わせ先】 龍泉寺☎:053-434-0935 FAX:053-434-0859

龍泉寺公式サイトにも最新予定が掲載されています 「金曜坐禅会」というのが、井上貫道老師の坐禅会です

ここ龍泉寺は、井上貫道老師の師・井上義衍老師が仏道指導を長年された寺院で、曹洞宗公認参禅道場です   貫道老師にとってはご実家(実寺?)になります


【アクセス】
① JR浜松駅北側の遠鉄バス13番乗り場で「浜松医科大学」行きに乗り(1時間に5本くらい)、「半田山」(浜松駅から約40分~50分、420円)下車 徒歩5分 バス停は「半田」ではありません 「やぶきた入口」より近いです
浜松駅医科大学方面行き時刻表はこちら

② JR浜松駅から、徒歩5分の遠州鉄道新浜松駅に行き、そこから乗車、「積志せきし」で下車、そこからタクシー(2,000円くらい) または徒歩25分(道は一本)
遠州鉄道新浜松駅の時刻表はこちら


龍泉寺の場所 静岡県浜松市東区半田山4-18-5
地図は http://goo.gl/maps/WL2ST


※井上貫道老師の著書『げんにーび』の通信販売について
嵩山少林寺禅道場のフェイスブックページにも書いてありますが、

書籍をお求めの方へ
「少林寺では義衍老師の書籍の通信販売はいたしておりませんのでご了承下さい。
義衍老師の書籍をお求めの方は、浜松の龍泉寺様へお問い合わせ下さい。

貫道老師著『げんにーびー』(定価1,000円)
の通信販売に付きましては、本代と送料込みまして1,400円を現金封筒にてお願いしております。

送り先 郵便番号住所と氏名  電話番号  冊数 を明記して、
 少林寺FAX番号0537-64-4008へ  少林寺電話は0537-22-5355
 
2冊以上のご購入をお考えの方はご連絡下さい。
貫山 合掌」


とのことです。 







<<関西地区>>
H29貫道老師坐禅会予定
















神戸 井上貫道老師坐禅会
・3ヶ月に1回の、神戸楽の森での井上貫道老師坐禅会(1月2月4月5月7月8月10月11月の基本第四日曜、年間8回) 正確には、第四土曜日の翌日の日曜日ですので、第5日曜となることもあります
円通寺での貫道老師坐禅会の第二日目(早朝)と同じ日になります
主催は神戸大阪坐禅会

【時 間】 11:00~17:30 ( 井上貫道老師神戸坐禅会のサイトで確認のこと )
【内 容】 坐禅4炷と独参と提唱と質疑応答、斎座(昼食持参)

【その他】 
昼食とお茶などの飲み物 持参
人数分の座布(坐禅用の丸いクッション)と その下に敷く 座布団(四角く分厚い布団)が用意されていて、快適に坐禅ができます
また空調もあります
 
【申込制 定員あり】 楽の森での井上貫道老師坐禅会の詳細はこちら
定員があります インターネットでの申込制です 開催日の3ヶ月前から申し込み開始となります



井上貫道老師月曜坐禅会
2015年1月から、1月4月7月10月の基本第四日曜の井上貫道老師神戸坐禅会の翌日月曜日に、場所を変えて京都四条烏丸で、井上貫道老師京都月曜坐禅会が行われていましたが、主催者都合により2017年からは大阪にて行われます
主催は、京都大阪坐禅会

【会 場】 

【時 間】 10:00~17:50 ( 井上貫道老師月曜坐禅会ホームページで確認のこと )

【内 容】 坐禅6炷と独参と提唱と質疑応答、斎座(昼食持参)

【その他】 昼食とお茶などの飲み物 持参

【申込制 (定員24名)】
インターネットでの事前申込制です 開催日の3ヶ月前から申し込み開始となります
井上貫道老師月曜坐禅会の内容や申し込みはこちら




大阪 井上貫道老師坐禅会
大阪池田の古道場で定期的に井上貫道老師をお招きして、坐禅会が開催されています
環境も素晴らしいです
3月6月9月12月の年4回
2017年は、平成29年3月23日(木),6月29日(木),9月21日(木),12月21日(木)
主催は大阪坐禅会

【日 時】 10:00~17:50 ( 井上貫道老師大阪坐禅会ホームページ で確認のこと)

【内 容】 坐禅5炷と独参と提唱と質疑応答、斎座(昼食持参)

【その他】 昼食とお茶などの飲み物 持参

【申込制 定員あり】
定員があります(30名) インターネットでの事前申込制です 開催日の2ヶ月前の正午からネットで申し込み開始となります。
井上貫道老師大阪坐禅会の内容や申し込みはこちら


大阪坐禅会における井上貫道老師提唱と質疑のDVDを販売しています
  DVDのご注文は、こちらから  ※売上は、坐禅会運営i.e.会場費と備品代に充当させていただきます



上記の神戸坐禅会の講本である、
講本該当部分のプリントも都度配布されます

その他
井上貫道老師の著書『げんにーび』 定価(税込)1,000円 
井上義衍老師『無門関提唱録』(3冊組 箱入り) 定価(税込)8,750円
井上義衍老師 『無相伝光録』  (2冊組 豪華製本 全1,000ページ) 定価(税込)30,000円
 も現場で頒布 在庫なしの場合はご容赦下さい
 
※伝光録は、太祖瑩山禅師が釈尊からはじまる祖師方52人の大悟の機縁をまとめたもので、それをさらに井上貫道老師の師・井上義衍老師が提唱されたもの  宝財として学人の机上に置いておいていただきたい貴重な書籍です 残り部数わずか





<<中国地区>>
・岡山新倉敷の円通寺での井上貫道老師坐禅会
【場 所】 〒713-8123 岡山県倉敷市玉島柏島451 円通寺
【地 図】 https://goo.gl/maps/HGFWF
【日 時】 基本第四土曜日の夜と翌日曜日早朝から (変更のある場合がありますので、必ず主催者にお問合せください)
日程の確認は必ず主催者またはこちらからしておいてください

【内 容】 坐禅と独参と作務と提唱・質疑応答
【問い合わせ先】 ☎086-522-2444  円通寺  早朝の暁天坐禅のあと粥座(おかゆの朝食)がありますので、
その準備の都合上あらかじめ円通寺に参加をお申し出下さい


宿泊される方は、隣の国民宿舎良寛荘が一番円通寺に近いです。
第二日目の日曜は早朝から坐禅・独参があります 独参は希望者のみです
粥座(朝食)・掃除・提唱と質疑応答


玉島の円通寺といえば、若き日の良寛禅師が大忍国仙禅師に就いて修行された道場で、良寛さんが悟りを開かれたところです
ryokando













 
以上は、日本各地での2016年現在の井上貫道老師坐禅会情報です。
初心者、経験者、久参・古参、関係がありませんので、初心者歓迎です
従いまして、真剣な方なら、坐禅がまったく初めての方や今まで仏教を学んだことのない方でも参加が可能です。
その他、井上貫道老師の坐禅会・接心がありましても、非定期的に開催されるもの、ネットでの告知が許可されていないものは、当ホームページには記載していませんので、ご了承下さい。

それらについては各地の井上貫道老師坐禅会で情報が入手できる場合もあります。


★各地坐禅会情報についての記載事項に誤りなどがありましたら、ご指摘いただければありがたいです。
ご指摘のコメントは、こちらからお願いいたします。

なお、会費と講本については、原則ここに記載していません。現地でご確認下さるか、あらかじめ各坐禅会の主催者にお尋ねになってください。



◆ あと、もう少し坐禅会情報があります それはこちらをご覧下さい



★ どなたでも自分の地方で坐禅会が開催できます★







はじめて坐禅会に参加する方も関係なく井上貫道老師の坐禅会がおすすめです
修行は積み重ねではないので、坐禅修行に初心者とかベテランとかありません
余計な知識のない分、初心者のほうが良いと言われます


ただ、座禅の作法や坐の組み方などがありますので、
 坐禅作法についてはこちらで予め練習しておいて下さい




  摂  心

◆一日中坐禅修行に打ち込む摂心(攝心せっしん)という期間があります
現在公開されている攝心情報はありませんが、ネットで公開されていないものがある場合があります
井上貫道老師各地坐禅会で情報をお取り下さい




【 摂心の時の井上貫道老師の提唱から 】

● 坐禅の間には休憩時間がありますが、あれは休憩ってわけではないですよ。その時間におしゃべりしたりすると、人間は会話に引きずられますからね。せっかくの坐禅が台無しになってしまいます。

  でも自分たちが自分たちの場をおしゃべりして壊すんですね。


● 生きているうちに片を付けないと、ものにならないですよ。
使えません。

できるだけ若いうちに決着を付けて、長い間役に立ってください。

だから修行をぐずぐずしないこと。




● 近い人も遠方の人も、わざわざこの寺に来て接心しようというわけですから、社会のことをここまで持ち込むのはもったいないですよ。

世間のことは打ち捨てて坐ってください。




● 本気になって求めると言ったりしますが、本当に坐りたければ坐るもんですよ。

他人がおしゃべりしてようが、寝てようが、そんなの放っておいて坐りますね。




●本当に気になっていれば、四六時中そのことが心から離れないですよ。

気にかかっているものを放っておけるわけがないんです。




● 「言うとおりやってみようか・・・」なんて遠慮がちにやるからスカッと行かないんだね、半分ぐらいの人は。(笑)





●「作務」は、一般の仕事とはちょっとおもむきが違います。

ただそのことをそのこととしてやるだけです。

人のためやお寺のためではありません。


―井上貫道老師





 あと、もう少し坐禅会情報があります それはこちらをご覧下さい




↑このページのトップヘ