坐禅の仕方と悟り,見性,身心脱落:井上貫道老師の庵 まとめブログ

Dharma Talks of an enlightened Japanese Zen Master Kando Inoue Roshi 井上貫道老師が、悟りを体現された経験から坐禅の方法や仏道について語られたものを掲載しています web上に散見される井上貫道老師のことばも引用掲載し、まとめブログとしました ( これは参禅者によるブログであり、公式サイトではありません ) このブログが正師への参禅のきっかけになりますように

タグ:只管打坐

「事実」に触れるためには、実践してみる



「本当に『事実』に触れると、今まで体験したことがないものだから、驚くんです」


本当にこういうことの内容に触れたかったら、やってみるしかないんじゃないですかね。

やらないで評価してみてもどうしようもないと思う。

やったら自ずから分かるようになってる。


実践するまでは修行をしているとは言えない

触れあっていく中でだんだん、あの人の言っていることはどういうことなんだろう、じゃ一度本当にやってみようっていう風に変わった時に初めて、この仏道の修行になってくるんだろうと思う。

それまでは仏道の修行ではないね。



坐禅中の「思い」の性質、「思い」の対処法


坐禅中の思いは自分で起こしているのではない

坐っている(=坐禅している)時にいろんなことが出てくるというのは、自分で思い起こしたことはほとんどない。出てきたものに気が付くだけですよ。

出てきた時に出てきた通りのことがあるだけで、終わっていくんですね。重なることはない。


坐っていて(=坐禅していて)精細に自分の様子に親しくいないと、自分で思いをつけて過ごしているか、そのままでいるかということが、容易に見ることが出来ないね。そのくらい瞬時に起こるものですよ、思いって。


「思い」の評価はしてはいけない


出て来るものに対して、人って本当に不思議なくらい評価するんだよね、自分で。

その評価が自分の中で混乱を起こす。


どんなことが思えても、それによって人が苦しむことは、本当にない。

出てきたものに対して自分の思いがくっついたことで苦しむ。




――井上貫道老師17/3/23提唱から 【3/23提唱DVDからの抜粋】 
DVD製作者様による文字起こしになります
不明点、疑問、足らないところは、坐禅会への参禅をお願い致します  実践して何か体験を得た場合も正師への参禅が必須です


【重  要】
神戸楽の森「坐る会」のサイト https://tinyurl.com/kobeteisho
にも、井上貫道老師の神戸坐禅会の提唱の一部が文字に起こされています。

大切なことを分かりやすく提唱されている部分ですので、ぜひ、ご覧ください。





「坐禅が進んで、内も外もなくなった人がいます

こうなると人生観が変わりますよ」

[ これが悟りだと言われているのではありません 念のため ]
ー(2014年夏の緑陰接心の提唱:接心3日目)井上貫道老師
 

(このブログは実践を前提に書かれています

更新がなくても、
今までの過去記事を
一番上のメニュー(スマホの場合はカテゴリー)から、
じっくりと学んでいただければ幸いです)




● 一般には、この身を境界として、自分と自分以外に分けて考えていますね。
 
いわゆる自分も、自分以外の世界も、自己と言います。






niwa
● この身だけが自分の様子ではありませんよ。

何から何まですべてが自分の様子です。









● 本当は目、耳と区切ることはできないんです。

これら全部が自分の様子、全体です。






● 大抵の人は、自分に入ってきたものを、あとから眺めているんです。

だから満足できないんです。




● 「音、音、音」じゃないですよ。「ザワザワザワザワ・・・」、これだけですよ。

「ザワザワザワザワ・・・」、これこそが本当の受け身というんでしょうね。




● 坐禅をどうしたらよいか知らないもんだから、
坐禅して少し心が静まってくると、すぐに居眠り坐禅してしまうんだね。

長年参禅している人は、たいてい寝ていますね。
10年、20年坐禅している人は皆そう。

寝ることは坐禅とは言いません。




● 専門家に坐禅を指導すると、

「今日は、よく坐れました(=よく坐禅出来ました)」

とか

「今日はあっという間に坐禅が済んだ」

とか感想を述べますけど、そんな程度なんだね、専門家でも。


そういうのは坐禅とは言いません
[ 専門家に対する批判ではなくて、坐禅会のわたしたちも、そうじゃないですか? と言われているのです ]





● 道元禅師の『普勧坐禅儀』に則って坐禅することが不可欠なんです。
   普勧坐禅儀 ふかんざぜんぎ

 http://zazen.blog.jp/archives/cat_958258.html
にて学んで下さい




Q.
普段から修行や正しい行いを続けて行こうと思うのですが、なかなか忙しくて難しいです。
継続していくのが大変だなと思います。

A.
考え方として申し上げるならば、こうやれば楽になるんじゃないですか -- 
 
つまり、これからずーっとそういうことが出来るかと考える必要がない。
 
今、きちっと出来さえすれば。ただそれだけなんですね。


人間て不思議ですね。
 
こういう状況がずーっと続かないといけないって思っている。
 
でも実際は、今のこの状況が続くなんてことではなく、
いつも今のこれがきちっとできるかということだけです。
 
今日一日出来るかしら、なんて、そんな長いことは考えない。
 

今やってることがちゃんとそこで出来ればそれでいい。


こういう話をすると、「今、今、今って、そんなことだけやってるのは、たまらん」という人がいる。 

考え方だとそうなっちゃう。

「これ飲んだらこれだけ」「これ食べたらこれだけ」なんて、
それは考え方。


普通、
これ飲んだら、自ずからこれを飲んでいる時だけの様子になるし、
食べたら食べた時だけの様子に、必ずなっているんです。

心配ない。






Q.
坐禅をすると、わーっといろんなことが出てくるんです。

A.
実際には普段から出ているんです。

でも普段はいろんなことで気が紛れているから、出ていることに気がつかないだけです。


坐禅をしていると他のことが収まるから、
いろんなことが出ていることに気づくだけです。


その出ていることを抑えようとするのは、かえって心を騒がしていることになるでしょ。

だって、出てきてしまったものをあとから無くそう無くそうとしているわけだから。


出てきてしまったものはどうしようもないのに。
 


そうではなく、
出たものを出たままに、何も手を付けずにいれば、
全然心を煩わさないよね。

これが本当の「心静か」ってことです。





● 仏道修行は、
今ここ で修行します。

「今」というと、「この瞬間だ」と言って、
「イマッ!」と切り出そうとしますが、
今はそんな風になっていませんね。





● 本当に「今の様子」それだけを見ている時は、それだけだっていうことも分からないはずです。
 
だって、「これが今の様子か」なんて余分なことが出てくる余地がないんだから。





● 修行は「思い」ではないんです。

「こうやればいいんだ」って方程式を立てておいて、それに沿ってやることではないです。




● 参禅は、「今の自分自身の様子」に参じることです。

そのために見聞覚知の六根を開放するのです。




● 五官にまかせる とか 六根を開放するって、
見えること、聞こえることを 観察するんじゃないですよ。
観察する自分などいないのですから。

「見ている」「聞いている」って風じゃないです。

だれかが言いましたね。
「主なくて見聞覚知する人を、いき仏とは是をいふなり」

 [至道無難禅師しどうぶなんぜんじ:白隠禅師の師の正受老人の師]





● 坐禅を◯◯の方法で10年やって来ましたという人がいたら、
10年やってどうなったのですか?
と尋ねてみてください。





●概念だけを取り上げているんです、実物じゃなく。

それが人間の世界です。


実物があるにも関わらず、実物の話をしないんです。


仏道ってのは実物です、
扱うのは。


実物は私には必要ない、って人はいないですね。



宗派に関係ない。
宗教に関係ない。

こういうものが仏道なんです。


  この記事のタイトル中:内外打成一片 ないげだいじょういっぺん と読みます
 

(指一本立てて)こうやるだけで「自分」というものが死にますね
                       ー 井上貫道老師




「坐禅は修禅にはあらず」   ―道元禅師


●漫然と坐っている人は寝ちゃうね。

「何もしないのが坐禅」って言いながら・・・。
三十年も坐ってる人は必ず寝ますね。

今の様子に参ずるのが下手なんだね。

寝たら坐禅になりませんよ。





●これほどの事実に参じていれば、脳は刺激だらけで寝ようがないんだけどね。







●想(おも)いがやまるほどに、このもの(自分)が無限の活動をしていることが分かってきます。決して「心静か」なんていう状態ではないですよ。






● 「坐禅」というのは、今の実相、活動にそのまま親しくしていればいいんです。

「ただ坐る」というのは、事実、実相(じっそう)、この(自分の)一大活動に親しくいることです。


事実との間に距離がないからこそ「手を付けない」という表現になるわけでしょ。






● 観察するのではなく、事実のままにあることです。



car1_sensukandoroshi●(目の前の布を閉じたり開いたりしつつ)


人間って一瞬過去のことを相手にできますから、

記憶とのつながりで「閉じたものが開いたな」と思いますけど、

実際にはその時その時の様子があるだけですよ。





● みなさんからすれば「自分がこっちにいて、向こうでお坊さんが布を閉じたり開いたりしてるな」と思うでしょ。

本当はみなさん、自分ですよ、自分の動きですよ。







● こういうことを他のお坊さんに話すと「難しい」っていうんですよ。

みんな学問として仏教を研究してきてるからね。


すっからかんで話を聞かないから。





● 大道にはここからここまで、という端がありません。

「無端」です。






● 自分が素晴らしい存在だと思ってないから愚痴るんです。

自分に豊かなものがないと思うからむさぼるんです。







● 只管打坐の「管」の字は、よく「ひたすら」と訳されます。

でも宋代の意味としては「必ず」「確かに」です。

一番偉い人を管主と言ったりもしますね。



(手を叩いて)「パン!」


訓練も練習もしてないのに、必ずこうなるでしょ。



「パン!」


確かですね。







● 事実とずれがなければ「自分」が死にます。
 
(指一本立てて)こうやるだけで「自分」というものが死にますね。






● 自分自身が一番良い師匠ですよ。

自分の中でいろいろな動きがあって、それを見ていくことが自分を救う道ですから。






● 相手の話をあえてポジティブにいい方向で聞こうとすると、かえって良くないですね。

そのまんま聞くのが本当のポジティブなんでしょうね。







● 少し気を付けて坐禅を続けている人は変わってくるね。

ひとつ気が付いたらガタガタと変わっていくね。







参禅者:
先ほど老師が風呂敷を閉じたり開いたりして、

「これは自分の動きですよ」とおっしゃいました。

それがよくわかりません。




老師:
一般の人は、「自分」がここにいて「対象物」を見てる、という考えで生活してるでしょ。

だから自分が動いていることがわからないんです。





参禅者:
うーん、私が動いている、というのがやっぱりわかりません。


老師:
「私」というのが邪魔をしてるんです。

すこーし気を付けてやれば分かります。


お茶を飲むことと同じでしょ?




お茶は「自分が飲んでる」、

風呂敷は「向こうでやってる」

と思うけど、どちらも向こう側にあるものを受けてるだけじゃないですか。



お茶は自分の中に入ってくるから、いかにも「自分がしてる」と思いこんじゃうんですね~。



みなさんはこのことがクリアになってますか?

一般には、こんなことが仏教だとは思われてないんですね~。




別の参禅者:
自分のことだとはいえ、でもやっぱり問題にしちゃうんです。


老師:
そうね~。人は、問題にした所からしか物事を見ないからね。



だからこそ六根を解放して、まだ問題になっていない時点から物事を見る必要があるんですよ。
  ※六根=眼耳鼻舌身意





● 修行に時間がかかる人は、結局、言われたことをやっていないんだね。

 事実 [ 真理 ] より、考え方のほうが好きなんだね。


坐禅会での話を楽しんでいるだけなんだから。

そんなの何年やったって自分のものにならないですよ。





● 話を聞いて、実行したら、次回(の坐禅会で)、どうなったかを教えて下さい。

一ヶ月あるんだから。



 

井上貫道老師が坐禅会で話されたことばから


◇考えを「やめる」んじゃないですよ。

事実に即していれば、考えが「やまる」んです。

事実に触れれば念が切れるんです。 ―井上貫道老師





kandouroushi●坐禅中にいろんな考えが出てくること自体は「事実」です。

でもそれにひきずられたまま考えにひたっていると、「考え方」の世界に行っちゃいますね。


だからと言って『考えが出てきた、まずい』と思うと、それも考え方の世界ですね。



もちろん『考えないようにしよう』と努力するのも考え方の世界でしかありません。

考えが出てくるという事実に自分が関わって考え方に変えてしまっているんです。



実際には、つかむものなんて何にもないんです。



事実に即していれば、考えが「やまる」んです。

事実に触れれば念が切れるんです。 









●修行が進むと何事にも用がなくなってくるので、一見バカになったように見えます。

それが怖くて多くの人は頭を使っちゃうんですね。


大丈夫です、本当のバカにはなりませんから。





●なんでみんな自分の真相を知らないのかなあ。

一度だって自分から離れたことなんてないのにね。





●これから本当の生活をしていこうという人はいないんです。
常にいつも本当の生活をしてます。

誰だってみな、いつもど真ん中にいるんじゃありませんか。




●世間では、自分探し、ってよく言いますよね。

自分探しには坐禅が一番です。


なにしろ自分自身と一日中一緒なんですから。






●事実とか真相とかいうと難しく思うかもしれませんが、今のありよう、って言ったほうがわかりやすいかもしれません。






●「事実それだけ」って簡単に言いますけどね、事実を説明できますか?
今の自分の事実って、まあ、この部屋ですね。

この部屋の様子だって、言葉では言い尽くせないほどものすごい事実の量ですよ。
 
宇宙に匹敵するほどの膨大な事実を、たった一目見ただけで分かってしまう我々って、すごいと思いませんか?


そのすばらしさを自覚できれば、それでOKなんです。





● このように襖を開くと、まさに襖を開いた様子になるんですね~。

実に面白いですね。




● 自分の上に現れないものは、知ろうとしたって無理です。





● 耳に入らないものは音とは言わないです。





● 眼と物の関係はキチッとしています。
 
でもそれが認識できない認知症なんかは、頭のほうに原因があるんです。
 
眼にはちゃんと正しく映っています。





●「むなしく死ぬ」っていうのは、自分のことが解決できないまま死ぬっていうことでしょうね~。






●「生まれ変わり」といいますが、次の生に生まれてきたということは、歴史上一度もありません。

人生は一回こっきりです。

[仏典にしても祖録にしても、個人がまた次の人生に生まれ変わるということはどこにもありません。
道元禅師は、『辧道話べんどうわ』の中で、人が死ぬと身体から魂が抜け出るという思想を、「仏教の教えとは全く異なる」と激しく非難している




●「真理」は追い続ける必要がないものです。

いつだって真理のど真ん中で生きているんですから。追いかけるとかえって間違いますよ。





●「いい死に方をした」なんて言いますが、あれは残された人が、残された側の立場で言っているだけです。

死んだ人にとってはいいも悪いもありません。






● 頭の中に気になることが残っていると、雨の音が雨の音として聞こえないですよね。

ちゃんと聞こえている時は、きれいさっぱり他のものがなくなっているんです。

消すんじゃないですよ。






● 雨の音っていうのは、「ぱしゃぱしゃぱしゃぱしゃ・・・」(口で擬音)これだけです。

これに親し~く目を向けてください。







● 義衍老師の法話は、いつも同じ内容ばかりです。

それを私は何百回と聞いてきましたが、一度も同じと思ったことはありません。

この雨の音と同じです。毎回違う。
 

でも人間は記憶なんかがあって、それを引っ張り出して、前に聞いたことがあるな・・・なんて。





● 普勧坐禅儀の内容なんて、3行ですみますよ。「このこと」しか言っていない。






● 痛みが消えることはありません。
 
でも人間は、過去の痛みの記憶やら不安やらで、それを心の中で増幅してしまうことがあるんです。
 
ほんとうに痛みだけになれば、そういうことはなくなりますよ。






● 人は好き嫌いを起こしますね。これは事実に対して評価をしているということです。


事実が入ってきてからわずかに遅れて評価をしているんです。

でもわずかの遅れとはいえ、評価をする前の段階の様子が必ずあります。


そこに着目していくといいですね。






● 事実をそのままに入れていれば、実に静かですよ。

こちらに余計なものがなくなり静かになった分、人の動きもよくわかるようになります。

たとえば剣道で殺気を感じるなどといいますが、打ち込もうとする瞬間には必ずなにか動きがあるんですね。
そういうことがわかります。





● (首をさして)みなさんは、ここから上、頭だけで生きていますね~ 

 [考えだけで生きていますね~ だから真相は分からない]





● 考えを「やめる」んじゃないですよ。

事実に即していれば、考えが「やまる」んです。





●「音、音、音」じゃないですよ。「ザワザワザワザワ・・・」、これだけですよ。

「ザワザワザワザワ・・・」、
 
これこそが本当の受け身というんでしょうね。





●「精進する」というと、力を入れて何かよりよいものを目指しがちです。
そうではないです。
 
即処即処、今この様子そのものであることが精進です。
 

修行というと難しいことをするんだと考えがちですが、そうではありません。





●頭の中で想像したものなんて二束三文です。

いくら想像したって、実際に実物が目の前に現れれば、一目見ただけですぐに分かりますよね。

想像は全部吹き飛びます。


事実に触れれば念が切れるんです。






●初めて会う人でも、いったん見ればすべて分かりますよね。
あっ、こういう顔の人だな、と。

自分で分かるでしょ。

それのどこが人の真相なもんですか。



全部自分の真相です。






●ほら、玄関でピンポーンと鳴ってますね。

あ、誰だろう、とか思うと、もう真相から離れちゃいますよ。

事実はピンポーンだけです。


誰だろう、なんてのは後から出てきた想像にすぎません。





● (別の老師)この中には長いこと参禅しておられる人もおりますが、みなさん、どうも頭で理解しようとしている様子が見受けられますね。
 
頭で分かったふうになっても進歩はありません。


とことんまで聞いて、そのとおりやってくださいよ。


私もさんざん苦労したから言ってるんです。

せっかく [貫道]老師に来ていただいているんですから、もっともっと尋ねてください。






●坐禅をやらなければ疑問があるはずですし、しっかりやればやったなりに、さらに聞くこと
が出てくるはずですよ。







 

井上貫道老師が坐禅会の時に話されたことばから


●坐禅するということは、生地(きじ)のままでいることです。自分の生地に触れる時間帯が坐禅です。

 

●こうやってぱっと見ると、みなさん座ってますね。

全部一度に見えるんです。遠いとか近いとかは無いんです。

遠いとか近いとかは『考え方』でしかありません。人間が頭の中で遠い、近いと判断しているだけです。

 

●我々は普段、『考え方』を起こし、さらにその上で『どうあるべきか』なんて考えがちですね。
坐禅は、それを離れた生地の自分のままになることです。

 

●悩みや不安といったものは考え方の上に起こってくるものです。


 

●我々は生まれてから今まで、「事実」にいろんなものを付け加えて生きてきてますから、いざそのまま事実を見ようとしても難しいんですよね。

事実とほぼ同時に考え方が起きます。

厄介です。坐禅によってそれが取れて、素っ裸の心の生地になるんです。



●静かに座っているだけでは坐禅ではありません。

この自分の生地に触れることが大切なんです。

仏教のパンフレットには足の組み方や作法は書いてあっても、一番大事なここが抜けているんです。

世間の書物にも書いてないです。たぶん、どうにも書きようがないからでしょうね。

 

●修行して解脱するんじゃないです。
すでに解脱してるんです。
そのことに気づき、ああ、なるほど、確かに解脱してるな、となるのが坐禅です。

こういう実証方法を伝えてきたのが仏教のすばらしいところですね。

 
 

●解脱している証拠に、先ほどの事を今やっている人はいません。今は今の事しかやっていません。これこそが証拠です。




●左を見て右を見れば、もう目には右の光景が映っています。左の光景は残っていません。これが、目が解脱している証拠です。耳も鼻も同じです。


 

●失恋したショックで何も見えない、という人がいたら連れてきてごらんなさい。どんなにへこんでいても、茶碗を見せればちゃんと茶碗に見えますよ。それぐらい誰もみな解脱しているんです。




●腹を立てる人ってのは、右を見ている時にも左のことが頭から離れないんですね。そうなると、右のこともまともに見えなくなります。


 

●坐禅中にいろんな考えが出てくること自体は「事実」です。
でもそれにひきずられたまま考えにひたっていると、「考え方」の世界に行っちゃいますね。
だからと言って『考えが出てきた、まずい』と思うと、それも考え方の世界ですね。

もちろん『考えないようにしよう』と努力するのも考え方の世界でしかありません。

考えが出てくるという事実に自分が関わって考え方に変えてしまっているんです。実際には、つかむものなんて何にもないんです。


 

●ワン、と聞こえると、あっ犬だ、と思いますよね。

思ったその瞬間には、もうワン自体はありません。

つかんだつもりの時にはもう無いんです。

考えるより先に事実があるんです。後から考え方に変えてるだけです。


 

●良い、悪いといった考え方を外れなきゃだめです。

人の話を聞くときもそうです。

そうしないと本当にその人の話が聞けません。

良い、悪いを外れて聞くから大切に聞けるんです。

しかもそのほうが楽ですよ。


 

●考え方のほうに行くから迷うんです。

事実に目を向けることです。
今のありようのみです。
特別なことではありません。

我々はずーっと事実の中で生きているんです。



●科学の世界でも、自分の考え方を立てているとずれますよね。
事実のみを見ないと間違います。

無限の変化を無限なまま見ていくんです。

 
 

●医者はどうですか?
患者を診る前に自分の考えで診断しちゃいますか?

そうじゃないですよね、まず患者の状況を見ますよね。


 

●腹が立ったときに、その怒りがまた怒りを呼んでだんだん収まらなくなるのは、事実の側にいないからです。




●自分自身とは24時間片時も離れずにいるのに、自分を見るってことを、みなさんしないんですよね。

何か事実が起きたとき、自分に何が起きているかを知らないんです。

事実に対して最初の瞬間から腹を立てる人はいないですよ。





●反省、後悔、自己嫌悪といったものも、考え方の中にいる限り、そこから立ち直れません。

後悔する自分ではなく、生地の自分のほうにいなさい。



 

●私の師匠(井上義衍老師)は叱り方がうまかったですね。

子供の頃、さんざん叩かれましたけど、全然うらみに思わないんです。

きっと彼が心の生地のままに動いていたからでしょうね。



 

●生命が宿ったら、全ては最初からその中にあります。

樹を植えると、勝手に芽が出て根が伸びます。 
 
こちらは水や肥料をやってるつもりですが、実際は自分で育ってるんです。

水をやっても芽が出ない樹もあるし、ほっといても勝手に育つ樹もあります。



 

●物事を理解する力も、他からは来ないんです。

全て自分でその力を付けていきます。


 

●坐禅でも、これだ、というものが最初に正しく根付けば、あとはほっといても大丈夫です。


 

●自分の抱えている問題を修正しよう、なんてするとだめですね。

そんなもの、きりがありません。
人生終わっちゃいますよ。


 

●もう50歳だ、先が短いっておっしゃいますが、毎日が新しい日ですからね、歳なんて取らないんですよ、坐禅してると。


 

●疑問があればとことん質問して消化しておいてくださいよ。

疑問を抱えたままだと、坐禅中にその考えが出てきちゃいますからね。


 

●眠気が起こったら、ちょっとそれに気づいてあげればいいです。
気づけば眠気は去ります。
釈尊も『覚すれば即ち滅す』と言っています。

とはいえ、眠気が起こらないような体調や環境を整えることが第一ですね。




●真剣に道を求めて修行している人は、警策(木の棒)で叩いても大丈夫です。中途半端にやっている人は叩いてはだめです。おびえちゃいます。


 

●道元禅師は最初の頃、坐禅の効用を6つほど書いておられました。しかし最後のほうになると、効能書きを削除しています。たぶん坐禅がそれだけのものだと思われることを避けたかったんじゃないでしょうかね。



●坐禅は自殺しなくてすむ道なんです。 



 

禅 本物ちゃんとわかるようにできている~2012年9月井上貫道老師・東京都青梅禅会より⑤ 
④の続きです。


本物
ちゃんとわかるようにできている 

本物を見るのに、自分の余分な考え方を入れたらわからなくなりますよ。
本物は人に苦労かけずにちゃんとわかるようにできている

この中にお茶をいっぱい入れてさ、
こうやって飲むと、本物だから、必ずちゃんと味がします。
本物だから。

考えなくてもちゃんとわかる。

本物って、そんなに簡単なんです。

ちゃんとわかるようにできている。全部。


さっきいろんな野山の雑草や花や、見てきた。蝉や赤とんぼや、見てきた。

みな、今日実物に触れた。ちゃんとわかるでしょう?

曖昧だった人一人もいないでしょう?物の方は。

だけども理解の方になるとわからないでしょう?


これ何という名前だとか・

それは考え方の上だから。


考え方の方は知識がないとわかるわけがないでしょう。




だけど実物はそこにあるから、知識がなくてもわかりますよ。

どんな形をしているのか、どんな色をしているのか、色の名前を知らなくても、 
その通り見えます。

実物って、それだけ私達にすごい事をさせているんだけど、 
自分の実物、こんなに身近にある実物なんだけども、この実物を見極めた事がないから、

(パシッ 老師が机をたたく)

こんな事ひとつやっても、毎日聞いているんだけども、
どういう風に聞こえて、いつその音がどこですっかりなくなっているか
なんて事知らないじゃん。


だから朝、あんた何グズグズしているの?って、言われたのが、夜になってまで響くように思っている。

そんな事はないでしょうがこれ。 



(パシッ 老師が机をたたく)

それは音じゃないんだよ。
朝グズグズしてって、言われたのが夜わかるのは音じゃない。

その時しゃべってた声じゃない。

思い起こした働きなんです。全部。

実物じゃない、
そういう事皆さん、知るべきでしょう。


騙されないって事でしょう。 

本物と本物でないのを見分けできたら騙されないでしょう。

皆さんは実物と偽物を見分けつかないから騙されるわけでしょう。 


朝グズグズしててって言われて、夜になっても、こいつ、うるさい事言ってってグズグズ言う人は騙されている人でしょう。実物は言っ

た時しか、

(パシッ 老師が机をたたく)

音が出た時しか聞こえないようにできているのでしょう。

これが実物でしょう。 


(パシッ 老師が机をたたく)

やってみたらわかるでしょう。



(パシッ 老師が机をたたく)


もうどこにも聞こえてないでしょう。

だから問題にしなくて済むでしょう。


なんで、ここでいろんな言葉を聞いてると、いちいち自分を 不愉快にさせるのですか?



本当はいちばんやってみたい事は

まっさらで余分な考え方がついてないときの動きが、 

人がどういうふうな動きをしてるかって事を知った上でやらないと

人を縛る事になりますね、みな。



その代表が宗教といわれるジャンルです。

宗教ってものは非常に人を苦しめている。

例えば、人は生まれながらにして原罪というものを持っている、

罪を持っている、とかいうような事を誰が教えたか知りませんが 

そういう事を言って、だからそれを取り除くのが私達の教えだといって、

さあ来なさい、さあ来なさいと言って取り除くような話をする。

最初にそんなものはついてないのが本当なんですよ。



最初に何もついてなかったんです。だから優しい目で見れるんですよ。

ものを見る時に良し悪しを持って見てないから。

自分の眼(まなこ)が。



私達の眼ってそうじゃないですか?

初めは良いとか悪いとかっていうような考え方で見てない。

ただものに向かうとその通りに見えるように出来ている。

それだから優しくできるんでしょう。腹立たないです。見ても。 


もうちょっと大きくなっていろんな考え方が見たものに対して起きるようになると 

自分の思う通りになってないというふうな感覚があるから、そうすると腹が立ってるだけ。


こっちくる前に

ある修行道場にいた方が女性だけども、手紙をよこして、話を聞いてくれますか? 

っていう手紙だったから、どうぞって。

そしたら私が耳を傾けて聞いたところでは、(中略)

どんな事を修行してきたんだろうって思うぐらい、

なんでこんな事が修行だって思ってやってるのかなって思うね、やる方も。


で、お寺にいけば、トップの方に会いに行っても女性だからと行って、女性は来ちゃいけないって。

今の世の中ですよ、今の世の中で、男性が、女性がって、ここから入っちゃいけない部屋なんかないよね。

現代ですよ。
びっくりしちゃう。


じゃあ病院行ってあなたは女性だから診ない、なんてそんなとこないでしょ。

死ぬか生きるかって時に。

まあそういう事を話しておられて、あまり好感が持てなかった といっておりましたけど。 



私は基本的には仏教っていうのはこういう事をしてるって言って話をしておきました。

もう本当勘違いしてるんだね。

いわゆるノウハウを勉強してくるんですね。


鐘をどうやって鳴らすとか、
お経はどうやって読むとか、
儀式の時どんな事をするのかとか。

そんな事一生懸命勉強してる。



それも必要だっていえば必要だけど、人を救う上にほとんど役に立たない。

だってここにおられる方は別に家に帰って、どういうふうにお祀りの仕方をするとか、専門に別になくたって何にも困らないわけでしょ

。 



本当に必要なのは、自分がどうあったらいいかって事が問われているだけで、 
今の職業のままで毎日生活している時、どうやったら本当にいいかって事が問われている。

それを基本的にきちっと伝えていくっていうのが、修行道場の一番根幹でなければならないと思う。


だけど、そういう事、ほとんど欠落している、
あんた、お経下手だ、もっとじょうずになれとか、
お拝の仕方が悪いとか、
着物の着方がどうだとか、
こういう時に挨拶の仕方は、まあやらないよりはいいですよ。

できる方がいいのだけども、

それよりも基本は、本当にこれをいますぐやってもらいたい、

これは、何故必要かっていうと、この世に生まれた以上、自分の事は自分でやるしかないんだよ。 



自分の事を放っておいて生きられる人はないじゃないですか。 


一番身近な事でどうしても放っておかれないものは自分自身をよく知るって事ではないですか? 



健康面だってそうじゃないですか、
他人に任せておけないじゃないですか、これ、

自分がどうなってるか一番自分がよく知ってるじゃないですか、

いつ食べたの?
って聞いたって、お医者さんがその人に聞いたって、
答えなかったら推測するしかないじゃないですか。

だから本人は一番よく知ってますよ。

いつ食べた、何を食べた、どこで食べた、いつ頃からどこが痛くなったとか、
だけども、自分の事なのに、本当に無責任に生きているよね。

無責任に生きているんですよ。

人と相談事があってこうやって触れた時に、
それを聞いて、
自分の中で聞いた時に、 
(老師、体を指して)
どういうふうにこれがなっているのか。

まず聞いた時にどうなるかって。

聞いたら聞いた通りに入ってくるっていう事でしょう。

その時に余分な事しちゃダメだって事を言っておきたい。 


聞く時には何もつけずにそのままいれる。 



買い物行って自分で勝手に値段変えちゃまずいでしょ。

千円と書いてあって、五百円でいいやって、そんなふうに買ってきたら怒られるでしょ。

一応、千円とついていたら千円で買って、
その後、もしもう少しまけてくれないかねって相談はあってもいいかもしれない、
そしたら、じゃあまけるかたくさん買ってくれたからっていうような事はあるかもしれない。 



一番最初はその通りにいれる事ですよ。 


それを自分でめちゃくちゃやったら犯罪ですよ。


だから皆さん、こうやって聞いたり、見たりいろんな事を 
(御自分の体を指す)
これがしてますよ、

そういう時にそうやって犯罪を冒してはダメ。

それが間違いの元なんだもの。


正しくものを入れないって事は。

正しくものをいれないから、次に考える時に、最初が間違ってたものの上に考えるから 

正しい答えを引き出せないじゃないですか。

仏道修行・坐禅修行の根本 自分を見極める時は思考を使わない  
~2012年9月井上貫道老師・東京都青梅禅会より④ 

人は如何に自分の思いの中にいて、事実(=真理)を知らないか


ここから法話:
 kandoroshiatshorinji
皆さんどんな勉強普段しているんですか?
 
自分の事みんな放っぽっていませんか?

 
自分の事ほとんど見てない。
 

(老師、机をたたく)
こうやって座ってて隣で音がする。

(パシッ 老師が机をたたく)
 
音ってこうなっているんですよね。
わかりますか?こういう風になってるって。


(パシッ)
聞いてますか?皆さん、今、どうなってますか?
 
難しい?
 
だって聞こえてるって事は難しくないでしょー?


探す用も、尋ねる用もないでしょ?


隣の人に聞かなくても自分の意見を言って下さい。
 
誰かに相談して答える事は用がない、
 
あのー、これはどんな答えも恥ずかしい事はないですよ。



参加者 「扇子を叩いて何やってるんだろう」

それは思う事でしょ?はっきり申しますけど。
 
何やっているんだろうって思う事を私は聞いてない
どういう風に聞こえるか?って聞いているんです。

 
何をやっているんだろう?っていうのは思いです。
 
聞こえた事に対する思いです。


参加者 「うるさい、」

うるさいのもそうです。うるさいのも思いです。

 
だからこういう意見が出るから勉強になるんです。
 
ほとんどそう思っているんですよ、みんな。

 
あの、こうやってどういう風に聞こえますかって聞いて、何してるんだろうって思うって、
そういう風には聞こえてないんです。
 
それは聞こえてる事ではない。
 
思ってる事であって聞こえてる事はそういう事ではない。
 
それくらい、自分のあり様というのを見ていない。



こうやって音がしているものに対して自分がどうなってるか。
 
この位の音ならまだいいですよ。

 
人間のしゃべっている音声も音なんだけど、人間のしゃべっている音声に対して
もっと皆さん方今言われるように、それは何だ?って、必ず思うんですよ。
 
それはしゃべっている事の中の意味合いを理解しようと思って探る、
聞こえてる事とは違う、
そういうのを皆さんは聞いてると思ってるんですねー。
 
 
だからもう一回基本的な勉強をし直す必要がある。

 

そういう事を釈迦って人はやったんです。
こうやって6年も。明けても暮れても。こうやってどうなってるか勉強した人です。座って、


これは事実に学んだんです。

考え方でなくて、
 

どうなってるんでしょうね?
子供だってわかる話ですよ。
何で大人の人が難しいのかしら?
いいですか?


(老師、扇子をたたくふりしただけ)
聞こえた人誰もいないね。


(パシッ 老師が机をたたく)
 
こうやってやると聞こえるでしょ?


じゃあ今はどうですか?
(老師、扇子をたたくふりしただけ)
 
聞こえて、ない、でしょ?
 
そういう事なんですよ。


それが大事なんです。
いつなくなるんでしょう?
いつ聞こえなくなってるでしょう?
 
皆さん、自分の耳で聞いてるでしょ?
 
だったら音がしたのならわかるかもしれない。聞こえなくなったのはいつからですか?

今、
こういう事がはっきりしないってことは、いかに自分を見極めてないかって事です。
 
これだけで勉強するんですよ。


考えると難しくなるんですよ。
 
皆さんの少々の頭じゃわからん。
 
考えたら難しくなる。
 
だけど、事実はちゃんとこの中にある。答えは。


(パシッ 老師が机をたたく)
 
音がして音を聞いて、どうなったかっていった時に、この中に答えはあるじゃん。
 
今、音がした、ところにあるから、考えなくたっていいじゃない。


(パシッ 老師が机をたたく)
これで勉強すれば。
 
その他のところに思いを巡らして、あれはどうか、、、全然当て外れでしょ。


(パシッ 老師が机をたたく)
 
これどうなってますか?ったら、ここで勉強するでしょ。
 
必ずだから、今、 勉強するでしょ。
 
今の事をね。
 
それだけなんです。


 
修行って、それだけ。
 
これがわかったら、卒業ですね。


参加者「扇子が机に触れた時に音がするって、いうことですか?」

まあ現象的にはそうですね。

 
じゃあもうちょっと、机に扇子が当たった時に、どこで聞くんだろう?
 
どこで聞いているんだろう?
 
どこで音がしている?っていうと、耳で聞く、と本当にそう答えが返ってくるんですねー。


(パシッ 老師が机をたたく)
 
耳で聞こえる?
 
え?耳で聞こえる人いる?
 
もっと丁寧にやったらカチっというだけでしょ?
 
違いますか?正直に。
 
カチっというだけでしょ?
 
それ以外何もないでしょう?
 
どうですか?
 
カチっ、それだけじゃないですか?
 
カチっという事が聞いている事でしょ?
 
その時に、あっちで音がした、こっちで聞いたっていう事はないでしょう?
 
いきなり、カチっでしょう?


カチっ
 
音がしたから聞こえたって、
そんな事あるかしら?
 
こういう事ですよ、勉強って。
 
今まで先輩がいろんな事を言って遺しているから、そういうものを聞いたりして
或いは読んだりして理解しているだけであって、

この事実に自分が触れて本当にどうなっているかを確かめた事ないんじゃないですか? 


他人の意見で皆、終わっているのではないですか?
 
耳で音を聞くとか、向こうで音がするとか、
 
こっちで聞こえるとか、そういうみな、理由だけではないですか。
 
本当に実物でこうやって今音がした時に自分のあり様って、どうなってるか?


(ここで参加者の携帯が鳴る)
 

いいですよ、あーいうのだって皆勉強になるんですよ。
 

いきなりでしょうが、
 
いきなり、音があるんでしょう。
 
いきなり、音がある時に、人はうるさいとか、邪魔だとか、一切やってないでしょう?
 
音がしてるだけで済んでませんか?

 
それが私達の救われている世界なんです。

 
知らないから、すぐ音がした後に、自分の考え方を持ってきて、
 
なんでこんな時に音を出してって、たぶん思った人いると思う。
 
そうすると思う人もいれば

人がそう思うんじゃないかって思う方もいて、
 
お互いにまずい事をしちゃったなって、思って、
 
そこで苦しむ種を自分で作ってしまってるんです。
 
だけど、この耳はですよ、その通りに音がするだけで、どちらにも傷をつけない。
 
どちらも責めません。
 

今ご覧の通り音がしてないから言う必要がない、何も。

 
言う必要がないんだけども、さっきあーいう事したんじゃないかって、つつく人は中にいるの。

ないものを何故つつくの?
 
子供育てる時、さっきやった事があったとしても、
 
今やってないものに対してそれは何だ?って事はないでしょう?

 
じゃあそれと同じように、音がし終わったのに、うるさい、だとか邪魔だとかっていう事は
甚だ心外な事をやってませんか。
 
どこをつつくんですか?
 
音がしてないのに、うるさい、って、どこをつつくんですか?
 
ありもしない事をそうやってあたかもあるようにしてつついたらいじめじゃないですか?
 
いじめ。虐待じゃないですか?



参加者
「そういう場合、どうしても、老師が扇子で机を叩いてるって、考えちゃうんです。
誰かさんの携帯がさっき鳴ってたって、すぐ考えちゃう。」



[老 師]だから、もう一回申し上げますが、

見極めるって時は思考を使わない。

 

参加者
「だからいかに自分を見極めてないかって事で、
いかに自分がわからないかっていうのがわかった。自分を見てない。」



[老 師]そうです、いつも考え方で見ている、



参加者
「どうしても、ここで(頭を指して)考えちゃうんですね。
 あー、何さんの携帯が鳴ってるな。
 先生、こんな事やってるな。それだけです、考えちゃう。」


[老 師]
それは、いかにも他人事なんです。
 
だけど、本当は自分が今生きているあり様そのものなのに、
 
そういう風に自分が他人事のように見ているって事が二つ目の、大きな誤りでしょう。



誰が聞いたんでもないですよ。
 
自分が聞いたからそういう事が起きた。
 
自分が見たからそういう事が起きたのであって、
 
私のやってる事でないし、あちらのやってる事でないんです。

 
でも人間って、そういう風にしか今迄見てこないんです。
100パーセントたぶんそうですね。


そういう中に釈迦って人が生まれたんです。
 
だからそういう勉強しか、おそらく当時してないですね。


そこから抜け出したんですよ。


初めて、そういう人間の考え方を外してみた時にこうやってやると
 
(老師、扇子かざす)
 
その通りに見えるっていう事は、私の事ではないですね。


見えてるって事は皆、一人一人自分の今の生きている様子でしょ?


生活している内容でしょう?


これを見ているって事は、一人一人がこれを見ているって事は、

自分の今生きている内容でしょう?

そういう事は理解できますよね?



でもまだ向こうの人が言っている事って思っているのかしら?
 
だから思う事と自分が目でやってる事は違うじゃないですか?
 

自分の目は、思う事じゃないから、本当に自分の目でこの通り見てる動きしかないでしょう?
 
だって他の人の目で見れないんですよ。


こういう事、必ず自分の目で見てこれが見えるんですよ。


これ、見えると、あーあっちで扇子開いてるからそういう風に見えたっていう
考え方や思いをここに付けるじゃないですか。


じゃ、考え方や思いを外したら、これ、見えなくなるかっていうと、
どうですか? 


見えなくならないって事は、考え方や思いじゃないって事でしょ?


もし考え方や思いだったら、考え方や思いを外したら、たちどころに見えなくなりますよ。



だけど不思議に人間のあーいう風に見えるとかあーいう風な事やってるとか
全部外してもこの確かさは絶対なくならない。


それは考え方じゃないからです。


(老師扇子を開く。)
 
こうやってやると必ずこうなる。
 
(老師扇子を開く。)
 

どんな事を思ってても皆さんが思っている事とは関係なくこうやってやるとこうなる、
 
さっきまで開いていたのにって、いくら思ったって、ここしかない。
 

それくらい思い方と事実は違うんです。いいですか?

坐禅 只管打坐はシンプルー座禅中に目を開くことの意義


禅 座禅後の指導 目を開けること ~2012年9月井上貫道老師・東京都青梅禅会より③ 
今回の③は約17分です。


椅子座禅30分終わって、そのあとの井上貫道老師のお話です。


  
やってる事はそんなに難しい事は何もないと思うんですよね。
 
 
だけどー、先ず第一に眠いねー。
 
ほとんどの人が目を瞑(つぶ)っちゃうんですよね。
 
あのう、時々回ってみましたけども、触るとふっと目を開けるところを見ると、
目を瞑ってるって事でしょう。
 

こんな事がなかなか目を開けたままじっとしていられないんですよね。
耳はですね、耳はご承知のようにこのままで開きっ放しですから
耳はふさがるって事はほとんどないんですよね。
目は自分の力で開けないと瞑ってしまう。

目は塞がったらものが見えなくなる。

まず皆さんに勉強して欲しい事ですね。

目を塞いだら見えなくなる。


ところがこうひとりずつたぶんあたって聞いてみると、
目を閉じてもいろんなものが見えるんです。
 
そういうたぶん答えになるのですね。
 
それは厳密に言って絶対見えているんじゃない。
 
普通見えるというのはですね、自分の外側にあるものを見れるのを見るっていうんですね、
自分の中にあるものを指して見るとはあまり言いません。
 
同じ見るのでもそれは心の中を見るとかっていう風になればそういう事があるけど、
眼(まなこ)がものを見る時にはそういう事はありませんね。


だから目を閉じたら見えなくなるから楽になるのでしょう。
 
布団に入って目を閉じてもですね、いろんなものが走馬灯のように
浮かぶって人もいるでしょう。
 
寝られないよ。気になって。
 
だけど、本来は目を閉じると見えなくなるから寝れるんです。
 
それが証拠に自分の目の前にあるものを目を閉じて見える人いますか?
 
目の前にいろんなものがある、
目を閉じたら見えなくなるでしょう。


目を開けてください。
開けるとちゃんとわかるようになっているでしょう。


じゃあ日常生活もこのように目を開けていさえすれば
目の前の物事ははっきり見えるはずなんです。
それが己を見極めるって事ですよね。
 
にも関わらず、皆さん、目を開けてものを見た時に、
よくわからんっていう人たくさんいるんですよね。
わからないって人


パッと見ただけで見違える事はないでしょう。
 
全部違うんだもの。
その通り見える、
そういう風に見えているのにも関わらず、わからないって事をいう人が多いのです。
 
それで修行をして頂く時、本当に勉強して頂く時は、わからない事を相手にしないんですね、
わからない事の方を探らない、

わからないことは放っておく


皆さん、わからない方を知りたいわけでしょ。わからないと。
わからない方をわかるようになりたいと。
そうじゃなくて、


はっきりしている事、こっちを大切に扱うんです。


研究するんだって、わからない事を研究するんでしょうけど
研究は必ずはっきりしている事を相手にします。
 
なんだかわからない事なんて研究できないんですよ。
 
はっきりしている事、研究しているとはっきりしてる事があるんです。
 
はっきりしてる事があるけども、それがなんだかわからないんです。
 
ね、そういう事あるでしょう。
 
理論的にはわからない、
だけども、こういう風にすればこうなるって事だけははっきりしているから、
それをとりあげる。
 
わからない事はとりあげません。

 

だからこうやって目を開けていると、ちゃんと見えているでしょう。

見えている、はっきりしている事だけを修行で取り上げる、

どういうふうにやってるかだけです。


今、静かな場所、一定の所でこう、過ごしていたから、
変化が少ないので眠ってしまうのかもしれないけど、
さっき川の土手を歩いたりいろんな事をしてきましたけども、
あれ、全部目を開けてたぶん見てきた事です。
 
それ以外にはやって来なかったんだね。
あれが、皆さんのさっきまでの人生です。



で、あわせてですよ、今日この教えの話をするわけですが、
仏教っていう風な言われ方をしているんだけども
どれくらい正確に仏教というものが世の中に伝えられているかの中でですね、
仏教っていうのは、己以外、自分以外をどうこうすることではありません、
 
仏教っていうのは、本当に自分自身を見きわめる事に尽きるんです。
 
ところが一般的には仏教はですね、こうやって生活していると自分の中で
どこかこう満ち足りないものを感じるからそれで昔のりっぱな人たちが
そうやって一生過ごすから、この事を勉強しないとだめなんです。

他の人なんか用はないんですよ。

他の人の事なんか。
 
間違えないで下さいよ。
 
他の人に用はないっていうのは、こうやって見ている事が自分の事だからですよ。
 
ここにいる方お互い見ている事自体が、自分の事だから。自分が今やっている事だから。
 
自分がやっている事がわかりずらい人は、自分の目で見ているって表現したらよくわかるでしょう。
 
自分の目で見てる事が、見えてるって事です。


それ、他人(ひと)の事じゃあないですね。


これなんかもよく理解できてないかもしれない。
自分を見極めてませんから、どうしても他人(ひと)の事を私が見ているんだって、
そういうふうに見ている。


じゃあもうちょっと突っ込んでお話するとですね、
あの人はなんであんな歩き方をするんだろうって、
誰がやるんですか。
私がこんな格好して歩いたりしているとさ、(老師がすごく変に腰を曲げて歩く)、
どうしちゃったんだろうって。これは皆さんがやるんでしょう。
私はただこうやってるだけです。(老師がすごく変に腰を曲げて歩く)


そういうふうに皆さんが勝手に見方をつけるんです。自分の見方を。
見解を。
 
それで、そういう見方をどこでじゃあ起こすかったら、必ず、今なんです。
これがどっかで起こすんではなくて、
必ず見た時にふっと起こすんです。
その時に起こすんです。
 
これらをよくわかってないですね。
 


悩み、苦しみっていうのは、必ず今起こすだけなんですよ。
 
気にいらないとかっていう思いが起きるんだってどこで起きるかって、
物に触れたりした時にふっとその時に起きた時が気にいらないというふうに
なっているだけであってその他にはないですよ。
 

思いっていうのはねー、夏に使う氷みたいなもんだね。
どういう事かっていうと、氷が解けちゃうと、何処にもない。
 
さっきまであんなにちゃんとした形があったのに、
あの人、気にいらない人だなという思いが出たとすると
ちゃんと氷のようにきちっとその思いがここにあるんだけども、
それが時間が経つとですね、溶けて何処にもない。
 
だけど、溶けた後にここら辺に少し乾くまでしみが残る。
 
それがですね、さっきまであーいうふうに思えたというか事です。
 
さっきまであーいうふうに思えたって事なんですね、しみが。

 
本当は思いってそういうふうにどこにも影も形もないように働くようにできているんですね。
だけども、あの人憎らしいって思うと、みんなそれで、自分の中がおかしくなるのですよ。
 
他の人が思うんじゃあないんですよ。
 
ひとりひとり自分の中で思って、自分の中でおかしくなるだけなんですよ。

 
そういう事が自分を見極めるって事なんです。
 
どういうふうに問題が起きてるか、
どこに問題があるのか、
だって目で見て御覧なさい。

こうやって物を見た時に、
気にいるとか、いらんとかって一切ないでしょ?
 
どうですか?皆さん、自分の目の前の様子見て。
 
その通りにただ見えるだけっていうのが間違いなく基本でしょ。
 
どこ見てもいいですよ。その通りにただ見えるだけなんでしょ。
 
これ、勉強して欲しいんですね。
そんな事ないっていう人たくさんいます。


(老師がマジック二つをかざして)
こうやってどっちが大きいって見えますか?って聞くとですね、
見事に皆さん引っかかるね。
 
どちらが大きいっていうふうに見えますか?って言ったら、
はい、こっちだよって大きいって言うんですね。
 

それは、分別っていうものが動くからです。
(老師がまたマジック二つをかざして)

目はこういうふうに出されてもですね、大きいとも小さいとも比べないんですよ。

その通りにとる。
 
そしてその通りに見て自分でどうもしないのにちゃんとわかる、
置いてある場所の違いもよくわかる、
絶対ごちゃごちゃにならない。
 

どっちが綺麗ですか?って出すと困る、
なんで困るかって、これを出されてみてですね、
どっちが綺麗ですか?って、目は困った事ないでしょ?
このまま見てなんにも困らない。
皆さん、困りますか?



(老師が頭を指して)
困るとしたらここです。
あなたがたの考え方がどういうふうに答えを出したらいいかって
働き出すとわからないって答えになるんです。
 
はっきりしないとか、難しいとか、
 
実際はものすごく明確です。
 
 
そういう事が私達の本来のあり方です。
 
これが自分ではっきりすれば生活の中で、ぐずぐずするような事はありません。
 
要は物ははっきりしているはずなのに、はっきりしている事がどうなってるかを
自分で確かめてみた事がないから自分の素晴らしさがわからない。
 
そういう人が多いから、古くは釈迦のような人がこういう自分を見きわめるって事を
きちっとした代表者です。
 
そういう人がいて、自分を見きわめた話をされて、そして見きわめた人を
そこに生前いる間、取り巻きで触れた人が一緒に生活をして、その言動に触れて
ご自分のそういう事を体験されてなるほど、釈迦のやっている事、
言ってる事は間違いない、確かさがあるって事を各自自分で気づいているんですね。

そういう事によって教えが伝わってきたんです。
 
まあ、それで話は終わりなんですねー。
 
皆さん方はだから勉強もっと違う事しているんじゃあないですか?
 

もしあれだったら、質問たくさん出して下さい。そしたらそれによって深めていけると思います。



この文章は、保護犬マロンと小山っ子いぶきの気ままな日記 〜お茶も~禅も~ のうちの井上貫道老師の坐禅会のテープ起こし部分から引用させてもらっています  貫道老師青梅坐禅会の部分がなかなか探しにくいので、管理人さんに許可を得てここにまとめています



禅 座禅の心構え ~2012年9月井上貫道老師・東京都青梅禅会より①

以下井上貫道老師より御挨拶、座禅の心構え、座禅指導


 坐禅のやり方、坐禅の実践方法 ← ここにも井上貫道老師が詳しく話されています


ご丁寧な紹介並びにご挨拶頂きましてありがとうございます。
それほど忙しい者ではございません。
暇だから出てきているので。

というのはですね、誰も一日は24時間なんですね、
だからそれを超える人もなければ、それよりも短い生活をしている人もない程、
あとは何処にいるかだけなんですね。

それで何処にいるかをよーく見ると、
皆さんどういう風に考えているか知りませんが、
掛川から東京まで来るの大変だねっていうけど、この身体ずーっと運んでいるだけなんですね。

皆さん今日一日だってそうでしょう。
この身体がいろんなところに行っているだけじゃないですか。

それをよく見るといつもここにいるんですね。

ここというのはこの身体のあるところです。
自分がいるんですね。

そういう意味では行き来するものがないんです。

頭の隅で掛川と起点を置いて東京ってやると、掛川と東京まで大変だって思うけど、
この身体をずーっと見てると、ずーっとこの身体のあるところの様子だけがあるんですよ。
どこへも行かない。


そういうことが伝えたい事なんです。

間違えなくそうなんです。


そうすると忙しくなくなるでしょ?

あそこ行かなきゃ、ここに行かなきゃってそんな事無くなるじゃない。
今この身体のあるところのあり方をきちっとやって行けばそれで済む事でしょう。


zendoshihotanそれでこの後、座禅をして頂くのだけども、座禅について心構えという事だけども、
こういう事言ったらいいかと思うんですよね。


人は考えていない時に悩んだ事はない。

どうですか?
(左図はイメージです)

自分の中に考えが浮かばない時は悩まない。

どうですか?

そういう体験はわかりますか?


悩むっていう時には、あーどうしようか、あのときに、あの人と、、、
そうやっていろんな事思い起こして
考えてること、やり始めるとものがよくわからなくってどうしようかって
いうことになるんだけども

考えること止めている時はものすごく、クリアーでしょう、物事が。


で、何をするってことも必要のないくらい穏やかに、そこで生活していて
しかも自分のその内容が自分で手にとるように明確にわかって
疑いが一つもそこにはない。


そういうことで坐禅をすることは自分自身を見究めるってことなんでしょうね。


だから、最初から自分のそういう風な姿というものが今現前とありますから、
尋ねなくていい、それが坐禅のおもしろいところですね。

距離がないってことです。

今間違いなく自分のあり方ですから、
その自分の間違いない自分のあり方がここにあるから、
それがですね、探さなきゃわからないようなものじゃあない。
ということですね。



坐禅をするとき、たずねない、

尋ねないっていうことは、距離がないていうことですね。

これが坐禅の時の、どういう風にしているかっていう時にこういうことです、


尋ねない、

距離がない、

隔てがない、

これがですね、皆さん方にこういう話をしたときに、なぜか難しいんですよね。
なぜか難しく感じるんです。


それは皆さん、普段生活しているときに、必ず向こうに対象物を置いて、そしてそれに
一緒になるということをやっているんですねー。

そういう生活しかしてない。


だから対象物もないから、いきなり自分自身の様子ですから、そうすると
探さないということはですね、すごく難しいんですね。

探すほうが楽なんですね。

探すんだったらやることがあるから。


やることがあるといいんだけど、これ(坐禅)、やることないんだよー。座っていて、
やることがないと、皆さんの頭の中がパニックになる。

どうしてパニックになるかというと、
何もしない、どうするんだろうって考えるからですよ。

それを止めるのですね。

そういう思考を止める。

そうすると、今こうやって身体全体で活動している動きがそのまま、そこにさらけ出されます。

それを皆さんが見ることが、自分を見究めるって事になるんですね。

まあ後でゆっくり話はしましょう。
    (長いので下に続きあります)









禅 座禅指導 ~2012年9月青梅禅会より②  
続きです。

椅子に座ったままでの坐禅指導をしていただきました。

それでは席を後ろ向きにしましょうかね。

五分くらい、作法を簡単に説明をして、30分くらい座ってみたいと思います。


まずですね、

椅子に腰掛けて頂いた時に、背もたれがありますが、せっかくの背もたれは利用しません。

背もたれから離します。

要するに、自分の力で背中を伸ばすということです。




それでは下のほうからやりますが、

足を肩幅くらいにちょっと開いて頂いて姿勢を起します。

顎を引きます。
顎を引くっていうのは、頭を垂れるってことではないんですね。
頭をまっすぐにしたまま、顎を引き寄せる。


でそれから膝の上に置いた手を両方仰向けにいたしまして、左手の上に右手を、
そして親指の先を軽く触れ合わせてそこに楕円形を作ります[法界定印ほっかいじょういん]。


そしたら肩の力を抜いておろします。
下ろした位置はあまり前の方に出すと肩を引っ張りますから、できたらお腹の方に触れるように寄せてください。
そして肩の力を抜いてください。


次に口の処理です、
口は結んで頂いて、舌べろの先を上歯の付け根に少し着くようにします。
そして、唇、歯、を結びます。


力を抜いて体が萎むような感じで息をずーっと吐いてください。
吐ききったら大きく息を吸ってください。
そしてゆっくり吐きます。

三、四回そうやって腹式の深呼吸をして頂いたら、静かに止まって、これから30分位座ります。



鳴り物を入れますので次の鐘がなるまでの間


もう一つは目の処理ですが
目は開けて頂いて座ります。

これはなかなか話をしているのだけども、目を瞑って座られる方が圧倒的に多い。
座禅は目を開けて座るのが一応正式と言っていいでしょう。


それには深い訳があります。
目を開けて座る。
だいたい前方45度位の視線にして頂く。
そうすると半眼位の目の開きになりますので、そういった形で目を処理します。


ここまで出来たら、椅子の場合はですね、ちょっと作法が変わりますが
体を少し左右にゆっくり振ってください。
曲げてください。
それは上半身、腰から上の体を楽にします。

緊張を解す意味がございますので力を抜いてゆっくり左右に曲げていって、
その時に息を吐いて曲げてもらうとさらに効果があります。

そして息を吸いながら元に戻して、腰の付け根からずーっと
四、五回そうやって体を緩めて頂いたら中央に止まって頂いて、
今度は息をゆっくり静かに全部吐き切って頂きます。



 坐禅30分しました。


坐禅の途中、老師は静かな声で、


目を開けて下さい。

目の前の様子が見える、いろんな音がします。

それらは考え事ではありません。

見たもの、聞こえたものに価値判断をしなければ、事実そのものに触れています



と語られ更に坐禅は続きます。


 坐禅のやり方、坐禅の実践方法 ← ここにも井上貫道老師が詳しく話されています





引用元:
http://ameblo.jp/10wanko28/entry-11498533585.html
http://ameblo.jp/10wanko28/themeentrylist-10067613814.html





井上貫道老師ー只管打坐の方法、坐禅の仕方

(坐禅を実際にしようとする人、実際に坐禅を組んでいる人へのアドバイスですので、ただ読むだけだと概念化されて却ってあとでそのことが障害になる可能性があります。ご注意下さい)
500zazendosk
Q.
考え方を離れよと言われますが、考えを断ち切ろうとするというのは間違いですか? 坐禅すると、ずーっと考えが出ていて止まらないんですが。


A.
断ち切るというより、断ち切れているんじゃないですか。

ずっと考えが続いているように思うかもしれませんが、よく見れば、次の考えが出た時、それまでの考えは次の考えによってすっかり消されているはずです。考えによって考えが断ち切られているんです。
最初に出た考えがそのままずーーーーっと最後までその考えだけで続いているなんてことはないでしょう。

でも人間は記憶があるから、それらの考えをつなげて、ずっと考えが続いているように思い込んでしまう。




Q.
「空(くう)」ってのはどういうことですか?

A.
このように、お茶を飲めばお茶の味がするし、飲まなければ味がしない。事実に触れればそのとおりになるし、触れなければ触れないようになっている。そういったことを「空くう」と呼んでいます。要するに、普段の我々の心身のありようのことです。

「無心」ってのも同じ意味です。一般には、雑念や妄想が出てこず、心の中に何も無く静まり返った様子のことだと勘違いされていますけどね。「無念無想むねんむそう」とか(笑)。

Q.
坐禅をすると、わーっといろんなことが出てくるんです。

A.
実際には普段から出ているんです。でも普段はいろんなことで気が紛れているから、出ていることに気がつかないだけです。坐禅をしていると他のことが収まるから、いろんなことが出ていることに気づくだけです。

その出ていることを抑えようとするのは、かえって心を騒がしていることになるでしょ。だって、出てきてしまったものをあとから無くそう無くそうとしているわけだから。出てきてしまったものはどうしようもないのに。

そうではなく、出たものを出たままに、何も手を付けずにいれば、全然心を煩わさないよね。これが本当の「心静か」ってことです。



Q.
「自分の様子をきちんと見るのが坐禅だ」と言われたり、「自分で自分を眺めていては坐禅になりません」と言われたりします。何が違うのかよく分かりません。

A.
「自分を眺(なが)める」ってのは、過去の様子を後から見てることです。自分の感覚や経験を一瞬あとから思い出して取り上げているんです。

そうではなく、「今」の自分の様子をきちんと見ることが大切です。

本当に「今の様子」それだけを見ている時は、それだけだっていうことも分からないはずです。だって、「これが今の様子か」なんて余分なことが出てくる余地がないんだから。





●不思量底(ふしりょうてい)を思量(しりょう)す
これが一番大事なところです。「坐る」というのがどうすることなのかということです。

今までは身体の形を整えるということでしたが、その後、時間をどのように過ごせばよいかということ、これが抜けたら坐禅にならないということです。

人間の考え方を入れないというのが「不思量ふしりょう」です。直通であるということです。全てのものに、わけへだてなく。



●坐禅については、今、説明したことが全てです。世間の書物などで坐禅について書いてあるのは、形を整えたりなんだのばっかりです。ここのところを書いてあるものはありません。



Q.
普段の生活の中でも「不思量底を思量する」必要があるのですか?

A.
坐ってるときだけが坐禅じゃないです。24時間そうです。

あなたが生きているということだって、「時々生きている」なんてことないでしょ。
坐禅だって同じことです。


自分自身を学ぶというのは、よそにあるものをここに受け入れてこれを改造することではないです。

仏様の教えが外にあって、それを受け入れて学ぶということじゃありません。

自分自身を自分で学ぶということが仏教です。

それをしたのがブッダです。
「自覚した人」という意味です。


自分自身をしっかり見極めるということに尽きます。

その時に考え方が入り、考え方を通して見るようになると、
自分自身の事実がそのまま把握できず、間違ったことになります。




Q.
考え方に惑(まど)わされなければ迷わないのですか?

A.
惑わされないのではなく、考え方を使わない、です。

誰だって、考える前の様子があるでしょ。


例えば、音がしたとき「音がした」って思うかもしれませんが、本当は、自分の動き、身体の働きに気づいたってことでしょ。
音がするっていうのはこの身体の働き、様子なんですよ。

身体の働きに気づいたってことが「見えた」「聞こえた」ってことです。


みなさん、向こうに音があって、それをこちらで自分が聞いていると思っているが、そうじゃないです。

このもの(身体)の活動に触れたんですよ。

このものの活動に触れることが「見た」「聞いた」「味わい」だとかっていうことですよ。


この身体の上でしか体験できないんですよ。





Q.
たとえば、集合写真とかを見た時、まず自分の顔を一番最初に見ますよね?

A.
一番最初には見ません。まず最初に写真の様子があるでしょ。その後で自分の顔を探し始めるんでしょ? 写真の様子がなければ自分を探すこともできないでしょ。探す前に、一番最初に見えているこのことが、自分の様子なんですよ。

写真じゃなくて、自分の様子なんですよ。見えるってことは自分の様子なんですよ。だって他の人が見てるんじゃないでしょ。



Q.
ああ! 自分が見てますね。

A.
自分が見てるってことが、今、自分の生きてる証拠でしょ。それ以外にないでしょ。



Q.
いつごろから自我意識が出てくるんでしょう? 幼稚園のころから? 三歳のころから?

A.
人が寄ってたかって教えるから。名前を付けて、何万回と呼ぶから、「私のことを言ってるんだな」と認識するんですね。他の人ではなく私のことを言ってるんだという自己意識が生まれる。

最初は、本人自体、声が聞こえてるって認識(にんしき)もないですね。

自我意識が出てくるのは二歳ぐらいでしょう。三つ子の魂といいますね。昔は数え歳ですから。



Q.
自我意識はあって当然ということですか? 不思量ってのはそういうことですか? あって当たり前と思えばいいんですか?

A.
そういうことじゃないです。

どんなに自我意識があっても、みなさんは自我意識を使わずに生活していますよ。

(両手を叩いて)「パン」、こうやった時に、「私が聞いた」なんてことは一つも使わないでしょ。どれだけ自我意識のある人であっても。「私」っていうのは入らないんです。聞いたあとから起きてくるんでしょ。「今私が聞きました」ってことは、もう聞こえたあとですね。

画鋲を踏んだ時に「痛っ!」ってのも、そういうことがただあるだけです。「なんで俺が!」ってことはないでしょ。みんなそういうふうに、自我意識なしで生活していますよ。自我意識はあとで付くんですよ。終わった頃に付ける。

そっちから物をながめたら真実が見えないです。



Q.
修行って、自分の思いを断ち切ることですか? 無色になることですか?

A.
(机を叩(たた)いて)「コン」、これを聞くときに、自分の思いを断(たち)ち切るんですか?



Q.
断ち切るんじゃなくて、無いですね。

A.
「思いを断ち切る」なんて言葉が出てくるってことは、何か違うものを学んできたんでしょうね。断ち切らないとうまく行かないと思ってるんでしょう。

でも現実は断ち切ることなしに、「コン」、うまく行くようにできている。





●「私」らしいものは付かないで、人は、確かにいつも触れています。だからずれないんだよね。正確にものが伝わるというのはそういうことです。もしみんな自我意識で物を見ていたら、てんでばらばらになっちゃうね。



●よーく自分に参じて、自分を見てみれば、自我意識がついてないことがよく分かります。でも考え方の上から勉強する人は、到底その話は通じない。



●色眼鏡を掛けている人が、色眼鏡を外さずにものを見てると、必ず色眼鏡を掛けた色でしか見えないからね。色眼鏡を外したときの色なんて分かりっこないね。そのように、考え方で生活している人は、考え方を外れた時のものの見え方なんて、無理だね。





●「パン!」と聞こえて「音がした」って思う時には、もうその音は無いんです。
だから人間の思量分別をそこに差し挟(はさ)むことができないんです。

だから坐禅は、人間の「知る」「知らない」といったことは論外ですね。



● 別々にものがあるんじゃないですよ。
向こうにものがあって、それをこっちで触れて、って、それはそう思ってるだけです。

事実はそうじゃない。
別々のものなんて一つもない。自分と別のものなんて一つもないじゃないですか。




● ここにたくさん人がいますが、これを自分の様子だって言っても、なかなか伝わらないね。
長年坐禅をやってる人でも分からない。

それぐらい自我意識をしっかり立てて区切ってるでしょ。

これ全部自分の様子ですよ。




● 修行は「思い」ではないんです。「こうやればいいんだ」って方程式を立てておいて、それに沿ってやることではないです。




● 「ああ、わかった!」ってなると、たいがい考え方です。




● (別の老師)この中には長いこと参禅しておられる人もおりますが、みなさん、どうも頭で理解しようとしている様子が見受けられますね。
頭で分かったふうになっても進歩はありません。

とことんまで聞いて、そのとおりやってくださいよ。

私もさんざん苦労したから言ってるんです。せっかく老師に来ていただいているんですから、もっともっと尋ねてください。





●初めて会った事実は、いつでもそのまま入ってきます。なのにすぐに概念化というオブラートをかけてしまうんですね。




●坐禅中にいろんな考えが出てくること自体は「事実」です。
でもそれにひきずられたまま考えにひたっていると、「考え方」の世界に行っちゃいますね。

だからと言って『考えが出てきた、まずい』と思うと、それも考え方の世界ですね。

もちろん『考えないようにしよう』と努力するのも考え方の世界でしかありません。
考えが出てくるという事実に自分が関わって考え方に変えてしまっているんです。

実際には、つかむものなんて何にもないんです。


 
 

●『悟り』という字は『吾を示す』となってますね。『仏』とは自覚した人のことです。自分に気が付いた人のことです。思いやはからいを入れずに、よーく自分を見てみることが大切です。

 
 

●仏教が難しいのは、ありがたいはずだ、超越した境地のはずだ、といった固定概念で真実を探そうとするからです。

 

● こういうふうに見ればちゃんとこういうふうに見えます。「こう見なけりゃ」っていうのはないです。



● 六根の働きのままに、浮かんできた思いをとらえずに手をつけずにそのままにしておく。




●考えを「やめる」んじゃないですよ。

事実に即していれば、考えが「やまる」んです。




●「音、音、音」じゃないですよ。「ザワザワザワザワ・・・」、これだけですよ。「ザワザワザワザワ・・・」、これこそが本当の受け身というんでしょうね。



●ほとんどの人は正しく見る力を持ってないですね。
何かが見えたと気がついた時には、もう見えた後になってしまっています。




●眼は前に見たものを残しません。それこそが救いでしょ。何にも束縛されないんです。 




● 目・耳は良し・悪し、好き・嫌いを判断しない。
聞こえたもの、見えたものはその場でその場で完結しており、一切残らない。

それが事実であり、その事実に参じるのが修行。



● みなさんは、本当に物があると思っていますからねぇー




●本当に事実に触れれば、底が抜けてすっきりしますよ。





●坐禅をやらなければ疑問があるはずですし、しっかりやればやったなりに、さらに聞くこと
が出てくるはずですよ。


 
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井上貫道老師・坐禅の方法と秘訣


●修行して解脱するんじゃないです。

すでに解脱してるんです。

そのことに気づき、ああ、なるほど、確かに解脱してるな、となるのが坐禅です。

こういう実証方法を伝えてきたのが仏教のすばらしいところですね。




●自分の抱えている問題を修正しよう、なんてするとだめですね。そんなもの、きりがありません。人生終わっちゃいますよ。




●疑問があればとことん質問して消化しておいてくださいよ。疑問を抱えたままだと、坐禅中にその考えが出てきちゃいますからね。

 
 

●眠気が起こったら、ちょっとそれに気づいてあげればいいです。気づけば眠気は去ります。釈尊も『覚すれば即ち滅す』と言っています。とはいえ、眠気が起こらないような体調や環境を整えることが第一ですね。




●真剣に道を求めて修行している人は、警策(木の棒)で叩いても大丈夫です。中途半端にやっている人は叩いてはだめです。おびえちゃいます。




●坐禅は、何もせず、自分を立てず、今の様子そのままになること。




●事実を知るためには考える必要なんて一切ないのに、それを知らないから、みんなあれこれ考えてしまうんですね。

考えなくても、お茶を飲めばお茶を飲んだ様子に、お菓子を食べればお菓子を食べた様子に、みーんななります。

どこに考える必要がありますか? 考えないとお茶の味がしませんか?




●いつでも今の様子だけです。徹底して今の様子のみです。努力してそうなるんじゃありません。

だってそうでしょ、一瞬だって「今」から離れられるわけないじゃないですか。





● 頭の中に気になることが残っていると、雨の音が雨の音として聞こえないですよね。ちゃんと聞こえている時は、きれいさっぱり他のものがなくなっているんです。消すんじゃないですよ。






● 雨の音っていうのは、「ぱしゃぱしゃぱしゃぱしゃ・・・」(口で擬音)これだけです。

これに親し~く目を向けてください。





●事実に証明される、という禅の言葉があります。この意味は、自分の様子に「あ、なるほど」っていうことです。





●自分の見解や気持ちを持ったまま坐禅しないことです。




●坐禅中にいろんな考えがわいてくることに対して「これはいけない」とやっちゃうと、これがもう自分の見解ですね。

いいとか悪いとかは自分の気持ちでしかありません。

考えがわいてきてること自体も今の様子なんですよ。





●考え、足の痛み、ミーンミーン、ワンワン、全部自分の今の様子です。





●苦しい、つらいといった感情も、自分の今の様子です。





●坐禅中に何かを観察したり、何かに集中したりするのではありません。自分から物に向かわないことです。逆にボーッとしてしまうのは、それも違います。




(独学では勘違い、意味の取り違いなどがあり、結果的に失敗しますので、必ず、正師に直接会って、その指導を受けて下さい それを参禅といいます 

仏教以外でも古来よりインドでは覚者から直接学ぶこと、覚者と共にいることをサットサンと言います サットとは事実・真理、サンとはサング 居る  サットサンは不可欠とされています)


https://youtu.be/nAuc6MCgyS0?t=2s



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☆井上貫道老師は明確に悟りを開いて、仏道修行を終わられた方です

人にできない難行苦行を長年したとかではなくて、正師の指導による正しい修行によって、釈尊と同じ体験をして自己を明らめた、悟りを開いた、事実を見届けた方です


井上貫道老師は前記事のところ以外に下記でも坐禅の指導をしておられます


以下は2016年現在の坐禅会情報です。
記載事項に誤りなどがありましたら、ご指摘いただければありがたいです。
ご指摘のコメントは、こちらからお願いいたします。





(1) 東京四谷の笹寺の健康寺子屋
f0581eff

会場 
笹寺 本堂
新宿区四谷4-4

参加費 
どなたでも1000円で参加できます。
たくさんの方々のご参加をお待ちしております。

※動きやすい服装をご用意ください(更衣室あり)



健康寺子屋のホームページに書いてあります

曹洞宗の老師・井上貫道老師は中野坂上成願寺(じょうがんじ)での
月初の土曜日の座禅会(9時15分~17時)にて、ご指導のあと、
中野坂上から四谷に移動されます

詳細は健康寺子屋のサイトをご覧ください 










(2) 浜松の中日文化センター

kandoroshichunichi
浜松駅の中日文化センター(浜松市中区板屋町111-2 アクトプラザ4階)にて、
井上貫道老師が坐禅指導を行われています

テキストや会費など
詳細はこちらをご覧ください
 




それぞれは、参加費がかかります

 
以上は2016年現在の坐禅会情報です。
記載事項に誤りなどがありましたら、ご指摘いただければありがたいです。
ご指摘のコメントは、こちらからお願いいたします。



他の、井上貫道老師全国座禅会情報はこちらにあります
→ http://zazen.blog.jp/archives/1028736167.html  (このブログの記事です)

 
 


☆井上貫道老師は悟りを開き、仏道を体得された方です。

厳しい修行を長年したとかではなくて、正師の指導による正しい修行によって、釈尊と同じ体験をして自己を明らめた、悟りを開いた、事実を見届けた方です。




井上貫道老師の坐禅会は、本来仏道修行や坐禅修行は、初心者、経験者、久参・古参、関係がありませんので、初心者歓迎です
従いまして、坐禅がまったく初めての方や今まで仏教を学んだことのない方でも参加が可能です。

 坐禅作法についてはこちらで予め練習しておいて下さい

☆掛川市少林寺(曹洞宗認可参禅道場)の井上貫道老師(前の住職)の坐禅会が全国であります。
これは各地の道心のある主催者が、貫道老師を拜請して行われている坐禅会です。

従いまして、それぞれに特色のある坐禅会・禅会となっています。



◇ 平成29年後半の井上貫道老師参禅会の予定
2017kohanschedule

















この一覧表で、金子 とは、下記詳細案内の「東新宿坐禅会」のことです。
◇ 平成29年前半の井上貫道老師参禅会の予定
       1月  2月  3月  4月  5月  6月
福昌寺    13   3   3   7  12   2
成願寺    14   4   4   8  13   3
健康寺子屋 14   4   4   8  13   3
新宿禅会   15   5   5   9  14   3
中日文化セン28  25  25  22  27  24
円通寺    28  25  25  22  27  24
神戸      29   ー   ー  23   ー   ー
京都      30                    24
大阪      ー   ー  23   ー   ー  22
りんごの会  19   9  16  13  18   8
静岡      19   9   ー  13  18   8
福王寺     8  12  12  16   7  11
弘誓寺    31  28  28  25  30  27
竜泉寺    27  24  24  28  26  30

11月27日(月)の京都の寺院での井上貫道老師対談は午後からです。
時間や申込方法など詳細は決まり次第 京都大阪神戸坐禅会のホームページに発表されます。

今年の全国日程と、以後の変更については、嵩山少林寺フェイスブックページをご覧ください。
上記一覧表発表以後も、時として変更のある場合があります。


また真剣な参禅者は全くの初心であっても、直接井上貫道老師に相見に行き、法を尋ねることができます(相見しょうけん=師家との面談のこと) 事前にアポイントを取ってからお会いに行ってください。
井上貫道老師  少林寺東堂老師(前の住職) 〒436-0013静岡県掛川市子隣309 電話0537-22-5355
 貫道老師は、前の住職であって、2016年9月以降は住職ではありません。貫道老師にご用の場合は、自分の名前を名乗った上で、「貫道老師」と明確にお告げ下さい。

少林寺のアクセス:掛川駅で降りて、駅の北側(新幹線側は南口)の静鉄バス大東浜岡線 のりばから10分の「子隣」で下車 徒歩8分  バス時刻表⇒http://data.justline.co.jp/nanj/polelist.do?busstopcode=62010



なお、このページ、このブログhttp://zazen.blog.jp/ では、井上貫道老師のみの坐禅会をお知らせしています。
また、井上貫道老師が講師を勤められる攝心がある場合でも、インターネットでの告知が禁じられているものについては、当ブログ、当ブログ関連のSNSも含めて、ネット上には掲載していません。その情報は各地の井上貫道老師坐禅会で収集してください。



◇各禅会の日時、開始時間終了時間、参加費用(無料のものから3,500円乃至それ以上など禅会により異なります)

日程の確認は必ず主催者にしてください。

寺院を始め坐禅会会場を訪問される方は、あらかじめ寺院での作法(まず本堂の前で合掌一礼をする、寺院境内で出会う関係者には会釈をする) や禅堂作法を知って(一度会場に入れば所縁を放捨して、雑談・世間話・情報交換・アドレス交換などをしない)おいて下さい。



「坐禅の間には休憩時間がありますが、あれは休憩ってわけではないですよ。その時間におしゃべりしたりすると、人間は会話に引きずられますからね。せっかくの坐禅が台無しになってしまいます。」―井上貫道老師




以下日本各地での2017年現在の坐禅会情報です。
記載事項に誤りなどがありましたら、ご指摘いただければありがたいです。
ご指摘のコメントは、こちらからお願いいたします。

なお、会費と講本については、原則ここに記載していません。あらかじめ各坐禅会の主催者にお尋ねになるか、現地でご確認下さい。



東京地区、静岡地区、関西地区、岡山地区の順に掲載しています。



<<東京地区>>

恵比寿・福昌寺での井上貫道老師坐禅会
【場 所】 〒150-0011 東京都渋谷区東3丁目10−13
恵比寿駅西出口から駒沢通りを東に向かって数分歩くと明治通りにぶつかりますので、その交差点の横断陸橋を渡ると、鉄筋造りの寺院があります 角のビルの隣です
「渋谷橋」というバス停の前にお寺があります
電話:03-3407-1652
【地 図】 https://goo.gl/maps/053Na
【日 時】 基本月初の第一金曜日(変更のある場合がありますので、必ず主催者にお問合せください)の夜午後6時半から午後9時半くらいまで
【内 容】 坐禅と法話・質疑応答
【問い合わせ先】 電話:03-3407-1652 福昌寺

恵比寿の福昌寺は恵比寿駅から徒歩5分位のところにある鉄筋造りの寺院ですが、
歴史は大変古いようです 正式名称は渋谷山・福昌寺です
6階に坐禅堂があります




◆中野坂上成願寺での井上貫道老師坐禅会

【場 所】 東京都中野区本町2-26-6 成願寺(じょうがんじ)の南書院です。時々この南書院が葬儀などで使用されるときには、本堂地下の坐禅堂に変わります。
アクセス地図などは、http://www.nakanojouganji.jp/accessmap.html にあります。地図上に小さく「南書院」と出ています
なお、井上貫道老師坐禅会は、成願寺主催ではないので、寺院に問合せの電話はいれないで下さるようお願いいたします
問合せは下記にあります

【日 時】 毎月第一金曜日の翌土曜日が基本で行われています(なので第一土曜日とは限りません)
成願寺のサイトに予定が記載されています
(変更のある場合がありますので、必ず主催者の豊島徹禅師(成願寺の僧侶ではありません)にお問合せください 電話番号は下記です)

平成29年下半期予定(2017/6/4掲載)
7/8   8/5    9/2   10/7   11/4   12/2   


【内 容】 午前9時半から坐禅、昼食、提唱と質疑、後片付けと掃除終わって午後5時前散会
独参は坐禅中に希望者のみ受けられます
【講 本】『正法眼蔵』水野弥穂子校注、岩波文庫(一~四巻まで有ります 古書店を探すと文字の大きい大判ワイド版岩波文庫のもあります)
【会 費】 1,500円  テキストは会場にコピーあり(初参加の人用) 続けて参加される方は、自分用に講本をご用意下さい  2017年6月現在で、(一)~(四)のうち、(三)のほぼ真ん中「見仏」まで進んでいます
【問い合わせ先】 主催者の豊島徹禅師 ☎090-7288-4191

日程の確認は必ず主催者にしてください

【その他】初めての方は少し早い目に来られると、坐禅作法などを教えて下さいます
午後4時半に質疑が終わり、皆で内外の掃除をしてから、午後5時までには解散
会場をお借りした御礼に全員で内外の掃除をします

昼食必ず持参してください(おかずは主催和尚が供養して下さいますので主食のみ持参して下さい)



◆井上貫道老師四谷坐禅会

東京四谷の笹寺の健康寺子屋
f0581eff

会場 
笹寺 本堂
新宿区四谷4-4

参加費 
どなたでも1000円で参加できます。
たくさんの方々のご参加をお待ちしております。

※動きやすい服装をご用意ください(更衣室あり)



健康寺子屋のホームページに書いてあります

曹洞宗の老師・井上貫道老師は中野坂上成願寺(じょうがんじ)での
月初の土曜日の座禅会(9時15分~17時)にて、ご指導のあと、
中野坂上から四谷に移動されます

詳細は健康寺子屋のサイトをご覧ください 










◆井上貫道老師東新宿坐禅会

2016年10月より井上貫道老師を毎月お招きして坐禅会を開催します。
毎月第1又は第2日曜日 9:00~12:30
日程や時間の確認を必ず主催者にしてからご参加ください

主催 金子 閑道 080-4466-6934
※ここは個人マンションに付き場所が狭いので収容人数が少なくなります 土曜日の成願寺に行ける方はできるだけ土曜日にご参加ください
とのことです

●主な内容:坐禅 3炷、質疑応答、独参、清掃後解散


●定員16名

※参加費500円(当日お支払い下さい)

 
●問い合わせ・申し込み
 主催:金子閑道 080-4466-6934


●会場  クリオ新宿戸山壱番館 101集会室 新宿区新宿7-3-35
 来場の際は上記に電話しオートロックを解除し入室下さい

 ・都営新宿大江戸線 若松河田駅 河田口 エレベーター

  ⇒ 職安通りを渡り直進、大久保通りを左に徒歩8分 総務省統計局の隣の隣です

 ・副都心線 東新宿駅 B2 エレベーター

  ⇒ 大久保通りを飯田橋方面に徒歩8分

shinjukuzazenkaikaijokanekohousekenkoshome















図が小さいので見えにくいですが、図の右端が大江戸線「若松河田駅」、図の左端が副都心線「東新宿駅」です  総務省統計局の西隣のさらに西隣です




<<静岡地区>>

◆井上貫道老師少林寺禅会
毎月1回土曜日から日曜日、途中参加可能
嵩山少林寺フェイスブックページに詳細があります


◆井上貫道老師静岡市鯖大師坐禅会
【場 所】 静岡市駿河区稲川1-3-17  崇福寺(鯖大師)万松閣:門を入って右手白い建物2階です
JR静岡駅より徒歩約7分 
【日 時】 毎月一回木曜日夜6時半から9時まで 
日程の確認は必ず主催者またはこちらからしておいてください

【会 費】 一回1200円
【講 本】『正法眼蔵』水野弥穂子校注、岩波文庫(一~四巻まで有ります 古書店を探すと文字の大きい大判のもあります)
【問い合せ先】 ☎054-284-1057 川上宅    090-5856-1712 川上ふさ子

【その他】 25年続いている坐禅会 テキストは『正法眼蔵』
関連ブログ:http://blog.livedoor.jp/lrf6662/archives/cat_634792.html
関連ブログ:http://ameblo.jp/10wanko28/entry-11528265009.html




◆井上貫道老師福王寺坐禅会
【場 所】 〒438-0084 静岡県磐田市城之崎4丁目2722−1 福王寺
【アクセス】 JR磐田駅前からバスが出ています
http://info.entetsu.co.jp/navi/pc/dispjikokutable.aspx?tp=HTML&bs=260120&pn=2&nw=0
城之崎下車 北へ徒歩    磐田駅からの徒歩でもそんなに遠くないです
【日 時】 午前中です
日程の確認は必ず主催者にしてください
【内 容】 坐禅と法話と質疑応答
【問い合せ先】 ☎0538-35-7272 福王寺

磐田の福王寺は大変歴史の古い名刹です




◆ 井上貫道老師・磐田「りんごの会」 お母さん方の勉強会 (日程は変更になる場合がありますので、直接
  ご確認下さい) 本音をぶつけるお母さん達のユニークな勉強会
【場 所】 磐田見付公民館
【内 容】 お問い合わせ下さい
【問い合せ先】 問い合せ先 ℡0538-37-3068 主催者 高梨和子

 




◆ 井上貫道老師川根「大泉院」坐禅会 (日程は変更になる場合がありますので、直接ご確認下さい)
【場 所】 静岡県榛原郡川根本町徳山993
【日 時】 今年は実施されていないかもしれません
【問い合わせ先】 掛川の少林寺 電話0537-22-5355 にお問い合わせ下さい








◆火曜日の夜の浜松・弘誓寺での貫道老師坐禅会
【場 所】 〒430-0824 静岡県浜松市南区富屋町6 弘誓寺(ぐぜいじ)
053-425-5099   浜松駅からバスがあります
遠鉄バス8番のりばから「掛塚」行きに乗り、立野で下車
【日 時】基本月最後の火曜日(変更のある場合がありますので、必ず主催者にお問合せください)
【内 容】 坐禅と法話・質疑応答
【問い合わせ先】 ☎053-425-5099 弘誓寺(ぐぜいじ) 
【地 図】 https://goo.gl/maps/yvHx6





◆浜松市東区半田山・龍泉寺での井上貫道老師坐禅会

【場 所】 〒431-3125 静岡県浜松市東区半田山4-18-5 龍泉寺  浜松には同名の龍泉寺がいくつかあります
【日 時】 基本月最後の金曜日の夜6時半から午後10時まで(変更のある場合がありますので、必ず主催者にお問合せくださるか下記の龍泉寺公式サイトでご確認下さい)
※宿泊希望者はあらかじめ龍泉寺のご住職(井上哲秀老師)とご相談ください
【内 容】 坐禅と提唱と質疑応答
【主催者】 龍泉寺東堂・井上哲玄老師 龍泉寺住職・井上哲秀老師
【問い合わせ先】 龍泉寺☎:053-434-0935 FAX:053-434-0859

龍泉寺公式サイトにも最新予定が掲載されています 「金曜坐禅会」というのが、井上貫道老師の坐禅会です

ここ龍泉寺は、井上貫道老師の師・井上義衍老師が仏道指導を長年された寺院で、曹洞宗公認参禅道場です   貫道老師にとってはご実家(実寺?)になります


【アクセス】
① JR浜松駅北側の遠鉄バス13番乗り場で「浜松医科大学」行きに乗り(1時間に5本くらい)、「半田山」(浜松駅から約40分~50分、420円)下車 徒歩5分 バス停は「半田」ではありません 「やぶきた入口」より近いです
浜松駅医科大学方面行き時刻表はこちら

② JR浜松駅から、徒歩5分の遠州鉄道新浜松駅に行き、そこから乗車、「積志せきし」で下車、そこからタクシー(2,000円くらい) または徒歩25分(道は一本)
遠州鉄道新浜松駅の時刻表はこちら


龍泉寺の場所 静岡県浜松市東区半田山4-18-5
地図は http://goo.gl/maps/WL2ST


※井上貫道老師の著書『げんにーび』の通信販売について
嵩山少林寺禅道場のフェイスブックページにも書いてありますが、

書籍をお求めの方へ
「少林寺では義衍老師の書籍の通信販売はいたしておりませんのでご了承下さい。
義衍老師の書籍をお求めの方は、浜松の龍泉寺様へお問い合わせ下さい。

貫道老師著『げんにーびー』(定価1,000円)
の通信販売に付きましては、本代と送料込みまして1,400円を現金封筒にてお願いしております。

送り先 郵便番号住所と氏名  電話番号  冊数 を明記して、
 少林寺FAX番号0537-64-4008へ  少林寺電話は0537-22-5355
 
2冊以上のご購入をお考えの方はご連絡下さい。
貫山 合掌」


とのことです。 







<<関西地区>>
H29貫道老師坐禅会予定













平成30年の関西禅会日程は、こちらをご覧ください


神戸 井上貫道老師坐禅会
・3ヶ月に1回の、神戸楽の森での井上貫道老師坐禅会(1月2月4月5月7月8月10月11月の基本第四日曜、年間8回) 正確には、第四土曜日の翌日の日曜日ですので、第5日曜となることもあります
円通寺での貫道老師坐禅会の第二日目(早朝)と同じ日になります
主催は神戸大阪坐禅会

【時 間】 11:00~17:30 ( 井上貫道老師神戸坐禅会のサイトで確認のこと )
【内 容】 坐禅4炷と独参と提唱と質疑応答、斎座(昼食持参)

【その他】 
昼食とお茶などの飲み物 持参
人数分の座布(坐禅用の丸いクッション)と その下に敷く 座布団(四角く分厚い布団)が用意されていて、快適に坐禅ができます
また空調もあります
 
【申込制 定員あり】 楽の森での井上貫道老師坐禅会の詳細はこちら
定員があります インターネットでの申込制です 開催日の3ヶ月前から申し込み開始となります



井上貫道老師月曜坐禅会 (2018年から非開催)
2015年1月から、1月4月7月10月の基本第四日曜の井上貫道老師神戸坐禅会の翌日月曜日に、場所を変えて京都四条烏丸で、井上貫道老師京都月曜坐禅会が行われていましたが、主催者都合により2017年は大阪にて行われます
主催は、京都大阪坐禅会

【会 場】 

【時 間】 10:00~17:50 ( 井上貫道老師月曜坐禅会ホームページで確認のこと )

【内 容】 坐禅6炷と独参と提唱と質疑応答、斎座(昼食持参)

【その他】 昼食とお茶などの飲み物 持参

【申込制 (定員24名)】
インターネットでの事前申込制です 開催日の3ヶ月前から申し込み開始となります
井上貫道老師月曜坐禅会の内容や申し込みはこちら




大阪 井上貫道老師坐禅会
大阪池田の古道場で定期的に井上貫道老師をお招きして、坐禅会が開催されています
環境も素晴らしいです
3月6月9月12月の年4回
2017年は、平成29年3月23日(木),6月29日(木),9月21日(木),12月21日(木)
主催は大阪坐禅会

【日 時】 10:00~17:50 ( 井上貫道老師大阪坐禅会ホームページ で確認のこと)

【内 容】 坐禅5炷と独参と提唱と質疑応答、斎座(昼食持参)

【その他】 昼食とお茶などの飲み物 持参

【申込制 定員あり】
定員があります(30名) インターネットでの事前申込制です 開催日の2ヶ月前の正午からネットで申し込み開始となります。
井上貫道老師大阪坐禅会の内容や申し込みはこちら


大阪坐禅会における井上貫道老師提唱と質疑のDVDを販売しています
  DVDのご注文は、こちらから  ※売上は、坐禅会運営i.e.会場費と備品代に充当させていただきます



上記の神戸坐禅会の講本である、
講本該当部分のプリントも都度配布されます

その他
井上貫道老師の著書『げんにーび』 定価(税込)1,000円 
井上義衍老師『無門関提唱録』(3冊組 箱入り) 定価(税込)8,750円
井上義衍老師 『無相伝光録』  (2冊組 豪華製本 全1,000ページ) 定価(税込)30,000円
 も現場で頒布 在庫なしの場合はご容赦下さい
 
※伝光録は、太祖瑩山禅師が釈尊からはじまる祖師方52人の大悟の機縁をまとめたもので、それをさらに井上貫道老師の師・井上義衍老師が提唱されたもの  宝財として学人の机上に置いておいていただきたい貴重な書籍です 残り部数わずか





<<中国地区>>
・岡山新倉敷の円通寺での井上貫道老師坐禅会
【場 所】 〒713-8123 岡山県倉敷市玉島柏島451 円通寺
【地 図】 https://goo.gl/maps/HGFWF
【日 時】 基本第四土曜日の夜と翌日曜日早朝から (変更のある場合がありますので、必ず主催者にお問合せください)
日程の確認は必ず主催者またはこちらからしておいてください

【内 容】 坐禅と独参と作務と提唱・質疑応答
【問い合わせ先】 ☎086-522-2444  円通寺  早朝の暁天坐禅のあと粥座(おかゆの朝食)がありますので、
その準備の都合上あらかじめ円通寺に参加をお申し出下さい


宿泊される方は、隣の国民宿舎良寛荘が一番円通寺に近いです。
第二日目の日曜は早朝から坐禅・独参があります 独参は希望者のみです
粥座(朝食)・掃除・提唱と質疑応答


玉島の円通寺といえば、若き日の良寛禅師が大忍国仙禅師に就いて修行された道場で、良寛さんが悟りを開かれたところです
ryokando













 
以上は、日本各地での2016年現在の井上貫道老師坐禅会情報です。
初心者、経験者、久参・古参、関係がありませんので、初心者歓迎です
従いまして、真剣な方なら、坐禅がまったく初めての方や今まで仏教を学んだことのない方でも参加が可能です。
その他、井上貫道老師の坐禅会・接心がありましても、非定期的に開催されるもの、ネットでの告知が許可されていないものは、当ホームページには記載していませんので、ご了承下さい。

それらについては各地の井上貫道老師坐禅会で情報が入手できる場合もあります。


★各地坐禅会情報についての記載事項に誤りなどがありましたら、ご指摘いただければありがたいです。
ご指摘のコメントは、こちらからお願いいたします。

なお、会費と講本については、原則ここに記載していません。現地でご確認下さるか、あらかじめ各坐禅会の主催者にお尋ねになってください。



◆ あと、もう少し坐禅会情報があります それはこちらをご覧下さい



★ どなたでも自分の地方で坐禅会が開催できます★







はじめて坐禅会に参加する方も関係なく井上貫道老師の坐禅会がおすすめです
修行は積み重ねではないので、坐禅修行に初心者とかベテランとかありません
余計な知識のない分、初心者のほうが良いと言われます


ただ、座禅の作法や坐の組み方などがありますので、
 坐禅作法についてはこちらで予め練習しておいて下さい




  摂  心

◆一日中坐禅修行に打ち込む摂心(攝心せっしん)という期間があります
現在公開されている攝心情報はありませんが、ネットで公開されていないものがある場合があります
井上貫道老師各地坐禅会で情報をお取り下さい




【 摂心の時の井上貫道老師の提唱から 】

● 坐禅の間には休憩時間がありますが、あれは休憩ってわけではないですよ。その時間におしゃべりしたりすると、人間は会話に引きずられますからね。せっかくの坐禅が台無しになってしまいます。

  でも自分たちが自分たちの場をおしゃべりして壊すんですね。


● 生きているうちに片を付けないと、ものにならないですよ。
使えません。

できるだけ若いうちに決着を付けて、長い間役に立ってください。

だから修行をぐずぐずしないこと。




● 近い人も遠方の人も、わざわざこの寺に来て接心しようというわけですから、社会のことをここまで持ち込むのはもったいないですよ。

世間のことは打ち捨てて坐ってください。




● 本気になって求めると言ったりしますが、本当に坐りたければ坐るもんですよ。

他人がおしゃべりしてようが、寝てようが、そんなの放っておいて坐りますね。




●本当に気になっていれば、四六時中そのことが心から離れないですよ。

気にかかっているものを放っておけるわけがないんです。




● 「言うとおりやってみようか・・・」なんて遠慮がちにやるからスカッと行かないんだね、半分ぐらいの人は。(笑)





●「作務」は、一般の仕事とはちょっとおもむきが違います。

ただそのことをそのこととしてやるだけです。

人のためやお寺のためではありません。


―井上貫道老師





 あと、もう少し坐禅会情報があります それはこちらをご覧下さい




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