坐禅の仕方と悟り,見性,身心脱落:井上貫道老師の庵 まとめブログ

Dharma Talks of an Enlightened Japanese Zen Master Kando Inoue Roshi 井上貫道老師が、悟りを体現された経験から坐禅の方法や仏道について語られたものを掲載しています web上に散見される井上貫道老師のことばも引用掲載し、まとめブログとしました ( これは参禅者によるブログであり、公式サイトではありません ) このブログが正師への参禅のきっかけになりますように

タグ:仏道をならうというは自己をならうなり

「佛道をならふといふは、自己をならふなり」 ―道元禅師


▶仏道とは、本来の自己を自分で本当に見届けて、それに動かされることです。  ―井上貫道老師

▶修行とは、どっか他所(よそ)でやるんじゃないんですよ。 ここでやるんです。
いつもここでしか生きていないんだから。
もう1つの今なんてないんですから。  ー井上貫道老師


 
 

『学道用心集』の提唱の最終日:

inouekandoroshizazen2ske2全体に一言でまとめれば、みなさん、一緒に目を通していただいてるとおり、
自分自身の、今、生活している、今、今、生活している「ここ」でね、
この様子に学んでくれれば、このことがみな分かるようになってる。


でその具体的には、人間の持っている、五官ないし六官と言われるそういう道具がありますから、
五官=眼耳鼻舌身  六官=眼耳鼻舌身意 
その道具の働き、それを「諸機能」と言っておられますが、
その諸機能は、みなさんが考えておられるようなつまらない働きではない、
もっともっと、底抜け、大きな働きをして、初めっから、飛び抜けた立派な様子であるということ。


だからそういうお互いですから、自分自身の、その素晴らしい働きをしている、「本来の相(すがた)」と言っていいですか、
「本来の自己」と言っていいですか「自分」と言っていいと思います、
そういう誰もが持ち合わせてる素晴らしさ、宝物がありますから、
それを自分で本当に見届けて、
それに生涯動かされて、
思う存分、悔いなく、生きていただきたいと、
こういうことです。


あとは、何か条か出てましたけども、「有所得の心」。
いろんな意味で有所得の心、
「あれが欲しい」「これが欲しい」「ああなってほしい」「こうなってほしい」
いうようなものが人間にはありますが、
そういう、ケチなというか、小っぽけなというか、(義衍)老師が「つまらない」と言ってるんでしょう、
そういうものを、少しいただいて、喜んでるようなことにならんように修行してください。


ま、こういうことですね。


あとはほとんど、いいんじゃないかと思います。


もう少し補足をすれば、「どうしてそれでいいのか」いうことでしょう。

みなさんが描いている、本当に「知りたい」「得たい」「なりたい」境涯。


そういうものが、今のみなさんがたの動きそのものに、全部、あるということです。
どっか他所(よそ)にあるのじゃなくて。


だから、修行の仕方、求め方、というものが、
目を他所に付けるのではなくて、
自分自身の、今、生活している、このことに目を向けて、
そしてそれが本当にどうあるか、いうことが基本的なあり方でしょ。


そうやっていきますと、当然、自分の考え方なんてものは、全く、要らなくなる。

そんなものに手を付けててもしょうがない、それこそ。


ここに実物があるわけですからね。
生活してる実物があるんですから、それを人間の考え方で手を付けて、壊して、どうこうするんじゃなくて、
この、生活してるこの事実に用がある。

それをそっくりそのままいただいてみる。考え方を通すんじゃなくて。

それだけを、丁寧にやってくれれば、修行になるでしょ。






私たち自分が今生活してる様子が、坐禅の時は坐禅をしてる様子がある。
そんなにはっきりしているのに、そのことに参じて、触れていながら、生活を自分でしていながら、
そのことが自分でどうなっているか分からないっていうほど、愚かであっていいわけがない。

いわゆる、自分の生活を本当になおざりにしてるっていうことになるでしょ。


要するに、この今生活してる中に大事なものがあると思ってないから、いい加減にしてるんでしょ。

もっと他に大事なものがあると思ってるから、ここ今生活しているこの今のありように本当に目を向けていないのでしょ。


ところが、これも理論的に話したら少し理解がいくと思うんだけど、
私たちは、いついかなる時でもですよ、時間の上から言ったら、「今」だけですよ。
いるのは、自分がいるのは。

場所的に言えば、このものがいる「ここ」と言われる場所だけですよ、いつも。
そっから離れたことがないですよ、「今」とか「ここ」とかって言われる。


何十年生きようが。


嘘だと思うなら自分の様子を見てごらんなさい。
この身体のある所でしか生きてないでしょ。
この身体が行った先々でそのとおりのこのまま生活をしているだけじゃないですか、生涯。
それを端的に言えば「今こうやってるだけ」でしょ。


今だって「これ」以外にないでしょ。自分の生活してる、場所、時間帯。
だから、ここで勉強するしかないんですよ。このことで。


ところが、頭がちょっとおかしいもんだから、
「こんな所に?」って思ってますから、
「もっと他の時間帯/他の場所に行ったら何かいいことがあるんじゃないか」、端(はな)からそう思ってる。
そういう考え方の上で修行しちゃ、駄目ですね。それは修行にならない。


事実を抜きにしてものを学ぼうと思っても通んないですよ。


もっと普通に言えば、お茶の味を本当に味わいたいのに、飲まないでお茶の味を知ろうと思ってるのと同じぐらい愚かですよ。
やってごらんなさい、飲んだら必ず分かる。

どうもしないでも。

ここ(頭)じゃない。
これ(お茶)が教えてくれるの。


そうやって勉強するの、修行するの。

私の都合じゃないから、必ずこの中に入ってるお茶の味がするように出来てる。
いくらたくさんお茶碗があって注いであっても、他の人のお茶碗の味は絶対こうやってしないように出来てる。
そんなにはっきりしてる。
迷わないように。


それで十分じゃないですか、
このものの中に入ってるお茶の味が飲んだ時したら、それで。


このまま飲んだ時、他の人の中に入ってるお茶の味がするようだったら、もう人生めちゃくちゃだ。(笑)

そんなこと一切ない。

基本ですね。
修行、修行をどういうふうにして、どこで、何に学ぶのか、どうあるのか。

井上貫道老師が坐禅会で話されたことばから


仏道をならうというは、自己をならうなり ―道元禅師

 
●釈尊も道元禅師も、みんなあらゆる書物を勉強して理解できたほどに頭がいいのに、結局はそれを捨てて自分自身に学んだんです。

なぜ大先輩達が自分のありように学んだのか、ってことですよ。






●本来「禅」なんてないですよ。

本当の真実そのものだけです。


それを見つけた代表の一人が釈尊です。
後世の人がそれを名付けて「仏教」「禅」と呼んでいるだけですよ。





●(仏法どおりに)「そうなれるか」「できるか」じゃなく、「そうなっている」ことを確かめてください。





●ある参禅者(一般人)と老師との問答:
私:
かくかくしかじかのことを見ました。

老師:
間違っていません。そのまま置いておけばいいです。


参禅者:
今まで通り坐禅を続ければいいのですね。

ただ、今は思考がわーっと動き出して、見たそれを「ははあ、なるほど、そういうことか」と概念化したがっています。


老師:
まあそうでしょう。面白いもんですよ。今まで聞いた仏教知識や経典が全部分かるようになるので、頭の中で整理し直したくなるんです。考えを整理しているのは面白いですからね。

それと、他人の言うことや修行に口出ししたくなったりね。

今はそういう時期ですから、しばらくそういったことに注意して、坐禅を続ければいいです。



参禅者:
あああ~、まったくおっしゃるとおりです。気をつけて続けます。
もし頭で整理している様子が出てきても、それもそのままにしておけばよいですね。

老師:
そうです。
 


参禅者:
そのうち完全な自覚が生まれるのでしょうか。

老師:
もちろんです。だってそれ以上、何も無いんだもの。 
 
(問答終わり)





●悟っても喜怒哀楽がなくなるわけではありません。
釈尊だって喜怒哀楽を持っていました。

ただ自分の思いや自分勝手から出る喜怒哀楽ではありません。

そこが一般の喜怒哀楽と違うところです。





●何もしないで手を付けずにおれば、「縁(=事実、現象)」によってこの心身は自由に変わります。 
千変万化です。とにかくそれをよく見てください。




●いくら縛ろうとしてもこの全心身は自由に活動しています。
赤いものを見れば赤く映るでしょ。
青に変えればさっと青に変わるでしょ。

そのぐらい自由です。




●もちろん自由と言っても「自分の思いどおりになる」という自由ではないですよ。





●普通の人は、自分で描いたイメージどおりになれば納得するし、ならなければ納得しない、それだけのことなんですよ。




●「あの人はいい人だ」とよく言ったりしますよね。でもこの「いい人」って言ってるのは、多くの場合、「自分の思い通りになる人」のことなんです。





●「思い」の中に実相はないんです。只の虚像にすぎません。





●「自分の様子」は探さなくてもいいんです。いつでもどこでも自分の様子ばかりでしょ。それに手を付けずそのまま参じていればいいんです。




●「リリリリ」と鈴虫が鳴いていますね。「リリリリ」だけで終わっておけばいいんです。




●お湯飲みの中にお茶が入っていたら飲むし、臭いものが入っていたら手を出したくありませんね。

でもお湯飲み自体は何も変わらないでしょ。


自分というのはお湯飲みです。

採れたての事実を自分という器の中に入れましょう。


というか、いつでも採れたてのはずですね。





●事実を取っておくことはできませんよ。

事実をつかまえておくことは不可能です。
記録することはできますけどね。




●昔のことを今やっている人は一人もいませんよね。誰しも今は今のことしかやっていません。1分前のことを今やっている人がどこにいますか?






●自分の生きているこの姿こそが根本で、それ以外に何もないでしょ。
だからそこに勉強するのが一番ですよ。
書き物や人の言ったことよりもそちらに学ぶことです。





●手放しなさいというと、何か握っているものがあって、それを捨てるんだと思うのは間違いです。

(机を叩いて)「コン」、

これに手を付けないようになどと言いますが、手を付けるものがありますかね?

手放すものもなく止めるものもない、そのことを指して「手放す」と表現しているだけです。





●「どうしようか」「こうしようか」というのが休まっている時が正法現前です。






●「どれが今の様子だ」なんてつかまえて「これか」なんてやると、もうお話にならないですね。





●「教えのとおりになろう」とすると、そのことが距離を作り、追いかけっこしてしまいますよ。





●こうやって「コン」と机を叩くと、距離も時間も飛び越えてそのままあるでしょ。

でも大抵の人は「向こうで鳴った音をこちらで自分が聞いた」と思いこんでるんですね~。





●本当は目、耳と区切ることはできないんです。これら全部が自分の様子、全体です。





●この身だけが自分の様子ではありませんよ。何から何まですべてが自分の様子です。





●大雨で近所の川の堤防が切れて氾濫したら、これも自分の様子です。自分の様子だからこそ自分で直しに行くんです。





●大抵の人は、自分に入ってきたものを、あとから眺めているんです。だから満足できないんです。





●禅で避けたい心の状態を「昏沈散乱」(こんちんさんらん)と言いますが、昏沈(こんちん)の最たる状態がウツやひきこもりです。

こういう状態になると、自分の考えにばかり目を向けて、事実に目を向けていないことが多いです。




●一番小さな禅は鐘が鳴って始まり、鐘が鳴って終わります。いわゆる坐禅です。一番大きな禅は、始まりなく終わりもないですね。ずっとこれ全てです。




●坐禅をしたから痛みが消えるということはありません。痛みはあっても気持ちの上で苦しまずにおれるようになるということはあるでしょう。







●道でうずくまっている人を見かけると、「どうしたのかな」と近寄っていく力を誰しも持っているんです。

でも考え方のほうで「いや他に用があるから」とかいってそのまま通り過ぎちゃいます。

なのにずっと気がかりなんですね。

この「どうしたのかな」という気持ちのことを「正一念」と言います。




●「人にへつらう心は道に相違する」と釈尊は言っています。






●悟りを開く人は「分かった」なんてことはないので、きちっと決まるんです。


↑このページのトップヘ