井上貫道老師のことばです。


●眼は色を認識しないんです。
これは世間の常識では理解されないんですけど、眼が色を認識しているのではありません。

どこで色を認識しているかわかりますか?



●耳は言葉を認識しませんね。
耳は音を聞くだけです。

言葉にしているのは、どこか別の所にあるんですね。

でもって同じ言葉を聞いても怒ったり怒らなかったり。




●「心は壁のごとし」と言います。
風が壁に当たれば壁はどうなりますか?

やっぱり風を感じますよ。

でも認識はしません。

それと同じです。


 

●「本気で修行」と言いますが、目標を立てて一生懸命努力したりするのは単に力んでいるだけです。

スポーツだって、本気でやるときは力を抜くでしょ。





●世間的には修行というと、目標を立てて努力し、今の自分とは違うものになることだというイメージがありますね。

そうではなく、今の自分そのものに参じていくことが修行です。



 

●海外で指導していると、日本も海外も一緒だなと思います。

みんな何か目標を立てて努力をして今の自分とは別なものになろうとしてしまっています。


そうじゃなく、今の自分そのままが真実で何の問題もないんだということがなかなか伝わらないですね。





●修行が進むと何事にも用がなくなってくるので、一見バカになったように見えます。それが怖くて多くの人は頭を使っちゃうんですね。大丈夫です、本当のバカにはなりませんから。


 

●「禅堂に入るときには左足から入りなさい」と言われて「なぜ?」と思っちゃうともう分からなくなりますね。

なぜなんて思わず、そのまま「はい」と左足から入ればいいんです。

それだけです。
理解しようとするから分からなくなります。




●弓道では、余分なことをせず弓を引いて放せば飛んでいくんです。
そのように弓は作られています。 
 
余計なことをすると飛ばないんです。当たり外れもありませんね。

いかなる場合にも、矢が飛んで行った方向に矢が飛んで行きます。
飛んで行った方向と違う方向に飛んで行くことはありません。





●多くの人が、坐禅中においてさえ、理想を求める境地を頭で探しています。それは一見坐禅らしく見えますが、真実から外れています。





●真実は考え方じゃないんです。真実には説明がいらないんです。



 

●考え方で作ったものは脆いんです。

人間はあれやこれやと考えて、重箱の隅を突っつくようにして考え尽くし、これで完璧だ~なんて思ったりすることがあるけど、そこにちょっと違うものが入ってくると、とたんに崩れちゃいますよね。




●(机を叩いて「コン」)この音は崩れないですね。


 

●ほとんどの人は正しく見る力を持ってないですね。何かが見えたと気がついた時には、もう見えた後になってしまっています。





●眼は前に見たものを残しません。それこそが救いでしょ。何にも束縛されないんです。





●「むなしく死ぬ」っていうのは、自分のことが解決できないまま死ぬっていうことでしょうね~。





●「生まれ変わり」といいますが、次の生に生まれてきたということは、歴史上一度もありません。人生は一回こっきりです。

*編者註 
[仏教では、
たくさんの個人の魂があるとか、
亡くなったら肉体から出て行くとか、
生まれ変わり死に変わりして、魂が向上していくとか、
そのようなことは経典のどこにも書かれていません。
道元禅師も、辧道話ではっきりと否定されています「それは仏教ではない」と]