坐禅の仕方と悟り,見性,身心脱落:井上貫道老師の庵 まとめブログ

Dharma Talks of an Enlightened Japanese Zen Master Kando Inoue Roshi 井上貫道老師が、悟りを体現された経験から坐禅の方法や仏道について語られたものを掲載しています web上に散見される井上貫道老師のことばも引用掲載し、まとめブログとしました ( これは参禅者によるブログであり、公式サイトではありません ) このブログが正師への参禅のきっかけになりますように

タグ:井上貫道老師



「坐禅が進んで、内も外もなくなった人がいます

こうなると人生観が変わりますよ」

[ これが悟りだと言われているのではありません 念のため ]
ー(2014年夏の緑陰接心の提唱:接心3日目)井上貫道老師
 

(このブログは実践を前提に書かれています

更新がなくても、
今までの過去記事を
一番上のメニュー(スマホの場合はカテゴリー)から、
じっくりと学んでいただければ幸いです)




● 一般には、この身を境界として、自分と自分以外に分けて考えていますね。
 
いわゆる自分も、自分以外の世界も、自己と言います。






niwa
● この身だけが自分の様子ではありませんよ。

何から何まですべてが自分の様子です。









● 本当は目、耳と区切ることはできないんです。

これら全部が自分の様子、全体です。






● 大抵の人は、自分に入ってきたものを、あとから眺めているんです。

だから満足できないんです。




● 「音、音、音」じゃないですよ。「ザワザワザワザワ・・・」、これだけですよ。

「ザワザワザワザワ・・・」、これこそが本当の受け身というんでしょうね。




● 坐禅をどうしたらよいか知らないもんだから、
坐禅して少し心が静まってくると、すぐに居眠り坐禅してしまうんだね。

長年参禅している人は、たいてい寝ていますね。
10年、20年坐禅している人は皆そう。

寝ることは坐禅とは言いません。




● 専門家に坐禅を指導すると、

「今日は、よく坐れました(=よく坐禅出来ました)」

とか

「今日はあっという間に坐禅が済んだ」

とか感想を述べますけど、そんな程度なんだね、専門家でも。


そういうのは坐禅とは言いません
[ 専門家に対する批判ではなくて、坐禅会のわたしたちも、そうじゃないですか? と言われているのです ]





● 道元禅師の『普勧坐禅儀』に則って坐禅することが不可欠なんです。
   普勧坐禅儀 ふかんざぜんぎ

 http://zazen.blog.jp/archives/cat_958258.html
にて学んで下さい




Q.
普段から修行や正しい行いを続けて行こうと思うのですが、なかなか忙しくて難しいです。
継続していくのが大変だなと思います。

A.
考え方として申し上げるならば、こうやれば楽になるんじゃないですか -- 
 
つまり、これからずーっとそういうことが出来るかと考える必要がない。
 
今、きちっと出来さえすれば。ただそれだけなんですね。


人間て不思議ですね。
 
こういう状況がずーっと続かないといけないって思っている。
 
でも実際は、今のこの状況が続くなんてことではなく、
いつも今のこれがきちっとできるかということだけです。
 
今日一日出来るかしら、なんて、そんな長いことは考えない。
 

今やってることがちゃんとそこで出来ればそれでいい。


こういう話をすると、「今、今、今って、そんなことだけやってるのは、たまらん」という人がいる。 

考え方だとそうなっちゃう。

「これ飲んだらこれだけ」「これ食べたらこれだけ」なんて、
それは考え方。


普通、
これ飲んだら、自ずからこれを飲んでいる時だけの様子になるし、
食べたら食べた時だけの様子に、必ずなっているんです。

心配ない。






Q.
坐禅をすると、わーっといろんなことが出てくるんです。

A.
実際には普段から出ているんです。

でも普段はいろんなことで気が紛れているから、出ていることに気がつかないだけです。


坐禅をしていると他のことが収まるから、
いろんなことが出ていることに気づくだけです。


その出ていることを抑えようとするのは、かえって心を騒がしていることになるでしょ。

だって、出てきてしまったものをあとから無くそう無くそうとしているわけだから。


出てきてしまったものはどうしようもないのに。
 


そうではなく、
出たものを出たままに、何も手を付けずにいれば、
全然心を煩わさないよね。

これが本当の「心静か」ってことです。





● 仏道修行は、
今ここ で修行します。

「今」というと、「この瞬間だ」と言って、
「イマッ!」と切り出そうとしますが、
今はそんな風になっていませんね。





● 本当に「今の様子」それだけを見ている時は、それだけだっていうことも分からないはずです。
 
だって、「これが今の様子か」なんて余分なことが出てくる余地がないんだから。





● 修行は「思い」ではないんです。

「こうやればいいんだ」って方程式を立てておいて、それに沿ってやることではないです。




● 参禅は、「今の自分自身の様子」に参じることです。

そのために見聞覚知の六根を開放するのです。




● 五官にまかせる とか 六根を開放するって、
見えること、聞こえることを 観察するんじゃないですよ。
観察する自分などいないのですから。

「見ている」「聞いている」って風じゃないです。

だれかが言いましたね。
「主なくて見聞覚知する人を、いき仏とは是をいふなり」

 [至道無難禅師しどうぶなんぜんじ:白隠禅師の師の正受老人の師]





● 坐禅を◯◯の方法で10年やって来ましたという人がいたら、
10年やってどうなったのですか?
と尋ねてみてください。





●概念だけを取り上げているんです、実物じゃなく。

それが人間の世界です。


実物があるにも関わらず、実物の話をしないんです。


仏道ってのは実物です、
扱うのは。


実物は私には必要ない、って人はいないですね。



宗派に関係ない。
宗教に関係ない。

こういうものが仏道なんです。


  この記事のタイトル中:内外打成一片 ないげだいじょういっぺん と読みます
 

井上貫道老師の『正法眼蔵現成公案』提唱から


space

悟り体験をすれば、もう元には戻らないです

以後は、諸仏の過ごされた境涯というものをこの身体で楽しむことが出来るのです
   
―井上貫道老師




修行ということに関しては、一応悟ってしまえばもう関係はないと思っている人もおりますが、
とんでもない事だと思います。



悟るという事はですね、それで終わりというのではありませんで、二度と迷いの世界に戻れなくなるという事です。

例えば、分わかりやすくいうと、一度も来てもらったことのないこのお寺へ来てもらったら、もうその日からお寺に来なかった人にはならない。

どんなに騒いでみても、どんなにやってみても、もうお寺に来なかった前の人には戻らない。



それくらい悟りという事は人を迷わせない確かさがある、ということが悟りの大事な事ですね。



もし時間が経ったら忘れてしまうとか、元に戻ってしまうとかいうものだったら、尊ぶ所以(ゆえん)がないですね。


だから道元禅師が「一生の参学の大事おわりぬ」というような表現をしている。 参学の大事了



その体験をした事によって一応の決着がつきましたって、いうことですね。



それで私たちは見たこともなかった、行ったこともなかった悟りの世界に初めて足を踏み込んで、

諸仏方の過ごされた境涯というものをこの身体で楽しむことが出来るのです。



これで初めてそれが悟後の生活という事になるのかね。

ここら辺が楽しい処でしょう。

本当はこれをやってみたいわけですね。


そうじゃなければ、こういう祖師方の書かれたもの、残されたものを、
共に手を携(たずさ)え本当に参究して、
その味わいを味わうことはなかなかありませんね。



そういう人を作っていかないと仏法とかいうようなものがつまらなくなるんですね。
そうでしょ。

 

向こうの岸へ行ってないのに、こつちの岸から向こうの岸の話を一生懸命しているんですから、
こっちにみんな居るんでしょ。

お互いこっちに居るものどうしが、その中の人が向こう岸の話をした。

「お前行った事があるか」と言った時、「ない」といったらどうなるんですか?


(井上貫道『げんにーび』 (正法眼蔵現成公案提唱)p.181) 
 

井上貫道老師が坐禅会で話されたことばから


仏道をならうというは、自己をならうなり ―道元禅師

 
●釈尊も道元禅師も、みんなあらゆる書物を勉強して理解できたほどに頭がいいのに、結局はそれを捨てて自分自身に学んだんです。

なぜ大先輩達が自分のありように学んだのか、ってことですよ。






●本来「禅」なんてないですよ。

本当の真実そのものだけです。


それを見つけた代表の一人が釈尊です。
後世の人がそれを名付けて「仏教」「禅」と呼んでいるだけですよ。





●(仏法どおりに)「そうなれるか」「できるか」じゃなく、「そうなっている」ことを確かめてください。





●ある参禅者(一般人)と老師との問答:
私:
かくかくしかじかのことを見ました。

老師:
間違っていません。そのまま置いておけばいいです。


参禅者:
今まで通り坐禅を続ければいいのですね。

ただ、今は思考がわーっと動き出して、見たそれを「ははあ、なるほど、そういうことか」と概念化したがっています。


老師:
まあそうでしょう。面白いもんですよ。今まで聞いた仏教知識や経典が全部分かるようになるので、頭の中で整理し直したくなるんです。考えを整理しているのは面白いですからね。

それと、他人の言うことや修行に口出ししたくなったりね。

今はそういう時期ですから、しばらくそういったことに注意して、坐禅を続ければいいです。



参禅者:
あああ~、まったくおっしゃるとおりです。気をつけて続けます。
もし頭で整理している様子が出てきても、それもそのままにしておけばよいですね。

老師:
そうです。
 


参禅者:
そのうち完全な自覚が生まれるのでしょうか。

老師:
もちろんです。だってそれ以上、何も無いんだもの。 
 
(問答終わり)





●悟っても喜怒哀楽がなくなるわけではありません。
釈尊だって喜怒哀楽を持っていました。

ただ自分の思いや自分勝手から出る喜怒哀楽ではありません。

そこが一般の喜怒哀楽と違うところです。





●何もしないで手を付けずにおれば、「縁(=事実、現象)」によってこの心身は自由に変わります。 
千変万化です。とにかくそれをよく見てください。




●いくら縛ろうとしてもこの全心身は自由に活動しています。
赤いものを見れば赤く映るでしょ。
青に変えればさっと青に変わるでしょ。

そのぐらい自由です。




●もちろん自由と言っても「自分の思いどおりになる」という自由ではないですよ。





●普通の人は、自分で描いたイメージどおりになれば納得するし、ならなければ納得しない、それだけのことなんですよ。




●「あの人はいい人だ」とよく言ったりしますよね。でもこの「いい人」って言ってるのは、多くの場合、「自分の思い通りになる人」のことなんです。





●「思い」の中に実相はないんです。只の虚像にすぎません。





●「自分の様子」は探さなくてもいいんです。いつでもどこでも自分の様子ばかりでしょ。それに手を付けずそのまま参じていればいいんです。




●「リリリリ」と鈴虫が鳴いていますね。「リリリリ」だけで終わっておけばいいんです。




●お湯飲みの中にお茶が入っていたら飲むし、臭いものが入っていたら手を出したくありませんね。

でもお湯飲み自体は何も変わらないでしょ。


自分というのはお湯飲みです。

採れたての事実を自分という器の中に入れましょう。


というか、いつでも採れたてのはずですね。





●事実を取っておくことはできませんよ。

事実をつかまえておくことは不可能です。
記録することはできますけどね。




●昔のことを今やっている人は一人もいませんよね。誰しも今は今のことしかやっていません。1分前のことを今やっている人がどこにいますか?






●自分の生きているこの姿こそが根本で、それ以外に何もないでしょ。
だからそこに勉強するのが一番ですよ。
書き物や人の言ったことよりもそちらに学ぶことです。





●手放しなさいというと、何か握っているものがあって、それを捨てるんだと思うのは間違いです。

(机を叩いて)「コン」、

これに手を付けないようになどと言いますが、手を付けるものがありますかね?

手放すものもなく止めるものもない、そのことを指して「手放す」と表現しているだけです。





●「どうしようか」「こうしようか」というのが休まっている時が正法現前です。






●「どれが今の様子だ」なんてつかまえて「これか」なんてやると、もうお話にならないですね。





●「教えのとおりになろう」とすると、そのことが距離を作り、追いかけっこしてしまいますよ。





●こうやって「コン」と机を叩くと、距離も時間も飛び越えてそのままあるでしょ。

でも大抵の人は「向こうで鳴った音をこちらで自分が聞いた」と思いこんでるんですね~。





●本当は目、耳と区切ることはできないんです。これら全部が自分の様子、全体です。





●この身だけが自分の様子ではありませんよ。何から何まですべてが自分の様子です。





●大雨で近所の川の堤防が切れて氾濫したら、これも自分の様子です。自分の様子だからこそ自分で直しに行くんです。





●大抵の人は、自分に入ってきたものを、あとから眺めているんです。だから満足できないんです。





●禅で避けたい心の状態を「昏沈散乱」(こんちんさんらん)と言いますが、昏沈(こんちん)の最たる状態がウツやひきこもりです。

こういう状態になると、自分の考えにばかり目を向けて、事実に目を向けていないことが多いです。




●一番小さな禅は鐘が鳴って始まり、鐘が鳴って終わります。いわゆる坐禅です。一番大きな禅は、始まりなく終わりもないですね。ずっとこれ全てです。




●坐禅をしたから痛みが消えるということはありません。痛みはあっても気持ちの上で苦しまずにおれるようになるということはあるでしょう。







●道でうずくまっている人を見かけると、「どうしたのかな」と近寄っていく力を誰しも持っているんです。

でも考え方のほうで「いや他に用があるから」とかいってそのまま通り過ぎちゃいます。

なのにずっと気がかりなんですね。

この「どうしたのかな」という気持ちのことを「正一念」と言います。




●「人にへつらう心は道に相違する」と釈尊は言っています。






●悟りを開く人は「分かった」なんてことはないので、きちっと決まるんです。


井上貫道老師が坐禅会で話されたことばから


●(手にした扇子の角度をいろいろ変えながら)こうやればこう見えるでしょ。
こう変えればこう変わるでしょ。

これが不思量底を思量するということです。

坐禅はいくら姿勢を整えたって、この不思量底を思量するということがなければ、なんにもなりません。




●(机を叩いて)「コン」とやると、音がして気がつきますね。

音がするから気がつくんです。

気がつくのが必ず後になります。

気がつくより先にこういうこと(「コン」)があるんです。

これを丁寧によく見ていけば、それは人間の好き嫌いを超えているものだということがわかります。

そういうことに学ぶのが坐禅です。




●よく、捨て切る、などと言います。

これを聞いて、何か自分の持っているものを捨てるんだと思っていませんか?

何も捨てるものはないんですよ。

「コン」、この瞬間にすべて捨て切っているんですよ。




●(外を車が走り去る音に)「ブーーーー」だけじゃないですか。これだけです。これだけじゃないですか。




●「少欲知足」という言葉があります。
世間一般ではこれを、欲望を抑えて少ないもので満足する、という意味に解釈します。

でも仏法では違うんです。

(扇を広げて)こうすればいやおうなくこう見えますよね。

何の不足もありません。


これで何も困りませんね。
これが少欲知足です。

仏法は世間一般の解釈とは次元が違うんです。
はっきりしてるんです。

しかし最近ではお坊さんまでが世間と同じ解釈をしてしまっています。

寂しいことです。




●子供は画数で漢字を易しい、難しいと判断しません。見たままです。

なのに大人は、易しい字でないと子供に分からないと思いこんで、一年生は一、二、三から、なんてやるんですね。 

 


●(机を叩いて「コン」)この音は崩れないですね。




●ほとんどの人は正しく見る力を持ってないですね。
何かが見えたと気がついた時には、もう見えた後になってしまっています。




●眼は前に見たものを残しません。それこそが救いでしょ。何にも束縛されないんです。 

 

禅 茶話会また続き~2012年9月井上貫道老師東京都青梅禅会⑨
2013年04月17日(水) 


掛川 少林寺の井上貫道老師のお話です。


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うちに来る人なんかでもそう。

「もう頭いっぱいで何もできなくて、どこにも行く気がしない」って。

うちに来てるじゃない。



「もう、食べるのも飲むのもできない」って言って、
お茶飲んでるんですよ。



それくらい、自分がやっていても、自分の事はどういう事か、
(老師、頭を指して)
本当にここがいっぱいになってる人は、
自分の事なんかわからない。


それで、「いったいどうしたら楽になる?」
っていうんですね。
「どうしたら楽になる?」って言ってる事が
もうスッカリ余分な事が抜けて
楽になってる動きなんです。


そんな事一切思ってないんだもの。

「どうしたら楽になる?」って思ってるだけでの話をしてるわけですから。


それなのに、自分の中にいろんな思いが残ってるって、みてる。

ないのに。


それだから何かしないと楽になれないと思ってるから
余計おかしいじゃないですか。


それくらい、自分を見るのが下手ですね。


で、聞かないね。なかなか。

なかなか人の話を聞かない。


聞き入れない。言っても。


「それはそうかもしれないけど、、、」と言って

何か他人事のように扱ってる。



だから、話よりも、自分の生活している事実に学ぶって事が
ものすごく確かさがある。

人の話だと受け入れて初めて役に立つけど、
自分の生きている事実だったら、否応なし。

逃れられない事ですからね。


実際どうなってるか、
歩いて来たんでしょ?




(参加者)
もし私が友人にまた愚痴みたいに言われたら、
「でも今は大丈夫じゃないですか!。」と言ってあげればいいんですよね?




そうです、はっきりしている事を教えるって事が大事なんです。

わからない事を問題にするんではない。


ね、人には必ずはっきりしている事がある。


そんなに苦しんでても、



(パシッ)



「こうやって聞こえるか?」って聞いたら
「聞こえる」と、
「大丈夫だっ」、と。

それを大事にさせるんです。

それが薬なんです。


ところが知らない人は病んでる方を治そうとするじゃないですか。




(参加者)
難しくしちゃう。




―ね、
走る時だって、
体がどっか悪い時に悪い所は酷使しないよ。

使える所だけでやるよ。

ね、
わからないっと、痛んでる所をいじってる。

何かしたくなる。

こっちは、放っておけば治るんです。

こっちのいいとこだけで、治るんです。

だからみなさん知ってるのは、
人を褒めるでしょ。
それが最高です。


気にいらない事いっぱいあるにきまってる。

だけども、下手の人はこっちをやるじゃないですか。

こっちを治そうと思って、またあんな事してって、
全部死んじゃう。

そうじゃない。


ちゃんとしてる事をはっきりさせて大事にしてったら必ず伸びる。



今度の震災なんかでも、ニュース聞いてると出てくるけど、
子供達にいろんな仕事を与えて、
小さな子でも、何でもいいから。



そうすると、それをやった後に、

ありがとうとか、
おかげでとか、

大人達がそういうふうに言う事によって、

僕でも、私でも
人の為になれるんだという事自覚して
みんな伸びてるんですねえ。

それやってますね。

まあ、ボランティアの最たるものです。


だから一番震災に遭った現場の人達が伸びてます。

今まで勉強しなかった。そういうこと。


そんな小さい時から、自分がこの世の中に生きてて、
人の役に立つっていう自覚があったら
生きてる力沸くじゃないですか。

駄目になるのは、私、こんなとこに生きてて
何の役に立つのかしら?って思う人達。


年がいくと特にそうじゃないですか。


あの人生きている価値があるのかしら?
って思えておかしくなるんでしょう。


これはこういう事だ、
はっきりしている事を、
ちゃんとしている事を
修行の上では大事にする。



だからそれをもうちょっというと、
考え方の方は置いとくんですね。

修行の時は。

考え方の上の事だから。



(老師、頭を指して)

別にこれ、とりあげなくてもいいんです。

事実の方をちゃんととりあげたらいいんです。

修行って。



だけど、
知らない人は、
ここで悩んでるとか、
苦しんでいるとか
いろんな思いがあるからこれを持ってくるわけでしょう。


どうか楽になるように教えてくれって。


これを取り扱う人は下手な人です。


これ取り扱ったら必ずやる方も考え方、
学ぶ方も考え方、
だから考え方の中でぐるぐるやってるだけ。


事実の方に絶対行かない。


だからこれを置いといて事実がどうなっているかを
きちんと見ていくっていう事が一番原動力です。




(老師、黒板を指し)
ここで思って、

ここで思って、

この間は思ってない

って事実がちゃんとありますから、


思ってない時どうだったか?

って聞いたら


苦しんでなかった


って言うでしょう。


問題なかったって。



だったらそれでいい、
そういう事が過ごし方として大事だという事でしょう。



それで、ここでまた思ったら、繋げる必要がないって事でしょう。




繋げるんですね。考え方を。

それやってますよ。

なかったのに、繋げちゃう。




そういう誤解をしている。 

だからやっば、どうしてもねー、
真実をよく、どうなっているかを見極めるって事が
修行の根幹なんです。



一日中一緒にいるんだから、
全ての動きの中で
勉強できるじゃないですか。

自分が今どうなっているか、
どんな事してるか。



それだけやってれば間違いなくちゃんと生きる。
道をそれずに。


本当はそういう事がいっぱい書いてあるのですよ。

それだけなんですよ。本当は。


八万四千の法門といって膨大な量をいうけどね、

いろんな、一、一に触れた時にどうあるかっていうことは、

細かく書けば八万四千なんです。数で。
めったやったら多いわけです。




けど、事実はそれだけです。
だって他で生活しないんだからしょうがないじゃない。私ら。



時間的には必ず、今生活する以外生活する場所ないんだもの。

この体のある所でこの体で活動するしか生き様ないんだもの。


しょうがないじゃない。



それなのに、そんな事から頭を遥かに離れた事考えさせるからね。

考えなかったら、人間的に欠陥者かったらそうじゃないしょ。


健康な人はたくさんできるって一番いい事でしょ。


お医者さんだって、自分が健康でなければ、
病気にかかってて人を診るって事しないでしょ。
移しちゃう。来たら。


自分が溺れてながら人が溺れてるのを助けようなんて
おこがましいというよりも、共に死んじゃうねー。


そういう愚かな事はするべきじゃないと思う。



生きてちゃんとしてさえすれば、役に立つよ。

必ず役に立つ。



動くんだもの、触れたら、これが。



さっき、何さんが歩いている時に
ビニールの袋が二つ道に落ちていた。

ちゃんと拾っていかれた。


どうするかなと思ってみたらさっと拾って。

やっぱりゴミが落ちてるってわかるからですよ。




その時に、「私の事じゃない、まあいいわ」っていう人は
見て見ぬ振りするのでしょう。

見て見ぬ振りするから、「落ちてたんじゃないか?」っていうと、
「知らない」とかって言うんだけど、
それは嘘を言うから自分の中で
スッキリしない嫌ーな気持ちで過ごすんだ、

よく知ってるよね、


誰か責めるわけでもない。

自分の本心と違う動きを自分が見解でもってしてる。


で、自分を擁護するようにちゃんと見解っていうのは立つから
人から責められた時、
別に悪い事してないしって守るように、
ちゃんとそういう考え方をふっと起こす。


それを起こして相手にその答えをしても
自分が一番よく知ってるもんだから
本当は自分はそうじゃないとわかってるから
そこをぐさってやられると
内心はちゃんと響いてる。


そういう事ですね、

そんなのが日常茶飯。



て、4時になったのですが



(主催者)
時間になりましたので、ここで第四回青梅禅会を終了させていただきます。

長いことどうもありがとうございました。


引用元

上のブログの作者様、これだけの文章を起こしてくださってありがとうございました。
修行者にたいへん役に立つお話が再現されたようです。












禅 事実は人を騙さない、苦しめない~2012年9月井上貫道老師・東京都青梅禅会より⑥ 


うち[井上貫道老師の寺院・少林寺]の座禅会でもこの前、こんな事があった、

おじいちゃん、人は生まれたら必ず死ぬのになんで働くの?って、
小学校一年生の子がおじいちゃんに夏休み聞いたって話。


で、お前はいつからそんな事を思うようになった?って聞いたら、

五才の時に自分でそういう事を思ってるって、
小学校一年生の子が答えた。


皆さん、そういう質問されたらどうしますか?

人は、生まれたら死ぬ、間違いなく死ぬのにどうして毎日あくせく働いてるの?

何のために生きている?

生きるってどういう事かって事でしょう。


そういう意味でしょう。

そういう事、一年生で聞く力があるんですよ。


もしそれをちゃーんと聞いて育てられたらすごいな。

こちらに力がなければその子供を育てる事はできないね。

真面目にそのこが言ってる事、受け入れられないね。



それ一例ですよ。

そういうような事、日常茶飯に行われているわけでしょ。

大人の方はなんか子供より偉いと思っているんだよね。

そんな事はないって。


それ位大人は傲慢なんです。


だから成長しないじゃないですか。大人になると。

ある程度までいくと成長しない。

あとはなんだか突っぱねるだけ。

で、もっと突っぱねておもしろくなくなると、
嫌な顔してもう口も聞かないような人生になる。
自分で。



それで隔離されていく、
どんどん社会から。
一軒の家から。

それでこっそり死んでいく。

亡くなる頃には誰も見向きもしない。

そういうふうな人生歩んでいる人たくさんいますよ。 



だから、今を勉強して欲しいんですよ。 

本当に簡単な事ですよ。 


自分を見極める。


向かいさえすれば必ず見えるんだからね。 


いつでも。そんなに上手くで来ているんですよ。

空っぽのような頭でも、向かいさえすれば見える。 


(老師、手を握る)


こうやって握りさえすれば、すぐわかる、
握った事が。

重さでも温かさでも。


実物ってそれ位膨大な思量、内容を持っているんですね。


研究して蓄えるよりはもっとすごい内容を持っているんです。

事実は。

もっと気楽に生きたらいいじゃないですか。



初めて会う人にこうやって会ったって、
何にも苦労しないじゃないですか。

知っておかなきゃ、会って話するのに困る事ありますか?

なにか。

そんな事ないでしょう。


なんでいろんな事探るの?

粗末にならないようにするっていうんだろうけども、
粗末にするような気持ち何で起こるの?

それは、あの人は偉い人とか偉くない人って事自分で見て知るから、 
そういうふうなつまらない事が起きるんでしょう


それがなければ必ず丁寧に触れるでしょう。
そういうもんでしょう。

持ち物がなければ必ずどんな人にだって素直にその通りに触れるようにできているんじゃないですか?

ところが自分の中で、いろんな事知る事によって逆に立派な人だったらこういうふうにするけども、
ちょっとどうでもいい人だったらまあこれくらいでいいかなって
そういう事をするつまらないものでもあるね。

知った為に。


レストラン行ったってそうでしょう。

あー、なんだ、百円のものかって。

そういう扱いするんじゃないですか?

知りもしないのに、なんかすごいシェフが作った千円位の料理だって言われると
じゃあしっかり味わって食べなきゃ。 

そうやって、そんな味わい方をするから、
本当の味を味わう事できないんじゃないですか?

何もついてないで、どっちもやったらちゃんと味わえるんじゃないですか?

それが私達の本義じゃないですか?

皆、そういうレッテルに騙されているんじゃないですか、
人がつけた、あるいは自分がつけた。

そこまで一回自分を剥ぎ取って見てください。 


私は釈迦って人は、本当に六年、
菩提樹の下で来る日も来る日も座ってたって事を読んで、 
そういう事を思う。


六年の間、何をしてたんだろう。


本を読むわけでもない、
人に話を聞くわけでもない、
こうやって座って、
寝てるわけじゃない。

目を開けてこうやって、



ひたすらこの真実に目を向けて、
それが自分の真実に触れてる時どうなってるか、
極め尽くしたんだと思いますよ。



(カチッ)
 

向こうで音がしてこっちで聞こえるなんて時間はない。

ないですよ。



(カチッ)

いきなりカチッと音がして終りです。


聞こえたとも、聞いたとも、なんともそんな事はないんだけども
 

(カチッ)


カチッってそうなるね。


上手く出来てますね。
 

それまではやっぱり普通に勉強していれば、
聞くから聞こえるんだとか、
そんな事いうじゃないですか。


じゃあ聞かないって言って、
私は絶対そんな事聞かないって言って、
聞かないようにしてて、


(カチッ)


こんな事したら、どうなるか

いくら頑張っても聞こえちゃうな。


(カチッ)

こういう事勉強するわけです、

考え方じゃないって事を、



事実というのは考え方を遥かに超えて、人を騙さない、苦しめない、

しかも、どこにもそれが体験したにもかかわらず、いきなりそれで終わってしまう。


蓄えてなくても、

(カチッ)

聞くのに何にも困らない。

さっき聞いた聞き方を蓄えてなくても、何にも困らない。



(カチッ)

音がしたらちゃんと聞こえる。



練習しなくてもいいようにできているって事ですね。

練習して初めて聞こえるって事ない。

人間の本質だから子供が成長するんでしょう。すごい勢いで。
 
大人は顔負けって言っていいでしょう。
 

大人がとっても敵わないくらい。
 

普段は大人が子供を育てるとき、大人は知らないから、子供の良さを全部壊していく、
 

力関係でやっぱり大人の方が力があるからぐっと抑えつけられる、

何にもできないからしょうがない、その子供は言われるままにやる。



言葉でもそう、ばばばばって言われれば、返す言葉もない、子供の頭では、

だからしょうがない、そうやっているけども、

ものすごい理不尽な事だから体力がついて能力が学校出る位になったらばんばん返ってきますよ。



その頃になると、急に何でうちの子はおかしくなった?って、
反抗期だ、恐ろしい
とかって言うけど、そうじゃない。


そんなの、前から予兆はあるんだよ。

知らないのは本人、大人達だけです。


自分がそういう事やってきた事知らないから。

正しいと思ってそれをやってきた、
だけど一番正しい事全部、ないがしろにして育ててきている事、 
子供に対して耐えられない事なんです、


せっかくの伸びる力、全部むしりとってきたんだもの。



そういうのは現代社会で著しく今、問われているんじゃないですか?



いろんなところで研究会して、文部省とかあーいうのでも、学校の先生も困ってる、


どうやったら、

子供はそんなに愚かじゃないって、触れてごらん、地域の子供でも。

どうしようもない子供なんか一人もいないんだよ。


そこまでなるのには理由があるんです。



もうほとんどの人が承知のようにその身の回り、一番近い環境にいる人達が影響してるって事、みんな知ってますよ。



あとざっくばらんにいろいろ話してください。




引用元:(ブログ作成者の許可をえています)

禅 本物ちゃんとわかるようにできている~2012年9月井上貫道老師・東京都青梅禅会より⑤ 
④の続きです。


本物
ちゃんとわかるようにできている 

本物を見るのに、自分の余分な考え方を入れたらわからなくなりますよ。
本物は人に苦労かけずにちゃんとわかるようにできている

この中にお茶をいっぱい入れてさ、
こうやって飲むと、本物だから、必ずちゃんと味がします。
本物だから。

考えなくてもちゃんとわかる。

本物って、そんなに簡単なんです。

ちゃんとわかるようにできている。全部。


さっきいろんな野山の雑草や花や、見てきた。蝉や赤とんぼや、見てきた。

みな、今日実物に触れた。ちゃんとわかるでしょう?

曖昧だった人一人もいないでしょう?物の方は。

だけども理解の方になるとわからないでしょう?


これ何という名前だとか・

それは考え方の上だから。


考え方の方は知識がないとわかるわけがないでしょう。




だけど実物はそこにあるから、知識がなくてもわかりますよ。

どんな形をしているのか、どんな色をしているのか、色の名前を知らなくても、 
その通り見えます。

実物って、それだけ私達にすごい事をさせているんだけど、 
自分の実物、こんなに身近にある実物なんだけども、この実物を見極めた事がないから、

(パシッ 老師が机をたたく)

こんな事ひとつやっても、毎日聞いているんだけども、
どういう風に聞こえて、いつその音がどこですっかりなくなっているか
なんて事知らないじゃん。


だから朝、あんた何グズグズしているの?って、言われたのが、夜になってまで響くように思っている。

そんな事はないでしょうがこれ。 



(パシッ 老師が机をたたく)

それは音じゃないんだよ。
朝グズグズしてって、言われたのが夜わかるのは音じゃない。

その時しゃべってた声じゃない。

思い起こした働きなんです。全部。

実物じゃない、
そういう事皆さん、知るべきでしょう。


騙されないって事でしょう。 

本物と本物でないのを見分けできたら騙されないでしょう。

皆さんは実物と偽物を見分けつかないから騙されるわけでしょう。 


朝グズグズしててって言われて、夜になっても、こいつ、うるさい事言ってってグズグズ言う人は騙されている人でしょう。実物は言っ

た時しか、

(パシッ 老師が机をたたく)

音が出た時しか聞こえないようにできているのでしょう。

これが実物でしょう。 


(パシッ 老師が机をたたく)

やってみたらわかるでしょう。



(パシッ 老師が机をたたく)


もうどこにも聞こえてないでしょう。

だから問題にしなくて済むでしょう。


なんで、ここでいろんな言葉を聞いてると、いちいち自分を 不愉快にさせるのですか?



本当はいちばんやってみたい事は

まっさらで余分な考え方がついてないときの動きが、 

人がどういうふうな動きをしてるかって事を知った上でやらないと

人を縛る事になりますね、みな。



その代表が宗教といわれるジャンルです。

宗教ってものは非常に人を苦しめている。

例えば、人は生まれながらにして原罪というものを持っている、

罪を持っている、とかいうような事を誰が教えたか知りませんが 

そういう事を言って、だからそれを取り除くのが私達の教えだといって、

さあ来なさい、さあ来なさいと言って取り除くような話をする。

最初にそんなものはついてないのが本当なんですよ。



最初に何もついてなかったんです。だから優しい目で見れるんですよ。

ものを見る時に良し悪しを持って見てないから。

自分の眼(まなこ)が。



私達の眼ってそうじゃないですか?

初めは良いとか悪いとかっていうような考え方で見てない。

ただものに向かうとその通りに見えるように出来ている。

それだから優しくできるんでしょう。腹立たないです。見ても。 


もうちょっと大きくなっていろんな考え方が見たものに対して起きるようになると 

自分の思う通りになってないというふうな感覚があるから、そうすると腹が立ってるだけ。


こっちくる前に

ある修行道場にいた方が女性だけども、手紙をよこして、話を聞いてくれますか? 

っていう手紙だったから、どうぞって。

そしたら私が耳を傾けて聞いたところでは、(中略)

どんな事を修行してきたんだろうって思うぐらい、

なんでこんな事が修行だって思ってやってるのかなって思うね、やる方も。


で、お寺にいけば、トップの方に会いに行っても女性だからと行って、女性は来ちゃいけないって。

今の世の中ですよ、今の世の中で、男性が、女性がって、ここから入っちゃいけない部屋なんかないよね。

現代ですよ。
びっくりしちゃう。


じゃあ病院行ってあなたは女性だから診ない、なんてそんなとこないでしょ。

死ぬか生きるかって時に。

まあそういう事を話しておられて、あまり好感が持てなかった といっておりましたけど。 



私は基本的には仏教っていうのはこういう事をしてるって言って話をしておきました。

もう本当勘違いしてるんだね。

いわゆるノウハウを勉強してくるんですね。


鐘をどうやって鳴らすとか、
お経はどうやって読むとか、
儀式の時どんな事をするのかとか。

そんな事一生懸命勉強してる。



それも必要だっていえば必要だけど、人を救う上にほとんど役に立たない。

だってここにおられる方は別に家に帰って、どういうふうにお祀りの仕方をするとか、専門に別になくたって何にも困らないわけでしょ

。 



本当に必要なのは、自分がどうあったらいいかって事が問われているだけで、 
今の職業のままで毎日生活している時、どうやったら本当にいいかって事が問われている。

それを基本的にきちっと伝えていくっていうのが、修行道場の一番根幹でなければならないと思う。


だけど、そういう事、ほとんど欠落している、
あんた、お経下手だ、もっとじょうずになれとか、
お拝の仕方が悪いとか、
着物の着方がどうだとか、
こういう時に挨拶の仕方は、まあやらないよりはいいですよ。

できる方がいいのだけども、

それよりも基本は、本当にこれをいますぐやってもらいたい、

これは、何故必要かっていうと、この世に生まれた以上、自分の事は自分でやるしかないんだよ。 



自分の事を放っておいて生きられる人はないじゃないですか。 


一番身近な事でどうしても放っておかれないものは自分自身をよく知るって事ではないですか? 



健康面だってそうじゃないですか、
他人に任せておけないじゃないですか、これ、

自分がどうなってるか一番自分がよく知ってるじゃないですか、

いつ食べたの?
って聞いたって、お医者さんがその人に聞いたって、
答えなかったら推測するしかないじゃないですか。

だから本人は一番よく知ってますよ。

いつ食べた、何を食べた、どこで食べた、いつ頃からどこが痛くなったとか、
だけども、自分の事なのに、本当に無責任に生きているよね。

無責任に生きているんですよ。

人と相談事があってこうやって触れた時に、
それを聞いて、
自分の中で聞いた時に、 
(老師、体を指して)
どういうふうにこれがなっているのか。

まず聞いた時にどうなるかって。

聞いたら聞いた通りに入ってくるっていう事でしょう。

その時に余分な事しちゃダメだって事を言っておきたい。 


聞く時には何もつけずにそのままいれる。 



買い物行って自分で勝手に値段変えちゃまずいでしょ。

千円と書いてあって、五百円でいいやって、そんなふうに買ってきたら怒られるでしょ。

一応、千円とついていたら千円で買って、
その後、もしもう少しまけてくれないかねって相談はあってもいいかもしれない、
そしたら、じゃあまけるかたくさん買ってくれたからっていうような事はあるかもしれない。 



一番最初はその通りにいれる事ですよ。 


それを自分でめちゃくちゃやったら犯罪ですよ。


だから皆さん、こうやって聞いたり、見たりいろんな事を 
(御自分の体を指す)
これがしてますよ、

そういう時にそうやって犯罪を冒してはダメ。

それが間違いの元なんだもの。


正しくものを入れないって事は。

正しくものをいれないから、次に考える時に、最初が間違ってたものの上に考えるから 

正しい答えを引き出せないじゃないですか。

仏道修行・坐禅修行の根本 自分を見極める時は思考を使わない  
~2012年9月井上貫道老師・東京都青梅禅会より④ 

人は如何に自分の思いの中にいて、事実(=真理)を知らないか


ここから法話:
 kandoroshiatshorinji
皆さんどんな勉強普段しているんですか?
 
自分の事みんな放っぽっていませんか?

 
自分の事ほとんど見てない。
 

(老師、机をたたく)
こうやって座ってて隣で音がする。

(パシッ 老師が机をたたく)
 
音ってこうなっているんですよね。
わかりますか?こういう風になってるって。


(パシッ)
聞いてますか?皆さん、今、どうなってますか?
 
難しい?
 
だって聞こえてるって事は難しくないでしょー?


探す用も、尋ねる用もないでしょ?


隣の人に聞かなくても自分の意見を言って下さい。
 
誰かに相談して答える事は用がない、
 
あのー、これはどんな答えも恥ずかしい事はないですよ。



参加者 「扇子を叩いて何やってるんだろう」

それは思う事でしょ?はっきり申しますけど。
 
何やっているんだろうって思う事を私は聞いてない
どういう風に聞こえるか?って聞いているんです。

 
何をやっているんだろう?っていうのは思いです。
 
聞こえた事に対する思いです。


参加者 「うるさい、」

うるさいのもそうです。うるさいのも思いです。

 
だからこういう意見が出るから勉強になるんです。
 
ほとんどそう思っているんですよ、みんな。

 
あの、こうやってどういう風に聞こえますかって聞いて、何してるんだろうって思うって、
そういう風には聞こえてないんです。
 
それは聞こえてる事ではない。
 
思ってる事であって聞こえてる事はそういう事ではない。
 
それくらい、自分のあり様というのを見ていない。



こうやって音がしているものに対して自分がどうなってるか。
 
この位の音ならまだいいですよ。

 
人間のしゃべっている音声も音なんだけど、人間のしゃべっている音声に対して
もっと皆さん方今言われるように、それは何だ?って、必ず思うんですよ。
 
それはしゃべっている事の中の意味合いを理解しようと思って探る、
聞こえてる事とは違う、
そういうのを皆さんは聞いてると思ってるんですねー。
 
 
だからもう一回基本的な勉強をし直す必要がある。

 

そういう事を釈迦って人はやったんです。
こうやって6年も。明けても暮れても。こうやってどうなってるか勉強した人です。座って、


これは事実に学んだんです。

考え方でなくて、
 

どうなってるんでしょうね?
子供だってわかる話ですよ。
何で大人の人が難しいのかしら?
いいですか?


(老師、扇子をたたくふりしただけ)
聞こえた人誰もいないね。


(パシッ 老師が机をたたく)
 
こうやってやると聞こえるでしょ?


じゃあ今はどうですか?
(老師、扇子をたたくふりしただけ)
 
聞こえて、ない、でしょ?
 
そういう事なんですよ。


それが大事なんです。
いつなくなるんでしょう?
いつ聞こえなくなってるでしょう?
 
皆さん、自分の耳で聞いてるでしょ?
 
だったら音がしたのならわかるかもしれない。聞こえなくなったのはいつからですか?

今、
こういう事がはっきりしないってことは、いかに自分を見極めてないかって事です。
 
これだけで勉強するんですよ。


考えると難しくなるんですよ。
 
皆さんの少々の頭じゃわからん。
 
考えたら難しくなる。
 
だけど、事実はちゃんとこの中にある。答えは。


(パシッ 老師が机をたたく)
 
音がして音を聞いて、どうなったかっていった時に、この中に答えはあるじゃん。
 
今、音がした、ところにあるから、考えなくたっていいじゃない。


(パシッ 老師が机をたたく)
これで勉強すれば。
 
その他のところに思いを巡らして、あれはどうか、、、全然当て外れでしょ。


(パシッ 老師が机をたたく)
 
これどうなってますか?ったら、ここで勉強するでしょ。
 
必ずだから、今、 勉強するでしょ。
 
今の事をね。
 
それだけなんです。


 
修行って、それだけ。
 
これがわかったら、卒業ですね。


参加者「扇子が机に触れた時に音がするって、いうことですか?」

まあ現象的にはそうですね。

 
じゃあもうちょっと、机に扇子が当たった時に、どこで聞くんだろう?
 
どこで聞いているんだろう?
 
どこで音がしている?っていうと、耳で聞く、と本当にそう答えが返ってくるんですねー。


(パシッ 老師が机をたたく)
 
耳で聞こえる?
 
え?耳で聞こえる人いる?
 
もっと丁寧にやったらカチっというだけでしょ?
 
違いますか?正直に。
 
カチっというだけでしょ?
 
それ以外何もないでしょう?
 
どうですか?
 
カチっ、それだけじゃないですか?
 
カチっという事が聞いている事でしょ?
 
その時に、あっちで音がした、こっちで聞いたっていう事はないでしょう?
 
いきなり、カチっでしょう?


カチっ
 
音がしたから聞こえたって、
そんな事あるかしら?
 
こういう事ですよ、勉強って。
 
今まで先輩がいろんな事を言って遺しているから、そういうものを聞いたりして
或いは読んだりして理解しているだけであって、

この事実に自分が触れて本当にどうなっているかを確かめた事ないんじゃないですか? 


他人の意見で皆、終わっているのではないですか?
 
耳で音を聞くとか、向こうで音がするとか、
 
こっちで聞こえるとか、そういうみな、理由だけではないですか。
 
本当に実物でこうやって今音がした時に自分のあり様って、どうなってるか?


(ここで参加者の携帯が鳴る)
 

いいですよ、あーいうのだって皆勉強になるんですよ。
 

いきなりでしょうが、
 
いきなり、音があるんでしょう。
 
いきなり、音がある時に、人はうるさいとか、邪魔だとか、一切やってないでしょう?
 
音がしてるだけで済んでませんか?

 
それが私達の救われている世界なんです。

 
知らないから、すぐ音がした後に、自分の考え方を持ってきて、
 
なんでこんな時に音を出してって、たぶん思った人いると思う。
 
そうすると思う人もいれば

人がそう思うんじゃないかって思う方もいて、
 
お互いにまずい事をしちゃったなって、思って、
 
そこで苦しむ種を自分で作ってしまってるんです。
 
だけど、この耳はですよ、その通りに音がするだけで、どちらにも傷をつけない。
 
どちらも責めません。
 

今ご覧の通り音がしてないから言う必要がない、何も。

 
言う必要がないんだけども、さっきあーいう事したんじゃないかって、つつく人は中にいるの。

ないものを何故つつくの?
 
子供育てる時、さっきやった事があったとしても、
 
今やってないものに対してそれは何だ?って事はないでしょう?

 
じゃあそれと同じように、音がし終わったのに、うるさい、だとか邪魔だとかっていう事は
甚だ心外な事をやってませんか。
 
どこをつつくんですか?
 
音がしてないのに、うるさい、って、どこをつつくんですか?
 
ありもしない事をそうやってあたかもあるようにしてつついたらいじめじゃないですか?
 
いじめ。虐待じゃないですか?



参加者
「そういう場合、どうしても、老師が扇子で机を叩いてるって、考えちゃうんです。
誰かさんの携帯がさっき鳴ってたって、すぐ考えちゃう。」



[老 師]だから、もう一回申し上げますが、

見極めるって時は思考を使わない。

 

参加者
「だからいかに自分を見極めてないかって事で、
いかに自分がわからないかっていうのがわかった。自分を見てない。」



[老 師]そうです、いつも考え方で見ている、



参加者
「どうしても、ここで(頭を指して)考えちゃうんですね。
 あー、何さんの携帯が鳴ってるな。
 先生、こんな事やってるな。それだけです、考えちゃう。」


[老 師]
それは、いかにも他人事なんです。
 
だけど、本当は自分が今生きているあり様そのものなのに、
 
そういう風に自分が他人事のように見ているって事が二つ目の、大きな誤りでしょう。



誰が聞いたんでもないですよ。
 
自分が聞いたからそういう事が起きた。
 
自分が見たからそういう事が起きたのであって、
 
私のやってる事でないし、あちらのやってる事でないんです。

 
でも人間って、そういう風にしか今迄見てこないんです。
100パーセントたぶんそうですね。


そういう中に釈迦って人が生まれたんです。
 
だからそういう勉強しか、おそらく当時してないですね。


そこから抜け出したんですよ。


初めて、そういう人間の考え方を外してみた時にこうやってやると
 
(老師、扇子かざす)
 
その通りに見えるっていう事は、私の事ではないですね。


見えてるって事は皆、一人一人自分の今の生きている様子でしょ?


生活している内容でしょう?


これを見ているって事は、一人一人がこれを見ているって事は、

自分の今生きている内容でしょう?

そういう事は理解できますよね?



でもまだ向こうの人が言っている事って思っているのかしら?
 
だから思う事と自分が目でやってる事は違うじゃないですか?
 

自分の目は、思う事じゃないから、本当に自分の目でこの通り見てる動きしかないでしょう?
 
だって他の人の目で見れないんですよ。


こういう事、必ず自分の目で見てこれが見えるんですよ。


これ、見えると、あーあっちで扇子開いてるからそういう風に見えたっていう
考え方や思いをここに付けるじゃないですか。


じゃ、考え方や思いを外したら、これ、見えなくなるかっていうと、
どうですか? 


見えなくならないって事は、考え方や思いじゃないって事でしょ?


もし考え方や思いだったら、考え方や思いを外したら、たちどころに見えなくなりますよ。



だけど不思議に人間のあーいう風に見えるとかあーいう風な事やってるとか
全部外してもこの確かさは絶対なくならない。


それは考え方じゃないからです。


(老師扇子を開く。)
 
こうやってやると必ずこうなる。
 
(老師扇子を開く。)
 

どんな事を思ってても皆さんが思っている事とは関係なくこうやってやるとこうなる、
 
さっきまで開いていたのにって、いくら思ったって、ここしかない。
 

それくらい思い方と事実は違うんです。いいですか?

井上貫道老師・坐禅の方法と秘訣


●修行して解脱するんじゃないです。

すでに解脱してるんです。

そのことに気づき、ああ、なるほど、確かに解脱してるな、となるのが坐禅です。

こういう実証方法を伝えてきたのが仏教のすばらしいところですね。




●自分の抱えている問題を修正しよう、なんてするとだめですね。そんなもの、きりがありません。人生終わっちゃいますよ。




●疑問があればとことん質問して消化しておいてくださいよ。疑問を抱えたままだと、坐禅中にその考えが出てきちゃいますからね。

 
 

●眠気が起こったら、ちょっとそれに気づいてあげればいいです。気づけば眠気は去ります。釈尊も『覚すれば即ち滅す』と言っています。とはいえ、眠気が起こらないような体調や環境を整えることが第一ですね。




●真剣に道を求めて修行している人は、警策(木の棒)で叩いても大丈夫です。中途半端にやっている人は叩いてはだめです。おびえちゃいます。




●坐禅は、何もせず、自分を立てず、今の様子そのままになること。




●事実を知るためには考える必要なんて一切ないのに、それを知らないから、みんなあれこれ考えてしまうんですね。

考えなくても、お茶を飲めばお茶を飲んだ様子に、お菓子を食べればお菓子を食べた様子に、みーんななります。

どこに考える必要がありますか? 考えないとお茶の味がしませんか?




●いつでも今の様子だけです。徹底して今の様子のみです。努力してそうなるんじゃありません。

だってそうでしょ、一瞬だって「今」から離れられるわけないじゃないですか。





● 頭の中に気になることが残っていると、雨の音が雨の音として聞こえないですよね。ちゃんと聞こえている時は、きれいさっぱり他のものがなくなっているんです。消すんじゃないですよ。






● 雨の音っていうのは、「ぱしゃぱしゃぱしゃぱしゃ・・・」(口で擬音)これだけです。

これに親し~く目を向けてください。





●事実に証明される、という禅の言葉があります。この意味は、自分の様子に「あ、なるほど」っていうことです。





●自分の見解や気持ちを持ったまま坐禅しないことです。




●坐禅中にいろんな考えがわいてくることに対して「これはいけない」とやっちゃうと、これがもう自分の見解ですね。

いいとか悪いとかは自分の気持ちでしかありません。

考えがわいてきてること自体も今の様子なんですよ。





●考え、足の痛み、ミーンミーン、ワンワン、全部自分の今の様子です。





●苦しい、つらいといった感情も、自分の今の様子です。





●坐禅中に何かを観察したり、何かに集中したりするのではありません。自分から物に向かわないことです。逆にボーッとしてしまうのは、それも違います。




(独学では勘違い、意味の取り違いなどがあり、結果的に失敗しますので、必ず、正師に直接会って、その指導を受けて下さい それを参禅といいます 

仏教以外でも古来よりインドでは覚者から直接学ぶこと、覚者と共にいることをサットサンと言います サットとは事実・真理、サンとはサング 居る  サットサンは不可欠とされています)


https://youtu.be/nAuc6MCgyS0?t=2s



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