坐禅の仕方と悟り,見性,身心脱落:井上貫道老師の庵 まとめブログ

Dharma Talks of an enlightened Japanese Zen Master Kando Inoue Roshi 井上貫道老師が、悟りを体現された経験から坐禅の方法や仏道について語られたものを掲載しています web上に散見される井上貫道老師のことばも引用掲載し、まとめブログとしました ( これは参禅者によるブログであり、公式サイトではありません ) このブログが正師への参禅のきっかけになりますように

タグ:井上老師

今日、昔の人のように本当に大悟などできるものかという人が多いけど、これはうそです。

 
絶対にそういうことはない。
今日の人だって、必ずできるということです。
 

ただ、そういうことのあることを信じない。
 

それですから、せつかく坐禅儀などに方法も手段も説いてあっても、
それをただ理解するだけであって、
本当にやらんから分からん。


それだから、その体験がないから多数決でもって、
そんなことが今日の人にできるもんか、
と片付けたくなる。

 
もし本当に今日の人にできなんだら、経論みな焼き捨てにやならんです。

教えんでもいいんです。


こんなことが本当にあります、というたって、
今日説明として残っているだけで、
事実がないようならうそをついている。
そういうことになるでしょ。

そういう面で大いに考えなければならんところです。


―井上義衍老師 (井上貫道老師の師) 
(井上義衍『無相伝光録』p.41-42)

井上義衍老師とは→
こちら 






以下は井上貫道老師『正法眼蔵』提唱から


seiun気付かない限り[悟らない限り]、人間は本当にはケリがつかない。

毛筋ほどの疑いであっても必ず残る。


そういうものが残ると表現しきれない。


そのために生ずる
「悟りなどどうでもいい・必要ない・ないのが本当だ.あったら嘘だ」
というようなご意見は、もう一度考えて欲しいのですね。


悟りの正体を見届けた上でのお話として扱ってもらいたい。



一度も食べたことのない人が
「どうでもいい」とか「必要がない」とか「そんな味がするわけがない」とか、
もしそういう評価をしたらおかしいじゃないですか。


少なくともそのものをお食べになって味わった人なら
「これは商品として大したことない」とか酷評をしても構わないじゃないですか、
その場合言われていることに何か真意がありますからね。



ちゃんと食べたなら、
なんで「悟りなどどうでもいい」というのか、
なんで「必要ない」というのか、
「悟りなんていうのはあったら嘘だ」となぜ言うのか、
ちゃんとした理由がある筈(はず)です。


だけど食べない前に、食べた事のあるような話をしたらおかしいです。


だからここの処は私たちも気をつけたいところですね。


ー井上貫道老師 『げんにーび』 (正法眼蔵現成公案提唱) p.89



悟りの様子もみんなに具わっているんだけれども、
自覚がない限りは誰も自分にそれがあると思っていないのです。

そんな素晴らしいことがあるとは思っていない。

ー井上貫道老師


 他の井上貫道老師『正法眼蔵』提唱は、こちらのブログにあります
 ⇒ 『正法眼蔵を学ぶ』

 


考え[思い・感情も]が出てきてもそれを取り扱わないのが坐禅です
何もしないのが坐禅です



自分のほうから探ったりたずねたりすることをやめれば、
「事実」(真実)がそこにあるんです


どうしたらそうなるかじゃない
すでに出来ている
それを見極めるのが修行です

今の自分が本当にどうなっているか、それを見極める、見届けるのです



              ―井上貫道老師




井上貫道老師坐禅会における質疑応答から


hasuQ.
眼耳鼻舌身意っていうと、森羅万象、人間の生きている全てですよね。

それが「無」(無眼耳鼻舌身意)ってことになると、いったいどういうふうに解釈していいのかと。




A.
今、申し上げたように、一応説明しますけど、説明じゃ届かないでしょ、
「超越する」[=無]って。


物を見る時、眼なんかがあると思ってないでしょ。



眼なんかどこにも出てこないでしょ。

それが眼の働きでしょう。


ごらんのように、有るとか無いとかを超越してます。



カエルの声がするとき、一応耳があるから聞こえるんだと説明はするんだけど、
聞いてる時に耳があったら邪魔でしょう。


耳なんか感じてないでしょう。
音がしてるだけでしょ。


そういうのを無眼耳鼻舌身意というんです。



Q.
そのあとの色声香味触法、それは眼耳鼻舌身意を実際に表現するものだと聞ききましたが・・・

A.
たとえばあそこに五色の旗がありますが、見てごらんなさい。

Q.
ハイ。

A.
いや、だから、見てごらんなさい。

Q.
ハイ。

A.
いやいや(笑)、だから、見てごらんなさい。

Q.
ハァ。

A.
見てごらんなさいって。

Q.
(ようやく目を向ける)

A.
見えました?

Q.
見えました。(目を戻す)

A.
今はどうですか?

Q.
もう見えない。

A.
そうでしょ。

あんなにちゃんとあると思ってるのに、眼というものは、向かった時しか絶対にそのものを見てません。

Q.
ハァ。

A.
でも頭の中は、見えなくても、見てなくても、あそこにあると思ってるでしょ。


Q.
それは記憶が。

A.
眼はそんなことしてないでしょ。眼にはそんなこと残ってないでしょ。

だから無色声香味触法ってなるんです。

音だって、今鳴いてるってことが確かに聞こえるのに、鳴き止んだらどこにも。

だけど記憶があるから、さっき鳴いたってことを思い起こす力があるけど、
じゃあ思い起こしたときに耳に音がしてるのかっていえば?


Q.
ないですね。

A.
ないでしょ。そういうふうに活動してる。


Q.
しかしそういうことは、私のような凡人には、すんなりとは…。

A.
凡人じゃなくて、自分のことだから。

自分のことでしょ、みなさん。

自分のことだから、こうやって見た時に見えて、こうやって見たらあそこのものは見えない。


見えないけど、確かにあそこにあると「思って」います。


じゃあ眼はどうなってるかっていったら、確かに見たんだけど、
絶対にそんなものなしで今見えてるものだけで生活してる。


それぐらい「無眼」「無色」、眼も物もみんな超えてる。


だからといって、なくなって寂しいかというと、何も寂しくないでしょ。

なくなったとも思っていないでしょ。

あれが見えなくなったとも思わずに生活してるんでしょ。

不思議でしょ。


考えてることは違いますね。


こうやって勉強するんです。



Q.
執着心があるから、ってことですか。

A.
自分の眼に、執着してるものがあるかどうか見てください。

修行していないにも関わらず、ああやって見た時に見えて、
こうやって見た時に執着もしないで全部あれから離れ切って、
いまこうやってこういうものが見えるだけでしょ。


こんなにうまく生活ができてるのに、
自分をよく知らないから、どうしたら執着から離れることができるんだろうって、
ここ(頭)だけで考えてる。


そんなの修行になりませんよ。


ただ考え方をもてあそんでるだけ。

四六時中。

それは修行じゃない。



修行は、実際に自分がどうなっているか、
この体でどうなっているかを見極めていく。

本当にどこにも残ってない、
くっついてないな、
こんなに自由に動けるようになってるな、
一切問題が起きないようになってるな、

って生活したらいい。



そっちをやらないからだめなの。

それをやらないと修行にはならない。


だから修行の時には考え方ではやらない。


坐禅してても、考え方でどうこうすることは用いません。



坐禅してるといろんなものが出てくるでしょ。

出てきたものを取り上げて、こうしたらいいかな、ああしたらいいかなって、そういうことを一切やりません。


それは修行にならないから。



Q.
瞑想してると次から次へと出てくるんです。


A.
だからみなさんのは迷走なんです。(笑) それはもう坐禅ではない。



Q.
頭の中で無意識にそういうことを考えてるんですかね?

A.
いやいや無意識じゃないですよ。

知らないから、出てきたものを取り上げる。


取り上げない、ってことはどういうことか分からないから、

「出てきたものを取り上げないようにして坐りなさい」と教えても、
出てくるとすぐ相手にしてる。

それぐらい愚かなんですよ、
自分を知らないっていうことは。



Q.
「貪」「瞋」「痴」の「痴」ですね。とんじんち

A.
そうそう。

だって、「本当に自分を使わない」って、
そんな難しい言葉じゃないから一応分かるじゃないですか。


思いを加えないってこと、分かるじゃないですか。


お茶を飲んでも思いを加えなかったらどうなるかっていったら、
うまいとかまずいとかっていうようなこと出てこないじゃないですか。

ただその味がするばかりで。


それが「思いを加えてない」ってことでしょ。


考えが出てきたにしても、それを取り扱わないってことは、
このお茶を飲んだら味がしてるだけっていうことでしょ。

いいとか悪いとか、
邪魔になるとか、
整理が付かないとか、
まだこんなことを思ってとか、
そんなことはみんな手を付けてるってことでしょ。

出てきたものに対して。



そのぐらいのことは分かるでしょ。


そしたら坐る時もそうことをしないで坐ったらいい。

それで初めて「坐禅」っていわれる。




Q.
そうすると心の持ち方っていうのは、坐禅をしながら、すべてを自然のままに…。

A.
いいですよ。

自然のままっていうよりも、それしかないんです。

その動きしかない。

その時その動き以外にない。


そういうことを本当にやるのが坐禅なんです。


だけどもその動きに対して人はすぐ考え方を付けていく。

それだから事実がどうなってるか分からない。


ただ足を組んでいればいいとか、そういうものじゃない。



     (略)

難しい話じゃないでしょ。本当に普通、誰しもがやっていることでしょ。



Q.
それがまた難しいんです。


A.
難しくするのは考え方です。

考え方が入ると難しくなるんです。


どうやって聞いたらいいかって考えたら難しいでしょ、


(机を叩いて)

「コン」

この音を聞くのに。


「コン」


こうやって何もしないでいたら、ちゃんと聞こえるようにできてる。

「コン」

こうやって何もしないで聞いていることが修行です。


これに自分の考え方を加えずに、

「コン」

こうやって音がしたら、そのとおり聞いているということが修行なんです。




こんなこと、誰も教えないんです。

教えてこなかったんですよ。



「何かすること」だと教えてきたんです。



道元という人が、初めてこうやって修行ができるよと教えたんです。




そりゃそうでしょ。


「コン」


何もしないのが一番よく聞こえる。

ちょっとでも何か付けたり削ったりするようなことがあれば、
このままの様子がそのまま伝わらないじゃないですか。

真実が。



真実を本当に伝えるんだったら

「コン」


このままで何もしない。そのまま、ズバッと。





Q.
そういうところが一番肝心で、一番難しい…。


A.
だから一日中いろんなものを、眼耳鼻舌身意っていって六つの感覚器官があるから、
それが触れた時にみなそういうことをやってるわけだから、
それを今までは、すぐ触れると、人間の考え方でこうやって探ってたから。


それをやめるんです。




自分のほうから探ったりたずねたりすることをやめれば、

その事実がそこにあるんだから。

そのまま事実がそのとおりのことを、
直に自分に、
時間の隔たりもなしに、
場所の隔たりもなく、
そこに一分の隙もないし、
疑いもないし、
ゴミも入らないで、
きちっとあるってことが、
理屈の上からしたってちゃんとそうなってるじゃん。


それをただやるだけなの。


それぐらい坐禅ってものが、世間に伝わってるものと違ってるの。


それをまずここでちゃんと話をして、やってもらいたい。


そうでないと、本当に、考え方しかしてないんだよね、坐ってて。


一般にはそれですむかもしれない。

やったってことで。



だけど自分自身が自分自身にたずねたときに、ただ頭の中でぐるぐる堂々巡りしてるだけですよ。

考え方で。


そんなもの、どうしようもないじゃないですか。




Q.
それが煩悩ですかね。

A.
煩悩。わずらわしく悩ませるんでしょ。

ありもしないものを自分であるって認識して、
それでいっぱいいろんなものを作って。

ないところに、いろんな思いを起こして、
起こした思いを本当にあると思って、
それを問題にしてる。

そっちじゃないですよ、修行は。




      (略)

難しいっていえばそういうところかね。

考え方がこびりついているからね。


でも、そんなにこびりついている人でさえも、こうやって聞くときに、

「コン」

ただ、こうやって聞こえるだけだっていうことを言っとこう。


だから難しくないってことでしょ。

どうしたらそうしたものが取れるかじゃなくて、
実際に今、そんなものなしに聞こえるようになってますから。


だからできるとかできないとかっていうようなことじゃなく、
できてます。


「コン」


みな、やれてます。
誰も。


だからいいんです。



あとは気づいたらいいんです。


そのまま。



無いものに気づけっていったら無理です。

やれてないものを、っていったらやらなきゃできませんけど、
すでにやれてますから。

探さなくたっていい。


どうかしてできるわけじゃないでしょ、これから。



(手を叩いて)
「パン」

これから何かして今のように音が聞こえるようになるわけじゃない。

もう聞こえちゃったんだから。

このとおりね。


自分で作り変えたことなんかひとつもしないんだから。



「パン」

いきなり聞こえて終わりですよ。



それだのにここ(頭)は、
何かしないとそのとおりにならないと思ってる。




Q.
と言われても、生活に追われてると、なかなかそこまでは…。

A.
生活に追われてるからじゃなくて、自分の今の事実に目を向けるということがない、
ということ。


ここから上(頭)でしか生活してないんですよ。



仏道ってのはそういう違いがあるの。



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(指一本立てて)こうやるだけで「自分」というものが死にますね
                       ー 井上貫道老師




「坐禅は修禅にはあらず」   ―道元禅師


●漫然と坐っている人は寝ちゃうね。

「何もしないのが坐禅」って言いながら・・・。
三十年も坐ってる人は必ず寝ますね。

今の様子に参ずるのが下手なんだね。

寝たら坐禅になりませんよ。





●これほどの事実に参じていれば、脳は刺激だらけで寝ようがないんだけどね。







●想(おも)いがやまるほどに、このもの(自分)が無限の活動をしていることが分かってきます。決して「心静か」なんていう状態ではないですよ。






● 「坐禅」というのは、今の実相、活動にそのまま親しくしていればいいんです。

「ただ坐る」というのは、事実、実相(じっそう)、この(自分の)一大活動に親しくいることです。


事実との間に距離がないからこそ「手を付けない」という表現になるわけでしょ。






● 観察するのではなく、事実のままにあることです。



car1_sensukandoroshi●(目の前の布を閉じたり開いたりしつつ)


人間って一瞬過去のことを相手にできますから、

記憶とのつながりで「閉じたものが開いたな」と思いますけど、

実際にはその時その時の様子があるだけですよ。





● みなさんからすれば「自分がこっちにいて、向こうでお坊さんが布を閉じたり開いたりしてるな」と思うでしょ。

本当はみなさん、自分ですよ、自分の動きですよ。







● こういうことを他のお坊さんに話すと「難しい」っていうんですよ。

みんな学問として仏教を研究してきてるからね。


すっからかんで話を聞かないから。





● 大道にはここからここまで、という端がありません。

「無端」です。






● 自分が素晴らしい存在だと思ってないから愚痴るんです。

自分に豊かなものがないと思うからむさぼるんです。







● 只管打坐の「管」の字は、よく「ひたすら」と訳されます。

でも宋代の意味としては「必ず」「確かに」です。

一番偉い人を管主と言ったりもしますね。



(手を叩いて)「パン!」


訓練も練習もしてないのに、必ずこうなるでしょ。



「パン!」


確かですね。







● 事実とずれがなければ「自分」が死にます。
 
(指一本立てて)こうやるだけで「自分」というものが死にますね。






● 自分自身が一番良い師匠ですよ。

自分の中でいろいろな動きがあって、それを見ていくことが自分を救う道ですから。






● 相手の話をあえてポジティブにいい方向で聞こうとすると、かえって良くないですね。

そのまんま聞くのが本当のポジティブなんでしょうね。







● 少し気を付けて坐禅を続けている人は変わってくるね。

ひとつ気が付いたらガタガタと変わっていくね。







参禅者:
先ほど老師が風呂敷を閉じたり開いたりして、

「これは自分の動きですよ」とおっしゃいました。

それがよくわかりません。




老師:
一般の人は、「自分」がここにいて「対象物」を見てる、という考えで生活してるでしょ。

だから自分が動いていることがわからないんです。





参禅者:
うーん、私が動いている、というのがやっぱりわかりません。


老師:
「私」というのが邪魔をしてるんです。

すこーし気を付けてやれば分かります。


お茶を飲むことと同じでしょ?




お茶は「自分が飲んでる」、

風呂敷は「向こうでやってる」

と思うけど、どちらも向こう側にあるものを受けてるだけじゃないですか。



お茶は自分の中に入ってくるから、いかにも「自分がしてる」と思いこんじゃうんですね~。



みなさんはこのことがクリアになってますか?

一般には、こんなことが仏教だとは思われてないんですね~。




別の参禅者:
自分のことだとはいえ、でもやっぱり問題にしちゃうんです。


老師:
そうね~。人は、問題にした所からしか物事を見ないからね。



だからこそ六根を解放して、まだ問題になっていない時点から物事を見る必要があるんですよ。
  ※六根=眼耳鼻舌身意





● 修行に時間がかかる人は、結局、言われたことをやっていないんだね。

 事実 [ 真理 ] より、考え方のほうが好きなんだね。


坐禅会での話を楽しんでいるだけなんだから。

そんなの何年やったって自分のものにならないですよ。





● 話を聞いて、実行したら、次回(の坐禅会で)、どうなったかを教えて下さい。

一ヶ月あるんだから。



 

井上貫道老師が坐禅会で話されたことばから


自分を中心にして物事を見てしまっているから自分が消えないんです。
 
もともと自分はないんです。
 

実は、考え方や見解も自分が作っているのではないんです。



自分を中心に据えて物事を見るのではなく、物事の方からやってくるんです。
 

それが五官(眼耳鼻舌身)に任せ切るということです。







(前の情景を指して)

どこにも自分なんかないじゃないですか。

ただ、木の葉があるだけでしょう?
どこにも自分はついていないでしょう。


それが自分の様子です。


でもね、振り返って、隣を見ると、他人がいるんですね(笑)[坐禅会に来ている人たち]
自分とは思えないんだ(笑)

隣の人も自分ですよ。
そうは思えないんでしょう?





ojizosan●自分の上に存在しないものでは絶対に迷いません。

自分の上に存在するもので迷うんです。

知らないもので迷ったりしません。


知ると問題になるんですね。知らぬが仏(笑)。






●実物そのものでは絶対迷わないです。

(机を叩いて)「コン」


それでも迷うんだから、人間ってよっぽどおかしいよね(笑)。






●聞こうと思っても思わなくても、(机を叩いて)「コン」、どうしようもなくこのとおりあるでしょ。






●どうもしなくていいんです。探さなくていいんですよ。

でも人間は仏法を探そうとします。

教えの中で理解できる部分がないか探そうとします。


これは坐禅の大敵です。






●茶碗に目を向けてごらんなさい。
そのとおり、欠けるところや余るところがないでしょう。

これを(龍樹尊者の)「円月の相」と言います。






●(前にあるお菓子を見て)観察しなくていい、こうやって見てるだけでいいんですよ。







●想いがやまるほどに、このもの(自分)が無限の活動をしていることが分かってきます。

決して「心静か」なんていう状態ではないですよ。







●機能としての「想い」は問題ありません。
それに自分の考えをかぶせるから問題になるんです。手を付けてしまっているんです。







●坐禅は知識の勉強じゃないですよ。

体でやるんです。






●物を見ると、たいがいの人は「むこうの物」と「こっちで見てる自分」を立てます。

でもそれは人間の見解が作り上げただけのものです。

実際にはむこうもこっちもないですよ。





●「従来からこのまんま」などとよく言いますが、道元禅師は「初めからこのまんま」とは言いませんでした。

必ず「従来から」と言っています。「初めから」なんていう基準はないんです。






●最初は物事はすべて単純明快です。

でもそれで終われる人は少ないです。


今のこの気配で満足できないものがあるからでしょうね。







●人は必ずなにか今の自分とは違う、立派なものを追っかけちゃうんだね。

今のこの自分このままで何も問題ないということが納得できないんだね。






●「三昧」という言葉の意味は「正しく受ける」ということです。


「正受(しょうじゅ)」とも言います。「正しくそのとおり」ということです。




●24時間全部が自分の生きている様子です。

取り除くものも足すものもありません。

だから、どれが真実なのか、なんて掴まないんです。






●事実が起きた時、自分の中で何が起きているか、よーく見てください。

悪口を言われたから腹が立つと通常は思っていますが、本当はそうじゃない。

どういう動きがあるか、よく自分の様子を見ればわかります。






●夢の中と、この現実の世界と、いったい何が違うんでしょうね。

同じでしょ? ところが現実世界のできごとに対しては「これは現実だ」とつかむから問題になるんです。


夢と同じように聞き流せばいいんです。






●心意識の動きが出てくること自体は問題じゃないですよ。それをそのままほうっておくんです。

それを「修行」と呼びます。


怖がらずにほうっておけば、問題ないっていうことがよく分かりますよ。






●記憶って、それ自身は問題ないのね。

記憶はちゃんとあるのに、思い出さなければ問題にならない。


でも思い出すと問題になるんです。不思議ですねぇ(笑)。

問題になるのは思い出した時だけなんですよねぇ。






●義衍老師は「因縁は暫定的な作用」とおっしゃいました。
通常、物事は決定的なものだと人は思いがちです。

でも本当は暫定的、一時的なものです。

腹が減るのだって一時的なものだよね(笑)。



全ての物事は一時的なものです。


 

井上貫道老師が坐禅会で話されたことばから


◇考えを「やめる」んじゃないですよ。

事実に即していれば、考えが「やまる」んです。

事実に触れれば念が切れるんです。 ―井上貫道老師





kandouroushi●坐禅中にいろんな考えが出てくること自体は「事実」です。

でもそれにひきずられたまま考えにひたっていると、「考え方」の世界に行っちゃいますね。


だからと言って『考えが出てきた、まずい』と思うと、それも考え方の世界ですね。



もちろん『考えないようにしよう』と努力するのも考え方の世界でしかありません。

考えが出てくるという事実に自分が関わって考え方に変えてしまっているんです。



実際には、つかむものなんて何にもないんです。



事実に即していれば、考えが「やまる」んです。

事実に触れれば念が切れるんです。 









●修行が進むと何事にも用がなくなってくるので、一見バカになったように見えます。

それが怖くて多くの人は頭を使っちゃうんですね。


大丈夫です、本当のバカにはなりませんから。





●なんでみんな自分の真相を知らないのかなあ。

一度だって自分から離れたことなんてないのにね。





●これから本当の生活をしていこうという人はいないんです。
常にいつも本当の生活をしてます。

誰だってみな、いつもど真ん中にいるんじゃありませんか。




●世間では、自分探し、ってよく言いますよね。

自分探しには坐禅が一番です。


なにしろ自分自身と一日中一緒なんですから。






●事実とか真相とかいうと難しく思うかもしれませんが、今のありよう、って言ったほうがわかりやすいかもしれません。






●「事実それだけ」って簡単に言いますけどね、事実を説明できますか?
今の自分の事実って、まあ、この部屋ですね。

この部屋の様子だって、言葉では言い尽くせないほどものすごい事実の量ですよ。
 
宇宙に匹敵するほどの膨大な事実を、たった一目見ただけで分かってしまう我々って、すごいと思いませんか?


そのすばらしさを自覚できれば、それでOKなんです。





● このように襖を開くと、まさに襖を開いた様子になるんですね~。

実に面白いですね。




● 自分の上に現れないものは、知ろうとしたって無理です。





● 耳に入らないものは音とは言わないです。





● 眼と物の関係はキチッとしています。
 
でもそれが認識できない認知症なんかは、頭のほうに原因があるんです。
 
眼にはちゃんと正しく映っています。





●「むなしく死ぬ」っていうのは、自分のことが解決できないまま死ぬっていうことでしょうね~。






●「生まれ変わり」といいますが、次の生に生まれてきたということは、歴史上一度もありません。

人生は一回こっきりです。

[仏典にしても祖録にしても、個人がまた次の人生に生まれ変わるということはどこにもありません。
道元禅師は、『辧道話べんどうわ』の中で、人が死ぬと身体から魂が抜け出るという思想を、「仏教の教えとは全く異なる」と激しく非難している




●「真理」は追い続ける必要がないものです。

いつだって真理のど真ん中で生きているんですから。追いかけるとかえって間違いますよ。





●「いい死に方をした」なんて言いますが、あれは残された人が、残された側の立場で言っているだけです。

死んだ人にとってはいいも悪いもありません。






● 頭の中に気になることが残っていると、雨の音が雨の音として聞こえないですよね。

ちゃんと聞こえている時は、きれいさっぱり他のものがなくなっているんです。

消すんじゃないですよ。






● 雨の音っていうのは、「ぱしゃぱしゃぱしゃぱしゃ・・・」(口で擬音)これだけです。

これに親し~く目を向けてください。







● 義衍老師の法話は、いつも同じ内容ばかりです。

それを私は何百回と聞いてきましたが、一度も同じと思ったことはありません。

この雨の音と同じです。毎回違う。
 

でも人間は記憶なんかがあって、それを引っ張り出して、前に聞いたことがあるな・・・なんて。





● 普勧坐禅儀の内容なんて、3行ですみますよ。「このこと」しか言っていない。






● 痛みが消えることはありません。
 
でも人間は、過去の痛みの記憶やら不安やらで、それを心の中で増幅してしまうことがあるんです。
 
ほんとうに痛みだけになれば、そういうことはなくなりますよ。






● 人は好き嫌いを起こしますね。これは事実に対して評価をしているということです。


事実が入ってきてからわずかに遅れて評価をしているんです。

でもわずかの遅れとはいえ、評価をする前の段階の様子が必ずあります。


そこに着目していくといいですね。






● 事実をそのままに入れていれば、実に静かですよ。

こちらに余計なものがなくなり静かになった分、人の動きもよくわかるようになります。

たとえば剣道で殺気を感じるなどといいますが、打ち込もうとする瞬間には必ずなにか動きがあるんですね。
そういうことがわかります。





● (首をさして)みなさんは、ここから上、頭だけで生きていますね~ 

 [考えだけで生きていますね~ だから真相は分からない]





● 考えを「やめる」んじゃないですよ。

事実に即していれば、考えが「やまる」んです。





●「音、音、音」じゃないですよ。「ザワザワザワザワ・・・」、これだけですよ。

「ザワザワザワザワ・・・」、
 
これこそが本当の受け身というんでしょうね。





●「精進する」というと、力を入れて何かよりよいものを目指しがちです。
そうではないです。
 
即処即処、今この様子そのものであることが精進です。
 

修行というと難しいことをするんだと考えがちですが、そうではありません。





●頭の中で想像したものなんて二束三文です。

いくら想像したって、実際に実物が目の前に現れれば、一目見ただけですぐに分かりますよね。

想像は全部吹き飛びます。


事実に触れれば念が切れるんです。






●初めて会う人でも、いったん見ればすべて分かりますよね。
あっ、こういう顔の人だな、と。

自分で分かるでしょ。

それのどこが人の真相なもんですか。



全部自分の真相です。






●ほら、玄関でピンポーンと鳴ってますね。

あ、誰だろう、とか思うと、もう真相から離れちゃいますよ。

事実はピンポーンだけです。


誰だろう、なんてのは後から出てきた想像にすぎません。





● (別の老師)この中には長いこと参禅しておられる人もおりますが、みなさん、どうも頭で理解しようとしている様子が見受けられますね。
 
頭で分かったふうになっても進歩はありません。


とことんまで聞いて、そのとおりやってくださいよ。


私もさんざん苦労したから言ってるんです。

せっかく [貫道]老師に来ていただいているんですから、もっともっと尋ねてください。






●坐禅をやらなければ疑問があるはずですし、しっかりやればやったなりに、さらに聞くこと
が出てくるはずですよ。







 

井上貫道老師が坐禅会で話されたことばから


●(手にした扇子の角度をいろいろ変えながら)こうやればこう見えるでしょ。
こう変えればこう変わるでしょ。

これが不思量底を思量するということです。

坐禅はいくら姿勢を整えたって、この不思量底を思量するということがなければ、なんにもなりません。




●(机を叩いて)「コン」とやると、音がして気がつきますね。

音がするから気がつくんです。

気がつくのが必ず後になります。

気がつくより先にこういうこと(「コン」)があるんです。

これを丁寧によく見ていけば、それは人間の好き嫌いを超えているものだということがわかります。

そういうことに学ぶのが坐禅です。




●よく、捨て切る、などと言います。

これを聞いて、何か自分の持っているものを捨てるんだと思っていませんか?

何も捨てるものはないんですよ。

「コン」、この瞬間にすべて捨て切っているんですよ。




●(外を車が走り去る音に)「ブーーーー」だけじゃないですか。これだけです。これだけじゃないですか。




●「少欲知足」という言葉があります。
世間一般ではこれを、欲望を抑えて少ないもので満足する、という意味に解釈します。

でも仏法では違うんです。

(扇を広げて)こうすればいやおうなくこう見えますよね。

何の不足もありません。


これで何も困りませんね。
これが少欲知足です。

仏法は世間一般の解釈とは次元が違うんです。
はっきりしてるんです。

しかし最近ではお坊さんまでが世間と同じ解釈をしてしまっています。

寂しいことです。




●子供は画数で漢字を易しい、難しいと判断しません。見たままです。

なのに大人は、易しい字でないと子供に分からないと思いこんで、一年生は一、二、三から、なんてやるんですね。 

 


●(机を叩いて「コン」)この音は崩れないですね。




●ほとんどの人は正しく見る力を持ってないですね。
何かが見えたと気がついた時には、もう見えた後になってしまっています。




●眼は前に見たものを残しません。それこそが救いでしょ。何にも束縛されないんです。 

 

井上貫道老師のことばです。


●眼は色を認識しないんです。
これは世間の常識では理解されないんですけど、眼が色を認識しているのではありません。

どこで色を認識しているかわかりますか?



●耳は言葉を認識しませんね。
耳は音を聞くだけです。

言葉にしているのは、どこか別の所にあるんですね。

でもって同じ言葉を聞いても怒ったり怒らなかったり。




●「心は壁のごとし」と言います。
風が壁に当たれば壁はどうなりますか?

やっぱり風を感じますよ。

でも認識はしません。

それと同じです。


 

●「本気で修行」と言いますが、目標を立てて一生懸命努力したりするのは単に力んでいるだけです。

スポーツだって、本気でやるときは力を抜くでしょ。





●世間的には修行というと、目標を立てて努力し、今の自分とは違うものになることだというイメージがありますね。

そうではなく、今の自分そのものに参じていくことが修行です。



 

●海外で指導していると、日本も海外も一緒だなと思います。

みんな何か目標を立てて努力をして今の自分とは別なものになろうとしてしまっています。


そうじゃなく、今の自分そのままが真実で何の問題もないんだということがなかなか伝わらないですね。





●修行が進むと何事にも用がなくなってくるので、一見バカになったように見えます。それが怖くて多くの人は頭を使っちゃうんですね。大丈夫です、本当のバカにはなりませんから。


 

●「禅堂に入るときには左足から入りなさい」と言われて「なぜ?」と思っちゃうともう分からなくなりますね。

なぜなんて思わず、そのまま「はい」と左足から入ればいいんです。

それだけです。
理解しようとするから分からなくなります。




●弓道では、余分なことをせず弓を引いて放せば飛んでいくんです。
そのように弓は作られています。 
 
余計なことをすると飛ばないんです。当たり外れもありませんね。

いかなる場合にも、矢が飛んで行った方向に矢が飛んで行きます。
飛んで行った方向と違う方向に飛んで行くことはありません。





●多くの人が、坐禅中においてさえ、理想を求める境地を頭で探しています。それは一見坐禅らしく見えますが、真実から外れています。





●真実は考え方じゃないんです。真実には説明がいらないんです。



 

●考え方で作ったものは脆いんです。

人間はあれやこれやと考えて、重箱の隅を突っつくようにして考え尽くし、これで完璧だ~なんて思ったりすることがあるけど、そこにちょっと違うものが入ってくると、とたんに崩れちゃいますよね。




●(机を叩いて「コン」)この音は崩れないですね。


 

●ほとんどの人は正しく見る力を持ってないですね。何かが見えたと気がついた時には、もう見えた後になってしまっています。





●眼は前に見たものを残しません。それこそが救いでしょ。何にも束縛されないんです。





●「むなしく死ぬ」っていうのは、自分のことが解決できないまま死ぬっていうことでしょうね~。





●「生まれ変わり」といいますが、次の生に生まれてきたということは、歴史上一度もありません。人生は一回こっきりです。

*編者註 
[仏教では、
たくさんの個人の魂があるとか、
亡くなったら肉体から出て行くとか、
生まれ変わり死に変わりして、魂が向上していくとか、
そのようなことは経典のどこにも書かれていません。
道元禅師も、辧道話ではっきりと否定されています「それは仏教ではない」と]

 

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