坐禅の仕方と悟り,見性,身心脱落:井上貫道老師の庵 まとめブログ

Dharma Talks of an Enlightened Japanese Zen Master Kando Inoue Roshi 井上貫道老師が、悟りを体現された経験から坐禅の方法や仏道について語られたものを掲載しています web上に散見される井上貫道老師のことばも引用掲載し、まとめブログとしました ( これは参禅者によるブログであり、公式サイトではありません ) このブログが正師への参禅のきっかけになりますように

カテゴリ:井上貫道老師語録 > 井上貫道老師のことば(短いもの)

井上貫道老師のお話からの抜粋です




●本当に事実に触れれば[=悟れば]、底が抜けてすっきりしますよ。




●みんな、常日頃たくさん問題を抱えてますよね。

修行を始めるとき、それらの問題には一切手をつけず、今、この状態そのままから修行を始めるんです。

決して問題を整理解決してから始めるんじゃないんです。

そんなことしてたら一生修行できません。

反省してたらきりがなくなっちゃいますよね。

本当に『今』に用があるんです。





●人間って、事実に触れると楽になるもんなんです。

人前であがった時は、聴衆の顔を一人一人眺めると落ち着きますよ。
ピッチャーが満塁のピンチで緊張してるとき、地面を這ってるアリを数えることで気持ちが落ち着くって話もありますよね。




●人間は、受け止めた物事や事実を、自分なりに解釈し、意味づけし、整理しようとする。

でもそうじゃなく、事実そのまま、整理しないでおけばいいんです。




●虫が鳴くから声が聞こえるんです。
虫が鳴いていないのに聞こえるってことはありません。

草が伸びるとき、茎の下のほうが上を追い越すってこともありませんよね。

世の中のものは、全てこのように順じてるんです。逆になるものは一切ありません。




●禅では『心は鏡』だとよく言いますが、
本当は『鏡の中の様子だけ』なんです。

鏡は存在しないんです。

鏡の中だけってことは、つまり鏡の外だけってことなんですけどね。




Q.禅で言う「心」とは何でしょうか?

A.こうやってるこの様子です。こうやってる働き全て。「事実」「ありのまま」ということと同じです。

ただ、限界や範疇というものはありません。

ここまでが自分の生きている様子だ、なんていう範囲はありません。

世界が全て心です。「三界唯心」と言うじゃないですか。


一口に「心意識」と言いますが、
どこまでが心の働きで、どこまでが意で、どこまでが識なのかあいまいです。

だから「仮に名付づけて心となす」なんて言ったりします。

日本語に訳すなら『それ/これ』とか言うほうがふさわしいかもしれませんね。



「心、壁の如し」と言います。心は壁のようなものです。
壁ってどういう働きをしますかね? 

壁に向かって『おーい』と呼べば、壁はどういう働きをしますか?

壁にうなぎパイをあげれば壁はどういう働きをしますか?


そういったことを参究するといいですね。

「眼耳鼻舌身意」と言いますが、眼耳鼻舌身からの感覚がなければ、意は起きてきません。






Q.悟りに向けて進歩しているのかどうか不安なのですが・・・。

A.「悟り」って、どこかで聞いてきただけでしょ。悟りって、きっとあんな感じだ、こんな感じだというイメージがあるだけでしょ。だから危険なんです。


進歩っていうと、その勝手なイメージまでの距離を測り、どこまで進んだかな、なんてやってるんじゃないですか。

そのような行為を「念想観を測量する」と言います。測量はやめましょう。



悟りに用がないということにすればいいんです。
 
悟りたい、分かりたいという気持ちに用がある人は何してるかというと、
いつも追っかけっこしてるんです。
 

実際は手を叩くと「パン」だけで終わってるでしょ。


それで満足いかないのは「考え方」があるからです。





Q.事実を見ても、どこかすっきりしないのはなぜですか?

いつも自分の中に薄い膜が張っているように感じるのですが。



A.自分の中を整えようとしちゃいけません。事実そのものに学びなさい。





Q.「事実に学ぶ」とはどういう意味ですか?

A.事実は全て教えてくれてるじゃないですか。
湯のみ茶碗自身がそれ自身のことを教えてくれてるじゃないですか。




Q.実際に湯のみ茶碗を見ても、間違いなくこれだけ、のはずなのに、幸福感や安心感がないのはなぜでしょうか?


A.そこに参じてないからです。




Q.「参じる」とはどういう意味ですか?
 

A.すっかりこちらのものがなくなり、「事実」だけになった様子です。
 
事実に照らされている様子です。


自分の持ち物は全て事実に照らされてなくなります。


湯飲み茶碗をこうやって見れば、これに何の疑いもないでしょ。

そこに安心がないというのは、参じきってないんです。

人間ってね、頭の中でイメージを勝手に作りあげ、
それと実物が一致すれば分かった気になって納得するんです。


でも本当は実物だけなんです。



頭のいい人が修行すると大変ですよ。一を聞いて十を知っちゃうんですから。

「パン」と聞いただけで、ざーっと理路整然といろんなものが出ちゃうんですから。


頭ではなく体に任せてみなさい。




● みなさんは、本当に物があると思っていますからねぇー




●本当に事実に触れれば、底が抜けてすっきりしますよ。

 



▷井上貫道老師の師・井上義衍老師のことば
 井上義衍老師とは

今日、昔の人のように本当に大悟などできるものかという人が多いけど、これはうそです。
絶対にそういうことはない。
今日の人だって、必ずできるということです。

ただ、そういうことのあることを信じない。


それですから、せつかく坐禅儀などに方法も手段も説いてあっても、それをただ理解するだけであって、本当にやらんから分からん。


それだから、その体験がないから多数決でもって、そんなことが今日の人にできるもんか、と片付けたくなる。
 
もし本当に今日の人にできなんだら、経論みな焼き捨てにやならんです。教えんでもいいんです。


こんなことが本当にあります、というたって、
今日説明として残っているだけで、事実がないようなら
うそをついている。
 
そういうことになるでしょ。

 
(井上義衍『無相伝光録』 p41)
 

井上貫道老師が坐禅会の時に話されたことばから


●坐禅するということは、生地(きじ)のままでいることです。自分の生地に触れる時間帯が坐禅です。

 

●こうやってぱっと見ると、みなさん座ってますね。

全部一度に見えるんです。遠いとか近いとかは無いんです。

遠いとか近いとかは『考え方』でしかありません。人間が頭の中で遠い、近いと判断しているだけです。

 

●我々は普段、『考え方』を起こし、さらにその上で『どうあるべきか』なんて考えがちですね。
坐禅は、それを離れた生地の自分のままになることです。

 

●悩みや不安といったものは考え方の上に起こってくるものです。


 

●我々は生まれてから今まで、「事実」にいろんなものを付け加えて生きてきてますから、いざそのまま事実を見ようとしても難しいんですよね。

事実とほぼ同時に考え方が起きます。

厄介です。坐禅によってそれが取れて、素っ裸の心の生地になるんです。



●静かに座っているだけでは坐禅ではありません。

この自分の生地に触れることが大切なんです。

仏教のパンフレットには足の組み方や作法は書いてあっても、一番大事なここが抜けているんです。

世間の書物にも書いてないです。たぶん、どうにも書きようがないからでしょうね。

 

●修行して解脱するんじゃないです。
すでに解脱してるんです。
そのことに気づき、ああ、なるほど、確かに解脱してるな、となるのが坐禅です。

こういう実証方法を伝えてきたのが仏教のすばらしいところですね。

 
 

●解脱している証拠に、先ほどの事を今やっている人はいません。今は今の事しかやっていません。これこそが証拠です。




●左を見て右を見れば、もう目には右の光景が映っています。左の光景は残っていません。これが、目が解脱している証拠です。耳も鼻も同じです。


 

●失恋したショックで何も見えない、という人がいたら連れてきてごらんなさい。どんなにへこんでいても、茶碗を見せればちゃんと茶碗に見えますよ。それぐらい誰もみな解脱しているんです。




●腹を立てる人ってのは、右を見ている時にも左のことが頭から離れないんですね。そうなると、右のこともまともに見えなくなります。


 

●坐禅中にいろんな考えが出てくること自体は「事実」です。
でもそれにひきずられたまま考えにひたっていると、「考え方」の世界に行っちゃいますね。
だからと言って『考えが出てきた、まずい』と思うと、それも考え方の世界ですね。

もちろん『考えないようにしよう』と努力するのも考え方の世界でしかありません。

考えが出てくるという事実に自分が関わって考え方に変えてしまっているんです。実際には、つかむものなんて何にもないんです。


 

●ワン、と聞こえると、あっ犬だ、と思いますよね。

思ったその瞬間には、もうワン自体はありません。

つかんだつもりの時にはもう無いんです。

考えるより先に事実があるんです。後から考え方に変えてるだけです。


 

●良い、悪いといった考え方を外れなきゃだめです。

人の話を聞くときもそうです。

そうしないと本当にその人の話が聞けません。

良い、悪いを外れて聞くから大切に聞けるんです。

しかもそのほうが楽ですよ。


 

●考え方のほうに行くから迷うんです。

事実に目を向けることです。
今のありようのみです。
特別なことではありません。

我々はずーっと事実の中で生きているんです。



●科学の世界でも、自分の考え方を立てているとずれますよね。
事実のみを見ないと間違います。

無限の変化を無限なまま見ていくんです。

 
 

●医者はどうですか?
患者を診る前に自分の考えで診断しちゃいますか?

そうじゃないですよね、まず患者の状況を見ますよね。


 

●腹が立ったときに、その怒りがまた怒りを呼んでだんだん収まらなくなるのは、事実の側にいないからです。




●自分自身とは24時間片時も離れずにいるのに、自分を見るってことを、みなさんしないんですよね。

何か事実が起きたとき、自分に何が起きているかを知らないんです。

事実に対して最初の瞬間から腹を立てる人はいないですよ。





●反省、後悔、自己嫌悪といったものも、考え方の中にいる限り、そこから立ち直れません。

後悔する自分ではなく、生地の自分のほうにいなさい。



 

●私の師匠(井上義衍老師)は叱り方がうまかったですね。

子供の頃、さんざん叩かれましたけど、全然うらみに思わないんです。

きっと彼が心の生地のままに動いていたからでしょうね。



 

●生命が宿ったら、全ては最初からその中にあります。

樹を植えると、勝手に芽が出て根が伸びます。 
 
こちらは水や肥料をやってるつもりですが、実際は自分で育ってるんです。

水をやっても芽が出ない樹もあるし、ほっといても勝手に育つ樹もあります。



 

●物事を理解する力も、他からは来ないんです。

全て自分でその力を付けていきます。


 

●坐禅でも、これだ、というものが最初に正しく根付けば、あとはほっといても大丈夫です。


 

●自分の抱えている問題を修正しよう、なんてするとだめですね。

そんなもの、きりがありません。
人生終わっちゃいますよ。


 

●もう50歳だ、先が短いっておっしゃいますが、毎日が新しい日ですからね、歳なんて取らないんですよ、坐禅してると。


 

●疑問があればとことん質問して消化しておいてくださいよ。

疑問を抱えたままだと、坐禅中にその考えが出てきちゃいますからね。


 

●眠気が起こったら、ちょっとそれに気づいてあげればいいです。
気づけば眠気は去ります。
釈尊も『覚すれば即ち滅す』と言っています。

とはいえ、眠気が起こらないような体調や環境を整えることが第一ですね。




●真剣に道を求めて修行している人は、警策(木の棒)で叩いても大丈夫です。中途半端にやっている人は叩いてはだめです。おびえちゃいます。


 

●道元禅師は最初の頃、坐禅の効用を6つほど書いておられました。しかし最後のほうになると、効能書きを削除しています。たぶん坐禅がそれだけのものだと思われることを避けたかったんじゃないでしょうかね。



●坐禅は自殺しなくてすむ道なんです。 



 

井上貫道老師のことばです。


●眼は色を認識しないんです。
これは世間の常識では理解されないんですけど、眼が色を認識しているのではありません。

どこで色を認識しているかわかりますか?



●耳は言葉を認識しませんね。
耳は音を聞くだけです。

言葉にしているのは、どこか別の所にあるんですね。

でもって同じ言葉を聞いても怒ったり怒らなかったり。




●「心は壁のごとし」と言います。
風が壁に当たれば壁はどうなりますか?

やっぱり風を感じますよ。

でも認識はしません。

それと同じです。


 

●「本気で修行」と言いますが、目標を立てて一生懸命努力したりするのは単に力んでいるだけです。

スポーツだって、本気でやるときは力を抜くでしょ。





●世間的には修行というと、目標を立てて努力し、今の自分とは違うものになることだというイメージがありますね。

そうではなく、今の自分そのものに参じていくことが修行です。



 

●海外で指導していると、日本も海外も一緒だなと思います。

みんな何か目標を立てて努力をして今の自分とは別なものになろうとしてしまっています。


そうじゃなく、今の自分そのままが真実で何の問題もないんだということがなかなか伝わらないですね。





●修行が進むと何事にも用がなくなってくるので、一見バカになったように見えます。それが怖くて多くの人は頭を使っちゃうんですね。大丈夫です、本当のバカにはなりませんから。


 

●「禅堂に入るときには左足から入りなさい」と言われて「なぜ?」と思っちゃうともう分からなくなりますね。

なぜなんて思わず、そのまま「はい」と左足から入ればいいんです。

それだけです。
理解しようとするから分からなくなります。




●弓道では、余分なことをせず弓を引いて放せば飛んでいくんです。
そのように弓は作られています。 
 
余計なことをすると飛ばないんです。当たり外れもありませんね。

いかなる場合にも、矢が飛んで行った方向に矢が飛んで行きます。
飛んで行った方向と違う方向に飛んで行くことはありません。





●多くの人が、坐禅中においてさえ、理想を求める境地を頭で探しています。それは一見坐禅らしく見えますが、真実から外れています。





●真実は考え方じゃないんです。真実には説明がいらないんです。



 

●考え方で作ったものは脆いんです。

人間はあれやこれやと考えて、重箱の隅を突っつくようにして考え尽くし、これで完璧だ~なんて思ったりすることがあるけど、そこにちょっと違うものが入ってくると、とたんに崩れちゃいますよね。




●(机を叩いて「コン」)この音は崩れないですね。


 

●ほとんどの人は正しく見る力を持ってないですね。何かが見えたと気がついた時には、もう見えた後になってしまっています。





●眼は前に見たものを残しません。それこそが救いでしょ。何にも束縛されないんです。





●「むなしく死ぬ」っていうのは、自分のことが解決できないまま死ぬっていうことでしょうね~。





●「生まれ変わり」といいますが、次の生に生まれてきたということは、歴史上一度もありません。人生は一回こっきりです。

*編者註 
[仏教では、
たくさんの個人の魂があるとか、
亡くなったら肉体から出て行くとか、
生まれ変わり死に変わりして、魂が向上していくとか、
そのようなことは経典のどこにも書かれていません。
道元禅師も、辧道話ではっきりと否定されています「それは仏教ではない」と]

 

井上貫道老師が坐禅会で話されたことばから


●(手にした扇子の角度をいろいろ変えながら)こうやればこう見えるでしょ。
こう変えればこう変わるでしょ。

これが不思量底を思量するということです。

坐禅はいくら姿勢を整えたって、この不思量底を思量するということがなければ、なんにもなりません。




●(机を叩いて)「コン」とやると、音がして気がつきますね。

音がするから気がつくんです。

気がつくのが必ず後になります。

気がつくより先にこういうこと(「コン」)があるんです。

これを丁寧によく見ていけば、それは人間の好き嫌いを超えているものだということがわかります。

そういうことに学ぶのが坐禅です。




●よく、捨て切る、などと言います。

これを聞いて、何か自分の持っているものを捨てるんだと思っていませんか?

何も捨てるものはないんですよ。

「コン」、この瞬間にすべて捨て切っているんですよ。




●(外を車が走り去る音に)「ブーーーー」だけじゃないですか。これだけです。これだけじゃないですか。




●「少欲知足」という言葉があります。
世間一般ではこれを、欲望を抑えて少ないもので満足する、という意味に解釈します。

でも仏法では違うんです。

(扇を広げて)こうすればいやおうなくこう見えますよね。

何の不足もありません。


これで何も困りませんね。
これが少欲知足です。

仏法は世間一般の解釈とは次元が違うんです。
はっきりしてるんです。

しかし最近ではお坊さんまでが世間と同じ解釈をしてしまっています。

寂しいことです。




●子供は画数で漢字を易しい、難しいと判断しません。見たままです。

なのに大人は、易しい字でないと子供に分からないと思いこんで、一年生は一、二、三から、なんてやるんですね。 

 


●(机を叩いて「コン」)この音は崩れないですね。




●ほとんどの人は正しく見る力を持ってないですね。
何かが見えたと気がついた時には、もう見えた後になってしまっています。




●眼は前に見たものを残しません。それこそが救いでしょ。何にも束縛されないんです。 

 

井上貫道老師が坐禅会で話されたことばから


仏道をならうというは、自己をならうなり ―道元禅師

 
●釈尊も道元禅師も、みんなあらゆる書物を勉強して理解できたほどに頭がいいのに、結局はそれを捨てて自分自身に学んだんです。

なぜ大先輩達が自分のありように学んだのか、ってことですよ。






●本来「禅」なんてないですよ。

本当の真実そのものだけです。


それを見つけた代表の一人が釈尊です。
後世の人がそれを名付けて「仏教」「禅」と呼んでいるだけですよ。





●(仏法どおりに)「そうなれるか」「できるか」じゃなく、「そうなっている」ことを確かめてください。





●ある参禅者(一般人)と老師との問答:
私:
かくかくしかじかのことを見ました。

老師:
間違っていません。そのまま置いておけばいいです。


参禅者:
今まで通り坐禅を続ければいいのですね。

ただ、今は思考がわーっと動き出して、見たそれを「ははあ、なるほど、そういうことか」と概念化したがっています。


老師:
まあそうでしょう。面白いもんですよ。今まで聞いた仏教知識や経典が全部分かるようになるので、頭の中で整理し直したくなるんです。考えを整理しているのは面白いですからね。

それと、他人の言うことや修行に口出ししたくなったりね。

今はそういう時期ですから、しばらくそういったことに注意して、坐禅を続ければいいです。



参禅者:
あああ~、まったくおっしゃるとおりです。気をつけて続けます。
もし頭で整理している様子が出てきても、それもそのままにしておけばよいですね。

老師:
そうです。
 


参禅者:
そのうち完全な自覚が生まれるのでしょうか。

老師:
もちろんです。だってそれ以上、何も無いんだもの。 
 
(問答終わり)





●悟っても喜怒哀楽がなくなるわけではありません。
釈尊だって喜怒哀楽を持っていました。

ただ自分の思いや自分勝手から出る喜怒哀楽ではありません。

そこが一般の喜怒哀楽と違うところです。





●何もしないで手を付けずにおれば、「縁(=事実、現象)」によってこの心身は自由に変わります。 
千変万化です。とにかくそれをよく見てください。




●いくら縛ろうとしてもこの全心身は自由に活動しています。
赤いものを見れば赤く映るでしょ。
青に変えればさっと青に変わるでしょ。

そのぐらい自由です。




●もちろん自由と言っても「自分の思いどおりになる」という自由ではないですよ。





●普通の人は、自分で描いたイメージどおりになれば納得するし、ならなければ納得しない、それだけのことなんですよ。




●「あの人はいい人だ」とよく言ったりしますよね。でもこの「いい人」って言ってるのは、多くの場合、「自分の思い通りになる人」のことなんです。





●「思い」の中に実相はないんです。只の虚像にすぎません。





●「自分の様子」は探さなくてもいいんです。いつでもどこでも自分の様子ばかりでしょ。それに手を付けずそのまま参じていればいいんです。




●「リリリリ」と鈴虫が鳴いていますね。「リリリリ」だけで終わっておけばいいんです。




●お湯飲みの中にお茶が入っていたら飲むし、臭いものが入っていたら手を出したくありませんね。

でもお湯飲み自体は何も変わらないでしょ。


自分というのはお湯飲みです。

採れたての事実を自分という器の中に入れましょう。


というか、いつでも採れたてのはずですね。





●事実を取っておくことはできませんよ。

事実をつかまえておくことは不可能です。
記録することはできますけどね。




●昔のことを今やっている人は一人もいませんよね。誰しも今は今のことしかやっていません。1分前のことを今やっている人がどこにいますか?






●自分の生きているこの姿こそが根本で、それ以外に何もないでしょ。
だからそこに勉強するのが一番ですよ。
書き物や人の言ったことよりもそちらに学ぶことです。





●手放しなさいというと、何か握っているものがあって、それを捨てるんだと思うのは間違いです。

(机を叩いて)「コン」、

これに手を付けないようになどと言いますが、手を付けるものがありますかね?

手放すものもなく止めるものもない、そのことを指して「手放す」と表現しているだけです。





●「どうしようか」「こうしようか」というのが休まっている時が正法現前です。






●「どれが今の様子だ」なんてつかまえて「これか」なんてやると、もうお話にならないですね。





●「教えのとおりになろう」とすると、そのことが距離を作り、追いかけっこしてしまいますよ。





●こうやって「コン」と机を叩くと、距離も時間も飛び越えてそのままあるでしょ。

でも大抵の人は「向こうで鳴った音をこちらで自分が聞いた」と思いこんでるんですね~。





●本当は目、耳と区切ることはできないんです。これら全部が自分の様子、全体です。





●この身だけが自分の様子ではありませんよ。何から何まですべてが自分の様子です。





●大雨で近所の川の堤防が切れて氾濫したら、これも自分の様子です。自分の様子だからこそ自分で直しに行くんです。





●大抵の人は、自分に入ってきたものを、あとから眺めているんです。だから満足できないんです。





●禅で避けたい心の状態を「昏沈散乱」(こんちんさんらん)と言いますが、昏沈(こんちん)の最たる状態がウツやひきこもりです。

こういう状態になると、自分の考えにばかり目を向けて、事実に目を向けていないことが多いです。




●一番小さな禅は鐘が鳴って始まり、鐘が鳴って終わります。いわゆる坐禅です。一番大きな禅は、始まりなく終わりもないですね。ずっとこれ全てです。




●坐禅をしたから痛みが消えるということはありません。痛みはあっても気持ちの上で苦しまずにおれるようになるということはあるでしょう。







●道でうずくまっている人を見かけると、「どうしたのかな」と近寄っていく力を誰しも持っているんです。

でも考え方のほうで「いや他に用があるから」とかいってそのまま通り過ぎちゃいます。

なのにずっと気がかりなんですね。

この「どうしたのかな」という気持ちのことを「正一念」と言います。




●「人にへつらう心は道に相違する」と釈尊は言っています。






●悟りを開く人は「分かった」なんてことはないので、きちっと決まるんです。


井上貫道老師が坐禅会で話されたことばから


◇考えを「やめる」んじゃないですよ。

事実に即していれば、考えが「やまる」んです。

事実に触れれば念が切れるんです。 ―井上貫道老師





kandouroushi●坐禅中にいろんな考えが出てくること自体は「事実」です。

でもそれにひきずられたまま考えにひたっていると、「考え方」の世界に行っちゃいますね。


だからと言って『考えが出てきた、まずい』と思うと、それも考え方の世界ですね。



もちろん『考えないようにしよう』と努力するのも考え方の世界でしかありません。

考えが出てくるという事実に自分が関わって考え方に変えてしまっているんです。



実際には、つかむものなんて何にもないんです。



事実に即していれば、考えが「やまる」んです。

事実に触れれば念が切れるんです。 









●修行が進むと何事にも用がなくなってくるので、一見バカになったように見えます。

それが怖くて多くの人は頭を使っちゃうんですね。


大丈夫です、本当のバカにはなりませんから。





●なんでみんな自分の真相を知らないのかなあ。

一度だって自分から離れたことなんてないのにね。





●これから本当の生活をしていこうという人はいないんです。
常にいつも本当の生活をしてます。

誰だってみな、いつもど真ん中にいるんじゃありませんか。




●世間では、自分探し、ってよく言いますよね。

自分探しには坐禅が一番です。


なにしろ自分自身と一日中一緒なんですから。






●事実とか真相とかいうと難しく思うかもしれませんが、今のありよう、って言ったほうがわかりやすいかもしれません。






●「事実それだけ」って簡単に言いますけどね、事実を説明できますか?
今の自分の事実って、まあ、この部屋ですね。

この部屋の様子だって、言葉では言い尽くせないほどものすごい事実の量ですよ。
 
宇宙に匹敵するほどの膨大な事実を、たった一目見ただけで分かってしまう我々って、すごいと思いませんか?


そのすばらしさを自覚できれば、それでOKなんです。





● このように襖を開くと、まさに襖を開いた様子になるんですね~。

実に面白いですね。




● 自分の上に現れないものは、知ろうとしたって無理です。





● 耳に入らないものは音とは言わないです。





● 眼と物の関係はキチッとしています。
 
でもそれが認識できない認知症なんかは、頭のほうに原因があるんです。
 
眼にはちゃんと正しく映っています。





●「むなしく死ぬ」っていうのは、自分のことが解決できないまま死ぬっていうことでしょうね~。






●「生まれ変わり」といいますが、次の生に生まれてきたということは、歴史上一度もありません。

人生は一回こっきりです。

[仏典にしても祖録にしても、個人がまた次の人生に生まれ変わるということはどこにもありません。
道元禅師は、『辧道話べんどうわ』の中で、人が死ぬと身体から魂が抜け出るという思想を、「仏教の教えとは全く異なる」と激しく非難している




●「真理」は追い続ける必要がないものです。

いつだって真理のど真ん中で生きているんですから。追いかけるとかえって間違いますよ。





●「いい死に方をした」なんて言いますが、あれは残された人が、残された側の立場で言っているだけです。

死んだ人にとってはいいも悪いもありません。






● 頭の中に気になることが残っていると、雨の音が雨の音として聞こえないですよね。

ちゃんと聞こえている時は、きれいさっぱり他のものがなくなっているんです。

消すんじゃないですよ。






● 雨の音っていうのは、「ぱしゃぱしゃぱしゃぱしゃ・・・」(口で擬音)これだけです。

これに親し~く目を向けてください。







● 義衍老師の法話は、いつも同じ内容ばかりです。

それを私は何百回と聞いてきましたが、一度も同じと思ったことはありません。

この雨の音と同じです。毎回違う。
 

でも人間は記憶なんかがあって、それを引っ張り出して、前に聞いたことがあるな・・・なんて。





● 普勧坐禅儀の内容なんて、3行ですみますよ。「このこと」しか言っていない。






● 痛みが消えることはありません。
 
でも人間は、過去の痛みの記憶やら不安やらで、それを心の中で増幅してしまうことがあるんです。
 
ほんとうに痛みだけになれば、そういうことはなくなりますよ。






● 人は好き嫌いを起こしますね。これは事実に対して評価をしているということです。


事実が入ってきてからわずかに遅れて評価をしているんです。

でもわずかの遅れとはいえ、評価をする前の段階の様子が必ずあります。


そこに着目していくといいですね。






● 事実をそのままに入れていれば、実に静かですよ。

こちらに余計なものがなくなり静かになった分、人の動きもよくわかるようになります。

たとえば剣道で殺気を感じるなどといいますが、打ち込もうとする瞬間には必ずなにか動きがあるんですね。
そういうことがわかります。





● (首をさして)みなさんは、ここから上、頭だけで生きていますね~ 

 [考えだけで生きていますね~ だから真相は分からない]





● 考えを「やめる」んじゃないですよ。

事実に即していれば、考えが「やまる」んです。





●「音、音、音」じゃないですよ。「ザワザワザワザワ・・・」、これだけですよ。

「ザワザワザワザワ・・・」、
 
これこそが本当の受け身というんでしょうね。





●「精進する」というと、力を入れて何かよりよいものを目指しがちです。
そうではないです。
 
即処即処、今この様子そのものであることが精進です。
 

修行というと難しいことをするんだと考えがちですが、そうではありません。





●頭の中で想像したものなんて二束三文です。

いくら想像したって、実際に実物が目の前に現れれば、一目見ただけですぐに分かりますよね。

想像は全部吹き飛びます。


事実に触れれば念が切れるんです。






●初めて会う人でも、いったん見ればすべて分かりますよね。
あっ、こういう顔の人だな、と。

自分で分かるでしょ。

それのどこが人の真相なもんですか。



全部自分の真相です。






●ほら、玄関でピンポーンと鳴ってますね。

あ、誰だろう、とか思うと、もう真相から離れちゃいますよ。

事実はピンポーンだけです。


誰だろう、なんてのは後から出てきた想像にすぎません。





● (別の老師)この中には長いこと参禅しておられる人もおりますが、みなさん、どうも頭で理解しようとしている様子が見受けられますね。
 
頭で分かったふうになっても進歩はありません。


とことんまで聞いて、そのとおりやってくださいよ。


私もさんざん苦労したから言ってるんです。

せっかく [貫道]老師に来ていただいているんですから、もっともっと尋ねてください。






●坐禅をやらなければ疑問があるはずですし、しっかりやればやったなりに、さらに聞くこと
が出てくるはずですよ。







 

井上貫道老師が坐禅会で話されたことばから


自分を中心にして物事を見てしまっているから自分が消えないんです。
 
もともと自分はないんです。
 

実は、考え方や見解も自分が作っているのではないんです。



自分を中心に据えて物事を見るのではなく、物事の方からやってくるんです。
 

それが五官(眼耳鼻舌身)に任せ切るということです。







(前の情景を指して)

どこにも自分なんかないじゃないですか。

ただ、木の葉があるだけでしょう?
どこにも自分はついていないでしょう。


それが自分の様子です。


でもね、振り返って、隣を見ると、他人がいるんですね(笑)[坐禅会に来ている人たち]
自分とは思えないんだ(笑)

隣の人も自分ですよ。
そうは思えないんでしょう?





ojizosan●自分の上に存在しないものでは絶対に迷いません。

自分の上に存在するもので迷うんです。

知らないもので迷ったりしません。


知ると問題になるんですね。知らぬが仏(笑)。






●実物そのものでは絶対迷わないです。

(机を叩いて)「コン」


それでも迷うんだから、人間ってよっぽどおかしいよね(笑)。






●聞こうと思っても思わなくても、(机を叩いて)「コン」、どうしようもなくこのとおりあるでしょ。






●どうもしなくていいんです。探さなくていいんですよ。

でも人間は仏法を探そうとします。

教えの中で理解できる部分がないか探そうとします。


これは坐禅の大敵です。






●茶碗に目を向けてごらんなさい。
そのとおり、欠けるところや余るところがないでしょう。

これを(龍樹尊者の)「円月の相」と言います。






●(前にあるお菓子を見て)観察しなくていい、こうやって見てるだけでいいんですよ。







●想いがやまるほどに、このもの(自分)が無限の活動をしていることが分かってきます。

決して「心静か」なんていう状態ではないですよ。







●機能としての「想い」は問題ありません。
それに自分の考えをかぶせるから問題になるんです。手を付けてしまっているんです。







●坐禅は知識の勉強じゃないですよ。

体でやるんです。






●物を見ると、たいがいの人は「むこうの物」と「こっちで見てる自分」を立てます。

でもそれは人間の見解が作り上げただけのものです。

実際にはむこうもこっちもないですよ。





●「従来からこのまんま」などとよく言いますが、道元禅師は「初めからこのまんま」とは言いませんでした。

必ず「従来から」と言っています。「初めから」なんていう基準はないんです。






●最初は物事はすべて単純明快です。

でもそれで終われる人は少ないです。


今のこの気配で満足できないものがあるからでしょうね。







●人は必ずなにか今の自分とは違う、立派なものを追っかけちゃうんだね。

今のこの自分このままで何も問題ないということが納得できないんだね。






●「三昧」という言葉の意味は「正しく受ける」ということです。


「正受(しょうじゅ)」とも言います。「正しくそのとおり」ということです。




●24時間全部が自分の生きている様子です。

取り除くものも足すものもありません。

だから、どれが真実なのか、なんて掴まないんです。






●事実が起きた時、自分の中で何が起きているか、よーく見てください。

悪口を言われたから腹が立つと通常は思っていますが、本当はそうじゃない。

どういう動きがあるか、よく自分の様子を見ればわかります。






●夢の中と、この現実の世界と、いったい何が違うんでしょうね。

同じでしょ? ところが現実世界のできごとに対しては「これは現実だ」とつかむから問題になるんです。


夢と同じように聞き流せばいいんです。






●心意識の動きが出てくること自体は問題じゃないですよ。それをそのままほうっておくんです。

それを「修行」と呼びます。


怖がらずにほうっておけば、問題ないっていうことがよく分かりますよ。






●記憶って、それ自身は問題ないのね。

記憶はちゃんとあるのに、思い出さなければ問題にならない。


でも思い出すと問題になるんです。不思議ですねぇ(笑)。

問題になるのは思い出した時だけなんですよねぇ。






●義衍老師は「因縁は暫定的な作用」とおっしゃいました。
通常、物事は決定的なものだと人は思いがちです。

でも本当は暫定的、一時的なものです。

腹が減るのだって一時的なものだよね(笑)。



全ての物事は一時的なものです。


 

(指一本立てて)こうやるだけで「自分」というものが死にますね
                       ー 井上貫道老師




「坐禅は修禅にはあらず」   ―道元禅師


●漫然と坐っている人は寝ちゃうね。

「何もしないのが坐禅」って言いながら・・・。
三十年も坐ってる人は必ず寝ますね。

今の様子に参ずるのが下手なんだね。

寝たら坐禅になりませんよ。





●これほどの事実に参じていれば、脳は刺激だらけで寝ようがないんだけどね。







●想(おも)いがやまるほどに、このもの(自分)が無限の活動をしていることが分かってきます。決して「心静か」なんていう状態ではないですよ。






● 「坐禅」というのは、今の実相、活動にそのまま親しくしていればいいんです。

「ただ坐る」というのは、事実、実相(じっそう)、この(自分の)一大活動に親しくいることです。


事実との間に距離がないからこそ「手を付けない」という表現になるわけでしょ。






● 観察するのではなく、事実のままにあることです。



car1_sensukandoroshi●(目の前の布を閉じたり開いたりしつつ)


人間って一瞬過去のことを相手にできますから、

記憶とのつながりで「閉じたものが開いたな」と思いますけど、

実際にはその時その時の様子があるだけですよ。





● みなさんからすれば「自分がこっちにいて、向こうでお坊さんが布を閉じたり開いたりしてるな」と思うでしょ。

本当はみなさん、自分ですよ、自分の動きですよ。







● こういうことを他のお坊さんに話すと「難しい」っていうんですよ。

みんな学問として仏教を研究してきてるからね。


すっからかんで話を聞かないから。





● 大道にはここからここまで、という端がありません。

「無端」です。






● 自分が素晴らしい存在だと思ってないから愚痴るんです。

自分に豊かなものがないと思うからむさぼるんです。







● 只管打坐の「管」の字は、よく「ひたすら」と訳されます。

でも宋代の意味としては「必ず」「確かに」です。

一番偉い人を管主と言ったりもしますね。



(手を叩いて)「パン!」


訓練も練習もしてないのに、必ずこうなるでしょ。



「パン!」


確かですね。







● 事実とずれがなければ「自分」が死にます。
 
(指一本立てて)こうやるだけで「自分」というものが死にますね。






● 自分自身が一番良い師匠ですよ。

自分の中でいろいろな動きがあって、それを見ていくことが自分を救う道ですから。






● 相手の話をあえてポジティブにいい方向で聞こうとすると、かえって良くないですね。

そのまんま聞くのが本当のポジティブなんでしょうね。







● 少し気を付けて坐禅を続けている人は変わってくるね。

ひとつ気が付いたらガタガタと変わっていくね。







参禅者:
先ほど老師が風呂敷を閉じたり開いたりして、

「これは自分の動きですよ」とおっしゃいました。

それがよくわかりません。




老師:
一般の人は、「自分」がここにいて「対象物」を見てる、という考えで生活してるでしょ。

だから自分が動いていることがわからないんです。





参禅者:
うーん、私が動いている、というのがやっぱりわかりません。


老師:
「私」というのが邪魔をしてるんです。

すこーし気を付けてやれば分かります。


お茶を飲むことと同じでしょ?




お茶は「自分が飲んでる」、

風呂敷は「向こうでやってる」

と思うけど、どちらも向こう側にあるものを受けてるだけじゃないですか。



お茶は自分の中に入ってくるから、いかにも「自分がしてる」と思いこんじゃうんですね~。



みなさんはこのことがクリアになってますか?

一般には、こんなことが仏教だとは思われてないんですね~。




別の参禅者:
自分のことだとはいえ、でもやっぱり問題にしちゃうんです。


老師:
そうね~。人は、問題にした所からしか物事を見ないからね。



だからこそ六根を解放して、まだ問題になっていない時点から物事を見る必要があるんですよ。
  ※六根=眼耳鼻舌身意





● 修行に時間がかかる人は、結局、言われたことをやっていないんだね。

 事実 [ 真理 ] より、考え方のほうが好きなんだね。


坐禅会での話を楽しんでいるだけなんだから。

そんなの何年やったって自分のものにならないですよ。





● 話を聞いて、実行したら、次回(の坐禅会で)、どうなったかを教えて下さい。

一ヶ月あるんだから。



 



「坐禅が進んで、内も外もなくなった人がいます

こうなると人生観が変わりますよ」

[ これが悟りだと言われているのではありません 念のため ]
ー(2014年夏の緑陰接心の提唱:接心3日目)井上貫道老師
 

(このブログは実践を前提に書かれています

更新がなくても、
今までの過去記事を
一番上のメニュー(スマホの場合はカテゴリー)から、
じっくりと学んでいただければ幸いです)




● 一般には、この身を境界として、自分と自分以外に分けて考えていますね。
 
いわゆる自分も、自分以外の世界も、自己と言います。






niwa
● この身だけが自分の様子ではありませんよ。

何から何まですべてが自分の様子です。









● 本当は目、耳と区切ることはできないんです。

これら全部が自分の様子、全体です。






● 大抵の人は、自分に入ってきたものを、あとから眺めているんです。

だから満足できないんです。




● 「音、音、音」じゃないですよ。「ザワザワザワザワ・・・」、これだけですよ。

「ザワザワザワザワ・・・」、これこそが本当の受け身というんでしょうね。




● 坐禅をどうしたらよいか知らないもんだから、
坐禅して少し心が静まってくると、すぐに居眠り坐禅してしまうんだね。

長年参禅している人は、たいてい寝ていますね。
10年、20年坐禅している人は皆そう。

寝ることは坐禅とは言いません。




● 専門家に坐禅を指導すると、

「今日は、よく坐れました(=よく坐禅出来ました)」

とか

「今日はあっという間に坐禅が済んだ」

とか感想を述べますけど、そんな程度なんだね、専門家でも。


そういうのは坐禅とは言いません
[ 専門家に対する批判ではなくて、坐禅会のわたしたちも、そうじゃないですか? と言われているのです ]





● 道元禅師の『普勧坐禅儀』に則って坐禅することが不可欠なんです。
   普勧坐禅儀 ふかんざぜんぎ

 http://zazen.blog.jp/archives/cat_958258.html
にて学んで下さい




Q.
普段から修行や正しい行いを続けて行こうと思うのですが、なかなか忙しくて難しいです。
継続していくのが大変だなと思います。

A.
考え方として申し上げるならば、こうやれば楽になるんじゃないですか -- 
 
つまり、これからずーっとそういうことが出来るかと考える必要がない。
 
今、きちっと出来さえすれば。ただそれだけなんですね。


人間て不思議ですね。
 
こういう状況がずーっと続かないといけないって思っている。
 
でも実際は、今のこの状況が続くなんてことではなく、
いつも今のこれがきちっとできるかということだけです。
 
今日一日出来るかしら、なんて、そんな長いことは考えない。
 

今やってることがちゃんとそこで出来ればそれでいい。


こういう話をすると、「今、今、今って、そんなことだけやってるのは、たまらん」という人がいる。 

考え方だとそうなっちゃう。

「これ飲んだらこれだけ」「これ食べたらこれだけ」なんて、
それは考え方。


普通、
これ飲んだら、自ずからこれを飲んでいる時だけの様子になるし、
食べたら食べた時だけの様子に、必ずなっているんです。

心配ない。






Q.
坐禅をすると、わーっといろんなことが出てくるんです。

A.
実際には普段から出ているんです。

でも普段はいろんなことで気が紛れているから、出ていることに気がつかないだけです。


坐禅をしていると他のことが収まるから、
いろんなことが出ていることに気づくだけです。


その出ていることを抑えようとするのは、かえって心を騒がしていることになるでしょ。

だって、出てきてしまったものをあとから無くそう無くそうとしているわけだから。


出てきてしまったものはどうしようもないのに。
 


そうではなく、
出たものを出たままに、何も手を付けずにいれば、
全然心を煩わさないよね。

これが本当の「心静か」ってことです。





● 仏道修行は、
今ここ で修行します。

「今」というと、「この瞬間だ」と言って、
「イマッ!」と切り出そうとしますが、
今はそんな風になっていませんね。





● 本当に「今の様子」それだけを見ている時は、それだけだっていうことも分からないはずです。
 
だって、「これが今の様子か」なんて余分なことが出てくる余地がないんだから。





● 修行は「思い」ではないんです。

「こうやればいいんだ」って方程式を立てておいて、それに沿ってやることではないです。




● 参禅は、「今の自分自身の様子」に参じることです。

そのために見聞覚知の六根を開放するのです。




● 五官にまかせる とか 六根を開放するって、
見えること、聞こえることを 観察するんじゃないですよ。
観察する自分などいないのですから。

「見ている」「聞いている」って風じゃないです。

だれかが言いましたね。
「主なくて見聞覚知する人を、いき仏とは是をいふなり」

 [至道無難禅師しどうぶなんぜんじ:白隠禅師の師の正受老人の師]





● 坐禅を◯◯の方法で10年やって来ましたという人がいたら、
10年やってどうなったのですか?
と尋ねてみてください。





●概念だけを取り上げているんです、実物じゃなく。

それが人間の世界です。


実物があるにも関わらず、実物の話をしないんです。


仏道ってのは実物です、
扱うのは。


実物は私には必要ない、って人はいないですね。



宗派に関係ない。
宗教に関係ない。

こういうものが仏道なんです。


  この記事のタイトル中:内外打成一片 ないげだいじょういっぺん と読みます
 

仏道は理想を追求することではない
仏道は人間が描く理想とは関係がない




▶多くの人が、坐禅中においてさえ、理想を求める境地を頭で探しています。

それは一見坐禅らしく見えますが、真実から外れています。

ー井上貫道老師 



risokyoheart●人間が理想を画(えが)いていると、いかにも立派そうなんですけれども、

それが迷いの根源なんです。

それを人類ことごとく知らんのです。(井上義衍老師)



●人間の考え方が、どんなに立派な考えでも、それは、

その人間、その人の考え方なんです。(井上義衍老師)





Q.
「貪」「瞋」「痴」の中で一番大事なのは何ですか?

A.
大事というより…言ってみれば不要なものでしょうね。

Q.
一番それを破りやすいのは「瞋」(怒り)でしょうか?

A.
いや、一番破りやすいのは「痴」、ものが分からないということでしょう。
だから貪りや怒りが出るんですね。
なんで貪ってるか、なんで怒りが出るか分からないから、いくら抑えても取れない。

それは普通の教えだから。人間の考えた上の話だから。
いくらそれをやっても、努力してもすぐにだめになるね。

それは仏教の教えではないな。

いわゆる倫理道徳の世界ですね。

それを要らないとは言いません。




Q.
分かるようにするにはどうすれば?


A.
こうやって生活している時の、自分のありように目を向けることです。

それは本当に「平常心」と呼ばれる、常日頃生活している中に答えがある。
 

簡単に言うと、たとえば、いきなり出会った人に対して先入観がないってことがあるでしょ。
先入観を持てない。

先入観がない時には、余分なことが自分の中から起きてこないでしょ。


だから腹が立たないし、もっとどうかしてほしいとかいうことも思わないし、触れたままのことがはっきりしてます。


そういうのをみなさんが日常毎日、本当はきちんとやってることでしょ。


初めて触れることばっかりでしょ、本当は。



でも、初めて触れるってことがどういうことか知らないから、
「また会いましたね」っていうことになってる。

「初めて」ってことを見ていません。


今こうしてこうやって動いていること自体が今初めてのことなんですね、本当は。

生きてるってことは、一度も経験したことのないことをやってるんです。


お湯呑みを持つにしたって、今まで持ったことないわけです。
 
初めて今こうやって持ったんです、この持ち方はね。
 

前も持ったことあるかもしれないけど、この持ち方、触れ方は今初めてやったんです。

この味も、何回もお茶を飲んだことあるかもしれないけど、この味は今初めてなんですね。


初めての時には、今言ったように、先入観がないんです、入れたくても。


そういう自分の動きを見てみると、貪りも起きていない。

そのままの味をそのままいただいて、それ以上欲しいともなんともなく、この味だけで足りてる。

だから腹も立たないでしょ。
はっきりしてるでしょ。


そうやって修行するんです。
 
それが仏道の修行です。



全然違いますね、だから。



Q.
そういうものは、出家して大きなお寺などで修行していると、自然に身に付くのですか?

A.
それは違います。

zazenshisenwitheyesopenshalftone
修行しなくても、誰しも初めっからこうなんです。

だから大事なんです。
修行した人たちだけが出来る教えでは役に立たないんです。

もう、はなっから。みなさんに用が無いじゃないですか。

修行してないんだから。

そうじゃない。

誰でも最初からちゃんと出来ていることなんです。


出来ていることなんだけれども、知らずにいるから、それを自分で、なるほどと自覚をしてほしいんです。


自覚をするためにはほっとけないから、必ず自分で修行をせざるを得ない。


どういう修行をするかっていったら、自分自身の今の様子に目を向けて、それをきちっと見極める。


自覚をするっていうことは他の人では出来ませんから、
否応なしに自分でやるしかない。




こういうように修行が約束されていくわけです。他人から勧められるわけじゃなくて。


     (略)

本当に、誰でもがそういうふうにきちっと出来てることがある。

それを釈迦って人は自分で見届けたから、実行して、
人にも伝えて、人が育って、
何千年も絶えずに来ているんです。
 

だから根本的に違うんですよ。



このようにコオロギが泣いているでしょ。

修行した人だけが聞こえますか?

 
修行してない人でもこのとおり聞こえるでしょ。
 

そのことが修行の根幹なんです。

ひとつも人を騙さない、迷わせない。
 

ちゃんとあのとおり鳴いている。


でも自分の中に受け取り方っていう、考え方や、今まで育ててきた物の見方があって、
そういうものを通して聞くようになると、
「あれはミミズが鳴いているんじゃないか」って言うと、
「いや、そんなことはない」って、誰でも言うでしょ。

学問があるから。
そうやって、必ずなってる。


だけど、あの鳴いている声に対しては、どんな表現をしても変わらないんです。
本当は。


でも言葉を変えて言うと言葉の上で問題が起きる。
 

要するに、聞いていることに用の無い人が、
考え方の上で問題が起きて、その考えの上で問題が起きると、
それをお互いが「正しい」「正しくない」ってやってるだけで、
本当のものを見る力をすぐ忘れちゃう。



それはもう修行にならないですね。

修行ってそういうことじゃないですね。


そこが、たぶん、一番伝わっていない。


だから、せっかく坐禅しても、ほとんどの場合「ちょっと気持ちよかった」程度で終わっちゃう。

     (略)

昔から、人が育つのは、この禅会のように、一握りの人が集まってやってるようなところです。

誰からも権力的に支配されずにやれるからね、独自に。


だから、皆さんが自分で情報を探し、検索し、いい指導者を探すしかない。

買い物と同じようにね。
 
自己責任です。


昔からそうです。
 
いろんなところを旅し、話をし、この人に教えてもらいたい、とそこに逗留し、修行してたんですね。 諸方行脚。


今は人の噂だけでやってる人が多いからね。

自分で実際に行ってやってみないとつまらないね。

昔より簡単に指導者を探して行けるのにね。
そういう時代になればなるほど、軽率にものを扱ってるかなあ。
 

「この頃諸方坐禅をゆるくするが故に、仏道衰えたるなり」  ー道元禅師


▶死ぬまでに一度でいいから自分自身が本当はどうなっているか、自己の真相に気づいてほしいですね
ビックリしますから  ―井上貫道老師




   井上貫道老師参禅者の体験談 をもご覧下さい。




過去の少林寺接心の提唱から

[  接心とは、在家の人も、諸縁を放捨して、道場に寝泊まりして、坐禅修行に専念する数日間
テレビ新聞携帯メールLine見ない、電話にも出ない、参加者同士挨拶も不要、お互い話をしない、自己に参ずるのみの期間 この期間に修行の進む人昔から多し 道元禅師は、修行時代、90日間の安居期間中、隣で坐禅する人の顔を知らず 欧米では禅リトリートと呼ばれる ] 
 

今回は「普勧坐禅義 提唱録」(井上義衍老師)を、井上貫道老師が提唱してくださいました。
以下、最終日の提唱より抜粋。

●漫然と坐っている人は寝ちゃうね。
「何もしないのが坐禅」って言いながら・・・。
三十年も坐ってる人は必ず寝ますね。

今の様子に参ずるのが下手なんだね。

寝たら坐禅になりませんよ。




● 眠るのは坐禅の大敵です。

坐禅ってどういうことなのか、よく分かっていないからボーッと眠るんです。




● 坐禅の間には休憩時間がありますが、あれは休憩ってわけではないですよ。

その時間におしゃべりしたりすると、人間は会話に引きずられますからね。

せっかくの坐禅が台無しになってしまいます。




● 接心や坐禅会に来て、おしゃべりをする人は、絶対に修行ができていませんね。
何の世界でも一流の人が自分の仕事をする時は、おしゃべりをしません。

一流のシェフがおしゃべりをしながら、料理を作りますか?

修行者は話をしないものです。

 
 
 

● 「坐禅」というのは、今の実相、活動にそのまま親しくしていればいいんです。
 
「ただ坐る」というのは、
事実、実相、この(自分の)一大活動に親しくいることです。



事実との間に距離がないからこそ「手を付けない」という表現になるわけでしょ。



観察するのではなく、事実のままにあることです。





●今の様子に親しくいれば、先ほどの様子は微塵もありません。そのことで十分です。




●悟っている人も、悟っていない人も、(手にした杖を立てて)こうすればこう見えるでしょ。




● 生きているうちに片を付けないと、ものにならないですよ。
使えません。

できるだけ若いうちに決着を付けて、長い間役に立ってください。

だから修行をぐずぐずしないこと。





zazenkaisaichuske● 近い人も遠方の人も、わざわざこの寺に来て接心しようというわけですから、社会のことをここまで持ち込むのはもったいないですよ。

世間のことは打ち捨てて坐ってください。




●本気になって求めると言ったりしますが、本当に坐りたければ坐るもんですよ。

他人がおしゃべりしてようが、寝てようが、そんなの放っておいて坐りますね。




●本当に気になっていれば、四六時中そのことが心から離れないですよ。

気にかかっているものを放っておけるわけがないんです。




●「言うとおりやってみようか・・・」なんて遠慮がちにやるからスカッと行かないんだね、半分ぐらいの人は。(笑)





●「作務」は、一般の仕事とはちょっとおもむきが違います。
ただそのことをそのこととしてやるだけです。

人のためやお寺のためではありません。





●達磨大師は9年間坐禅したと言いますが、9年かけて悟ったのではありません。

すでに悟った上で、坐禅というものの実物を9年間見せ続けたんです。

そして慧可という弟子が得られたんですね。

 ※達磨大師面壁九年で二祖慧可大師を得る 
慧可は達磨大師の前で本気を示すのに、臂(肘ひじ)を自分で切り落としたと伝えられている
この故事に因んで、臘八大接心のあと12月9日に断臂接心(だんぴせっしん)をする道場がある






●なぜ「自分自身に徹見せよ」というかというと、生涯、この自分自身の一大活動しかないからです。 
これこっきりだからです。


   井上貫道老師参禅者の体験談 をもご覧下さい。




箇の不思量底を思量せよ

「不思量底」とは何を指すのか。

 (カチン)これは人間の思い量りで聞いてるわけではない。

大きな音だとか、いい音だとか、一切そういうようなことなしに行われてる、

 その辺を不思量底と言うんですね。

いちいち皆さんが今触れているところです。     



――井上貫道老師17/3/23提唱から 【3/23提唱DVDからの抜粋】 DVD製作者様による文字起こしになります
不明点、疑問、足らないところは、坐禅会への参禅をお願い致します  実践して何か体験を得た場合も正師への参禅が必須です


【重  要】
神戸楽の森「坐る会」のサイト https://tinyurl.com/kobeteisho
にも、井上貫道老師の神戸坐禅会の提唱の一部が文字に起こされています。

大切なことを分かりやすく提唱されている部分ですので、ぜひ、ご覧ください。


不思量底如何が思量せん

思量と不思量

思う前の状況がある

思うっていうことがあるということは、そもそもその前の状況がある、ということでしょう。

思うという前はどうなってるかって言ったら、思いがついてないってことでしょう。

人間はその思いがついていないところをあまり大事にしないんですよね。

思いのまだついていないところ、そこに用がある。


人と出会った時でも、綺麗だとか汚いだとか、若そうだとか年寄りだとか、そういうこと一切なしに、こう、ぱっと触れただけでいる、そういうようなところ。こういうところに用がある。


――井上貫道老師17/3/23提唱から 【3/23提唱DVDからの抜粋】 DVD製作者様による文字起こしになります

【重  要】
神戸楽の森「坐る会」のサイト https://tinyurl.com/kobeteisho
にも、井上貫道老師の神戸坐禅会の提唱の一部が文字に起こされています。

大切なことを分かりやすく提唱されている部分ですので、ぜひ、ご覧ください。



不思量底、如何が思量せん。非思量。これ乃ち坐禅の要術なり。

非思量


「非思量」
ここから先は理屈抜きなんだよ。説明の必要でないところじゃないですか。

(コン)
どうしたら人間の思量分別のついてないところで聞くことができるかって、説明なんか要らないじゃない。

(コン)こういうことを本当にやったらいい。


――井上貫道老師17/3/23提唱から 【3/23提唱DVDからの抜粋】 DVD製作者様による文字起こしになります


【重  要】
神戸楽の森「坐る会」のサイト https://tinyurl.com/kobeteisho
にも、井上貫道老師の神戸坐禅会の提唱の一部が文字に起こされています。

大切なことを分かりやすく提唱されている部分ですので、ぜひ、ご覧ください。


いわゆる坐禅は、習禅にはあらず。ただこれ安楽の法門なり。

いわゆる坐禅は、習禅にはあらず

(坐禅は)「習禅には非ず」いつもその一回こっきりで終わりです。

坐禅は、積み重ねてだんだん上手になるような行をしているわけではない。

もう一回さっきの音を聞きたいなんて無理ですから。やれないんです、もう一回。



ただこれ安楽の法門なり。

「安楽の法門」(コン)こうやって音がするととにかくそのようになる。

目を開けてると目の前のものがその通りに見えるように出来てる。

本当に何もしなくたって大丈夫。

こんな楽なことはないじゃないですか。



――井上貫道老師17/3/23提唱から 【3/23提唱DVDからの抜粋】 DVD製作者様による文字起こしになります


【重  要】
神戸楽の森「坐る会」のサイト https://tinyurl.com/kobeteisho
にも、井上貫道老師の神戸坐禅会の提唱の一部が文字に起こされています。

大切なことを分かりやすく提唱されている部分ですので、ぜひ、ご覧ください。





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