井上貫道老師のお話からの抜粋です●本当に事実に触れれば[=悟れば]、底が抜けてすっきりしますよ。●みんな、常日頃たくさん問題を抱えてますよね。修行を始めるとき、それらの問題には一切手をつけず、今、この状態そのままから修行を始めるんです。決して問題を整理解決
魯山貫道老師のことば(短いもの)
事実はあなたの考えとは異なるー井上貫道老師修行の秘訣
井上貫道老師が坐禅会の時に話されたことばから●坐禅するということは、生地(きじ)のままでいることです。自分の生地に触れる時間帯が坐禅です。 ●こうやってぱっと見ると、みなさん座ってますね。全部一度に見えるんです。遠いとか近いとかは無いんです。遠いとか近い
修行とは何もしないこと、何かに向かうと修行じゃなくなるー井上貫道老師
井上貫道老師のことばです。●眼は色を認識しないんです。これは世間の常識では理解されないんですけど、眼が色を認識しているのではありません。どこで色を認識しているかわかりますか?●耳は言葉を認識しませんね。耳は音を聞くだけです。言葉にしているのは、どこか別の
仏道修行・座禅とは今の自分の様子に学ぶこと―井上貫道老師
井上貫道老師が坐禅会で話されたことばから仏道をならうというは、自己をならうなり ―道元禅師 ●釈尊も道元禅師も、みんなあらゆる書物を勉強して理解できたほどに頭がいいのに、結局はそれを捨てて自分自身に学んだんです。なぜ大先輩達が自分のありように学んだのか、
何も思わないようにするのではない、自己をならうー井上貫道老師
井上貫道老師が坐禅会で話されたことばから◇考えを「やめる」んじゃないですよ。事実に即していれば、考えが「やまる」んです。事実に触れれば念が切れるんです。 ―井上貫道老師●坐禅中にいろんな考えが出てくること自体は「事実」です。でもそれにひきずられたまま考え
すべては自己なりー井上貫道老師
井上貫道老師が坐禅会で話されたことばから自分を中心にして物事を見てしまっているから自分が消えないんです。 もともと自分はないんです。 実は、考え方や見解も自分が作っているのではないんです。自分を中心に据えて物事を見るのではなく、物事の方からやってくるんで
坐禅は年月を重ねて上達するものではない (坐禅は修禅にはあらず)
(指一本立てて)こうやるだけで「自分」というものが死にますね ー 井上貫道老師「坐禅は修禅にはあらず」 ―道元禅師●漫然と坐っている人は寝ちゃうね。「何もしないのが坐禅」って言いながら・・・。三十年も坐ってる
内も外もない(内外打成一片)―本当の坐禅修行の方法
「坐禅が進んで、内も外もなくなった人がいますこうなると人生観が変わりますよ」[ これが悟りだと言われているのではありません 念のため ]ー(2014年夏の緑陰接心の提唱:接心3日目)井上貫道老師 内も外もない=内外打成一片 ないげ・だじょう・いっぺん(このブログは実
仏道は理想を求めて修行することではない
仏道は理想を追求することではない仏道は人間が描く理想とは関係がない▶多くの人が、坐禅中においてさえ、理想を求める境地を頭で探しています。それは一見坐禅らしく見えますが、真実から外れています。ー井上貫道老師 ●人間が理想を画(えが)いていると、いかにも立派そ
不思量とは―道元禅師『普勧坐禅儀』から
箇の不思量底を思量せよ 「不思量底」とは何を指すのか。 (カチン)これは人間の思い量りで聞いてるわけではない。 大きな音だとか、いい音だとか、一切そういうようなことなしに行われてる、 その辺を不思量底と言うんですね。 いちいち皆さんが今触れているところで
不思量底如何が思量せん―道元禅師『普勧坐禅儀』から
不思量底如何が思量せん 思量と不思量 思う前の状況がある 思うっていうことがあるということは、そもそもその前の状況がある、ということでしょう。思うという前はどうなってるかって言ったら、思いがついてないってことでしょう。人間はその思いがついていないところをあま
非思量―道元禅師『普勧坐禅儀』から
不思量底、如何が思量せん。非思量。これ乃ち坐禅の要術なり。非思量「非思量」ここから先は理屈抜きなんだよ。説明の必要でないところじゃないですか。(コン)どうしたら人間の思量分別のついてないところで聞くことができるかって、説明なんか要らないじゃない。(コン)
いわゆる坐禅は、習禅にはあらず。ただこれ安楽の法門なり―道元禅師『普勧坐禅儀』から
いわゆる坐禅は、習禅にはあらず。ただこれ安楽の法門なり。 いわゆる坐禅は、習禅にはあらず(坐禅は)「習禅には非ず」いつもその一回こっきりで終わりです。坐禅は、積み重ねてだんだん上手になるような行をしているわけではない。もう一回さっきの音を聞きたいなんて無理で
六根の機能に学ぶのが修行のやり方―仏道修行の真髄
六感の働きで学ぶ・六感の働きでいればよい純粋に耳の働きだけで学んで下さい。耳には人の聞き方はないんですよ。[どんな音でもその通りに聞こえる 人間の好き嫌いに関係なく聞こえる 自分の見解に合致することでも聞こえるし、自分とは反対の意見の発言でもそのとおり聞
修行とは、頭で考えるのではなくて今の事実から目をそらさないこと
今生きている事実から目をそらさないあれだけいろんなものを見てきたのに、今見えているものはこれだけだからね。これだけで十分だからね、どこへ行っても。そこへ行った時にそこへ行ったものがその通りに見えさえすれば、それで十分。どんなものでも、実物というのはたった