坐禅の仕方と悟り,見性,身心脱落:井上貫道老師の庵 まとめブログ

井上貫道老師が、悟りを体現された経験から坐禅の方法や仏道について語られたものを掲載しています web上に散見される井上貫道老師のことばも引用掲載し、まとめブログとしました ( これは参禅者によるブログであり、公式サイトではありません ) このブログが正師への参禅のきっかけになりますように

カテゴリ:井上貫道老師語録 > 井上貫道老師提唱録

井上貫道老師の『正法眼蔵現成公案』提唱から


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悟り体験をすれば、もう元には戻らないです

以後は、諸仏の過ごされた境涯というものをこの身体で楽しむことが出来るのです
   
―井上貫道老師




修行ということに関しては、一応悟ってしまえばもう関係はないと思っている人もおりますが、
とんでもない事だと思います。



悟るという事はですね、それで終わりというのではありませんで、二度と迷いの世界に戻れなくなるという事です。

例えば、分わかりやすくいうと、一度も来てもらったことのないこのお寺へ来てもらったら、もうその日からお寺に来なかった人にはならない。

どんなに騒いでみても、どんなにやってみても、もうお寺に来なかった前の人には戻らない。



それくらい悟りという事は人を迷わせない確かさがある、ということが悟りの大事な事ですね。



もし時間が経ったら忘れてしまうとか、元に戻ってしまうとかいうものだったら、尊ぶ所以(ゆえん)がないですね。


だから道元禅師が「一生の参学の大事おわりぬ」というような表現をしている。 参学の大事了



その体験をした事によって一応の決着がつきましたって、いうことですね。



それで私たちは見たこともなかった、行ったこともなかった悟りの世界に初めて足を踏み込んで、

諸仏方の過ごされた境涯というものをこの身体で楽しむことが出来るのです。



これで初めてそれが悟後の生活という事になるのかね。

ここら辺が楽しい処でしょう。

本当はこれをやってみたいわけですね。


そうじゃなければ、こういう祖師方の書かれたもの、残されたものを、
共に手を携(たずさ)え本当に参究して、
その味わいを味わうことはなかなかありませんね。



そういう人を作っていかないと仏法とかいうようなものがつまらなくなるんですね。
そうでしょ。

 

向こうの岸へ行ってないのに、こつちの岸から向こうの岸の話を一生懸命しているんですから、
こっちにみんな居るんでしょ。

お互いこっちに居るものどうしが、その中の人が向こう岸の話をした。

「お前行った事があるか」と言った時、「ない」といったらどうなるんですか?


(井上貫道『げんにーび』 (正法眼蔵現成公案提唱)p.181) 
 

今日、昔の人のように本当に大悟などできるものかという人が多いけど、これはうそです。

 
絶対にそういうことはない。
今日の人だって、必ずできるということです。
 

ただ、そういうことのあることを信じない。
 

それですから、せつかく坐禅儀などに方法も手段も説いてあっても、
それをただ理解するだけであって、
本当にやらんから分からん。


それだから、その体験がないから多数決でもって、
そんなことが今日の人にできるもんか、
と片付けたくなる。

 
もし本当に今日の人にできなんだら、経論みな焼き捨てにやならんです。

教えんでもいいんです。


こんなことが本当にあります、というたって、
今日説明として残っているだけで、
事実がないようならうそをついている。
そういうことになるでしょ。

そういう面で大いに考えなければならんところです。


―井上義衍老師 (井上貫道老師の師) 
(井上義衍『無相伝光録』p.41-42)

井上義衍老師とは→
こちら 






以下は井上貫道老師『正法眼蔵』提唱から


seiun気付かない限り[悟らない限り]、人間は本当にはケリがつかない。

毛筋ほどの疑いであっても必ず残る。


そういうものが残ると表現しきれない。


そのために生ずる
「悟りなどどうでもいい・必要ない・ないのが本当だ.あったら嘘だ」
というようなご意見は、もう一度考えて欲しいのですね。


悟りの正体を見届けた上でのお話として扱ってもらいたい。



一度も食べたことのない人が
「どうでもいい」とか「必要がない」とか「そんな味がするわけがない」とか、
もしそういう評価をしたらおかしいじゃないですか。


少なくともそのものをお食べになって味わった人なら
「これは商品として大したことない」とか酷評をしても構わないじゃないですか、
その場合言われていることに何か真意がありますからね。



ちゃんと食べたなら、
なんで「悟りなどどうでもいい」というのか、
なんで「必要ない」というのか、
「悟りなんていうのはあったら嘘だ」となぜ言うのか、
ちゃんとした理由がある筈(はず)です。


だけど食べない前に、食べた事のあるような話をしたらおかしいです。


だからここの処は私たちも気をつけたいところですね。


ー井上貫道老師 『げんにーび』 (正法眼蔵現成公案提唱) p.89



悟りの様子もみんなに具わっているんだけれども、
自覚がない限りは誰も自分にそれがあると思っていないのです。

そんな素晴らしいことがあるとは思っていない。

ー井上貫道老師


 他の井上貫道老師『正法眼蔵』提唱は、こちらのブログにあります
 ⇒ 『正法眼蔵を学ぶ』

 

「佛道をならふといふは、自己をならふなり」 ―道元禅師


▶仏道とは、本来の自己を自分で本当に見届けて、それに動かされることです。  ―井上貫道老師

▶修行とは、どっか他所(よそ)でやるんじゃないんですよ。 ここでやるんです。
いつもここでしか生きていないんだから。
もう1つの今なんてないんですから。  ー井上貫道老師


 
 

『学道用心集』の提唱の最終日:

inouekandoroshizazen2ske2全体に一言でまとめれば、みなさん、一緒に目を通していただいてるとおり、
自分自身の、今、生活している、今、今、生活している「ここ」でね、
この様子に学んでくれれば、このことがみな分かるようになってる。


でその具体的には、人間の持っている、五官ないし六官と言われるそういう道具がありますから、
五官=眼耳鼻舌身  六官=眼耳鼻舌身意 
その道具の働き、それを「諸機能」と言っておられますが、
その諸機能は、みなさんが考えておられるようなつまらない働きではない、
もっともっと、底抜け、大きな働きをして、初めっから、飛び抜けた立派な様子であるということ。


だからそういうお互いですから、自分自身の、その素晴らしい働きをしている、「本来の相(すがた)」と言っていいですか、
「本来の自己」と言っていいですか「自分」と言っていいと思います、
そういう誰もが持ち合わせてる素晴らしさ、宝物がありますから、
それを自分で本当に見届けて、
それに生涯動かされて、
思う存分、悔いなく、生きていただきたいと、
こういうことです。


あとは、何か条か出てましたけども、「有所得の心」。
いろんな意味で有所得の心、
「あれが欲しい」「これが欲しい」「ああなってほしい」「こうなってほしい」
いうようなものが人間にはありますが、
そういう、ケチなというか、小っぽけなというか、(義衍)老師が「つまらない」と言ってるんでしょう、
そういうものを、少しいただいて、喜んでるようなことにならんように修行してください。


ま、こういうことですね。


あとはほとんど、いいんじゃないかと思います。


もう少し補足をすれば、「どうしてそれでいいのか」いうことでしょう。

みなさんが描いている、本当に「知りたい」「得たい」「なりたい」境涯。


そういうものが、今のみなさんがたの動きそのものに、全部、あるということです。
どっか他所(よそ)にあるのじゃなくて。


だから、修行の仕方、求め方、というものが、
目を他所に付けるのではなくて、
自分自身の、今、生活している、このことに目を向けて、
そしてそれが本当にどうあるか、いうことが基本的なあり方でしょ。


そうやっていきますと、当然、自分の考え方なんてものは、全く、要らなくなる。

そんなものに手を付けててもしょうがない、それこそ。


ここに実物があるわけですからね。
生活してる実物があるんですから、それを人間の考え方で手を付けて、壊して、どうこうするんじゃなくて、
この、生活してるこの事実に用がある。

それをそっくりそのままいただいてみる。考え方を通すんじゃなくて。

それだけを、丁寧にやってくれれば、修行になるでしょ。






私たち自分が今生活してる様子が、坐禅の時は坐禅をしてる様子がある。
そんなにはっきりしているのに、そのことに参じて、触れていながら、生活を自分でしていながら、
そのことが自分でどうなっているか分からないっていうほど、愚かであっていいわけがない。

いわゆる、自分の生活を本当になおざりにしてるっていうことになるでしょ。


要するに、この今生活してる中に大事なものがあると思ってないから、いい加減にしてるんでしょ。

もっと他に大事なものがあると思ってるから、ここ今生活しているこの今のありように本当に目を向けていないのでしょ。


ところが、これも理論的に話したら少し理解がいくと思うんだけど、
私たちは、いついかなる時でもですよ、時間の上から言ったら、「今」だけですよ。
いるのは、自分がいるのは。

場所的に言えば、このものがいる「ここ」と言われる場所だけですよ、いつも。
そっから離れたことがないですよ、「今」とか「ここ」とかって言われる。


何十年生きようが。


嘘だと思うなら自分の様子を見てごらんなさい。
この身体のある所でしか生きてないでしょ。
この身体が行った先々でそのとおりのこのまま生活をしているだけじゃないですか、生涯。
それを端的に言えば「今こうやってるだけ」でしょ。


今だって「これ」以外にないでしょ。自分の生活してる、場所、時間帯。
だから、ここで勉強するしかないんですよ。このことで。


ところが、頭がちょっとおかしいもんだから、
「こんな所に?」って思ってますから、
「もっと他の時間帯/他の場所に行ったら何かいいことがあるんじゃないか」、端(はな)からそう思ってる。
そういう考え方の上で修行しちゃ、駄目ですね。それは修行にならない。


事実を抜きにしてものを学ぼうと思っても通んないですよ。


もっと普通に言えば、お茶の味を本当に味わいたいのに、飲まないでお茶の味を知ろうと思ってるのと同じぐらい愚かですよ。
やってごらんなさい、飲んだら必ず分かる。

どうもしないでも。

ここ(頭)じゃない。
これ(お茶)が教えてくれるの。


そうやって勉強するの、修行するの。

私の都合じゃないから、必ずこの中に入ってるお茶の味がするように出来てる。
いくらたくさんお茶碗があって注いであっても、他の人のお茶碗の味は絶対こうやってしないように出来てる。
そんなにはっきりしてる。
迷わないように。


それで十分じゃないですか、
このものの中に入ってるお茶の味が飲んだ時したら、それで。


このまま飲んだ時、他の人の中に入ってるお茶の味がするようだったら、もう人生めちゃくちゃだ。(笑)

そんなこと一切ない。

基本ですね。
修行、修行をどういうふうにして、どこで、何に学ぶのか、どうあるのか。

▶私達は毎日朝から晩まで真実の中に生きていながら
「おそらく一度も真実に直接触れた事はない」って言っていいでしょう。


▶ 「お寺に座禅をしたいから」と言って座禅に来る。
「何かわからない事ありませんか?」と聞く。

誰も何も言わない。
 
「では、座りましょう。」と言って座る。
 
問うべき事を問わないんじゃないですか?
 
 
一応パンフレットみたいなもの渡して、冊子のようなもので図解ができてるものを差し上げる。
口頭でも多少話をする。
一応の形はできる。
そして坐禅をする。

 
こういう座り方(坐禅の仕方)で座禅になってるのだろうか? 
 
修行になってるのだろうか?というような事ですね。

―井上貫道老師
 



2013年4月の井上貫道老師の静岡禅会でのお話です。①

道元禅師 正法眼蔵春秋の巻
 
私達は毎日朝から晩まで真実の中に生きていながら
「おそらく一度も真実に直接触れた事はない」って言っていいでしょう。
 
考え方、を通して見てる、
いつでもって言っていいほど。
 
だから心底納得しない事があるんでしょう。 
 
ちょっと何か揺り動かすと自分の中で疑いが起きる。
 
不安な気持ちになる。
 
揺らぐじゃない。


それで。人につつかれればなおさら揺らぎますねえ。


どこに行こうがその事がその事としてきちっと伝わるようにできてる。
あたかも暗記してるように。
 
初めて出会うものだけども、初めて出会ってうろたえるような事はない。
 
どこへ行っても。
どんな事に出会っても。
うろたえるような事はない。

 
うろたえるのは現実を見ないで自分の頭の中でその現実を捉えて 
どうこうするようになると問題が起きてますね。


「痛い」っていう時に、「どうかしてくれ」っていうようなものはないんですね。
不思議に。
それだけで済むんでしょう。
 
「なんで?」というのは起きないんですね。

 
道を歩いてていきなりバタバターと足元から鳥が飛び立つ。
 
「なぜ?」とか、「どうして?」とか本当に起きないんだよねー。
 
それ、皆さん、経験あるんじゃないですか?

 
それが済んでから、「今のは何だったんだろう?」、「どういうことだ?」 
っていうような問題を起こす人はたくさんいる。
 
その時にはもう、問題がなかったところを通った後じゃないですか。
 
問題なく生活した後じゃないですか。

 
違いますか?
ちゃんと通れたんじゃないですか?
 

『正法眼蔵』はこうやって読んでみるとよくわかるように、 
『正法眼蔵』はそこに書いてある事を読んで理解するって
いうような事ではない事ですよね。
 
必ず自分自身のあり様としてそこがちゃんとしてるか、 
必ず問われています。

 
これが道元禅師の親切なとこでしょう。


もう一つ人間が生きてる場所があるならいいですよ。同時に。
今こうやって生きてるものと、もう一つ自分が生きてる場所があるんだったら、 
そっちがよければ、そっちにいけばいいんです。
 
ねえ、ところが、誰もよく見て下さい。
もう一つ生きてる場所なんかないじゃないですか。
 
時間的にももう一つの別の場所があるわけじゃないじゃないですか。
そういう事をまず熟知するべきじゃないですか。
 
ものを学ぶのに。 
 
 
パシッ(老師、手を叩く)
 
だからこの音を聞くのには必ずここで聞くしかないじゃないですか。
後にも先にも。
この場所で、
この時に。
この音を聞く以外にないじゃないですか。
 
あと、どこでこの音を触れる事ありますか?
一々そうですよ。
この音だけじゃなくて。生きてる様子見て下さい。
 
 
一々の生きてる様子は今ここで本当にその事が行われているだけであって、 
その他のところにどこにもないですよ。
 
 
そういう生き方を私達してるって事が脱落の身心と言われる所以でしょう。
何もかも離れ切っている。
 
要するに、私達が普段勉強して考えてる事と違うんですよ。 
このもののあり様は。

 
だからこのものの事実の方から学ぶんです。 

 
(老師、頭を指して)
この変な頭の方から学ぶんではないんです。
ここはつまらないものいっぱい詰めてますから、
そのつまらないものいっぱい詰めてる方から見たら、
そこにいくら真実が展開されていても
それを正しく見る能力は皆無に等しいでしょう。


どうしてそういう立派な人のところについて修行しているのに
きちっと問うべき事を問わないのか、聞くべき事を聞かないのか。
 
暑いという事はどういう事を言ってるのか。
寒いという事はどういう事を言ってるのか。
「そんな事、聞かなくたってわかってる」って、思うから問わないですね。


座禅もそうですねー、
「お寺に座禅をしたいから」と言って座禅に来る。
「何かわからない事ありませんか?」と聞く。
誰も何も言わない。
「では、座りましょう。」と言って座る。
 
問うべき事を問わないんじゃないですか?

 
一応パンフレットみたいなもの渡して、冊子のようなもので図解ができてるもの 
を差し上げる。
口頭でも多少話をする。一応の形はできる。
そして座る。

 
こういう座り方で座禅になってるのだろうか? 
修行になってるのだろうか?というような事ですね。
ここで言わんとする事は。



自分自身の事を本当に自分自身で見極めるって
誰からも指図される事ではない。
 
強要される事でもない。
 
人としてこの世に生まれて自分自身の事本当に知らないと 
いうのは哀れな事じゃないですかね?

 
なんで、この一個の中で、こうやっておりに触れて生活してて 
問題が起こるかって、よくよく見てみれば、自分自身というもの
わからないから問題が起きるんじゃないですか?
 
だってどこで問題が起こるかって、必ずここなんですね。
 
今以外のところで、問題起きた人いないんですよ。
 
問題起きると必ず、しかも自分の上なんです。
 
他所の人の体の上で問題が起きた事ありません。
 
必ず自分自身の上で問題が起きる。

 
その問題もですね、いろんなものにこうやって接触しますけれども、 
接触したその時に問題が起きるんです。
 
どういう風にして問題が起きるかっていうと、「何言ってんだー」、
「それどういう事だ?」、「あんなやり方ないじゃないか」
そうやって自分の中に触れたものに対して、皆自分のそういった見解を
起こして、それで問題起こしているんじゃないですか?
 
他にはないでしょう? 



「あー、なんてかわいそうな事か、私だけこんな事してていいのかしら?」 
そういって自分の中でふっと思うといたたまれなくなって、
「こんな贅沢してちゃいかん」と言って、
ご飯も食べずに人の為に施すような事する人もいるでしょう。
 
じゃあ、それずっと続けたらどうなるかって、 
自分は一週間食べずにいたら必ずおかしくなりますよ。
 
「みんな汗水たらして夜も休まずに働いている、私も」って言って 
一週間飲まず食わずに人の為にやるのはいいけど、ぶっ通しやって倒れる、
それ、皆考え方の生んだ愚かな事じゃないですか?
 
本当はそんな事が大事な事じゃないじゃないですか?
 
そんな無茶苦茶な事をしろっていうんじゃないでしょう?

 
もっと平凡な中に本当に誰もができて実行力があって、 
効果がある事あるんじゃないですか?
 
とにかく人間はそうやって、自分が触れたものに対して、 
自分の中で見解が起きるという事が
それから問題が起きてるんでしょ?
 
じゃあ回避するんだったら、その問題が起きてないところに 
目をつける必要があるんじゃないですか?

 
じゃあそれどこにあるか


人間の見解を起こす前にどうなってるかを見るべきじゃないですか?

 
触れたものが自分の見解を起こしてどうこうじゃなくて、 
触れたその一々のものが自分の見解を通さずに
それがどのように本当になってるか、それ抜きにして自分の好き嫌いで
ものを取扱って、ものが解決できるわけないじゃないですか。
 
参禅ってそういう事をするんじゃないですか。
 
本当に自分自身の今の様子に参ずるという事。 
 
用があるのはそこじゃないですか?

 
で、自分自身の本当の様子がない人は一人もいないんだから。
 
だけどすぐに見解が起きて自分の考え方でものを見る癖があって 
その前の正しいもののあり方のところに着眼する人ほとんどいないって事でしょう。
 
そういう事ずーっとこうやって伝えてきてる、そこやって欲しいという事を。
 
それが仏祖のかじょうなんでしょう、
で、あんまり当たり前だから修行にお見えになった立派な方々でも、 
立派な人のそばにいてもそれ以上追求するこない。聞く事もない。
 
そういう生活をしているから淋しいなと言ってるんでしょう。 

 

毎月一回木曜日、静岡駅から南へ徒歩10分の崇福寺 鯖大師で、
井上貫道老師の座禅会があります。
崇福寺臨済宗
 
夜6時半から9時まで、出入り自由、会費一回1200円、
25年続いており、正法眼蔵をテキストにして
井上貫道老師の提唱、お話があります。
会場などの詳細は、
井上貫道老師全国坐禅会日程にあります。



上記の文章の
引用元:http://ameblo.jp/10wanko28/entry-11528265009.html
文中、脱落の心身とあるのは、脱落の身心 に書き換えました

(このブログは
井上貫道老師まとめブログです
すなわちネット上にある井上貫道老師の様々な語録と坐禅会情報を一つにまとめて、
学人の参学の便宜とするものです)

▶自分の見解を起こさずに、
本当に相手がしゃべってる時そのまま聞いているっていう事が
穏やかな生活ができている証拠じゃないですか?
ー井上貫道老師 



2013年4月の井上貫道老師の静岡禅会でのお話です。② 
道元禅師・正法眼蔵春秋の提唱から
 
①の続き

この前も紹介したんだけども、
あるお母さんがお寺に参禅に来てるから、 
「皆さん、ここお寺に参禅に来て何か目的あるんでしょう?」
って聞いたら、
「心が穏やかでいれたらいい」
ってその人は言われました。



「穏やかになれたらいいって、普段穏やかじゃないんですか?」 
って聞いたら、
「子供と話をするとすぐ喧嘩になるんです」 
って。


「すぐ喧嘩になるっていうけど、いつもそうなの?」
ったら、
「いや、そうでない時ある」 
って言ってました。


「どういう時?」

「それ、自分で相手の話をただ聞いてる時だ」 
って言ってた。

それ、穏やかだそうです。
喧嘩にならないそうです。


自分の生活の中知ってますよ、だから。
だけどもそういう事が修行だと思ってないから。
お寺でも行ったら、もっと楽になるんじゃないかと思ってる。

そうじゃない。


本当はそうやって自分の見解を起こさずに、本当に相手が 
しゃべってる時そのまま聞いているっていう事が
穏やかな生活ができている証拠じゃない?


それが、禅の教えだとか、仏教の教えだとか思ってないんですよ。
不思議ですね~。

どっかに別な教えがあると思ってる。



そういう事が問われてるだけなんですよ。
 

知らないと、その話をしてる時に、まだ他の何かをして 
幸せになれると思ってるんですよ。
 

やりかえて、何か他の事やりかえて、人は幸せになれると思ってる。 


そうじゃない、ただ本当に聞いているだけで居れるようになったら
人は幸せになれるんです。



だって自分の主義主張を立てて相手の話を聞くからすぐ喧嘩になる。



修行は他の時間にないじゃないですか。

他の時間帯で修行する事はない。

その時にどうあるかだけじゃないですか?


そのやってる事、今会話してる事の外じゃなくて、 
会話してる事を材料としてその時に自分がどうあるかだけが、
それ以外のところで修行する場所ないじゃないですか。
 
取り替えて。
 

今会話してる事、会話するといつも喧嘩になるから会話する事は 
止めといて他の事でって会話始まってやるような事したら
おかしいじゃないですか。
 

お茶を出されてお茶を飲む事止めて、じゃあ何するんですか?

そうじゃない。


その事でいつも勝負でしょう。



その事の中に修行があるんでしょう。
こういう事が伝わってない事ですねー。 


町の方に出て行っていろんな人達と話してみるとよくわかる。
今やってる事を外してどこか違ったものを持ってきて、そこにあてはめて。
そういう事が修行のように思ってますねえ。



道を明らめた人、真実を見極められた人達のとりあげられているものと
ただ単なる見解、そういうもので取り扱っているものとは違う。

実物と偽者は違うと言っていいのかしら。



一度も本当の熱さに触れた事がないのに、 
文章に熱いとは火傷をするような事だとか、温度が何度かとか
書いてある事を知って、いかにも熱いって事を知っているように
思ってる事は愚夫の法でしょうかねえ。




今の社会ではだんだんそういう人増えてきた。


実物抜きでインターネットなんかを通してでもですね、 
あらゆる知識がすぐに検索できて、検索したものをみると
あたかもそれ、自分で知ったかのように自分の知識にしてる。


だけどそれは他人がやった事をわずかに見て 
そう思い込んだ位の事なんでしょう。

そういう事だと思いますよ。 


直ちに、今、ここで、直接に。
家に帰ってからとかこれからとか言わずに、 
今、ここで、すぐに。


この音声ひとつだってそうでしょう。

いきなり聞こえてそれで終わりです。

回避する所なんかどこにもない、
という事が春秋の巻の最後の詰めになってますね。


そういう事のために、『正法眼蔵』読んで 
どういうふうに、何を、どこに向かって、どのように
生活をしたらいいのかっていうことが伝わって。


伝わるっていうことは実践して頂けるようになるということですかね。

どうしたらいいかって事が伝わるって事は実践するって事になりますね。

実践しなければ、どうしたらいいかって事が伝わったって事ではないですね。

それでいいでしょう。

それ、すごい大事な事なんですねえ。


「あーそういうふうに書いてある」、「そういう事か」っていうのは 
伝わったんじゃあないですね。

それ理解に終わっただけですね。
あるって事は実践するんですね。
必ず実践します。


右行ったらちゃんとした所に着くよと書いてあったら右に行くんです。
そうするとなるほどここかあって必ず着く場所があるからそれでいいんでしょう。
そうすると書いてあったものが初めて自分で信じられる。


そこまでやって頂くと、こんなもの(老師、『正法眼蔵』を持ち)を 
持ち歩かなくても済む人になるんじゃないですか。


是非そうやって頂きたい。と思います。 



毎月一回木曜日、静岡駅から南へ徒歩10分の崇福寺 鯖大師で、
井上貫道老師の座禅会があります。
崇福寺臨済宗
 
夜6時半から9時まで、出入り自由、会費一回1200円、
25年続いており、正法眼蔵をテキストにして
井上貫道老師の提唱、お話があります。
会場などの詳細は、
井上貫道老師全国坐禅会日程にあります。



引用元
http://ameblo.jp/10wanko28/entry-11528265828.html
文中の 愚ふの法 を 愚夫の法 に書き換えました。


(このブログは
井上貫道老師まとめブログです
すなわちネット上にある井上貫道老師の様々な語録と坐禅会情報を一つにまとめて、
学人の参学の便宜とするものです) 

通常のブログでは、その記事の続きを読みたいと思いましても、インターネットの達人でない限り、
次の記事が探しにくいものですので

 

道元禅師正法眼蔵提唱録―井上貫道老師


井上貫道老師「正法眼蔵提唱録」のサイトのご紹介


井上貫道老師が岡山県玉島の円通寺坐禅会で、道元禅師の『正法眼蔵』の提唱をしておられます。
それを文字に起こしてあるブログがありましたので、ご紹介させていただきます。
こちらになります⇒ http://syobogenzo.blog.fc2.com/

外部リンクを貼る許可も、ブログ作成者よりいただきました。


自分の今の様子に参じるのに役立つブログです。皆様もご訪問下さい。


ご参考までに、
提唱の講本には、岩波文庫の水野弥穂子註の『正法眼蔵』(一巻~四巻)を使われています。
文字の大きい 岩波文庫ワイド版 水野弥穂子註『正法眼蔵』(一巻~四巻) もあります。
坐禅会参加するためには、必ず購入の必要があるという意味ではありません。


◇    ◆    ◇    ◆    ◇    ◆    ◇    ◆    ◇

玉島の円通寺と良寛さん

岡山倉敷市玉島の円通寺は、良寛さんと親しまれているかの大愚良寛禅師が修行し、悟りを開かれた道場です。良寛さんは、大忍国仙禅師から印可証明を受けられました。

今も曹洞宗の専門僧堂です。


井上貫道老師の円通寺坐禅会

その円通寺で月一回土曜日夕方から日曜日早朝にかけて、井上貫道老師の提唱、坐禅、独参があります。
提唱が、『正法眼蔵』です。


坐禅は、禅堂で行なわれます。
暁天坐禅はとても気持ち良いです。一度体験なさってみて下さい。お粥も召し上がれます。

※道場では、修行者は朝のbreakfast はお粥(かゆ)をいただきます。


坐禅会が行われない月(8月/12月)もあります。
井上貫道老師円通寺での坐禅会情報の詳細は、
 http://zazen.blog.jp/archives/cat_958259.html
の <<中国地区>> でご確認下さい。



▶思考回路は真実からいつも乗りおくれているから、
自分のなかで葛藤が起きるのです。
―井上貫道老師





『意根を断つ今一度坐禅について』前編
静岡県少林寺住職 井上貫道
 悟りの体現者・井上貫道老師のプロフィールはこちら

真実に目を向ける
 
 ようこそ一泊坐禅会にご参加くださいました。本日は坐禅の経験がある方、ない方と いらっしゃると思いますので、坐禅の経験のあまりない方もおわかりになるように、 お話を進めさせていただきたいと思います。

 先ほど坐禅をしていただいて、人間がこれだけ集まっていてなお、こんなに静寂な雰囲気が つくれる、ということを体験していただけたと思います。


普通は人が大勢集まると、静かには ならないことが多い。
 
ですけれども、坐禅という行をするときには、何千人いようが、何万人 いようが、
誰もそこに人がいないぐらいの静けさというものができます。


 それが雑踏のなかで生活をしている人は、「たまには静かなところへ行って過ごしたいな」 と思う。
人のいないところを探して、「きょうは静かないいところへ来たな」と思っている。
 
けれども、だいたいそういうところにみんな行くものですから、せっかくの静かな場所がたち まち騒々しいところになってしまう。
 

こういうことが普通の生活のなかで起こることです。
 

ところが坐禅は、どんな喧騒のなかでも、みなさん方が自ずから静かな場所をつくるという行 であります。



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それから坐禅を行なう時の注意点として、道元禅師さまは目を開けて坐るということを おっしゃっています。
これはひじょうに大事なことです。

坐禅は瞑想とは違います。
 
だから目を開けて坐る。


ではこれにどういう効果があるのでしょう。


目を開けて坐ると妄想が 断ち切れるのです。


目の前のものが見えてますから、見えているだけでいるあいだは、 妄想が起きてこない。



 坐禅は、「真実」に用があるのです。


妄想は頭のなかで描いた青写真、あるいは砂上の楼閣 のようなもので実際にはありません。

 
しかし、考え方、思いの上に生じたものと造りものでない 事実との区分けをよく知らないと、
妄想を相手に坐るようになる。


そうではなく、真実(ぬきさ しならない今)に目を向けるのです。



 そこで本日の題「意根を断つ」ということになろうかと思います。

「意根」の「意」は「思い」 です。

こころのいろんなものを思わせる働き。その大きなものを「意根」といいます。
 

 人間の生活のなかでいちばん厄介なことはなんでしょう。

それは、なかなか自分の思いどおりに ならない、ということではないかと思います。
 
もし自分の思いどおりに全てのことが運ぶのだったら、苦労をしませんね。
 


ですがそんななかにあっても、この「思い」というものを自由に、世のため、人のため、そして人の邪魔にならないとか、傷つけないとか、汚さないというように使える人 になってほしい。

今日はそうした人になれるようにお話をしていきたいと思います。



 自分の「思い」が不自由のもと

 ではどんなことが日常起こっているのでしょう。

私たちは事柄にふれて、そのままの「思い」で いられる人はほとんどいません。
 

たとえば夕方お寺に着いて、控室に通してもらった。
 
通してもらったはいいけれども「どこへ坐ったらいいかな」と様子をうかがう。
 
先にいた人に「空いているところへどうぞ」とか、「こちらへどうぞ」とか言われると、安心してすっと坐れる。


今度は坐った はいいけれども、誰も何も口をきかないでじーっとしている。
 
5分、10分と時間が過ぎるにつれ、ひじょうに重苦しい雰囲気になってくる。


そのあいだどうしているかというと、ほんとうにいろんなことを「思う」のです。
 
 
 
「これから何をするんだろう」、

「あとどのくらいこうしているのだろう」、

どんどんいろんなことを思い、負担となってきます。 



こうして、人は自分の「思い」によって不自由になるのです。
 


 お釈迦さまは6年間坐禅をされたといわれていますけど、
その間、いろんな「思い」をする働きから離れて、
真実のまま活動している自分に目を向けられました。

 
ですから坐禅も、
こころで思いをめぐらすということをやめないと、正式には坐禅とはいいがたい。



 お釈迦さまが出家をされて修行をはじめた当時は、どの修行者も人間の考えかたを中心にしていました。


お釈迦さまも、出家をしてはじめのうちはそういう指導者のもとで、
いわれるとおり、断食をしたり苦行といわれるあらゆることをされました。



それでも、自分のなかで一つも解決されていかない。
これはどういうことかと申しますと、
頭のなかでこういうふうに思ったら、このように理論づけていったら、という定義があるだけ。

このことをやめたら、たちまちただの人になってしまいます。



 もっといえば、力を入れているときだけ立派そうに見える。
 
願力とか信念をもって続ける、戒を守る。
こうした人は生活態度を拝見しても実に清浄な姿で、あこがれでもあり、「立派な人だ」とみんな思ってくれる。

でも、お釈迦さまはそれではご自分の解決がはかれなかったのでしょう。



 そして、自分でどれだけ苦行などをやってみても、この自分の「考え」というものが自分を承服させない。
最終的に納得させないということにいたった。

当時の世の修行者と違う方向に向かった理由は、 これではないかと思うわけです。



 幸いに当時、『梵我一如』=「宇宙と自分は一体である」という思想がありました。
 
だけども、どうしたらそういうふうになるかわからない。


そこでお釈迦さまは、「これはなに」、「これをやって」、 というような、
人間の考えかたで物事を追求することをやめてみたんですね。


時々刻々と追求せずに過ごしてみる。
 
人間の考えかたで追求することをやめてものごとにふれてみる。



 こんなことはみなさんやったことがないでしょう。
 
普通は、これは四角形であるとか、こっちは黄色で、こっちは白いとか思う。



でもそういうこともやめて、有るとおりに生活をして、

是非をつけない。 

よしあしでものを見ない。比べない。
 

これが「意根を断つ」ということでしょう。

 

そうするとみなさんがあまり見たことのない、気づいたことのない世界が出現すると思うのです。





 思考回路から離れる

 いまのみなさんは自分の考え方で、追求していったら幸せになれる、何かが見つかると思って、
思考回路の総力を挙げて考えています。
 
これが普通かもしれません。
 

そう考えますと、お釈迦さまの考え方はまったく違います。
 

360度方向が違うのです。
わかりますか。

180度というと正反対の向きになります。 


これが360度というと、始点と終点がピッタリとしていて、見た目には何も変わりません。


どこが違うの かと思いますが、これがまったく違う。

お釈迦さまだけがやったことでしょう。



 (パンパン)と手をたたきますと、
人間の思考で追求しなくても、
不思議なことに聞こえてきます。 


「認識」というもののの育ちきらない小さなお子さんに、
(パンパン)
とやる。
 
その子に「聞こえたの?」と聞いても反応はない。
 
自分で聞いたという認識はないからです。


だけども、
(パンパン)
とやると、からだが反応する。
 
それでおとなは「聞こえているんだな」と思います。



 またはそこに熱い物が置いてある。
 
おとなは「熱かったから手を引いた」と思います。


ところが 「認識」のまだない子どもは、なにも思わずにやっているだけです。



そういう世界がある。お釈迦さまはそういうことを悟ったのです。



これは聞いてみればみなさん方も気がつくでしょう。

でも、 たいがい気がつかない。



それで何をやるかといいますと、
思考回路のうえで物事を追求することしか知らないからいろいろ思うのです。


 思考回路は人を苦しめ、悩ませ、ものがわからなくなる唯一の道ゆき、または配線です。
(使いようによってはすばらしいものだけれども)。


いま世の中で問題にされていることは、ほとんど思考回路のうえで起こってきました。




 ですから修行をするときに、この思考回路という道ゆきはいらないのです。


使わなくても、自分のからださえあれば足ります。


なぜそう言いきれるのかといいますと、
人というのは、いつでも、どこでも、だれでも、
このからだのあるところでしか生きられないし、
生きているところはこのからだの上の様子なのです。


これがすごく大事なことです。
 


 ですからお釈迦さまは、菩提樹の下で自分おひとりで六年も過ごされたのです。
 
ほかのものは何にも相手にしていません。
 

こんな簡単で単純なことです。
 

場所的にいえば、「ここ」という表現でしょうか。


では、どこを指して「ここ」というかというと、
このからだのあるところを「ここ」というわけです。



 みなさんは帰る家がおありかもしれませんが、そんなところで生活してないでしょう、いまは。 

 
 
家があると思っているだけです。

 

なくても大丈夫。
 
 
ここでちゃんとこうして生きています。

何の心配もありません。
 

これはキリスト教のおことばをかりれば、「三位一体」ということです。


サイコロの目のようなもので、1が出ようが6が出ようが一箇のサイコロのすがたに違いない。



時間的に いうと、「いま」。

 
場所的にいうと、「ここ」です。
 

それだけが人の生きている真実なのです。





 いま、完璧な真実

 仏教はだいたいいま申し上げたことが全てですね。これが「真実」。


これ以外は全部頭に描いたことです。


 
だけども不思議です。頭に描いたことで、お互いに話ができます。

 

「きのう、あそこで 会ったね」、「うん、あそこで会った」と、いろんなことをちゃんと話せる。
 

確かにきのうそういうことがあったに違いないのですが、
事実は事実よりも奇なりです。

人間の想像を絶します。


確かに体験して、あったはずのものだけれども、どこにもないんですね。


握った、離した、もう握った ことはどこにもないのです。

 

こうして両手を広げて、この広げていた両手は、いま、どこにあるで しょう。

 

思考の追求をやめてみるとはっきりわかるはずです。
 

広げていた手を握った途端に、げん こつがあるだけ。

これが真実ですね。



 立ったり、坐ったりといいますけれども、人間は同時に二つのことはできません。
 
立つと、坐っていたものはどこにもなくなります。
 
こんなにはっきりしている。


だけども、「立っていたのはどこへ行った」と聞かれると、
頭で追求して「坐ってそこにいるではないか」となる。
 
さっきそこへ立っていた人がいるように思う。



ここは頭がかたいものですから、どうしても事実のあり方につ いてこない。

それでみなさん乗りおくれるのです。

思考回路は真実からいつも乗りおくれているから、自分のなかで葛藤が起きるのです。




 それから、みなさんは目的というものを先に持っているかもしれませんが、いまやっていることで完璧ですよ。

 
布巾を持ったときはこの持ったとおりになるから、これで完璧。

 
離したら離したようになるから、これで完璧。
 
持っていたから、離したからどうかなるということではないのです。 


事実を見てごらんなさい。


握ったとき、確かに握ったことしかない。
 
離したら、離したということ しかない。



 きょうもある、あしたもあると思っている。
 
あしたになったら立派な人になると教えられて、信じています。
 
そうではないのです。
 


ほんとうに立派な人になるのには、
ただ、いま完璧にできているものを自分で、
「あ、ほんとうにそうだ」と納得のいくところまで事実に参ずることです。



 思考回路を使わないと、真実というものがよく見えます。
 
真実を見てみると、自分が探し求めていたものとぴったり符合します。

 
そういうことを、私たちは生活のなかでやっているのに、
思考回路が働くとすぐにそのことから目がそれてしまうのです。



 (パン)
この音と、

(パン)
この音は違うことを知っていますか。

 
人生のなかで、(パン)この音と同じ音はもう絶対にありません。
 

そういうことを知っていますか。
 

真実というのはそういうものです。



 「このことはいまに役に立つから、よく覚えておきなさい」と教えられるから、みんな一生懸命覚えます。
 
だけども、事自分の内面のことに関しては、役に立ちません。


似たようなことはあっても、二度と同じことがないからです。
 


 それでも自分の思考は、思考を重ねて、
似たようなことが出てきたから、あのとき、もし、
似たようなことが出たらこういうふうに次にやったら間違いないとか、
失敗しないだろうかとやり出す。 


だけども、そのようにやってみても、
思考回路が自分にたいして
「うん、それで間違いない」
と言わせないんですね。
 
これで「よし」と言わせてくれたら、ものすごく楽です。
 


みなさんが使っているマニュアルの世界で十分になってしまう。
 
マニュアルほどおもしろくないものはないですね。



 たとえばこのお茶碗をあそこからこちらへ持ってくるのに、ちゃんと足の運びまで決められてごらんなさい。
運ぶのにたいへんですよ。



真実とは、二度と同じことがないようにできているのです。 


ですから、やりっぱなしで平気でいられます。



一回一回がそれで完璧。いちいち完成度100%の真実なのです。   


         合掌



(後編へ続く)
引用元 http://www.nakanojouganji.jp/kihou/12inoue1.htm
『意根を断つ今一度坐禅について』前編 




真実というのは、自分の思慮、分別、考えかたをやめてみたときの自分のすがたです。


事実を人は思考で汚しています
「思い」というものが人をたぶらかして、真実からかけ離れさせてしまうのです。

―井上貫道老師



*************************************************************************************************

◇ 目に見えるもの、耳に聞こえるもの、これらはすべて自分自身の様子なんです

事実に即していれば、考えが「やまる」んです。



◇ 六根(眼耳鼻舌身意)の働きのままに、浮かんできた思いをとらえずに手をつけずにそのままにしておく。



◇ (机を叩いて)「コン」とやると、
音がして気がつきますね。

音がするから気がつくんです。

気がつくのが必ず後になります。

気がつくより先にこういうこと(「コン」)があるんです。


これを丁寧によく見ていけば、それは人間の好き嫌いを超えているものだということがわかります。

そういうことに学ぶのが坐禅です。



◇ (外を車が走り去る音に)「ブーーーー」だけじゃないですか。

これだけです。

これだけじゃないですか。 




◇ 考えを「やめる」んじゃないですよ。
 



◇修行とは何もしないこと



◇五感を自分のために使うことをやめる



◇思いが起こってもそれを相手にしない、手をつけない  [思考を観察することでもありません]



◇思いがでないようにするのではありません




*************************************************************************************************




『意根を断つ今一度坐禅について』後編


静岡県少林寺住職 井上貫道

 人の行ないというのは、1回1回完成度100%の真実なのでありますが、自分思いからいえば、 「完璧ではなかったな」と思うことがあるかもしれません。

歩いていて、転んだりなんかすると、 「あっ、失敗した」と思う。

でもそれは、そう「思う」ことであって、目の前の事実は違う。

歩い ていて転んだら、転んだようにあるだけ。

それで何も悪くないのです。

それなのに、転ばないこと が人の求めているすがただと思っている。



 真実というのは、自分の思慮、分別、考えかたをやめてみたときの自分のすがたです。

まだ認識というものが育たない子どもさんたちがそうですね。

赤ちゃんには、ものにたいするこだわり はまったくありませんから、だから天真爛漫と表現されるようなすがたがある。
 

 ところが、赤ちゃんを抱き上げたとたんに泣かれたりなんかすると、私は嫌われているんだなと思う。

それなのに、「あの人の時は泣かないな」となると、「あの赤ちゃんは私が嫌いだ。あの人のことは好きだ」とこう思う。
「今度もまた泣かれるだろうな。いやだな」と。

ただ、こちらの姿がそのままその時赤ちゃんに伝わるから、泣いたり笑ったりするんです。

赤ちゃんのほうには、こだわりがないんですよ。

だからいくら大きいダイヤモンドをあげても、かたいし甘くもないから見向きもしません。

逆に汚いものでも口に入れて、うわーっとみんなが慌ててとるなんてことが起こる。

 

 だから仲良くなると、大事にしているものでもみんなくれますね。

先日、3歳ぐらいの子ですが、 私の名前を覚えて「貫道さん、貫道さん」と言いながら、お菓子を「これも、これもあげる」と手渡してくれました。

私が坐禅堂へとすがたを消しましたら、向こうで大きな声で泣いていました。

ところが泣き疲れてくると、そのうち知らん顔して、それで終わり。

でも、おとなはこういうことに弱いですね。 すぐに「ああすればよかったかな」なんて思う。


 なんにでもそうですが、すぐに余分な思いが起きてきます。

そして、「ああすればよかった」、 「こうすればよかった」と思いをいっぱい重ねて、しまいにはどれがもとの色だったかわからなくなってしまう。

「思い」というものが人をたぶらかして、真実からかけ離れさせてしまうのです。





 思いから離れ、目の前のことをやる

 これから道元禅師が残されたお言葉を参考に、お話を進めてまいります。

まず、
「修行の用心を授くるにも、修のほかに証を待つ思いなかれと教ふ」
とあります。

修行はどうしたらいいか。今やっていることの外に、なにかもっと素晴らしい世界があるのではない。

今にそいきれない人が、むなしさを感じるのです。

今から目が離れてどこかに探し求めるから、いよいよどうしていいかわからなくなる。

ただ純粋に、今のことをやりさえすればすむということです。



 ところが「なんで私が? どうして?」と、こういう気持が次から次に起きてくる。

その思い にしばられて、結局やれなくなってしまう。

やれなくなった自分がいやになって、卑下をしたり、落ち込んだり、結局もっと苦しむことになる。

そこへ人から「なぜやらないんだ」なんて言われると、 もう、もっといやになる。
たまらなくなる。

みなさんは身に覚えがないですか。


 おとなりの中国に昔、趙州さまという立派な和尚さんがおられました。

大勢の修行者が訪ねたそうですが、ある日、はじめて趙州さまのもとに来た人が、「どう修行をしたらいいですか」と尋ねられたそうです。


すると「朝ご飯は食べたかね」と逆に問われた。

 みなさんどう思われますか。どんな修行をすればよいのか尋ねているのに、この返答。

この人ちょっとピントがずれているんじゃないかと思いませんか。


 ところが修行にやって来た人、「朝ご飯は食べたかね」と自分の耳に聞こえるから、「はい、 確かに食べました」と答えたそれだけなのです。

すごいでしょう。

みなさんはこういうふうにできますか。

みなさんの場合は、すぐに思考回路が働いて、
「なんで修行のやり方を教えてくれないんだ。不親切じゃないか」
くらいのことを思うのではないですか。


 ところがこの2人、

「朝ご飯は食べたか」、
「食べました」、
「それなら器を洗いなさい」と、

それだけ。


修行の場でなくともわれわれの日常に転がっている話です。

これが、目の前にあったら 次から次へとやればよいということの一例になるかと思います。

 

 他にも例えましょうか。

本を速く読もうとして、先のほうへと字を追って読む。

でもそうしているうちに、なにがなんだかわからなくなってしまう。

結局は速く読みたいからといっても、書いてある内容が正しく読みとれなければ、本を速く読んだことにはならない。

われわれの生活も、いろいろあって忙しいと言いもし思いもしますが、実際には1つずつやるだけなのです。

うっかりすると 忙しさにだまされて、こころまでいらいらして、やるべきことが手につかなくなるのです。



 
痛いことでも、全部が大事なこと

 「修を離れぬ証を染汚せざらしめんがために、仏祖しきりに修行の緩くすべからざると教ふ」。
なにかをした時、そのとおりの事実というものがあります。

これは先ほどから申しておりますように、 その事実を人は思考で汚しています。

人間は思考によって追求すると、真実がわからなくなる。

 「直指の本證なるがゆえなるべし」、

パン、

この音は、この音のなかにしかない。

そういうのを直指といいます。

ほかに指さしてあたる場所はないですね。


だけども人間は愚かだから、どこかほかに真実があると思う。

今やっていることが本当だとはなかなか思えません。

それはそうなんですね。

自分の描いた思いのほうが自分に近いわけですから、自分の思いに当てはまらないことは、真実だと思いたくないわけです。
 

 日常的なことを例にしてお話ししますと、誰でもお腹はいつも正常に働いて、痛くないほうがいいと思っています。

どなたでもそう願っていると思うのですが、では痛いのを自分の意志でとめてみる。

でもね、ほんとうはそんなことはよくないですね。

人間のからだは、痛みが出てくるときには 必要があって痛むようにできています。

それなのに自分の意志で痛くないようになったらたいへんです。 
 
お腹の中が破れていても気がつきません。

自分の思いでは、痛くないほうがいいかもしれません が、この今の傷みを除いては今が成り立たないようにうまくできているんですね。

なんでも全部がありがたいこと、大事なことです。

自分の思考で色をつけ変えるより先にある全部が真実、大事なこと なのです。

それから手当ということが出てくるのです。




 毎日、毎回が驚きの生き方

h4zazendosk2 「初心の弁道、すなわち一分の本性を無為の地に得るなり」。

みなさんのなかに坐禅がはじめてという人はどのくらいおられますか。

はい、この方たちのこと、初心だと思いますか。

実は、初心というのは、ここにいる全員。

私も含めて初心なのです。

なぜかといいますと、きょうの坐禅は誰もやったことのない坐禅だからです。

人生で一度もやったことのない坐禅を、きょうみなさんはやった。

こういうことを初心といいます。

ところが何回も経験している人は、自分は初心ではないと思っています。  
 
でもそんなことはありません。一度もやったことがないんですから。
 

 私たちの人生はみなそうです。

これからやることは、一度も経験したことのないものばかり。

毎日がこれからはじめてやること。

なんとすばらしいことでしょう。

なんと輝かしいことでしょう か。

一度も見たことのない世界に出会うのです。

毎回、時々刻々と驚きばかりです。


ところが、ちょっと頭のかたい人は、「毎日、毎日同じだ」なんて思っている。

これは、思考回路で見ているか らですね。 
 
だから、どんどん老けていきます。

こころがどんどん老けて、なんの喜びも感動もなく なってしまいます。
 

 定年退職された方が趣味を何ももってなくて、寂しくぼーっと過ごしている。

ところが、趣味も何もなくても、人は毎日毎日、生まれてから見たこともないものばかりに、朝から晩までふれるのです。

だから、「あっ」「あっ」と驚きばかり。

それくらい新鮮な生きかたができるようになっているのです。
 

 そうしますと、おじいちゃん、おばあちゃんが孫と遊んだりしましても、おじいちゃん、おば あちゃんが、毎日毎回を新鮮に感じていればお孫さんも楽しい。

さきほど申しましたけど、自分の気持ちそのままが小さいお子さんには反映されるのです。

それが、何百回も経験したことだ、毎日同じだと思う人は、なにを見てもふれても感動がない。

そういうおじいちゃんやおばあちゃんが子どもと遊んでも、子どもは喜びませんね。
 

 「初心の弁道、すなはち一分の本証を無為の地にうるなり」
という、「一分いちぶん」というのは今ということです。

「今本性を無為の地に得る」となります。



 先ほどの控室に

「無為最も尊し」

と書いてありました。


どなたかが「何もしないということが尊いのですか」と聞かれましたが、これはね、パンという音を聞くときに、私たちは何かをしましたかということ。

特別に何かをしたわけじゃありませんよね。

それなのに、ちゃんと聞こえるようになっている。

こういうことを「無為」といいます。

人間の思考を離れた、本当の活動をしていることが 「無為」というのです。

「無為」というところに気が付いて、目を向けていくと、本当の修行ができるようになってくる。

これが「意根を断つ」ということになろうかと思います。


本日はありがとうございました。


  合掌


引用元 http://www.nakanojouganji.jp/backno/50inoue2.htm


▶事実には見解は一切つかない。事実は本当に一枚岩です。他に何もありません。

▶人の見解が本当にぶち切れてしまうということがない限り、本当の救いというものはないんです。

▶理性は、人を惑わす親玉です。理性を無視するんじゃないんですよ。

▶徹頭徹尾、死んでゆくことが大切なんです。人の見解というものは、絶体に自分を救う道ではないのです。

▶ものの存在も、人の存在も、すべてなくなってしまうという事実があるんです。

―井上義衍老師 
 



道元禅師は、当時生存確率の非常に低かった中国行きの船に乗って、
仏法を真に伝えている師を探しに行かれました。
いるかもいないかも分からないのに、命を賭けられたのです。


古人すら猶かくの如し、いわんや今人なんぞ弁ぜざる


現代の正師に参禅されんことを



 

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『井上貫道老師提唱録 修行の大前提:真実とは、悟りとは、修行とは、禅とは: 道元禅師『学道用心集・普勧坐禅儀』、黄檗希運禅師『伝心法要』から』(井上貫道著、2016年)

本書は、井上貫道老師による2016年東山寺攝心会での5日間にわたる提唱と、坐禅のやり方についての具体的な説明をまとめたものです。

本書が真実を求め修行を志す方々の指標のひとつとなり、また、正師に実参するきっかけとなりますことを心より願っております。 


ご注文方法
本書は、製本版または電子ブック版で読むことができます。

製本版(税込1,800円、送料別、A5サイズ、148ページ)は、以下のボタンをクリックし、製本直送.com社から購入することができます。お支払いは、コンビニ決済、各種クレジットカード決済、楽天ID決済、Paypal決済が可能です。(※製本版の文字が大きくなりました)

(※ 本ブログを背景が緑のスマートフォン版でご覧の方は、ボタンをクリックしても注文ページに切り替わらない場合があります。お手数ですが、本ブログの最下部左側にある「PCモード」をクリックしてから、再度お試しください。) 
 
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井上貫道老師略歴
1944年、静岡県生まれ。曹洞宗師家、嵩山少林寺東堂。井上義衍(ぎえん)老師について参禅し、十六歳で大事了畢(だいじりょうひつ)、印可証明を受ける。半世紀以上にわたり禅の指導にあたっており、現在は、東京、静岡、関西、岡山など各地の坐禅会で出家および一般を指導。難解とされる『正法眼蔵』なども平易な現代語を使ってわかりやすく自由自在に説く。著作に『げんにーび 正法眼蔵現成公案提唱』『少林寺史』『井上貫道老師提唱録 修行の大前提:真実とは、悟りとは、修行とは、禅とは: 道元禅師『学道用心集・普勧坐禅儀』、黄檗希運禅師『伝心法要』から』がある。



本文より抜粋
「…修行するっていうことは、思量分別を扱う世界じゃないのですね。それをやったら、ものの真相がほとんど永遠にわからない。私の前に生きてきた人たちが、何億もいるでしょう。そういう人たちが皆、経験したことなのですよ。…気が付いた(悟りを開いた)人たちは、そういう(思量分別を扱う)ことをしないで、それで初めてものがわかったと皆さんに伝えているのだから、信じたらいいじゃない。数から言ったって、膨大な試験をやった上で、それが事実だっていうことは、もう明白なのです。一万人に飲ませたら、たった一人しか生き残らなかったというくらいの毒薬だったら、飲まないでしょうが。…それだのに、思量分別を取り扱うこと止めなさいって言っても、止めない。死んでもいいと思っているのだよ。」



「…ほとんどの人が、「私たちの生活しているのと違った別な教えが、諸仏方、悟りを開いた人たちにはあるんじゃないか。だからそういう人たちの素晴らしいものを、できたら自分も味わってみたい」。そう思って間違えているのでしょう。そもそもそれが間違えなのでしょう。なんで今こうやっているのに、これで満足できないかを尋ねた方がいいのでしょう。何が満足させていないのですか? それを本当に追求するためには、今まで使ってきた思量分別を一切使わずに、この事実にいてみることなんじゃないですか? それが、坐禅と言われる行なんじゃないですか?」 



「この生涯、一身、このひとつの体、ひとつの心のあり方で過ごしていくから、他所から貰うものは何もないよね。皆さんが他所から色んなものを貰うと思っているのは、取り込んで初めて自分のものになっていると思っているからです。こうやっている時、全て自分の生きている様子でしょ? それを頭の中で向こうの物っていうふうに勝手に皆さん方が切り離して、いわゆる分別をして、もともとひとつのものを分け隔て起こして見るような習慣になった。それで分け隔てがあるような気がしている時に気が付いたものだから、どうしたらひとつになれるかと思うようになった。そういうものが、一般の行です。 

釈尊はそうではない。最初からひとつの様子であるということの上で、話をされる。そういうことに、気が付かれたからですね、よくわかっている。私たちが最初から別々でないのに、途中から分けて考えていたということを自分が気付いて、じゃあ最初からちゃんとしている様子を話した方が、伝えた方が、間違えないじゃないかということです。で、それを話しても…聞き入れられるだけの能力のある人はいなかった。なぜ聞き入れられないかというと、皆、自分を立てて物を見ている人ばかりだから。「そんなこと言ったって、そんなになっていない。あそこに座布団があるじゃないか。どうしてあれが私の様子?」ってそういうふうにしか見ないのですね。辛うじて言えば、「私があれを見ている」っていうぐらいの捉え方だから、やっぱり分別で分かれている。」



「一切の生き物と、諸々の仏菩薩と一体にして、ひとつも違いがない、そう言われても、何となくこのままで済まないところがあるでしょう。人の話ってやっぱり役に立たないのでしょうね、いくら聞いても。「本源清浄」、底抜け、徹底して残り物がない、「清浄」。皆さん自身の様子を見ていただければわかる。否応なしにそうなっているでしょう。自覚をする、しない、関係なく。 

だから更に自覚があれば、なおのこと有難いのでしょうね。そういうことで古来、「悟」というもの、「悟り」というものを大事にしてきている。自分自身のあり様に対して、自分自身の信憑性を自分で疑いなくいただけるっていうところまで連れて行ってくださるというのが悟りのあり様でしょう。だから一応それを大事にするし、そういうことを一回体験して超えないと、本当の意味では自分のものでありながら、借り物のような生活をしているのでしょうね。」



「坐禅の時の重要なことのなかに、「箇の不思量底を思量せよ。不思量底如何が思量せん。非思量これ坐禅の要術(法)なり」。そんなに難しいことが並べてあるわけじゃありません。人の見解をすっかり付けずに離れた様子はどうか、ということでしょう、「不思量底」。だからその時に、少し知ってもらいたいのは、ものに触れた時に、自分の見方、考え方、そういうものを付けている時と、付けていない時とが自分で判然としないと、この事は無理ですね。…「叩かれて腹がたつ」というのだけれども、その中にも不思量の時と、思量に渡っている時は、間違いなくあるでしょう。…だから、自分の思いが出てこない時、それはどうなっているだろうか。それを、修行する、坐禅の形を作って時を過ごす時のあり方として、最も重要なこととして挙げておられるのですね。これ、難しくはないでしょう?  

 例えば、山の中に行って、よく道に迷うというようなことを言う方がいますが、自分の思量分別、考え、そういうものを止めてみると、自分いる場所が現前として、今ある。迷わず、ここにいます。誰からも聞かなくても、ちゃーんと自分のいる場所の様子がさらけ出されている。迷いようのない程ちゃんとしている。そしてそういうふうな状況で、こうやって、そのままの様子に触れてみると、太陽があるとか、マイクがここにあるとか、色々ありますね。そういうことが皆出てくるのですよ。右の方見たら谷川があって、水が向こうの方からこっちの方に流れているとか、上の方見ると山が少し高いところで終わっているとか、あるいはずーっと続いているとか。とにかく、全部わかりますね。小学校一年生くらいでも大丈夫でしょうね。…この身心ひとつで、必ずそのとおり、今いる場所の様子が、全部そのとおりあるのですね、ピタ!っとズレずに。思量を用いると、わからない。思量を用いた人が、「迷っている、わからない」と言っています。最高の愚か者ですよね。 

…そういうような、考えを付けているのか、考えを付けずに実物そのままでいるかということが、思量と不思量です。それは思量でよくわかるのですね。ものに対して、自分の考え方、見方を付けているか、付けていないかということは、皆さんの思量分別でわかるのでしょう? 思量分別でそのことがわかったら、今度は思量分別を使わずに、思量分別の付いてないままでいてごらん、と言うのです。そうすると本物がそのままわかるようになる。」



「外に出ると、色んなものが咲いているでしょうけれども、どの草花でも出会ったらそのままですよ、そのまま。何も人間的な追及をしなくても、いきなりズバリそのものです。「身心自然に脱落して」、身も心もそういうものをすっかり離れ切って、本来のあり様というものがそこにズバッと示されているじゃないか、と言っているのですね。それをもう一回戻ると、どういう名前の花だとか、いつ頃にどうだこうだとかいうたくさんの知識がありますから、そういうたくさんの知識をそこに出してくることで、本当にその花を理解できる、そういうふうに多くの人は思っている。それよりも、今直にその花の本物に触れているってことが本来の面目、目の当たりにそこにあるということでしょう。触れているということでしょう。その方が遥かに、言語を尋ねて理解するよりも深いし、一点の欠落もない。そういうものの触れ方をしているんじゃないでしょうかね。修行ってそんなことなのですよね。」



「では坐っているときにどうやって過ごすか。坐る時のあり方として、問題になるのは思量分別、色々なことが思えるというか、出てくるというか、あるいはこちらから(意図的に)考えるということがあります。…坐禅中はそういうものを、とにかく相手にしない。出てくる思いに対して、自分の見解で識別しない。いわゆる善し悪しを図らない。これは良いこと、これは悪いこと、これは正しい、これは間違っているというようなことをやらない、ということです。 

もう少し具体的に話をすれば、坐っていて色々なことが出てきたときに、人間と言うものは、気に掛かることが結構あるものです。ですから通常は、その気になっていることを解決しようと思って、自分の頭の中で色々なことを始めます。これを、とにかくやらないことですね。だからどのようなことが出てきても、思い出したものや考えたことで気にかかることがあっても、それを相手にどうこうする、手を付けて過ごすということをしない。また、その出てくるものに対して、出ないようにするようなことも一切しません。こちらから造作をして、作り変えるようなことは一切しないで坐るのですね。それが坐禅をする時の工夫と言われる修行のあり方です。」
 


読者の声(amazonカスタマーレビューより)

5つ星のうち 5.0井上貫道老師の著書、待望の出版!
投稿者 星 飛雄馬 投稿日 2016/8/31
 
以前よりその著作の刊行が待望されていた、井上貫道老師の(私家版の本を除けば)初の著書が遂に出版された。

内容は、2016年に行われた東山寺における攝心会での提唱録が中心。

提唱の教材としては、道元禅師の『学道用心集』と『普勧坐禅儀』、そして黄檗希運禅師の『伝心法要』が取り上げられている。

曹洞宗の僧侶が道元禅師の著作を元に提唱するのは珍しくないと思うが、『臨済録』で知られる臨済義玄の師である黄檗希運禅師の『伝心法要』が提唱のテーマとして取り上げられているのが興味深い。

もちろん、そうした目新しい教材に対しても、貫道老師の提唱はいつも通り縦横無尽であり、あらゆる角度から極めて明快に法が説かれている。

個人的には、貫道老師による、「無所得・無所悟」の説明が分かりやすく、腑に落ちた。

提唱以外では、只管打坐の坐り方についての具体的な説明が独立した一章としてあり、即実践を始められるようになっている。

貫道老師の主著でありながら、現在は私家版でしか流通していない『げんにーび』も、ぜひ電子書籍化してほしいものだ。

 
投稿者 アッキー 投稿日 2016/9/6
 
井上貫道老師が、まさに禅の核心を手を変え品を変え、懇切丁寧に解説されている素晴らしい本だと思います。これから禅を始める人にとってはもちろん、既に禅道を歩んでいる人にとっても原点に立ち戻るよい機会となると思います。


5つ星のうち 5.0よくぞ出版してくれました。
投稿者 アマゾン二郎 投稿日 2016/9/25
 
これは凄い本です。井上老師の禅の核心を突く提唱が鮮やかに、しかも親切丁寧に再現されており、その場にいなかった者でも接心を追体験出来る様に工夫されています。本気で修業に励む者にとってまさに珠玉の一冊になると思います。

 
5つ星のうち 5.0

5つ星のうち 5.0初心者にもどの年齢層にも。翻訳本を期待
投稿者 Amazon カスタマー 投稿日 2017/1/3

色々な解釈がある中、この本は、本来の坐禅のあり方を明らかに示してくれる名著でした。
単に道を説く専門書ではなく、語りかける言葉で綴られている(実際の老師の話しを書き起こしてある)ので、道を極める方には勿論のこと、初心者にもわかりやすく、私も気がむいた時にページをめくって、そこで出会った言葉を日々の糧にしています。
最近は日本のメディアでも数多く取り上げられる座禅。海外に在住していますが「ZEN」は、既に多くの外国人にとっても日常。
この本でしたら、回り道をせず禅の本物に出会えると思います。
翻訳本を期待します。 

悟りの体現者・井上貫道老師の大阪坐禅会提唱DVD12/15頒布開始しました


仏教DVD:道元禅師『普勧坐禅儀』提唱 by 井上貫道老師

【頒布対象】
井上貫道老師の坐禅会に参加されたことのない人もご購入になれます。
 参禅未経験の方が、これをきっかけに、各地方の貫道老師坐禅会に参禅してくだされば幸いです。
200dvd0915








1日分が1枚のDVDに収められています(プラスチックケース入り)


dvdの注文ボタン
上記ボタンがうまく行かない場合はこちらからご注文ください⇒ https://ssl.form-mailer.jp/fms/581a3b42462652



 
【12/15 質疑内容】
・坐禅の本当の方法;
・坐禅中にほとんどの人が陥るあやまち;
・坐禅中によいアイデアが浮かんだり、忘れていたことを思い出すことについて;
・考え方を離れるとは;
・坐禅は楽なもの;
・事実とは;
・修行をうんと積むことではない;
・他人がなんと言おうが追求を続けた人;
・坐禅中に模様が見えるのはなぜか;
・坐禅すると眠くなるがどうしたものかについて;
・考え方をやめると生き生きとしてくる;
・坐禅は、思いを出ないようにすることではない;
・坐禅は、出てきた思いを押さえ込むことではない;
・外の景色が綺麗に見える;
・月に1回だけ真面目に禅会に通い続けるが、あとはほとんど坐禅をしない人々;
・坐禅の実践:一日でスキマ時間を見つけて坐禅をする;
・病と坐禅;
・坐禅で底抜けに人は救われる




【12/15提唱DVDからの抜粋 ( DVD製作者様から ) 】

自分を中心にしてよそを眺めるようなことばかりしているのをやめて、自分自身の今のあり様に目を向けてみる。


その通り、見えている様子、ある様子だけでいてみる。


それはどういうことだろう、何だろうと、見た時に、触れた時にすぐ、そういう考え方で取り扱うことが世の常です。


それをしない。ただこうなっているだけ。



何で探るかというと、探らないと分からないと思うのでしょうね。でも、探る前に味がしてるのじゃないですか。


考えたら味が出てくるのかしら。探ったらもっと違うものが出てくるのかしら。


本当の味は飲んでいる時にしているだけなんでしょう。

それをそのまま十分に味わったらいいのでしょう。最初からこの通りの事実がいきなりあるのでしょう。


真実って、皆さんが思っている以上に素晴らしい出来映えでしょう




丁寧に自分のことを見てみると、こうやっているしかないじゃないですか、一日。この身体のあるところでやるだけでしょう、生活って。他に生活できる場所ありますか。


難しいことでは絶対ない。

誰もやってますよ。


でも考え方がちらっとはさまると、こういうこと(事実)はどうでもよくなるんだね。



ああなりたい、こうなりたい、ああじゃ嫌だ、こうじゃ嫌だ、とか


その思いを相手にして、その思いの通りに自分を仕向けていくことと、今実際にこうやって生きている様子は、違いますよ。


自分の思っている方に真実を歪められますか。変えられますか。無理でしょう。


その無理なことを何で生涯かけてやるんですか。



この身心ひとつ、一人一人自分自身の有り様だけで学んでいくんです。


しかも今、時間もこれからじゃなくて今。


場所を選ぶことなくここで。こんな素晴らしい修行って、他にないじゃないですか。




手放れた様子に本当に学ぶってことでしょう。


手放れたままでいてみるってことでしょう。



どんなことがそこに出てきても、それに対して手を付けずにいる。


とにかくいろんなことが出て来る。


出て来てもそれを一切取り上げない。


全てのものから本当に手を付けずにいてみるっていう行です。


本当のありのままってどういうことですか。


ありのまま聞くってどういうことですか。


ありのまま見るってどういうことですか。


やってますか、


本当に。



あ、そういう風にやるのがありのままだっていうぐらいの程度じゃないですか。

みな、理解じゃないですか。



自分の認識を通した上の、ありのままじゃないですか。



本当のありのままには、人間の認識なんか付いてませんよ。


知ってますか。そんなもの付いてない、一切。


だから素晴らしいんですよ




出てくる思いを抑えるとか、

出ないようにするとか、

気にならないようにするとか、

そういう行じゃないですよ、坐禅て。



何にも思わないように、空っぽになる、それみんな手を付けた話でしょう。


あああったらいい、こうあったらいい、そういうことをするなって言ってるんですよ。


それが手を付けないとかありのままっていうことなんでしょう。




仏様というのは自分自身の真相を自覚した人ですよ。


ただそれだけですよ。他には無いんですよ。



迷ってないことを知らないってだけですよ。分からないと思い込んでいるだけ。


今のこの事実だけでこうやっていて、その事実の内容がどうなってるか、考えをやめて、学んでいくんですね。


そうすると、人の考え方を付けてみていた時と違うんだよ。




(考え方をやめると眠くなるという質問に対して)考え方をやめると生き生きとしてくることを知らないんですよ。


いつも心に気にかけている必要がある。


時間があったらちょっとでもいいから座ってみる。



考え方から離れた時間ですね。どこででも出来るよ。


いくらでも一日の中でそういう時間はある。



だけどこのことに心がけを向けてない人は、そういうわずかな時間でももっと違ったことをやる。


頭をもっと働かす、いろんなことを思う方にその時間を費やしていくわけじゃないですか。

それ、逆にしてみると面白い。




間違いなく楽になるね、まず。


考え方をやめるともっと自由に頭が動く。


余裕が出てくる。


ゆとりがある。


優しくなる。


二三発叩かれてから、ちょっと怒ってみようかなって思うくらいですよ。


反応しないと悪いかなって。そのくらい余裕が出てくる。



座るとやっぱり楽になるんですね。


思いを離れたら間違いなく楽になる。


坐禅は大安楽の法門ていうけど、ただ単に楽になるためにやるっていうようなものでもないよね。


もっと底抜けに人を救うよね。


       (以上、2016/12/15分から)




【大阪坐禅会発行 井上貫道老師提唱DVDの内容】
井上貫道老師大阪坐禅会(年4回開催)の提唱と質疑のすべて
提唱講本は、道元禅師『普勧坐禅儀』
講本は各自でご用意下さい。(普勧坐禅儀がなくても、問題なくDVDは視聴できます)
曹洞宗の日課経本などに掲載されています。

井上貫道老師の提唱は、ご自身が言われているとおり、
「いつも1回完結です 次の話を聞かないと分からないというようにはなっていません。」
ですから、どの日付のDVDを視聴されても大丈夫です。

仏道修行、坐禅修行、自分の今の様子の参究にお役立てください。



【頒布状況】
3ヶ月に1枚ずつの発行です。
現在は、第1回2016年6月23日分と第2回9月15日分と第3回12月15日分の3枚があります。

製作者は、通常の仕事を持ちながら、作成をしていただいています。
大阪坐禅会終了後完成まで最短で約70日が必要です。次の最新版DVDは、坐禅会終了後約2ヶ月少々お待ち下さい。


【製 品 詳 細】
参禅者である素人が撮影し、素人が作成した手製です。
坐禅会の参加者は映っていません。
音声は明瞭になるように、集音マイクを講師の傍に置くなどしています。
雑音は可能な限り処理してあります。

DVD-Video形式なので、DVDプレーヤ、パソコンで視聴可能です(すべての機器においての動作は保証いたしかねます)。

無断複製およびyoutube等の動画共有サービスなどへのアップロードは禁止とさせていただきます。
複製許可は、ご注文後の返信メールの返信で、大阪坐禅会にご相談下さい。 



【価 格】1枚500円、送料200円(3枚以内 枚数に応じて送料が変わります)



【お支払い方法】振込:ゆうちょ銀行の口座    または、大阪坐禅会現地での現金払い



【お渡し方法】郵送(スマートレター またはクリックポストによる郵便受け投函)または井上貫道老師大阪坐禅会
日本郵便のスマートレター/クリックポストですので、受取日時の指定はできません。不在でも郵便受けに投函されます。

製作者は、毎日の仕事の後のプライベート時間の合間を見て無償で頒布をされています。メディア代は自己負担されています。従いまして通常のネット通販のような迅速な対応・発送はできません。お申込からお受け取りまで1週間ほどはお待ちくださることをお願いします。



【販売元・発行人】大阪坐禅会 
他の貫道老師坐禅会(関西も含みます)や老師関係寺院でのお取扱はありません。

 

【売 上】大阪坐禅会運営費として、会場使用料・講師交通費・宿泊費・備品代などに充当します。 年に一度会計報告の予定です。




【注 意】
DVD発行元は、参禅者による「大阪坐禅会」です。老師の許可のもとにDVDを頒布していますが、お寺では扱いがありません。関係がありません。
書籍の発行元とも関係がありません。

・今後若干値上がりすることがあります。


 
パソコンにDVD再生ソフトが入っていない場合、無料のDVDプレーヤーがネットでダウンロードできます。⇒    http://www.gigafree.net/media/MediaPlayer/ などを参考にしてください。    (ただし自己責任でお願いします)


dvdの注文ボタン
上記ボタンがうまく行かない場合はこちらからご注文ください⇒ https://ssl.form-mailer.jp/fms/581a3b42462652
製作者は、毎日の仕事の後のプライベート時間の合間を見て無償で頒布をされています。メディア代は自己負担されています。従いまして通常のネット通販のような迅速な対応・発送はできません。お申込からお受け取りまで1週間ほどはお待ちくださることをお願いします。











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