欧米には沢山の禅センターがありますが

zenineurope_FotoSketcherpencil3最近、日本の本山にもヨーロッパの方(ほう)から、「とにかく今こちらには指導者がいないんだ」という声が届くそうですよとある老師が言われたことがありました。

ヨーロッパには、1970年代に最初の禅道場が設立されて以来、曹洞宗だけでも現在300もの禅道場があるようです。

当時は渡欧した日本人和尚のフランスを中心とする精力的活動もあったのですが、寄付文化の根付いたところだから禅道場が短期間にたくさん開単されていますが、肝心の真の指導者がいなかったのですね。

※この方(1981に他界)は、座相が良いので選ばれたとのことです。それに眉も太くて達磨大師のような容貌で体躯も良く、外人受けが良かったのです。
さらに、海外での社会人経験が豊富で、政府を動かすようなこともされたことがあり、優れたリーダーシップがありました。
なので、ヨーロッパに沢山の禅センターができた、できてしまったのです。
(リーダーシップ大切ですね、誰かさん=どこかの国のPMさん、見習って!)


原田雪渓老師(1926-)は晩年ドイツを中心として指導に行かれていましたが(1982-1992に7回)、「火を消すために行く」と仰っていたようです。

あやまって火をつけた人(上記の人)がいたので、それを消さないといけないという意味です。


米国にも極めて多くの道場があります。

立派な禅堂(禅センター)があり、皆さん僧衣をお召しになっている。
座相も日本の坐禅会よりずっといい。
外見は素晴らしい。
経典や祖録も主要なものは翻訳されている。

米国も欧州と同じで、容れ物はたくさんあっても中身が…という状況のようです。


ある米国の禅道場のサイトを覗いてみると、
臨済宗の禅センターではないのですが、
(曹洞宗でも祖録を読むと、公案はたくさん出て来ます)

「なぞなぞ(riddles)を解く練習をすると禅修行に役立つ」

と書いてありました。。。指導者がそう書いていました。
なぞなぞをたくさん解いて公案が分かるようになるとでも言いたいのでしょうか?

オーマイブッダ!


写真や動画から分かるのですが、ほとんどの参禅者が僧衣を着け、お袈裟を掛けています。
いわゆる日本のように在家の姿で坐禅している人が見当たらないのです。

でも、ほとんど全員が目を閉じて坐禅しています。95%以上と言って良いくらいです。それくらい誰も目を開けて坐禅していないです。

ヨーロッパにしても米国にしても曹洞宗も臨済宗もです。


修行方法(坐禅の仕方)がまったく伝わっていないということですね。

道元禅師が中国から帰国後すぐに書かれた『普勧坐禅儀』Fukanzazengi という坐禅の指南書があります。それには英訳、仏訳、独訳など揃っていても書いてあることが実践に反映されていないようです。
(普勧坐禅儀には、冒頭に「目は 常に 須らく 開くべし」 Your eyes should always remain open. と書いてあります)


ひょっとしたら目を開けたくても開けなくなっているのかもしれませんね。

坐禅は無念無想ではないのに、ちゃんと教えられていなくて、無念無想になろうと努力していると、やがて坐禅中に目さえ開けなくなるようです。
そしてやがて眠るようになります。

あるいは、しなくてよいのにも拘わらず、思いをコントロールしようとすることで、頭痛や頭・額の締め付け感・圧迫感に悩まされるようになります。


欧米には未だに正しい坐禅の方法は伝わっていないのです。
悟った人だけが正しく坐禅を伝えることができます。

教わる人は、ちゃんと悟りを開いた指導者に自分の坐禅をチェックしてもらう必要があります。
そうでないと、せっかくの指導者の教えを自分流に解釈して、坐禅にならない坐禅をしてしまいます。そのうち飽きが来てしまいます。

沢木興道、弟子丸泰仙、安泰寺

悟りは一つ―井上義衍老師:悟りの真相

500年に一度と言われる悟りの体現者・井上義衍老師

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(写真は13世紀の道元禅師)


【質 問】 坐禅によって自己の問題を本当に解決された方は、これまで実際に居られたのですか。

井上玄魯義衍老師(げんろぎえんろうし)
先ず第一に、私が居ります。

釈尊や道元禅師など祖師方もそうでしたが、私自身それをやりました。
やれたんです。

私のもとにも何人かいます。決して独りよがりではない。

釈尊から連綿として受け継がれて、現在に至っておるんです。

『問答 井上義衍老師 悟りの真相』(龍泉寺発行)より
井上義衍老師(1894-1981)


お釈迦様(ブッダ)と同じ悟りを開いた正師(しょうし)

義衍老師:正師というのは、本当に自己の真相に徹しきった人で、そういうことがはっきりしている人でなかったら、最終的にどこへ連れて行ったら良いのか、結論としてどうあったら良いのかということが絶対にわからんのですわ。

そうでしょう、教えられて、それらしいことをやっても、それらしく立派にできるようになったとしても、やれるのはやれるんじゃが、これで本当に良いのかとなる。

 昔の人にもありますように、提唱させても、それを取り扱わせても、自由に取り扱うのだけれども、どうもどこか満足の行かん、どうして満足が行かんのかという人がいます。

そういうような人が出てきたら、皆をどこへ連れて行って、どうしたら決着がつくのかということがわからんでしょう。それじゃ救いにはならんのでしょう、本当はね。そういうところに、どうしても正師を求めなければならん理由があるのです。

 それがないと、途中で妥協するんです。そうでしょう、このように十人が十人寄ってそのことを互いにこうやって、ある程度まで来ても、もう不自由なく、人が見ても自分が見ても法のごとくやれて、そして淡々としておるようだが、ただどこか疑いの拭いきれないものが兎の毛ほどでもあると、それだけ違ってくる。


 そういったところで、「ナニどうせ人間だもの、こんなものじゃないか」というて妥協する。
もうそうなったら、今度は次の人をこしらえる時分に、「人間の修行いうものは、悟ったというても、大体ここら以外には手が付けられんのが本当じゃないかなぁ」というて、不安の内に終わる道なんです。
決定的に、「こうじゃっ」と言い切れないのです。そういう哀れさがあるから、それをしっかり救わにゃならんということですね。