障害となっている業(カルマ)がすべて解消されてから、悟れるのではないでしょうか?


【回 答】  by 井上義衍老師

本当に
(パン=両手を叩く)

(パン=両手を叩く)

今の自分のこれが真相を示してるんですね。

そういうことでやっていただければいいんです。


一切の衆生[しゅじょう]、その仏法の上から行きますと、種々雑多な業によってお互いが出来てるんですから、その「その業道依正ひとつにあらす」みんな違うんです。


「その見[けん=見解・思い・考え方]まちまちなり」とあります。


確かに人間の見解の上から行きますというと、全部一人一人みな違ってるというていいんです。


それ程違っておるんですけれども、その内容を見ますというと、それなりに、それ又(また)、見(けん)を起こすから、どんな業報を備えていてもいいんですよ、

人間的な業報業報いうて、悪業だの善業だの問題にしとるから、その問題にしておるものをちゃんと整理しておいてからでなけりゃあいかんと思うから、その整理ができんのですわ、考え方じゃあ。


それを考え方を止めるといきなり(パン)整理がすぐつくんです。
整理のつく道がそういう所にある、鍵が。

踏み込むのにそういうところから踏み込むと、ああそうか、こういう方向かということが分かるんです。

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そういうつもりでやってもらいますというと、業報がどうあろうともこうあろうとも、頓着ないんです。



その業がどうあろうが、こうあろうがみなさん頓着なさらずに、今の自分にあるものでいきゃあいいんです、それを取り替えようなんて思うからです。

理想いうのは変なもので、何か今の自分をつまらん思うと、それを捨てて立派そうなものを持ってこようとする。みんなそういう修行の態度をとるから役にたたん。


そうじゃなくて、業報のまんまを自分の手をつけさえしなければいいんです。


自分の手をつけると、どんなに修行してみても、やっぱり業報の世界なんです。それがはっきりせんのです。
そこのところよーく見てもらえばいいです。


―井上義衍老師『正法眼蔵げんぞう 仏性ぶっしょう』から



「今まで誰一人として、生まれ変わって来ている人はいません」
―井上貫道老師


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坐禅は必ず目を開いて行ないます。 目を閉じていては、何十年坐禅やろうが徒労です。