『井上義衍老師伝』も『サンガジャパン』に掲載中

悟りを曹洞宗に復活させた井上義衍老師



《 ニュース 》 2017年8月25日発売:サンガジャパンVol.27 禅ー世界を魅了する修行の系譜  に、
 星飛雄馬氏『井上義衍老師伝』pp.99-111 も掲載されています。→ こちら

サンガジャパン井上義衍老師伝表紙


「井上義衍老師をご存知でしょうか。
私が高校生のころに、テレビに出られました。
これはねぇ、もう『本物を見た』という感じでした…」―臨済宗円覚寺派管長・円覚僧堂師家 横田南嶺老師 (同著p.71)

(井上義衍ぎえん老師は、井上貫道老師の師匠)








井上義衍老師についての詳細を知る↓


井上義衍老師との問答集

問 坐禅によって自己の問題を本当に解決された方は、これまで実際に居られたのですか。

義衍老師:先ず第一に、私が居ります。釈尊や道元禅師など祖師方もそうでしたが、私自身それをやりました。やれたんです。私のもとにも何人かいます。決して独りよがりではない。釈尊から連綿として受け継がれて、現在に至っておるんです。


正師(しょうし)でなければ、師事してはいけない

問65『学道用心集』に『正師を得ずんば、学ばざるに如(しか)ず』とありますが、その場合の正師とはどういう人ですか。

義衍老師:今話しているように、正師というのは本当に自分の真相に徹しきって、死んで生まれ変わってきた人です。

 それはどういうことかといいますと、今までこれ(身)を自我心であると思うとったんです。

ところが一遍本当に自我心が死んでしまってみるというと、法として存在しているのです。だから法に近づこうと思うとったものが、百八十度ひっくり返って、そうじゃないのです。近づく要はないのです。

全部法で出来ておったことを自覚したんです。

そういうような人が正師といわれる人です。それだから只管ということも出てくるのです。

 それから、非思量、不思量底を思量するような方法を本当に知っている、それを使い得る人、そういう人たちがやはり正師といわれる所以です。それじゃから眼(まなこ)の開いた人、仏知見が開いた人です。仏と変わらない知見の開けた人です。

 仏知見を開くというと、仏いうものだから何か特殊なもののように思うんですわ。そうじゃないんです。「本来の面目」というと、「ああそうか」というて、誰もが承知するんです。面白いですね。

 「本来の面目を知るんじゃ」というたら、「ああそれはそうじゃろう」という。ところが、「仏知見を開くんじゃ」というと、「ナニッ、釈尊と同じようなことをやれるなんて、とんでもない」というて怒る人がいる。そういうふうに、言葉の文(あや)によって間違わにゃならんほど、もう根底がわからんのです。

言葉を弄(もてあそ)んでいる人はそうなんです。

 そういうようなのとは本当に違う。正師というのは間違いなくキチッとしているのです。



問66 なぜ正師を求める必要があるのですか。

義衍老師:正師というのは、本当に自己の真相に徹しきった人で、そういうことがはっきりしている人でなかったら、最終的にどこへ連れて行ったら良いのか、結論としてどうあったら良いのかということが絶対にわからんのですわ。

そうでしょう、教えられて、それらしいことをやっても、それらしく立派にできるようになったとしても、やれるのはやれるんじゃが、これで本当に良いのかとなる。

 昔の人にもありますように、提唱させても、それを取り扱わせても、自由に取り扱うのだけれども、どうもどこか満足の行かん、どうして満足が行かんのかという人がいます。

そういうような人が出てきたら、皆をどこへ連れて行って、どうしたら決着がつくのかということがわからんでしょう。それじゃ救いにはならんのでしょう、本当はね。そういうところに、どうしても正師を求めなければならん理由があるのです。

 それがないと、途中で妥協するんです。そうでしょう、このように十人が十人寄ってそのことを互いにこうやって、ある程度まで来ても、もう不自由なく、人が見ても自分が見ても法のごとくやれて、そして淡々としておるようだが、ただどこか疑いの拭いきれないものが兎の毛ほどでもあると、それだけ違ってくる。


 そういったところで、「ナニどうせ人間だもの、こんなものじゃないか」というて妥協する。もうそうなったら、今度は次の人をこしらえる時分に、「人間の修行いうものは、悟ったというても、大体ここら以外には手が付けられんのが本当じゃないかなぁ」というて、不安の内に終わる道なんです。決定的に、「こうじゃっ」と言い切れないのです。そういう哀れさがあるから、それをしっかり救わにゃならんということですね。

 じゃけれども、ここで問題はね、皆そういう人になれば良いんじゃけれども、皆そうなって欲しいけれども、そうばかりは行かんところがある。そうでしょう、いろんな条件によりますからね。やれば出来るということは決っておっても、その中で全部の人が全部、短時間にスカッと皆行くということは決っていないのです。

 それだから、きちんとした人が居って、それの言うことが中心になって、それに準じて行っておると、途中におる人も、「やはりまだ私もそこまで行かんのじゃ」ということがわかるから、そして最後は行くべきもの、こうあるべきものということがわかるから、そういう標準はどうしても仏法の中になければいかんのです。

 それがなければ、本当に追及してくる人があった時分に、始末がつかんのです。そうでしょう、行いも何もかにもみな出来た。出来たんだけれども、「どーも?」というて首をひねる人が出てきた時分に、手が付けられんでしょう。

そうすると、生命を失うところがある。そうでしょう。それは当たり前です。そんなことで本当に満足の出来るわけはないというところがあるから、ちゃんと指摘してあげれば良いのです。それが出来るのです。またそれをやらにゃいかんのです。

 だけどまあ時間をかけて、やって、それに近いとか近くないとかいうことは、それはもう途中辺の事(じ)だけれども、仏法の中にそういうふうにきちんとしたものが絶対にあるということだけは決っておるのです。

 その証拠は、道元禅師があんなに立派な力をもって、国内で修行しきって、誰が見ても「イヤー、素晴らしい」と言われるほどの人で、それが自分で疑問が起きてきて、その疑問に解決付ける道を誰に聞いてみても、「イヤー、それは難しい話だよ」いうて、皆終わっちゃったんです。「それじゃ難しくてもいいが、それはどういうことなのか」と聞いても、それをはっきり教える人がなかったんです。

 それでたまたま今の中国へ行って、如浄禅師にお会いして、それをはっきりしてくれたのです。それがなかったら、おそらく道元禅師でも救われなかったんです。それがはっきりしておるから救われた。
それで『坐禅箴』なども出来たのです。坐禅の誤りとしての様子があるから、それをはっきりしなければいけませんよ、ということがあったのです。

御自分に。御自分が散々な目に合わされたからです。

 

以上、『玄魯隨問記(井上義衍老師問答集)』(龍泉寺発行)より

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