悟っている人と悟っていない人


仏道とは自分の見方をやめること,人間の見解を使わないこと


悟ってる人と悟ってない人とかっていうことが、初めから無いじゃないですか。

皆さん、あると思ってますか。

そういう自分の見方をやめるってことじゃん。

自分で勝手な推測をして、自分を卑下したり、いろいろして、苦しんでるんでしょう。



修行とは、すでに出来ていることに学ぶこと

本当に誰でもその通り見えるように出来てる。

修行したからそのようになるわけじゃない。

修行しなくてもそのようにちゃんと見えるようになってる。

そういうものに学ぶのでしょう。

そのようにきちっと、心底、本物がズバッと皆さんに味わえるように出来てる。

坐禅の時そうやっているじゃないですか。

自分の本物に、そのままいる [のが坐禅]。



自分に足らないものがあると思い込んでいるのが迷い・不幸の原因

悟った人と同じ様に今の自分の有り様が素晴らしいことに、着目しなかったんだよ。

一切、悟ってるとか悟ってないとかいうものなしに、その音を本当に聞く力を持ってるわけじゃん。

そういうことに着目しなかったからでしょ。


こうやって生活しているときに、いちいちやり直してもう一回生活するってこと、一度もしたことがない。やろうと思っても出来ない。


――井上貫道老師17/3/23提唱から 【3/23提唱DVDからの抜粋】 DVD製作者様による文字起こしになります
不明点、疑問、足らないところは、坐禅会への参禅をお願い致します




整理をせずにすぐに修行を始める、反省していたら反省だけで人生が終わってしまう

● みんな、常日頃たくさん問題を抱えてますよね。

修行を始めるとき、それらの問題には一切手をつけず、今、この状態そのままから修行を始めるんです。

決して問題を整理解決してから始めるんじゃないんです。

そんなことしてたら一生修行できません。

反省してたらきりがなくなっちゃいますよね。

本当に『今』に用があるんです。





● 人間は、受け止めた物事や事実を、自分なりに解釈し、意味づけし、整理しようとする。

でもそうじゃなく、事実そのまま、整理しないでおけばいいんです。



悟りのイメージが危険

Q.悟りに向けて進歩しているのかどうか不安なのですが・・・。

A.「悟り」って、どこかで聞いてきただけでしょ。悟りって、きっとあんな感じだ、こんな感じだというイメージがあるだけでしょ。だから危険なんです。


進歩っていうと、その勝手なイメージまでの距離を測り、どこまで進んだかな、なんてやってるんじゃないですか。

そのような行為を「念想観を測量する」と言います。測量はやめましょう。



悟りに用がないということにすればいいんです。
 
悟りたい、分かりたいという気持ちに用がある人は何してるかというと、
いつも追っかけっこしてるんです。
 

実際は手を叩くと「パン」だけで終わってるでしょ。


それで満足いかないのは「考え方」があるからです。




【重  要】
神戸楽の森「坐る会」のサイト https://tinyurl.com/kobeteisho
にも、井上貫道老師の神戸坐禅会の提唱の一部が文字に起こされています。

大切なことを分かりやすく提唱されている部分ですので、ぜひ、ご覧ください。