[ 付録 ]  番外編1

東京大学卒業者で大悟した現代人たち

著書などで世に知られている3人だけのご紹介です

飯田トウ隠老師 医師・飯田氏 この節一部追加あり



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飯田欓隠老師は、山口県の生まれ 旧姓片野だったが、飯田家の養子となる。

東京大学医学部出身で、東京大学附属病院医師であった。

その時代にコレラで人がつぎつぎと亡くなるのに無常を感じて、広島の大本山佛通寺(臨済宗)の香川寛量老師に参禅開始。


初めての7日間摂心(せっしん)で見性(けんしょう)に似た体験をする。
ここで、仏通寺・寛量老師の印可証明を受けるも、満足せず、当代臨済宗随一の師家(しけ)とされた南天棒中原橙州老師(なかはらとうじゅう)に参禅する。

南天棒老師は、当時臨済宗の老師(師家(しけ)・師家分上(しけぶんじょう))の悟りがあやしいと思って、『宗匠検定法』しゅうしょうけんていほう というのを考えて、各地の師家(しけ)の点検を行おうとしたとされる
(明治時代 臨済宗の公案体系を使う公案禅も江戸末期から始まった)
※『宗匠検定法』は、当時の師家会の反対にあって、結局実現しなかった

中原橙州老師は、いつも南天の木から作った棒を竹篦(しっぺい)として携えていたため、南天棒と称される。



医師飯田居士は開業医をしながら、師匠・南天棒老師に師事 ひそかに、曹洞宗の師家にも同時に参禅し、只管打坐(祇管打坐しかんたざ)を修していたとされる。

その後、飯田居士は、自分ではまだと思っているのに、南天棒老師が「そろそろ印可証明をやってもよいと思っている」と第三者に話すのをたまたま聴いてしまい、老師に疑問を感じて見限り、老師のもとを辞して、公案禅を捨てた[自分が大悟徹底したという実感がないのに、印可証明をやろうというのはおかしいと思った]

爾後、公案禅を捨てて、只管打坐(祇管打坐 しかんたざ)に専心。 

岐阜県・多治見の虎渓山(こけいざん)永保寺で独摂心をし、大悟徹底して修行が終わる。
ある朝、洗面の後、スズメが道を歩いているのを見て、身心脱落したとされている。
飯田欓隠老師の決着の体験(未掲載) を読む

※独攝心(どくぜっしん)とは、一人でどこかに籠もって摂心をすること 
基本は7日間など期限を切る 通常は食事を摂り、夜は適度な睡眠を摂って行なう 一人で籠もれる空間だけでなく、トイレも必要になるので、場所の選択も難しい
独摂心(どくぜっしん)は、一度は見性しているとかの力のある人でないとできないとされる  
(形だけの独接心なら少しの根性だけでだれでもできるから)



この後、
遂翁和尚(すいおうおしょう)の法系の敬峰和尚に安芸(広島)で偶々出会い、即座に印可証明を受ける。 56歳。
※この敬峰老師は、阿波(あわ・徳島)の鬼文常と言われた懶翁文常老師の印可。
※出会って、少し問答を交わしてすぐに印可証明を受けるということがある。

飯田老師は、居士の身で、各地で禅会に呼ばれる。
東京大学卒業者であり、山口県の名家の出身でもあったので、皇族貴族などの参禅者も多かったという。
また大学創始者、今の一流企業の創業者などの参禅者もいたとされる。


参禅会の人々の懇願があり、のちに60歳で、福井県小浜の発心寺僧堂で曹洞宗の僧侶として出家。





飯田トウ隠老師の提唱の前座として、井上貫道老師の師である井上義衍老師が提唱をされることがあった。
その縁で、この飯田とう隠老師に、すでに大悟されていた井上義衍老師が修行の完成のために参禅された。
大阪府高槻市古曽部町の少林窟道場で参禅されたのであった。

つまり、飯田欓隠老師は、井上義衍老師最後の参禅の師。


この高槻市の少林窟道場は禅堂・方丈・衆寮などが今なお当時のまま現存していて、飯田老師の児孫である京都大学元教授の管理下にある。






玉城康四郎博士 東京大学教授

たまきこうしろう

東大文学部卒のインド哲学の学者 故人。

26歳の時に、専門道場の7日間摂心に僧侶とともに参加して、終了後の直後に、東大図書館で見性に似た体験をする。



のち、原田祖岳老師の系統の老師に師事して、本人の言葉では、大悟はしたが悟りを忘れることができなかった[大悟徹底できなかった・身心脱落できなかった]という。

明眼の宗師とは縁がなくそこまでだったと言われている(本人の述懐)
http://tardiozine.tumblr.com/post/882009230/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E6%95%99%E6%8E%88%E7%8E%89%E5%9F%8E%E5%BA%B7%E5%9B%9B%E9%83%8E%E5%8D%9A%E5%A3%AB
 
に詳細がある。



「難しいのは悟りを開くことより、むしろそれを忘れることです。誰でもようやく達成した結果にしがみつくのは人情ですが、その間違いを指摘してくれる人は容易にはおりません。」―― 玉城康四郎

この方の例は、結局「悟り損ねた」ということだと思われます。

 悟後の修行はない、悟りそこねたということです という記事を読む


川上雪担老師 元・高校数学科教師


東京大学 理III (医学部) に入学したが、考える所あり、文系に転部 東大文学部卒業後、高校数学教師を経て、出家。

当時、曹洞宗で一番厳しいとされた小浜の発心寺僧堂に掛搭するも、浜松の井上義衍老師の名声を聞いて、僧堂を飛び出して浜松龍泉寺に至って修行 ( 当時の発心寺僧堂師家は原田祖岳老師の次の原田雪水老師 )
当時、井上義衍老師が指導されていた龍泉寺は、常摂心と言って、常に摂心をしている状態。

そこに天下の鬼叢林とされる小浜の發心寺専門僧堂を密かに抜け出て、やってくるもの多数。 中には原田祖岳老師の印可証明を持つ修行僧、臨済宗の印可証明を持つ修行僧もいたと言われている。
発心寺の弟子であった蜂須賀雪渓師(のちの原田雪渓老師)も、発心寺僧堂を抜け出して、龍泉寺に掛搭されています。

常摂心なので、一度も坐禅の終わりの鐘がならず、ずっと坐禅しっぱなしだったという。
臨済宗で長年修行してきたつわものの修行僧が、苦痛で逃げ出したということもあったらしい。

現代のような専門僧堂ではないので、一般からの供養体制もなく、食べ物にも不自由したが、少ない食べ物をみんなで分け合って修行に励んだという。


川上雪担師は、頭脳明晰なるがゆえに苦労をしたと自分でも言われている。


龍泉寺を出て新潟東山寺に住職するも修行を続けてある時、決着がついたとされる。
文才豊かで、独特の家風がある。


「分かる人はすぐに分かる 頭の良さは関係がない」
ある時などは普通の女の子がやって来て、坐禅の仕方を伝えたらその日の午後には本当の坐禅ができるようになったという。

平成23年遷化(せんげ)された。


東大卒で悟られた方として、3人を挙げました。
以上の方々は、貫道老師より以前の方々ですので、貫道老師の会下(えか=参禅者)ではありません
※会下(えか)≠弟子 (会下とは参禅者のことであって、弟子とは区別します 弟子には、得度の弟子(お坊さんにしていただいた)や嗣法の弟子などがあります 嗣法には形式的な嗣法、実質の嗣法とあります 寺院嗣法もあります)

 最高の知能を誇る物理学者が悟りを開いている人に徹底的に質問をした結果 もお読み下さい

 自分の娘が亡くなって、本気になって坐禅に打ち込んだら、悟りが開けた和尚さん


いずれの方も、攝心(せっしん 摂心)などで坐禅に励んだ結果として、悟りを得ておられます。
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