真実というのは、自分の思慮、分別、考えかたをやめてみたときの自分のすがたです。


事実を人は思考で汚しています
「思い」というものが人をたぶらかして、真実からかけ離れさせてしまうのです。

―井上貫道老師



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◇ 目に見えるもの、耳に聞こえるもの、これらはすべて自分自身の様子なんです

事実に即していれば、考えが「やまる」んです。



◇ 六根(眼耳鼻舌身意)の働きのままに、浮かんできた思いをとらえずに手をつけずにそのままにしておく。



◇ (机を叩いて)「コン」とやると、
音がして気がつきますね。

音がするから気がつくんです。

気がつくのが必ず後になります。

気がつくより先にこういうこと(「コン」)があるんです。


これを丁寧によく見ていけば、それは人間の好き嫌いを超えているものだということがわかります。

そういうことに学ぶのが坐禅です。



◇ (外を車が走り去る音に)「ブーーーー」だけじゃないですか。

これだけです。

これだけじゃないですか。 




◇ 考えを「やめる」んじゃないですよ。
 



◇修行とは何もしないこと



◇五感を自分のために使うことをやめる



◇思いが起こってもそれを相手にしない、手をつけない  [思考を観察することでもありません]



◇思いがでないようにするのではありません




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『意根を断つ今一度坐禅について』後編


静岡県少林寺住職 井上貫道

 人の行ないというのは、1回1回完成度100%の真実なのでありますが、自分思いからいえば、 「完璧ではなかったな」と思うことがあるかもしれません。

歩いていて、転んだりなんかすると、 「あっ、失敗した」と思う。

でもそれは、そう「思う」ことであって、目の前の事実は違う。

歩い ていて転んだら、転んだようにあるだけ。

それで何も悪くないのです。

それなのに、転ばないこと が人の求めているすがただと思っている。



 真実というのは、自分の思慮、分別、考えかたをやめてみたときの自分のすがたです。

まだ認識というものが育たない子どもさんたちがそうですね。

赤ちゃんには、ものにたいするこだわり はまったくありませんから、だから天真爛漫と表現されるようなすがたがある。
 

 ところが、赤ちゃんを抱き上げたとたんに泣かれたりなんかすると、私は嫌われているんだなと思う。

それなのに、「あの人の時は泣かないな」となると、「あの赤ちゃんは私が嫌いだ。あの人のことは好きだ」とこう思う。
「今度もまた泣かれるだろうな。いやだな」と。

ただ、こちらの姿がそのままその時赤ちゃんに伝わるから、泣いたり笑ったりするんです。

赤ちゃんのほうには、こだわりがないんですよ。

だからいくら大きいダイヤモンドをあげても、かたいし甘くもないから見向きもしません。

逆に汚いものでも口に入れて、うわーっとみんなが慌ててとるなんてことが起こる。

 

 だから仲良くなると、大事にしているものでもみんなくれますね。

先日、3歳ぐらいの子ですが、 私の名前を覚えて「貫道さん、貫道さん」と言いながら、お菓子を「これも、これもあげる」と手渡してくれました。

私が坐禅堂へとすがたを消しましたら、向こうで大きな声で泣いていました。

ところが泣き疲れてくると、そのうち知らん顔して、それで終わり。

でも、おとなはこういうことに弱いですね。 すぐに「ああすればよかったかな」なんて思う。


 なんにでもそうですが、すぐに余分な思いが起きてきます。

そして、「ああすればよかった」、 「こうすればよかった」と思いをいっぱい重ねて、しまいにはどれがもとの色だったかわからなくなってしまう。

「思い」というものが人をたぶらかして、真実からかけ離れさせてしまうのです。





 思いから離れ、目の前のことをやる

 これから道元禅師が残されたお言葉を参考に、お話を進めてまいります。

まず、
「修行の用心を授くるにも、修のほかに証を待つ思いなかれと教ふ」
とあります。

修行はどうしたらいいか。今やっていることの外に、なにかもっと素晴らしい世界があるのではない。

今にそいきれない人が、むなしさを感じるのです。

今から目が離れてどこかに探し求めるから、いよいよどうしていいかわからなくなる。

ただ純粋に、今のことをやりさえすればすむということです。



 ところが「なんで私が? どうして?」と、こういう気持が次から次に起きてくる。

その思い にしばられて、結局やれなくなってしまう。

やれなくなった自分がいやになって、卑下をしたり、落ち込んだり、結局もっと苦しむことになる。

そこへ人から「なぜやらないんだ」なんて言われると、 もう、もっといやになる。
たまらなくなる。

みなさんは身に覚えがないですか。


 おとなりの中国に昔、趙州さまという立派な和尚さんがおられました。

大勢の修行者が訪ねたそうですが、ある日、はじめて趙州さまのもとに来た人が、「どう修行をしたらいいですか」と尋ねられたそうです。


すると「朝ご飯は食べたかね」と逆に問われた。

 みなさんどう思われますか。どんな修行をすればよいのか尋ねているのに、この返答。

この人ちょっとピントがずれているんじゃないかと思いませんか。


 ところが修行にやって来た人、「朝ご飯は食べたかね」と自分の耳に聞こえるから、「はい、 確かに食べました」と答えたそれだけなのです。

すごいでしょう。

みなさんはこういうふうにできますか。

みなさんの場合は、すぐに思考回路が働いて、
「なんで修行のやり方を教えてくれないんだ。不親切じゃないか」
くらいのことを思うのではないですか。


 ところがこの2人、

「朝ご飯は食べたか」、
「食べました」、
「それなら器を洗いなさい」と、

それだけ。


修行の場でなくともわれわれの日常に転がっている話です。

これが、目の前にあったら 次から次へとやればよいということの一例になるかと思います。

 

 他にも例えましょうか。

本を速く読もうとして、先のほうへと字を追って読む。

でもそうしているうちに、なにがなんだかわからなくなってしまう。

結局は速く読みたいからといっても、書いてある内容が正しく読みとれなければ、本を速く読んだことにはならない。

われわれの生活も、いろいろあって忙しいと言いもし思いもしますが、実際には1つずつやるだけなのです。

うっかりすると 忙しさにだまされて、こころまでいらいらして、やるべきことが手につかなくなるのです。



 
痛いことでも、全部が大事なこと

 「修を離れぬ証を染汚せざらしめんがために、仏祖しきりに修行の緩くすべからざると教ふ」。
なにかをした時、そのとおりの事実というものがあります。

これは先ほどから申しておりますように、 その事実を人は思考で汚しています。

人間は思考によって追求すると、真実がわからなくなる。

 「直指の本證なるがゆえなるべし」、

パン、

この音は、この音のなかにしかない。

そういうのを直指といいます。

ほかに指さしてあたる場所はないですね。


だけども人間は愚かだから、どこかほかに真実があると思う。

今やっていることが本当だとはなかなか思えません。

それはそうなんですね。

自分の描いた思いのほうが自分に近いわけですから、自分の思いに当てはまらないことは、真実だと思いたくないわけです。
 

 日常的なことを例にしてお話ししますと、誰でもお腹はいつも正常に働いて、痛くないほうがいいと思っています。

どなたでもそう願っていると思うのですが、では痛いのを自分の意志でとめてみる。

でもね、ほんとうはそんなことはよくないですね。

人間のからだは、痛みが出てくるときには 必要があって痛むようにできています。

それなのに自分の意志で痛くないようになったらたいへんです。 
 
お腹の中が破れていても気がつきません。

自分の思いでは、痛くないほうがいいかもしれません が、この今の傷みを除いては今が成り立たないようにうまくできているんですね。

なんでも全部がありがたいこと、大事なことです。

自分の思考で色をつけ変えるより先にある全部が真実、大事なこと なのです。

それから手当ということが出てくるのです。




 毎日、毎回が驚きの生き方

h4zazendosk2 「初心の弁道、すなわち一分の本性を無為の地に得るなり」。

みなさんのなかに坐禅がはじめてという人はどのくらいおられますか。

はい、この方たちのこと、初心だと思いますか。

実は、初心というのは、ここにいる全員。

私も含めて初心なのです。

なぜかといいますと、きょうの坐禅は誰もやったことのない坐禅だからです。

人生で一度もやったことのない坐禅を、きょうみなさんはやった。

こういうことを初心といいます。

ところが何回も経験している人は、自分は初心ではないと思っています。  
 
でもそんなことはありません。一度もやったことがないんですから。
 

 私たちの人生はみなそうです。

これからやることは、一度も経験したことのないものばかり。

毎日がこれからはじめてやること。

なんとすばらしいことでしょう。

なんと輝かしいことでしょう か。

一度も見たことのない世界に出会うのです。

毎回、時々刻々と驚きばかりです。


ところが、ちょっと頭のかたい人は、「毎日、毎日同じだ」なんて思っている。

これは、思考回路で見ているか らですね。 
 
だから、どんどん老けていきます。

こころがどんどん老けて、なんの喜びも感動もなく なってしまいます。
 

 定年退職された方が趣味を何ももってなくて、寂しくぼーっと過ごしている。

ところが、趣味も何もなくても、人は毎日毎日、生まれてから見たこともないものばかりに、朝から晩までふれるのです。

だから、「あっ」「あっ」と驚きばかり。

それくらい新鮮な生きかたができるようになっているのです。
 

 そうしますと、おじいちゃん、おばあちゃんが孫と遊んだりしましても、おじいちゃん、おば あちゃんが、毎日毎回を新鮮に感じていればお孫さんも楽しい。

さきほど申しましたけど、自分の気持ちそのままが小さいお子さんには反映されるのです。

それが、何百回も経験したことだ、毎日同じだと思う人は、なにを見てもふれても感動がない。

そういうおじいちゃんやおばあちゃんが子どもと遊んでも、子どもは喜びませんね。
 

 「初心の弁道、すなはち一分の本証を無為の地にうるなり」
という、「一分いちぶん」というのは今ということです。

「今本性を無為の地に得る」となります。



 先ほどの控室に

「無為最も尊し」

と書いてありました。


どなたかが「何もしないということが尊いのですか」と聞かれましたが、これはね、パンという音を聞くときに、私たちは何かをしましたかということ。

特別に何かをしたわけじゃありませんよね。

それなのに、ちゃんと聞こえるようになっている。

こういうことを「無為」といいます。

人間の思考を離れた、本当の活動をしていることが 「無為」というのです。

「無為」というところに気が付いて、目を向けていくと、本当の修行ができるようになってくる。

これが「意根を断つ」ということになろうかと思います。


本日はありがとうございました。


  合掌


引用元 http://www.nakanojouganji.jp/backno/50inoue2.htm


▶事実には見解は一切つかない。事実は本当に一枚岩です。他に何もありません。

▶人の見解が本当にぶち切れてしまうということがない限り、本当の救いというものはないんです。

▶理性は、人を惑わす親玉です。理性を無視するんじゃないんですよ。

▶徹頭徹尾、死んでゆくことが大切なんです。人の見解というものは、絶体に自分を救う道ではないのです。

▶ものの存在も、人の存在も、すべてなくなってしまうという事実があるんです。

―井上義衍老師 
 



道元禅師は、当時生存確率の非常に低かった中国行きの船に乗って、
仏法を真に伝えている師を探しに行かれました。
いるかもいないかも分からないのに、命を賭けられたのです。


古人すら猶かくの如し、いわんや今人なんぞ弁ぜざる


現代の正師に参禅されんことを