▶思考回路は真実からいつも乗りおくれているから、
自分のなかで葛藤が起きるのです。
―井上貫道老師





『意根を断つ今一度坐禅について』前編
静岡県少林寺住職 井上貫道
 悟りの体現者・井上貫道老師のプロフィールはこちら

真実に目を向ける
 
 ようこそ一泊坐禅会にご参加くださいました。本日は坐禅の経験がある方、ない方と いらっしゃると思いますので、坐禅の経験のあまりない方もおわかりになるように、 お話を進めさせていただきたいと思います。

 先ほど坐禅をしていただいて、人間がこれだけ集まっていてなお、こんなに静寂な雰囲気が つくれる、ということを体験していただけたと思います。


普通は人が大勢集まると、静かには ならないことが多い。
 
ですけれども、坐禅という行をするときには、何千人いようが、何万人 いようが、
誰もそこに人がいないぐらいの静けさというものができます。


 それが雑踏のなかで生活をしている人は、「たまには静かなところへ行って過ごしたいな」 と思う。
人のいないところを探して、「きょうは静かないいところへ来たな」と思っている。
 
けれども、だいたいそういうところにみんな行くものですから、せっかくの静かな場所がたち まち騒々しいところになってしまう。
 

こういうことが普通の生活のなかで起こることです。
 

ところが坐禅は、どんな喧騒のなかでも、みなさん方が自ずから静かな場所をつくるという行 であります。



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それから坐禅を行なう時の注意点として、道元禅師さまは目を開けて坐るということを おっしゃっています。
これはひじょうに大事なことです。

坐禅は瞑想とは違います。
 
だから目を開けて坐る。


ではこれにどういう効果があるのでしょう。


目を開けて坐ると妄想が 断ち切れるのです。


目の前のものが見えてますから、見えているだけでいるあいだは、 妄想が起きてこない。



 坐禅は、「真実」に用があるのです。


妄想は頭のなかで描いた青写真、あるいは砂上の楼閣 のようなもので実際にはありません。

 
しかし、考え方、思いの上に生じたものと造りものでない 事実との区分けをよく知らないと、
妄想を相手に坐るようになる。


そうではなく、真実(ぬきさ しならない今)に目を向けるのです。



 そこで本日の題「意根を断つ」ということになろうかと思います。

「意根」の「意」は「思い」 です。

こころのいろんなものを思わせる働き。その大きなものを「意根」といいます。
 

 人間の生活のなかでいちばん厄介なことはなんでしょう。

それは、なかなか自分の思いどおりに ならない、ということではないかと思います。
 
もし自分の思いどおりに全てのことが運ぶのだったら、苦労をしませんね。
 


ですがそんななかにあっても、この「思い」というものを自由に、世のため、人のため、そして人の邪魔にならないとか、傷つけないとか、汚さないというように使える人 になってほしい。

今日はそうした人になれるようにお話をしていきたいと思います。



 自分の「思い」が不自由のもと

 ではどんなことが日常起こっているのでしょう。

私たちは事柄にふれて、そのままの「思い」で いられる人はほとんどいません。
 

たとえば夕方お寺に着いて、控室に通してもらった。
 
通してもらったはいいけれども「どこへ坐ったらいいかな」と様子をうかがう。
 
先にいた人に「空いているところへどうぞ」とか、「こちらへどうぞ」とか言われると、安心してすっと坐れる。


今度は坐った はいいけれども、誰も何も口をきかないでじーっとしている。
 
5分、10分と時間が過ぎるにつれ、ひじょうに重苦しい雰囲気になってくる。


そのあいだどうしているかというと、ほんとうにいろんなことを「思う」のです。
 
 
 
「これから何をするんだろう」、

「あとどのくらいこうしているのだろう」、

どんどんいろんなことを思い、負担となってきます。 



こうして、人は自分の「思い」によって不自由になるのです。
 


 お釈迦さまは6年間坐禅をされたといわれていますけど、
その間、いろんな「思い」をする働きから離れて、
真実のまま活動している自分に目を向けられました。

 
ですから坐禅も、
こころで思いをめぐらすということをやめないと、正式には坐禅とはいいがたい。



 お釈迦さまが出家をされて修行をはじめた当時は、どの修行者も人間の考えかたを中心にしていました。


お釈迦さまも、出家をしてはじめのうちはそういう指導者のもとで、
いわれるとおり、断食をしたり苦行といわれるあらゆることをされました。



それでも、自分のなかで一つも解決されていかない。
これはどういうことかと申しますと、
頭のなかでこういうふうに思ったら、このように理論づけていったら、という定義があるだけ。

このことをやめたら、たちまちただの人になってしまいます。



 もっといえば、力を入れているときだけ立派そうに見える。
 
願力とか信念をもって続ける、戒を守る。
こうした人は生活態度を拝見しても実に清浄な姿で、あこがれでもあり、「立派な人だ」とみんな思ってくれる。

でも、お釈迦さまはそれではご自分の解決がはかれなかったのでしょう。



 そして、自分でどれだけ苦行などをやってみても、この自分の「考え」というものが自分を承服させない。
最終的に納得させないということにいたった。

当時の世の修行者と違う方向に向かった理由は、 これではないかと思うわけです。



 幸いに当時、『梵我一如』=「宇宙と自分は一体である」という思想がありました。
 
だけども、どうしたらそういうふうになるかわからない。


そこでお釈迦さまは、「これはなに」、「これをやって」、 というような、
人間の考えかたで物事を追求することをやめてみたんですね。


時々刻々と追求せずに過ごしてみる。
 
人間の考えかたで追求することをやめてものごとにふれてみる。



 こんなことはみなさんやったことがないでしょう。
 
普通は、これは四角形であるとか、こっちは黄色で、こっちは白いとか思う。



でもそういうこともやめて、有るとおりに生活をして、

是非をつけない。 

よしあしでものを見ない。比べない。
 

これが「意根を断つ」ということでしょう。

 

そうするとみなさんがあまり見たことのない、気づいたことのない世界が出現すると思うのです。





 思考回路から離れる

 いまのみなさんは自分の考え方で、追求していったら幸せになれる、何かが見つかると思って、
思考回路の総力を挙げて考えています。
 
これが普通かもしれません。
 

そう考えますと、お釈迦さまの考え方はまったく違います。
 

360度方向が違うのです。
わかりますか。

180度というと正反対の向きになります。 


これが360度というと、始点と終点がピッタリとしていて、見た目には何も変わりません。


どこが違うの かと思いますが、これがまったく違う。

お釈迦さまだけがやったことでしょう。



 (パンパン)と手をたたきますと、
人間の思考で追求しなくても、
不思議なことに聞こえてきます。 


「認識」というもののの育ちきらない小さなお子さんに、
(パンパン)
とやる。
 
その子に「聞こえたの?」と聞いても反応はない。
 
自分で聞いたという認識はないからです。


だけども、
(パンパン)
とやると、からだが反応する。
 
それでおとなは「聞こえているんだな」と思います。



 またはそこに熱い物が置いてある。
 
おとなは「熱かったから手を引いた」と思います。


ところが 「認識」のまだない子どもは、なにも思わずにやっているだけです。



そういう世界がある。お釈迦さまはそういうことを悟ったのです。



これは聞いてみればみなさん方も気がつくでしょう。

でも、 たいがい気がつかない。



それで何をやるかといいますと、
思考回路のうえで物事を追求することしか知らないからいろいろ思うのです。


 思考回路は人を苦しめ、悩ませ、ものがわからなくなる唯一の道ゆき、または配線です。
(使いようによってはすばらしいものだけれども)。


いま世の中で問題にされていることは、ほとんど思考回路のうえで起こってきました。




 ですから修行をするときに、この思考回路という道ゆきはいらないのです。


使わなくても、自分のからださえあれば足ります。


なぜそう言いきれるのかといいますと、
人というのは、いつでも、どこでも、だれでも、
このからだのあるところでしか生きられないし、
生きているところはこのからだの上の様子なのです。


これがすごく大事なことです。
 


 ですからお釈迦さまは、菩提樹の下で自分おひとりで六年も過ごされたのです。
 
ほかのものは何にも相手にしていません。
 

こんな簡単で単純なことです。
 

場所的にいえば、「ここ」という表現でしょうか。


では、どこを指して「ここ」というかというと、
このからだのあるところを「ここ」というわけです。



 みなさんは帰る家がおありかもしれませんが、そんなところで生活してないでしょう、いまは。 

 
 
家があると思っているだけです。

 

なくても大丈夫。
 
 
ここでちゃんとこうして生きています。

何の心配もありません。
 

これはキリスト教のおことばをかりれば、「三位一体」ということです。


サイコロの目のようなもので、1が出ようが6が出ようが一箇のサイコロのすがたに違いない。



時間的に いうと、「いま」。

 
場所的にいうと、「ここ」です。
 

それだけが人の生きている真実なのです。





 いま、完璧な真実

 仏教はだいたいいま申し上げたことが全てですね。これが「真実」。


これ以外は全部頭に描いたことです。


 
だけども不思議です。頭に描いたことで、お互いに話ができます。

 

「きのう、あそこで 会ったね」、「うん、あそこで会った」と、いろんなことをちゃんと話せる。
 

確かにきのうそういうことがあったに違いないのですが、
事実は事実よりも奇なりです。

人間の想像を絶します。


確かに体験して、あったはずのものだけれども、どこにもないんですね。


握った、離した、もう握った ことはどこにもないのです。

 

こうして両手を広げて、この広げていた両手は、いま、どこにあるで しょう。

 

思考の追求をやめてみるとはっきりわかるはずです。
 

広げていた手を握った途端に、げん こつがあるだけ。

これが真実ですね。



 立ったり、坐ったりといいますけれども、人間は同時に二つのことはできません。
 
立つと、坐っていたものはどこにもなくなります。
 
こんなにはっきりしている。


だけども、「立っていたのはどこへ行った」と聞かれると、
頭で追求して「坐ってそこにいるではないか」となる。
 
さっきそこへ立っていた人がいるように思う。



ここは頭がかたいものですから、どうしても事実のあり方につ いてこない。

それでみなさん乗りおくれるのです。

思考回路は真実からいつも乗りおくれているから、自分のなかで葛藤が起きるのです。




 それから、みなさんは目的というものを先に持っているかもしれませんが、いまやっていることで完璧ですよ。

 
布巾を持ったときはこの持ったとおりになるから、これで完璧。

 
離したら離したようになるから、これで完璧。
 
持っていたから、離したからどうかなるということではないのです。 


事実を見てごらんなさい。


握ったとき、確かに握ったことしかない。
 
離したら、離したということ しかない。



 きょうもある、あしたもあると思っている。
 
あしたになったら立派な人になると教えられて、信じています。
 
そうではないのです。
 


ほんとうに立派な人になるのには、
ただ、いま完璧にできているものを自分で、
「あ、ほんとうにそうだ」と納得のいくところまで事実に参ずることです。



 思考回路を使わないと、真実というものがよく見えます。
 
真実を見てみると、自分が探し求めていたものとぴったり符合します。

 
そういうことを、私たちは生活のなかでやっているのに、
思考回路が働くとすぐにそのことから目がそれてしまうのです。



 (パン)
この音と、

(パン)
この音は違うことを知っていますか。

 
人生のなかで、(パン)この音と同じ音はもう絶対にありません。
 

そういうことを知っていますか。
 

真実というのはそういうものです。



 「このことはいまに役に立つから、よく覚えておきなさい」と教えられるから、みんな一生懸命覚えます。
 
だけども、事自分の内面のことに関しては、役に立ちません。


似たようなことはあっても、二度と同じことがないからです。
 


 それでも自分の思考は、思考を重ねて、
似たようなことが出てきたから、あのとき、もし、
似たようなことが出たらこういうふうに次にやったら間違いないとか、
失敗しないだろうかとやり出す。 


だけども、そのようにやってみても、
思考回路が自分にたいして
「うん、それで間違いない」
と言わせないんですね。
 
これで「よし」と言わせてくれたら、ものすごく楽です。
 


みなさんが使っているマニュアルの世界で十分になってしまう。
 
マニュアルほどおもしろくないものはないですね。



 たとえばこのお茶碗をあそこからこちらへ持ってくるのに、ちゃんと足の運びまで決められてごらんなさい。
運ぶのにたいへんですよ。



真実とは、二度と同じことがないようにできているのです。 


ですから、やりっぱなしで平気でいられます。



一回一回がそれで完璧。いちいち完成度100%の真実なのです。   


         合掌



(後編へ続く)
引用元 http://www.nakanojouganji.jp/kihou/12inoue1.htm
『意根を断つ今一度坐禅について』前編