「佛道をならふといふは、自己をならふなり」 ―道元禅師


▶仏道とは、本来の自己を自分で本当に見届けて、それに動かされることです。  ―井上貫道老師

▶修行とは、どっか他所(よそ)でやるんじゃないんですよ。 ここでやるんです。
いつもここでしか生きていないんだから。
もう1つの今なんてないんですから。  ー井上貫道老師


 
 

『学道用心集』の提唱の最終日:

inouekandoroshizazen2ske2全体に一言でまとめれば、みなさん、一緒に目を通していただいてるとおり、
自分自身の、今、生活している、今、今、生活している「ここ」でね、
この様子に学んでくれれば、このことがみな分かるようになってる。


でその具体的には、人間の持っている、五官ないし六官と言われるそういう道具がありますから、
五官=眼耳鼻舌身  六官=眼耳鼻舌身意 
その道具の働き、それを「諸機能」と言っておられますが、
その諸機能は、みなさんが考えておられるようなつまらない働きではない、
もっともっと、底抜け、大きな働きをして、初めっから、飛び抜けた立派な様子であるということ。


だからそういうお互いですから、自分自身の、その素晴らしい働きをしている、「本来の相(すがた)」と言っていいですか、
「本来の自己」と言っていいですか「自分」と言っていいと思います、
そういう誰もが持ち合わせてる素晴らしさ、宝物がありますから、
それを自分で本当に見届けて、
それに生涯動かされて、
思う存分、悔いなく、生きていただきたいと、
こういうことです。


あとは、何か条か出てましたけども、「有所得の心」。
いろんな意味で有所得の心、
「あれが欲しい」「これが欲しい」「ああなってほしい」「こうなってほしい」
いうようなものが人間にはありますが、
そういう、ケチなというか、小っぽけなというか、(義衍)老師が「つまらない」と言ってるんでしょう、
そういうものを、少しいただいて、喜んでるようなことにならんように修行してください。


ま、こういうことですね。


あとはほとんど、いいんじゃないかと思います。


もう少し補足をすれば、「どうしてそれでいいのか」いうことでしょう。

みなさんが描いている、本当に「知りたい」「得たい」「なりたい」境涯。


そういうものが、今のみなさんがたの動きそのものに、全部、あるということです。
どっか他所(よそ)にあるのじゃなくて。


だから、修行の仕方、求め方、というものが、
目を他所に付けるのではなくて、
自分自身の、今、生活している、このことに目を向けて、
そしてそれが本当にどうあるか、いうことが基本的なあり方でしょ。


そうやっていきますと、当然、自分の考え方なんてものは、全く、要らなくなる。

そんなものに手を付けててもしょうがない、それこそ。


ここに実物があるわけですからね。
生活してる実物があるんですから、それを人間の考え方で手を付けて、壊して、どうこうするんじゃなくて、
この、生活してるこの事実に用がある。

それをそっくりそのままいただいてみる。考え方を通すんじゃなくて。

それだけを、丁寧にやってくれれば、修行になるでしょ。






私たち自分が今生活してる様子が、坐禅の時は坐禅をしてる様子がある。
そんなにはっきりしているのに、そのことに参じて、触れていながら、生活を自分でしていながら、
そのことが自分でどうなっているか分からないっていうほど、愚かであっていいわけがない。

いわゆる、自分の生活を本当になおざりにしてるっていうことになるでしょ。


要するに、この今生活してる中に大事なものがあると思ってないから、いい加減にしてるんでしょ。

もっと他に大事なものがあると思ってるから、ここ今生活しているこの今のありように本当に目を向けていないのでしょ。


ところが、これも理論的に話したら少し理解がいくと思うんだけど、
私たちは、いついかなる時でもですよ、時間の上から言ったら、「今」だけですよ。
いるのは、自分がいるのは。

場所的に言えば、このものがいる「ここ」と言われる場所だけですよ、いつも。
そっから離れたことがないですよ、「今」とか「ここ」とかって言われる。


何十年生きようが。


嘘だと思うなら自分の様子を見てごらんなさい。
この身体のある所でしか生きてないでしょ。
この身体が行った先々でそのとおりのこのまま生活をしているだけじゃないですか、生涯。
それを端的に言えば「今こうやってるだけ」でしょ。


今だって「これ」以外にないでしょ。自分の生活してる、場所、時間帯。
だから、ここで勉強するしかないんですよ。このことで。


ところが、頭がちょっとおかしいもんだから、
「こんな所に?」って思ってますから、
「もっと他の時間帯/他の場所に行ったら何かいいことがあるんじゃないか」、端(はな)からそう思ってる。
そういう考え方の上で修行しちゃ、駄目ですね。それは修行にならない。


事実を抜きにしてものを学ぼうと思っても通んないですよ。


もっと普通に言えば、お茶の味を本当に味わいたいのに、飲まないでお茶の味を知ろうと思ってるのと同じぐらい愚かですよ。
やってごらんなさい、飲んだら必ず分かる。

どうもしないでも。

ここ(頭)じゃない。
これ(お茶)が教えてくれるの。


そうやって勉強するの、修行するの。

私の都合じゃないから、必ずこの中に入ってるお茶の味がするように出来てる。
いくらたくさんお茶碗があって注いであっても、他の人のお茶碗の味は絶対こうやってしないように出来てる。
そんなにはっきりしてる。
迷わないように。


それで十分じゃないですか、
このものの中に入ってるお茶の味が飲んだ時したら、それで。


このまま飲んだ時、他の人の中に入ってるお茶の味がするようだったら、もう人生めちゃくちゃだ。(笑)

そんなこと一切ない。

基本ですね。
修行、修行をどういうふうにして、どこで、何に学ぶのか、どうあるのか。