仏道は理想を追求することではない
仏道は人間が描く理想とは関係がない




▶多くの人が、坐禅中においてさえ、理想を求める境地を頭で探しています。

それは一見坐禅らしく見えますが、真実から外れています。

ー井上貫道老師 



risokyoheart●人間が理想を画(えが)いていると、いかにも立派そうなんですけれども、

それが迷いの根源なんです。

それを人類ことごとく知らんのです。(井上義衍老師)



●人間の考え方が、どんなに立派な考えでも、それは、

その人間、その人の考え方なんです。(井上義衍老師)





Q.
「貪」「瞋」「痴」の中で一番大事なのは何ですか?

A.
大事というより…言ってみれば不要なものでしょうね。

Q.
一番それを破りやすいのは「瞋」(怒り)でしょうか?

A.
いや、一番破りやすいのは「痴」、ものが分からないということでしょう。
だから貪りや怒りが出るんですね。
なんで貪ってるか、なんで怒りが出るか分からないから、いくら抑えても取れない。

それは普通の教えだから。人間の考えた上の話だから。
いくらそれをやっても、努力してもすぐにだめになるね。

それは仏教の教えではないな。

いわゆる倫理道徳の世界ですね。

それを要らないとは言いません。




Q.
分かるようにするにはどうすれば?


A.
こうやって生活している時の、自分のありように目を向けることです。

それは本当に「平常心」と呼ばれる、常日頃生活している中に答えがある。
 

簡単に言うと、たとえば、いきなり出会った人に対して先入観がないってことがあるでしょ。
先入観を持てない。

先入観がない時には、余分なことが自分の中から起きてこないでしょ。


だから腹が立たないし、もっとどうかしてほしいとかいうことも思わないし、触れたままのことがはっきりしてます。


そういうのをみなさんが日常毎日、本当はきちんとやってることでしょ。


初めて触れることばっかりでしょ、本当は。



でも、初めて触れるってことがどういうことか知らないから、
「また会いましたね」っていうことになってる。

「初めて」ってことを見ていません。


今こうしてこうやって動いていること自体が今初めてのことなんですね、本当は。

生きてるってことは、一度も経験したことのないことをやってるんです。


お湯呑みを持つにしたって、今まで持ったことないわけです。
 
初めて今こうやって持ったんです、この持ち方はね。
 

前も持ったことあるかもしれないけど、この持ち方、触れ方は今初めてやったんです。

この味も、何回もお茶を飲んだことあるかもしれないけど、この味は今初めてなんですね。


初めての時には、今言ったように、先入観がないんです、入れたくても。


そういう自分の動きを見てみると、貪りも起きていない。

そのままの味をそのままいただいて、それ以上欲しいともなんともなく、この味だけで足りてる。

だから腹も立たないでしょ。
はっきりしてるでしょ。


そうやって修行するんです。
 
それが仏道の修行です。



全然違いますね、だから。



Q.
そういうものは、出家して大きなお寺などで修行していると、自然に身に付くのですか?

A.
それは違います。

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修行しなくても、誰しも初めっからこうなんです。

だから大事なんです。
修行した人たちだけが出来る教えでは役に立たないんです。

もう、はなっから。みなさんに用が無いじゃないですか。

修行してないんだから。

そうじゃない。

誰でも最初からちゃんと出来ていることなんです。


出来ていることなんだけれども、知らずにいるから、それを自分で、なるほどと自覚をしてほしいんです。


自覚をするためにはほっとけないから、必ず自分で修行をせざるを得ない。


どういう修行をするかっていったら、自分自身の今の様子に目を向けて、それをきちっと見極める。


自覚をするっていうことは他の人では出来ませんから、
否応なしに自分でやるしかない。




こういうように修行が約束されていくわけです。他人から勧められるわけじゃなくて。


     (略)

本当に、誰でもがそういうふうにきちっと出来てることがある。

それを釈迦って人は自分で見届けたから、実行して、
人にも伝えて、人が育って、
何千年も絶えずに来ているんです。
 

だから根本的に違うんですよ。



このようにコオロギが泣いているでしょ。

修行した人だけが聞こえますか?

 
修行してない人でもこのとおり聞こえるでしょ。
 

そのことが修行の根幹なんです。

ひとつも人を騙さない、迷わせない。
 

ちゃんとあのとおり鳴いている。


でも自分の中に受け取り方っていう、考え方や、今まで育ててきた物の見方があって、
そういうものを通して聞くようになると、
「あれはミミズが鳴いているんじゃないか」って言うと、
「いや、そんなことはない」って、誰でも言うでしょ。

学問があるから。
そうやって、必ずなってる。


だけど、あの鳴いている声に対しては、どんな表現をしても変わらないんです。
本当は。


でも言葉を変えて言うと言葉の上で問題が起きる。
 

要するに、聞いていることに用の無い人が、
考え方の上で問題が起きて、その考えの上で問題が起きると、
それをお互いが「正しい」「正しくない」ってやってるだけで、
本当のものを見る力をすぐ忘れちゃう。



それはもう修行にならないですね。

修行ってそういうことじゃないですね。


そこが、たぶん、一番伝わっていない。


だから、せっかく坐禅しても、ほとんどの場合「ちょっと気持ちよかった」程度で終わっちゃう。

     (略)

昔から、人が育つのは、この禅会のように、一握りの人が集まってやってるようなところです。

誰からも権力的に支配されずにやれるからね、独自に。


だから、皆さんが自分で情報を探し、検索し、いい指導者を探すしかない。

買い物と同じようにね。
 
自己責任です。


昔からそうです。
 
いろんなところを旅し、話をし、この人に教えてもらいたい、とそこに逗留し、修行してたんですね。 諸方行脚。


今は人の噂だけでやってる人が多いからね。

自分で実際に行ってやってみないとつまらないね。

昔より簡単に指導者を探して行けるのにね。
そういう時代になればなるほど、軽率にものを扱ってるかなあ。