(指一本立てて)こうやるだけで「自分」というものが死にますね
ー 井上貫道老師
「坐禅は修禅にはあらず」 ―道元禅師
●漫然と坐っている人は寝ちゃうね。
「何もしないのが坐禅」って言いながら・・・。
三十年も坐ってる人は必ず寝ますね。
今の様子に参ずるのが下手なんだね。
寝たら坐禅になりませんよ。
●これほどの事実に参じていれば、脳は刺激だらけで寝ようがないんだけどね。
●想(おも)いがやまるほどに、このもの(自分)が無限の活動をしていることが分かってきます。決して「心静か」なんていう状態ではないですよ。
● 「坐禅」というのは、今の実相、活動にそのまま親しくしていればいいんです。
「ただ坐る」というのは、事実、実相(じっそう)、この(自分の)一大活動に親しくいることです。
事実との間に距離がないからこそ「手を付けない」という表現になるわけでしょ。
● 観察するのではなく、事実のままにあることです。
●(目の前の布を閉じたり開いたりしつつ)
人間って一瞬過去のことを相手にできますから、
記憶とのつながりで「閉じたものが開いたな」と思いますけど、
実際にはその時その時の様子があるだけですよ。
● 修行に時間がかかる人は、結局、言われたことをやっていないんだね。
事実 [ 真理 ] より、考え方のほうが好きなんだね。
坐禅会での話を楽しんでいるだけなんだから。
そんなの何年やったって自分のものにならないですよ。
● 話を聞いて、実行したら、次回(の坐禅会で)、どうなったかを教えて下さい。
一ヶ月あるんだから。
ー 井上貫道老師
「坐禅は修禅にはあらず」 ―道元禅師
●漫然と坐っている人は寝ちゃうね。
「何もしないのが坐禅」って言いながら・・・。
三十年も坐ってる人は必ず寝ますね。
今の様子に参ずるのが下手なんだね。
寝たら坐禅になりませんよ。
●これほどの事実に参じていれば、脳は刺激だらけで寝ようがないんだけどね。
●想(おも)いがやまるほどに、このもの(自分)が無限の活動をしていることが分かってきます。決して「心静か」なんていう状態ではないですよ。
● 「坐禅」というのは、今の実相、活動にそのまま親しくしていればいいんです。
「ただ坐る」というのは、事実、実相(じっそう)、この(自分の)一大活動に親しくいることです。
事実との間に距離がないからこそ「手を付けない」という表現になるわけでしょ。
● 観察するのではなく、事実のままにあることです。
●(目の前の布を閉じたり開いたりしつつ)
人間って一瞬過去のことを相手にできますから、
記憶とのつながりで「閉じたものが開いたな」と思いますけど、
実際にはその時その時の様子があるだけですよ。
● みなさんからすれば「自分がこっちにいて、向こうでお坊さんが布を閉じたり開いたりしてるな」と思うでしょ。
本当はみなさん、自分ですよ、自分の動きですよ。
● こういうことを他のお坊さんに話すと「難しい」っていうんですよ。
みんな学問として仏教を研究してきてるからね。
すっからかんで話を聞かないから。
● 大道にはここからここまで、という端がありません。
「無端」です。
「無端」です。
● 自分が素晴らしい存在だと思ってないから愚痴るんです。
自分に豊かなものがないと思うからむさぼるんです。
● 只管打坐の「管」の字は、よく「ひたすら」と訳されます。
でも宋代の意味としては「必ず」「確かに」です。
一番偉い人を管主と言ったりもしますね。
(手を叩いて)「パン!」
訓練も練習もしてないのに、必ずこうなるでしょ。
「パン!」
確かですね。
● 事実とずれがなければ「自分」が死にます。
(指一本立てて)こうやるだけで「自分」というものが死にますね。
● 自分自身が一番良い師匠ですよ。
自分の中でいろいろな動きがあって、それを見ていくことが自分を救う道ですから。
● 相手の話をあえてポジティブにいい方向で聞こうとすると、かえって良くないですね。
そのまんま聞くのが本当のポジティブなんでしょうね。
● 少し気を付けて坐禅を続けている人は変わってくるね。
ひとつ気が付いたらガタガタと変わっていくね。
ひとつ気が付いたらガタガタと変わっていくね。
参禅者:
先ほど老師が風呂敷を閉じたり開いたりして、
「これは自分の動きですよ」とおっしゃいました。
「これは自分の動きですよ」とおっしゃいました。
それがよくわかりません。
老師:
一般の人は、「自分」がここにいて「対象物」を見てる、という考えで生活してるでしょ。
だから自分が動いていることがわからないんです。
参禅者:
うーん、私が動いている、というのがやっぱりわかりません。
老師:
「私」というのが邪魔をしてるんです。
すこーし気を付けてやれば分かります。
お茶を飲むことと同じでしょ?
お茶は「自分が飲んでる」、
風呂敷は「向こうでやってる」
と思うけど、どちらも向こう側にあるものを受けてるだけじゃないですか。
お茶は自分の中に入ってくるから、いかにも「自分がしてる」と思いこんじゃうんですね~。
みなさんはこのことがクリアになってますか?
一般には、こんなことが仏教だとは思われてないんですね~。
別の参禅者:
自分のことだとはいえ、でもやっぱり問題にしちゃうんです。
老師:
そうね~。人は、問題にした所からしか物事を見ないからね。
だからこそ六根を解放して、まだ問題になっていない時点から物事を見る必要があるんですよ。
※六根=眼耳鼻舌身意● 修行に時間がかかる人は、結局、言われたことをやっていないんだね。
事実 [ 真理 ] より、考え方のほうが好きなんだね。
坐禅会での話を楽しんでいるだけなんだから。
そんなの何年やったって自分のものにならないですよ。
● 話を聞いて、実行したら、次回(の坐禅会で)、どうなったかを教えて下さい。
一ヶ月あるんだから。