井上貫道老師が坐禅会で話されたことばから


自分を中心にして物事を見てしまっているから自分が消えないんです。
 
もともと自分はないんです。
 

実は、考え方や見解も自分が作っているのではないんです。



自分を中心に据えて物事を見るのではなく、物事の方からやってくるんです。
 

それが五官(眼耳鼻舌身)に任せ切るということです。







(前の情景を指して)

どこにも自分なんかないじゃないですか。

ただ、木の葉があるだけでしょう?
どこにも自分はついていないでしょう。


それが自分の様子です。


でもね、振り返って、隣を見ると、他人がいるんですね(笑)[坐禅会に来ている人たち]
自分とは思えないんだ(笑)

隣の人も自分ですよ。
そうは思えないんでしょう?





ojizosan●自分の上に存在しないものでは絶対に迷いません。

自分の上に存在するもので迷うんです。

知らないもので迷ったりしません。


知ると問題になるんですね。知らぬが仏(笑)。






●実物そのものでは絶対迷わないです。

(机を叩いて)「コン」


それでも迷うんだから、人間ってよっぽどおかしいよね(笑)。






●聞こうと思っても思わなくても、(机を叩いて)「コン」、どうしようもなくこのとおりあるでしょ。






●どうもしなくていいんです。探さなくていいんですよ。

でも人間は仏法を探そうとします。

教えの中で理解できる部分がないか探そうとします。


これは坐禅の大敵です。






●茶碗に目を向けてごらんなさい。
そのとおり、欠けるところや余るところがないでしょう。

これを(龍樹尊者の)「円月の相」と言います。






●(前にあるお菓子を見て)観察しなくていい、こうやって見てるだけでいいんですよ。







●想いがやまるほどに、このもの(自分)が無限の活動をしていることが分かってきます。

決して「心静か」なんていう状態ではないですよ。







●機能としての「想い」は問題ありません。
それに自分の考えをかぶせるから問題になるんです。手を付けてしまっているんです。







●坐禅は知識の勉強じゃないですよ。

体でやるんです。






●物を見ると、たいがいの人は「むこうの物」と「こっちで見てる自分」を立てます。

でもそれは人間の見解が作り上げただけのものです。

実際にはむこうもこっちもないですよ。





●「従来からこのまんま」などとよく言いますが、道元禅師は「初めからこのまんま」とは言いませんでした。

必ず「従来から」と言っています。「初めから」なんていう基準はないんです。






●最初は物事はすべて単純明快です。

でもそれで終われる人は少ないです。


今のこの気配で満足できないものがあるからでしょうね。







●人は必ずなにか今の自分とは違う、立派なものを追っかけちゃうんだね。

今のこの自分このままで何も問題ないということが納得できないんだね。






●「三昧」という言葉の意味は「正しく受ける」ということです。


「正受(しょうじゅ)」とも言います。「正しくそのとおり」ということです。




●24時間全部が自分の生きている様子です。

取り除くものも足すものもありません。

だから、どれが真実なのか、なんて掴まないんです。






●事実が起きた時、自分の中で何が起きているか、よーく見てください。

悪口を言われたから腹が立つと通常は思っていますが、本当はそうじゃない。

どういう動きがあるか、よく自分の様子を見ればわかります。






●夢の中と、この現実の世界と、いったい何が違うんでしょうね。

同じでしょ? ところが現実世界のできごとに対しては「これは現実だ」とつかむから問題になるんです。


夢と同じように聞き流せばいいんです。






●心意識の動きが出てくること自体は問題じゃないですよ。それをそのままほうっておくんです。

それを「修行」と呼びます。


怖がらずにほうっておけば、問題ないっていうことがよく分かりますよ。






●記憶って、それ自身は問題ないのね。

記憶はちゃんとあるのに、思い出さなければ問題にならない。


でも思い出すと問題になるんです。不思議ですねぇ(笑)。

問題になるのは思い出した時だけなんですよねぇ。






●義衍老師は「因縁は暫定的な作用」とおっしゃいました。
通常、物事は決定的なものだと人は思いがちです。

でも本当は暫定的、一時的なものです。

腹が減るのだって一時的なものだよね(笑)。



全ての物事は一時的なものです。