井上貫道老師が坐禅会で話されたことばから
仏道をならうというは、自己をならうなり ―道元禅師
仏道をならうというは、自己をならうなり ―道元禅師
●釈尊も道元禅師も、みんなあらゆる書物を勉強して理解できたほどに頭がいいのに、結局はそれを捨てて自分自身に学んだんです。
なぜ大先輩達が自分のありように学んだのか、ってことですよ。
なぜ大先輩達が自分のありように学んだのか、ってことですよ。
●本来「禅」なんてないですよ。
本当の真実そのものだけです。
それを見つけた代表の一人が釈尊です。
後世の人がそれを名付けて「仏教」「禅」と呼んでいるだけですよ。
本当の真実そのものだけです。
それを見つけた代表の一人が釈尊です。
後世の人がそれを名付けて「仏教」「禅」と呼んでいるだけですよ。
●(仏法どおりに)「そうなれるか」「できるか」じゃなく、「そうなっている」ことを確かめてください。
●ある参禅者(一般人)と老師との問答:
私:
かくかくしかじかのことを見ました。
老師:
間違っていません。そのまま置いておけばいいです。
参禅者:
今まで通り坐禅を続ければいいのですね。
ただ、今は思考がわーっと動き出して、見たそれを「ははあ、なるほど、そういうことか」と概念化したがっています。
老師:
まあそうでしょう。面白いもんですよ。今まで聞いた仏教知識や経典が全部分かるようになるので、頭の中で整理し直したくなるんです。考えを整理しているのは面白いですからね。
それと、他人の言うことや修行に口出ししたくなったりね。
今はそういう時期ですから、しばらくそういったことに注意して、坐禅を続ければいいです。
参禅者:
あああ~、まったくおっしゃるとおりです。気をつけて続けます。
もし頭で整理している様子が出てきても、それもそのままにしておけばよいですね。
老師:
そうです。
参禅者:
そのうち完全な自覚が生まれるのでしょうか。
老師:
もちろんです。だってそれ以上、何も無いんだもの。 (問答終わり)
●悟っても喜怒哀楽がなくなるわけではありません。
釈尊だって喜怒哀楽を持っていました。
ただ自分の思いや自分勝手から出る喜怒哀楽ではありません。
そこが一般の喜怒哀楽と違うところです。
●何もしないで手を付けずにおれば、「縁(=事実、現象)」によってこの心身は自由に変わります。
千変万化です。とにかくそれをよく見てください。
●いくら縛ろうとしてもこの全心身は自由に活動しています。
赤いものを見れば赤く映るでしょ。
青に変えればさっと青に変わるでしょ。
そのぐらい自由です。
●もちろん自由と言っても「自分の思いどおりになる」という自由ではないですよ。
●普通の人は、自分で描いたイメージどおりになれば納得するし、ならなければ納得しない、それだけのことなんですよ。
●「あの人はいい人だ」とよく言ったりしますよね。でもこの「いい人」って言ってるのは、多くの場合、「自分の思い通りになる人」のことなんです。
●「思い」の中に実相はないんです。只の虚像にすぎません。
●「自分の様子」は探さなくてもいいんです。いつでもどこでも自分の様子ばかりでしょ。それに手を付けずそのまま参じていればいいんです。
●「リリリリ」と鈴虫が鳴いていますね。「リリリリ」だけで終わっておけばいいんです。
●お湯飲みの中にお茶が入っていたら飲むし、臭いものが入っていたら手を出したくありませんね。
でもお湯飲み自体は何も変わらないでしょ。
自分というのはお湯飲みです。
採れたての事実を自分という器の中に入れましょう。
というか、いつでも採れたてのはずですね。
●事実を取っておくことはできませんよ。
事実をつかまえておくことは不可能です。
記録することはできますけどね。
●昔のことを今やっている人は一人もいませんよね。誰しも今は今のことしかやっていません。1分前のことを今やっている人がどこにいますか?
●自分の生きているこの姿こそが根本で、それ以外に何もないでしょ。
だからそこに勉強するのが一番ですよ。
書き物や人の言ったことよりもそちらに学ぶことです。
●手放しなさいというと、何か握っているものがあって、それを捨てるんだと思うのは間違いです。
(机を叩いて)「コン」、
これに手を付けないようになどと言いますが、手を付けるものがありますかね?
手放すものもなく止めるものもない、そのことを指して「手放す」と表現しているだけです。
●「どうしようか」「こうしようか」というのが休まっている時が正法現前です。
●「どれが今の様子だ」なんてつかまえて「これか」なんてやると、もうお話にならないですね。
●「教えのとおりになろう」とすると、そのことが距離を作り、追いかけっこしてしまいますよ。
●こうやって「コン」と机を叩くと、距離も時間も飛び越えてそのままあるでしょ。
でも大抵の人は「向こうで鳴った音をこちらで自分が聞いた」と思いこんでるんですね~。
●本当は目、耳と区切ることはできないんです。これら全部が自分の様子、全体です。
●この身だけが自分の様子ではありませんよ。何から何まですべてが自分の様子です。
●大雨で近所の川の堤防が切れて氾濫したら、これも自分の様子です。自分の様子だからこそ自分で直しに行くんです。
●大抵の人は、自分に入ってきたものを、あとから眺めているんです。だから満足できないんです。
●禅で避けたい心の状態を「昏沈散乱」(こんちんさんらん)と言いますが、昏沈(こんちん)の最たる状態がウツやひきこもりです。
こういう状態になると、自分の考えにばかり目を向けて、事実に目を向けていないことが多いです。
●一番小さな禅は鐘が鳴って始まり、鐘が鳴って終わります。いわゆる坐禅です。一番大きな禅は、始まりなく終わりもないですね。ずっとこれ全てです。
●坐禅をしたから痛みが消えるということはありません。痛みはあっても気持ちの上で苦しまずにおれるようになるということはあるでしょう。
●道でうずくまっている人を見かけると、「どうしたのかな」と近寄っていく力を誰しも持っているんです。
でも考え方のほうで「いや他に用があるから」とかいってそのまま通り過ぎちゃいます。
なのにずっと気がかりなんですね。
この「どうしたのかな」という気持ちのことを「正一念」と言います。
●「人にへつらう心は道に相違する」と釈尊は言っています。
●悟りを開く人は「分かった」なんてことはないので、きちっと決まるんです。